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ことばの創造性とレトリックの再生 -カール・ビューラーの言語論が志向したもの-

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はじめに

  西 洋 の 言 語 学 の 成 果 を 歴 史 的 に 網 羅 し た 大 著 ﹃ 言 語 学 ﹄ ︵ 一 九 六 九 ︶ で 、 著 者 の ア ー レ ン ス は 、 二 〇 世 紀 前 半 の ド イ ツ 語 圏 の 言 語 学 の 特 徴 を 次 の よ う に 評 し て い る 。﹁ ド イ ツ 語 圏 で は、古くからの道を型どおりに進むのでないかぎり、言語の研 究はすべて近代的な心理学、すなわち全体心理学、構造心理学、 ゲシュタルト心理学によって規定されている。さらに正確に言 うならば、言語的事象の考察には同じ傾向がはっきりと現れる。 それは心理学やシュペングラーの文化哲学のように統一体・構 造 ・ 形 態 を 把 握 し よ う と す る 傾 向 で あ る ﹂ ︵ 1 ︶ 。 実 際 に ﹁ 言 語 ﹂ と いう全体テーマの下に一九三一年四月にハンブルクで開催され た第十二回ドイツ心理学会において、会議の議長を務めたカー ル・ビューラー ︵ Karl Bühler; 1879-1963 ︶は﹁わたしたちは言 語という単数形の名称が単数の対象、つまり、統一的な研究分 野 、 論 理 的 に 首 尾 一 貫 し た 事 態 を 指 す こ と を 確 信 し て い る ﹂ ︵ 2 ︶ と 述べている。この会議を主催したのは心理学会であったが、異 なる分野の研究者が招待されて多様な立場から報告が行われた のは、言語という対象の総合的な研究を促進することが期待さ れたからであった。そもそもことばをどのように理解し取り扱 うのかという問題、すなわち言語論は、たんに学者の個人的な 考え方ばかりではなく、それぞれの地域の伝統や時代の趨勢と も深くかかわっている。それだけに、そこには地域や時代に特 有の傾向、あるいは同じ言語や文化を共有する社会の世界観も 反映されることが多い。本論で取り上げるビューラーは、会議 に参加したカッシーラー ︵ Ernst Cassirer; 1874-1945 ︶やヴァイ スゲルバー ︵ Leo Weisgerber; 1899-1985 ︶と共に、当時のドイ ツ語圏の言語学の主要な流れをかたちづくっており、なかでも、 徹底してことばの問題と取り組みながら狭い意味での言語学に 限定されないビューラーの研究は、ドイツ語圏の言語研究の一

山取

ことばの創造性とレトリックの再生

カール・ビューラーの言語論が志向したもの

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つの典型的な立場であった。   一般にビューラーの名前は﹃言語理論﹄ ︵一九三四 ︶ ︵ 3 ︶ の著者と して知られる。この本は言語学の専門書であるが、ビューラー の 主 著 と み な さ れ 、 ア ー レ ン ス で も 紹 介 さ れ て お り 、﹁ 古 典 ﹂ という用語を西洋語から入った外来語の﹁クラシック﹂の元の 意味、すなわち﹁規範﹂あるいは﹁規準﹂という意味で用いる ならば、言語学の分野の多くの業績の中でも明らかに古典に数 えられる書物である。ことばに関心を持つ者にとって、この書 物から得られる情報が非常に貴重な示唆に富むものであること は間違いない。しかも、この分野の専門書としては珍しく、著 者の文章の妙味や内容の面白さが読者を惹きつける大きな魅力 であるという点でも、この本は文学や哲学の名作と同様の意味 で古典作品としての価値を持っているように思われる。しかし ビューラーの﹃言語理論﹄は、その古典的価値にもかかわらず、 ソシュール︵ Ferdinand de Saussure; 1857-1913 ︶の﹃一般言 語 学 講 義 ﹄︵ 一 九 一 六 ︶ ︵ 4 ︶ な ど と 比 較 す る と 、 著 者 が 本 来 目 指 し た方向性とはまったく逆に、専門外の読者に十分に知られてい るとは言えない。というのも、ビューラーの場合、大戦前後の 政 治 環 境 の 大 き な 変 化 に と も な う 困 難 に 直 面 し た こ と に よ り 、 過去の伝統から引き受けたものや自ら築き上げたものをそのま ま継続して発展させることができなかったからである。   ア ー レ ン ス の 言 語 学 史 は 、﹁ 古 代 か ら 現 在 に 到 る 言 語 学 の 発 達の歩み﹂という副題が示す通り、言語の思想史を原典からの 引用を中心にして年代順に追っていくという執筆方法を採って お り 、 ビ ュ ー ラ ー に つ い て も 、﹃ 言 語 理 論 ﹄ か ら の 直 接 の 引 用 によって詳しく紹介される。ただ、古典と称されるものに総じ て当てはまることであるが、有名であるが故に却って作品の一 面だけが特に注目されたり、場合によっては誤解されて一般に 流布したりすることが起こる。これを避けるためには、原典を 直接あたることと、できるだけ多くの解説資料を利用すること が最も重要である。その点で、ソシュールの言語論についての 知識は、早くから翻訳があるばかりでなく、数多くの解説書を 手に入れることができるので、専門の研究者ばかりでなく、一 般の読者も含めた周辺のかなり幅広い層にも浸透している。し かし、ビューラーの言語論については、このような条件がほと んど揃っていないので、現在では専門家同士の限られた枠でし か知られていない。ビューラーが行ってきた研究にはどのよう なものがあったのか。とりわけ、言語論としての特徴はどのよ うな点にあるのか。とくに本稿で念頭に置いているのは、きわ めて多彩で広範囲に及ぶビューラーのすべての著作に一貫して 流れている思想を読み解くことである。

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心理学の危機と観点の統一

  ビ ュ ー ラ ー の 主 要 な 著 作 の 一 つ と し て ﹃ 心 理 学 の 危 機 ﹄ ︵ 一 九 二 七 ︶ ︵ 5 ︶ を 挙 げ る こ と が で き る 。 同 時 代 の フ ッ サ ー ル ︵ Edmund Husserl; 1859-1938 ︶にも﹃ヨーロッパ諸学の危機と 超 越 論 的 現 象 学 ﹄︵ 一 九 三 六 ︶ ︵ 6 ︶ と い う 著 作 が あ り 、 タ イ ト ル に ﹁ 危 機 ﹂ を 含 む 本 と し て は 、 む し ろ こ ち ら の 方 が 有 名 だ ろ う 。 これら二冊の本の出版には約十年の時間差があるが、いずれに せよ、どちらも二度の世界大戦の間のいわゆる﹁戦間期﹂に出 版されていることが二冊の書物を結びつける共通の接点である ように思われる。ヨーロッパに未曾有の被害をもたらした第一 次世界大戦は、帝政の終焉とワイマル共和制の成立をもたらし たが、戦後政治の基軸となったデモクラシーは、知的エリート と大衆、有産階級と無産階級、経営者と労働者をはじめとする 社 会 の 各 層 の 間 の 亀 裂 を 大 き く す る 負 の 要 因 と し て も 働 い た 。 政治面においては、排他的な思想が広がることによって不安定 な政治的状況が生み出され、やがて偏狭なナショナリズムへと 繋がる。他方、音楽、美術、演劇、建築などの文化面では、表 現主義、前衛派、バウハウスなどの芸術活動が社会の自由な雰 囲気に押されて燦然と登場するが、やがてそれらも反動化した 大 衆 か ら は 退 廃 的 と し て 攻 撃 の 標 的 に さ れ る 。 ビ ュ ー ラ ー の ﹃ 心 理 学 の 危 機 ﹄ の 初 稿 が ﹁ カ ン ト 研 究 誌 ﹂ に 発 表 さ れ た 一九二七年は、第一次世界大戦が終結してから九年が経過して いたが、その二年後にはあの﹁世界恐慌﹂が勃発し、世界は一 気 に 不 安 定 化 へ と 加 速 す る 。﹁ 危 機 ﹂ と い う こ と ば を 同 じ く す る二つの書物であるが、ビューラーの著書が戦間期の前半に出 版されたものであるのにたいして、フッサールの著書がその末 期に刊行されていることの時間差がきわめて大きいものである ことはもちろんである。しかしそれにもかかわらず、二つの書 物には、たんなるタイトルの類似ばかりではなく、どちらも戦 間期に世に出されたことと関連する幾つかの共通点があるよう に思われる。   フッサールがユダヤ人であるという理由でヒトラー政権の下 での公的活動を一切停止され、亡くなるまでナチスによる迫害 に 苦 し め ら れ た こ と は よ く 知 ら れ て い る 。 こ れ に た い し て 、 ビ ュ ー ラ ー 自 身 は ユ ダ ヤ 系 の 出 自 で は な か っ た 。 し か し 妻 の シャルロッテ︵ Charlotte Bühler; 1893-1974 ︶をはじめとして、 ビューラーの周囲の協力者の中にもユダヤ系の人達が多くいた。 また、当局からの圧力に抵抗して妻シャルロッテとの離婚を断 固として拒否し、ユダヤ系の人々との交流を続けたことなどが 原因となって秘密警察に拘禁され、さらに一九三八年五月から はウィーン大学の職務を停止され、翌年からは年金も取り上げ られることになった。こうして見ると、二冊の書物のタイトル は、出版された時期にずれがあるものの、背景となった時代状

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況ばかりでなく、偶然にも﹁危機﹂というタイトルがそれぞれ の著者が背負う苦難に重ね合わされるということ自体、ある種 の 運 命 的 な も の を 暗 示 し て い る よ う に も 見 え る 。 た だ 、 フ ッ サールの﹃ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学﹄がすでに きわめて深刻な情勢の下で発表されたものであったのにたいし て、ビューラーが﹃心理学の危機﹄を発表した時期は、ナチス が政権の座に就く以前であり、ビューラーの周辺にはまだ研究 の妨げとなる不穏な状況はなく、それどころかビューラーが長 年に亙って取り組んできた研究はいよいよ充実した成果を目前 にしていた。この事情は、本のタイトルに﹁危機﹂という語句 を選んだ理由をビューラー自身が以下のように説明しているこ とから窺うことができる。   今日のようにかくも多くの心理学が併存し、かくも多く の独自の手懸りが同時に集まったことはおそらくかつてな かった。時にはバベルの塔の物語が思い出されることもあ る。しかしこれはバベルの塔の建設のように、傲慢な理念 が様々な考えの人々をしばらくの間一つにまとめ、やがて 再びばらばらにしてしまった場合とも、また、十九世紀の 三分の二が経過した時にヘーゲルの体系が崩壊した場合と も異なる。この発端の時期を記憶に留めるならば、心理学 では、あのまったく冷静で、経験に近く、自然科学的な段 階がその後に続き、そこからようやく今日では広く期待さ れるようになった様々な理念が再び成長したのである。理 念は複数である。というのも、現在は、慌ただしく獲得さ れ、まだ克服されていない夥しい数の新しい考え、新しい 緖 や 研 究 の 可 能 性 が 、 心 理 学 の 危 機 的 状 況 を 招 来 し て し まったからである。すべてが偽りでないとすれば、これは 崩壊ではなく、構築の危機であり、広範な共同作業を行う 準備にともなう﹁豊かさゆえの困窮﹂のようなものである。 用語集を作ることができれば、偉大なものを将来に期待し てもかまわないだろう。危機的な状況は心理学ばかりでな く、他の精神科学や生理学でも同じである 。 ︵7 ︶   心理学の研究分野では、十九世紀末から世紀転換期頃を境と して多くの異なる方法論や考え方が次々と登場する。しかし研 究手段の革新によって研究が促進され、研究領域そのものの拡 大と細分化が進む一方で、各研究領域ならびに研究者同士の交 流が減退するという事態が起きていた。こうして心理学の研究 領域で様々な異なる研究方向が成立し、それらが互いに依存す る こ と な く 歩 も う と す る 傾 向 を ま す ま す 強 め た こ と で 、﹁ 豊 か さゆえの困窮﹂と呼ばれる状況が生まれていたのである。この ﹁危機﹂を克服し、学問分野としての統一性を保ち、 ﹁広範な共 同作業﹂を行うことを可能にするためにはどうすればよいのか。

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ビューラーの関心はこの課題に向けられていた。   も ちろ ん 、 過 去 にこ の よ う な 問 題 意 識 を 誰 一 人 持 たな か っ た と い う わ け で は な い 。﹁ わ た し た ち の 危 機 の 歴 史 を い つ か 執 筆 し よ う と す る 人 が い る な ら ば 、 一 八 九 〇 年 頃の 状 況 を 選 ぶ のが 適 切で あろ う 。と いうの も 、当 時 は 共 通 のプ ロ グ ラ ム と 共 通 の 希 望 の よ う な 何 か が あ っ た か ら だ ﹂ ︵ 8 ︶ 。 こ こ で 指 摘 さ れ る 一 八 九 〇 年 は 、 エ ビ ン グ ハ ウスが 実 験 心 理 学 の た め の 新 し い 雑 誌 ﹃ 心 理 学 お よ び 感 覚 器 官 の 生 理 学 の た め の 雑 誌 ﹄︵ Ze its chrif t für Psycholog ie u nd Ph ysiolog ie der Si nnesorg ane ︶ を 創 刊 し た 年 である。 こ の雑 誌 は、 認 知・ 記 憶 ・ 思 考 ・ そ の 他 様々 な 感 情 な ど の メ カ ニ ズ ム を 科 学 的に 解 明 しよ う とす る研 究 者 たち の 共 通 の 発 表 の 場 と し て 想 定 さ れ 、 生 理 学 者 の ヘ ル ム ホ ル ツ 、 ヘ ー リング 、 フ ォ ン ・ ク リ ー ス 、 エ クスナ ー 、 心 理 学 者 か ら は リ ップス 、 ミ ュ ラ ー 、 シ ュ トゥ ン プ 、 児 童 心 理 学 の プラ イア ー も 企 画に 参 加 し て い た。十 九 世 紀 から 二 〇世 紀 へ の世 紀 転 換 期 は、伝 統 的に 哲 学 の 一 分 野 と し て 位 置 付 け られ て き た 心 理 学 が 哲 学 から公 式 に分 離し、 学 科 と し て の自 立を 模 索した時 期 にあ た る 。 そ こ で伝 統 的 な 哲 学 的 思 考 法 から 新 た に心理 学 を分 ける た め の鍵 と み なされ た の は、 ﹁ 自 然 科 学 ﹂ であ り 、﹁ 実 験 ﹂ と い う 客 観 的 手 法であ っ た 。 おそ らく 、 それが 当 時 の心 理 学に おけ る 様 々 な 研 究 を ま と め る ﹁ 共 通 の プ ロ グ ラ ム ﹂﹁ 共 通 の 希 望 ﹂ と み な さ れ 、 エ ビ ン グ ハ ウ ス の 創 刊 し た 雑 誌 に は 実 験 心 理 学 へ の大 き な 期 待 が 込めら れ て い た 。 しか し 世 紀 転 換 期 以 降 の心 理 学 の 動 向 は 、 そ の よう な 希 望 と は裏 腹 にます ます 混 乱 の様 相 を 強 め る よ う にな る 。 こ の よ う な 危 機 的 状 況 を 打 開 する た め に は 、 心 理 学 の 各 分 野 に 共 通 の ﹁ 公 理 論 ﹂(Axioma tik ) と ﹁ 方 法 論 ﹂ (Met hode) の 確 立 が ど う し て も 必 要 で あ っ た 。﹃ 心 理 学 の 危 機 ﹄ を 出 版 し た 一 九二七 年の 時 点 に お け る 著 者 ビ ュ ー ラ ー の 主 張の 根 拠には、 心 理 学 を 巡る 当 時 の独 特 の 事 情 が 背 景 に あ っ た の で あ る 。   し か し 同 時 に 、﹃ 心 理 学 の 危 機 ﹄ は 、 た ん に 狭 い 意 味 で の 心 理学の方面における様々な動向を整理しようとして執筆された 書物であるばかりではなく、言語の問題を巡るビューラーの研 究の足取りとその後の方向性、さらにビューラーの言語研究の 核心をなす理念を探るのに最も重要な手懸りを提供してくれる 著作であることも見逃せない。ビューラーは第二章﹁心理学の 三つの観点﹂の冒頭で次のように述べている。   心理学はどのようにすれば可能であるか?   もしカント が わ た し た ち の 立 場 で あ れ ば こ の よ う に 問 う こ と だ ろ う 。 実際に、哲学者は、ある時は可能性について、ある時は与 え ら れ た も の の 必 然 性 に つ い て 熟 慮 し な け れ ば な ら な い 。 そしてわたしたちは、わたしたちの公理論とその特徴や射 程 範 囲 を 哲 学 的 に 意 識 し な け れ ば な ら な い 。 必 要 が あ り 、

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またここで追求されるのは、カントの意味での一種の超越 論的演繹である。心理学という一つの学問においては、三 つの観点のいずれも可能であり、いずれも欠かせない。と い う の も 、 学 問 的 認 識 の 完 全 な 体 系 が 成 立 す る た め に は 、 それらのいずれも他の二つを補わなければならないからで ある。それらのいずれからも心理学にとって必要な独自の 課題が生まれるが、それらを破棄すれば、課題は意味を失 うか、解決できなくなるかである。したがって心理学が出 発 す る 対 象 に 数 え ら れ る の は 、 様 々 な 体 験 、 生 物 の 意 味 あ る 行 動 、 そ れ ら と 客 観 的 精 神 の 形 成 体 と の 諸 関 係 で あ る 。 ︵9 ︶   ﹁ 心 理 学 は ど の よ う に す れ ば 可 能 で あ る か ? ﹂ と い う 問 に た い し て 、 ビ ュ ー ラ ー は ﹁ 体 験 ﹂︵ E rleb nis ︶、 ﹁ 行 動 ﹂︵ B ene hm en ︶、 ﹁客観的精神の形成体﹂ ︵ Gebilde des objektiven Geistes ︶から なる﹁三つの観点﹂ ︵ drei Aspekte ︶の考察を区別する。この 場合に﹁体験﹂とは知覚・表象・感情などに基づいて自己観察 によって心理的事象を記述する方法論を指す。ビューラーによ れば、これはデカルト、ロックに始まり、ラーツァルス、シュ タインタール、ヴントを経て、フロイトの精神分析学へと続く 発展の道筋を辿る。次の﹁行動﹂の観点は、主としてアングロ サクソン系の研究者を中心に行動主義の立場から研究を進める 方向を指し、ここでは本能・知性・訓練・学習などの問題に着 目して、動物や人間の行動をできる限り客観的に定義すること に重点が置かれる。三番目の﹁客観的精神の形成体﹂の観点は、 人間によって創造されたものすべてに創造者の精神的特性を見 出 す こ と が で き る と い う 見 方 を 採 り 、 創 造 物 、 す な わ ち ﹁ 作 品 ﹂︵ Werk ︶ を 解 釈 し 、﹁ 構 造 ﹂︵ Struktur ︶ を 解 明 す る の が 課 題である。例えば、ディルタイによる解釈学やヴントの民族心 理学がここに属するとされる。   すでに述べたように、ビューラーがここで﹁危機﹂として意 識している状況は、崩壊の危機ではなく、心理学における研究 領域および方法論の多様化によってもたらされた、様々な可能 性が次々と無秩序に現れることによる拡散への不安に由来する ものであった。ただ、ビューラー以外にも心理学の統一という 考え方が決してなかったわけではない。例えば、ヴントの民族 心理学も、個人心理学の狭い枠内に収まりきらない社会的・文 化的な面を含めようとする試みであった。しかしながら、個人 心理学的観点を基盤とするヴントの心理学は、民族心理学とい う大きな観点を掲げているにもかかわらず、二つの観点を結ぶ 線 と も 言 う べ き 最 小 の 単 位 で あ る 個 と 個 の ﹁ 対 話 ﹂︵ Dialog ︶ に関心を払うことを忘れているという重大な弱点があった。次 の 引 用 が 示 す よ う に 、 ビ ュ ー ラ ー は こ れ を 行 動 主 義 の 心 理 学 、 とくに動物の社会的行動の研究を補うこと﹁三つの観点﹂を統 一できると考えたのである。

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Ⅰ. 純粋な共同体生活が成立するところでは、共同体の成員 の意味ある行動が互いに制御されなければならない。この 制御の焦点が共通の知覚状況に与えられていないところで は、より高度な秩序の接触、つまり特殊な意味論的装置に よってそれが仲介されなければならない。 これは動物と人間における意味論の原点である。 Ⅱ. 共同体の行為に参加する個体の独自の欲求や独自の気分 を互いの制御において認め合うには、それらの情報が遣り 取りされなければならない。 こ れ は 意 味 論 の 領 域 を 体 験 心 理 学 の 観 点 に た い し て 開 き 、 それを要求する。 対 象 や 事 態 に 割 り 当 て ら れ る こ と に よ っ て 、 表 出 記 号 は 新 し い 意 味 の 次 元 を 獲 得 す る 。 こ れに よ り そ れ ら の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 手 段 と し て の 性 能 は 著 し く 増 進 す る 。 ︶10 ︵   こ の 引 用 に は、 ビ ュ ー ラ ー が 言 語 を ど の よ う に 捉 え よ う と し て い た の か を 読 み 解 く 上 で 鍵 と な る 表 現 が 幾 つ か 見 出 せ る。 特 に 注 目 す べ き は ﹁ 意 味 論 ﹂︵ Sema nti k ︶ と ﹁ 制 御 ﹂︵ St eu er ung ︶ と い う 用 語 で あ る 。 ビ ュ ー ラ ー は ﹃ 心 理 学 の 危 機 ﹄ で ﹁ 意 味 論 ﹂ と い う 語 を 他 の 語 句 と の 組 み 合 わ せ で 何 度 か 用 い て い る 。 例 え ば 、﹁ 意 味 論 の 一 つ の 起 源 論 ﹂︵ ei ne Ur sp ru ng st heor ie der Sema nti k ︶、﹁ ミ ツ バ チ の 意 味 論 ﹂︵ Sema nti k der B ie ne n ︶、﹁ 社 会 生 活 の 構 成 要 因 と し て の 意 味 論 ﹂︵ Se m ant ik a ls kons tit uiv er Fa ktor des Gemei nsc ha ftsle be ns な ど の 表 現 で あ る 。 こ れ ら の 言 い 回 し か ら 判 断 す る と 、 こ こ で ビ ュ ー ラ ー が 念 頭 に 描 い て い る ﹁ 意 味 論 ﹂は 語 義 を 取 り 扱 う 言 語 学 の 一 部 門 の こ と で はな い 。ビ ュ ー ラ ー の言 う ﹁ 意 味 論 ﹂ と は、 む し ろ 行 動 主 義 的 観 点 に 基 づ く 一 種の 機 能 的 概 念 で あ り 、生 物 一 般 に お け る 広 い 意 味 で の 社 会 的 行 動 を 包 括 する と 共 に 、 人 間 に よ る高 度 な 表 現 行 動 や 伝 達 行 動 に も 適 用さ れ る 。 ま た 、 そ れら の 行 動 に 社 会 的 意 味 を 持 た せ る の が ﹁ 制 御 ﹂ の 概 念 で あ る 。 下 等 な 単 細 胞 生 物 から 人 間 に到る あ ら ゆ る生 物 の 社 会 的 行 動 、 す なわ ち 生 物 同 士 が 互 い に コ ン ト ロ ー ル し 合 う こ と か ら 成 り 立 つ ﹁ 相 互 制 御 ﹂ ︵ ge gens eit ig e Ste ue rung ︶ は 、 そ れ を 支 え る た め の 意 味 論 的 装 置 と 呼 ぶ べ き ある 種 の体 系 的 秩 序 を 必 要 と す る 。 つ ま り 、 それ ぞ れ の 個 体 は、 そ の 秩 序 に 従 っ て 一 定の 意 味 論 的 情 報 を 読 み 取 り 、 互 い の 行 動 を 決 定 す る の で あ る 。   ただし、この意味論的装置にはレベルの区別があり、ビュー ラ ー は こ の 次 元 を 三 つ の 段 階 に 分 け る 。 つ ま り 、﹁ 制 御 ﹂ の レ ベルを心理学における﹁三つの観点﹂に対応させているのであ る 。 第 一 の 次 元 は 、 記 号 の ﹁ 送 り 手 ﹂︵ Zeichengeber ︶ と ﹁ 受 け 手 ﹂︵ Zeichenempfänger ︶ と の 間 で 行 わ れ る ﹁ 相 互 制 御 ﹂ の 目標が両者に共通の知覚状況に具体的に存在するときの意味論 的行動である。これは行動を外的知覚のレベルで捉えようとす

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る行動主義心理学の観点に対応する。第二の次元では、個体の 独自の欲求や気持ちなどの内的知覚がかかわるので、体験心理 学による考察が方法論として要求される。最後の第三の次元で は、意図される制御の目標が何らかの仕方で﹁送り手﹂と﹁受 け手﹂に共通する知覚領域を超越しており、高度な秩序が媒介 装置として働くことによって交流が実現される。ここでビュー ラ ー が 描 い て い る 言 語 モ デ ル は 、﹃ 一 般 言 語 学 講 義 ﹄ で ソ シ ュ ー ル が 想 定 す る ﹁ 記 号 学 ﹂︵ sémiologie ︶、 つ ま り ﹁ 社 会 生 活 の さ な か に お け る 記 号 の 生 を 研 究 す る よ う な 科 学 ﹂ ︶11 ︵ の 提 案 に 由来する。ただし、ソシュールとビューラーの言語観は、人間 の言語がある社会の成員間で通用している記号的秩序に基づく という点では一致するが、両者には考え方の違いが幾つか見出 せることも看過できない。最も大きな相違点は、ソシュールで は 言 語 の 社 会 的 制 度 と し て の 一 面 が 強 調 さ れ る の に た い し て 、 ビューラーでは記号の意味論的機能が現象学的な仕方で捉えら れていることである。ソシュールでは、言語の社会的・慣習的 性 格 を 前 面 に 打 ち 出 す た め に 、﹁ ラ ン グ ﹂ が 個 人 に 依 存 し な い ことが強調されるが、ビューラーでは、記号間の差異や記号の 体系よりも、むしろ記号の意味作用の解明に主眼が置かれてい る。この点で、ビューラーの言語論は心理学者としての立場か ら見た言語の発達と運用面の実際が何よりも考察の中心に据え られていることが大きな特徴と言える。

  ﹃

  ビューラーの﹃言語理論﹄は、緒言と目次および巻末の索引 を含めると、総計四五〇頁の大著であるが、全体の構成は三つ の部分に分けることができる。まず、巻頭の緒言と目次に続く 序 章 ﹁ 言 語 理 論 の 昨 日 と 今 日 ﹂、 次 に 第 一 章 ﹁ 言 語 研 究 の 諸 原 理﹂ 、それから第二章﹁言語の指示場と指示語﹂ 、第三章﹁言語 の 象 徴 場 と 命 名 語 ﹂、 第 四 章 ﹁ 人 間 の 話 の 構 成 ﹂ と 続 く 本 論 で あ る 。 序 章 で 論 じ ら れ る の は 、 主 と し て パ ウ ル ︵ Hermann Paul; 1846-1921 ︶ の ﹃ 言 語 史 原 理 ﹄︵ 一 八 八 六 ︶ ︶12︵ 、 ソ シ ュ ー ル の ﹃ 一 般 言 語 学 講 義 ﹄、 そ し て フ ッ サ ー ル の ﹃ 論 理 学 研 究 ﹄ ︵ 一 九 〇 〇 / 〇 一 ︶ ︶13︵ を 手 懸 り に し た 、 十 九 世 紀 後 半 か ら 二 〇 世 紀前半にかけての言語研究の歴史的流れであり、これによって ビ ュ ー ラ ー 自 身 の ﹃ 言 語 理 論 ﹄ の 位 置 づ け が 明 ら か に さ れ る 。 それによると、パウルの﹃言語史原理﹄は、言語研究を科学の 体 系 的 世 界 の 中 に 位 置 づ け 、 言 語 研 究 が ﹁ 文 化 科 学 ﹂ ︵ Kulturwissenschaft ︶ の 一 つ で な け れ ば な ら な い と い う 大 前 提から出発する。パウルが言う﹁文化科学﹂とは対象を客観的 に分析する自然科学の方法を心理的な方面に適用することを想 定している。つまり﹃言語史原理﹄というタイトルには、言語 の研究は言語の歴史的事実の本質を見極めることを目的とする 精密科学でなければならないという著者の信念が込められてい

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る の で あ る 。 パ ウ ル は ﹁ 文 化 科 学 は つ ね に 社 会 科 学 で も あ る 。 社会があってはじめて文化が成立し、社会があってはじめて人 間 は 歴 史 的 存 在 に な る ﹂ ︶14︵ と 述 べ る が 、 人 間 の 文 化 と 社 会 を 成 立 させる言語は、自然科学と同じ原理に則って解明できるとも主 張する。ビューラーは﹁パウルの諸原理はたしかに十九世紀の 言 語 研 究 が よ く 整 理 さ れ た 成 果 に 富 ん だ 優 れ た 教 科 書 で あ る ﹂ ︶15 ︵ と 述 べ て 、 パ ウ ル の ﹃ 言 語 史 原 理 ﹄ の 意 義 を 認 め る 。 し か し ﹁ 言 語 研 究 を 物 理 学 と 心 理 学 に 同 時 に 還 元 す る と 、 言 語 研 究 に あ る 種 の 故 郷 喪 失 が 招 来 さ れ る ﹂ ︶16 ︵ こ と へ の 教 訓 を 読 み 取 る こ と も で き る と も 指 摘 す る 。 パ ウ ル の ﹃ 言 語 史 原 理 ﹄ は 、 歴 史 主 義・科学主義と呼ばれる十九世紀の言語学の成果を代表する書 物として、精密で客観的な方法論の意義を強調するが、それに 固執するあまりに言語研究の原理を言語以外のものに求めてし まう。パウルの﹃言語史原理﹄が抱えるこのような自家撞着か ら見れば、ソシュールの﹃一般言語学講義﹄の先駆性は明らか であった。   しかし、この本はたんに一つの点であり、想像力豊かな 一人の男の研究室で書かれた下書きの一つにすぎない。た しかに、死後に一冊の本に整理された講義は、なおも苦闘 を続ける偉大な形成者の未完の草稿による案内のようなも の で あ っ た に 違 い な い 。[ 中 略 ] 批 判 し な け れ ば な ら な い のは残念であるが、しかし、これは、ソシュールが時代の 子として道の途上にあって、十九世紀の一面的な素材思考 から脱却し、一緒に考える者が回顧と展望を行うのに最適 の 位 置 を 差 し 出 し て い る か ら で あ る 。[ 中 略 ] ソ シ ュ ー ル は、同時代の言語理論家、つまり、成果を上げた練達の士 の繊細な方法論と結果を誤解してしまった素材思考家の過 ち を 予 感 し て い る ば か り で は な く 、 そ こ か ら の 逃 げ 道 を 知っており、まさに好機にそれを挙げているのである。ソ シ ュ ー ル は 、 言 語 学 が 一 般 記 号 学 の 中 心 を か た ち づ く り 、 ここに故郷を持つこと、したがって他の学問に逃げ場を求 められないことを知っていた。ただ、ソシュールは、この 救済の着想から、すでに言語学の最初のデータの中に物理 学・生理学・心理学ではなく、まさに言語学の資料がある こ と を あ っ さ り と 説 明 す る た め の 力 を 得 る こ と が で き な かった 。 ︶17 ︵   ソシュールの﹃一般言語学講義﹄は、本人の手によって書か れたものではなく、講義を聴講した学生のノートを基に同僚た ちが編纂したものである。このような特殊な経緯からして、こ の書物はたしかに﹁未完の草稿による案内﹂に過ぎなかったが、 そこには明らかに新しい時代を切り開く﹁偉大な形成者﹂の苦 闘と豊かな想像力が見出せる。この書物のおかげで、ソシュー

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ルはその後に﹁構造主義言語学﹂や﹁記号学﹂の発展を用意し た近代言語学の創始者として評価され、その思想が言語学全体 あるいは言語学以外の他分野にも歴史的な影響を与えたことは 事実である。ビューラーの﹃言語理論﹄もたしかにソシュール か ら の 影 響 を 抜 き に は 成 立 し な か っ た 。 た だ し 、 決 し て ソ シュールの学説が唯一の下敷きになっているというわけではな く 、 む し ろ ビ ュ ー ラ ー は 、﹃ 一 般 言 語 学 講 義 ﹄ が 前 世 紀 の 言 語 学の拠り所である文献学的方法論の枠内で構想された未完成の 書物であることを十分に承知した上で、自らの言語論の基本的 理念を新たにまとめようとしたのである。しかもソシュールの ﹃一般言語学講義﹄を強く意識して、 ﹃言語理論﹄はまさしくタ イトルが示す通り、言語資料の収集に終始せず、それらの背景 にある原理の追求を徹底して主 題にした書物と言える。   ﹃ 言 語 理 論 ﹄ の 第 一 章 ﹁ 言 語 研 究 の 諸 原 理 ﹂ は 、 以 上 に 述 べ た よ う に 、 主 と して パ ウ ル 、 ソ シ ュ ー ル 、 フ ッ サ ー ル の 先 行 研 究 を 土 台 に し な が ら ビ ュ ー ラ ー 自 身 の 言 語 観 を 織 り 交 ぜ て 、 A ・ B ・ C ・ D か ら 成 る 四 つ の ﹁ 公 理 ﹂︵ A xiom ︶ を 言 語 研 究 の た め に 整 理 し て 示 し た も の で あ る 。 そ れ に よ る と 、 公 理 A は ﹁ オ ル ガ ノ ン モ デ ル ﹂︵ O rg anon m od ell ︶18 ︵ の 記述 で 始 ま る 。 図 は 中 央 の 三角 形 の 部 分 が 言 語 記 号 を 表 し 、 想 定 さ れ た 発 話 の 場 面 で 言 語 記 号 が 果 た す 三 重 の 機 能 を 具 体 的 に 示 す 。 言 語 記 号 の 意 味 論 的 機 能 は 、﹁ 対 象 お よ び 事 態 ﹂︵ G eg en st änd e und S ac hve rh alt e ︶ と の 関 係 で は ﹁ 叙 述 あ る い は 描 写 ﹂︵ D ars te llu ng ︶、 記 号 の ﹁ 送 り 手 ﹂ と ﹁ 受 け 手 ﹂ と の 関 係で は ﹁ 表 出 ﹂︵ A us dr uck ︶ と ﹁ 訴 え ﹂︵ App el l ︶ と し て 区 別 さ れ 、 記 号 そ の も の も 、 こ れ ら の 三 つ の 意 味 機 能 に 即 し て ﹁ 象 徴 ﹂︵ Symb ol ︶・ 徴 候 ﹂︵ Symp to m ︶・ ﹁ 信 号 ﹂︵ Si gna l ︶ と し て 分 類 さ れ る 。   公 理 B は 言 語 の 記 号 性 の 原 理 を 説 明 す る 項 目 で 、﹁ 何 か が 何 かあるものを代理する﹂ ︵ aliquid stat pro aliquo ︶という文言 から出発した。つまりビューラーによれば、記号の本質は何か あるものが他の何かの代理として機能することにある。例えば、 具体的な音声あるいは文字では、音の波動や光の波長がそれ自 体とは異なる何かを代理する。ただ、この場合に見逃せないこ とは、波動や波長という物理的現象が全体として記号の役割を 果 た す の で は な く 、 そ れ ら の 現 象 に 含 ま れ る ﹁ 有 意 味 な ﹂ ︵ relevant ︶ な 要 因 が ﹁ 無 意 味 な ﹂︵ irrelevant ︶ な 要 因 か ら 選 び出されてはじめて記号が記号として機能するという点である。 ビ ュ ー ラ ー は こ れ を ﹁ 抽 象 的 重 要 性 の 原 理 ﹂︵ Prinzip der abstrakten Relevanz ︶と呼び、 ﹁オルガノンモデル﹂では中央

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の円がこれを表示する。したがってこの原理は記号の三重の意 味機能のいずれにも関係するものとして想定される。   公 理 C で は 、 言 語 の 現 象 形 式 と そ の 研 究 分 野 に つ い て 、﹁ 発 話 行 動 ﹂︵ Sprechhandlung ︶・ ﹁ 発 話 行 為 ﹂︵ Sprechakt ︶・ ﹁ 言 語 作 品 ﹂︵ Sprachwerk ︶・﹁ 言 語 形 成 体 ﹂︵ Sprachgebilde ︶ か ら 成 る 四 区 分 が 提 案 さ れ る 。 ︶19︵ こ の 区 分 は 本 来 ソ シ ュ ー ル に よ る ﹁ ラ ン グ ﹂︵ la n g u e ︶・ パ ロ ー ル ﹂︵ p ar ol e ︶・ ラ ン ガ ー ジ ュ ﹂ ︵ langage ︶ の 区 別 に 由 来 す る が 、 ビ ュ ー ラ ー に お い て は 、 主 体 性の程度︵ 主体的現象   非主体的あるいは間主体的現 象︶と形式化の程度︵1形式化の低い段階   2形式化の高 い段階︶によって四つに分類される。また、ソシュールでは言 語 学 の 対 象 と し て ﹁ ラ ン グ ﹂ が ﹁ パ ロ ー ル ﹂ に 優 先 さ れ る が 、 ビューラーでは四つの存在形式のそれぞれが相互に線で繋がれ ているように、言語研究の対象領域としてのそれぞれの領域の 価 値 は 原 理 的 に は 対 等 で あ り 、 そ れ ら の 相 互 関 係 の 方 が む し ろ 重 要 で あ る 。 例 え ば 、﹁ 発 話 行 動 ﹂ は ﹁ パ ロ ー ル ﹂ に 対 応 す る も の と 考 え ら れ る が 、 こ と わ ざ や 決 ま り 文 句 あ る い は 文 学 作 品 な ど の よ う に 、 本 来 は 個 々 の 具 体 的 な 場 面 で 行 わ れ た 個 人 の ﹁ 言 語 行 動 ﹂ で あ っ た も の が 個 人 の 手 を 離 れ て 社 会 的 に 認 知 さ れ る と 、﹁ 言 語 作品﹂として取り扱われる。また、間主体的で抽象的現象とし て規定される﹁言語形成体﹂は、ソシュールの﹁ラング﹂に対 応すると考えられるが、主体的で抽象的現象として規定される ﹁ 言 語 行 為 ﹂ は 、 本 来 フ ッ サ ー ル が ﹃ 論 理 学 研 究 ﹄ で 提 起 し た 純 粋 文 法 の 考 え 方 を 適 用 し た も の で あ る 。 例 え ば 、das Pferd というドイツ語の語句は、実際の﹁発話行動﹂では﹁馬﹂とい う 意 味 を 保 持 し な が ら 、﹁ 発 話 行 為 ﹂ の レ ベ ル に お い て あ る 時 は ﹁ 馬 一 般 ﹂ を 意 味 し 、 あ る 時 に は 特 定 の ﹁ そ の 馬 ﹂ を 指 す 。 様々な語句や文法形式の一つの具体的な意味は、このように類 型としての語彙的意味と主体による意味付与の行為が実際の言 語運用で結合することによってはじめて実現する。このような 意味論的現象の根底にある原理は、従来の経験的な言語研究で は 自 明 の も の と し て 敢 え て ほ と ん ど 追 求 さ れ な か っ た 。﹃ 論 理 学研究﹄におけるフッサールの説明は非常に一般的な形ではあ るが、ビューラーはフッサールが想定した形式的・論理的法則 を言語における意味生成のメカニズムを具体的に説明するモデ ルに適応できると考えたのである。   公理Dは言語記号が﹁対象や事態﹂をどのように描き出すか という問題とかかわる。ビューラーによれば、記号体系として の人間の言語の最大の特徴は﹁叙述﹂の機能が発達したことで あ り 、 こ れ は 基 本 的 に ﹁ 語 ﹂︵ W ort ︶ と ﹁ 文 ﹂︵ Sa tz ︶ か ら 成 る二つの﹁言語形成体﹂が織りなす協働のメカニズムによって

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支 え ら れ る 。 こ の 場 合 、 言 語 記 号 と し て の ﹁ 語 ﹂ は ﹁ 指 示 語 ﹂ ︵ Zeigwort ︶ あ る い は ﹁ 命 名 語 ﹂︵ Nennwort ︶ と し て ﹁ 場 ﹂ ︵ Umfeld ︶ と 呼 ば れ る 具 体 的 状 況 や コ ン テ ク ス ト と 共 に 特 定 の 意味を生成する。ビューラーの﹃言語理論﹄には﹁言語の叙述 機 能 ﹂ と い う 副 題 が 付 い て お り 、﹃ 言 語 理 論 ﹄ の 主 要 な 部 分 で ある第二章以下の各章は、公理Dの原理に基づいて人間の言語 における﹁叙述﹂のメカニズムをさらに詳細に分析することを 主題にしている。したがって公理Dは﹃言語理論﹄の本論に関 係する最も基本的な原理でもある。   ﹁ 言 語 研 究 の 諸 原 理 ﹂ に つ い て は も う 一 つ 指 摘 し て お か な け れ ば な ら な い 事 実 が あ る 。 そ れ は 公 理 論 の 修 正 に 関 係 す る 。 ﹁ オ ル ガ ノ ン モ デ ル ﹂ な ど か ら 構 成 さ れ る 諸 原 理 が 最 初 に 発 表 されたのは、一九三一年のドイツ心理学会であるが、この時の 報 告 は 後 に 整 理 さ れ て ﹃ カ ン ト 研 究 ﹄ 誌 の 第 三 八 巻 ︵ 一 九 三 三 ︶ に ﹁ 言 語 学 の 公 理 論 ﹂ ︵ Axiomatik der Sprachwissenschaften ︶ ︶20︵ と し て 掲 載 さ れ た 。 さ ら に 公 理 論 は 内 容と構成を大幅に修正した上で、翌年の﹃言語理論﹄に﹁言語 研究の諸原理﹂として収められる。その間の修正は特に次の三 点 に 関 係 し て い る 。 そ の 第 一 点 目 は 公 理 の 順 序 の 変 更 で あ る 。 ﹃カント研究﹄に発表された公理論では、 ﹃言語理論﹄の公理に 即 し て 対 応 さ せ れ ば 、 四 つ の 公 理 の 順 序 が B ・ C ・ D ・ A と な っ て お り 、﹁ オ ル ガ ノ ン モ デ ル ﹂ は 最 後 に 配 置 さ れ て い た 。 第 二 点 目 は 公 理 C に お け る 言 語 の 現 象 形 式 の 区 別 が ﹁ 四 場 図 式 ﹂︵ Vierfelderschema ︶ に 改 め ら れ た こ と で あ る 。 つ ま り 、 公 理 論 で は ソ シ ュ ー ル の ﹁ ラ ン グ ﹂ と ﹁ パ ロ ー ル ﹂ の 区 別 に 倣って﹁言語形成体﹂と﹁発話行為﹂の二つに区別されていた だけであったが、 ﹃言語理論﹄では﹁発話行為﹂と﹁言語作品﹂ が加えられている。そして第三点目としては記号の﹁表出﹂機 能についての説明が大幅に削除されていることが挙げられる。   これらの修正点からは、おそらく以下の背景があったことが 読 み 取 れ る の で は な い だ ろ う か 。 第 一 点 目 の 修 正 、 す な わ ち ﹁ オ ル ガ ノ ン モ デ ル ﹂ を 最 初 に 出 す こ と か ら は 、 記 号 の 概 念 そ のものよりも記号の意味論的機能の多様性の方を強く印象づけ る効果が期待できる。これはソシュールのように言語を一つの 体系として捉えるよりも、社会的交流の場における記号の意味 機能の過程として動的に捉えることを重視して、ビューラー自 身の言語観を鮮明にすることを意図した修正と考えられる。し たがって﹁公理﹂Cの修正も﹁オルガノンモデル﹂の前面化と 密接に関係するだろう。というのは、そもそも記号の語彙的あ るいは類型的意味は、具体的な発話状況や文脈において話し手 がどのような意図をもってことばを用いるかによってはじめて 厳密に規定できる。また、文学作品などの理解には作者ばかり でなく読者の立場を考慮することも欠かせない。この点で﹁オ ルガノンモデル﹂は記号の意味機能を﹁対象と事態﹂ ﹁送り手﹂

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﹁ 受 け 手 ﹂ と い う 相 互 の 関 係 性 の 中 で 捉 え よ う と し た も の で あ り 、 フ ッ サ ー ル に よ る ﹁ 意 味 付 与 ﹂︵ Sinnverleihung ︶ の 概 念 を 取 り 入 れ た ﹁ 発 話 行 為 ﹂ と い う 捉 え 方 、 あ る い は ﹁ 言 語 作 品 ﹂ に お け る 言 語 理 解 の 間 主 体 的 な 側 面 を 説 明 す る に は 、﹁ オ ルガノンモデル﹂によって記号の意味機能の多面性をはっきり と示すことがきわめて有効であると考えられるからである。ま た 、 第 三 の 修 正 点 、﹁ 表 出 ﹂ の 記 述 の 削 減 は 、﹃ 言 語 理 論 ﹄ が ﹁ 言 語 の 叙 述 機 能 ﹂ を 主 題 に し た 本 で あ る と い う 編 集 上 の 問 題 と関係する。ビューラーは﹃カント研究﹄誌に﹁言語学の公理 論 ﹂ を 発 表 し た 同 年 に ﹃ 表 出 理 論 ﹄︵ 一 九 三 三 ︶ ︶21︵ を 刊 行 し て お り、ここでは﹁表出﹂の研究を歴史的に概観するという試みを 行 な っ て い る 。﹃ 言 語 理 論 ﹄ で ﹁ 表 出 ﹂ の 説 明 が 削 減 さ れ た の も、おそらく他の著作を含めた編集上の基本方針によるもので あり、これは﹁叙述﹂と﹁表出﹂を分けて扱うという、ビュー ラーの言語観の原則に沿った修正でもあった。

叙述論と表出論の分離と再編

  実際の発話の場面を想定して言語記号を多面的に捉える﹁オ ル ガ ノ ン モ デ ル ﹂ は 、﹃ 言 語 理 論 ﹄ に 紹 介 さ れ て 知 ら れ る よ う に な っ た が 、 こ の よ う な 言 語 の 機 能 の 多 重 性 へ の 注 目 は 、 一九一八年に発表された文の定義に関する論文にまで遡る。こ の論文におけるビューラーの立場は、人間の言語を表出運動の 一 つ と 見 な し た ヴ ン ト の 考 え を 退 け 、﹁ 叙 述 ﹂ の 機 能 こ そ が 人 間の言語の最も重要な特質であるという主張であった。ただし、 ビューラーとヴントとの間の見解の相違は、言語の発達につい ての古くからの考え方とも無関係ではない。例えば、進化論学 者ダーウィンは、解剖学・生理学・言語学・心理学などの諸観 点から集めた資料に基づいて、顔の表情などの様々な感情の表 出運動について考察を行い、その観察結果を一冊の本に整理し て い る 。 ま た 、 ヘ ル ダ ー の ﹃ 言 語 起 源 論 ﹄︵ 一 七 七 〇 ︶ ︶22︵ は 人 間 の言語が自然界を音で模倣することによって独自の発達を歩み 始めたことに着目した。そもそも﹁叙述﹂を重視するか、それ と も ﹁ 表 出 ﹂ か と い う 、 二 つ の 伝 統 的 な 言 語 観 の 相 違 は 、 ビューラーとヴントばかりでなく、言語研究の原理を巡っての パウルとソシュールの立場の違いにも重ねることができるだろ う。言語を生理的および医学的観点から見るヴントは、音声言 語も表情や身振りとともに表現運動として捉える。このように ﹁表出﹂を規準とする一元論的な立場を取るヴントにたいして、 ﹁ 叙 述 ﹂ の 機 能 を 発 達 さ せ た こ と が 人 間 の 言 語 の 最 大 の 特 質 で あ る と 考 え る ビ ュ ー ラ ー に と っ て 、 た と え ﹁ 叙 述 ﹂ と ﹁ 表 出 ﹂ の両方を共に考察に含めても、それぞれを切り離して扱うこと は言語観の相違にかかわる基本的な問題であった。   じつは、人間の言語を動物の言語と分かつのは﹁叙述﹂の面

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であるという見解の裏付けとなったのは、心理学者として子供 の言語の発達をつぶさに観察することで得られた経験であった。 ビューラーによれば、人間の子供は生まれてほぼ三ヶ月経つ頃 から何か舌足らずのお喋りのような動作を始める。これは本能 的なもので、その後、子供は上機嫌の時などに絶えず発声器官 を働かせ、偶然の変異を繰り返しながら、次第にたくさんの音 声 の 素 材 と そ れ ら の コ ン ビ ネ ー シ ョ ン を 覚 え 、 や が て ﹁ マ ン マ﹂などの様々な喃語が形成される。これらは子供の成長にと も な っ て 徐 々 に ﹁ 名 称 ﹂︵ Name ︶ と ﹁ 対 象 ﹂︵ Gegenstand ︶、 さ ら に ﹁ 命 題 文 ﹂︵ Aussagesatz ︶ と ﹁ 事 態 ﹂︵ Sachverhalt ︶ を 結び付ける組み合わせへと変化する。これらのことばは﹁叫び 声のように最初からある特定の表出的価値があって、それと共 に変動するようなものではなく、自由で、その後の更なる発達 を手に入れることができる﹂という特性を持ち、また、痛みや 怒りにともなう叫びのように、音声を人間の生きた感情や情緒 な ど に 結 び 付 け る 自 然 な 因 果 関 係 に 還 元 で き る わ け で は な く 、 たんに数字の組み合わせのような恣意的な関係にしか還元でき ないという性質を持つ。ビューラーは、人間の乳幼児の言語に のみ見られるこのような機能を﹁叙述﹂という用語で捉えよう としたのである。例えば、気圧計の変動やアマガエルの鳴き声 な ど の 現 象 は 、 嵐 が 近 づ い て い る こ と を 知 ら せ る ﹁ 徴 候 ﹂ ︵ Anzeichen ︶ と み な さ れ る 。 こ れ に 対 し て 、 ま っ た く 同 じ 形 のボールを区別する場合、対象そのものには他のものと区別す るための特徴がないので、a・b・c・dなどの目印を付けて 整理しなければならない。前者の﹁徴候﹂では記号として機能 する現象と記号が指示するものとの間には自然な関係が感じ取 ら れ る が 、 後 者 の ﹁ 整 理 記 号 ﹂︵ Ordnungszeichen ︶ で は 、 対 象に人為的に付加された目印によって秩序が生まれ、その秩序 が 慣 習 と し て 固 定 さ れ る こ と に よ っ て 記 号 体 系 が 成 立 す る 。 ﹁ オ ル ガ ノ ン モ デ ル ﹂ の 最 大 の 特 徴 は 、 こ の よ う な 二 種 類 の 記 号の働きを一つの図に両方とも織り込んでいることである。図 では、記号が﹁送り手﹂および﹁受け手﹂との関連で何らかの も の を ﹁ 表 示 す る ﹂︵ an ze ig en と 考 え て 、 記 号 に よ る こ の よ うな働きを﹁表出﹂および﹁訴え﹂と呼び、実線で表されるが、 そ れ と 区 別 す る た め に ﹁ 対 象 お よ び 事 態 ﹂ を ﹁ 叙 述 す る ﹂ ︵ darstellen ︶働きは点線で表される 。 ︶23 ︵   さらに、言語による﹁叙述﹂の機能は現象学的・発達論的な 観 点 か ら ﹁ 指 示 ﹂︵ Zeigen ︶ と ﹁ 象 徴 化 ﹂︵ Symbolisieren ︶ と いう二つの集合に分けられる。言い換えれば、言語による﹁叙 述 ﹂ は 、 指 示 語 と 命 名 語 あ る い は 概 念 語 が ﹁ 場 ﹂ と の 相 関 に よ っ て 生 み 出 す 意 味 論 的 な プ ロ セ ス と し て 理 解 さ れ る 。﹃ 言 語 理 論 ﹄ の 第 二 章 と 第 三 章 に お い て そ れ ぞ れ ﹁ 指 示 場 と 指 示 語 ﹂ と﹁象徴場と命名語﹂の問題が取り扱われるのは、この分類に 従 っ て い る の で あ る 。 ビ ュ ー ラ ー に よ れ ば 、﹁ 指 示 ﹂ に は す べ

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て 基 本 的 に ﹁ こ こ ︲ 今 ︲ わ た し ﹂︵ hie r-j et zt -ic h ︶ と い う 直 観 的秩序が根底にあるが、どのような﹁場﹂と関係するかという 観点からさらに三種類に区別できる。第一の区分は、指示され る 何 ら か の ﹁ 対 象 お よ び 事 態 ﹂ が 記 号 の ﹁ 送 り 手 ﹂ と ﹁ 受 け 手﹂が共有する視界の内に具体的に知覚できる場合であり、こ れは﹁明視的指示﹂ ︵ Demonstratio ad oculos ︶と呼ばれる。 第 二 の 区 分 は 、﹁ 想 定 上 の 対 象 指 示 ﹂ と 呼 ば れ 、 第 一 の 区 分 と は逆に﹁眼前にはない記憶の世界、あるいは想像によって作り 出される世界に語り手が聞き手を導いて、そこで同じような指 示 語 に よ っ て 見 た り 聞 い た り す る よ う に 仕 向 け ら れ る ﹂。 こ れ はもちろん日常の言語使用にもしばしば現れるが、とりわけ文 学や演劇などではこの指示を利用して作品の枠組みがかたちづ くられる。例えば、叙事詩や小説などでは読者の視点が物語の 主人公と共に想定された時空上の特定の﹁場﹂へと運ばれ、ま た、演劇では舞台上の役者が実際には眼前に存在しないものを 観 衆 の 目 の 前 に 現 前 さ せ 、 そ こ で 仮 想 の 出 来 事 を 体 験 さ せ る 。 次 の 第 三 の 区 分 は ﹁ 反 復 指 示 ﹂︵ Anaphora ︶ と 呼 ば れ る 。 本 来 、 これは修辞学の用語であり、同一の語を反復して用いることで 何らかの文体的効果を得ることであるが、ここでは話し手が代 名詞や接続詞などの指示語を用いて談話の一部を指示し、それ らが接合語として働くことでテキストを束ねることを意味する。   続 く 第 三 章 で は 、﹁ 象 徴 場 ﹂︵ Symbolfeld ︶ も 同 じ よ う に 三 種 類に区分される。例えば、日常生活の様々な場面では、文の断 片だけでも状況の助けがあれば十分に遣り取りが成立すること が よ く あ り 、 こ の よ う な 状 況 は ﹁ 実 践 的 な 場 ﹂︵ em pr akti sch es Feld ︶と呼ばれる。また、様々な商品に印刷された商標、道標 に書かれた地名、書物のタイトルなどのように、命名されてい るものにしっかりと結びついた名称があり、これらは﹁癒合的 な場﹂ ︵ symphisisches Feld ︶と呼ばれる。 ﹁象徴場﹂における 三つ目の区分は、言語による﹁叙述﹂にとって最も重要と考え られる﹁共義的な場﹂ ︵ synsemantisches Feld ︶である。これ は一般的には文脈を意味するが、ビューラーはここに二つの要 因 を 区 別 す る 。 例 え ば 、﹁ 図 書 館 ﹂ と い う 語 で あ れ ば 、﹁ 本 ﹂ ﹁建物﹂ ﹁大学﹂などのように、個々の語がすべて何らかの他の 語を連想させる。ビューラーはこのような連想関係を﹁素材補 助 ﹂︵ Stoffhilfe ︶ と し て テ キ ス ト を 構 成 す る 重 要 な 要 因 と 考 え る 。﹁ 共 義 的 な 場 ﹂ を 形 成 す る も う 一 つ の 要 因 は 品 詞 で あ る 。 具体的に言うと、ある特定の品詞に属する単語は、他の特定の 品 詞 に よ っ て 埋 め ら れ な け れ ば な ら な い ﹁ 空 所 ﹂︵ Leerstelle ︶ を周りに持っており、これもまとまりのあるテキストを作り上 げ る た め の 基 本 的 な 指 示 を 与 え る と 考 え ら れ る 。 こ の よ う に ﹁ 命 名 語 ﹂ あ る い は ﹁ 概 念 語 ﹂ も 、 実 際 に 何 ら か の 意 味 を 生 み 出すためには﹁指示語﹂と同様に必ず﹁場﹂の存在を前提とす る 。 つ ま り 、﹁ 言 語 に よ る 叙 述 は 、 意 味 の 不 確 定 性 と い う 遊 び

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の 部 分 を あ ら ゆ る 場 合 に 残 し 、[ 中 略 ] 自 然 言 語 は 高 度 に 多 義 的な象徴記号を操作し、それらの意味を事実の側から精密化し た り 、 変 容 さ せ た り す る こ と を 期 待 し て い る ﹂ ︶24 ︵ の で あ る 。 自 然 言語におけるこのような特質は、たとえ科学的な著作であろう とすべてに当てはまるものであり、日常言語や詩的言語ではこ の傾向はさらに強くなると考えられる。このようにビューラー の﹃言語理論﹄は﹁叙述﹂のメカニズムを分析して明らかにす ることを主題にしており、これは﹁対象や事態﹂を描き出す働 きを発達させたこと、すなわち音声を用いて想像の赴くままに 事柄を自由に描く能力を獲得したことが人間の言語の最大の特 徴であるとするビューラーの主張に沿っている。また、この点 は、ソシュールが十九世紀の﹁素材思考﹂から脱却し、言語学 に﹁一般記号学﹂の中心としての位置を求めたことと密接に関 わっている。   しかし、すでに述べたように、ビューラーの言語論が狭い意 味での言語学を超えている理由は、身振りや表情などの音声言 語 以 外 の こ と ば の 研 究 を 取 り 上 げ る こ と に よ っ て 、﹁ 表 出 ﹂ 面 に も 目 を 向 け て い る こ と で あ る 。﹃ 言 語 理 論 ﹄ の 前 年 に 出 版 さ れた﹃表出理論﹄は、全体が二四四頁で出来ており、一〇章か ら成る本文の他に緒言・目次・索引と、巻末にローマ時代の弁 論術の理論家クィンティリアヌスの﹃表情術と身振りの弁論術 的使用﹄のドイツ語訳が掲載されている。本文の構成は、第一 章 ﹁ 表 出 論 の 歴 史 的 展 望 ﹂、 第 二 章 ﹁ 相 貌 学 ﹂︵ Physi ognomik ︶ と ﹁ 感 情 相 貌 学 ﹂︵ Pathognomik ︶、 第 三 章 か ら 一 〇 章 ま で は 十八世紀から二〇世紀までの表出研究を個々の研究家の業績を 中心に追っていく。ビューラーによれば、表出研究の古典的な 例 証 は ア リ ス ト テ レ ス の も の と し て 断 片 的 に 伝 え ら れ て い る ﹁ 観 相 学 ﹂︵ Physiognomica ︶ に つ い て の 記 述 に 遡 る こ と が で き る。アリストテレスの観相学は非常に幅広い範囲を扱っており、 動物と人間の形態的比較、諸国民の様相と性格の差異、個々人 における様々な感情の変化という三つの分野から成立し、後世 の 表 出 研 究 の 基 本 的 な 方 向 の ほ と ん ど を 含 ん で い る 。 ビ ュ ー ラーの﹃表出理論﹄には﹁歴史に現れた体系﹂という副題が添 えられており、十八世紀以降の近代的な表出研究を詳しく分析 して紹介することで表出研究独特の体系性を明らかにし、叙述 研究との違いを鮮明にしようという意図があった。それによる と近代の表出研究には三つの波が確認できる。第一の波の頂点 は一八〇〇年頃にあり、ゲーテ、ラーヴァーター、リヒテンベ ルクの名前が挙げられる。ラーヴァーターにとって観相学は人 間の内面を外見から推論するための学問であったが、ゲーテの 観相学は人間と自然との関係を科学的に究明しようとした﹁形 態 論 ﹂︵ Morphologie ︶ の 発 端 で あ り 、 作 家 ゲ ー テ に と っ て は 人間を取り巻く周囲のあらゆる条件や状況から人間という存在 を解明し、芸術家として人間を描き出すための方法論の一つで

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あった。ただ、両者の観相学では体型や容貌などの静的な要因 と動作や表情などの変動する要因がはっきりと区別されていな かったが、リヒテンベルクがこれらを﹁相貌学﹂と﹁感情相貌 学﹂の二つの分野に分けたのである。   ビューラーの﹃表出理論﹄で第一の波として特に取り上げら れ る 表 出 研 究 家 は 、 エ ン ゲ ル ︵ Johann Jacob Engel; 1741-1802 ︶とベル︵ Charles Bell; 1774-1842 ︶の二人である。エン ゲルは演劇研究家で、舞台上の俳優の演技を観察して﹃表情術 の 諸 理 念 ﹄︵ 一 七 八 五 / 八 六 ︶ ︶25︵ を 執 筆 し た 人 物 で あ る 。 し た が っ て 、 こ の 本 は 俳 優 の た め の 教 科 書 と し て 書 か れ た も の で あったが、ビューラーは﹁感情相貌学の分野での最初の近代的 な体系化の試みであり、エンゲルの作品を研究せずに十九世紀 の 表 出 論 の 歴 史 を 知 り 、 理 解 す る こ と は で き な い ﹂ ︶26 ︵ と 述 べ て 、 この書物に高い評価を与える。その最も大きな理由は、エンゲ ルが身振りや表情にも音声言語と同様の機能的な区別があるこ とに気づいていた点である。例えば、エンゲルは、人間の言語 に﹁対象の観念を伝える働き﹂と﹁対象によって心がどのよう に動かされるかを伝える働き﹂の二つの側面を認め、身振りに もこれらに対応する﹁描写的身振り﹂ ︵ malende Gebärden ︶ま たは﹁模写的身振り﹂ ︵ nachbildende Gebärden ︶と、 ﹁表出的 身 振 り ﹂︵ ausdrückende Gebärden ︶ を 区 別 す る 。 さ ら に 、 ビューラーが音声言語に﹁命名語﹂と﹁指示語﹂を区別したよ う に 、 エ ン ゲ ル は ﹁ 描 写 的 身 振 り ﹂ に ﹁ 指 示 的 身 振 り ﹂ ︵ hinweisende Gebärden ︶を加えている。ビューラーは、エン ゲルの表出研究を﹁身振り術の行動理論﹂ ︵ Aktionstheorie der Pantomimik ︶ と 呼 び 、 身 振 り に 伝 達 手 段 と し て の 社 会 的 機 能 を認め、身振りに伴う様々な徴候を行動理論の観点から考察し ている点に先駆的価値を見出す。   エンゲルと同時代のもう一人の表出研究家ベルはイギリス人 の医者である。ベルは優れた比較解剖学者であったが、同時に 芸術にも造詣が深く、出版の準備のためにイタリアへ研究旅行 に 出 か け た ほ ど で あ り 、﹃ 美 術 に つ な が る も の と し て の 表 出 と 解 剖 学 と 哲 学 ﹄︵ 一 八 〇 六 ︶ ︶27︵ と い う 著 書 の タ イ ト ル が そ れ を 物 語 っ て い る 。 ビ ュ ー ラ ー に よ れ ば 、﹁ ベ ル は 近 代 的 な 生 物 学 的 医学から生れた考察法によって表出研究を豊かにした最初の人 物 で あ る ﹂ ︶28 ︵ 。 ベ ル は 、 種 々 の 生 活 条 件 が 求 め る 異 な る 身 体 的 機 能を解剖学的資料と付き合わせることによって、中枢神経の機 能 を ﹁ 感 覚 ・ 運 動 に 関 係 す る 基 本 体 系 ﹂﹁ 分 泌 ・ 分 解 な ど を 統 一 す る 共 感 体 系 ﹂﹁ 呼 吸 ・ 循 環 を 統 制 す る 呼 吸 体 系 ﹂ の 三 つ の 領域に整理する。これら三つの領域において、ベルが表出研究 で最も注目するのは呼吸的体系である。つまり、ベルは、顔の 表情と音声言語が並行現象であると考えて、表情に関係する身 体諸器官が解剖学的・生理学的には発声器官と同様に呼吸に重 ねられた器官であるとみなしたのである。ベルの考察の特色は、

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医学および解剖学の知識を基礎にしながら、顔の表情を現象学 的・機能的に分析していることであるが、残念ながら、これら の 近 代 的 な 視 点 は そ の 後 長 い 間 正 当 な 評 価 を 受 け る こ と は な かった。   続 く 第 二 の 波 は 、 ピ ー デ リ ー ト ︵ Theodor Piderit; 1826-1912 ︶ の ﹃ 表 情 術 と 相 貌 学 ﹄︵ 一 八 五 八 ︶ ︶29︵ に 始 ま り 、 ダ ー ウ ィ ン︵ Charles Darwin; 1809-1882 ︶の﹃人間と動物の情動の表 現 ﹄︵ 一 八 七 二 ︶ ︶30︵ が 出 版 さ れ る ま で の 期 間 で あ る 。 ピ ー デ リ ー トは、医者で優秀な素描家でもあったという点でベルに比較で き る が 、﹁ エ ン ゲ ル の 行 動 主 義 的 な 分 析 の 糸 を 再 び 取 り 上 げ 、 エンゲルが身振り的事実のみを理解させようとした行動の端緒 の 理 念 を 一 般 化 し た ﹂ ︶31︵ と い う 意 味 で 、 エ ン ゲ ル の 後 継 者 で あ っ た 。 ピ ー デ リ ー ト は 、 エ ン ゲ ル が ﹁ 生 理 的 身 振 り ﹂ ︵ physiologische Gebärden ︶と呼んだ未解決の領域を医学の知 識に基づいて考察し、目・口・鼻の周囲の表情を形成する筋肉 を全体的に行動の徴候として捉えようとしたのである。ピーデ リートが目指したのは、表情的現象の諸要因の辞書を作成する ことであったが、ビューラーが注目するのは、個々の表情的徴 候の目録ばかりでなく、それらが現れる脈絡にも配慮されてい ることである。つまり、ピーデリートの辞書では、音声言語の 単語の辞書と同じように、ある種の表情的徴候の意味が生理学 的根拠によって説明されるばかりでなく、特定の脈絡との協調 関 係 か ら も 解 釈 さ れ て お り 、 こ の 点 は 、﹁ 記 号 ﹂ と ﹁ 場 ﹂ と の 相関関係から言語の意味機能を説明しようとする、ビューラー の﹃言語理論﹄の考え方に非常に似ている。   一般に、ダーウィンの名前は進化論の提唱者としての名声に 結びつく。しかし、ビューラーは、ダーウィンの表出研究の書 を﹁動物的なものに依存すると同時に、際立った人間性を表出 に 基 づ い て 証 明 し よ う と す る 試 み で あ る ﹂ ︶32 ︵ と 評 価 す る 。 ビ ュ ー ラーによれば、ダーウィンは﹁表出についての章で素朴な目で 見ることのできたもの、一度は見なければならないものを、彼 ほ ど 巧 み に 観 察 し 、 記 述 し た 人 は い な い ﹂ ︶33 ︵ 。 天 才 的 な 収 集 家 の ダーウィンは、動物の表出を詳しく観察したばかりでなく、外 地の宣教師や教師に向けて行った質問への回答に基づいて、全 世 界 の 人 間 の 表 出 を く ま な く 資 料 と し て 収 集 し た の で あ っ た 。 しかしダーウィンは、表出運動を保存された習慣とみなしたこ とに典型的に示されるように、理論的には素朴な歴史主義に囚 われていたために、生物学的に無用とみなされた表出の多くが、 社会的な要求にとっては決して意味がないわけではないという 事実に気づかなかった。つまり、ダーウィンは、表出現象を発 生学的に追求することには成功したが、身振りが社会的役割を 担っているという、表出の記号学的原理に合理的な説明を与え ることができなかったのである。   表 出 研 究 の 第 三 の 波 は 、 ヴ ン ト ︵ W ilh elm Wu ndt; 1 83 2-19 20 ︶

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に よ る 研 究 で あ る 。 一 九 〇 〇 年 に 出 版 さ れ た ﹃ 民 族 心 理 学 ﹄ ︶34 ︵ 全一〇巻の最初の二巻は、副題が﹁言語﹂となっている。ヴン トは﹁あらゆる言語は、音声の表出であれ、感覚的に知覚でき るその他の記号であれ、筋肉の作用によって産出されて、内的 な 状 態 、 種 々 の 観 念 、 感 情 、 情 動 を 外 部 へ 表 明 す る た め に あ る ﹂ ︶35︵ と 定 義 す る 。 つ ま り 、 ヴ ン ト に と っ て 、 言 語 と は 基 本 的 に ﹁ 表 出 運 動 ﹂︵ Ausdrucksbewegungen ︶ で あ り 、 音 声 言 語 は 、 観念を伝達するという点では特殊な位置を占めるものではあっ ても、身振りや表情などと切り離されるべきものではなく、共 通の基盤によって連続したものと考えられたのである。ビュー ラーは、ヴントの研究を﹁貯水槽のように二つあるいは三つの 歴史的な流れを統一し、それらの融合を完全には達成していな い ﹂ ︶36︵ と 評 す る 。 ヴ ン ト の 研 究 は 、 た し か に 、 エ ン ゲ ル や ベ ル な どの過去の研究を取り上げて整理することで、血液の循環と呼 吸という生命にとって最も重要な部分の内的役割、顔の表情を 形成する運動器官とそれらから生じる様々な徴候を扱う表情術、 腕・脚・胴体の骨格筋肉に結びついた身振り術という、三つの 領域に整然と区別されている。しかし、ヴントは、身体と精神 の 間 の 関 係 を 数 量 的 に 検 証 し よ う と す る ﹁ 精 神 物 理 学 ﹂ ︵ Pyschophysik ︶ の 立 場 を 重 視 す る あ ま り に 、﹁ 表 出 ﹂ と い う 一 面 か ら の み 人 間 の こ と ば を 捉 え よ う と し た た め に 、﹁ 叙 述 ﹂ の 機 能 の 優 位 性 を 十 分 に 説 明 で き な く な る と い う 矛 盾 に 陥 る 。 この点で、ビューラーが﹁叙述﹂と﹁表出﹂を扱う書物を別々 に書いたことは、ビューラーの言語論全般の思想を読み解くう えで非常に重要である。   指示と象徴化の協働は発話の遣り取りにおける人間特有 のものである。ただ付け加えておかねばならないのは、こ の人間特有のものがいたるところで、動物にも観察される 多 く の 原 始 的 な も の に 支 え ら れ て い る と い う こ と で あ る 。 この原始的なものは人間の心のレベルでも失われない。表 出と表出への心理的共鳴、これはあらゆる社会的動物の基 本的な装置である。動物の社会生活における意味ある行動 の相互統制はこのようにして行われ、この基本的装置は音 声言語の領域でも決して欠くことはない。否、それは発話 す る 人 間 に お い て も 基 本 的 な 装 置 で あ り 、 心 の コ ミ ュ ニ ケーションの基本的なシグナルである。わたしが描いた人 間 特 有 の も の 、 指 示 と 象 徴 化 は た ん に 上 部 構 造 に す ぎ な い 。 ︶37 ︵   ﹁オルガノンモデル﹂はたしかに実際の発話における﹁叙述﹂ のメカニズムをきわめて分かりやすい仕方で示してくれる。だ が 、 先 に も 述 べ た よ う に 、﹁ オ ル ガ ノ ン モ デ ル ﹂ に は ﹁ 表 出 ﹂ や﹁訴え﹂の機能が同時に明示されていることや、 ﹃言語理論﹄

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と ﹃ 表 出 理 論 ﹄ と い う 二 つ の 書 物 に よ っ て ﹁ 叙 述 ﹂ と ﹁ 表 出 ﹂ の 問 題 が 共 に 取 り 上 げ ら れ て い る こ と も 重 要 で あ る 。﹁ 叙 述 ﹂ の機能が発達したことはたしかに人間の言語の大きな特徴であ る。しかしそれと同時に、記号による意味生産の原点がすでに 人間以外の動物にも見られる生物学的な意味での社会性と切り 離 せ な い こ と も 決 し て 看 過 で き な い 。﹃ 表 出 理 論 ﹄ で 紹 介 さ れ る身振りや表情の研究史からは、それらが旧来の意味での言語 学の研究とは異なる、ことばの新たな研究分野がかたちづくら れていることが分かる。この点から見るならば、人間の言語が たんに﹁叙述﹂の機能を著しく洗練させたことによる創造的側 面 の 優 勢 ば か り で な く 、﹁ 叙 述 ﹂ と ﹁ 表 出 ﹂ の 両 面 を 共 に 高 度 に発達させた事実に注目していることにも、ビューラーの言語 論 の 独 自 性 が あ る と 言 う べ き か も し れ な い 。 実 際 に 、﹁ 叙 述 機 能 の 優 位 性 を 言 語 理 論 に と っ て 実 り あ る も の に す る た め に は 、 ま ず 包 括 的 な 比 較 を や っ て み る 勇 気 が 示 さ れ な け れ ば な ら な い ﹂ ︶38︵ と 述 べ て い る よ う に 、 ビ ュ ー ラ ー は ﹁ 表 出 ﹂ を 正 確 に 知 る ことによってはじめて﹁叙述﹂の意味もより深く理解できると 考えたのであった。

おわりに

  心理学者として出発した初期のビューラーは、キュルペを中 心とするヴュルツブルク学派を構成した研究者の一人として位 置づけられる。そのビューラーの心理学における立場と貢献を 語 る 上 で 最 も 重 要 な 業 績 と し て 、﹃ 思 考 過 程 の 心 理 学 に 関 す る 諸 事 実 と 問 題 ﹄︵ 一 九 〇 七 ︶ ︶39︵ が あ る 。 こ の 論 文 は 判 断 ・ 理 解 ・ 記憶などの様々な思考過程で発生する現象を、従来の心理学の 定義を批判する立場から考察したもので、ビューラーのこの論 文そのものがヴュルツブルク学派の最も重要な業績であり、ま た、実験心理学の重鎮ヴントとの論争のきっかけとなった研究 としても知られる。従来の心理学への批判は主として次の二つ の点に向けられていた。第一に、生理学および物理学に基づく 仮説によって心理現象を定義しようとする方向の誤りを明らか にすること、第二に、研究者個人の内省に頼って心理現象を説 明 し よ う と す る 個 人 心 理 学 の 方 法 論 を 克 服 す る こ と で あ っ た 。 第一の問題点に関して、ビューラーの考え方に直接の影響を及 ぼしたのはフッサールである。フッサールが﹃論理学研究﹄で 展開した﹁超越論的方法﹂ ︵ transzendentale Methode ︶は、思 考を個々の表象群の総和あるいは個々の表象群に分解し、心理 現象を単純な再生産の繰り返しとして理解しようとする、従来 の ﹁ 連 合 の 原 理 ﹂︵ Assoziationsprinzip ︶ に 基 づ く 解 釈 に 疑 問 を投げかけた。ビューラーはフッサールに倣って心理現象を一 つ の ﹁ 行 為 ﹂︵ Akt ︶ あ る い は ﹁ 意 図 ﹂︵ Wille ︶ と の 関 連 に お い て 捉 え 、 全 体 の ﹁ 意 味 ﹂︵ Sinn ︶、 さ ら に ﹁ 意 味 の 脈 絡 ﹂

参照

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