阿武隈川河口沖の地震の走時曲線
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昭和二年八月六日六時十三分頃、阿武隈川河口沖(東経二四一、六度、北緯三七、七度)に震央を持 つ地震につき﹄走時曲線を作成した。表は後震時 ξ 震央距離とを、封昭一して記したものである。但し殺震 時は六時十三分に加ムベ3
端数のみを記す。 観 " 宮 水 曾 繭 * 小F山v字 仙 石 j w H W 内 、 w , ‘ 所 c都 名 名 古 i事 , 津 島 戸 ー 漬 形 官 室 巻 後 "=1とJ A誌 心 ヤ 十 ゆ 品 噌 /一 六 、
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三 一 問 、 九 三 六 0 . 0 四 六 九 、 O 敷 石 謹 憂 菱、躍に於ける殺震時がまちまちの庭から見て、此の透では記象が不明瞭であっ空事乞想像ヨせられる口 之に反し℃九州の各観測の礎震時は、規則立って居。、旦初動方向迄諒一み取ってある慮から見℃、此の 地方迄は明瞭な記象を示した事と忠はれる。 震時は何蕗でも議み日現った事と思ム。 一般に此の地震は初動方向の明かな地震であったから、球技 一脇島腕から九州に至る迄.約千二百粁の長きに渡・0.協同一方向に、協同一距離に、幾つもの観測値 が得られ、且後震時の明瞭な記象が得られた事は、此の走時曲線の特長であ A りまませう。私が特に此の 地震の走時曲線を作成して見ゃうと思った理由も亦此慮に存する。 園の横軸は震央距離を粁で一不し、縦軸は竣震時を秒で一不し℃ある。記鏡@はグヰ 1 へ Y ト式、並ぴに 三 O 一 ニ阿 武 隈 川 河 口 沖 の 地 一 震 の 走¥If
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希 d ' は震央距離である。 此 の t値は昭和三年五丹二十一日の東京協同地震広つ3
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B 本の太平洋側に於て略南北に向へる、縦波り見掛の速度を奥へるものを見る事が出来やラ。新︿り 三 O 五一
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依つ℃、。縦波の遮度が逮 p p 事賞、並K
共の数値を決定する錦には、もっと多 f x の 材料を必要としゃう o h 今試みに昭和三年五月二十一日来京湾地震につき小笠原K
至る縦波の見掛の卒均 速度乞求なれば .1 白 F -, 一 点 什 ∞ ・ 怠 均 一 州w
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事費ぬある模様が見える事を指摘したまでである。 扱今主として陸に経路を取るもの民主主を置きて‘走時曲線を引いて見れば、国の結線の如く在る。 此の曲線 1 並に此の曲線の轡曲貼に於ける切線とが、縦坐標軸を裁る二知の卦廷を用以た誌のと、初期微 動機緩時間が、震央距離に勤する曲線.即ち PSA ダイヤグラムの震央距離零なる極限に於ける縦生標 を用ひだものとから待た震源の、深 3 を平均して、大約六十粁と推測する。 清水光夫君の小笠原に於℃の調査に依れほ、海底を通る震波氏関する、大森公式の係数に相常する常数は. 一