カール・バルトの社会主義
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(2) 67. カール・バルトの社会主義. 国を混同している,という非難を聞いて私はほとんど嬉しくなった。こういう非難はもう 長いこと聞かせてもらえなかったから」. (1922年10月26日)という発言からもうかがわれ. るようにバルトは社会主義の実践からほ遠ざかっている。このようにザ-フェンダィルの 意義は「聖書の発見」3'であり,トゥルナイゼソによれば「バルトの思考と行動の出発点 にして最深の動機は-・・・牧師の内的な状況である.」ヰ'すなわちバルト自身が1922年の講演 『神の言葉と神学』5'で扱った「説教の困難」の問題であり,これをマルクヴアルトが「社 会的なテ-マが説教の問題をひき起こした第一の神学的客観化である」6'と言い,ゴルヴ ィツァーがこれを受け入れている7'のは一面的である.のちの『神の人間性』8'における 回顧でバルトは彼の神学の出発への動因になったものとして,宗教というもの,社会主義, 世界の状皇札 自由主義神学の倫理学,ブルーム-ルト,キルケゴ-ル,ドストエフスキー, オーファペック,さらに聖書の神の神聖性,を挙げている。 1911年の講演『イエス・キリストと社会的運動』9'で語っているのは宗教社会主義者,( ルトであり,. 1916年の講演『聖書における新しい世界』10'では後にまで一貫するUniv・. ersalismusが鮮明である。 2.ローマ書初版 8の19-25について。この箇所ほゲーテの引用を度々していることからも知られるよう に,. 「自然」を扱ったもので,このことにマルクヴアルトやゴルゲィツァーは十分留意し. 「われわれはわ ていないようである。バルトはここで人間を社会変革へ促してはいない。 れわれによって破壊された世界の仲保者・救い手といつかなり,いつか救いの言葉を語. り,いつか解放の行動をするよう召されており,またそうすると能力を与えられている」 (245)11'というのもゴルヴィツァーが理解するように行動への呼びかけでほなく,未来に おける自然の救済に先立ってわれわれが神の子として啓示されるはずだ,という意味であ (247)なのであり,. る.であるから「ここで問題になっているのは憧憤に満ちた叫び」 (248)0 「坤き」 (248)である.そしてこのわれわれの「希望の目標また内容は神である」 「一見明らかに社会主義的 ここでほ全く神学的・終末論的に考えられているのであって, 解釈」13'ではない。またこの未来を待望する終末論的基調ほ『ローマ書』第2版にも共通 している。 11の12--15についてo. ここでバルトは注目すべき言葉を述べている。. 「より重要なのは. 満ちようとしている歴史的時間であろう。その時には今消えつつあるマルクス主義のドグ マの炎が世界の真理として新しく輝き,社会主義的教会が社会主義的となった世界の中に 復活するであろう」 (332)。ここではバルトはマルクス主義の目標の希望を共にしている。 しかしゴルゲィツァ-がこれの繰り返しをKDⅢ/2に見る14)のは当たっていない。. 「こ. れがカール・マルクスが信奉者に最善のものとして,社会主義的行動への本来の駆動力と して与えた希望・終末論であった」. (KDⅢ/2,. 465)。この文脈はバルトが「共にすること. (460ff.)で様々の唯 ができない」抽象的一元論の批判であり(458ff.),さらにExkurs 物論を批判しているのである.引用した文もマルクス主義の紹介の一部で,マルクス主義 者の立場に立てば最善のものだ,ということである。引用文のすぐ前も,経済的・物質的.
(3) 68. 小. 林. 謙. 一. 発展だけが人類を幸福な国家とする,とあり,これが「最善の希望」だったのである。す なわちバルトほマルクス主義の終末論を後期には共にしていない。 歴史に対する暴行である」. (467)。. 「マルクス主義は--. しかしバルトほこのような一面的な唯物論が成立した. 事情にも理解を示し,社会および教会が人間の身体・物質・経済の問題に無関心だったこ とを批判し,教会はマルクス主義に対して良心の各めを感じるであろうと言う(467).メ ルトはマルクス主義をただ拒否するだけでほなく,教会に対する問いとして受け取るので ある.なお『ロー71書』第2版には「マルクス主義の炎」はない。ただプロレタ1)アート (394)と や社会主義者の「欠乏状態(B168e)は神に喜ばれるB16Beの比愉でしかない」 あり,これは,後に論じるように,社会主義も問いとして,否定の相の下に見られている ことを示す。. 13章についてo 1)この部分に「優越性」. (tJberlegenheit)という題を与えていること. からも知られるように,バルトほ第一に,政治・国家および革命に否定的である。 条項と機関銃が既存社会および革命の知恵である。」 がキリスト老にほ関わらない」. 「そのものとしては(an. (379)。彼らの「国家と革命ほ天にある」. 「法律 si°h)全政治. (380)からだ。. ナポレオンやクロムウェル,フ1)-トリッヒ大王と並んでペーペルも唾棄される(377).. 「ブルジョワ階級とプロレタリア階級との間に必然的に存在する問題も君たちにとってほ 存在しえない」 (378)。 2)しかし第二にまた,. 「君たちほ国家の生活に参加する義務があ. 「神の国は白からの政治的な道を行かねばならない」(387)からである。それゆえ「わ. る。」. れわれは国家と原則的に,ラディカルに闘い-税を払い--政党に入り,政治の枠で義 務であることを行なう。」具体的にほ「キリスト者ほ君主制・資本主義・軍国主義・愛国 主義・自由思想と関わることほできない。」 できまい」. 「君たちほ極端な左にしか位置を定めることが. (381)0 「必要とあらばストライキ・ゼネスト・市街戦を」. (390)。ここでバル. トほラディカルな社会主義着である。しかしこれがバルトの最後の言葉ではない。. 3)政. 治行動は手段である。それは「この世(Åon)の進行に対する,この世の内部での抗議」 であり,. .これは「原則的にラディカルに非政治的な方向に転換」しなければならぬ。国家. と闘うこと一国家に「『従う』ことによって君ほありがたいことに大事なこと(Sache),. すなわち神において成長すること,のための空間と時間,刺激,材料,行動平面を得るの だ」. (384).これが「神の国の政治的な道」である。目的は「愛が義務に代わる神の秩序. に従った,新しい人間を静かに彼岸に建設すること」 対してわれわれほ兄弟愛の中に生きる責任がある」 新しい世をつくる」ということ, (391)。であるからバルトの結論ほ,. (389)0. 「来るべき神の国に. 「積極的な原理」ほ「愛だけが. 「愛が新しいもの,彼岸的なものだ」ということである 「この決定的に新しい言葉が君たちの間で大きな声で. はっきりと語られるようにとだけ配慮せよ」 する」. (388)であり,. (391)ということである。. 「愛が国家を克服. (391)0. このようにバルトの結論ほ神学的であり,政治的行動については「優越性」の高みから 否定的に見ているのが基調である。先に引用したストライキなどへの言及も,積極的に勧 めているのではなく,やむを得ないこととして認めているのである(納税義務の履行につ.
(4) 69. カ-ル・′ミルトの社会主義 いてと同様)0. 「ローマ書初版におけるラディカルな国家否定」. (マルクヴァルH15'もこの. 観点から見られなければならない。たしかにここでのバルトにほ「ユ-トピア的・アナー (いったん)否定する キズム的」要素がある16,。しかレミルトは国家を「上から垂直に」 のであって,マルクヴアルトほこれを水平に左から,と誤解しているoなおバルトは後に は国家の意義をより肯定的に見,神学的に基礎づけるようになる.この点でマルクヴアル トがこのローマ書初版の「アナーキズム的」傾向で後のバルトの国家論をも解釈できると する17,のにほ賛成できない。ここではバルトにおいてアナーキズム的要素と神の国とが不 分明に混在しているが,後には分化・明確化され,現実の政治問題に対する態度決定はき ゎめて現実的になっていく。またバルトほここではすでに宗教社会主義に否定的である 「社会民主主義的に,しかし (初期の手紙を見ても初めから批判をもっての参加だった)o 宗教社会的にではなく!. 」 (390)0. 「神的なものを政治化してはならない,民主主義や社会. 民主主義のためだとしても」 (381)。社会主義ないし政治的行動のための基礎づ桝ままだ 稀薄であり,行動-の勧めほやや唐突な印象を与えているo 3.. 「弁証法神学」の時期. ゴルヴィツァーほ社会主義が神の国の比倫であることの-根拠としてバルトの1919年の 「社会民主主義に対立する無責 講演『社会の中のキリスト者』の一節を引用している18'。 任な傍観者・批判者としてでなく,その内部にあって同じ希望と罪をもつ者としで--」 (32)19'oしかしこの引用の先を読まねば 「その中に--胡の国の比噛が与えられている」 ならぬ。. 「批判,抗議,改革,組織化,民主化,社会化,革命,によって---神の国の意 (33)o宗教社会主義老の協議会で 味を満たそうとする誤謬に対して身を守らねばならぬ」 語られたものとしてはこの講演全体の主調は驚くはど社会主義に批判的であるo結びの言 葉は「キリスト老は社会の中で神の行為に注意深く従っていくほかに何ができようか?」 (37)であり,これ以外の「すべて過ぎ去るものは比噴にすぎない」. る「真正の,ラディカルな否定」. (24)o全体が神によ. (20)の相の下に見られているのである。また神の国の. 比噴ほ社会民主主義だけではなく,福音書では一般の日常的な生活やカペナウムの百卒長 25),経済や国家・科学・芸術・教会も社会民主主義と同様,比喰とな の中にあり(23, りうることが暗示され(26),社会主義の抗議にキルケゴール・トルストイ・イプセン・ク ッター・ニーチェの抗議が並列されている(30)0 同じ1919年の『過去と未来』20'と題する論文でバルトはナウマ-/とブル-ム-ルトを対 「社会主義における実践的なもの,自由主義 比している。バルトは全く後者の側に立つ。 的なもの,到達できるもの,つまり労働組合・協同組合運動だけを肯定し・社会主義の最 後の目標のもつ理解しがたいユ-トピア主義にほ肩をすくめる,という誘惑にブル-ムハ ルトは屈しなかった。彼ほとらわれない限をもって社会主義老のラディカリズム,世界の (47)oバルトはナウマンに反対して「見え 最後の目標の思想の中に神の国の比噴を見た」 ないもの,不可能なもの」へと決断する(42)oここでほバルトほきわめてラディカルであ. る。しかし注意すべきほ,第一,バルトはこの年は過渡期にあり・宗教社会主義から引き っいだものと彼独自の発見とが混ざりあっていること(なおローマ書第2版,またKDで.
(5) 70. 小. 林. 謙. 一. ほブルーム-ルトにも批判的になる),第二, ,{ルトは神の限から見た人間の根源的な不 可能性に関連づけて社会主義を見ていること,である。 この第二の点ほ1920年の講演『聖書の問いと洞察と展望』21'において明瞭になる. 「社会 主義の創設者・指導者たち」は「事実上神の問いの中を生きた」 (53)。であるから可能な (59)である。 ことは「待つこと,巡礼者・よそ者としての存在」 定の中にもないo肯定と否定が共に出てくる根源の認識にある」. 「真理ほ肯定の中にも否. (63)。ここにおいて神の 肯定と否定が明確になっているoただバルトが後年回顧しているように(『神の人間性』), この時期ほまず神の否が語られねばならなかったo 「新約聖書では肯定ほ否定の中の肯定」 である(67)。社会主義も否定の相の下に,すなわち問いとして,理解される。 1922年の『キリスト教宣教の危急と約束』と『神学の課題としての神の言葉』において も同様であるo. 「聖書ほまず答えをもたらし,聖書がそれに対して探し求めるものはこの 答えに対する問いであり・問う人間である。」22'「人間自身が問いであるo」28, (なおゴルゲ イツァーは「人間のあらゆる行為の不完全さがほんとうに洞察されたなら,それに対する 唯一つ可能な答えほ・新しく仕事を始めることだ」24'とのバルトの言葉を革命的行動への 鼓舞として引用する2き'が・そこの文脈を見れば,人間および人間の行動全体が大いなる否 の下にあり・引用文は「罪人」,. 「役立たずの僕」の相対的な行動の可能性として暗示され. ているのである。). 同年の講演『現在における倫理の問題』26'の基調も「人間の不可能性の秘密」 あり「人間の危機」. (128)で. (134)である.バルトは「千年王国の表象が現代では社会主義の未来. の希望として現実化しており,私はそれを信奉している」と告白する(139)。バルトほこ のような地上の歴史の目標を肯定し,この点でラガツの行動性や宗教社会主義をも肯定す 「愛における自由・自由における愛・--階級差や国境,戦争,強制と暴力,の. る(140)o 止場」・. 「この目標は熱狂主義の・理想主義の,共産主義の,アナーキズムの,そして・・-・・. よく注意せよ,また繰り返しキリスト教の,希望」であった(141)o しかレミルトは弁 証法的である。この目標ほ言葉であって, 「この行動を行なう老としてほ人間は不可能の 中に」ある(143)o. だから残されるのほ「希望を捨てない」こと, 「妥協せず降服せず, 自分および自分のすることに不忠実にならず,滅びる」こと(143)である.以上がもう一. 度「包括的な危機的(批判的)否定」. (146)とまとめられる.この点でシェロングが141. ページの文だけを引用する27'のほ一面的である.最終的にほ「神が,神のわれわれへの行 為が,答えなのである」 (147)o 「人間の行為の全体ほ義認・約束--・への参与である」 (148)oここで初めて相対的によりよい目的のための行動の僅かに積極的な可能性が現わ れるo. 「その価値ほ--・証しとして,. ・・・・・・創造の秩序の残照としてのものである. (149)0 バルトの生涯の盟友トゥ′けイゼンの1923年の論文『社会主義とキリスト教』が同じ問. 題に照明を与えてくれるo. 「われわれ持てる者〔市民的キリスト者〕と彼ら持たざる老 〔プロレタリアート〕とが真に共有するもの」,それほ「神の審きの中にあること」であ. り「審きの中に現われ出る神の燐みを求める待望と坤き」である(238)0. 「プロレタリア. とその困窮・貧しさ・無神性・無精神性ほわれわれキリスト教徒に対する使信であり」. (2.
(6) 71. カール・バルトの社会主義 38), 「社会主義は〔神の救いを求める〕大いなる問いによって生きている」. (239)0 「そこ. からそのよく知られた,いつも非難される否定性,つまりその忍耐のなさ・ユートピア主 (239)。それゆえ社会主義は教会にとっ 義・ラディカルな攻撃・永遠の不満が出ている」 で悔い改めへの叫びである(241)。そしてそれに答える「教会の課題は,生のリアルな困 窮の全体の中へ深く全く入りこみ,またそれに劣らず深く全く,この困董削こ答える神の啓 示に入りこみ,この二つの極の間に再び火花が散って啓示が呼び求められ聴き入れられる まで休まないこと」であり,. 「永遠の言葉の反映となること」である(245)。トゥルナイ. ゼソの場合もこの時期のバルトと同じく,人間全体が否定の相の下見にられており,社会 主義ほ神-の,また教会-の問いであって,教会の社会問題に対する答えとして与えられ るのではない(それゆえ宗教社会主義は拒否される)。マルクヴアルトが「神への問い」 を見望9',「トゥルナイゼソとバルトは問う者として『運動』のメソJ;-となった」と指摘 する80)のほ正しい。. バルトは1921年に『ローマ書』の書きかえを完了し,1922年の日付をもって出版した。81' (Ⅵ)0 「〔ク 「この書の初版は今やその長所と短所とともに舞台から消えることができる」 ッターやラガツから離れての〕バルトの独自の道ほロ-マ書第2版で明らかになったo. (トゥルナ. -この作品において世界内的発展という考えの残倖は最終的に取り除かれた。」 イゼン)32'ここでバルトの神学ほ確立した.モルトマンが「『弁証法的神学』とほ『神の 言葉の神学』の特別の形態の名前」であると言う33'のは当を得ている. /:ルトの後の「第 二の方向転換」. (『神の人間性』)ほ確立した立場の内部での否から肯定-の転換である。. この点マルクヴアルトが「ローマ書初版でカール・バルトは生涯の仕事を定めた」84'と言 うのにほ賛成できない。なおシュロソグは1920年の『聖書の問いと洞察と展望』にバルト の神学の転換の完了を見ている85). ロ-マ書13章を一貫しているのほ革命に対する否定的見方である. 誉の証示(Demonstration)として--革命をしないことを選ぶ」. 「われわれは神の栄 (461). 「革命的人間と. (465)0 「革命をしない して死ぬことによって以外にどうして神の行為を証示すべきか?」 ことが真の革命の最上の準備だ」 (467)0 12の21-13の7に「大いなる否定的可能性」と. いう表題がつけられていることからも知られるように,ここでもバルトは「行動しないこ (なおこの表題ほ人間の存在と行動 と」という否定を政治への関わりの基調としている。 の全体に対する否定を表わしており,宮田光雄が「社会全体にたいする総体的態度」の意 味にとっている86'のは当たらないと思う。)次の章「大いなる肯定的可能性」に至って初め 「愛が (A76)が可能になる。すなわち愛である. て「証示的な非行為から証示的な行為」 『善の行為』であって,その中で既存のものが否定され破壊される。 へ,反動から革命への循環運動にほ関わらない」. (480)0. ・--これほ悪から悪 「永遠の瞬間の認識の中でのみ愛. ほそのわざを行なう。そしてまさにそれゆえにそれが本来の革命的な行為である」(482)0 この行為は直接的に政治的な行為ではない。はとんど不可能な,純粋にキリスト教的な行 (なおバルトの序言参照。 「ここで読者を待つのほ良くも悪くも神学である」 (神の栄光のため)が (Ⅶ)0) 12章一15章全体でも「二次的行為」に対して「一次的行為」. 為である。.
(7) 72. 小. 林. 謙. 一. 一貫して強調されている。直接的な可能性としてほ「革命の痩撃に代わって『法』と『不 法』についての静かな考慮が--・正直な人間性と世俗性が,現われうる。. ---例えば政治. が,可能となる」. (472)に僅かに暗示されるにとどまり,これも社会主義への方向ほ含ん. でいないo神学的で「上から垂直」な方向づ桝ま初版と共通する。そして「両厳に共通す るいくつかの原則的なことがより重要である」. (Ⅶ)0. 「革命をしない」の立場も共通して. いる.ゴルゲィツァーの引用87'は一面的である.マルクヴアルトがバルトほここでポルシ ェゲイズムの革命を拒否してワイマール共和国にチャンスを与えようとしているのだと言 う88'のほ当たっているかもしれない.しかしローマ書第2版はロシア革命のしるしの下に 善かれた,と言う89'のは行き過ぎで,バルトはそれはど時代のできごとに制約されてほい ない。ここでのバルトは(その後しばらくも)全く超越的である。またマルクヴアルトが 続けて,ワイマールの社会民主主義-のバルトの共働の意味は国家転覆だ,と言うのも無 理である。バルトは国家の権力者に服従せよと繰り返し言っているのである。 後年(1940年)バルトは「神の永遠性」についてのExkursの中で,ローマ書第2版を 代表とするこの時期の自分の思想について回顧している(KDI/1, 子ブルーム-ルト・クッタ-. 714f.)0 「われわれは. ・ラガツらの神の国待望と社会主義的未来待望との同一視を. ---捨て,個人的・文化・政治的な世界内の待望を超え出,父ブル-ム-ルト・--をも超 え出て,純粋かつ絶対的な神とキリストの未来性(Nachzeitlicbkeit)へと出て行かねば ならなかった」. (714f.).バルトが宗教社会主義から出て彼独自の神学を発見したことを示. している。しかしこれは「新しい一面性」であり「失敗した反動」であった-. 「当時必. 要でほあった」が(715)。バルトほ当時自分が「超越的」であったことを認める(716)0. KDのバルトにおいてほ「前時間性・適時間性・後時間性(未来性)ほ同様に神の永遠性 であり,従って生ける神ご自身である(720)。ここに政治への関わりにおいてもユートピ ア主義的・超越的要素を拭い去って現実的態度決定を可能にする基礎が示されている。 4・教会闘争から第二次世界大戦期 この後バルトほゲッティンゲンに移って神学研究に専念しt政治・社会問題への直接の 言及ほ少ない. 1931年の『「キ1)スト教」. -の問い』40'においてバルトほロシアの共産主義. をファシズム・アメリカニズムと並べて宗教であると規定し(94),これらはキリスト教. の敵であって(96),これらと闘わねばならぬ(95)と言う。その闘いの方法は争うこと でほなく,. 「自由の宣教」である(99)0. 「キリスト教の使信がまさに今日の混乱と困窮の 中で純粋に,かの諸宗教の声といささかも混同されることなく,響かねばならぬ(97)。キ. リスト教ほ共産主義その他とは別の水準にある。それゆえにまた「キリスト者ほ共産主義 者・ファシスト・他のあらゆる宗教の信徒と連帯しなければなるまい一同じ一つの困 鼠・-・・一つの希望,. ・・-・一つの問いの中に結ばれて」 (98f・)oここでも大いな.る否定が 全人類を覆っている。それに対応してバルトはいよいよ純粋に神学的になっていく。なお バルトほ「純正の(ロシアの)共産主義」ほ「『社会民主主義』とほ全く違っている」(94) と社会民主主義を支持している。 1933年の『訣別』においてバルトは「すでに1919年にドイツの宗教社会主義老の構想を.
(8) 73. カール・バルトの社会主義. 徹底的に破壊した」と語り,. 「マルクス主義・自由主義その他-の私の神学的・教会的親. 近性」を否認している41'。. 1933年の政治の季節に/;ルトは『今日の神学的実存』42'を発表した。ここで『ローマ書』 第2版の立場が一層明瞭になっている。すなわち神学が純粋に神学でありつつ,そのまま 「あたか. で政治的な効果をもつ,というのであって,政治的神学の必要を否定している。 も何事も起こらなかったかのように--神学に,ただ神学をすることだ桝こ努力してい る」. (3)。. 「私ほこれも一つの態度決定であり,. あると考えている」 (3)0. --間接的には政治的な態度決定でさえ. 「今ここで守らねばならない自由とは,宣教と神学における神. の言葉の自由すなわち支配である」. (35).この立場は1937年にも繰り返される48)0. 『あたかも. われほここで,いずれにせよ,神学が少なくともヨーロッパのこの場所で何事もなかったかのように』一生き続けるために,努力している」 として政治を行なってはならないのだ」. は「相当に決然として,. (74)0. 「われ. 「教会は依然. (74)0 1940/41年のローマ書の講義の時もバルト. 『あたかも何事もなかったかのように』の原則から離れなかっ. た」44)0. バルトのこの時代への回顧をヴォルフが紹介している45'。. 「私の態度と活動に相当の変. 化が起こった。私の認識の意味と方向に関してでほなく,その適用に関して。そしてこの 変化を私は総統に負っている!それは人間の虚偽と残忍性と,また人間の愚かさと不安 との,巨大な啓示だった」. (73f.)。 「1933年の『今日の神学的実存』においては--・私が変. わったのでほない.私が語るべき空間とその共鳴がはげしく変わったのだ」. (74)。バルト. ほ教会闘争の時に突然政治的になったのでもなく,突然神学に逃避したのでもないoバル トが闘争に積極的に関与したのほ「ナチズムが自覚的・原則的・組織的な,第一戒の違反 (75)からである。当時のイギリス教会-の答えによればす を意味していることを見た」 なわも,. 「ヒトラ-とそのやり方・目標を嫌うからではなく,良心や教会の自由の理念の. ためでもなく,闘争の神学的前提において,事柄(Sache),信仰,告白---においてわれ われほ一つである」 (86)。この神学的Sacheのゆえに「ナチズムに対して教会的な中立と か然りと否とを保留するとかいうことは今日もはやありえないのである。 ---しかし残念 『今日の神学的実存』にかって擬供された逃道にと ながらドイツ告白教会の多数派は-・どまっている.」46'バルトほ『今日の神学的実存』の根本的な立場を変えているのではな い。ただその「適用」において前進しているのであって,神学の真理のゆえにナチズムに 対して公然と否を言わねばならないと言うのである。バルトは最晩年に「パルメソ宣言」 について,. 「その中には直接には一つも政治的な言葉はないが,しかしそれほ一つの政治. 的な事実だった」47'と述べている。ニ-メラ-によってもこの激動の中で「バルトほあたかも何事も起こらなかったかのように一神の言葉を取り次いでいたo」48'ヴォルフに ょっても「バルトにはそれにもかかわらず常に繰り返しイエス・キリストの教会のSache が問題だったのだ。」49). この時期のバルトの政治・社会-の見方を理論的に表現しているのは1938年の『義認と 法』50,である.ゴルヴィツァ-ほここにバルトの「民主主義への親近性」を指摘し51',.
(9) 74. 小. 林. 謙. 一. 『訣別』の立場をバルトはここで自から否定して「マルクス主義・自由主義その他への親 近性を肯定的に主張している」52'と言うが,この後半ほ誤りである。民主主義をバルトほ 支持している(53, Anm・ 306; 54)が, 「ここで専制政治が,かしこでアナーキーが, またファシズムもボルシュゲイズムも同様に,地に倒れる」(56)とあり,また「何が人 間的な法かほ何らかのロマン主義的もしくは自由主義的な自然法によっては量られない」 (56)とあることから知られるように,. 『訣別』の時と変わっていない。また,. 「教会が白 から善意の熱意をもって,半分もしくほ完全に政治的に行動して企て遂行しうるいかなる 直接行動も,教会が完全に非政治的に,全く国家の問題に介入せずに,来るべきキ.)スト の王国と,従って信仰のみによる義認を宣教すること,すなわち正しい・聖書にかなった 説教と教乱正しい・聖書にかなったサクラメントの執行,という行動のもつ積極的な重 要性とほ到底比較されえない」 (55)。この根本的態度ほ『今日の神学的実存』の立場と一 致しており,これはその後もー賞するo 5.戦後期. 1945年にバルトはドイツの再建について発言している. 「必要なことは・・-・ドイツの市 民階級が,それがまだ存在する限り,ついにほんとうに『市民的』となることであるc」53, このようにイデオロギーからではなく直接に現実を見る深さはバルトに一貫している. 『ドイツ人とわれわれ』という同年の講演54'もナチズムの核心をいかなる理論にも求め ず,. 「人間が人間の友でありえ,人間が無条件に他の人間に敵対するのでほなく無条件に. 友好的でありうるということ,そういうことがこの世の中にあるという確信が,ドイツ人 には欠けていたし,また今でもおそろしいほど欠けている」 (352)という点に見ている55'. 従って「だから彼らが必要としているのは確かに友であり,彼らに負っているものは確か に彼らの友となることである(350f)0 同じ姿勢は冷戦下の東西関係への発言にも見られる。. 「教会ほ,然りと言う時も否と言. う時も,何らかの政治的な原則やドグマや教理問答に関わるのではなくて,いつでも一定 の政治的な形態をのみ問題とするo」56'「キリスト者ほ,ただ全くある一定の方向に応答し ・--今日ここに置かれたままに応答し,それ以外には応答しようがないという形で応答す る.」57'すなわち常に具体的な政治的決断だけが問題となるのである. 「教会は決して『原 理的』に考え,語り,行動しない。教会はむしろ霊的に,それゆえその場合に応じて判断 を下す。」58'このような「今・ここで・具体的に」なされたバルトの政治的決断の例として ほ,西ドイツの再軍備・核武装・対ソ恐怖心に対する反対,反ユダヤ主義やアメリカのヴ ェトナム戦争に対する反対,また東欧諸国との西ドイツの講和に対する賛成,を挙げるこ とができる59)0. このことからしてバルトほ共産主義にも反共主義にも組しない。 「-ンガリー改革派教 会にとって決定的な問題とは東西問題ではなく,ソ連の残虐行為ではなく,現在の政府の 正義と不義の問題でほなく,単純に,教会それ自身の積極的な課題-・・・・だと私ほ見た.」60' 「教会の道ほ---の別の,第三の道,教会独自の道でなければならぬo」61'「私ほ,あなた の国〔東ドイツ〕を支配する体制の精神と言語,その方法と実践とに対して,ここ西側を.
(10) 75. カール・バルトの社会主義. 支配する諸権力・諸勢力に対すると同様,然りを言うことができない.」62'そこでバルトほ 「東方的また西方的な規定と方向をもつヨ-ロッパにではなく,自由な・第三の・独自の 道を歩むヨーロッパに味方する。」83'バルトが関心をもつのは「闘争ではなくて建設」64'な 「ソヴ. のである。この点で(この点でのみ)バルトは共産主義国家を評価しようとする。 ィェト・ロシアで-ひどく土と血に汚れた手をもって,われわれを憤激させずにほおか ないやり方であるが一着手されたことは,ともかく建設的な理念であり--社会問題の 解決なのである。」65). ただバルトは共産主義を好んではおらず,具体的に西側の市民として語っている。西側 「共産主義に対して究極 の状況の中で,今,具体的な建設の一歩を始めることを勧める。 的にして基本的な積極的防衛策というものは,すべての階層の人々にとって喜ばれる社会 関係を造り出すということなのです。」6¢'「共産主義を望まない者は一私たちすべては望 んでいません一共産主義に挑戦するのではなく,真面目な社会主義に味方すべきであり ます! 」67'バルトは今まで述べてきたような意味で社会主義者である。. 「私が正しい情報を. 得ているとすれば,君は今でもまだ社会主義着です。君がこの君の社会主義をどのように 理解しているにしても-・・=」. (ブルソナ-から/;ルトへ)68'.. この時期のバルトの政治・社会への関わりの神学的基礎づ桝ま『キリスト老共同体と市 民共同体』 (1946年)69'である。ここでは政治の場でのキ1)スト教的決断に際して保たるべ. き「方向と線」. (Pt. ll)が述べられる。その具体的な例がPt・. 18-26に挙げられる.す. なわち自由・平等・分権・公開外交・言論の自由・奉仕・国際性・抵抗権・防衛権であ 29)が,民主主義そのものが眼目 る。明らかにここには民主主義への親近性がある(Pt. ではなく,これらの例が神の国の比噴・対応・類比となることが重要なのである(Pt・. 27)0. 「キリスト教的政治において問題となるのほ,一つの体系でもなければ,その時その時に 実現すべき個々の思いつきでもなく,一定した方向,両方からの発見の連続的な線,すな わち解釈と適用の関連である」 (Pt. 27)0 Pt. 17ではこの「方向」ほ社会主義へ向かう。 「キリスト者共同体は様々の社会主義的可能性(社会自由主義?協同組合制度?サン ディカリズム?自由貨幣経済?修正もしくはラディカルマルクス主義?)の選択に際 して,. (あらゆる他の観点をさしおいて)社会正義を最高度に期待してよいと信じるもの. をともかくも選ぶであろう。」ここでバルトは一つの方向に限定することを慎重に避けてお 「マルクス主義-の親近性を肯定的 り,さらにすでに述べた他の著作を考え合わせると, に主張している」70'とまで言うことはできない。. Pt.. 27でも,解釈から適用-の線ほ常. に論議される余地があり,最後的な論拠はありえない,という注意が与えられている。ま たPt.. 14についてゴルゲィツァーほ「積極的には『比噛』とは,地上の社会的領域で起. こるできごとが神の国を『間接的に,鏡像として映し出す能力がある,ということであ る』」71'とバルトを半分引用するが,これほ慈意的である。ここでバルトが言っているのほ, 「キリスト教的観点からみての国家の 国家が神の国の比噴となりうるということである。 義は,それが教釦こおいて信じられ・教会によって宣教される神の国の比噴・対応・類比 としての存在だということである.」。ゴルゲィツァーは/;ルトを自己の革命的社会主義.
(11) 76. 小. 林. 謙. 一. にひきつけてしまう傾きが強く,またそれにとらわれすぎていて,ノミルトのもつ幅広さ・ 自由さに欠けている。この点シュロングの方が公正である。 「バルトほ自由民主主義にも アンガジェできた-その資本主義的基礎を知っていた軒こもかかわらず。」72'なお「教会は 〔国家に対して〕範型的に存在する」 (Pt. 33)。すなわち神の国の比喰であるという考え はこの時期の他の著作にも見られ,. 「共産主義国家も福音の意みの(もちろんひどく歪め. られ,暗黒化された)比倫」78'と呼ばれる。 6.バルトの発展. ここで政治・社会・社会主義へのバルトの感度の発展をまとめよう。初期にほ一方です べての人間の営みに対する大いなる否定が支配し,他方で社会主義またマルクス主義への 共感が直接的である。そしてこの二つが緊張しつつ結びついている。公刊された著作でほ 前者の方向が強く,私的な発言や講演などでは後者の線も強い。ラディカルな神の否に対 応して不可能を主張する。この傾向が最初期には未来志向のユートピア社会主義的終末論 の色合いをもち,ローマ書第2版の頃からほいわば上方からの不可能性へと超越していく。. それゆえ社会主義にふれることも少なくなる。「第二の転換」後の後期には肯定が強くな り,74'それに伴って初期の緊張関係は和らぎ,和解論を基礎として政治への関わりも整合 的になってくる。すなわち神の国の比喰とそれへの「方向と線」である。それと共に現実 主義-向かう。今・ここから出発する方向,いわばヴェクトルの矢,という考えが明確に なる。従って歴史の目標について語ることが少なくなる。初期にほ政治また社会主義は第 一に問いであった。後期にほ答え,それもきわめて実践的(praktisch)な答えとして理解 される。初期には労働紅合運動を社会主義の本質的なものとは見なかった(『過去と未来』 についての叙述参照)。最晩年の回顧ではほっきりと異なる。 「ザ-フェンダィルで私は社 会主義についてほ何よりも労働組合運動の問題にBgJbがあった. ・・・-・これが社会主義につ いての私の--きわめてささやかな,つまり主としてただ実践的な関心だった。」75' Ⅰ. 教会教義学における問題. この章では教会教義学(KD)の中で多かれ少なかれ直接に政治・社会主義に言及して いる箇所を検討する。. KDは1932年から1967年まで書きつがれ,未完に終わった大著であ. るが,われわれはこれを一体として見てよいであろう。バルト自身Ⅳ/2. (1955年)の序言. 「私の見る限り私の叙述ほ重大な重複や矛盾を今までのところ来たしていない」. で,. と言っている。 1・. KDI/2,. (Ⅷ). KDの立場ほ前章で後期のものとして述べたものと一致する. 796ff・ほローマ最12-15章を,第一に神の戒めの統一性の観点から,第. 二に戒めの共同性,第三に個人の平和(アイデンティティー)の観点から,扱っている。 「教会の 第一の点について。ローマ書13の1-7の政治倫理ほ「一つの異物」ではなく, 独自の生はこの政治的次元をももつ」 所に,. (808)のである。. (『ローマ書』第2版でも12の21の. 「この本をここから読み始めてはしくない」と警告を発している。)それゆえ教会は. 「国家秩序を共に担う責任」. (808)があり,これほ「政治的神奉仕(礼拝)の一つの形」.
(12) 77. カール・バルトの社会主義. (307)なのである。ここで注意すべきことは, な思考と行動を凌駕する」. 「キリスト老としての思考と行動は政治的. (808)ことである。同じ頃に善かれた『ローマ書新解』も12-. 15章76,を,倫理の根源ほ恵み・福音であり,倫理ほ福音の服従・実証・遂行であるとの観 点から統一して扱っている。キリスト老ほ神に自分を献げることが許されており,それゆ 「神. え世に合わせることはできない。これがキリスト老の政治-の関わりの基準であり, (207)が勧告全体の統一であ の国の善は-.・・聖霊の賜物としての義・平和・喜びにある」 る.ここで言われる結論は,革命をするのではなく国家権力に従え,ということである。 (KD‡/2)であり,二つ 第三の点について。 「キリスト教的責任と市民的責任とは一つ」 の領域の分裂がないとする点でルターの二王国説と異なるoなおバルトは国家権力が悪で あることを忘れてはいない(806f・)oしかしそれが神によって立てられたものであり・神 の忍耐を,すなわち怒りの形の恵みを表わしていることを忘れない。それは「キリストの 国の形」 (810)なのである。であるからそれに従う,すなわち共に責任を負う,必要があ るのである。この点でマルクヴアルトが「国家の完全な除去」の点だけを引用する77'のほ 一方的である. Ⅲ/4, 510ff.では極限状況における暴君殺害の問題を論じている.しかしこれほ一般に. 考えられるような国家権力への反抗権の問題としてとらえれているのではないo道に国家 (「各個人が がある個人を執行者としてその敵に死刑を下す例外的な場合と見られている。 自分の場所,自分の機能によって自身国家である」53lo)それは「国家の存在・秩序・存立 515 ff.では戦争の問題を論じる。「戦争は正しい国家 が脅かされる」 (511)場合である。 (522)。国家の正常な課題は-・-人間の の--正常な要素として承認されてほならない」 生を保ち助けることにある」 (524)からである。それゆえ戦争がなさるべき例外的極限状 況とほ「国家の存在,その独立の独自の生が脅かされ攻撃される緊急事態」. (527f・)であ. 「ある民族がその独自の生に特別の使命をもっていてそれを存在によって証しせねば (529)場合である。例えば「スイス連邦の独立と中 ならず,放棄することが許されない」 り,. 立と統一が侵される場合」. (529)である。. 534ff・ほ兵役拒否の問題を論じているoここで 「ア. も忌避する極限の場合があり得るが,その時も忌避者は「国家を否定してはならず」, ナーキズムと関わってはならない。」. 悟がなければならぬ」 らぬ」. (535). 。彼は攻撃するのでほなく苦しみを受ける覚 (536)。それは「全く国家への忠誠として意図され遂行されねばな. (535)0. 以上で明らかなようにバルトはアナーキストではない。. 「国家秩序そのものは神の意志. (511)。ただバルトにとって問題は建設であり,軍備よりも「万人にと (526)であり,国家,市民の総体および各個人が って意義があり正しい生の秩序の形成」. に基づいている」. その「することまたしないことによって平和をつくり出すこと」. (525)であるo. 「国家. バルトは国家を神学的に位置づけるのであって,その限界にも注意を怠らないo は教会において自からの本質的な限界にぶつかるであろうー教会そのものがまた国家の 最深の根拠であり支えなのである」 (538)0 2.教会と国家.
(13) 78. 小. 林. 謙. 一. 教会は国家の根拠であり限界であり,また模範である。. Ⅳ/2, 815ff.ほこの最後の点を 「教会の法は--人間の法全般,すなわち政治的・経済的・ 文化的・その他人間の共同体の法の形成と取扱いにとって範例的である」 (815) 教会法に即して論じているo. 神の国の法の「さしあたりの表示」・証し・想起・約束・指示であり,人間の法がよりよく. 。それは. なるための「よりよい可能性の提供」. (819)であるoその「よりよい点」とほ,教会の存 在の事実・優越した法の主体(キリスト)を示すこと,信頼が法の基礎であること,教会 が生の共同体であること・法の本来の対象が人間であること,生きた法であること,と具 体化される(820f・)oそして「世の法も比噴の能力をもち比喰を必要としている」. (822)。. キリストの支配がここにも働いているからである○世の法は「正義・平和・自由を求めて 叫んでいる」. (823)o教会の法ほ世の法を「相対的に修正する働き」をもつ(823)のであ. るoゴルゲィツァ-はここを取り上げて,. 「バルトほ正しい『教会の秩序』をアナーキズ. ムー社会主義軌ソヴィ-ト民主主義的(ratedemokratisch)グループとして描写した」78, と言い,また「前衛的幹部グループ(avandgardistischp Kadergruppe)」79,と規定するが, これは無理であるo教会の法は模範であると同時に「世で法と呼ばれているあらゆるもの とは異なる」. 「独特な法」 (771)なのである.バルトは(769ff.)ブルソナーやゾ-ムの教 会観を批判しているが・ゴルゲィツァーの考えほ彼らの「人格共同体またほ兄弟共同体」 (769) 「法なき精神と愛の構成体」. (775)に近いように思われる。. 3・世界の中の教会 KDⅣ/3・. 971ff・は教会の世に対するつとめを論じる。その中でわれわれの主題に関係 する部分を取り上げようo (10)奉仕(Di∂konie)o 教会は「社会的・経済的・政治的状態 に対する共同責任」から逃れてほならず, 「社会的不法の変革」へ呼び出されており,そ れゆえ「キリスト教的社会批判を公然と語る」べきであり, 「政治的な,すなわち醜い歌 を歌わねばならぬ」. (1023)oバルトは「福祉国家」に対して好意的ではないが否定的でも. ないo 「それはキ7)スト教の奉仕を不要にしないo」福祉「国家による配慮に奉仕は協力す る」 (1024)。. (12)共同の創出。教会は異なる民族・人種・教養・そして階級の間に共同を. 創出する(1031f・)。これは「教会の比噛的な行動」,. 「意味と力に満ちたしるし」, の平和の証し」である(1034).それは「社会問題を超越し相対化し」 「止揚する」. 「地上. 「第三. の道」である(1033).だから教会は「一つの階級およびその利害・イデオロギ丁.エー トス●モラルと自己を同一化」してはならない(1032)0. 「教会ほブルジョワとその資本主 義的理念・立場・プロレタリアとその社会主義的理念・立場,に対して肯定的にも否定的 にも語りかけてほならぬo教会ほ両者に対して,彼らはみな人間として神の子であること を許されており・それゆえすべて書きものは神からのみ期待すべきであり,神にのみ責任 を負い・そしてまさにそれゆえに互いに結ばれており一つである,ことを精力的に語らね ばならぬ」. (1033)。このように教会ほ「階級闘争の行きつく終極を指し示す」. (1033)ので. あるoゴ′げィツァーほこのような「階級差を越える共同体としての教会」をきびしく批 判する.80'これは次の点に関わるo バルトは教会が周囲の世界に全く従属的でありかつ全く自由であることを弁証法的に論.
(14) 79. カール・バルトの社会主義. c,教会の見える本質と見えざる本質の区別について語る(Ⅳ/3,. 811ff・)。ゴルゲィツァ. ーはここにバルトの「二元論」を見るo80'彼ほこれを「見える教会」に一元化し,階級闘. 争を闘う教会を主束する。しかし教会の中心的主題(Sache)は「証し」と「範例的存在」 と「仕える言葉」であって,その内容は「神のわざ」である(855)。これが「人間のあら ゆる行為と無行為の基盤」に関わる「唯一重要なSache」である(857)。正しい教会の 基準は告白する・宣教の教会であって,中心にキリストが立っていることである。それゆ え「信徒は第一に決定的にキリスト老であり,次いで第二に国民であり市民であり,その 他文化的結社の一員なのである」(848).バルトはどこまでも神学的に考えるが,ゴルゲィ ツァーにとっては社会主義的変革が主たる関心であって神学はそのための前提の位置を占 「教会があらゆる場合に選ばねばならぬ,あるいほ選んではならぬとい. めるまうである.. う社会学的可能性は存在しない」. (848).教会ほ自由であって,その時々の状況の中で国. 家や社会の一つの形態を選び,それぞれに相対的に肯定的また否定的に対応してよいので あるo. ゴルゲィツァーほこの自由を認めず,教会の階級規定性を主張して80',. 「ソゲィヱ. ト民主主義的前衛的幹部グループ」としての教会の形態を選ぶ。これは彼に教会の力が神 の力であることへの信療,すなわち見えぎる教会の本質の認識,が稀薄である点に原因が ある。 「神の力が教会の見えざる本質の力である。教会の見える本質はその弱さによって 規定され性格づけられている」. (854)。バルトほまた「教会は他の人間に対して力をふる (950)と言う.ゴル. ってほならない-・・・教会は人間を処理(behandeln)してはならない」 ゲィツァーを羊ここからほ教会と周囲の世界との力の体制(階級支配)の分析が帰結せねば ならぬと言う81'が,それはゴルヴィツァー自身の帰結である。バルトの帰結は「謙遜に世 の人間のかたわらに立ち,彼と連帯して--教会をも世の人間をも越える福音を証しする こと」 (949)である. 4.神の国の比聴. 教会のつとめの本質ほ証しであり,. 「神の国そのものでほなく,神の国の比噴である」. (Ⅳ/3,967)。また「教会の見えざる本質とイエス・キリスト--との間は等しくはなく同 (834)。このようにKDでほ第一に教会が神の国の比 一ではさらにないが,対応がある」 (Ⅳ/2, 729)0 喰である。 「歴史の中に存在する教会の中に神の国は・--その歴史をもつ」 「キリスト者は神の子として これと関連して個々のキリスト者はキ1)ストの比噴である。 イエス・キリストの本質の類比として存在する」. (Ⅳ/3, 612)0 「自由な,喜ばしい,平和. な人間は-・・・・キリストの存在と行為の比噴である(Ⅳ/1,. 867).このように第一に教会と. そのわざが神の国の比噴である。第二に,われわれが前章の終わりにふれたように,国家 が比噛である。教会ほ比愉の内容面を,国家はその形式面を表わしている。なおゴルゲィ ツァーが神の国について「神との交わりの中でのⅢeilに満ちた,兄弟愛の人間社会のヴ ィジョン」と述べている82)のほバルトの終末論とほ違っているように思われる. ここで第三に問題となるのほ,聖書の真理・教会の真理の他に,世俗世界の中の「他の 122ff.)oそれは「キ1) 「神の国の比噴」となる場合である(Ⅳ/3, 言葉」が真理の言葉, ストの支配のしるし,キリストの預言の証し以上でほなく」. 「周辺の切線でしかない」 (13.
(15) 80. 小. 林. 7)。しかしそれが「神の人間性を指し示し」. 謙. 一. (138)ているかもしれない。. 「それほ小さな個. 人的な無秩序のみならず,国家と社会の中の大きな無秩序に向かい合って鎮めることので きない不安であろうか?」それに立ち向かう「人間性一般」であろうか?. (140)。それ. が真理の言葉である基準は, 1.聖書の言葉を照明し注解となること。 2.教義・信条を 延長し補い修正すること。 3・相対的に善悪を区別し,解放し共同を建てる実を結ぶこ と.. 4・慰めと批判の両面をもつ建設的な言葉であって,教会形成への動因となること,. の4点である(141ff.)。それは「特定の時と状況の中で唯一の言葉〔キリスト〕を照らし 出し解明し--・確証し,堅く,具体的に明瞭また確実にする助けとなる」 (128)。これほ 教会の中で多数者に聞かれることはないであろう。ただ少数の「聴く者の前衛(Vorhut)」 だけがそれを担うであろう(149)。だからそれは「主の言葉として固定化しカノン化する ことはできず」, 「平和の杵(vinculum. pacis)を破壊」してほならない(150)。それほい つか「あらゆる異端・分裂・分派と党派の形成」に至りつくであろう(151)。バルトはこ の部分の終りに「たった一つの例も挙げなかった」と注記している(152)0 「問題の原則 的な研究」だけを述べたのである。 「政治・社会・経済・思想・芸術・文学・道徳・宗教に おける人類の生」の中にその例があるいは現われているかもしれない(152)。しかし「こ (153)oゴルゲ こで考慮の対象となりう豆現象ほすべて問題的であり議論の余地がある」. 「社会主義暑が取り組ん ィツァーはここに社会主義が「言わず語らず」意味されていて, でいる危機との闘いに加わるようバルトほキリスト老の責任を問うている」88'と言うが, これほゴルゲィツァー自身の解釈であって,. 「問題的であり議論の余地がある。」バルト. はここで一貫して「かもしれない(m6chte, d也rfte)」と接続法を使用し,もしくほ疑問 形を使っで膜重に留保をおいて述べているのであって,ゴルヴィツァーはそれを一つの領 域に限定し,かつ「固定化しカノン化する」傾向があるoそれゆえゴルゲィツァーとユン ゲルらの議論が生じてくるのであろう。84'ともかくもここではバルトの方がゴルゲィツァ -よりも広くかつ達くまで見ているように思われるo 5.教会の前進 バルトは「前方へ(Vorwarts) 取り従うべき, §69・. 3,. !」という言葉を何度か語っている.. Vorwarts!という呼び声」. 「今ここで聴き. (Ⅳ/3, 1028).ゴルゲィツァ-ほこの他Ⅳ/3. 「イエスほ勝利者」やⅣ/1,. 726ff.などを引いて, 「前方へ!」また「変化」を 「進歩の運動,すなわち社会主義運動」85'の意に解しているo しかレミルトの文脈に沿っ 「全人間状況,それゆえ世界史を変えるできごとはキ て正しく理解しなければならない。 リストの存在であって,彼自身が新しいものである」. (Ⅳ/3, 814)0. 「キリストにおいてか. (816)。教会はこのことを「信仰におい の変化が,神の国の到来が,一度限り起こった」 て先取し」 (810), 「決然とした存在と態度と行為」によって「福の国を証し」する(820)0 この「決然たる態度」ほ第一に「信療」である(820)。すなわち教会は「歴史的な状況や 関連に直面して反動的もしくは革命的な疫撃に身を委ねることはできない」 (821).教会 ほ「待つ」。第二には「特定の決断」である、。教会ほ「多くの小さな,相対的な歩みをも って」 (822) 「世界のできごとを変えるであろう」. (823)0 「この相対的行動ほ目じるし.
(16) 81. カール・バルトの社会主義. (824)。すなわち「キリストにおいて下された決定を証し 「世界史の目標に向かっての前進(Vor(823)である。第三には希望である。. (Merkmale)を建てることだ」 すること」. w畠rts)。前進とほ,教会が歴史の今ほ隠されている新しい現実の啓示を見るということで ある」 (824)。すなわち「イエス・キリストを待つ」ことである(834).-このように「前. 進」といい「変革」といい「目標」といっても,それほ常にキリストに啓示された新しい 世との関わりで言われているのであり,それらの世俗的理解(反動であれ進歩であれ)は 斥けられるのである。. Ⅳ/3, 301ff・でも「前進」とは光と間の闘いにおけるキリストの前. 進である。 Ⅳ/1, 731ff.に述べられている「見えざる教会」をゴルヴィツァーは無視して 「変革」を主張し いる86,が,バルトほむしろこれを強調しているのであり,また「解放」 ているのでもない。ゴルヴィツァーにとって「見えぎる教会」ほ当然の前提として言及し 「まるで. ないのかもしれないが,バルトにとってはそれは前提乾すぎないものでほない.. やっと今本来の主題に,キリスト教の使信の実質に到達したかのように.・-・それに対して (Ⅳ/1, 719f・) ほキリスト論などほ--=核に対する表皮でしかないかのように--」 6.革. 命. 旧約聖書でも新約聖書でも,神ほ抑圧され貧しい老の側に立つ,とバルトは言う(Ⅰ/1, 43A)oそれゆえ「神の義への信仰からまっすぐに具体的な政治的な問題性と課題が出てく る」 (434)。これはゴルヴィツァ-87'やマルクヴアルト88'の引用するとおりであるo しその後にはこう続く。. しか. 「われわれすべてが寡婦でありみなし児であり,. しく悲惨な着である」 (435)0. ・・--神の前に貧 (なお「信仰者は法治国家をのみ欲し肯定しうる」と同じ真. にあるのほマルクヴアルトへの反論となる.). 「イエスは-ほとんど党派的と非難される. ほど-世にあって--小さく,弱く,貧しい老-日を向けた」. (Ⅳ/2, 188)o. これらの. 者はすぐに続けて「罪人,異邦人」と言いかえられていることにも表わされるように,経 済的だけでなく,九宗教的義を含めてあらゆる所有を奪われている着であるoイエスは また政治・経済・宗教的観点からみても「革命的」であった(191f・)。しかし彼は「いか (191)0 「安心してイエスの保守主義を語ることもでき. なるプログラムも主張しなかった」. 「もろも. る」 (193)。つまりイエスの革命ほ人間の進歩的もしくほ反動的なそれではない0. ろの秩序から見るといかなるカテゴリーにも分類できない神の国の自由そのものが彼を, (192)。このように「神の国」は「あらゆ 他の誰よりもラディカルな革命家にしたのだ」 る人間の国に対するラディカルな反対であり,答えられない問いであり,鎮められない不 安」である(197)。この点は「弁証法神学」が繰り返されている。こうして「イエスをあの 貧しい者として,あの-われわれほ危険な言葉をあえて使う一貧しい着たちのParteig畠ngerとして,最後にあの革命家として理解」しなければならぬ(200)oしかしこれほ 「さしあたり」のことであって, 「最後の言葉でほない」 (200)0 「決定的な点は--・王的 人間イエスが人間と世界に対する神の肯定を反映し表現していることである」. (200)o. ルゲィツァ-の引即9'ほ第一にこの「革命」の意味を社会主義革命の意味にとっており, 第二に「決定的な点」を見ていない。 「教会の使倍も十分に革命的である」 (749)。その意味ほ「イエス・キリスト,新しい. ゴ.
(17) 82. 小. 林. 人類,神の支配,大いなる自由・回心の必要,. 謙. 一. vivificatio,服従,十字架,を宣教する」. ということである(749)o. 信徒の服従の場合も同様である。 「すべての所与〔生の諸秩尻歴史の諸力,諸権威, 神々,絶対的な権力〕は人の子の存在において神によってすで軒こ完全に打ち破られてい る」 (615)oこの神の革命をキリスト者ほ知り,それを実証し,証示し,それに対応する. (614)oしかしその方法ほ戦闘でほない.. 「キリストの戦い(militia Christi)は他人との争 いではなく,決定的に自分自身との闘いであり,他人から争われ,他人から様々な形で苦 しみを受けそれを甘受することである」(618)oそれは「人間の間のあらゆる敵味方関係を. 無効にする」 (622)oそれゆえ「Revoluti6nchenほ問題でほない」 (616)0 「小さな革命や 攻撃---は歴史の諸力に未だかって一度もはんとうの限界をおいたことがなく,いわんや それらを打ち破ったこともない.神の国・神の革命がそれらを打ち破る-すでに打ち破 (615)。この最後の文をゴルゲィツァーは引用して, 「これ ったoイエスが勝利者である」 はザーフユングィルの牧師が人間の革命について常に言っていたことより比較にならぬく らい懐疑的である」90'とバルトを批判するoゴルヴィツァーにとってほザ-フユングィル 時代のバルトの,それも-面が,重要なのである。このような「革命をしない」という立 場はp-マ書第2版以来変わっていない。ゴルゲィツァーの立場は,あるイデオロギーや 政治的・経済的な力によって原理的に規定されてキリストの律法とは違った律法に従い, 世のシェ-マに従う, 「世俗化の危険」 (753ff.)に近いように思われる。 なおバルトは革命が是認される極限の場合を外国人学生たちを相手に論じているo91,こ こでバルトは三つの相対的な条件を挙げ,ボン-ッファーたちのヒトラー暗殺計画に保留 を表明しているoそして三つの条件すべてを満たす革命ほと問われて, 「おそらくアメ1) カ革命だろう」と答えている(165)0. 「神の秩序に服従する革命というものほあるかも知. れないo. -・-しかしそれなら,革命ほ国家にそむいたものではなく,国家のためのもので あるだろう。ここにほ国家を転覆するという問題はない。よりよき政府を樹立するために ●. ●. ●. ●. 現在の支配者をどうするかという問題だ」. (169。強調編者)。バルトはその時のスイスや ドイツ・アメリカに社会主義革命の必要があるとは考えていない。また「ブルジョア的教. 会もないし,社会主義的な教会もない」 を自から否定している。. (182)という発言はローマ書初贋の考え(S.332). 7.社会主義. 創造静からする倫理を扱ったKDⅢ/4でバルトは労働の問題を論じ,. 「正しい労働」の 基準としてSacblicbkeit,尊厳,思慮,限界と並んで第三に人間性,すなわち共同人間性の基 準を挙げている(613ff・)。この基準を損うものに非共同性と空しい欲望がある(616f.)o これの結果として第一,競争が起こり,第二,組織化と企業が搾取の原理に支配されてい る(618ff・)oこれに対して確かに緩和や改善もなされており,そこで「資本主義」もいわ ば今でほ社会主義化しているのだと論じる者もいる(622f.)o. しかし「対抗運動」がなさ れねばならぬoこの点で労働立法・社会保障・経営参加・さらに「カール・マルクスの名 と結びついた」労働運動が一定の効果をあげてきた○しかしまだ十分とは言えないo階級.
(18) 83. カール・バルトの社会主義. 闘争は除去されておらず,搾取は根絶されていない。. 「まだ最終的判断は下せないが」,. 共産圏の「国家社会主義(Staatssozialismus)」においても本質的には同じ状態にある (624)0 (62. 教会はこの点で今まで罪を犯してきた。教会は「弱者の側に加担(Parteinabme)」 4)すべきであり,. 「『左に』位置を定め」 (625)なければならない。しかし「だからとい. 「『革 って教会ほ自己の便信をかの対抗運動のプログラムと同一化する必要ほない」(625)0 「相対的な意義と力を 命』と呼ばれる」ものも「最もラディカルな改革の試み」であり, (62 持ちうるにすぎない」。 「悪の根はもっと深く,人間の罪(Verfehlung)の中にある」 5)o. 「教会は社会的進歩あるいはまた社会主義のあれこれの形に-常に特定の時・所・. 状況の中でまさに最も効果のある形に-ち(強詞J(ルト)味方できるし,しなければな ●. らぬ」 (626)。しかし「教会の決定的な言葉ほ社会的進歩もしくほ社会主義の宣教でほな. く,あらゆる『人間の無神性と不義』. (ロマ1の18)に対する神の革命の宣教であり,す. なわちまさにすでに来りまた今釆つつある神の国の宣教である」. (626)。これがここでの. バルトの最後の言葉である.神の国,神の革命が競争・闘争・搾取の終りであるo 「労働の基準」を さらにバルトのこの叙述のおかれている文脈を見なければならない0 (593)であり「人間の自己保. 包む枠ほその本質であり,それは「人間存在の活動的肯定」. 存」 (602)のためである.それは神の被造世界および人間に対する配慮,. 「摂理」のわざ (544,. への人間の対応である(543).そして「摂理」のわざは神の「周辺の行為」 であって,それに対応する人間の自己保存の行為(労働)も人間の行為の周辺(Umkreis) (599)なのである。神の中心的行為は「イエス・キリスト であり,すなわちParergo□ における神の国の到来」であり「和解」である(591)。それに対応する人間の 本来の・直接の・本質的な行為ほ教会のつと捌こ参加することである(536f・, を具体化すれば(533ff.),. 1.教会の存在に参加しそれを肯定すること,. 592). Ergon,. 591)o. これ. 2・教会の建設,. 3.教会の外の世界に対する奉仕,であり,この第3の点はさらに,愛・伝道・福音の宣 教・預言者的なつとめと分けられる。 「ザーフェソヴィル時代からの距離 626を引用して, ゴルゲィツァーはこのKDⅢ/4, を感じる」92'と批判するo彼は続けて「改革主義と革命とはもはや排他的対立関係をこない」 と言うが,これほ違う。バルトがここで「社会主義」と言うのは,今・ここでの「社会的 (なお戦争を論じた箇所でも「平和の形成は国 進歩」 -の方向を指しているのだと思う。 家を民主主義へ,民主主義を社会的民主主義-,形成すること」 いる。)バルトの「社会主義」はあくまでもpraktisch. Ⅲ/4, 525f・と言われて. (現実的)なものである。バルト. はゴルヴィツァーのように93'社会主義を理論化することはない.ここでバルトにとって神 の国が中心であり,社会主義ほ周辺に属する。両者は水準を異にしており,社会主義が神 の国の比喰であるとほ言われていない。神の国への対応ほ教会の本来のつとめであって, 社会主義を含む「労働」は神の摂理への対応なのである。 7.荘DIV/4,. §78.. 以上のまとめとして遺稿として残されたⅣ/4の§78,. 「人間の義のための闘い」94)を概.
(19) 84. 小. 林. 謙. 一. 観しよう。 1・キリスト暑が闘うべき敵ほ人類の困窮すなわち無秩序である。これほ神の秩序から の離反であるから,闘いほ「神の義の告知」の形をとる。人類の「内部での違いや対立よ りもこの普遍的な人類の困窮の方が」重要なのである(357f.)。. 無秩序の成立」が「革命」と呼ばれ,. 「繰り返し新しく起こる. 「そうであればキリスト者ほ--・生まれながらの反. 革命家である」 (360)。神の義・神の秩序が第一であって,人間の義はそれに含まれる。 だから決定的な行動は「神の国よ来りませ」という神への呼びかけである。しかしこの祈 りは行動を含まなければ偽りとなる。さしあたりのものであり不完全なものであっても, 人間の義の実現のために行動がなされねばならぬ。そこで「今・ここで」の「小さな希望 の生命と力」 (362)が必要になってくる。 2・闘うべき敵ほ「神なき諸力」である。世界史ほ「もろもろの絶対主義」の歴史であ り,人間の運動や転覆,政治・経済の進歩ほ人間によってでほなく,これら「絶対主義」 「神なき話力」によって動かされている。これら諸力としてマモン,イデオロギー, Chthonische. das. (例えばスポーツや旅行熱など)と並んで第一に「政治的絶対主義」が挙げ. られる.国家(Staatlichkeit)そのものほ神の制定によるo. しかし問題ほ「政治のデーモ. ン化」である。人間の神からの離反によって政治は人間の人間による支配となる。 「それほ君主制的,また貴族制的,民主軌民族主義的,社会主義的理 の理念」である。 念でもありうる」 (375)。すなわち「小さなリヴァイアサンになる可能性はおそらくあら. 「帝国. ゆる国家にある」. (378)。バルトはホップスがこの可能性を「肯定し促進し教唆した」点 で彼に批判的である(378)0 3・神の国とは「人類をなお支配している無秩序を克服する行為における神ご自身」 61)であり,. 「王また主として神が来りつくvり出し建てる地上の平和」. なわち「神の国ほ超越であり」. 「人間の義のわざから自由」. (405)である。す. (422)である.それゆえ「神. の国より来りませ」の祈りほ「純粋な願い」である。この関連で子ブルーム-ルトの中期 の活動に対する批判がなされる(445ff.).すなわち彼ほ自然科学・社会民主主義・東方の 宗教といった,時間・歴史の中の変化やできごとに神の国の到来・神の国の反射を見よう とする傾向があった.これほ「神の国概念の此岸化」. (444)である.また彼の追随者への. 批判もなされる。彼らは師の発見を体系化し,教義や律法を立てた(445)。 4・地上の不義に対する蜂起の核,最も真正にして最強最善のものほ祈りであり待つこ とである。しかしその折りほ同時に「前方に向かって」生き,行動することを含む.すな わち神の国に向かって生き,自由を用いることである。. がEilenの中で起こる」. (456).. 「キ.)スト者のWartenそのもの. (これはバルトがブルーム-ルトから受け継いで以来変. わっていない。)キリスト老ほ何をすべきか。人間の義のために闘うべきである。ここ に神の国への対応があるo神の国の到来を祈り求める人間の行動ほ神の国にふさわしい (reichsmaBig)oその行動ほある人間や人間の集団に敵対したものではなく,人間のため 一神の愛の対象たる人間のため-であるoキ1)スト者ほ神が人間の味方であることの 証人となる。すなわち「自由と平和と喜びのうちに生きる人間の権利」 (461)のためであ. (3.
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