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多元的な「尊厳」概念の模索 「能力」概念の検討を通して

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直観に強く訴える言葉は様々な議論で安易に参照概 念や論拠として使われ易い。倫理的文脈や生命倫理 の様々な文脈で多用される「尊厳」概念はその良い 例であろう。確かに、「尊厳」は我々の日常生活の

1.問題の所在

 「尊厳」概念はどのような役割を持ち、それは誰 のためにするのだろうか。一般に、およそ一見皆の

Summary

The concept of dignity can be divided into two sorts: the concept of “dignity of human kind” and that of “dignity of individuals.” It has been understood that the concept of “dignity of human kind” refers to the special type of dignity that is supposed to belong to all human beings who are assumed to have specific properties or capacities (which I here call “dispositions”). On the other hand, the concept of “dignity of individuals” is considered to be conferred on each individual, and preferably implies the diversity of indi-viduals, the admittedly essential nature of individuals. The two distinct concepts of dignity respectively play crucial roles in the contexts of biomedical ethics, but how they are related with each other has been the subject of great controversy. This paper attempts to propose an argument according to which the two concepts can be coherently inter preted, while accepting the diversity of individuals. To that end, this pa-per examines the validity of the following two claims (1) and (2), thereby claiming the idea (3):

(1)  Dignity is conferred upon based on the dispositions of human beings, which depend on their non-dispositional conditions. In this case, the concept of dignity refers to the “dignity of human kind.”

(2)  The dispositions of human beings are necessarily diversely realized through the abilities of each individual.

(3)  The concept of dignity includes that of “dignity of individuals” which is exemplified in individuals’ life that is essentially diverse and unique.

To maintain the diversity of individuals in discussing (2), the notion of “ability” is here construed as the faculty to make the diversity of self-realization possible. The above (1) and (3) jointly allow us to contend that the concept of dignity coherently implies both the “dignity of human kind,” which is con-ferred upon general human beings, and the “dignity of individuals,” which is concon-ferred upon individuals who are assumed to carry out the diversity in every day practice.

論  文

多元的な「尊厳」概念の模索

  「能力」概念の検討を通して

Searching for a Pluralistic Concept of Dignity:

Though the Examination of the Notion of Ability

神奈川大学

 石田 安実

(2)

わゆるその人らしさ)を営むことを含意している。 「尊厳」はこの二つの全く異なる対象にどう適用さ れるか  本稿は、この問題に独自の回答を与えよ うとする試みである。  本稿は、生命倫理で重要とされる「尊厳」につい ての二つの異なる概念(「類の尊厳」概念と「個の 尊厳」概念)を整合的に、かつ個人の多様性を許し ながら理解する一つの解釈を提案する。「類の尊厳」 とは人類一般に認められる「尊厳」であり、その尊 厳は人間特有の条件を満たすとき認められる。一 方、「個の尊厳」とは個人に認められる尊厳概念で あり、近年になって主張され始めた多様性尊重を前 提とすれば、個人の多様性を含む概念であることが 望ましい。したがって、本稿は上記の相対立する二 つの「尊厳」概念の分析的検討が主題である。それ は次の二つの主張で構成される。 (α)  「尊厳」は、人間の持つ傾向性(disposi-tion)に基づくものであり、その傾向性 は非傾向的な(non-dispositional)条件に 依存する⑷。この場合の「尊厳」は「類 の尊厳」を意味する。 (β)  「尊厳」は、個々人の多様性やかけがえ のなさを実現する生に基づく「個の尊厳」 を含む。  (α)の「傾向性」とは、近年の哲学的習慣に倣 い、人間一般特有の特性や能力を指す。「非傾向的 な条件」とは、いわば生物学的物理的条件のことで ある。たとえば、「走る」という能力は「傾向性」 の例であり、主に下半身や心肺などの生物学的条件 (非傾向的な条件)に大きく依存する。「意識」とい う特性あるいは能力は、脳作用に依存する「傾向 性」である。その能力がある時点で機能しないこと があり得ること(たとえば、睡眠中は意識が働かな いように)も、この「傾向性」という語は含意す る。ついでに言えば、「傾向性」は「潜在的可能性 (potentiality)」とは異なる。新生児が持つ意識の能 力は「傾向性」であるが、妊娠数ヶ月の人間の接合 子が意識能力を持つというのは「潜在的可能性」の 話でしかない。その能力は、誕生後に通常「傾向 性」となる。(β)は人間が「傾向性」を持ちながら 重要な場面で感情や振舞いに関係する。(生命倫理 のような問題が声高に語られるようになったはるか 以前から)我々の倫理的判断や経験は、尊厳をめぐ る考察や配慮から強く影響を受けてきた。不当で酷 い行為が目の当たりにされれば、尊厳が意識され時 には言及され、それは我々の行動にとって指針のよ うな様相を呈する⑵。生命倫理の文脈でも、「尊厳」 概念が引用される場合、それはたとえば生存に関す る権利、苦痛からの解放、最低限の自由や自尊心の 尊重、尊厳を有するものの道徳的地位など、何らか の基本的善や卓越性を保証することが期待され、そ こで「尊厳」は道徳的原則のようなものとして機能 する。この原則に基づき、たとえばそうした善に繋 がる、他人からのある種の行為(人間的扱い等)の 奨励、またそうした善を奪う、作為的行為(拷問 等)や不作為的行為(貧しさを放置して飢えさせる 等)の禁止が要求される⑶。「尊厳」が持ち出され 得る状況や問題は、生活のレベルでも学問のレベル でも我々の周りにいくらでもあるのである。  しかし、その意味と適用範囲の確定に関する批判 的検討は、未だ現在進行中といって良いだろう。筆 者がかつて指摘したように(石田[2016])、尊厳 概念が曖昧であることが多くの英語圏の論者間に論 争 を 引 き 起 こ し( 参 照:Macklin[2003]、Pinker [2008]など)、またその曖昧さは議論の混乱を引 き起こしていると指摘されている(ビルンバッハー [2004])。そうした混乱には、「尊厳」が誰にとっ てのものなのか、つまり「人間全体」に関するもの なのか「個人」のものなのかという問題が含まれ る。この二つの観点は、必ずしも整合的調和的であ るというわけではない。「人間全体」の「尊厳」を 口実に一人の「個人」の「尊厳」が冒されることが あるが、その場合その「尊厳」は倫理的に不十分な 概念や原理であると言わざるを得まい。国家「全 体」の名の下に何名かの「個人」の「尊厳」を損な うことは、「尊厳」のあるべき姿ではないだろう。 「尊厳」をどこまで規範的な倫理の一部として認め るかどうかには議論が必要だろうが、「尊厳」が人 間の在り方に深くかかわるものである以上、「人間 全体」だけでなく「個人」にも適用されるものでな くてはならない。しかも、ここでは「個人」とは均0 一で同一な0 0 0 0 0 ヒトではなく、それぞれが異なる0 0 0 生(い

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が、「人の尊厳」を取り上げている。これらの宣言 や報告書類で着目すべきは、「尊厳」が、多くの場 合、人間という類0 0 0 0 0 0 や種0 に固有のものとして言及され ていることである。典型としては、1945年締結の 『国連憲章』における「人間という種の全構成員に 固有のものである」という規定が挙げられよう。こ の「類としての人間の尊厳」が論拠として働くこと は生命倫理の議論でも多いが、興味深いのは、この 尊厳概念を用いても議論が一つに定まらないことで ある。たとえば安楽死論争では、一方で反対派が、 「尊厳」は「生命一般0 0 の神聖さ」と同義であり安楽 死は人間一般0 0 0 0 の生命の「尊厳」を侵すことになると して反対するのに対し、賛成派は、終末期の患者を 苦痛の中に置いたままにするのはその「人間として0 0 0 0 0 の0 尊厳」を奪うと主張する。ともに、こうした議論 では、人間一般がある種の内在的性質や価値や能力 のような卓越した何かを持つことを前提し、その本 来的な卓越性が、複雑な議論を一挙に解決する論法 (knock-down argument)の論拠や、「非人間的」 「残虐」と見なされる行為を制止・抑止するいわば “道徳上のストップサイン”や“道徳的抑止力”の原 理として用いられる傾向がある。「尊厳」はそのよ うな不可侵、唯一無二、比較衡量不可能(他の価値 と比較できないこと)、代替不可能等の性質を付与 されて来た原理である。ただし、「尊厳」のこの解 釈は現代だけのものではなく、後述するように「尊 厳」に関する伝統的な解釈にすでに見られたもので ある。それは、「人間一般」が普遍的に有するもの、 まさに「人間であること」の特徴とされる性質や、 理性のように人間が持つ「特殊な能力」を、特権的 な内在的価値と見て「尊厳」の根拠とする解釈であ る。  その一方で、近年になって普遍的な人間一般を対 象とする「類の尊厳」(「人間一般の尊厳」)ではな く、「個の尊厳」に着目する研究が増えてきた。そ れは、背景として社会的な動きの中に個人の尊厳に 留意したものが出て来たこととも無縁ではない。た とえば、2003年の厚労省ガイドライン『2015年の 高齢者介護』が「高齢者の尊厳を支えるケアの確立 に向けて」と題して、痴呆性高齢者の扱いに関し、 その「人格を尊重し、その人らしさ0 0 0 0 0 0 を支えることが 必要」(傍点は引用者)と明言している。個人の も、多様な生を実現していくこと(それが「かけが えのなさ」を構成するだろう)を表現する。  (α)を踏まえた(β)の理解を可能にするため、 本稿は「能力」概念を引用する。すなわち、次の主 張を用いる。 (γ)  人間の傾向性は、個々人の遂行能力 (ability)によって多様に実現される。  「遂行能力」とは、「傾向性」を実際に実現させる ための能力である。有能な運動選手は、優れた傾向 性を実現する優れた遂行能力を持つだろう。一方、 ケガをした運動選手は運動に関して優れた傾向性を 持っていても遂行能力を失っている。言葉を学んで いない幼児は言語の傾向性はあるがまだ遂行能力は ないと言える。加えて、社会において尊重されるべ きものと見なされる LGBT のような多様性を念頭 に置けば、この「遂行」概念は、身体的行動のみな らず判断や好みや性的指向を含む広い指示対象を持 つと解さなければならないだろう。(γ)を介して (β)を導くためには、(γ)が説得性をもって主張 されなければならない。すなわち、人間の傾向性 は、ある必然性をもってその個人における多様な行 為遂行によってもたらされざるを得ず、それがその 人のいわゆる「その人らしさ」や「かけがえのなさ」 となる、と主張されなければならない。その主張は どれほど正当化可能だろうか。本稿の目的は、(α) (γ)二つの主張の根拠を示し、それによって(β) の正当性を主張することである。  二つの異なる尊厳概念(「類の尊厳」概念と「個 の尊厳」概念)の背景について、簡単に言及しよ う。周知のように、生命倫理の様々な文脈で多用さ れる尊厳概念は、様々な議論の決定的論拠として機 能してきた。「人間の尊厳」の保護ないしは尊重を 謳ったものとしては、世界に目を向ければ、欧州評 議会の『人権と生物医学に関する条約』(1997年)、 UNESCO の『ヒトゲノムと人権に関する世界宣言』 (1997年)、『生命倫理と人権に関する世界宣言』 (2005年)等が挙げられよう。日本国内でも、総合 科学技術会議生命倫理専門調査会の『ヒト胚の取扱 いに関する基本的考え方(最終報告書)』(2004年) が、ヒト胚の作製・利用についての文脈ではある

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した上で、普遍主義的な色合いを帯びさせた。ルネ サンス期になり、キリスト教的な人間中心主義は維 持されつつ、人間は「地上世界における自立的存 在」と規定され、尊厳概念によって新たな自己意識 を与えられた。さらに近代思想の中で、人間を自己 認識・自律する者として規定する新たな三つの要素 が尊厳概念に付け加わった。第一の要素は、パスカ ル、ベーコン、デカルトなどによって強調された合 理性であり、人間の最大の特徴としての「理性」が 尊厳の根拠となる。第二の要素は人間の特殊性を強 調し、それによれば、人間は自然に固定されず理性 によって自らの生き方を決定し自己を変革し完成さ せていく能力を持つ点で他の動物と区別される。第 三は、人間こそ価値と規範の起源であるというカン トの思想に代表されるように、人間が自律性を持つ ということに求められる。カントやディドロは、こ の自律を人間尊厳の基礎とした。ここで着目すべき は、こうした近代的理念化を経て主に発展してきた 尊厳概念が、個人の個別的性質ではなく「類」とそ の普遍的性質に基礎づけられているということであ る(参照:バイエルツ[2002:150-56])。金子(2002) は、同様な結論をさらに詳細で周到な研究によって 導き出している。金子によれば、尊厳概念はヘレニ ズム起源の「人間の尊厳 (dignitas hommis)」とヘブ ライズム起源の「神の像」という二つの流れを持ち、 人間本性に内在する前者の「尊厳」と人間性の実現 を神との関係に求めた後者の「尊厳」は、本来異質 でありながら複雑に絡み合いながら発展して今日の 尊厳概念を形成してきたという。この場合も、「尊 厳」は「類0 としての人間」について語られている。  こうした歴史的展開に基づく尊厳概念について は、2点指摘することができる。まず、尊厳概念は 普遍的な「人間特有の在り方(本性・特性・能力)」 (以下「人間の傾向性(disposition)」と呼ぶ)を基 礎に捉えられていることである。「人間であること」 =「人間という本性を有すること」であろうと、「人 間一般が有する能力や特性」=「人間という本性に 内在する能力や特性」であろうと、共に「類0 として の人間」が有するものを前提とし、尊厳概念は「類0 としての人間」について語られている⑹。そこでは、 人間一般0 0 0 0 や典型的な人間0 0 0 0 0 0 が無差別に持つ普遍的で不 変な特徴が、「尊厳」を認めるための条件である。 「自分らしさ」を強調する尊厳概念は個々の差異を 前提にしたものであり、概念的には上述の伝統的な 「類の尊厳」が含意し得ないものである。その流れ は、LGBT と呼ばれる性的少数者などのマイノリテ ィへの配慮、ひいては多元的社会における個々人の 意志・好み・肉体的特徴の尊重といった、近年にな って意識され始めた多様性の尊重を要請する潮流と 軌を一にしている⑸。近代史をふり返れば、ドイツ ではナチスの行ったことへの反省から『基本法』に 尊厳概念が導入されたことに見て取れるように、国 家や体制が個人に対して(時に正当化しながら)為 す社会的抑圧への警戒から人間尊厳の原理が主張さ れた。近代における尊厳導入の背景に個人の尊重が あったと見ることができよう。生命倫理固有の文脈 でも、たとえば臓器移植問題のように、個人的な0 0 0 0 希 望・選択・行動が、国の制度や医療体制のような、 いわば“より大きな集団や組織0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 の原理や利害関係” によって制限や規制が加えられることで生じる緊張 関係がテーマになるが、「尊厳」に関する議論もそ うした枠組みで論じるのが正当だろう。  以上述べた目的と背景を踏まえ、本稿では、まず 「尊厳」概念の理解についてその概念史を簡単に辿 りながら確認した上で、普通謂われる尊厳概念が、 人間の普遍的条件に依拠する「類の尊厳」であるこ とを示す(第2節)。次に、「能力」概念に考察を加 えることで個人の生の実現の多様性を明らかにする (第3節)。最後に、以上を踏まえてどのような意味 で「個の尊厳」が主張され得るのかを確認し、同時 に残された課題を指摘する(第4節)。

2.「尊厳」概念の二つの理解

 最初に、「尊厳」が人間特有の普遍的な在り方や 特性を論拠として把握されてきたことを、尊厳概念 の展開を見てみることで確認する。人間尊厳という 理念は、歴史的には古代哲学とキリスト教神学に由 来すると言われる。バイエルツ(2002, 2004)によ れば、尊厳概念は古代ギリシアやローマにおいては 社会的に高い身分と結びつけられていたが、ストア 学派が社会身分に関係なく「人間であること」その ものに帰属するものとして捉えた。一方で、キリス ト教は人間に「神の似姿(imago dei)」という特別 な地位を与え、人間の尊厳を神の尊厳の反映とみな

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いう。「個人」の観点は、生命倫理の文脈でも中心 的な役割を担わされつつあるのである。  前述の伝統的な見方について指摘できる2点目 は、この精神・意識や精神的心的な能力を重視する 立場は人間の「身体」への言及がほとんどなく、つ まりその役割を無視しているということである。小 松(2012)は、伝統的な尊厳概念が、西洋のプラ トン、キリスト教、デカルト、カント等の精神・意 識・理性を強調する思想的伝統を背景にしながら、 「身体」を埒外に置くことでその「一般化」を手に 入れたと、その偏った「尊厳」理解を批判する。小 松はそれをデカルトからカント(そしてハイデガー) に至る近代の思想家によって受け継がれてきた「状 態の価値」説と捉える。 西欧に伝統的な「人間の尊厳」概念の基礎をな す人格概念は、精神を存在論的な最高実態とす る自覚に反して、身体を放逐しているという意 味で実は非存在論的なものであろう。(中略) そして、少なくとも近代から今日に至る「人間 の尊厳」概念は、かような人格概念を前提とす る以上、やはり非存在論的なものとなってい る。すなわち、西欧の「人間の尊厳」概念と は、精神・理性・意識等の有無に依存している ため、「存在の価値」ではなく「状態の価値」 をめぐっていたのである。(小松[2012:74])。  この理解を踏まえ、小松は「その尊厳概念がひと0 0 0 0 0 0 0 0 0 えに理性を人格・尊厳の基礎としている以上、理性0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 が状態変化して消失すれば、人間はおのずと尊厳を0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 も0 失うことになる0 0 0 0 0 0 0 」(小松[2012:75]、傍点は小 松)と、伝統的「尊厳」理解の危うさを指摘する。 尊厳概念が(本稿の謂う)「類の尊厳」となるため に「身体」を捨象する必要があったというこの議論 の正当性については、議論の余地があるかもしれな い。ただ、百歩譲って「類の尊厳」確立にとって 「身体」を不要とせざるを得なかったとしても、も う一方の「個の尊厳」には、この身体不要論は当て はまらないように思える。というのも、個体の身体 的特徴・欲求・経験・感覚がその個体の個別的な在 り方(生)の構成的要素となるのは、否定しがたい と思われるからである。それは、次のやや現象学的 ただし、「尊厳を持つこと」と上記の「傾向性」の 間に論証的な基礎づけは行われないので、「神が人 間に贈与したもの」「自然が人間に与えたもの」と いう、いわば“天賦説”以上の説明は提供していな いと言える。この考え方は現代の科学的知見にもそ の亜種を見つけることができよう。すなわち、遺伝 子コードのような人間一般が持つとされる普遍的な 生物学的条件に訴える見解も、先天的な生物学的条 件と「尊厳」の間に論証的な根拠づけを示さないと いう点で、本質的には天賦説と言える。  この「尊厳」理解は「類としての人間」の周りに 境界線を引く考え方であり、その問題点は容易に観 て取ることができる。それは、想定された特性をも つ人間だけを前提とすることで、ある傾向性を有す0 0 0 0 0 0 0 0 る特定の集団にだけ0 0 0 0 0 0 0 0 0 「人間の尊厳」を認めようとす る。したがって、何らかの理由によりそうした傾向 性の全てや一部を欠いた人たち  たとえば、遷延 性意識障害となった者や幼児  の尊厳を承認すべ きかという問題に対しては、否定的な答えしか出せ ない。加えて、人間の傾向性を普遍的で不変なもの として固定化した境界を設定し、「設定された境界 を超えるから尊厳に反する」という論法を提示する。 確かにそのような不変的条件に基づく議論(以後、 「不変条件論」と呼ぶ)は境界が明確な尊厳概念を 提示するから、残虐な行為を抑止する明示的な「道 徳的ストッパー」や「道徳的抑止力」として効力を 発揮するだろう。しかし、固定化された0 0 0 0 0 0 境界線は言 うまでもなく個人や人間の多様な0 0 0 在り方を重視する 考え方とは整合的ではない⑺  言うまでもなく、「個人」は生命倫理学でも重要 なテーマとなりつつある。たとえば、大谷(2004) は、日本の安楽死・尊厳死論争の中で「個人として の自律重視の尊厳」が重視されるようになったこと を指摘する。また、霜田(2006)によれば、その 論争において日本尊厳死協会が辿り着いた尊厳概念 は、「生命の尊厳」や「人間の尊厳」という語のも とで理解される神聖さ・不可侵さ・代替不可能性と いった伝統的価値ではなく、むしろ「個人の尊厳」 あるいは「人格の尊厳」すなわち「市民的諸権利の 担い手である個人のプライバシーとして、かつ自ら 固有の身体・精神に関する自己決定権をもった人格 として」尊重されるという意味合いを帯びてきたと

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ある。人間の尊厳概念の核心的内実と見なされ るものは、人格の自律ではなくなってしまい、 むしろ生命や遺伝子的同一性といった生物学的 基盤の持つ神聖性になってくる(Birnbacher [2006:83])。 この理解によれば、生物学的基盤は神聖化され、そ れを人為的に変更や操作しようとする行為は、尊厳 を侵すものとされる。それは「全体としての類」の 侵害だと見る議論である。「類としての人間」の尊 厳の根拠を生物学的条件に求めその条件を守ること が規範化されている、とビルンバッハーは批判し、 その規範化の動きの中に「類としての人間」の尊厳 の名の下になされる「人格(個)としての人間」の 尊厳の軽視を危惧している⑻  かように、「身体」を論点として取り込んでも「類 の尊厳」の持つ問題は避けられるわけではない。た だしそれは、「個の尊厳」を論じる文脈でも「身体」 概念を無視すべきことを意味しない。したがって、 それを踏まえて本節の議論を要約すれば、 伝統的な尊厳概念は、人間の生物学的な条件に 依存する傾向性に基づいて捉えられ、その場合 の「尊厳」は「類の尊厳」である(αの主張) ということになる。  ここで、補足のため2つの概念的区別を導入しよ う(ただし、議論の整理のための導入であって、本 論の課題に関してこれらの区別を用いて積極的な提 言を行うものではない)。まず「尊厳」の「抽象的 意味」と「具体的意味」を区別する⑼。「類の尊厳」 はその適用対象の点でも、身体を捨象するという点 でも、抽象的な意味として「尊厳」を解している。 それに対して、具体的な個人について語られる場合 (「個の尊厳」)は、「尊厳」は具体的な意味として用 いられる。抽象的「尊厳」は、指示対象を拡張して 用いる意味(いわゆる「拡張された意味」とされる 理解)と捉えれば、胎児や自然界も「尊厳」を持つ という議論に適用され得る。そこで具体的意味と抽 象的意味の間に重要さや価値の点で違いを設ければ (たとえば、具体的意味で用いられる対象の方が、 抽象的意味で用いられる対象よりも価値や重要性を な指摘が示すとおりである。  そもそも倫理を語る上で「人間」をどう捉えるべ きか。人間は単なる生物学的物理的要素の集合体で はないことは、言うまでもない。この観点を、ホン ネフェルダー(Honnefelder[1994])は次のような 興味深い表現で言い表している。 私は、私の生きられる身体0 0 0 0 0 0 0 (Leib)である0 0 0 ので あって、その生きる身体を、私はまた肉体0 0 (Körper)としても持っている0 0 0 0 0 (Honnefelder [1994:383])。 ここでは「であること」と「持つこと」の区別を強 調することで、「生きられる身体(Leib)」が、所有 される「肉体(Körper)」とは異なってまさに個人 の在り方の本質的部分0 0 0 0 0 であると主張されている。「肉 体」が私に所有される物理的生物学的対象でしかな いのに対し、「生きられる身体」はそれ以上のもの であるという意味である。非物理的存在、たとえば 魂の存在を認めるかどうかはともかく、「肉体」と いう単なる生物学的条件によって経験される生以上 のものがあり、それが私の「生きられる身体0 0 0 0 0 0 0 」の本 質的部分をなすというのである。そうした「生きら れる身体」を不可欠要素と解さなければ、倫理学は 不可能であろう。それは、倫理を語る上で個々人の 生の実践が重要であること、そしてそれが身体(肉 体)という場0 に生じることを示唆する。これは「尊 厳」を論じる上でも無視できない点であろう。  ただしこれは、「身体」を議論の埒内に入れれば、 「類の尊厳」の抱える問題、すなわち上述の「固定0 0 化された0 0 0 0 境界線」に関連する問題を逃れられるとい うことではない。そのアプローチは尊厳概念の過剰 な規範化に繋がる危険性さえ持っている。たとえば 「不変条件論」的理解を生物学的条件の中に見て取 る現代的考え方を、ビルンバッハー(Birnbacher [2006])は「尊厳原理の自然主義化、規範化」と 批判する。 前面に出てくるのは、自由・プライバシー圏・ 自己尊重・生存保障の不可侵という意味での 「尊厳」ではもはやなく、生物学的な構造と経 過には手を下さないという意味での「尊厳」で

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する尊厳に関しての認識や承認は、自然種としての 条件ではなく文化社会的な条件やおのれの価値観を 反映させることで異なることがあるが、サルメイシ ーのこの区別は、それらの場合も含め「個の尊厳」 に関する混乱した議論を整理する助けとなるだろう。

3.「能力」概念による再解釈

 本節では、(γ)の主張、すなわち人間特有の在 り方(傾向性)は個人の遂行能力によって多様に実 現される(実現されざるを得ない)、という主張を 検討する(「能力」概念に訴えるのは、主に、「尊 厳」の中心的概念である自律や自由に密接に関連す ると考えるからである。詳しくは、最終節を参照)。 人間の傾向性とは、上述のように人間一般に与えら れた潜在的な資質や能力を指し、むろん多くの場合 それが発揮(遂行)されるのが普通であるが、ここ ではその生物学的な証明を提示することが目的では なく、哲学的倫理学的論証、すなわち潜在的な資質 や能力とその遂行がどのような関係であれば説得性 を持ち得るのかを論じる。  キルミスターは、尊厳概念について考察した論文 (Killmister[2010])で、「類の尊厳」と「個の尊 厳」を統一するために、「潜在能力(capacity)」と 「遂行能力(ability)」の区別を導入した。「潜在能 力」はすでに人間一般に普遍的に備わった能力であ り、「遂行能力」は「潜在能力」を有する個々人が それを実際に実現させる0 0 0 0 0 0 0 0 能力である。たとえば、幼 児は言語の潜在能力はあるが遂行能力はまだない (一方、石ころにはその潜在能力も遂行能力もな い)。脚をケガしたランナーは走る潜在能力はある が遂行能力を失ったことになる。潜在能力がなけれ ば遂行能力の発揮は不可能である一方で、潜在能力 は遂行能力を介して実現される。キルミスターはこ れら相互依存的な能力概念を用いて、「類の尊厳」 をすべての人間が普遍的に生まれ持った潜在能力 と、また「個の尊厳」を遂行能力と見なして、普遍 的(で潜在的)な価値基準や原理原則も具体的な場 面で実現されたりされなかったりすることがあると 解釈した。たとえば、勇敢さのような卓越的性質を 「尊厳」の重要な構成要素と見なす時、たとえ人が 勇敢さを「類の尊厳」の一部として持っていても、 拷問のような状況ではそれを実際に表現することは 持つ、というように)、それは生命倫理の複雑な議 論を整理するのに役立つだろう⑽。具体的意味を確 保するという点でも、「個の尊厳」を導入する必要 はあるのである。  もう一つの区別は、分析哲学者サルメイシー (Sulmasy[2002, 2008])が導入した形而上学的区 分である。サルメイシーは、価値には、自然種 (natural kind) が「 内 在 的 に 持 つ 価 値(intrinsic

value)」 と 他 か ら「 付 与 さ れ る 価 値(attributed value)」の二つがあり、後者はさらに、何かの役に 立つことから生じる道具的価値(例:ナイフの持つ 価値)と非道具的価値(例:錆びたナイフの持つ美 的価値)に分けられるとし、以上の区分を「尊厳」 の議論に応用する。「人間」という自然種を、言語 能力、合理的判断、自由意志、道徳的行為、創造 性、美的感受性等の能力を持つ存在と規定した上 で、「尊厳」を、その自然種が持つ内在的価値とし ての「尊厳」(「内在的尊厳」)と「付与された(非 道具的)価値としての「尊厳」(「付与的尊厳」)に 区別する。ある個体はこうした性質や能力を有する 自然種(すなわち「人間」)に属することで、端的0 0 に0 「内在的尊厳」を持つとされる(ただし、こうし た性質や能力実現の仕方に不完全さ0 0 0 0 や多様性0 0 0 がある ことは許容される)。「内在的尊厳」は、有する者の 内在的性質を基礎とする。一方、「付与的尊厳」 は、尊厳を付与する者とされる者の関係にも依存す る。これはビルンバッハー(2017)の言葉を借り れば、「承認」に基づく尊厳であるとも言える。「尊 厳が承認に基づくのであれば、尊厳の基礎となるの は、常に、動機づけられた0 0 0 0 0 0 0 承認であり、つまりは、 尊厳の認められた者の地位を他の者たちよりも高く するような価値の承認なのである」(ビルンバッハ ー[2017:38])。(脳死者やヒト胚のように)「人 間」の定義として議論の余地がある場合にも我々が 尊厳を認めることはあり得ることだが、それをここ で謂う「付与的尊厳」と見なすことで、尊厳を持た せる対象を広げる考えに秩序ある論拠を与えること ができるだろう⑾。その意味で、「付与的尊厳」は、 前述の抽象的意味の尊厳でもあるともいえる。人種 的な差別行為(「内在的尊厳」を侵すケース)をす る者がいたり、まったく尊厳を認めるべきでないも のに対して敬意を表したりする者がいる。個人に対

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哲学者のカンギレムはこれと全く異なる解釈を提出 する。カンギレム(Canguilhem[1943])によれば、 「正常」と「健康」とは同じではない。生まれ育っ た特定の環境だけでなく、新しい環境に自らの能力 を用いて適応できることが「健康」なのである。た とえばアマゾンに生息していた蛙が移動して新たな 自然環境で生きることができれば、その状態を「健 康」と見なすことができる。「正常」は、個体とそ の置かれた環境や状況のなかで自らの能力によって 不断に関係を築いていけることに存するのであり、 (ボースが言うような)想定される理想状態からの 逸脱は「異常」ではなく、むしろその種の豊かさを 表し得るものとなる。個体の能力とは、多様な0 0 0 自己 展開を可能にするものなのである。それゆえこの見 解では、個体の生き方の本質は個体がそれぞれの環 境の中で行う多様な実現の中にあると言える。  カンギレムの議論が「正常」や「健康」について の正当な理解を提出しているかどうかは、むろん詳 細に検討されるべき事柄であろうが、このカンギレ ムの「正常」に関する理解は決して特異なものでは ない。かつて医療に統計の手法を取り入れたE・ A・マーフィーは、医療倫理の文脈での「正常」概 念の多様な用法を指摘したが、その中に「生存と生 殖に適していること、最適化(optimal)、環境に最 も適応していること(fittest)」を挙げた(Murphy [1972])。すなわち、自己展開の「最適化」のため の能力は、個体(個人)が有するものとして当然の ものという理解である。個体(個人)の能力とは、 環境における最適化の中で多様に自己展開していく ためのものなのである。カンギレムのこの主張は、 個人の能力がその傾向性の多様な仕方での実現を可 能にするものであると捉える一つの重要な提案であ る。  カンギレムのこの提案を踏まえるならば、人間の 傾向性は(生物学的必然性をもって)個々人の遂行 能力によって実現され、その実現の仕方は多様であ り得ると言える。「能力」が多様な自己実現を可能 にするためにあるというこの解釈は、治療分野の例 がさらに補強してくれる。治療は、回復を目的とす るもの(restorative)と援助を目的とするもの(as-sistive)に大別され得るが、前者が患者の元の医学 的身体的状態を回復するためのものであるのに対 難しくなることもあるだろう。  ここで、尊厳概念を能力概念と同一視することが 「尊厳」の意味の矮小化に繋がるのではないか、そ れゆえ2種の能力が原理と現実の二つの側面をそれ ぞれ受け持つとするこの見解が、本当に2種の「尊 厳」の統一を主張する論に役立つのかという懸念は 残るが、この遂行能力に関するキルミスターの論立 ては本稿に有効な示唆を与えてくれる。すなわち、 前節で見たように、「類の尊厳」が依拠する傾向性 (その「能力」は潜在能力である)は人間一般に与 えられたものだが、その傾向性は遂行能力があるか0 0 0 0 0 0 0 0 らこそ0 0 0 実現され得る、すなわちその実現のためには 遂行能力を必要とし、しかも、その実現については 様々な遂行の仕方があると考えることは極めて自然 なことのように思われる。キルミスターの定義する ような「遂行能力」を前提すれば、その多様な実現 性を主張できると言えよう。もちろん、その生物学 的経験的検討は本稿のような哲学的論考の枠組みを 超えるが、論理的には、個人の様々な在り方を可能 にするという意味での「能力」を前提することは、 倫理学で問題にされるような個人の自律性や、状況 に応じて自ら固有の身体・精神に関してなされる自 己決定について、説得力のある議論を提示してくれ るように思われる。特に、それが変化する状況に際 しても対応できる「能力」だとすれば、それは多様 な在り方をさらに強調することになるといえよう。 「遂行能力」をそのように解することは可能だろう か。この点に関し、以下に見るカンギレムの提案は (それは厳密に言えば「正常」対「異常」、「健康」 対「不健康」についてのものだが)、大きなヒント となると思われる。  人間における「正常」「健康」とは何かという問 いに関し、2つの見解が指摘されよう。医療倫理学 者のボース(Boorse[1977])は、病気を、生物学 的な「種」に特有な正常機能が妨害された状態、正 常な諸機能からの逸脱(機能不全)と理解する。「健 康」は「正常」と同義に理解され、おのれの「種」 に生物学的に特有な機能の内にあること、すなわち 生物学的“中間”であり、それは統計的に決定され るとする。正常な諸機能とは一種の理想状態である から、「種」を構成する集団の中に、実際にその状 態を体現する個体がいるとは限らない。一方、科学

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けれども境界をなんとしても維持しようとする 態度は、同時に、人間の尊厳の理念に反すると いう面も持つ。なぜなら人間の尊厳は、自ら自 由に意志し知性を働かせて自己完全化(自己実 現)をめざすことにあり、固定的な「人間性」 を否定して乗り越えて行くところに成り立つか らだ。技術によっても奪われてはならない〈人 間の核〉を堅持しようとすることは、「人間が 価値と規範の創造者であるという人間の尊厳の 根拠を否定することになる」(松田[2008: 14])。  バイエルツは、「尊厳」に関する放棄と堅持の緊 張関係を「尊厳概念のパラドックス」と呼ぶが、こ うした危惧を踏まえ、バイエルツと松田は「尊厳」 の放棄を示唆する。しかし、際限ない技術介入の危 険性は、尊厳(本稿の「個の尊厳」)に自己実現の 契機を認める以上、論理的には許容しなくてはなら ない点であろう。その危険性をあらかじめ封じ込め る、あるいは回避する論理が、ここで想定される 「尊厳」理解からは直接出てこないと言うにすぎな い。それは、その「尊厳」理解の中にそうした論理 を提出する前提が組み込まれていないことによるだ ろう。危険があるからと言って人間の「尊厳」を放 棄するのは、本稿で指摘してきたような様々な社会 的問題に対する道徳的抑止力を失うことを意味す る。道徳的原則としての代替概念は容易に見つけ難 いが(参照:石田[2016])、そうだとすると、そ れはあまりに倫理的コストが大きい。むしろ、本稿 が議論してきたように2種の「尊厳」概念を確保 し、「類の尊厳」の方に道徳的抑止効果を担わせる ことは、際限ない技術介入に対する防波堤になると いうメリットがあると言えよう。むろん、安易なエ ンハンスメント的介入を禁じるのにさらに0 0 0 どんな理 論装置が必要かは、真剣に論じなくてはいけないこ とではある。ただ、桶のお湯と一緒に赤子まで流す のは賢明ではない。

4.まとめと問題の射程

 本稿では、第2節において、「類の尊厳」に関す る主張、すなわち、 し、後者は、身体的状態の復元や回復よりも、患者 が日々の行動として望む事を様々な技術的補助によ り達成させることに努力が払われる。後者の例とし ては、四肢が麻痺した患者に自ら摂食を可能にする 補助器具を提供したり、いわゆる閉じ込め症候群 (locked-in-syndrome)の患者に新たなコミュニケ ーション装置を考案したりすることなどが挙げられ よう。脳神経工学では、患者がある脳機能を失って いる場合、種としての人間一般が有する、あるいは 患者がかつて有していた正常な機能を、脳の部位に 操作を加えることで回復させるのではなく、患者が 望む機能や能力の実現を妨げている身体的脳神経学 的障碍を何らかの方法で取り除き、その機能や能力 を(これまでとは異なった仕方ででも)実現させる ことがあるという⑿。このように、施術によって患 者が求める行動・機能を実現するための様々な能力 を与え得るということは、理論的には、自己実現の ための能力遂行は実に多様であり得るという人間的 現実を物語るだろう。  ここでの「身体への技術的介入」の事例に関し て、こうした能力実現の可能性を拡大する様々な技 術的介入はむしろ「尊厳」を損なうのではないか、 という懸念について言及しておく。何人かの論者 は、人間の「尊厳」が動的な自己展開や自己の改変 を含むことを認めつつも、こうした介入に慎重な立 場をとる。たとえば、「尊厳概念の成立理由は、固 定された人間性を否定し自己決定力や自己展開力に よって人間の本質を固定され得ない性質に見出すこ とにある」とする考えに対し、バイエルツは、そう すると現代において人間の物理的本性を変え得る 「身体への様々な技術的介入」を完全に阻止できな くなると強く警戒する(バイエルツ[2004:44])。 松田も同様の警戒感を示す。松田(2008)は、エ ンハンスメント技術の進歩やいわゆるサイボーグ化 が人間の「尊厳」を脅かすものになるかもしれない と論じた後で、バイエルツの論を引用しながら次の ように言う。 こうした技術進化のなかで、「ここを超えたら 人間が人間でなくなる」という一線を引き、技 術によって改変してはならない「人間の本質」 を確保しようとする態度がありうる。(中略)

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「自律性」と同じではない。筆者はかつて、「尊厳」 概念が「自律性」概念と同じものに過ぎないのでは ないか(したがって、「自律性」とは別に主張され る「尊厳」には理論的に有効な意味がないのではな いか)という点をめぐって英語圏でなされていた論 争について検討した(石田[2016])。そして、こ れら二つの概念は同じではなく「尊厳」には「自律 性」以上のものがあると結論した。とはいえ生命倫 理の問題を概観する時、「尊厳」の議論にとって「自 律性」が重要な役割を担うのは確かである。最後 に、この自律性と能力の関係をスケッチ風に解説 し、上に述べた能力概念の持つ倫理学的重要性を指 摘することで、本稿を閉じたい。  自律的行為では〈意志-行為〉連関が成立すると 考えられ、ここでは、時系列的には一般に「意志」 の後に「行為」が生じるとされる。「自律(autonomy)」 概念の意味についてはよく論争の的となるが、多く の論者はそのギリシア語源(αὐτονομία, autonomia) を引用しつつ「自己決定(self-determination)」概 念と「自由(freedom)」概念が含まれることには 賛成している⒀。その上で、自律的行為では、通常 はその「意志」が自ら決定するという意味で自由で ある時、決定論的または因果的制約がないという前 提で、その「行為」に対して「責任」が生じるとさ れる。自由(あるいは自由意志)と決定論(あるい は決定論的必然)が対立するとされるのは、その前 提のためである。その自由な行為は、「できる」と いう能力を表す概念で表現することが可能だろう。 ここで「できる」(自由な行為)は全く制約がない というわけではない。それは、次のような様々な状 況を考えれば理解できよう。人間がコンクリートの 壁を素手でぶち破ったり、空中を飛んだりできない ことでも明らかなように、「できる」という能力は、 まず人である行為者の有する生物学的物理学的条件 や周囲の環境の物理学的条件を踏まえて規定されね ばならない。また、「個人の自由」という謳い文句 の下に社会で何でも許されると理解するのは間違い である。たとえば、病院で白人の患者がおのれの主 義や自負心を満足させるために黒人の医師を拒否す るのは、社会では許されない馬鹿げた要求(人種的 偏見)であろう。「個人の自由」や欲求は社会の規 範や慣習の尊重とのバランスの中で実現されねばな (α)  伝統的な「尊厳」は、人間の生物学的 な条件に依存する傾向性に基づいて理解 され、それは「類の尊厳」である ことを示した。第3節では、傾向性と行為遂行に関 する主張、すなわち、 (γ)  人間の傾向性は個々人の遂行能力によ って実現されるのが必然であり、その実 現の仕方は多様であり得る ことを示した。これら2つの主張の正当性が認めら れ、いわゆる「その人らしさ」や「かけがえのなさ」 を個人における多様な行為遂行によるものと理解す るとすれば、 (β)  「尊厳」は、個々人の多様性やかけがえ のなさを実現する生に基づく「個の尊厳」 を含む という、「個の尊厳」に関する主張が確立されるこ とになる。(α)はある程度正当性を持って主張で きたと考えるが、(γ)はカンギレムの説を応用し て論じただけである以上、その必然性はさらなる論 拠を要請するだろう。加えて、たとえば「傾向性」 はあるが「遂行能力」が発揮できない者(たとえ ば、遷延性意識障害となった者)の「個の尊厳」は どうなるのかという指摘も可能だろう(それに対し ては、それが前述の「抽象的意味」での尊厳のケー スでないとすれば、かつて遂行能力を発揮していた0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ならば0 0 0 時間軸を延ばして間接的な「個の尊厳」を認 めるという論法も可能だろう。あるいは、先に導入 した「付随的尊厳」によって説明することも可能か もしれない)。しかし、そうした課題にもかかわら ず、本稿の能力概念を用いた考察には、倫理学的な 重要性があると思われる。  本稿の考察が明らかにしたように、「類の尊厳」 は、固定化された普遍的傾向性を根拠にするため 様々な問題を内包するとはいえ、伝統的にある種の 善の根拠となる道徳原則として機能してきた。一 方、「個の尊厳」は、個々人の多様性を体現する形 で個人の自律性の尊重を含む。ただし、「尊厳」は

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〈注〉 ⑴ 本稿は、2016年12月の日本生命倫理学会第28回年次大会で の口頭発表原稿に加筆したものである。口頭発表セッション で貴重な質問をしてくれた方々に、あらためて感謝する。 ⑵ 19世紀から20世紀初頭にかけてのヨーロッパにおける非哲 学的文脈でも、「尊厳」が中心的に使われていたという。以下 を参照:シュッテッカー(2016)。 ⑶ さらに進んで、ビルンバッハー(2005)のように、「尊厳」 自体を権利の集合と見、他の諸権利に対する絶対的優先性を 付与して、その規範的効力を強くさせる立場もあるだろう。 ⑷ ここは、より厳密には、「依存する」でなく、分析哲学の形 而上学的概念の「随伴する(supervene)」という語を用いる べきところである。「随伴する」とは、(ある種の)必然性を もって依存し共変化する(この場合で言えば、非傾向的条件 が変化すれば、それに応じて、随伴する傾向性も変化する) ことを意味すると理解してよい(ただし、その「必然性」の 意味は「随伴」を解釈する形而上学的立場によって異なる)。 ここでは「共変化」を謂う必要がないので、「依存」を用いる。 ⑸ もちろん、上のような「その人らしさ」の強調があるから といって、それが端的に個々人の(真正な意味での)「その人 らしさ」や「人生」や「命の在り方」を確保する  すなわ ち「個の尊厳」を尊重することに繋がると天真爛漫に喜ぶわ けにはいかないだろう。「その人らしさ」を含めどんな華麗な キャッチフレーズも仰々しい学術用語も、体制に組み込まれ 社会で利用されるや否や、その名の下に個人の希望や意欲や 意志を抑圧し、個々人の判断や思想を覆い隠す口実になり得 る。「その人らしさ」が体制側の口実や美化に使われた好例は、 ナチスドイツ時代の安楽死プログラムにも見ることができよう。 「その人らしさ」の政治的利用が、たとえば安楽死プログラム

を推し進めるためのプロパガンダ映画『Ich klage an(私は告 発する)』によく表現されている。「その人らしさ」概念のこ の両義性と危険性、および事例としてこの映画を指摘してく れた、日本生命倫理学会第28回年次大会での口頭発表セッシ ョンの座長・小松美彦氏に感謝する。 ⑹ ここで、この系譜に属するとしたカントの道徳的自律性が 「類としての人間」なのか疑問に思う者もいるであろうが、筆 者は、カントが「人間性の尊厳」を主張する時、それは厳密 な意味では個人的なものではないという、以下のバイエルツ の考えに賛成する。     道徳的自律も厳密な意味で個人的なものとは理解しがた い。(中略)カントにおいてもまた自律は単に形式的にの み個人的なものに見えるにすぎない。というのは、あら らない。以上を一言でいえば、「できる」という能 力はさまざまな生物学的物理学的条件や社会的状況 の制約の中で理解されねばならない、ということで ある。  一方、「できる」概念に含まれている「行為」に ついても、同様のことが言えるだろう。「行為」と は、窓が閉まっているのを開いている状態にする行 為の例に見られるように、行為者のいる空間の中に どれほど短時間であれ何らかの新たな「秩序」(そ こには行為者自身と周囲環境との関係も入る)を生 成することであるといえる。この理解に上記の「制 約」の考えがやはり適用され得る。つまり、行為に よるこの「秩序」はどこにでも作り出せるというこ とではなく、それを可能にする行為者の条件、また 周りの条件や環境と相対的に実現されるということ である。以上から示唆される結論は、(詳論を省い て言えば)上述のように行為によって構成される「自 律性」も同様に周りの条件や制約と相対的である、 ということである。そうだとすると、行為者の自律 性は本来的にその当人のみに由来するという、「自 律性」に関して倫理学でよく主張される理解は間違 いだということになる。  これは決して突飛な結論ではない。自律的行為を 含め行為の原因を性格や人格や意志等の当人の内的 要素に求める解釈は多いが、むしろそうではないと いう議論が、近年、主張され始めている⒁。我々は 真空状態の中で判断や行為をするのではない。ただ しそれは、外的要因に影響されてそうするとか、小 さい頃から「正しいふるまい」等を周囲との関係で 学習し習得していく、ということだけを意味するの ではない。そうした点もある程度重要だが、さらに 次の点も無視できない観点である。すなわち、自律 性を表現する行為とその認識の成立も、(さらに、 これも詳細を省いて言えば)倫理的規範の習得と適 用さえも、それを可能にする社会的在り方を受け入 れなければ成立しないということであり⒂、能力概 念による考察はそうした倫理学的な深層を明らかに し得るだろうということである。しかしその論点は 本稿の当初の目的から外れるため、その詳細は今後 の研究に譲ることにする。

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⒀ 「自律性」に関する「自己決定」という含意については、た とえば Feinberg([1972],[1986])や、Lucas(1966)を参照。 ⒁ たとえば、以下を参照。小坂井([2008:特に第4章], [2013:特に第2講])、瀧川(2003)。もちろんそれ以前にも、 たとえばウィトゲンシュタイン(Wittgenstein[1953])の有 名な「腕を上げる」と「腕が上がる」の例を用いた考察がある。 ⒂ 前注で挙げた小坂井の論考の重要な部分は、ミルグラムの 有名な「アイヒマン実験」を考察することで導かれている。 近年、ハスラムら(Haslam et al. [2016])はこの実験の内容 と結果を再検討した上で、被験者が「権威に服従」するため には、実験計画の目的自体が意義あるもの、また実験計画を 成り立たしめている思想(たとえば科学的考え方)そのもの が崇高であること等の肯定的評価を被験者がしていることが 重要な要因である、と結論づけている。これは、人がある倫 理的権威に従ったり倫理規範を受け入れたりする時には、そ の権威や規範を存立させている倫理的すなわち社会的空間を 積極的に受け入れなければならないことを、示唆するのでは なかろうか。 〈参考文献〉

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55巻増刊号、84-92。 シュッテッカー、ラルフ 2016:「人間の尊厳にまつわる哲学的 な諸問題とその解決への提案(下)」(浅見昇吾訳)、関東医学 哲学・倫理学会編『医療と倫理』第10号、17-24。 瀧川裕英 2003:『責任の意味と制度  負担から応答へ』、勁草 書房。 バイエルツ、クルツ 2002:「人間尊厳の理念  問題とパラド ックス  」(吉田浩幸訳)、L・ジープ他『ドイツ応用倫理学 の現在』、ナカニシヤ出版、150-173。 バイエルツ、クルツ 2004:「人間の尊厳:ある概念の哲学的起 源と科学的侵食」(下記論文の渡辺貴史による要約)、『続・独 仏生命倫理研究資料集』上巻(千葉大学)、39-45。(Bayertz, K. 1996: “Human Dignity: Philosophical Origin and Scientific Erosion of an Idea,” in: K. Bayertz (ed.) 1996: Sanctity of Life and Human Dignity, Dordrecht: Netherlands, Kluwer. ビルンバッハー、ディーター 2004:「人間の尊厳という概念の 曖昧さについて」(菊池惠善による Birnbacher (1996)の要 約)、『続・独仏生命倫理研究資料集』上巻(千葉大学)、46-52。 ビルンバッハー、ディーター 2005:「人間の尊厳  比較考量 可能か否か?」(忽那啓三訳)、『応用倫理学研究』第2号、 2005、88-101。(Birnbacher, D. 2004: Menschenwürde: Ab-wägbar oder UnabAb-wägbar? in: M. Kettner (Hrsg.), Biomedizin und Menschenwürde, Frankfurt a. M., 249-271.)

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