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村持山林の保護と山割制度

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(1)

村持山林の保護と山割制度 二、0

村持山林の保護と山楼制度

一 は し が ぎ

 江戸時代の前期における村持山林︵部落有山林︶は、主として入会関係によって村民が共同で利用していた。この場合で

も全く無制限に村民がその立毛を採取できたわけではなく、入会地に関しては村において一定の利用上の規則が慣習的に

成立していた。しかしこのような利用形態の下における村持山林の運営においては、ある時期になると山林を保護育成す

るという点で、充分な管理が行届きかねるに至った。その理由は村民の間に山林を愛護する気持が欠乏して来たというよ

うな単純なものではなく、立木・柴草の用途や利用する山林の範囲の拡大というような要因も老馬しなくてはならないで

あろう。今この問題について詳論する用意はないが、ともかく事実としてこの傾向はかなり広く史料の上に見出されるの

で、恐らく江戸時代農村の構造的な必然性があったと考えられる。小稿では江戸蒔代において、村持山林が一定の時期に

達すると、その山林の保護の観点から、あるいは少なくともそれが表面⊥の理由となって、山割制度が実施され、そこに

山林における私的土地所有成立の一つの道を見出すことがでぎることを、主として近江国︵滋賀県︶栗太郡の事例につい

て明らかにしてみたい。

(2)

二小田原村の場合

 膳所斜辺近江国栗太郡小田原村は現在の大津市大石小田原町であるが、部落有山林の地盤そのものを各戸に分割してそ

の用益権、就中毛上の牧益権を各戸に分与するという三世制度は今日当部落においてはもはや行われていない。以前割山

であった箇所はすべて私有地化してしまい、現在の.住民の記憶にはかつてそのような慣行があったことすら殆んどそのあ

とをとどめていない程である。その私有地化の過程を明らかにするに足る史料は残念ながら今の処見出し得ていないが、

江戸時代から明治初年に至るまで雪持の山林が盤割制度によって運営されていたことを示す史料はかなり残存している。

今これらによって知り得る限り、当村の二割制度についてその概要を述べることにする。

      

 当村の山門に関して、その全貌を明らかにする史料は文化六年︵一八〇九︶八月の﹁割山名平井四方詰帳﹂である。この

記録には左の如く冒頭に山霊定書が掲げられ、それに続いて名寄形式を以て各戸の持分の四至境界が一々明記されている。

﹁   定

︵㌃小田原村割山之義ハ、去ル寛永拾七年之頃、下村β上下小際目相領分、其後ハ小際目坐上ハ上村こて支配いたし固事紛無之砿

』W

テ割山去ル享保年中二相割砿事紛無之砿 ({ W新割山文化三年寅之年二相定砿事紛無之砿 ︵四︶      ︵底︶  一、上村岬山之義ハ先年冶若平庭之人有之砿共、割山之地面売買一切歯黒砿療二相定有之砿ヘハ、去ル享保年中二割山仕砿へ共、其   後押庭二および他国仕砿者多有之砿へ共、盆山之地面皆村戻リニ相成田、七千地面多ク此度相割農事紛無之砿、向後先年之通地   面之相定砿事紛無之者也 ︵悟分家いたし砿者役山と名付、野山之内三枚つ∼割遣シ砿、是又売買之気品右之通論定有之砿者也 (⊥ n) @       ︵ママ︶  ]、割山之内下柴共林砿山と、零下柴立合二半斗林山と、所更江入有之砿間、左二委ク相当ス者墨 字三ツ尾ノ申尾東原    村持山林の保護と山割制度       二一

(3)

、    村持山林の保護と山割制度 一、古割 松・下柴共林 但し谷境目峯境目也 字畑ノ谷口之分 一、 テ割 松・下柴共林       平右衛門   尤大道ノ上小聞之分ハ野山也 字同所奥之分 一、 V割 松・下柴共林        東 太郎左衛門山国め峯筋

  尤谷清左衛門古田尻二少有四方詰南谷端蕩

      清左衛門山斜め則峯筋

      西

      北 峯筋道切 字小坂本 一、 V割 松・下柴共林        東 伊兵衛山善め面立筋

       四方詰爾鑑蕩

      伊兵衛新割谷切

      西

      北 田之上腰才め也 字西谷奥 一、 V割 松・下柴共         東 谷道才め

       男詰南禅定領迄

      西

      峯筋道才め       北  太丘ハ衛旧︻才め       , 合新割山三ケ所、尤山福少分二御座砿間、外画弐ケ所エて御座砿へ共、平右衛門斗三ケ所也 ︵下略︶ 二二

(4)

右定書は村の自主的な法規範として立てられたものであるから以下﹁村定書﹂と称する。これに対し当村の山割について

       

は天保十五年︵弘化元年、一八四四︶膳所藩郡奉行より与えられた左の如き定書があり、以下これを﹁郡奉行定書﹂と称し

たい。       ’

  ﹁     定

  小田原村之内上村少家数二而、城州禅定寺村書肺境思議二付数年及出入処、此度山地稼場分ケ相応之済ロニ相成砿、詳論所思場小田   原村進退二相成砿山地響分、曽東村境β山田村境字のぞき雲譲之所一圓野山稼場之筈二極銀雪、當時松・雑木生立も無智間、為制度   上村分家割持二相預り致守護度旨申出砿、右翼通当時割持二相預り砿儀は可為勝手次第砿自伝、自分曲道持地と決而相心得申間鋪   砿、然ル上は上毛秘義ハ其預り主兎も角岩致進退砿とも、夫々一同図工霜融上取斗書芸砿、地面之儀者一切売買譲り渡し等野相成砿   ︵縦︶       ︵至︶   仮及困窮砿節未進償等二も敢引仕間鋪砿、自然及絶家砿節は仲間江差出し可霧笛、右は到後代迄其村五方を存定置砿条無謬失可相守

  者也

   .天保十五甲辰年十一月      

奉 行㊥

       小田原村

         上手百姓中      ﹂

 村定書第一条によると小田原村の村営山林は寛永十七年︵一六四9頃から同村内における上・下二区によって分割支

       

配されることになった。小稿に引用する山割関係史糾はすべて上村︵村定書︶または上手百姓︵郡奉行定書︶にかかわるも

のである︵以下二割に関して小田原村或いは当村と称する時は上村のことを指す︶。 第二条及び第三条によると、当村には分割し

た年代、の新旧によって宿割山と新割山の区別があったが、前者は享保年間、後者は文化三年頃割当てられたものであっ

      

た。別に享保十九年︵一七三四︶の﹁野山わけ之帳﹂なる記録があるが、これに記載された各戸の持分は上にその一部を掲

出した﹁割山名寄井四方詰帳﹂記載の﹁古割﹂の部分と概ね一致するから、これは恐らく古豊山に関するものであろう。

したがって翌週山設定の年代もあるいはこの記録の成立年代である享保十九年であったかもしれな緊村里山林を各戸に

     村持山林の保護と山割制度      ・二三

(5)

     村持山林の保護と山割制度       二四

割当てて利用することにした理由としては、郡奉行定書によると、当時松・雑木等の成育状況が悪かったため、家別割持

にして預り、﹁守護﹂をしたいということであった。すなわち山林を保護して、立毛を育成するということを目的とした

      

わけである。延宝七年︵一六七九︶八月過八日附小田原村惣百姓中より奉行宛訴状に﹁小田原村は山中之儀二丁、柴・薪商

       

売仕渡世を送り申砿﹂とあり、享保十年︵]七二五︶小田原村庄屋・年寄より奉行宛訴状には﹁私共儀上山中二而田畑少々

明旦渡世難義仕砿丁付、往古並木柴持、田原山城郷へ売、御年貢等も渡世中之有砿﹂とあり、また同年六月茸七日附小田

      

原村庄屋以下村役人より奉行宛願書には﹁小田原村惣百姓共働而御座砿、私共商売婚儀、木柴或は抹香杯仕、第一山城

口、扱は関津ロへ持出、家業二仕来リ申事﹂とあるから、山割制度実施の表面上の目的は山林の保護にあっても、結局は

それが重要な牧入源として当村の農家経済に大ぎな役割を果したことは容易に推測される。

       

 村定書第四条によれば、享保度の山雄剣離村者相つぎ、村に返還された割判が多かったた.め、文化度の新割山割当てが

実行されたものであるという。

 この場合文化六年﹁青山名寄井四方詰帳﹂についてみると古割・新割とも各人数筆ずつを夫々異った箇所において与え

られているのは地勢・地利を勘案してできるだけ均等な利益の享受を図ったものであろう。特に平右衛門の割持分につい

       ︵幅︶

て﹁合新野山三ケ所、母野福少分二御座詫間、道県武ケ三二て御座砿へ共、平右衛門斗三ケ所也﹂とあるから、割当てに

際しては実質的に平等を期したものと老えられる。

 課率はあくまでも国持の山林であって、割受人は用益権、就中陸上の牧益権を与えられているにすぎない。郡奉行も村

      

持山林を各戸の割持にするのは村の自治にまかせるけれども、各自の所持地と心得てはならない旨その定書に明記した。

したがって割受入には処分権は認められていなかった。村定書第四条及び郡奉行定書によれば、かりに離村とか、または

困窮のため年貢未進というような切迫した事情が生じたとしても、地面の売買譲渡はかたく禁ぜられていた。

(6)

 また牧益に怪しても制限があった。村定書第六条によると、言上には松木・下柴共に割受人が排他的に採取できるもの

      

と、割受人の権利が認められるのは松木のみで、下柴は﹁立合苅﹂とされているものとの二種がある。文化六年﹁群山名

寄井四方詰帳﹂に、前者は例えば﹁霜割山、松・下柴共林﹂と記され、後者は﹁古書、争論、下柴立合苅﹂と登録されて

いる。同帳に附せられた張紙には、

﹁天保三年辰冶  一、字小坂本古割山松林二御座砿所、勝手二付、奥荒田ノ上、下柴共林二致砿、   ︵下略︶ し

とある。この外にもこれに類した記載があるが、これらによると、 ﹁松諸芸﹂が﹁下柴共晶﹂へと転化する傾向が認めら

れる。かくて一部の林にあっては松木のみという制限はあっても、割山の毛上については一応割受入の支配進退が許され

ていたわけである。しかし郡奉行定書に示された所によると、たとえ自己の割山であろうとも採取に際しては、村一同に

届出を必要とした。

 離村の場合︵村定書第四条︶、絶家の場合︵郡奉行定書︶にその割山を処分することは許されず、すべて村に返戻すべきこ

ととなっており、村定書第五条によれば、分家に対しては﹁役山﹂と称して、三枚ずつの山林を割与えることになってお

り、これについてもその売買は一切禁止されたことは一般の割山と同様であった。

 以上の江戸時代における小田原村の山割は古集・新割とも割替の規定を有せず、割替の痕跡を認めることができないか

ら、恐らく永代割であったと思われる。

       

 上村についてはなお明治八年目一八七五︶八月の﹁野山訳ヶ帳﹂が現存するが、︹その冒頭に左の如ぎ規約が掲げられてい

る。      村持山林.の保護と山割制度       二五

(7)

     村持山林の保護と山割制度       二六

  ﹁    証

   一、今般地租改正心付、氏子中示談之上、野山訳墨引ヲ致シ、左之割興り、後々至迄故障中筋無御座三塁    一、右訳山二松立木五ケ年以上林候者有之二於テは、勝手伐木いたし者差支無之事   右之条々堅ク相守可申事       .       ﹂

これは果して地租改正に際し、享保・文化度の割由を一旦解消し、再び割替えたものであるか、あるいはまた全く別の箇

所を新たに追加して割当てたものであるのか十分明らかになし得ないので、ここには右規約を掲げておくにとどめること

にする。

       三六地蔵村の場合

 小田原村と同じく栗太郡六地蔵村︵現栗東町大字六地蔵︶は膳所藩ほか二領主に分給された東海道筋の農村であった。こ

こでは現在でもなお部落有山林は殆んど割山として各戸に割当てられているが、.その起源は古く江戸時代に遡る。和中散

       

本舗として著名な大角家の﹁古来作事井諸覚帳﹂には、天保十年末の項に、左の如ぎ記載が見られる。

      ︵月力︶   ﹁天保拾巳亥三月冶、但シ八日改ル       ︵統︶   近年村方地下山桧木・下柴切取荒挙国利付、此度地下一流當三月二相談極り、野村中家持分二割山三ケ所ツ・所持可仕様二治定二相   成砿二、當冬所持二銘≧虚ル、則當方支配ノ山、左之通り

  片ツラ山

   一・上也壱割番付廿蕃・薙木二而二尺廻リノ木も有又一尺余ノ木多﹂

        ︵朱書︶          ﹁此木数 六十二本有﹂          此代銀 百弐拾匁 出ス

(8)

  大かめ谷

   一・麗壱割印付フ印割留メ也・糖奎而悪くなしハζ差小松ラウエ慶L

         ︵朱書︶         ﹁此木数 拾九本有﹂

         此代銀拾匁出ス

  尼ケ谷

   一・中也 壱割 番付拾番﹁雌雌小松なし代銀なし﹂   右之通成、是二念而適意冶村方役人年寄不馴分付二成、近年地.下入用多クニ付、如此中相談極ル、依テ冬折.之節地下江此地戌ノ年貢   二又銀四拾匁御銀の導引ケニ相成砿二付、四拾匁之利足ト申立、壱卜割二米一升三合三勺ツ・地蔵堂江蟹行、依而當冬山銀正二九十   匁當家β出し申砿事也、何分當年冶當方三山二相三態亭亭、心ヲ付木ヲ盗ミ不申様二時々参り気ヲ付、木ヲ相続いたし善事也 L

 これによると当面の山割は天保十年︵一八三九︶にはじまったもので、創設の際意図する所は小田原村の場合と同じく村

里山林が濫伐によって荒廃するのを防ぐ為であった。したがって右記載の末尾に記されているように各戸はその手入・保

護育成には責任を感じていたわけであろう。当村では右に掲げた史料に示された大角家の割当地によって推測されるよう

に、斎言・悪地を配合して分散せる三枚宛の山林を割当てた。一般に江戸時代の正割においては無償割当てが普通である

が、この村では村財政上の必要から代銀を支払っている点は特色である。

四 む

 以上近江国栗太郡小田原村山び六地蔵村の事例について考察した。両翼ともにその村持山林に三曲を実施するに至った

原因は山林の荒廃であり、したがってこれを保護育成することが当面の目的とされた。山林の保護・育成の目的を達成す

るために、その用益権を各戸に分割することが最も適切なる方法であると考えられたのは、その背景に村落生活における

     村持山林の保護と山割制度       二七      .

(9)

     村持山林の保護と山割制度       二八

思想的な共同体の解体と個人主義の成長という歴史的な基調を置いて理解しなければならないであろう。小田原村のかつ

て黒山であった箇所は今日すべて私有地となっており、現在六地蔵村の割下の牧益権は村内の分家等に対しては売買・譲

渡が可能である程度に私有地に接近している。何れにしても山割が実施される以前は村持山林であり、山峰制度を施、すこ

とによって、山林における私的土地所有成立の方向へ一歩前進したものとみることがでぎよう。

 次に山割が山,林保護を当面の目的とするとはいっても、それが農家経済に重要な関連をも有していたことについてはす

でに述べた。小田原村は江州瀬田川筋から城州綴喜郡へ通ずる往還に沿って位置しており、山村でありながら山林生産物

の商品化の契機を多分に持っていた。前掲史料にも示されているように木柴を城州や瀬田川沿岸の撃壌等に搬出してこれ

を販売し、渡世する者が多かった。六地蔵村も東海道に接した村であり、多少なりとも同様な事情があったのではなかろ

うか。かつて播州の一山村について入会地の分割が商品貨幣経済の村落への浸透と重要なかかわりを持っていたことにつ

       

いて論証したが、これら両村の事例は村落の商業的発展が駒割制度と何らかの関連があったことを示唆するものであると

いえよう。 ①

@@

@@

大津市大石小田原町・八幡神社氏子総代保管文書。尚このほかに文久二年小田原村庄屋﹁諸帳面送り目録﹂ ︵大津市大石小田原町共有文書︶による と﹁村中銘々持山定書壱冊﹂なるものがかつてはあったらしいか、現在は見当らない。 八幡神社氏子総代保管文書。 寛永十六年︵一六三九︶のものと推定される卯年三月十一日小田原下村惣百姓中より柴田清左右衛門宛差出された願書︵大津市大石小田原町共有文 書︶によると、寛永十四年正月から既に上・下両村の間で夫々の山の境界について紛争が生じていたらしいから、寛永十七年にはこの紛争か落着し て、上・下両村の支配する山林の区域が確定したものと思われる。 八幡神社氏子総代保管文書。 享保年代以前にも、上村については正徳四年︵﹂七︼四︶十二月の﹁御運上山本帳﹂︵八幡神社氏子総代保管文書︶、下村については正徳五年正月の ﹁請所山御運上名寄帳﹂ ︵大石小田原町共有文書︶に夫々各戸の野山並びに運上銀額を記載し、夫々末尾に正徳四年十二月二十 日附の左の如き村 規約︵正徳四年﹁御運上山本帳﹂による︶を掲げている。

(10)

   ︵一︶   ﹁一、田畑之儀山田二而御座砕二付、田畑右五間通者苗松二而茂立申出敷事    ︵二︶    一、田地国構申山之儀、役人年寄見分致シ帳面面書付、五年切二仕松木壱本茂立置不二山主β切取可畏い、若立置申もの御にハ・、毎年村中吟味      仕其上切取可申砕事    ︵三︶      ・    ⋮、御運上山二被仰付下成二差上申上者、内山墨汁而黄壱本茂切取申間敷偽、自然相背い者御座いハ・、過銭として銀拾六匁急度出さセ、此内八      匁者山主涯相渡シ可申砕事﹂        ︵面︶   第一条及び第二条によると、これらの帳面に登録された山林には植栽上の制約が存在した。また小字﹁本谷﹂及びコニ尾﹂については﹁此山地免ハ   永代売買成田申砕︵正徳四年﹁御運上山本塁﹂︶ と註が加えられていて、処分上の制限もあったことが分るめ第三条には運上山として各自に負担を   かけたからには、今後は持主以外の者の採取を排除するという取極めが示されている。これらの規約はこれまで入会地たる惣山であった山林に山割   又は山割類似の制度を実施したのかもしれないことを推測せしめるものである。 ⑥⑦⑧ 八幡神社氏子総代保管文書。 ⑨寛保二年︵一七四二︶小田原垂垂海楼村役人から奉行宛の年貢減免に関する願書︵八幡神社氏子総代保管文書︶に、   ﹁小田原村田儀ハ拾三年以前迄ハ家数五拾六軒御座挿注、段々御茶下直故困窮廉い、其上山田二而趣くい荒シ、失人拾六軒出来仕田中、御免相壱    ︵村︶    そん御用捨被為成シ下難有奉存い、然所二畳々田地ねばり、鹿政道難成怖得共、耕作田植景致偽へ共、次第二輪道成不申協故幽閑罷成、毎年御年    貢米弁齢得ハ御用捨相届き不申難儀仕い而、其以後廿三軒失人出来班田而、去春右残り百姓十七人に罷申砕故御願申幽いへ共、被仰付無御座い二    付、只今九軒思入仕協、此所持高五拾三石余亦荒陣起成協而難儀千万二奉存い、ケ様二相成りい而ハ只今小田原村ハ失単二罷成砕所、何とぞく    御殿様之以御慈悲を御百姓も仕度と奉存い、乍恐奉御願申上い﹂   とあり、享保十四年︵寛保二年より十三年前、一七二九︶以降戸数が激減した状況が窺われる。宝暦十四年︵明和元年、一七六四︶六月の小田原村   ﹁明細帳﹂には﹁家数合弐拾九軒﹂、文化十一年︵一八[四︶三月の﹁明細帳﹂には﹁家数合弐拾五軒﹂、天保七年︵ 八三六︶二月の﹁宗旨人数奥   〆井家数牛馬御改丁﹂︵以上八幡神社氏子総代保管文書︶には﹁家数合三拾軒﹂とある。而して郡奉行定書によると下村より上村の家数の方が少なか   つたようであるから、享保十九年﹁野山わけ翠帳﹂及び文化六年﹁里山名寄井四方詰帳﹂に記された割受人の数夫々十二名と濃墨とは上村百姓のほ   ぼ総数と見てよ.かろう。 ⑩ ここ比は山割制度の実施に対する封建領主の態度が示されていて注目すべきである。江戸時代村史山林の分割利用に際しては、藩当局に対してその   許可を求めるために提出した願書を見ることはあっても、直接この問題についての藩当局の態度を知ることができる史料は少ない。︸般には村持山   林の利用形態については委細村の自治にまかせる場合が多いようであるが、小田原村のように定書を与えて、条件附ぎでこれを認める場合もあるこ   とが分る。また.藩当局によって山里が全面的に禁止される場合もあった。 一例をあげれば、出石藩領但馬国出石郡森尾村について、同郡香住の豪農   田井家の﹁家事日録﹂︵兵庫県豊岡市香住、田井家文書︶中、天保六年八月二日の項に、      村持山林の保護と山割制度       二九

(11)

@@@

      、

   村持山林の保護と山割制度       三σ

       .      ︵香任村︶ ﹁森尾村入会山二新田致し、村中分ケ持二致し、右二付御代官大宝与左衛門様森尾へ御出郷、森尾村之者共御呼出し御用景仰付、当村役人井判頭森       ︵香住村︶  尾へ被召出、是迄等閑二致置型段御田被仰付協、八月九日二森尾・当村役人判頭出石へ御召出し、新羅伐取以来心得違不仕い様被仰付協﹂ とあり、入会山のうちを﹁分ケ持﹂にする計画が代官によって制止されたことが知られる。 収益権か駆上の全部に及ぶかまたはその一部にどとまるかによって、林に二種の区別がなざれるということは近江では広く行われたとみえ、他の村 についても、その史料を見出すことができる。 一例をあげると、北国脇往還の一宿場であった彦根藩領坂田郡藤川村︵現伊吹村大字藤川︶では文政 九年2八二六︶春、村持山林の利用をめぐって村方騒動が生じた︹その詳細については拙稿﹁頭分と平方﹂社会と伝承第二巻三号所収、参照︶。 この事件に関し、当時藤川宿の問屋林弥右衛門が記録した﹁田柴山一件諸事留帳﹂︵同字林家文書︶に、 ﹁藤川村山一件之儀ハ、往古山山内妻立木林井林ト三段御座偽、右山内ト申者村中 統立会山二御座い、尚又立木林と申いは其時買求メに者立木斗  リヲ支配仕に、丼二林之義ハ其時買求所持叶い雑木草共支配仕協而拝み珈手指不相成算場所二御座い﹂ とある。この村の山林は当時村の惣高から年貢を上納していたのであるから、村として所持していた山であったに相違ないか、従って﹁其時買求刃 云々﹂というのは地面は依然として村持のままで、立木または草・木のみを買求めた意である。故にこの藤川村の立木林と林の関係は小田原村にお ける割山の二種の区別と、その持主が山林に対して有する権利の内容において全く共通している。 大津市大石小田原町共有文書。 滋賀県栗太郡粟東町大字六地蔵・大角家文書。 拙稿﹁播州一山村における入会地の分割﹂︵彦根論叢第五十五号所牧︶。 ︹後記︺ 小稿に利用した史料の調査に際しては、特に滋賀県大津市大石小田原町・村田円次郎氏及び粟太郡栗東町大字六地蔵・大角  宣雄氏の非常な御厚意を悉うした。ここに記して感謝の意を表したい。なおこれは昭和三十四年度文部省科学研究費交付金による  研究成果の一部であることを附記して謝意を表する次第である。       。

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