【聞き書き拾遺】
『笑いと私』
・上方笑芸と歩んだプロデューサー
-見えない笑芸史と笑いを支えた大瀧哲雄氏の履歴-
やまだ りよこ
要旨 日本笑い学会の研究企画の一環として昨 年から「聞き書き」に取り組んでいます。 ジャンルを問わず制作や研究など活動を通 して長く「笑い」に携わり、同時に、歩み そのものが表からは見えない一つの分野の 歴史の側面や裏面を物語る・・、そんな 方々にお話を聞いておきたい、体験談を記 録に残したいと手探りでスタートした「拾 遺録」です。 関西の演芸、特に漫才はめまぐるしい時 代の変容と呼応して変化を遂げていますが、 活動した時代がほぼ重なる大瀧哲雄さんの 道筋と現場で得た哲学からは、普遍的な笑 芸の本質も垣間見えてきます。通常の研究 ノートとは異なる一人語りのしゃべり言葉 でまとめていますが、一貫した笑芸への情 熱が伝わり、「笑い」の力も間接的に示し てくれているように思います。 ************************************ 『大瀧哲雄氏』(お笑いプロデューサー) 略歴 1951年2月5日~2019年12月15日逝去 1972年、ケーエープロダクションに入社、 横山ホットブラザーズなどのマネージャー を務める 1977年、大滝事務所設立 1988年、有限会社大滝エージェンシーに組 織変更 起業後、故・露の五郎兵衛、松尾貴史、月 亭可朝、若手お笑いタレントらのマネジメ ント及びプロデュース。劇場イベント、テ レビ、ラジオ番組の企画プロデュースに従 事 2011年~2019年「漫才塾」開講、塾長を務 める ************************************研究企画委員会企画
●聞き書き(2019年4月4日談、聞き手・ 大池晶、編集・やまだりよこ) ・暇ならこっちの業界に 僕がこの業界に入ったんは21歳の6月1 日。ケーエープロ(※1)です。 それまでは中華航空に勤務して、パー サーの見習いみたいなことをしていました。 ところが、英語を習いに行った先でバレー ボールをしてたら指に大ケガをしてしまい、 仕事に行けなくなった。暇にしてる時に横 井庄一さん帰還のニュースがあって、僕は 思い立って一人でグァム島へ行きました。 ジャングルをさまようて第二の横井さんを 探しながら、今後、どうしていこうかなと 考えました。 その頃ちょうど、おふくろが日本舞踊を 教えていて海原お浜・小浜(※2)のお浜 さんのご主人と縁があったんです。で、僕 が暇ならこっちの業界に入れへんかと誘っ てくれた。話はとんとんと進んで、それに はいっぺん人物を見なあかんからと、ご主 人がやってる「海原家具」で4ヶ月ぐらい アルバイトをさせられたんです。「海原家 具」は森小路にあって、当時海原はるか・ かなたも芸人修業をしながらバイトをして ました。たまに海原千里・万里(※3)も 来てましたね。僕はここで商売の仕方とか を教えてもらい、人物に間違いはないとい うことでケーエープロの社長に会わせても らうんです。当時の業界は紹介で入って行 く形が多かった。 演芸に興味はありました。中華航空は飛 行機便のない昼間は自由で、そういう時に 梅田のトップホットシアター(※4)に 行った。初めて生の漫才を見てものすごい この世界が好きになりました。初めて笑っ た。若井はんじ・けんじさんや小づえ・み どりさんとか。だから、お笑いの仕事も面 白いなとは思ってたんです。 ・おかしな会社やな そうして昭和47年の6月1日にケーエー プロの面接を受けた。けど、その面接がま ず「君はお酒を飲めるか?」から始まっ て「一滴も飲めないんです」と答えると、 「麻雀はできるか?」「一回もやったこと がないです」。そう答えたら「クビやな」 と藤井康民社長が苦笑いしはって、社員さ んも「あんた、この世界に入るのやめた方 がええで」って反対する。おかしな会社や な、と思ってね(笑)。 それでも「面倒見たったらええわ」と 言われて、ある先生に会った。僕、その 時グァム島でコーラで焼いて顔が真っ黒、 コーラの色と一緒やった。で、その先生に 「君はなんでそんな色が黒いねん」と聞か れて「第二の横井庄一さんを探す冒険をし にグァム島に行って見聞を広げました」と 答えたら、先生がめちゃめちゃ大声で「え らいっ!」と叫びはった。後で誰やと聞い たら、それが漫才作家の秋田實先生やった。 でも、秋田實さん(※5)て言われてもわ からない。とにかく、ここの偉いさんとい うぐらいの認識でした。 面接が終わるとすぐ「君の机はここや で」って。見たら、もう僕の名刺ができ てました。肩書きはマネージャーで、お
お~って。早速集金に行ってと言われ、 ツェー、デー、イー、・・これが数字の符 牒やからまず覚えろ、と先輩に言われまし たね。 ・昭和の良き時代の芸人さん ケーエープロは万博の時にはもう、トッ プホットシアターができていて盛大にやっ てました。僕が担当したのは横山ホットブ ラザーズ(※6)で、ホットさんもめっ ちゃめちゃ忙しかった。当時、ビアガーデ ンの仕事もたくさん入っていて、僕は初日 から天王寺のビルの屋上のビアガーデンで 椅子の上にノコギリを出してアンプとか道 具を並べてました。お父さんの東六さんも いて四人で活動していた時です。ホットさ んは1日に劇場2ヶ所、その間に余興やラ ジオ出演、夜は絶対キャバレーの仕事が2 ~3本入っていて、1日に8本ぐらい舞台 をこなして朝から晩まで動き回ってまし た。YTVで帯であった番組『お笑いネッ トワーク』にもずっと出してもらって、地 方公演がまた多かった。付いてる方もしん どいですけど、芸人さんはやっぱり凄いな と思いましたね。台本を渡しても、車の中 で1回合わせるだけで本番をピシッと決め る。稽古してるのを見たことがない。いつ も不思議でした。 みなさん優しかったけど、お父さんの東 六さんには可愛がってもらいました。お金 をお父さん(東六)に渡すでしょう、そし たら、必ずお小遣いをくれるんです。お母 さんからもくれはる。必ず2回お小遣いを もらいました。昭和の良き時代の芸人さん でした。 ・ええ共同体に悪い時期が来た 一方で、僕は新人育成もやるようになり ました。トップホットには若井はんじ・け んじ(※7)、海原お浜・小浜といった看 板はいてるんですけど、若手の前座がいて なかった。365日回して1日、2~3回や るのには圧倒的に芸人さんが足りない状態 でした。それで、スカウトをしてネタを見 て育てる、ということに時間をとられて いったわけです。自分もやりたかったし、 結局その頃から若手育成をやっていたこと になります。当時若手はみんな弟子入りし てこの世界に入ってたけど、それでは追っ 付けへんから、「うちはすぐ舞台に上げら れるよ」というのを口説き文句にして育て ていった。大木こだま君もスカウトした一 人です。 僕はお浜・小浜師匠のマネジメントは やってませんけど、お二人は女座長みたい でカッコよかった。小浜さんは最初僕に こう言いました。「兄ちゃんな、この業界 はてっぺん取らなあかんで、乞食でもな、 てっぺん取ったらええねん」。プロの芸人 さんやなあと思いました。所作もきれいで 礼儀正しくて気っ風が良うて。それでお二 人もやけどケーエーの漫才さんはみんな秋 田先生のネタとか台本通りにきちっとやっ た。ケーエーはええ共同体でした。大阪の 演芸の世界は過渡期でしたけど、吉本も松 竹芸能もそないに大きなもんには見えな かった。若かったから、うちらの方が看板 は上やという気があったんですね。
でも、悪い時期がいっぺんに来ました。 東六師匠が白内障になって引退(75年)、 お浜さんも目が悪うなり(78年引退)、は んじさんが亡くなる(76年)。さらにトッ プホットの閉鎖(76年)があり、海原千 里・万里が引退(77年)と、これらが一気 に来た。はんじさんは42歳でした。稼ぎ頭 が一気に消えて行ったわけです。おまけに、 秋田先生も入院し、これから、このプロダ クションをどうやってやっていこうかなと なった。そこで、会社は阿倍野のアポロ前 の駐車場の所でおでんや酒を出す屋台を始 めるんです。よく売れてね、社員は夜中ま で働きました。 ・独立して笑いから離れるもまた戻る 一番最初に会社を出たのは僕です。77年 に完全に独立して大滝事務所を立ち上げた んです。僕は根っから商売人の気があった のか、もうお笑いはやめて「率のいい」ピ アノの弾き語りとかを扱おうと。でも、お 笑いに未練はあった。紹介を受けて落語の 露乃五郎さん(のちの二代目露の五郎兵衞 ※8)の事務所代表も引き受けました。そ のおかげで、事務所がきちんとした組織に なった。 有限会社大滝エージェンシーになったの は88年です。そういう中で松尾貴史(※ 9)が入ってくるんです。当初はキッチュ と名乗っていて、モノマネが面白いから東 京にテープを送ったら、いっぱいオファー が来た。あれよという間にレコードも出し、 ラジオで冠番組もできました。そこから、 僕は落語を離れてまた、お笑いの方に進む んです。キッチュ人気で若手もぎょうさん 集まってきたから。 まず『ライブジャンクション』というの をやった。面白なかったらお客が手をあげ るという漫才ライブで、切符が一日で売り 切れるほど人気でした。すると、放送局か ら声がかかってこれがテレビ番組になった。 『ゴングショー』~『爆笑ブーイング』と、 東京と大阪の合流で若手が競う番組として 5年間放送されました。芸人さんの立場に なったら、めちゃめちゃキツイ番組やった と思います。けど、うちはこの番組のおか げで信用ができたんです。ライブは『キタ イ花ん』へと続いていきました。 ・漫才塾をライフワークに 今、僕らは勤めながらお笑いのスキルを 学ぶみたいなことを一般人対象にやってい ます。世の中には才能のある人はたくさん いて、芸人やったら食べていかれへんけど、 芸事が好きという人がいる。長寿社会にな る中で、お笑いのスキルはコミュニケー ションツールや、メンタル面でも幅広く役 に立つんちがうかなと思うし、50~60歳ぐ らいでデビューして楽しみを見つけるとい うのもありかなと思ってるんです。だから、 また全然違うカテゴリーで、勤めながら舞 台に上がるサラリーマン芸人を育てられれ ばと。その意味で2010年から続ける漫才塾 はライフワークです。そんな形でお笑いの ファンを増やしてお笑いに貢献できたらな と思ってやっています。ありがたいことに、 僕が若い頃から出会ったしゃべくり漫才の やりとりの基本形が参考になってますね。
笑いというのは、ある程度お金があって、 少しでも満たされてないと笑えないと言い ますけど、その意味で大阪はいい所です。 大阪の人は懐事情に関係なく笑いが好きで よく笑うから。そんな心の余裕とかが今の 時代は特に大事だと思うし、もっとたくさ んの人に笑いを広げて、ちょっとでも笑顔 が増えたらいいなと思っています。病気に なってからそんなふうに考えるようになり ました。 ・芸人さんは人格しか残らへん ふりかえれば多くの人と出会いました。 ほんまの芸人やなと思ったのは月亭可朝さ ん(※10)。あんだけ借金があっても普通 に生きて、しかもすごい優しさを持ってい た。松尾貴史の台本を書いた中島らもさん は人としても考え方もセンスも、僕にとっ て一番不思議な存在でしたね。 マネジメントをした中で印象深いのは秋 田Aスケさん(※11)です。この業界はパ サパサしてるけど人間的に誠実でものすご いやすらぎを感じさせる人で、ホットさん と空気が似ていた。どちらも人に気を遣わ せない思いやりがあり、えらそばったり見 栄をはったりが一切ない。結局、芸人さん は人格しか残らへんの違うかなと思います。 僕は所ジョージさんみたいなキャラク ターが好きなんです。何でも軽く自由に表 現できて嫌味にならず優しさもあって、人 間的に豊かな感じが漂って、ああいう人が もっと出てきたらお笑い界もよくなってい くんちゃうかな。 自分軸を持って、人間性で勝負できるよ うな、そんな芸人。自分軸を持つのは難し いでしょうが、ぶれずに自分のペースで やっていける人の、芸というより持ってる 空気に人は癒されるし惹きつけられる。僕 も視野を広げながら少しでも世の中が面白 くなるようにやっていきたいと思っていま す。 (この談話から約8ヶ月後に亡くなられ、 誠に残念なことでした。やまだ りよこ) 註 ※1 ケーエー・プロダクション:大阪の老舗 芸能プロダクション。松竹芸能文芸部重役 だった漫才作者の秋田實と藤井康民が、阿 倍野に地所を持つ「岸本ビル」と阿倍野再 開発の一環として寄席を作ることで協定、 多くの漫才コンビを擁して1968年に設立さ れた。ケーエーのKは岸本、Aは秋田を表 す。なお、2009年に新体制のもと組織変更 して現在も営業されている。 ※2 海原お浜・小浜:お浜(本名・梅本キ ミコ、1916~1994年、78歳没)・小浜(本 名・田中桃江、1923~2015年、92歳没)。 岡山で叔母のお浜と、姪で少女座長で活躍 していた小浜が1933年にコンビを結成(43 年に改名しこの名に)。戦後、大阪に出て 絶妙のしゃべくりでわかせ、女性漫才の大 看板となる。1978年、サンケイホールでお 浜の引退披露が開催されコンビは終了。弟 子は千里・万里、はるか・かなた、小浜の 孫のやすよ・ともこら。
※3 海原千里・万里:万里(1949年~)と千 里(1955年~)の姉妹漫才コンビとして 1971年にデビュー。歌としゃべくりの巧さ、 ルックスの良さでアイドル的人気を集めた が、77年結婚により引退。千里は後に本名 の上沼恵美子として芸能界に復帰し司会業 などで活躍中。 ※4 トップホットシアター:1969年1月に 開館した大阪・梅田の東宝OMSビル(現 HEP NAVIO隣)内の演芸場。吉本や松 竹芸能と一線を画し、ケーエープロなどの 芸能プロのホームグランドとして多くの漫 才コンビや音楽ショー、落語家らが出演し 幅広い客に人気を集めた。1977年3月閉館。 ※5 秋田實:漫才の父と言われる漫才作者。 本名・林葊次。(1905年~1977年、72歳没)。 1934年に吉本興業文芸部に入社して漫才作 者の道を歩み「家族で楽しめる漫才」をめ ざした。戦後はミヤコ蝶々・南都雄二、夢 路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bス ケ、ミスワカサ・島ひろしら若い才能を育 てた。執筆した漫才台本は約7000本におよ び、放送台本も多数。「笑の会」を主宰す るなど旺盛な活動で漫才を支え続けた。 ※6 横山ホットブラザーズ:横山アキラ(彰、 1932年~)、マコト(誠、1934年~)、セツ オ(節雄、1946年~)の兄弟三人の音楽 ショー。父親の横山東六が戦前に妻らと始 めたファミリーバンドが発展し1952年、横 山ホットブラザーズの名に。メンバーを入 れ替えながら50年代から人気を博し、東六 引退後もアキラの「おまえはあ~ほ~か ~」のノコギリ演奏など、抱腹絶倒のギャ グとにぎやかな音楽で必ずトリをとる大御 所となった。 ※7 若井はんじ・けんじ:はんじ(1933~ 1976年、42歳没)、けんじ(1935~1987年、 52歳没)の兄弟漫才コンビ。少年期より二 人で舞台に立ち、1960年に「若井はんじ・ けんじ」と改名した。テンポのいいスマー トで愉快な掛け合いが人気を呼び、テレビ の「ダイビングクイズ」の司会を務めてお 茶の間にも愛された。得意のギャグ「頭の 先までピーコピコ」はちびっこらも真似を したほど。はんじの早世が惜しまれる。 ※8 二代目露の五郎兵衞:本名・明田川一郎 (1932年~2009年、77歳没)。1947年、二 代目桂春団治に入門して春坊、60年に小春 団治、68年に二代目露乃五郎となり、2005 年に二代目露の五郎兵衛を襲名。旭日小綬 章、紫綬褒章受章。幅広いネタで独特の個 性味を発揮し、怪談噺、芝居噺、艶笑噺も 得意にした。にわかも継承し三代目一輪亭 花咲を名乗った。 ※9 松尾貴史:本名・岸邦浩、1960年~。大 阪芸術大学芸術学部卒業後、キッチュの芸 名でデビュー。中島らも主宰の劇団「リリ パット・アーミー」でも活動、改名後は俳 優、タレント、コラムニストなどさまざま に活躍。 ※10 月亭可朝:本名・鈴木傑、(1938年~ 2018年、80歳没)。1958年、三代目林家染 丸に入門して染奴。破門されて桂米朝の預 かり弟子となり二代目桂小米朝、1968年に 月亭可朝に改名。カンカン帽・チョビひ げ・メガネの特異なスタイルでギターを手 にコミックソング「嘆きのボイン」を大 ヒットさせ落語ブームの火付け役に。破天
荒な話題と事件に事欠かない博打人生を歩 んだが、落語は巧みな話芸と独特の空気感 でうならせた。 ※11 秋田Aスケ:本名・山口敬一、(1922年 ~2015年、93歳没)。戦前に兄弟漫才から スタートするが弟が病死したため1946年に 二代目Bスケとコンビ結成。秋田實の門下 だったことから、秋田を名乗った。猿に似 ていたBスケが「エテ公のBちゃん」と親 しまれ、Aスケ・Bスケは50~60年代にか けて圧倒的人気を博した。二人の弟子に横 山ノック(秋田Kスケとして秋田Oスケと 漫才をしていた)らがいた。 参考文献 ・「放送演芸史」井上宏編(世界思想社) ・「上方芸能」56号、62号(上方芸能編集部) ・「上方演芸大全」(創元社) ・「大阪笑話史」秋田実(編集工房ノア) ・「上方放送お笑い史」読売新聞大阪本社文化 部編 ・「上方落語家名鑑第二版」やまだりよこ(出 版文化社) プロフィール 演芸記者・評論家、元大阪府立上方 演芸資料館主任学芸員。神戸市生ま れ。関西学院大学社会学部卒業。新 聞、雑誌等で演芸評・記事を執筆。 メールマガジン「週刊落maga」を 2003年から編集・発行、2014年から 上方寄席カレンダーブログ「ねたの たね. 2」発行。 著書に「上方落語家名鑑ぷらす上方 噺」「上方落語家名鑑第二版」「桂 三枝論」、共著に「上方演芸大全」 「大阪の教科書」他いろいろ。