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大乗唯識思想の成立 -- ツォンカパ所引の『中辺分別論』所説を通じて --

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Academic year: 2021

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仏陀以来の仏教思想の展開としてそれぞれの時代にもたらされた言教は、それぞれの時代社会に繰り広げられた仏 教思想領域を如実に示している。初期大乗仏教の時代においてもそのことは大乗諸経典の上に窺われると共に、また ナーガールジュナ、アーリャデーヴァ、アサンガ、ヴァスバンドゥなどの伝えられる著作においても顕著なものが知 られる。それら経典と諭書とはその性格を異にするとは言え、それらの大乗諸経典はもとより、それぞれの諭書が著 作せられてきた動向としては、その時代における仏陀の本意としての仏教開顕という仏道に集約できるのではないか と思われる。また、特に諭書においては、合理的批判精神でもって伝統的な言教の言葉を超えてでも仏陀精神の核心 に直参せんとした求道の跡が窺われることでもある。唯識思想もかかる動向の上に窮められていると言えよう。 ところで、チベットにおける仏教の伝承にあって、西暦十四・五世紀に在世した仏教者ツォンカパ︵宗喀巴・房8 厘秒恩︾属望︲巨尼︶の偉業もまた、単にチ蕊ヘット仏教内にとどまるものではなく、広く大乗仏教思想史の上からも仏 教展開の核心に呼応せるものがあると言えよう。因に、その偉業は、ツォンカ・︿を祖師とするゲルク。︿なる黄帽派仏

大乗唯識思想の成立

Iツォンヵ。︿所引の﹁中辺分別論﹄所説を通じてI

片野道雄

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教教団を中心としたその後のチペット仏教者に多大な影響を与えていることによっても推察されるが、また、代表的 な著作の一つである大乗仏教概論﹃了義未了義論〃善説心髄〃﹄︵○国己zom曾倫L官民]白駕迫冒閾目冒冒.認鼠 冒ごozoの.自︼亀︶においてもその時代社会を背景とした著者独自の仏教学の取り組みを通じて窺われるのである。 直前に述べ↑るツォンカ・︿の著書名の上に﹁了義・未了義﹂という言葉が用いられ一ているのであるが、シ|オンヵ。︿の、 まさしくその了義未了義という言葉にういて了解しているところとしては、 言教の示されるままにその意味を別様に導くことができなく、意味が確定している︵鯉1菌︲己冨菌︶という点で了 義︵昌菌︲働旦盲︶、また、示されるままにその意味が考えられることは不適当であってへその深意を解説して他の 意味に導く必要があること、或いは、言葉通りに考えてよいとしても、それのみでは究極的な真実ではなく、そ れ以外に更にそれの真実性が求められるべきであるから、その意味が導かれるべきもの︵胃昏“︲ロ①菌ぐ息︶である 点より未了義︵国①樹︲胃昏騨︶である。 ① という説明文の上に見ることができる。かかわる了義未了義という視点から論究されようとするツォンカパのこの著 作の趣意は、冒頭の造論の詩頌において端的に表明しているかと思われる。すなわち、 多くの教誠を聞き、理証上の正しい方法についても多くの労によっていて、現観の徳の聚をもって劣ることがな い多くの人々が、更に努力しても未だ理解されていない、その︹大乗仏教の了義未了義の︺根拠が、︵第七偶︶ 師なる文殊の御恩によってよく見られる。よって、殊に慈愛の思いから︹それについて︺私は述べる。︹仏陀︺ ② 所説の真実を理解するという思察をもって無比なる説明を望む人々は敬うて聞きなさい。︵第八偶︶ と述べてい それら それら︹了義未了義の︺ ③ よっては不可能である。 マ︵︾Oと︲一、声仁、 二つの判断も亦、これは未了義である、これは了義である、と説かれている聖教のみに ワー

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その意味を決定的なものにする証明としての理証によって、よく思惟されている方︹すなわち、ナーガールジュ ナ、アサンガ、ヴァスゞハンドゥなど偉大な学轍︺にしたがって、︹大乗仏教の︺密意を探究すべきであるから、 ③ 最終的には汚れを離れる道理性をもつ↑て︹その了義未了義性が︺判断なされるべきである。 とも述べているように、この著作の序文から窺われる了義未了義論は、単に仏陀以来の言教を並列的に掲げて、それ らの優劣を論ずるという性格のものではなく、初期大乗仏教者がそうであったように、ツォンカ・︿も、ツォンカ。︿の その時代の仏教思想領域にあって、改めて、ナーガールジュナ、アサンガーヴァスゞハンドゥの両思想を講究するこ とを通じて、、大乗仏教の開顕を志向しているものと考えられる。 さて、ツォンヵ・︿の﹃了義未了義論﹄はそのような志向に基づいて大乗中観、並びに大乗唯識の両思想の了義性が 論究されようとしているのであるが、大乗唯識仏教の了義性を考察するに当ってはツォンカ・︿は、主に﹃解深密経﹄ ④ の三性三無自性に関わる経文を教証としている。それらの経文によって了義未了義として安立される方軌としては、 言教について、諸存在のそれ自身独自の固有の本質的な特質あるものとして成り立つものと、成り立たないものとが 善分別され、あるがままの如性において実在性の有、無が誤認されることなく正しく了知されるかどうかによるので ある、として、即ち、三時の転法輪の所説にそれについての視点がおかれていると言えよう。ことにツォンカ。︿は とし内従って言教の、 ﹃解深密教﹄ 私の密意にして甚深なる教説が如実に了知されないでその教法を信頼している。然もこれらすべてのものは正さ に無自性であり、不生であり、不滅であり、本来寂静であり、自性浬藥であるという教えの意味を言葉通りにば かり執着している。彼等はそのことによって、すべてのものについて無という見解や無相という見解に至ること になる。“無という見解、無相という見解に至って、更にすべてのものにおけるあらゆる相を損減し、諸存在にっ 、即ち、 所説の、

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⑤ に言及しているように、大乗唯識の了義性は三性説に基づく大乗の無自性・般若空なる教法の密意の開顕に視点がお かれようとしている。。然るに、無自性・般若空義が顕わなるものとなるところには、無なるものを有と誤認したり、 或いは、実在なるものを無と誤認するという増益と損減との二つの極端な一辺倒なる誤認が善分別されることにもな るとして、ツォンカパのこの﹃了義未了義論﹄における大乗唯識の了義性の解明としては、具体的にはその増益と損 減との両極端な誤認の仕方を吟味検討することに主眼がおかれて、特に、﹃礒伽師地論﹄の﹁菩薩地﹂や﹁摂決択分﹂、 ﹃大乗荘厳経論﹄、﹃中辺分別論﹂を基本的な論書として順次章節を改めて取り上げ、それぞれの諭書に基づいて論究 が進められているのである。 ﹁﹁中辺分別論﹄の中に説かれる仕方﹂という章節の許に掲げている﹃中辺分別論﹄の詩頌としては、 第一偶及び第二偶をもって代表せしめている。この章節の冒頭に次のように述べている。 等にとっては︷ るといわれる。 等にとっては実に遍計所執なる存在相をも損減するからである。それ故に、彼等は三種の存在相をともに損減す されることになるであろう。それについて、凡そ依他起なる存在相と円成実なる存在相とにおいて無相を見る彼 勝義生よ、何となれば、依他起の特質と円成実の特質とが実在するのであるならば、遍計所執の特質もまた了知 起︶の特質を、そして、完成されたもの︵円成実︶の特質をも損減するのである。それはどうしてかと云えば、 いての構想分別されたもの︵遍計所執︶の特質をも損減し、諸存在についての他なる条件に依存するもの︵依他 偶及び第二偶をもって代圭 ﹃中辺︹分別論︺﹄の中に 虚妄なる分別はある。そ︸ 三三 桑 、 ー 廷 ’一 V ー 一つのものは存在しない。しかし、そこ︹すなわち虚妄なる分別のなか︺に空性が 第一章相品の 4

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︲存在し、その︹空性の︺なかにまた、かれ︹すなわち虚妄なる分別︺が存在する。 ゞそれゆえに、す尋へてのものは空でもなく、空でないのでもないといわれる。それは有であるから、また無である から、さらにまた有であるからである。そしてそれが中道である。 ⑦ と説かれている。初めの詩頌によって空性の相が、第二︹偶︺によってそれこそが中道として示された。 これら二つの詩頌については既に先覚によって、第一章相品の中枢であるばかりでなく、全論の基調となるもので ある、とせられているのであるが、ツォンカパにとっても、正さしくそのような﹃中辺分別論﹄に対する了解がその 背景にあったものと思われる。ツォンカ。︿はそれらの詩頌の許の長行に基づき、第一偶は空性思想を、第二偶は中道 思想を表明するものであるとする。そのことは仏教伝統の主要な課題である両思想の上に大乗唯識の了義性が究明さ れるものであることを内意しているのであろう。更に続いてツォンヵ。︿は、その第一偶について、 そこで、ある場所にあるものがないとき、前者︹すなわちある場所︺は後者︹すなわちあるもの︺としては空で ある、︹というように︺また、︹空であると否定された後にも︺なお︹否定されえないで︺何らか余ったものが ここにあるならば、それこそは今や実在なのである、というように、有、無を如実なるままに知るのが、空性へ の顛倒なき悟入として説かれている。従ってこ︹の第一偶︺はそれ︹空性への正しい悟入︺を示さんがために空 ⑧ 性が明らかに述べられたのである。 と説明している。このような了解は、﹃中辺分別論﹄相品第一偶下の二つの説明文からなる長行の中、後半の説明文 に基づいている。第一偶の許の長行の後半の説明文の中に見られる引用の言葉については既に近年先覚によって、’一 カーャなど原始仏典に求められることが指摘され、更には大乗琉伽唯識思想の上にまで展開してきた様相が詳しく究 ⑨ 明されているのであるが、ツォンカ・︿は、原始仏典以来の伝承という点には特に言及することなく、長行及びスティ ラマティの註釈に基づいて第一偶の解明がなされている。

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ツォンヵパによって改めて確認されているところとしては、第一偶は、大乗の基本として展開する、大乗至極とし ての空性への顛倒なき悟入のために、空性の正しい相がきわめて簡潔な詩頌によって了義なる様相をもって示されて いるとするのであって、第一偶下のその長行は空性への顛倒なき悟入を述べるものであり、第一偶は史さしく、有無 を如実なるままに知るという菩薩の実践を通じて、空性の正しい相が表明されているものとせられる。ツォンカ。︿は 更にその第一偶及び長行について説明を加えている。長行において﹁ある場所にあるものがない﹂というその、 ある場所とは、空の事体であり、それは虚妄なる分別であり、すなわち依他起である。あるものがない、といわ れる無ということは所取能取なる別個の二つの実体︹について︺であり、すなわち遍計所執である。︹従って第 一偶のb句にいう︺そこに︹二つのものは︺存在しない、とは、前者なるか︹の依他起︺が後者なるこ︹の遍計 所執︺として空であると述べているのである。それ︹遍計所執にして二として構想分別されたもの︺がないとき、 そ︹の否定された︺場所に余れるもの、即ち残されたその実在なるものは何であるか、と考えるならば、︹第一 偶a句にいう︺虚妄なる分別はある、といわれ、また、第三句︹の、しかしそこに空性が存在し︺は依他起と円 ⑩ 成実との二つ︹が実在︺であると述べているのであり、第四句はある別の疑いを断つのである。 と述べて、また、スティラマティの註釈に基づいてこの第一偶について論究している。 その註釈に見られる四種の解説の中、ツォンカパは第一番目の解説にもとづいて、︲即ち、すべてのものは兎角のよ うに自性が全くないと考える損減論を遮するために第一句が、又、︲虚妄なる分別の実在をいう場合、経の中に、すべ てのものは空である、と説かれるものと矛盾するのではないか、という疑いを断つために第二句が、そして、第一句 第二句が示されてくるとき、空性は無となるであろう、という疑いに対して第三句が、しかも、二としての空が虚妄 なる分別においていつもあるならば、何故に空ということが常に了解されていないか、という疑いを除くために第四 句がおかれている、と説く解説によっている。 6

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また、第二偶についてもその許の長行及びスティラマティの註釈に基づいて述べているのであるが、それについて、 ﹁空でもない﹂は円成実に対して、﹁空でないのでもない﹂は依他起と遍計所執について述べるものであるという一 類の解釈、或いは、虚妄なる分別と空とを別個のものとして解釈することはヴァスバンドゥなどの考え方に反するも のでもあると述べ、また、スティラマティが説明する﹁迦葉品﹂の中道思想所説について、他の中観派の人々の考え るように、﹃中辺分別論﹄より﹁迦葉品﹂が勝れていると考えるとしても、唯識のこの筋道こそ中道の意味を開顕す るものであり、唯識の方軌による限り、それら二つは同義となされるべきであるとも言及している。 後のチ、ヘットにおける註釈吉にはこの第一偶について、第一句は初転法輪を、第二句は第二時転法輪を、第三第四 句によって最後の転法輪を示すものであるという理解も見られるが、そのような理解が如何なる唯識学の伝承による か、その事情は詳らかでない。 ﹃中辺分別論﹄相品第一偶の許の長行に見られるニカーャ以来の所説は既に先覚の指摘する通り﹃瑞伽師地論﹄の ﹁菩薩地﹂の中にも知られる。ツォンカ・︿によってもその所説は、この﹃了義未了義論﹄の本章の冒頭において論究 する﹁菩薩地に説かれる仕方﹂という条項下で、重要視して適用されている・・ シオン・ハカは﹁菩薩地真実品﹂第四に相当する個所における、空性を悪取する損減という誤認の仕方を述べる文章 ⑪ を引用し、更に空性をよく理解する行き方として次のように述べている。 前者︹プドガラを見解とする者︺は知るべきものに対してただ迷妄のみにあるが、すべての知るべきものを損減 していなく、それがもとで地獄に生まれることなく、しかも法を求める他の人に対して偽ることがない。学習す る事柄についても無頓着とならない。けれども、後者︹の空を悪く取らえる者︺はそれら︹プドガラを見解とす 一一一

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と杢辿べ、 以上の如くであるから、凡そある場所にあるものが無いとき、前者︹すなわちある場所︺は後者︹すなわちある もの︺として空であり、︹空であると否定された後にもなお否定されえないで何らか︺余ったものが実在する、 とこのように見る者は空性に顛倒なく悟入するのである。 といって、﹁菩薩地﹂の所説が適用されている。そして、更にその個所に続く﹁菩薩地﹂の所説にもとづき、 色などの︹構想される︺事体がそれらなるものとして言葉によって概念の設定された自体としては空である、と いうのは︹直前に述べる︺前半の言葉︹すなわち、凡そある場所にあるものが無いとき、前者すなわちある場所 は後者すなわちあるものとして空である、という言葉︺の意味であり、︹空であると否定された後にもなお︺余っ たものが実在するというのは、概念の設定の根拠であるただ事体なるもののみ︵く閉目白弾﹄︲四︶やただ概念の設定の み︵冒旦目目日脚目︶は有る、というように﹁菩薩地﹂の中に説かれている。従って、凡そあるものが空であると いうのは遍計所執をいうのであり、その空の事体は依他起であり、前者︹すなわち遍計所執︺として後者︹すな わち依地起︺が空であるという、その空が円成実である。それら︹三性という点から︺の有、無の意味は先に説 明した如くである。以上のように、無なるものを有と誤認する増益の極端なるものが断ぜられるのが有の辺︹が 断ぜられるのであり︺、そして、有なるものを無と誤認する損減の極端なるものが断ぜられるのが、無の辺が断 ぜられるということである。従って、それによって二として無ということが顕わとなってくるのでもあり、この ような空性がまさに勝義のきわめられたものとして説かれている少即ち﹁菩薩地﹂の中に、﹁先の︹有なる︺もの とこの無なるものとの両者の有、無から解放された教法の特相をもって摂約されているその事体は二として無で ある。二として無なるは二辺を断じたこの上ない中道である﹂と述べているのである。 る者︺より反対になるからである、というように﹁菩薩地﹂の中に説かれている。 8

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以上、大乗唯識の了義思想を解明せんとするツォンヵ・︿の著述に基づいて、﹁中辺分別論﹄相品第一・第二偶、及 びその許の長行について些さか考察してきたのであるが、それらの詩頌は、仏教伝統の無自性・空性思想、或いはそ こに展開する中道思想の中に、了義なるものとしての大乗唯識の基本的立場が打ち立てられていることを改めて知る のである。しかもそこには、その時代における仏教思想領域にあって大乗唯識の成立事情が窺われてくることでもあ る。殊に第一偶下のニカーャ以来の伝統を伝える長行はその事情を内示しているものと考えられる。そこに見られる ﹁如実なるままに観察し︵意昏働9国秒日ぃ四目四目冨噂:︶如実なるままに知る︵冒沙昏号目菌目も且目豐︶﹂という実践の 上に、了義としての大乗唯識思想が表明されようとしていることは重ねて述べるまでもないが、それはまた、唯識思 といって、この条項での論究を結んでいる。 前上によって窺われるように、﹃中辺分別論﹄の長行に見られるニヵーャ以来の所説に対するツォンヵ、︿の適用と この﹁菩薩地﹂に基づく適用とにおいて些さか、その表現の相違を見るのであるが、そこに用いられる趣意としては 同じ了解の仕方にあると言えよう。しかも、そのニカーャ以来の所説の上に三性思想を言及しているのであるが、そ れについても同様の説明がなされている。その場合、ある場所にあるものがない、即ち、依他起において遍計所執が ないということは、スティラマティの註釈に基づいて、比丘の居住する寺院にして、比丘がいなくなって寺院が残る というようなあり方で、比丘と寺院とを並列して、一方の否定による他方の有、あるいは、そのようなあり方で空の 開顕が考えられるべきでないとし、また、インド仏教以来よく用いられる職であるが、シオン。︿ヵによっても、繩な るものにして、暗がりで蛇だと怖れる世界︵遍計所執︶に対して、目覚めて蛇が否定されて繩と知られる世界がもた らされるところに、依他起の有、あるいは、空性思想が了解されようとしている。 四

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想の形成ざれてきた一動向を物語るものであり、その思想構造を論理的に明確化する三性説の成立する要因ともなっ ているのであろうと思われる。ここではツォンカ。︿の了解する三性説の論理構造全体を委細に検討するに至らなかっ たが、すべてのものは無自性・空であるという大乗の密意の開顕として、了義なるものとして提示せられる大乗唯識 思想はツォンカ・︿の所述からも知られるようにその三性説を基盤として成立していると言えるのであろう。’ ①,直前の引用はラムリムチェンモの取意、句の匡侭ぐ○]皇認︾国?函と’千岸長尾雅人﹃西蔵仏教研究﹂一○七’一○八頁参照。 ②拙稿﹁ツォンカ。︿造了義未了義論の試解目﹂﹃大谷大学研究年報﹄第三四集、五○頁参照。 ③右﹃年報﹂五一頁参照。 ④右﹁年報﹂五二’七一頁参照。 ⑤右﹁年報﹄六○頁参照。 ⑥﹃大乗仏典﹂︵中公公論社︶一五巻所収の長尾雅人訳参照。 ⑦影印北京版、一五三巻、一七七’四’一’三。 ③影印北京版、一五三巻、一七七’四’三’四。 ⑨長尾雅人﹁空性における余れるもの﹂長尾﹁中観と唯識﹄五四二頃以下、向井亮弓琉伽論﹄の空性説l﹃小空経﹄との関 連において﹂﹁印仏研﹄二二’二号、三六八頁以下参照。

⑩影印北京版、一五三巻、一七七’四’四’六。“

⑪前掲﹃大谷大学研究年報﹄七七頁以下参照。 註 本稿は昭和五十七年十二月の大谷大学仏教学会例会に於いて発表したものに若干加筆したものである。 10

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