美しい自然から形成する手へ : 十八世紀における美学・詩学的概念形成に関する概観と考察
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(2) 美しい自然から形成する手へ. 分である。なぜなら自然的な世界よりも虚構的に描かれた世界の方が. 世界を正確に把捉できないからである。それゆえに人間が二次的に描 き出す虚構的・可能的な世界は、人間の視力に合わせた仕方で(後述. は、言わば人間の視力が不完全であり、最善のものとして創造された. な必然性を帯びていると見なされることになる。. るからである。なるほど神が創造した最善なる自然的世界は第一義的 に美しいものであろう。しかし人為的に形成される芸術はそれと直接 的に繋がるものではな-、独自の合理的秩序を内包するものでなけれ ばならない。従って芸術は、月然を直接に受け入れるというよりも、 その美的な本質を人間的な方法で学ぶのである。. のに対して、芸術(請). 『詩学』の有名な一節で、歴史家が. こうしていわゆる「美しい自然の模倣」という理念が掠えられるこ とになる。アリス-テレスもまた. 実際に生じた出来事を描-(模倣する). 倣するのは、起こり得るかもしれない出来事であり'普遍的なもので (またそれゆえ詩の方が歴史よ-も品格が高-'哲学に近い) (7). (9). 詩・音楽・絵画・彫刻・舞踏等々を芸術とい-枠で括ることが始まっ たのは、十八世紀なのである。こうした芸術の統一理論への指向は、. プ-を介して、芸術を統一的に把握する近代的な視座が成立しえたと いう点である。そもそも、工芸や科学の活動とは区別された意味で、. もう一つ忘れてならないのは、この時代、自然の模倣というコンセ. しているとも言えるわけである。. 主観性論への不可避的な推移を、言い換えれば、模倣論の破綻を暗示. 既に自己矛盾を抱えており、古典主義的な理性論からロマン主義的な. では、「美しい自然の模倣」という考え方自体、ードロフが言うように、. そのものが、理想的なものを作り出す原理と化すにいたる。その意味. れ、もはや外にある範型に依存しない人間の自立した想像力-創造力. の価値を認めるための論証になっている点である。やがてそれは'フ -コ-$1言う「近代」への転換期において更にラディカルに再解釈さ. 実は「人間による創造」という本来は形容矛盾であるべき事柄に固有. (8). の感性的な認識に沿った仕方で)世界の統一的な連関を垣間見せて-. れる限りにおいて固有の意義を有するのである、と。. (4). 理念的本質が自然的対象に対して超越的であれ内在的であれ、プラ -ン以来、芸術作品が芸術の外にある何らかの範型の模倣であること. 啓蒙主義はこうして、ありのままの被造世界の神学的な優位を保持 しながら、理想的に描かれた虚構世界の意義を評価する解釈図式を作. (5). に変わりはなかった.芸術が自然美の模倣であるという考え方 ドロフの言うmimetique理論 は、十八世紀前半まで芸術理論の中核. り出す。重要なことは、それが一見神学に譲歩するように見えながら、. にあったが、フ-コ-の言う「古典主義」. -. 世界という一つの包括的な磁場の中で自在に連結・連想することので きた中世的な類比の思考モ-ドは'既に迷信の彼方に追いやられてい. 外界の写しではありえない。なぜならあらゆるものを'神が創造した. (6). の時代には、模倣も素朴な. 感覚的な事物に内在する普遍的な構成契機として現前するのである。 こうして或る種の自然的対象は、われわれに美しさを感知させる内的. 理想的本質が自存するわけではないにせよ、それは明らかに自然的・. 必ずしも思弁的に美の範型を抽出したものではない。とはいえ、ここ. 二八. でも普遍的な範型性そのものは重要である。感覚的事物を離れて美の. 森本. 優れているという見地は'そのままではキリスー教神学に抵触するか ら。そこで次のように考える。つまり、自然が必ずしも美し-ないの. ー. が模. と. -. 述べていた。しかしアリス-テレス的な現実主義では、理論的に不十. ある.
(3) 〓. シャルル・バ-ウ-の『同一の原理に還元された諸芸術』 (一七四六年) という著作の標題に端的に現れている。バ-ウ-はそこで、諸芸術は. い、え、ここで人間精神の1元的な理性論的規定が反省され、感覚能力 もまた理性に類比的なものとして問題化されるようになったことは、. ツは'明断判明性とは何かを明確化するために、『認識、真理、観念に. 必要である。ところで感覚的認識は分析的とは言えない。ライプニッ. 明であるためには、その構成要素の論理的かつ因果的な分析的理解が. ー以来、異なる認識は明断・判明なものとされるが、認識の内容が判. では知性的な認識と感覚的な認識の違いはどこにあるのか。デカル. その後の観念論の展開にも影響を及ぼす。. いる。. 外延的明噺性. は認識はまず不明なものと明断なものに分けられ'明断な認識が更に. (〓ハ八四年)の中で認識の分類を行っている。そこで. 判明なものと混雑したものに分かれる。例えば「赤」. ついての省察』. つかの曲折がある。既に述べたように、理想的な自然の模倣という発. 断で、他の色からの識別を可能にするが、「赤とは何か」をわれわれは. 芸術(ないし美). 想において、模倣という他者依存的な原理は既に内在的に否定されつ. 混雑した(confusa)明断性という議論を肯定的に引き継ぎ、分析的な. を想起させることでしか語れないのである。バウムガルテンは、この. の感覚は十分明. つあるわけだが、他者に依存しない自立の原理を積極的に語り出すた. 他人に説明できない。現にその色を提示したり、類似した過去の表象 (一七五〇年)の冒頭で、美. 判明性は持たないが、多-の要素的表象を含みつつ、それらに統一を. 与えているような認識を「外延的に明断」と位置づける。それは単な. て「含蓄のある(印象深い)表象」(perceptiopraegnans‥vie)sagende. 学を「感覚的認識の学(scientiacognitionissensitivae)」と定義するo asthetischの語源aisthetosは、「感覚的に知覚される」ことを意味するo. Vorstel)ung)を生み出すことで、そこには分析的に明断な場合とは異. る混沌ではな-、多-の要素(徴標)を同時的に与えることで、われ. 性が舞台の中心に登場する余地はなかった。バウムガルテンは、感覚. なる感覚的な完全性が実現されるというのである。カッシ-ラ-が『啓. 啓蒙期の思想の中核にratioつまり理性(と、それが先天的に蔵する本. や感情の領域の独自性に注目し、かつ理性が関わる哲学的真理と感覚. にとって、感覚的認識が理性的認識より劣ったものであり、美学が「下. 蒙主義の哲学』で揚げているわかりやすい例を引こう。. (13). 或る景色から得た印象を人に説明する際に、その風景を個々の構成. 二九. たのである。もっとも、スコラ的な価値序列の発想の枠内にあった彼. 的なものとを和解させるために、哲学の領域を拡張することを意図し. われに或る種の明断な「展望」をもたらす性質であるとされる。そし. (u). (12). 有観念) が位置するとすれば、外界からの印象を受動的に受け取る感. バウムガルテンは『美学(Aesthetica)』. 明らかにする必要があった。これが美学の課題である。. めには、われわれの美の経験がどういう固有の特性を持つのかを更に. の自立性という概念が形成されて-るには、い-. 作は五〇年代に独訳され、ドイツの啓蒙主義思想家にも影響を与えて. その共通原理は美しい自然の模倣である、と論じたのである。この著. 素材において異なるが原理においては共通であるという考え方を示し、. (10). 級認識の学」(gロOSeO-Ogiainferior)であることに変わりはない。とは 美しい自然から形成する手へ. 森本.
(4) 美しい自然から形成する手へ. て画家や詩人のような芸術家のみがこのような全体像を捕捉し、そ. して純粋に直観し考察することによってはじめて捕捉される。そし. 含まれていないのである。この美は、ただ風景をまとまった全体と. もしれないが、この認識のうちには風景の「美」はこれっばかりも. 景を地質学用語で記述するというようにして明確な概念を与えよう とする人jj'なるほどそれによって新しい自然科学的認識を得るか. 要素に分解し、そしてこれら一つ一つの構成要素に対し'例えば風. 森本. でな-、全体としての現象の純粋に内在的な様態を統合してそれを一. 象それ自体に注目すること、現象の(根拠)にさかのぼろうとするの. カッシ-ラ-によれば'「現象の背後を眺めようとするのではなく現. れを生き生きした姿において表現することができるのである。. (14). 完全性の具体的契機として六つの性質を挙げ、それぞれ詳し-分析し. アとしてその後に継承されてゆ-。バウムガルテンは更に、そうした. 呼ばれるのだが(ライプニッツ)、美を感覚的認識そのものの完全性に ょって説明しようとする啓蒙主義的な論法は、美学の根本的なアイデ. 多様なものが統一され調和している状態が「完全性」(perfectio)と. 体としての感覚的認識の持つ特有の完全性こそが、美なのである。. っの感覚的全体像にまとめあげようとすること」に、芸術家の直観に ょる感覚的認識の固有性があるというのである。そして、こうした全. (15). ている。美が続.1であるとは言っても、それはなお分解可能な普遍的 要素が様々に絡みあったものであり、そうした要素に即した議論が必 要なのである。. 快の問題. …≡;. は、われわれに喜びを与えるのかと。. (auf. eine. die. Sinne. fauende. (一. が人間に感覚的な喜びを感じさせるのだ、というもので. 〔芸術〕と美的知の根本原則について」. 能力、われわれの肉体のあらゆる精妙さが含まれる。それどころか. は、外的形態、つまり線や面や立体とそれらの運動・変化の持つあ らゆる完全性、多様な音や色の調和、--われわれの魂のすべての. か-て、感覚に対して一個の完全として表象されうるあらゆるもの は、美の対象ともなりうるという結論が得られる。こうした対象に. 与える」という議論を引照し、芸術は感覚的な表現であるから、芸術 における美とは完全性の感覚的な表現である、という定義を与える。. 七五七年) の中で彼は'ヴォルフの心理学から「完全性が人間に快を. いるのである。「美的技芸. かし既にその議論の内に、美が自然から独立する可能性が示唆されて. に留まりつつ、感覚的な完全性としての美を明確に定義している。し. あった。メンデルスゾ-ンは、「美しい自然の模倣」という思想の枠内. る「完全性」. 啓蒙主義がこの間いに対して用意した答は、そもそも美の本質であ. (ないし'その模倣). が「美しい自然」 の模倣にあると考えた。しかし当然ながら、次のよ うに問うことができる。なぜ美しいものは快を与えるのか、なぜ自然. なる必要の充足ではな-快を与えるものであるとし、その喜びの源泉. であるという点も常に重要な論点となる。バ-ウ-も、芸術は人に単. 認識という観点からの美の規定と同時に、美は「快」を与えるもの. (17). われわれの外的状態の完全性、つまり名誉・-つろぎ・富なども、 それらが感覚を喜ばせる仕方で. in. (16). 三.
(5) Weise)表象されるに足るものならば、除外することはできない。い まや、われわれの魂を喜ばせる一般的な手段、つまり「感覚的に完. り上げられてゆ-0. ただメンデルスゾ-ンの場合、美の内在的規定が、.快という実践的. なモチ-フと素朴に重ね合わされている点が特徴的である。彼にとっ. て芸術家の使命は、現実の「ありふれた・下品な」. しかし. (gemein)自然を越. 全な表象」をわれわれは発見したのである。そして美的技芸の目的 は、喜ばれること であるのだから、以下の原 (適意‥Nugefa--en). (rtihren)ことであるo. 外部依存的な性質を芸術に帰することであって、芸術の自立性という. 人を感動させるという「効用」が目的であるとすれば、それは新たな. それによってわれわれを「感動させる」. えて、神が造ったであろうような美しい自然を模倣すること、そして. (柑). 内に存する、ということである。. 観念とは矛盾するのではないか。後述するように、モ-リッツはこの. を構成する要素間に創り出される(調和、対称、等々のような)純粋. 芸術作品は自然を反映する(必要がない)のである。その美と卓越性 は、何らかの既に存在する実在への対応の関数ではな-、むしろそれ. 方でではあるが、人に完全なるもの・調和的なるものの何であるかを. 観点からして重要だったはずである。美は論理的な知識とは違った仕. 蒙主義にとっては、快ないし「効用」という本質は、例えば文学を通 じて魂の教化・教育を図るという「道具主義」 (instrument巴ism). 点を問題にしたのである。しかし一種のプラグマティズムでもある啓. に内的な関係の関数なのである。こうした自立した、調和的で、具体. (21). 画のように視覚的直観を介して直接自然を模倣できる(と見なされる). は絵画のように」という規範的なスロ-ガンはよく知られている。絵. 模倣論からの転換を促した一つの要因として、詩、つまり言語芸術 における美をどう扱うかというジャンル論的な問題が挙げられる。「請. 記号としての芸術. となりうるものでもあった。. 的な一個の全体としての芸術作品という新しい考え方が、ここでは模. ウッドマンシ-は、この規定を次のように論評している。「要するに、. (20). 芸術と異なり、言語において美つまり自然の模倣ということがどのよ うにして成り立つのかという疑問が'当然のように生じて-る。驚-. の. 芸術〕および美的な知〔文学〕 の本質は、芸術の持つ感覚的に完全 な表象の内に、あるいは芸術によって表象される感覚的な完全性の. 則は自然なものとして前提できる。つまり、美的な技芸〔いわゆる. 四. 教えるのである。芸術作品は、爆発的に読書文化が普及しっつあった 当時において、人々を啓蒙し理性的に訓育してゆ-ための有効な道具. 倣理論の諸要素と絡まりあっている」。要素の分析的な区別ではな-、 それらが全体として作り出す調和や一致という関係が問題となってい るのは、バウムガルテンの言う外延的に明断という感覚的認識の特徴 を受けてのことである。し.かしいまやその関係のあり方そのものに美 の根拠が求められ、感覚的な「1個の完全」 (eineVo))kommenheit) という性質がいかなる存在領域でも見出しうるのだとすれば、それは 既に自然という範型からは本質的に独立したカテゴリ-となっている のである。いまや、自然を見て喜ぶことと美に喜ぶこととは1致しな い。こうして美的な作品の自立性という理念が、全体性・調和性・完 森本. 全性といった啓蒙主義的なタ-ミノロジ-との関連において次第に練 美しい自然から形成する手へ. 三. (19).
(6) 美し′い自然から形成する手へ べきことは、このパズルを解-過程で、むしろ詩の方が造形芸術より. も美的な優位に立つという逆転が見られること、そして文学(Poesie). 冒. ている。. be--eslettres). それには通常、詩と雄弁が含まれると考えられている. つまり文学との区別に言及しながら、次のように述べ. beauxarts)つまりいわゆる芸術と、「美的知」. メンデルスゾ-ンは、先の引用にもあった「美的技芸」(sch6neKtinste‥. うした区分・序列が芸術のジャンル分けにも波及してゆ-ことになる。. (sch6neWissenschaft‥. であるというバウムガルテンの有名な規定は、お. る自然的記号の部分だけで自足しなければならないのである。音楽. ことは殆どない。従ってこれらの芸術は、それが感覚的に表現でき. をむしろ別の何かとして描-という人間的な合意に関係づけられる. は、悪意的な理解の余地を容れない。その表現が、あれこれの対象. ら、自然的記号を利用する。絵画・彫刻・建築・音楽・舞踏の表現. 音における自然のすべての美しさ、あらゆる被造物の素晴らしさ、 。美的技芸の対象はより限定されたものである。それはもっば. 象に及ぶ。詩人は、われわれの魂がそれについての明断な概念を作 りだすことのできるあらゆるものを表現しうるのである。色や形や. の明断な概念を持つ限り、悪意的記号によって表現することができ る。従って美的な知の領域は、考えられるものであればあらゆる対. 芸一般の本質を、感覚的に完全な芸術的表象とすることができよう。 --すべての可能的かつ現実的な事物は、われわれがそれについて. のずと納得がゆ-であろう。この規定を手がかりとして、美的な技. 的に完全な言葉」. 合わせたものを言葉(Rede)と呼ぶことからすれば、詩とは「感覚. える音声や文字によって表現する。さて、多-の語を理性的に組み. は、対象を悪意的な記号によって、つまり意味をもって聴こ. 美的な知. -. が芸術の自立を語る上での一種特権的なモデルとなってゆくというこ とである。. この文脈で重要な役割を果たしたのは、記号についての当時の理論. である。既にヴォルフは、後のパ-スの「指標」と「象徴」を思わせ る「自然的記号」と「悪意的記号」の区別を行ない、言語が悪意的記. おいて既に自覚されていたものだが、ドイツ啓蒙派は、理性的なもの (その完全な形は神の認識である)と人間理性に必然的に纏いつ-感覚 的な制約(それゆえ人間の理性的認識は不完全である)との絡み合い についての議論の枢要部分に、記号を用いた認識の可能性の問題を組 み込んだという点で、記号論史上特異な位置を占めている。「しるしと はそれが諸感覚にもちこむ像の外に、なにかそれとことなるものを、 テイヌスの定義は、-だんの悪意的関係を確認すると同時に、感覚的 な記号の把捉が概念的認識の通路となることを示してもいる。もちろ (十全かつ直観的に)知り尽-すことはできない。しかし、われわ れが感覚の混沌の中から概念を掴み出して-るときのやり方を合理的 に組織すれば、より理性的で判明な認識に到達することができると考 えられる。悪意的な記号は、こうした組織化を許容する点では、自然 に密着した記号よ-もむしろ優れているのである。 概念を感覚に繋ぐものとしての記号が芸術の媒体でもある以上、こ. -. 森本. 号に属することを指摘している。もちろん記号作用における意味する ものと意味されるものとの悪意的関係は、ス-ア派のレク-ン理論に. (23). それ自身によって思惟の中へともたらすものである」というアウグス. (24). が --. (22). んライプニッツによれば、人間の知性が被造世界の一切を完全に判明 に.
(7) は、その表現が意味を持たない音でできている以上、蓄蔵やポプラ の概念を表示することはできない。 まず、悪意的記号と自然的記号との対比が、文学と狭義の芸術の対. る。これによって文学は、美術の空間性(並存性). に対立する時間性. (継起性)という根源的な感覚形式を通じて、直接的な模倣とは異なる. 仕方で「自然」に結合されることになる。-ドロフの言い方を借りれ ば、レッシングは、芸術の記号は「有縁化されて」 (motive)いなけれ. ばならないという模倣論の考え方を保持しっつ、言語芸術の独自性を. 主張する可能性を模索したのである。 しかし、完全性・調和性といった美の本質は非時間的なものである0. ことは、理性的表現にとってむしろメリッ-である。音楽が音を描-. (26). のに対して、言語は音を描-のではな-、音を通じて概念や理想を描. しかしこうした見地に留まる限り、言語における感覚性は、表現の. から生じる。従ってそうした美は、これらの諸部分が並列的に存在. ない詩人は'美の描写において物体的な美を描-ということは全-. スである感覚は'時間・空間という二つの形式の下で可能になると考. カン-に侯つまでもな-、主観と外部的な自然とのインタ-フェイ. する過程という継起的な行為として描-。つまり「文学も物体を描写 しはするが、行為(Hand-ung)を通じて暗示的に(andeutungsweise). んでいる。しかし彼はそれを完成品としてではな-、神がそれを製作. 一三. えられている。周知のようにレッシングは、芸術という感覚的美を生. のである。なるほどホメロスは、「アキレスの盾」について績接描き込. そうしたやり方は'文学における美的な調和の造形とは無縁だという. を構成している事物を要素に分解し、それを順に描写しょうとするが、. へボ詩人は、絵画の美を文学の上になぞろうとして、統一的な全体. 放棄する。. (29). 描-のである」。そして行為的-継起的に事物を描こうとする場合'物 美しい自然から形成する手へ. 森本. み出す対象を、この二つの形式に対応づけてジャンル分けしたのであ. 記号論美学の限界. 違った議論の方法を探ったのが、レッシングの『ラオコオン』(1七六 六年) である。. 芸術論の根本に置きながら、自然的記号/悪意的記号という対比とは. という疑念を生じる。同じように記号論的な観点からのジャンル論を. することを要求する。--美の要素を継起的にしか示すことのでき. 物体の美は、一度に見通せる多様な諸部分が作り出す一致した効果. るレッシングの答えは必ずしも明快ではない。. もし文学が時間的な次元に繋ぎ留められるのだとすれば、文学はいか. 美的である。ここで文学が優位に立つのは、既に美の基準が「完全性」 という理念的なものに置き換えられているからである。音声という感. にして美を実現できるのかという反間が当然生じる。この間いに対す. 比に重ね合わされる。両者は'感覚的完全性を表すという点で、共に. (27). 覚的な質は、表現されるものに対して純粋に窓意的な関係しかもたな い。表現媒体として自然から直接的制約を受けないという性質を持つ. (28). (25). 外皮としての音声に限定されており、美的完全性が要求する「感覚的」 という条件に照らしたとき、やはり自然的記号に劣るのではないか、. くのである。. 五.
(8) 美しい自然から形成する手へ. の「最も感覚的なイメ-ジを喚起するような性質」だけを選んで'描 写を生きたものにするという「簡潔さ」(Sparsamkeit)が求められる。 っまり、問題なのは行為の描写ということそれ自体ではな-、行為 描写を通じて、絵画や彫刻とは違った仕方で美しい感覚的イメ-ジが. 次の一節である。. がゆえに独自の美を形成するのではな-'言語を用いる「にもかかわ らず」美的たりうるのである。その点を最も明瞭に語っているのは、. ているのである。文学は、言語という時間的・継起的な媒体を用いる. 作り出されることである。描写の簡潔さとは継起性の縮減を意味する から、レッシングは言語の継起性それ自体は美の源泉ではないと言っ. (30). この区別がいかにして可能なのか'言い換えれば言語がイリユ-ジョ. はない言語(物体を描こうとする言語)とを区別しようとしているが、. レッシングは'文学の媒体としての言語(継起性の言語)とそうで. 描写が美的なイリユ-ジョンを醸し出すかどうかということなのであ. 重要なのは行為の描写ということではな-、或る作品における行為の. 描-方がより文学的・美的であるというナンセンスに陥ってしまう。. 的なのである。そうでなければ、陶器を描-よりも陶工の仕事ぶりを. 時間的なイメ-ジとして「暗示的・間接的」に表象させるからこそ美. 意味作用は、当の描かれた行為が、その行為連関の調和的完全性を非. 描写が優れているのは、行為を継起的に描いているからではないこと になる。むしろ'言語記号によって行為が描かれるという第一次的な. ような継起性によって生じると言っている。だとすれば、ホメロスの. 三四. 最後に再び総合することは非常に難しくなる--からである。. 確かに全体を部分に分解することは容易になるが、これら諸部分を. 性とがそこで衝突し、前者が後者の内に解消されることによって,. からである。そしてこれが欠如するのは、物体の共存と言語の継起. てとりわけ重要なイリユ-ジョン(dasTauschende)が欠けている. てである。なぜなら物体のそのような言語的描写には、文学にとっ. そうした描写能力を認めないのは、文学の媒体としての言葉に対し. (31). であり、それは物体を順次描写するのではない. この点について、ミッチェルは次のように論評している。. ルでは有効な区別原理であるとしても'「暗示的・間接的」な意味作用 を考慮に入れるや否や'その境界がぼやけてしまうということである0. 的'行為描写/物描写という二項対立は、直接的な意味作用のレヴュ. 通じて暗示的に描-」とも述べていたのである。つまり時間的/空間. い。あまつさえレッシングは、「文学も物体を描写しはするが、行為を. 的でないなどという反記号論的な主張を、彼が行っているわけではな. 向へ傾斜させるもののように語られている。しかし文学的言語が悪意. という特徴は、物の代理描写に適しているから、言語を非文学的な方. きるのかどうかを明らかにしてはいない。なるほど言語記号の悪意性. たとえそれが継起的であっても'窒息的な記号だからである。私が ンを産出するかどうかを識別するための純粋に言語的な特徴が摘出で. だからもう一度言おう。私は言葉が物体的な全体をその諸部分に即 して描写する能力を持つことを否定しない。なぜなら言語記号は、. る。. 森本. レッシングはここで、文学にとって本質的なのはイリユ-ジョンー 一つまり、時間的・記号的なものを通じて、非時間的な全体性や調和 を幻視させる効果. -.
(9) 時間的芸術と空間的芸術のあいだの区別は、表象の第一段階、記号 とシニフィエのあいだの、直接的というか 「具合のよい関係」. (andeutungsweise)生じる、推定という第二のレヴェルに. のレ. 興味深い。その思想的動向とは、美を実現するものが'記号、つまり. 美的表現の媒体の様態には還元できないという議論、美的なイリユジョンをもたらす想像力の作用への着目、更にそうした想像力の行使. において特権的な位置を占めるものとしての詩・文学(Poesie). 関心といったものである。詩的な表現の自由度の内に、自立した近代. モ-リッツの芸術論が挙げられる。-ドロフも『象徴の理論』の中で、. マン派を通じての言語芸術観のひな型を示した事例として、K・ph・. 啓蒙主義美学のコンセプ-を批判的に受け継ぎながら、古典派・ロ. モーリッツの「自己尭結的なもの」論. 的であってしかるべきではないのかo芸術の自立化と人間の「自律化」 とは、手をたずさえて進行するのである。. 前提にしている。いまや芸術的な創造においては、人間こそが第一次. に神あるいは神的自然の絶対性を前にした人間存在の「第二次性」を. 真理へと接近する人間固有の可能性を見出そうとするのが、ライブニ ッツ以来の記号論の伝統である。しかしこうした考え方自体、いまだ. 号論的な議論を利用したわけである。言語記号の悪意性や継起性に、. は、そのことを正当化するために、もはや時代遅れとなりつつある記. ン主義へ向かう時代状況を反映しているとも一111E,える.ただレッシング. 的自我を抱えた芸術家が活動する新しい境位を見出したことは、ロマ. への. ヴェルにおいてのみ作用しているということが判明する。表象が「間 接的に」. おいては、絵画と詩のシニフィエは、それぞれの資格によってシニ フィアンとなり、時間的芸術と空間的芸術のあいだの境界は消失する0 ミッチェルによれば、「レッシングのいうジャンルの法則の目ざすち のは明らかに、空間的芸術と時間的芸術は別物ではあっても同等であ ると見なすことではな-、ふたつの芸術を分離して、彼が自然な不平 等と見なす状態にお-ことにある。詩の方が、『われわれの想像力の無 限の広がりと'それが生み出すイメ-ジのつかみどころのなさ』. に、『いっそう広い表現領域』を有して」いるということを彼は主張し たいのである。記号の内在的特徴から、文学的な言語の固有性を客観 的に規定することはできない。或る特徴を持つ言語が必然的にイリユ -ジョンを生むのではな-'美的なイリユ-ジョンを感じさせる言語. に遭遇した時、われわれはそれを文学的な言語と呼ぶに過ぎないから である.レッシングのホメPス賛美は、単に行為の描写が行われてい ることへの言語学的な貴賓ではな-、そうした描写を通じてイリユジョンを生み出すことのできる詩人の言語的造形能力へのオマ-ジュ. モ-リッツの議論に高い歴史的評価を与えている。. モ-リッツの代表的な美学的論考は、「美を形成する模倣について」. モ-ゼス・メンデルスゾ-ン氏へ」に既に示. (36). なのである。そして彼にとって、詩人の創造は'他の諸芸術にもまし. (34). (一七八八年)であるが、その輪郭は小論「それ自体において完結した ものの概念について. -. (32). ゆえ. て美的なのである。 レッシングは、啓蒙主義的記号論に立脚した芸術論の最終走者とし てではな-、この種の記号論では片づけることのできな-なった思想. (35). されている。後者は、1七八五年三月にBer)inischeMonatsschrift誌. 音. 的動向を、既に明白に露呈させているという点で、われわれにとって 美しい自然から形成する手へ. 森本. 六. (33).
(10) 美しい自然から形成する手へ 上に発表されており'そのときのタイ-ルは「それ自体において完結. 有用なものは、一定の使用を前提としており、使用者のために役立. の一面が含まれていた。道具主義は、神の類比物たる人間が、完全性 に感動する性質を潜在的に持っているという前提に立脚しっつ、芸術. 越えつつあったのだが、そこには啓蒙主義的な「効用」論(道具主義). 人間に快(喜び)を与えるという見地に立って、単純な模倣論を乗り. フもまた完結した存在となるのであり、ナイフがそれ自体において(an. 限りにおいてである。ナイ 方で使用し満足を見出す(完全性を増す) フの側から言えば'私がそれを使用するという事態の内でのみ、ナイ. 持つのである。ナイフや時計に価値があるのは、私がそれを有益な仕. あるものへと関係づけられる限りで、有用なものは「価値」. つことを目的としている。つまりそれ自体ではな-、それ自体の外に. 作品はそ-した本性に働きかけるものと考える。逆に言えば、読者・. な立場に立てば、美的なものもまた有用なものに含まれることになる0. が生じるという事態の中でのみ価値. これに対して、モ-リッツによれば「美的なものは、その目的を自. を持つからである。. 的とし、そうした満足(美の快). undf守sich)存在意義を持つわけではない。もしメンデルスゾ-ン的. 鑑賞者に感動を与えないような作品は美的ではない'ということであ る。これは一種の受容美学であり、今度は外なる自然ではな-受容者. なぜなら'美的なものは鑑賞者がそれを鑑賞して満足を得ることを目. は、われわれに「満足」 (Vergntigen)、つまり「快」を与えて-れる ものとして、有用なものゾと美的なものが並べられ、両者はどう違うの. らの外には持っていない。それは何か他のものの完全性のためにでは. それ自体としての完全性・完結性のゆえにのみ現に存在(dasein)し、. かと問われている。先取り的に言えば、メンデルスゾ-ンの道具主義 的な発想では、美的なものが有用なものに還元されてしまうという点 を、モ-リッツは批判するのである。この「美しいもの」「有用なもの」. そのようなものとして鑑賞者を満足させる。鑑賞者と作品の関係にお. な-、それ自体の内的な完全性のゆえに存在しているのである」。美は、. 「快いもの」という三者の対比は、既に『ニコマコス倫理学』の中に見. 美的なものは'われわれの観察をまさに自らへと引き寄せつつ、し. いても、メンデルスゾ-ンの場合とは違って'むしろ自立的な作品の 方が主体となるのである。. ヴとしての「快」指向を適切に位置づけることにある。つま-'「美し. りをなすというのだが、その趣旨は'書き行為を導-根源的なドライ. 出される。書き行為におけるあるべき対象選択を論じた条りでアリス ーテレスは'善い人は、醜・害・苦ではな-美・益・快と適切な関わ. (39). モ-リッツが批判するのは、まさにこの点である。「試み」の最初で. の反応能力に作品の美的価値が依存する恰好になるわけである。. 既に触れたように啓蒙主義は、美が感覚的な完全性であり、それが. という半ばバーウ-的なものであった。. いものも役に立つものもわれわれには快いものとして現れるのである」。 もちろんモ-リッツがここで行おうとしているのは、美と益を対立さ. (38). したものという概念の下での、あらゆる美的技芸及び美的知の結合の. 三六. (Wert)を. の違いを開明して、美の独自性を基礎づけ せ、それらが与える「快」 ることであって、「快」 の根源性を言うことではない。. 森本. 試み」 ("Versuch einer Vereinigung a)ler sch6nen K旨ste und WissenschaftenunterdemBegriffdesinsichse)bstVo)lendeten"). (37).
(11) て、われわれが美しい対象の中で自らを失うかのようにしてしまう。 まさにこうした自己自身の喪失、忘却こそが、美がわれわれに与え. に奉仕する客体として作品に向かう限り、作品と純粋に関わることは. それは真の神ぺの愛ではない.同様に'美的な快を与えるという目的. ばら-の間'この観察をわれわれ自身から引き離すのである。そし. る、最高度に純粋で非利己的な満足なのである。われわれはこの瞬. ここではそれは'快惚的な自己喪失にま は、美によってもたらされる。逆. たと言われる。. の文化情況. とりわけ出版文化. との関係を反映するものであっ. する者は多-はないであろう。モ-リッツの反道具主義的な自立論か らは、こうして一種高踏的な芸術観が帰結するのであり、それは当時. うということである。現実には、芸術美の内的・自立的な価値を理解. 諭が受容への指向を遮断する以上、現実に作品が正当に受容されるか どうかはーリヴィアルな問題となり、全-偶然の手に委ねられてしま. こうした純粋主義からは、もう1つの効果も生じる.それは'自立. ことになる。. 人々の満足と賞賛が得られるであろう.逆に賞賛という作品外のもの を目的として創作すれば、おのずから作品の自己目的性は損なわれる. 己目的性を実現することであり、それを実現しさえすれば、おのずと. できない。自己完結的なものとしての作品それ自体を愛さなければな らないのである。芸術家もまた同じである。重要なことは、作品の自. ない。. 鑑賞者が受け取る満足 で高められた純粋な快なのだが. ではない。つまり満足は、自己完結的な全体としての作品によって結 果的に喚起されるものであり、この喚起のために、それを目的として. 美があるのではない、というのである。こうしてモ-リッツは'芽生 え始めたばかりの受容美学を粉砕する。 (作品) が'伐惚的(脱自的)な自己犠牲の対象となる時、美. すぐに気づかれるように、この言い回しには宗教臭さがある。美的 なもの. の類比物とし. 的なものは神のアナロジ-となっているのである。後述のように、実 際にモ-リッツの美の自立論は、神の自立性(絶対性). 階級の増加に伴って、読書人口が増大し、文学を受容する層が拡大す. 詳しい研究は他にゆずらなければならないが、十八世紀は芸術、特 に文学の生産・流通・消費の様式が劇的に変化した時代である。中産. 客体としてではな-'それ自体のためにあるものとして美を求め'美. (作品)を考えるということを基本にしている。しかも. 的なものの内に自らを忘却してしまおうとまでする態度、この純粋か つ無私的.(uneigenntitzig)な状態の理想化は、若いモ-リッツが父親. かったため、生活の糧は出版によって得るのが普通であった。この時. 音頭. から受け継いだドイツ敬慶主義の宗教的態度を反映していると言われ る。ウッドマンシ-が的確に指摘するように'「その起源において、芸 美しい自然から形成する手へ. 森本. するが、ドイツに文学を庇護するパ-ロンとなるような有力宮廷がな. る。新聞や定期刊行物(雑誌) が文字文化を普及させ、小説や書評の ような新しいジャンルが形成される。物書きとして自活する者も出現. て美的なもの. -. 存在の犠牲に供するのである。それゆえ美的なものにおける満足は、 それが本物である限り、ますます非利己的な「愛」に近づ-に違い. 間に、われわれの個別的で制約された存在を、或る種のより高次な. 術の自立性の理論は、明らかにズラされた神学」なのである。 自己の利益のために神を愛することは神を道具的に見ることであり、. (41). (42). -. -. -. (40).
(12) 美しい自然から形成する手へ. (Vie)schreiberei). は宿命となる。. (eingebi-det)ものであ. 化と低俗文化の分裂は、早-もこの時代に始まる。シラ-はゲ-テに. 度な文学作品ではな-、気晴らし的な大衆的読み物であった。高尚文. わけだが、実際に大量に読まれるのは、今日まで残っているような高. さなものの内に写し取ったものである。自然は、直接的にその大い. る一切の美しい全体は、自然の大いなる全体における最高の美を小. bi)den)しなければならないのである。--それゆえ芸術家の手にな. 察すれば'われわれの表象の内部においてかの大いなる全体と類似 したものであり、永遠の確固とした規則に従って自らを形成 (si°h. るにすぎない.しかし、この想像されたものでさ、え、全体として観. の解き難い連鎖のために'単に想像される. なる全体である。その内部に生じるおのおの個々の全体は、諸事物. 諸事物の大いなる連関(Zusammenl)ang)は、しかし本来唯一の異. 三八. 宛てた或る手紙の中で、「大衆(Pub-icum)への唯一可能な関係は戦争. 読者層は女性や下層階級にも拡大し、文学はいよいよ商業化してゆ -。啓蒙主義者は、その教育的な可能性を肯定的に評価したりもする. 「二枚看板」と「書き散らかし」. 期の作家がた-さん旅行記を書いているのは、それがよ-売れるジャ ンルであり出版者もそれを求めたからである。当時の作家にとって、. 森本. だ」と言っているが、モ-リッツの理論も、大衆化・商業化してゆ-. なる設計図の中に含まれていなかったものを、間接的に芸術家の持. る、ないしはわれわれの想像力で捉えられうる」という-だんの規定 を付け加えている。モ-リッツの議論の新しさは、自然の全体性と芸. 「ミクロコスモス」. のである。. の関係と呼んでいるが、. (Tatkraft)を秘め. 作品を、内に作り出す(ein・bi-den)ことができる。対応するのは作品 と自然の個別的な要素ではな-'それらを創造する「形成原理」. 和的に作り出したのと同じように、自然の調和性を反映する完結的な. ており、これが想像力と結び付-ことで、ちょうど神が自然世界を調. 人間(芸術家)は自らの内に創造的な「活動力」. 青紫に中るものと言えるであろう。. 「マクロコスモス」と. その内部で再創造される芸術作品という小さな全体の照応を、小田部. 方にある。引用中にある「自然における諸事物の大いなる連関」と、. る原理、つまり「制作・形成する」動作において対応するという捉え. にあるのではな-、それぞれの全体連関(Nusammenhang)を構成す. 小田部や-ドロフが指摘するように、ここで最も重要な点は、芸術 と自然が直接的に、つまりその要素が対応するような仕方で模倣関係. (nacherscbaffen). つ形成する手を通じて、再創造する. そこでモ-リッツは、美の必要条件として「われわれの感覚を喜ばせ. 「国家」は、部分の諸関係が緊密に結びついて完結した全体をなすとい う意味では、この規定に合致している。しかし国家は美しくはない。. は'論文「美の形成的模倣」でも繰り返されている。ところで例えば. 美的なものが、自己完結的な全体性でなければならないという主張. bニde⊃する主体. めない事実である。. 理論的な経緯だけでな-、こうした「政治学」が潜んでいることも否. 文化に対して芸術の独立性を擁護するという戦略を秘めていると言え よう。芸術の自立性という観念が発生してきた道筋の中には、純粋に. (43). 術の全体性との間の関係をはっきり規定している点にある。. は. (45). であ. (44). (46). 七.
(13) り、形成された自然や作品の完結的な全体性である。こうした新たな. 極的な位置づけを与えられるのである。. 合されることで'悟性的・分析的な認識能力を越えるような極めて積. 味作用もまた'第一次的には「外部」に言及するものであってはなら. 外にある目的に奉仕することを拒否したのである。ここでは記号の意. 足的な完結性という理念に反するという理由で、美が快という自らの. 観的な尺度があった。だが既に見たようにモ-リッツは、美の自己充. 然の模倣が信じられていた段階ならば、ともか-感覚的な快という直. 芸術作品が有するということは実際にはどういうことであるのか。自. そのものが自然的であるかどうかは-リヴィアルとなるから。 しかし、自然というマクロコスモスと同じような調和的な全体性を. でき上がる。ここではもはや表現媒体(記号) の種別は問題ではなく なるであろう。記号による創造が人間の想像力に依拠する限り、記号. 芸術作品そのものだけから美の実現の如何を測定できる議論の枠組が. 自体としての価値を蔓一日した。こうして力点が人間精神の側に移り、. のを神のそれに類比することで、人間の側からの創造行為が持つそれ. た対象を比較するだけではな-'人間精神が内蔵する形成能力そのも. モ-リッツの「形成的」模倣論は、単に自然と作品という創造され. 自立性と象徴性. 意味で'作品が自然を「形成的に模倣」している時、芸術的な美がも たらされるのである。. ここに至ってミメ-シス理論は、完全に主観主義的に改作されたと 言える。確かに模倣論の宗教的な構図を残しながらも、人間の創造能 力つまり「芸術家の形成する手」は、自然への従属的な関係から完全 に解放される。この場合重要なのは、bi-denというコンセプ-において 問題となっているのが、直観的・質料的な全体連関の創造だという点 である。確かに、自然という質料的な世界の全体を創造し、それゆえ その世界を直観的に見通すことができるのは神のみである。しかし人 間はそうした神の直観のミニチュアとして、芸術作品において、直観 的な全体の創造と把捉 (想像力による包摂)を行うことができる。こ の関係は、観念論における美的な能力(想像力) の位置づけ方を先取 りしている。. 「世界のように、芸術作品は自己充足的な全体であり、作品が世界と 似ているのはそれだけのことであって、作品はもはや世界との関係を 確認する必要はない。モ-リッツの美学の中心的概念は、本当のとこ ろ全体性(totalit6)であり、しかも彼は好んでそれを美とよんだ」と ードロフは評しているが、この全体性は、ここではもはや単に判明性. ("Uber. でも重要なテクスーである。そこでモ-リッツは次のような対比を行. dieAllegorie")という小論の一節は、自立性美学の限界を見届ける上. ないことになる。ードロフが注目した「アレゴリ-について」. 八. 或る美しい形象が、それ自体の外にある何かを指示し意味するよう. っている。 性を規定するだけではな-、全体を直観的に把握するposi㌢な能力を. としつつ人間がおこなう「創造」 の本質として、極めて積極的な意義 を与えられているのである。自立性美学は、芸術作品の独立的な完全. に達しない感覚的認識の様態なのではな-、感覚的なものをわがもの. (48). 人間的な次元に引き下ろす.元来知性の下位に立つべき能力であった 森本. はずの美的な能力が、想像力(Einbi-duロgSkraft)という形成能力に接 美しい自然から形成する手へ. 三九. (47).
(14) いう一連の言説の一つの端緒である。. 美しい自然から形成する手へ に用いられる時、この形象はそれによって単なる象徴(Symbo-)に. 論がどう連携するかを如実に物語っているのだが、その場合われわれ は、アレゴリ-股下があ-まで象徴優位論と相補的なものとして登場 してきたことを忘れてはならない。象徴優位論は近代優位論でもありI. 模倣理論の終篤とともに、中世的なアレゴリ-の劣勢、近代的な象. むしろ外へ向けての目的を所持している。しかし真に美的なるもの. 新旧論争のlつのコロラリ-. 術作品は、もはやその目的を専らそれ自体の中に持つのではな-、 が生じるのは、或る物が専らそれ自体を意味し、それ自体を包摂し、. るのである。. 矛盾する時、それは美的なるものの系列の上にいかなる位置も占め. 常識的な見方によると、中世のアレブリ-とは「善」や「正義」の ような抽象的観念が具象的な形象で表現されるものであるが、この両. 的なものに過ぎない。例えば一般的観念がしばしば女性像に擬人化さ. 者、つまり意味するものとしての形象と意味されるものとしての観念 とは、本質的に「分離」しており、それらの結び付きは慣習的・悪意. 書-時に使う文字と同様、価値がないのである。グイ-ドのフォル ーウナが、髪をなびかせながら回転する球に足の爪先で触れている. れるのは'単に「ギリシア語・ラテン語の抽象名詞はほとんどの場合. 適切に表示されているからではな-、形象の全体がそれ自体におい. 姿は、美しい形象である。しかしそれは、幸運がその形象によって. てはいない。勤勉と労苦をい-ら費やそうとも、それは私がものを. 、rあるいは歴史進化論の1変種とも取れ. それ自体において完結した一個の全体である場合なのである。-こうしてアレゴリ-が、形成的な諸芸術における一切の美の概念と. の美は、とりたてて問題とはならないのである。従ってそうした芸. 徴の優位が始まる。モ-リッツのこの一由は、自立性美学と象徴優位. 四〇. 接近する。そして単なる象徴においては、われわれがものを書-際 に使う文字(Buchstabe)におけるのと同様、本来固有(eigent-ich). 森本. 体において完結した1個の全体である場合」. 面の画像)からではな-、そこにこめられたものを評価する判断主体. アレゴリ-であるかは、形象の単なる外見(この場合なら'二次限平. で浅薄な鑑貧者は、フラ・アンジェリコの描-女性像を「幸運」を表. 意味をこめて「象徴」と呼ばれるようになる当のものである。実際わ. に由来するのである。もちろんモ-リッツ自身にとって、平面として. ここでの の意味で用いられてお 「象徴」という語は「窓意的記号」 り'アレゴリ-と同義である。逆にモ-リッツが美のあり方と見なし. れわれがここで目にするのは、自立性美学が近代的主観主義の強力な. の画像といった観念ははじめから意味をなさないであろうが、少なともこの彼の発言は、象徴とアレゴリ-というジャンル分けの可能性、. こそが、やがて肯定的な. 補強理論として洗練されて-る過程とほぼ並行して出現した 「アレゴ リ-と象徴」を対比する議論、アレゴリ-を皮下し象徴を賞賛すると. す慣習的な記号と七てしか理解しないであろう。つまり象徴であるか. を象徴的なものとして解釈する可能性を示しているのである。保守的. まり彼は、象徴的表現の積極的な事例を挙げる代わりに、アレゴリ-. いる「幸運」の女神像が典型的なアレ''nリ-像だという点である。つ. 女性」だからである。注目すべきことは、ここでモ-リッツが掲げて. (50). ている「或る物が専らそれ自体を意味し、それ自体を包摂し、それ自. て調和を有しているから美しいのである。. (49).
(15) という基盤に引き戻されてしまうことを、無自覚のうちに暗示してい. 世界の豊能さを次のように描いている。. 事物が「類似」という悪意的な紐帯によって自在に結合されてゆ-チ クスー化した世界が展開する。ホイジンガもまた、中世のイメ-ジの. それゆえ「自立性」や「調和」といった根本的な種差が、むしろ解釈. ると言える。. 十八世紀の解わりから十九世紀初めの時期に重要な意味を負わされて. ことになる。というのは、事物はそれぞれ、その様々な性質に応じ. シンボル思考にあっては、事物間の関係は、かぎりな-重なりあう. ただいずれにせよ、象徴優位・アレゴリ-皮下という奇妙な議論が、 いた、その理由を検討してお-ことは必要である。アレゴリ-的擬人. シンボル思考は、およそ感知されるもの、考えつ-かぎりのものす. て、他の多-の事物のシンボルとなりうるし'また、そのうちのひ. とつの性質が、様々な事物をさし示すことにもなるのだから。-‥・. の皮下は全-同質のものであり、モ-リッツの発言も正. 像は、その由来(女性名詞) が示すように文法的なものであり、観念 を窓意的に表現する「装飾的な絵文字」と見なされた。アレゴリ-妊 「文字」. 神秘の生の感情を、燃え立たせるのである。事物すべては、高い美. べてに、神の偉大、神の永遠の感情を、たえずそそぎこむ。たえず、. 確にそれを伝えている。文字が、発話において現前した意図を間接的 にしか伝えない二次的な記号であるように、アレゴリ-は単に慣習的. 的倫理的価値をになうイメ-ジに作られる。. またその視点から過去の表現様式がどう評価されるのかを簡潔に示し. 自立性という観念が、最終的にどういう理論的地位を与えられるのか、. の具象的な直観や心情の深さから発するよりも、むしろ悟性のはたら きの所産である」。『美学講義』 におけるへ-ゲルのこの評言は、美の. ろが十七世紀以後、記号がそれが記号であるところのものといかにし. -指示していることを、いかにして認知しうるかと問うてきた.どこ. は、実際のところ、記号が、それが記号であるところのものをまさし. を与えることが、まさに近代的理性の課題だからである。「これまで人. ここで言うシンボル思考は、無縁とも思われる記号を連結させてゆ -アレゴリ-のモ-ドに従っている。モ-リッツがこうした思考モドを批判するのは、それがもたらす解釈連関の御しがたい散乱に秩序. (52). ている。美の価値を決めるのは、形象の単なる外見ではな-、それを. 現である。アレゴリ-は「その意味が悟性によって抽象されたもので あってみれば、これを形態化する創造的考案に関しても、想像に固有. な-、言わばそのように描かれる内的な必然性を欠いた生彩のない表. な形式に従った図像であり、それを描-創造的主体の力を宿すことが. 下と. 作り出す主体に固有の想像力=創造力であり、心情と呼ばれるような. てつながりうるかが、問われるようになる」のである。この見方から. 的な類比的思考様式の下では、そうした「分離」を問題視する意識が. への変化が十七世紀に起きたという言い方は不適切となる。中世. すれば、意味する形象と意味される観念との「分離」から「結合・調 『言葉と物』の第二章で. 四一. そもそも存在しなかったのである。上述の問いに対して、「古典主義時. (54). ものなのである。. こうした描像と対照的なのが、フ-コ-が. 描いている中世のエビステ-メ-である。そこには、ありとあらゆる 美しい自然から形成する手へ. 森本. 和」. 内面的な価値である。悟性ないし文法の与える形式性は、より低次の. (53). (51).
(16) 美しい自然から形成する手へ. れたもの》と《読まれたもの》、可視的なものと言表可能なものが際限 もな-交錯していた、画一的な層は消滅するのである。物と語はやが. 味と意味作用の分析によって答えるにちがいない。--か-て、《見ら. 代は、表象の分析によって答えるであろう。そして近代の思考は、意. 森本. 歩きをしているのがアレゴリ-だと言う。しかし主観の与える概念的. 感覚が美を可能にするための基準を、自らが直接関与できない端的に 自然的な性質から、何らかの内面化された原理へと置き換えることが. て起こるのである。感覚に訴える一個の記号が、それの持つ端的な質 に直接的に関連づけら. によって美的な価値を得、他の価値(真や善). れているという様態はもはや見失われている。そうではな-、感覚的 理由を、ここで整理しておこう。感覚的なものと知性的なものが、袖. むのである。まさにこの与えられた質を配列し総合する力が、人間(芸. なものが配列され総合される仕方、その関係の在り方が美的価値を生. によって造られた唯一の自然的世界の秩序の中に置かれているとき、. 同時に生起し-るのである。しかし神的な秩序が'理性的な構成原理 として内面化されると同時に、世界そのものは外部となり、感性はこ の自然的世界を内面的な秩序に媒介するインタ-フェイスでしかな-. 産み出すものではないが'自然の創造を「なぞった(mach)」形で、神. 的な憤理を反復するのである。. こうして人間理性が感覚的なものの魂として君臨することは、近代. 的な主観にとって一つの理想的な境位である(確かにへ-ゲルの体系. においてそれは、決して完成された境位ではないが)。自然的なものを. なる。感覚的なものは、それ自体自然的世界の秩序に属する類比的関. 自己から疎外した後、人間はそれを再び自己が秩序づけ意味づけたも. の本来の意味で. 係を形作ることで価値を得る. の最終局 のとして読み直してゆ-。そっした「内面化的な読み直し」. 「自然の模倣」. あろう) のではな-、たかだか理性的頗理に類比する限りで存在意義 を与えられるのである。しかし人間理性が、神的な知性のように質料. 面の一つが、感覚的な快をも組織化する「形成」. の実現な. 的なものを自ら造り出す能力を持ちぇない以上、感覚的なものは、理. のである。芸術'とりわけ言語芸術は、近代的主観の自然に対する勝. (Bi-dung). 性が包摂しきれない外部性を残し続けることにもなる。自然的世界そ. (それが. する。もちろんそれは、神のように感覚的なものを直接自然の「中に」. 術家) の「形成」の能力ないしは想像力と呼ばれるものであり、そう した関係づけの行為において人間理性は、感覚的なものの支配を実現. 自立的な美の問題が近代においてことさらに顕在化して-る思想的. 自立論の哲学的要請. 近代なのである。. 必要となる。単純化して言えば、質から関係への価値の転換がこうし. いう問題、そして象徴的なものの新たな顕揚という身ぶりが派生して くる。美は感覚的なものなしには成立しない。従って理性にとっては、. そしてこの課題のコロラリ-として、美的価値をどう措定するかと. のものを自己から疎外した理性にとって、自然との接点である直観を 自己の内にどう再回収するかが最大の課題となる所以である。. 四こ. 秩序が持つ固有性と自立性を発見し肯定したのが、まさに古典主義・. のである。ヘ-ゲルは、悟性的な概念が感性と融合せず抽象的に一人. て切り離されるであろう」。「分離」をもたらしたのは、むしろ近代な. (55). 両者は直接的に照応し合うことができる。感覚的な擬人像の与える快 に身をゆだねることと'そこに善を「読む」こととは何の矛盾もな-. 九.
(17) するかも、或る程度は示しえたかと思う。芸術の自立性という観念あ るいは象徴優位論という特異な議論が、近代的主観主義の形成過程の. て、芸術の自立性、美による解放'象徴的な効果、内容と形式の一致、. 利のエンブレムとなる。その意味で、経験科学による自然支配の欲求 と芸術における自立的な美の理念とは、.同じイデオロギ-体系に属す. 感覚的なものを支配する原理が主観の側にあるということが、美の 自立性というコンセプ-の意味であり、アレゴリ-に対比しての象徴. などといったコロケ-ションから自由になれないことの説明ともなる. るものであると言える。. の優位という議論は、それを正当化するための補助理論である。なぜ. 一つのコロラリ-として発生してきたことは確かである。この確認は また、われわれがフ-コ-的「近代」 の枠組の内部にいる限りにおい. なら、この場合のアレゴリ-とは主観的な概念が単に抽象的に分離さ. る。なぜなら「総合」「宥和」「調和」「自立」等々への固執は、悟性的. であろうOアレゴリ-的な表現モ-ドが致命的な分裂をもたらすとい ぅ不安は、近代知に特有なアンビヴアレンツに由来する脅迫観念であ. れて感覚的なものと接合されていることを意味するのだが、既に見た ように'こうした分離を査定し、それが芸術の本質を逸するものだと. な区別・分析への近代的要請と、そこに留まりきれない倫理的意識と. 系の内在的な推進力は、悟性的な原理の貫徹のみでは自足しえないと いう不満足にあったはずである。美が自然的なものの支配の実現であ り、それが主観的原理と自然との宥和と見なされうる限りに.おいて、. 味で再びわがものにしたいという欲求が同時に発生する。観念論的体. ょって世界に意味を与えるという動機と、自然的なものを本質的な意. を疎外したという負い目を感じる。そこから、自己の概念的な原理に. 開いは、しばしばジャンル論の形で立てられている。時間的ジ†ン 、絵画と文学、統合ジャンル ルと空間的ジャンル、象徴とアレゴリとしての「小説(ロマ-ン)」等々。われわれにとっては、そうした区. なければならないというわけである。. れらも最終的には人間固有の理性的な総合力によって一つに纏められ. 与と構成原理とは必然的に異質であり分離されるしかない、しかしそ. の葛藤の中で発生するからである。感覚的なものと悟性的な概念、所. アレゴリ-は、いまだ悟性のレヴェルに留まるものとして妃めなけれ. 別の歴史性を明らかにするだけでな-、ジャンル的な線引きの可能性 そのものに託された戦略の意味が問題となる。近代は、ジャンル論的. いう判断を下す議論の構図そのものが、近代がこしらえたイデオロギ -だからである。近代的主観は、自然を客体化し、自然の懐から自ら. ばならないのである。美の自立性と象徴性とは、同じ事柄を指示して. な線引き能力そのものを超越的な存在者から主観の内面へ回収(reap・. 証の身ぶりは、形而上学的な原理を主観的な構成原理の確実性へと置. アレゴリ-の通俗的な美しさから峻別するときに見せる排除と自己確. える。モ-リッツが自立した「本来固有の(eigent-ich)美」を顕揚し、. 定の根幹にあるのは、何よりもそうした内面的回収の論理であると言. propriat2)しょうとする過程であり、美学的・ジャンル論的な価値措. いる。. 批判的結語. 美的なものとしての芸術作品の自立性を構想する議論が、どういう の図式とどう関連. 理論的経緯を経て形成されてきたかを以上に見てきた。それが同時に 森本. 象徴/アレゴリ-論や観念論的な主観的「諸能力」 美しい自然から形成する手へ. 望. 一〇.
(18) 美しい自然から形成する手へ. 「固有なもの」 の論理そのものなのである。. 美の自立諭が一つのコロラリ-であるような強固な思考様式、われ われの批評的な語法がいまだに深-それに浸透されている思考法をい. 自己確証の身ぶりを必要とするであろうO. で明白な結果は、芸術家が実際に行ない、批判家が実際に目のあた りにしている膨大な事例の面目を取り戻させる傾向があるというこ. 空間-時間の区別に疑問を投げかける際に生じる、もっとも直接的. たたぬと思われていたもろもろの戦略が'これまでよりも実のある. きながらも、それなりにうま-ゆ-のではないかと思う。. 世界思想社、一九八八年.今道友信編『講座. があることをあらかじめお断りしておきたい。 アリス-テレス『詩学』第七章()450b-)45)a)。なお美論の歴史につ いては'以下を参照.当津武彦編『美の変容 西洋美学史への展望』 美学の歴史』 美学1. 考である。特に同論文川の第3節で簡単に触れた十八世紀美学の1側面 についての概観を拡張しっつ、美学批判のための一つの指示を与えるこ とがここでの目的である。文脈上、上記拙論と内容が一部重複する箇所. 1四一-1五六頁、および第三八輯、1」ハ九-一八八頁). 象徴/アレゴリ 本稿は'拙論「文学研究における「言語」の問題 -論を手がかりとして 川似」(横浜国立大学人文紀要第二類第三六輯、 に関連した論. (57). ものに見えはじめるのである.--私は'こうした「第1原理」に. つまり「固有なもの」. れは、何かに感動し興奮しているわれわれの経験を無意味化すること ではな-'むしろ美的経験の事実を美の理論に還元してしまわないた めにはどのような思考、どのような新たな理論的態度が可能なのかを、 忍耐強-開い続けるということである。 美の自立論の端緒においてさ、え、ジャンル論的な固有性の主張は、 それ自体の内に自己を解体する力を生じている。モ-リッツによる象. -. 東京大学出版会、一九八四年。 アリス-テレス 『ニコマコス倫理学』第四巻第三章())23b)0. -. 敬/アレゴリ-の厳しい区別が、伝統的なアレゴリ-像を象徴として. -. -. 解釈する試みに過ぎず、レッシングが固執しょうとした単に悪意的な 言語記号と文学的言語との差別が、意味作用の多層性についての彼自 身の言及によってすぐさま無効化されてしまうことを既に見てきた。 「固有なるもの」を確定する理論的身振りが、不可避的に自己解体的と ならざるをえないことは既に明らかであるとしても、そこからもたら. される教訓は、決して「何でもあり」ということではない。むしろ規. 『ミメ-シス 模倣論の本質に関しては、ウェルデニウス(渡辺義治訳) プラ-ンの芸術模倣説とその現代的意味』未来社、一九八四年、を. ー. 命題行為の権能、あるいはわれわれがそうした言語的身ぶりへの欲求 にとらわれ続けるのはなぜなのか、を問うことが重要なのである。そ. くよくよ頭を悩まさな-とも、諸芸術の実践的解釈は、多少よろめ. 注. 川 ㈱ ㈱ ㈱. (56). 何が美であるか'あるいは美とは何かが問題なのではな-、或る一回 的な経験を美的なもの・価値のあるものとして普遍的な類へ回収する. の論理そのものを問題にしなければならない0. とだ。文学を空間化し、絵画を時間化するためのものとしては役に. 範的な芸術論・ジャンル論から芸術の体験の事実性を取り戻すという ことが重要なのである。. 四四. ささかなりと相対化するためには、ジャンル論的な線引きのロジック、. 恐ら-現代のアヴァンギャルドなり「解放的芸術」なりも、その意匠 こそ違え、理論的にはモ-リッツ的な「固有なもの」 の論理、排除と. き換えた、近代における. 森本.
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