大 問屋 の関宿三河 岸撤退
加
藤
光
子
1.序 文 関 宿 三 河 岸(内 河 岸 ・向 河 岸 ・向 下 河 岸) は,江 戸 川 の 流 頭 部 に位 置 して い た 河 岸 で あ り,現 在,そ の跡 地 は河 川(河 川 敷 も含 む) と な って い る.内 河 岸 は 江 戸 川 の 左 岸 に位 置 し,向 河 岸 は 内河 岸 の対 岸.(江 戸 川 の 右 岸) に位 置 し,向 下 河 岸 は 向 河 岸 の 南 側 に位 置 し て い た(図1).こ の 関 宿 三 河 岸 は,関 宿 城 下 の 江 戸 町 に属 し,元 は地 続 き で あ った.寛 永 18年 に完 成 した江 戸 川 の 開 削 に よ り,向 河 岸 は,内 河 岸 の 対 岸 に な って しま った(故 に, 内河 岸 に対 し向河 岸 と呼 ば れ た). 関 宿 三 河 岸(以 後,略 して 三 河 岸 と呼 ぶ) の成 立 は,不 明 で あ るが,現 在 明 ら か に な っ て い る史 料 で は,江 戸 時 代 初 期 の 関 宿 関 所 開 設 と と もに,近 江 や大 阪 か らの 商 人 らが,関 宿 に 移 り住 み,商 売 を 始 め た こ とが 記 され て い る.三 河 岸 の 最盛 時 に は,向 ・向下 河 岸 の 豪 商 ら の建 物 が,軒 を 並 べ て い て 、 「向河 岸 は 日 本 橋 の 飛 地 」 とか 、 「日本 三 大 河 港 の 随 一 」 と さ え云 わ れ ,商 売 が大 い に繁 盛 した. そ の 中 で も,近 江 商 人 の 子 孫 で あ る喜 多村 藤 蔵 は,全 国 に 名 を知 られ た豪 商 で あ り,関 宿 藩 の 大 名 を 凌 ぐほ ど の 財 力 を 所 有 して い た (「関 宿 志 」). と こ ろが,明 治 中 期 頃 か ら,こ れ らの 豪 商 は 三 河 岸 を撤 退 し始 め,昭 和 の 初 期 に は,三 河 岸 は往 時 の 面 影 も な く,小 寒 村 と化 して し ま っ た.そ の 喜 多 村 藤 蔵 家 の 分 家 の 出 身 で あ る喜 多 村 常 次 郎 氏 は,自 著 「関 宿 誌 」 の 中 で, 三 河 岸 の 衰 退 の 原 因 を以 下 の よ うに述 べて い る. イ,王 政 復 古 に伴 い 関宿 関 所 の 廃 止 ロ, イ に 伴 い 旅 客 減 少(六 才船 の恐 慌,蒸 気 船 の 運 航)ハ,銚 子 ・飯 岡方 面 の 生 産 物 に対 し て 金 融 威 力 の 喪 失 二,利 根 運 河 開 通 と 日本 鉄 道 の 開 通. 以 上 の衰 退 原 因 は,こ の 日本 鉄 道 の 開 通 を 除 くと,三 河 岸 地 域 特 有 の 原 因 で あ る.つ ま り,イ と ロ は幕 藩 体 制 の崩 壊 に よ っ て,関 宿 関 所(明 治2年)が 廃 止 され た こと に よ る 貨 客 の 減 少 で あ る.関 所 が設 置 され て い た 時 代 に は,江 戸 川 と利 根 川 の 通 航 は,関 宿 関 所 に お いて,貨 客 の吟 味 を受 け な けれ ば な らな か っ た.そ の た め に,三 河 岸 は,そ の 通 航 の 恩 恵 を 受 け て い た の で あ る.ハ は,三 河 岸 の 大 問 皇 の 主 な 積 荷 が,魚 粕 ・干 鰯 な ど で あ り,そ の 商 品 の 主 な取 引 先 の 銚 子 や 飯 岡 に 対 す る 金 融 威 力 の 喪 失.二 は,三 河 岸 通 航 よ り も,地 の 利 が あ る(後 述)利 根 運 河(明 治23年)通 航 の 方 が,浅 瀬 もな く安 全 で 便 利 で あ った.尚, 明 治 の 中 期 か らの鉄 道 敷 設 の ラ ッ シ ュ は,水 運 よ り も運 賃 が安 価 で 高 速 な鉄 道 輸 送 の始 ま りで あ って,交 通 そ の もの を代 え つつ あ った. そ して そ れ は,日 本 全 国 に浸 透 して い っ た 衰 退 の一 般 的 要 因 で あ る. 元 々,日 本 全 国 の,河 川 交 通 衰 退 の一 般 的 要 因 と して は,概 観 す る と,明 治 中 期 か ら昭 和 初 期 ま で の,河 川 交 通 に代 わ る鉄 道 輸 送 の 開 始 と,陸 上 交 通(ト ラ ッ ク輸 送)の 発 達 で あ る.そ して,河 川 交 通 の衰 退 の 時 期 は,河 川 あ る い は 河 岸 ご と に微 妙 に ず れ て い る.例 え ば,綾 瀬 川 の 河 川 交 通 は,江 戸 川 や利 根 川図1 関宿三河岸と関宿関所 (迅速測図原図,明治16年,五千分の一尺「千葉県下総国東葛飾郡関宿」の一部より) と比較すると表退の時期は遅かった. これは, 江戸川や利根川とは違い,綾瀬川の河川交通 の運賃の方が,鉄道や陸上交通の運賃よりも, 東京までは時間的にも短く安価に行けたから である.特に,綾瀬川の藤助河岸は,大正12 年に起きた関東大震災までは,鉄道輸送と競 合するだけの力を有していた
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綾瀬川におけ る河川交通J).つまり,表退の時期や原因は 一様ではなく,河川や河岸ごとに,その地域 特有の原因も存在しているのが一般的である. 三河岸の大問屋らの撤退の多くは,明治中 期である.何故, これらの大問屋は,三河岸 を捨てるほどになってしまったのか.三河岸 と同じ関宿藩領内であり,境河岸の2
大河岸 問屋であった小松原家・青木家は,衰退後も, 境町にて営業を行っていた.小松原家本家筋大問屋の関宿三河岸撤退 (水 運 で は な く,陸 運 業)は,現 在 も境 町 在 住 で あ る.三 河 岸 は,そ の 特 殊 要 因 が撤 退 を 行 わ せ た の で あ ろ うが,大 問 屋 らは早 々 と, 衰 退 後 は 三 河 岸 に 在 住 せ ず に,次 々 と,東 京 へ と転 出 した り した の で あ る.そ の点 が,筆 者 に と って は 不 可 解 で あ る. そ こで 本 稿 は,喜 多 村 常 次 郎 氏 の,上 述 の, 三 河 岸 衰 退 の 特 殊 要 因 が 著 され て い る 「関 宿 誌 」 を再 吟 味 す る こ と に し,そ の結 果,大 問 屋 らの三 河 岸 撤 退 が,他 の 河 岸 と比 較 して 早 期 で あ り,ま た 三 河 岸 に,何 故 在 住 せ ず に, 早 々 と,見 切 りを つ け た か を 考 え て み よ う と 思 う. II.「 関 宿 誌 」 に よる三 河岸 衰 退 の 特 殊 要 因 ① 関 宿 関 所 の 廃 止 史 料 に よ る と,関 宿 関 所 は 図(図1)の 位 置 に あ り,現 在 で は,そ の 跡 は江 戸 川 の 河 心 と な って い る.「 近 世 日本 水 運 史 の 研 究 」 に よ る と,こ の 関 宿 関 所 は,元 和2年,幕 府 に よ り,「定 船 場 」 に指 定 され て,通 行 人 改 め を 行 う もの と して 始 ま り,寛 永8年 に 「関 所 」 と して確 定 さ れ て,こ れ まで の渡 し場 と して, 通 行 人 改 め を す る もの か ら,通 船 を も対 象 と され る も の に,変 わ った と あ る.・現 在 の 関 宿 関 所 の 設 置 は,江 戸 川 が 開 削 され た の が 寛 永 18年 で あ る か ら,い ろい ろ と諸 説 は あ る が, 少 な くと も,寛 永18年 以 降 で あ る と さ れ て い る(「関 宿 志 」).そ れ 以 前 の 関所 の 位 置 は,現 在(図2)の 位 置 よ り,違 って い た の は 当然 で あ る.そ の 場 所 は,確 か な 史料 が な く判 明 し て い な い. 明 らか に さ れ た 関 宿 関 所 は,図1を み て も わ か る よ う に,三 方 を利 根 川 か らの分 水 の 逆 川,権 現 堂 川,'江 戸 川 に 囲 まれ た と ころ で, 江 戸 川 の流 頭 に あ る 向河 岸 に あ っ た.こ の 場 所 は江 戸城 下 町 へ の入 口で あ り,軍 事 的 には, 当 時 の幕 藩 体 制 に と っ て,江 戸 へ の 防御 と い う点 で の 枢 要 の位 置 で あ っ た.ま た,大 量 輸 送 は,河 川 交 通 に 頼 って い た 時 代 で あ り,本 流 の利 根 川 は,「諸 藩 か らの 貨 客 の流 通 の大 動 脈 で あ り,支 流 の 江 戸 川 の流 頭 部 は,幕 府 に と って は,多 くの 運 上 金 を収i奪で き る河 川 統 制 の要 で あ った(「近 世 河 川 統 制 下 の河 岸 の集 荷 力」).こ の 位 置 に関 所 を設 置 す る こ とは, 経 済 的 に も理 に か な っ て い た.つ ま り,利 根 川 水 系 の 全 て の 江 戸 廻 りの 通 行 船 は,こ の 関 宿 関所 に お い て,貨 客 の吟 味 を受 け る義 務 が あ った か らで あ る. そ の た め に,三 河 岸 は,毎 月 数 千 も の(「関 宿 志 」)高瀬 船 が 往 来 して,河 岸 問屋 数 は,内 河 岸 で4軒,向 河 岸 で9軒,向 下 河 岸 で22軒 (「関 宿 誌 」)であ り,そ の 他,船 人 足 の 住 居 や, 水 運 に関 係 した 店 な どが建 ち並 び,関 東 で も 有 数 の 繁 華 な 河 岸 で あ った.三 河 岸 の 河 岸 問 屋 や,大 問 屋(総 合 商 社 と して 倉 庫 業 ・物 流 ・ 販 売 な ど も手 が け る)ら の 屋 敷 や倉 庫 が,軒 を 並 べ て 建 って い た の で あ る. 1867年 の 大 政 奉 還 に よ って,幕 藩 体 制 が 崩 壊 す る と,関 宿 関 所 もそ の 機 能 を喪 失 した. つ い に,明 治2年,寛 永18年 頃 よ り幕 末 まで 続 い た 関宿 関所 は,廃 止 され る こと に な った. そ の 廃 止 後 の 三 河 岸 は,そ れ で も図1の よ う に,河 岸 の街 並 み は変 わ らなか っ た.し か し, 河 船 の往 来 は,関 所 の 吟 味 を受 け る必 要 が な .くな っ た た め に,徐 々 に減 少 し始 め た.そ し て,河 船 は最 短距 離 で安 価 な運 賃 の ル ー トを, 自 由 に選 択 して航 行 で き る よ うに な っ た の で あ る.そ の 頃,民 間 の 利 根 運 河 株 式 会 社 が 設 立 され て(史 料1),最 短 距 離 で 安 全 な ル ー ト の,利 根 運 河 開 削 が 完 工 さ れ た の が,明 治23 年 で あ った. ② 旅 客 の 減 少(六 才 船 の恐 慌 蒸 気 船 の 運 航) 「利 根 川 図誌 ・巻2」 に よ る と,「江 戸 に行 く旅 人 の 舟 は,向 河 岸 よ り出 発 す る.川 岸 の 料 理 屋 で は,す ば ら しい酒 樽 を開 い て 歓 楽 の 限 りを つ く した.そ の盛 ん な さ ま は,ま さ に
図 2 関宿三河岸・関宿関所及び境河岸 (迅速測図,明治16年,二万分のー尺「関宿」・「西宝珠花村」の一部より) イ列えようがないほどである
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とあるように, 向河岸は,旅客を対象にした船が出ていて, 大いに繁華な様子であった.その取扱い庖は, 上河岸は木村清兵衛氏,下河岸は野村勘兵衛 氏の専業であった. この船は,その創業時 (17
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年頃)には,月に6
回出航していたの で六才船と呼ばれた.六才船は夕方に向河岸 を出発して,翌朝新川口(行徳付近)に到着 し,そこで伝馬船に乗り換えて, 日本橋小網 町の河岸に着いた.その旅客は,関所より上 流の栗橋・古河方面や,結城・下舘方面から も,面倒な手数がかかる関所通行を避けて, 関所下流の三河岸まで足を運んだ.その為に, 旅客は年々増加していき,河岸からは,盛時 には,毎夕数隻の船を出すまでになっていっ た.大問屋の関宿三河岸撤退 史料1埼 玉 県行 政文 書 「利根運 河関 係書 類」 よ り(明治23年) と こ ろ が,明 治2年 の 関 所 の 廃 止 は,通 航 許 可 の 必 要 性 を な く した 為 に,関 所 よ り上 流 の境 町 や 栗 橋 ・古 河 な どか ら,次 々 と,旅 客 船 が 出 航 す る よ うに な った.そ して,明 治10 年 に蒸 気船 「通運 丸 」 が運 航 しだ して か ら は, 六 才 船 は営 業 不 振 に 陥 り,つ い に,そ の 営 業 を 中止 す る は め に な った.こ の 「通 運 丸 」 は, 内 国 通 運 株 式 会 社(〈株 〉日通 の 前 身)の 所 属 船 で あ り,明 治10年 頃 よ り昭 和 初 期 まで,旅 客 と小 荷 物 を運 ん だ.六 才 船 の取 扱 い 店,木 村 氏 は 明治18年 頃廃 業 して,東 京 へ 転 出 し, 野 村 氏 は 明 治20年 頃廃 業 して,「通 運 丸 」 の 取 扱 い 店 と な っ て し ま った. ③ 銚 子 ・飯 岡方 面 の 生 産 物 に 対 して の 金 融 威 力 の喪 失 銚 子 ・飯 岡 町 にて 生 産 さ れ た 干 鰯 や 魚 粕 の 大 部 分 は,水 運 の便 も あ っ て か,喜 多 村 藤 蔵 (喜 多 藤 と呼 ば れ て い た)氏 の 強 大 な資 金 力 に よ り,向 下 河 岸 の 喜 多 藤 の 倉 庫 に集 荷 され た.喜 多村 氏 は,そ れ を利 根 川 水 系 の各 地 域 へ,独 占的 に販 路 を掌 握 して い た.と こ ろが , 関 宿 関 所 の廃 止(明 治2年),利 根 運 河 の 開 通(明 治23年),鉄 道 網 の 完成(明 治34年 頃) な どに よ っ て,三 河 岸 が衰 退 し始 め る と,喜 多村 氏 や そ の 他 の大 問 屋 ら も営 業 不 振 に陥 っ た.今 ま で の よ うに は,資 金 力 が 無 く な り, 集 荷 力 もな くな っ て い った.そ して,生 産 地 の銚 子 ・飯 岡 町 で は,直 接 に,需 要 市 場 と取 引 を行 うよ う に な り,三 河 岸 の 大 問 屋 ら は, 干鰯 や 魚 粕 の 販 売 か ら手 を 引 か ざ る を 得 な く な って い った.つ い に,明 治19年,喜 多 村 氏 は廃 業 して,東 京 へ転 出 して しま っ た.他 の 大 問 屋 ら も,次 々 に,東 京 今 転 出 し始 め て い くの で あ る. ④ 利 根 運 河 の 開 通 と 日本 鉄 道 の 開 通 利 根 川 中流 は,浅 瀬 が あ り,水 運 に は 困 難 な箇 所 が 多 か っ た.こ の 障 害 を 解 決 す る た め に,利 根 運 河(図3)が 開 削 され る こ と に な っ た.明 治20年,「利 根 運 河 会社 」 が設 立 され た 。 翌21年 に,オ ラ ソ ダ 人,ム ル デ ル の 設 計 に よ り,総 工 費約57万 円 が投 じられ て,明 治23年 に,全 長 約8㎞ の 「利 根運 河 」 が 完 成 した. この 運 河 に よ り,東 京 ∼銚 子 間 が,三 河 岸 通 過 よ り も,距 離 に して10里 以 上 の 短 縮 と,時 間 に して約6時 間 短 縮 され た.そ して,利 根 運 河 開 通 の年 には,汽 船 は わず か に2隻 で あ っ た が,浅 瀬 の あ る三 河 岸経 由 を 避 け られ るた め に,明 治30年 に は,1300隻 に も増 加 した. そ して,交 通 条 件 の悪 い 三 河 岸 は,運 航 量 が 以 前 よ り も半 減 す る こ とに な っ た.さ らに, 間 接 的 打 撃 で は あ るが,明 治21年 に は,日 本 鉄 道(後 に 国 有 と な る)が 東 京 上 野 ∼ 宇 都 宮 間 が 開 通 した. III.大 問 屋 の 三 河 岸 撤 退 以 上 の,三 河 岸 衰 退 の4つ の特 殊 要 因(「関 宿 誌 」)は,結 局 は,幕 藩 体 制 の崩 壊 と い う大 き な変 化 に起 因 して い ると い え よ う.し か し, 序 に て 述 べ た よ うに,三 河 岸 衰 退 の 兆 しが 始
図3 明治44年江戸川改修計画の一部 (1江戸川・中川河道変遷図集」より) まり出すと,大問屋達は次々と,三河岸に見 切りをつけて,東京へと転出していくのであ る.筆者は, この現象をとらえて,大問屋達 の三河岸撤退が,上述の 4つの特殊要因と の因果関係とは異なる,別の視点で,大問屋 達の三河岸撤退の原因を,検討してみようと 思う. (1) 洪水との関係 三河岸が位置している,江戸川の流頭部は, 利根川水系の中流部であり,昔から,洪水の 被害に悩まされていたところである.筆者の 調査によると,明らかにされているもので, 大洪水であったのは,江戸時代初期から元来日 8年,寛永元年,同 11年,江戸川開削(寛永 1 8年)後の安永9年, 天明元年,同3年,同 6 年,明治になってからは,明治23年(史料 2), 同
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7
年(史料3
),同2
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年,同4
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年であった. 特に,明治 23年の被害は,I
関宿誌」によ ると,I
三面川を囲らしたる西関宿(明治2
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年に,向河岸と向下河岸を合併し,その名称 を西関宿と改称して,埼玉県に移管)は本町 の応援を受る能わず.全部落男女を挙げて (男子は水防に女子は炊出しに)水防のこと に従う.区長以下有志等之が指揮に当り,堤 上に土俵を二俵を重ねにして『五分間の我慢 で』と人夫を督励しつつ叱時狂奔,吾闘数時 間に及び,既に空俵欠乏濁流将に堤防を総越 せんとする瞬間対岸本町の関宿町の旧城郭の 駈の堤塘決壊したれど僅かに危一髪の所にて 水禍を免かる事を得たれば其の年直に千葉県 史料2 埼玉県行政文書「出水二関スル書類」 より(明治23年)大問屋の関宿三河岸撤退 史料3埼 玉県 行政 文書 「出水 二 関ス ル書類 」 よ り(明治27年) 史 料4埼 玉 県行 政文書 「町村制 ・公共組 合 ・ 帝 国 議会 」 よ り(明 治28年) 一 庁 に 向 か っ て堤 防 補 強 の 申請 を な し も,県 は 僅 か二 十 町 歩 に も満 ざ る狭 隘 な る土 地 に し て 然 も三 方 川 に 堤 防 線 の 比 率 長 き を以 っ て堤 防 の補 強 容 易 に住 民 の希望 を満 す に至 らず, 僅 か に 申訳 的 の 補 修 工 事 を為 せ しに過 ぎず切 に埼 玉 県 に依 らん と思 う」 と あ る.向 ・向 下 河 岸 の住 民 は,関 宿 町 の救 援 も得 られ ず,千 葉 県 か らの 堤 防 の補 強 工 事 請 願 も,受 け い れ られ ず に,危 機 的 状 況 に , 陥 れ られ た. そ こで,向 ・向下 河 岸 の 住 民達 は,千 葉 県 に 見 切 りを つ け埼 玉 県側 と交 渉 した.ち ょ うど,埼 宝 県 側 は,権 現 堂 川 堤 防 の 補 強 工 事 の 着 手 を,権 現 堂 川 の 堤 防 と 連 続 して い る向 ・向下 河 岸 が,千 葉 県 に あ る ため に,実 施 で きず にい た ので あ る.そ こで, 住 民 側 と埼 玉 県 側 は,一 致 協 力 して,堤 防 の 補 強 を 行 う よ うに した ので あ る.そ れ に は ま ず,向 ・向下 河 岸 が,埼 玉 県 側 に,移 管 され な け れ ば な ら な か っ た.向 ・向 下 河 岸 と埼 玉 県 側 の 住 民 達 が,政 府 及 び 国 会 に向 か って, 向 ・向 下 河 岸 の,埼 玉 県 移 管 の 請 願 運 動 を お こ した.つ い に,明 治27年,国 会 に て そ れ が 認 め られ て,明 治28年4月 に は,埼 玉 県 に編 入 され る こ と に な った.こ こ に お い て,三 河 岸 は,内 河 岸 が千 葉 県 に,向 ・向下 河 岸 が埼 玉 県 に,と 分 か れ る こ とに な っ た.そ して, 向 ・向河 岸 は,合 併 して,埼 玉 県 北 葛 飾 郡 豊 岡 村 西 関 宿 と改 称 した(史 料4). 以 上 の よ うに,明 治23年 の 洪 水 は,行 政 的 に,三 河 岸 を 分 断 す る と い う大 きな 変 化 を も た ら した.し か し,や っ と,三 方 を逆 川,権 現 堂 川,江 戸 川 に囲 まれ て い る西 関宿 地 域 に, 念 願 の 堤 防補 強 工 事 が実 施 され る よ うに な っ た.そ して,埼 玉 県 編 入 は,築 堤 の た め の 土
地 買 い 上 げ や,悪 水 路(用 水 路)樋 管 の 敷 設 を も可 能 に した.特 に,悪 水 路 の 敷 設 は,西 関 宿 裏 耕 地 を 良 田 に変 え た.こ の 土 地 は,明 治 20年 頃 迄 は,喜 多 村藤 蔵 氏 の所 有 で あ った が, 喜 多村 氏 の 東 京 転 出 に よ り,一 旦,小 島 忠 左 衛 門 氏 に引 き継 が れ る.そ して,そ の土 地 は, 埼 玉 県 に よ っ て,悪 水 路 敷 設 の 工 事 と 開 墾 事 業 が行 わ れ た.明 治32年 頃,そ の 開 墾 が 完 成 す る と 同 時 に,小 島 氏 が東 京 転 出 の た め に, 宅 地 を惣 新 田 の 中 原 氏 に,田 畑 を 染 谷 氏 に 引 き渡 した.と ころ が,大 正3年,染 谷 氏 は, 田畑 を 大 沢 氏 と喜 多 村(喜 多 村 家 分 家 の 常 次 郎 氏)氏 に,引 き 渡 す こ と に な っ た.こ こ に お い て,大 問 屋 四 軒 は,西 関 宿 か ら,撤 退 す る こ と に な った.旧 土 地 台 帳 に は,明 治29年 頃 か ら,埼 玉 県 や 内務 省(現 在 の 建 設 省)の, 堤 塘 にす るた め の 土 地 買 い 上 げ が 始 ま って い るの が,記 載 され て い る.現 在 の と こ ろ,買 い上 げ 面 積 は確 か な数 量 は わ か らな い. ま た,明 治43年 の 大 洪 水 は,江 戸 川 流 域 に お い て も,破 堤 ・氾 濫 し,流 域 の 住 民 に,大 被 害 を 及 ぼ した.そ こで 国 は,明 治44年 に, 江 戸 川 改 修 計 画 を 作 成 した(図3).江 戸 川 流 頭 部 に位 置 す る 西 関 宿 地 域 は,そ の対 象 と も な り,従 来 の 河 道 に 沿 って,左 岸 又 は右 岸 の 拡 幅 工 事 と と も に,河 床 を掘 削 して,必 要 な「 河 積 の 確 保 が 行 わ れ た.そ して 今 まで,洪 水 時 の 流 量 調 節 を行 っ て い た 関 宿 の棒 出 しは, 江 戸 川 本 川 の 掘 削 ・築 堤 工 事 の大 部 分 が,完 了 した 時 を 見 計 ら っ て,昭 和4年 に撤 去 さ れ た.ち な み に,権 現 堂 川 は,大 正15年 ∼ 昭 和 2年 ま で に締 め切 られ,又,関 所 台(関 所 跡 地)・ 向 河 岸 の一 部 や 内河 岸 は,河 川 と な っ て しま った. 以 上 の よ うに,三 河 岸 は,明 治23年 の洪 水 か ら昭 和 初 期 の改 修 工 事 完 了 まで に,大 変 動 の 時 代 で あ っ た.筆 者 は,大 問 屋達 の 三 河 岸 撤 退 は,上 述 の4つ の特 殊 要 因 に 加 えて,こ の洪 水 に起 因 す る三 河 岸 の 大 変 動(将 来 計 画 や 予 測 も含 む)も,あ っ さ りと,三 河 岸 を 見 切 った 原 因 の一 つ で は な か っ た ろ うか,と 考 え て い る. (2)関 西 の 商 人 三 河 岸 の 大 問屋 達 は,「関 宿 志 」 に よ る と, 向 河 岸 に,喜 多村 藤 蔵,喜 多 村 富 之 助,伊 勢 屋 九 兵 衛,細 谷 半 右 衛 門,木 村 清 兵 衛,染 谷 徳 左 衛 門,小 島忠 左 衛 門,小 林 藤 左 衛 門,川 島 新 兵 衛 内河 岸 に加 藤 次 郎 兵 衛,青 木 半 右 衛 門,会 田 清 右 衛 門 な どで あ る. こ の 中 で も,喜 多村 藤 蔵,染 谷 徳 左 衛 門, 小 島 忠 左衛 門,喜 多 村 富 之 助(藤 蔵 は 父)は, 大 問 屋 中 の 大 問屋 で,大 問 屋 四 軒 と呼 ば れ た. 上 述 した よ うに,三 河 岸 の衰 退 は,大 問 屋 の三 河 岸 撤 退 を もた ら した.そ の 先 端 を切 っ た の が,明 治19年 に早 々 と本 業 を 廃 業 し,明 治23年 に は,銚 子 ・飯 岡 町 の 網 元 と協 力 して, 息 子 の 喜 多 村 富 之 助 と,「 関 宿 肥 料 会 社 」 を 新 し く設 立 は す る もの の,そ れ も時 代 の 流 れ に は勝 て ず,廃 業 に 追 い や られ,つ い に,明 治32年 に撤:退 した,大 問 屋 の 中 で も,最 大 の 財 力 を有 して い た 喜 多村 藤 蔵 で あ った.ま た, 小 島 忠 左 衛 門 と 染 谷 徳 左 衛 門 は,明 治27年 頃 廃 業 して,小 島忠 左 衛 門 は,喜 多 村 藤 蔵 と同 じ年 の 明 治32年 に,染 谷 徳 左 衛 門 は,大 正 の 初 期 に,東 京 へ転 出 した.こ れ らの問 屋 達 は, 大 問 屋 四軒 と呼 ばれ て,関 東 は お ろ か,日 本 全 国 に も知 れ 渡 って い た が,こ こ に き て,つ い に 三 河 岸 を撤 退 して,東 京 へ と転 出 して し ま った. 以 上 の 大 問屋 達 は,序 で も述 べ た が,い ず れ も元 々 は地 元 の 人 間 で は な く,関 宿 関 所 の 設 置 と と も に,関 西 方 面 か らや って きた 「他 所 者 」 の 商 人 達 で あ った.商 人 達 は,洗 練 さ れ た 商 売 を 行 う技 術 を,先 祖 代 々 か ら受 け継 い で きた に 違 い な い.三 河 岸 衰 退 の4つ の特 殊 要 因(「関 宿誌 」)に加 えて,三 河 岸地 域 を襲 っ た洪 水 の惨 禍 と,そ れ に起 因 す る県 界 の 変 更 は,三 河 岸 地 域 の 地 形 そ の もの を,堤 塘 建 設 や 河 川 改修 工 事 に よ って 激 変 させ て しま った. そ して,三 河 岸 の 商 業 地 域 は,単 な る交 通 不
大問屋 の関宿三河岸撤退 便 な地 域 と化 して しま った.関 西 の商 人 達 は, この よ う な経 済 的 立 地 条 件 が喪 失 して し ま っ た三 河 岸 に,留 ま る意 味 を な く した の で は な か ろ うか. は,関 宿 関 所 開設 とと もに,関 西 方面 か らや っ て きた 商 売 に 長 け た 「他 所 者 」 で あ っ た こと. 大 問 屋 らの 三 河 岸 の早 期 撤 退 は,以 上 の こ と も,大 き な原 因 で は な い だ ろ うか. w.結 語 喜 多 村 常 次 郎 氏 は,関 宿 三 河 岸 の 衰 退 要 因 を,イ,王 政 復 古 に伴 い 関 宿 関 所 の 廃 止,ロ, イ に伴 い 旅 客 の 減 少(六 才 船 の 恐 慌,蒸 気 船 の 運 航),ハ,銚 子 ・飯 岡 方 面 の 生 産 物 に 対 して 金 融 威 力 の喪 失,二,利 根 運 河 開 通 と 日 本 鉄 道 の 開 通,で あ る と した.こ れ ら は み な (一般 的 衰 退 要 因 の 日本 鉄 道 の 開 通 を 除 く), 関 宿 三 河 岸 地 域 特 有 の 特 殊 な要 因 で あ る. 以 上 の4つ の特 殊 要 因 は,実 際 的 に三 河 岸 を衰 退 させ た が,三 河 岸 の大 問 屋 らの 多 くは, 境 河 岸 の 大 問 屋 らの よ うに,衰 退 後 も,地 元 に留 ま り再 建 す るた め の努 力 を しな か った. つ ま り,三 河 岸 の 大 問 屋 らは,あ っ さ りと, 三 河 岸 に見 切 りを つけ た の で あ る.本 稿 で は, そ の 原 因 を考 えた. 三 河 岸 の 大 問 屋 ら の撤 退 は,明 治 中 期 か ら 始 ま った.全 国 的 に み る と,明 治 中 期 は,水 運 衰 退 の 一 般 的 要 因 で あ る鉄 道 輸 送 と陸 上 交 通(ト ラ ッ ク輸 送)が,や っ と,開 始 され た 時 期 で あ り,河 岸 に よ って は,ま だ まだ,水 運 の 隆 盛 が維 持 さ れ て い た.そ の よ うな時;期に あ って,三 河 岸 の大 問 屋 ら は,い ち早 く,三 河 岸 を撤 退 して東 京 へ 転 出 して しま っ た. この よ う な 大 問 屋 らの 早 期 の 撤 退 は,以 上 の4つ の 特 殊 要 因 に 加 え て,次 の こ と も,原 因 で は な い か と考 えた.そ れ は,こ の地 域 が 洪 水 の 多 発 地 帯 で あ る こ と.そ して洪 水 対 策 の た め に,県 界 が 変 更 され て,洪 水 対 策 が 容 易 に で き る こ と に な り,県 や 国 が土 地 を買 い 上 げ て,堤 塘 の建 設 や 河 川 改 修 工 事 な ど が行 わ れ た こ と.つ ま り,江 戸 川 沿 い に位 置 して い る三 河 岸 は,土 地 を提 供 せ ざ る を得 な か っ た の で あ る.最 後 に,こ れ ら大 問 屋 らの 多 く 1. 2. 3. 4. 5. 参考(引 用)文 献 奥 原 謹 爾(1973):『 関 宿 志 』187. 関 宿 町 教 育 委 員 会 喜 多村 常 次 郎(1960):『 関 宿 誌 』81. 喜 多村 常 次 郎 加 藤 光 子(1985):「 綾 瀬 川 に お け る 河 川 交 通 」(第1報)文 教 大 学 教 育 学 部 紀 要 第19集1∼9 川 名 登(1984): 研 究 』409.雄 山 閣 加 藤 光 子(1994) で の 河 岸 の 集 荷 力 」 紀 要 第28集14∼25 『近 世 日本 水 運 史 の 「近 世河川統制 下 文教 大学教 育学 部 6.埼 玉 県 土 木 部(1890):埼 玉 県 行 政 文 書 「利 根 運 河 関係 書 類 」 明1811埼 玉 県 7.赤 松 宗旦[阿 部 正 路 ・浅 野 通 有]:口 訳 『利 根 川 図誌 』 巻2崙 書 房47 8.埼 玉 県 土 木 部(1890):埼 玉 県 行 政 文 書 「出 水 二関 ス ル 書i類」 明3700-2埼 玉 県 9.埼 玉 県 土 木 部(1892∼1894):埼 玉 県 行 政 文 書 「出水 二 関 ス ル 書 類 」 明1789 -2埼 玉 県 10.埼 玉 県 会 議 部(1895):埼 玉 県 行 政 文 書 「町 村 制 ・公 共 組 合 ・帝 国議 会 」 明85 8一 埼 玉 県 11.大:蔵 省(1884):『 旧 土 地 台 帳 』 埼 玉 県 北 葛 飾 郡 豊 岡 村 西 関 宿 大 蔵 省 12.東 葛 地 方 教 育 研 究 所(1977):『 東 葛 い ま とむ か し』176.齣 東 葛 教 育 会 館 13.江 戸 川 工 事 事 務 所 調 査 課(1980): 「江 戸 川 ・中 川 河 道 変 遷 図集 」 建 設 省 関 東 地 方 建 設 局