近代詩論史稿 : 明治30年頃までの動向
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(2) . 第 15 巻 第 2 号. . 北海道学芸大学紀要 (第一部A). 近 代 詩 論 史 稿 角. 昭和3 9年12月. 一明治3 0年頃までの動向-. 田. 敏. 郎. 北海道学芸大学函館分校国語教室. Tos i hi r6 KAKUTA : A note on Modern Poetic Theory 1887~1897.. (一) 古くは歌論や俳論があ ったように, 『新体詩抄』 に端を発した近代詩についても詩論と呼び得る ものが存在している. 今日まで80余年の間に幾多の変遷を たどって来た近代詩は, その背後にま た幾多の詩評・詩論の類を持っている. 存在するものについてはお のずから意味づけ が可能であ. り, また意義もあると思う. ところで 「詩論」 ということばの概念規定がまず問題 になるが, 伊藤信吉氏は 「詩に関する評. 論や, 詩を対象とする論考・述作など, ,す べて 詩論ということができる」 とされる. そして現代 の詩論は, 「文学批評的な見地」 を持 って いるべきで, こうした要素のない ものは, 「古典的な 『世界現代詩辞典』 ) これによると 「詩論」 と 「詩学」 との区 詩学」 に通じるものとされて いる. (. 別は女学批評的見地の有無ということになる. また木下常太郎氏は, 詩論の性質の分類として, )詩の実体・本質・原理を中心として原則的・歴史 ” )思想を中心として詩や詩人を論じたもの, 中 的に詩を論じたもの, 9詩の技法などを中心に詩を論じた もの, 以上三種をあげ, さらに論者の 立場からの分類も紹介されている.. 現代の詩論研究者として二氏の考え方を見たのであるが, 詩論史を厳密に考察して いくにあた っては, さらに別の角度から見ておく必要がある. 主として 『詩と詩論』 『詩学』 などの同人と. して活躍した外山卯 三郎氏の 『詩学概論』(昭4・10第一書房) は, 詩論・詩学を体系的に考えて いく上 で, きわめて豊富な示唆を与える書である.. 外山氏は序で 「芸術自身の法則と自律性」 を論述する企図を述べ, 「芸術学に基礎づけられる 詩学」 を要望する. 「詩論」 「詩学」 に関する所を同書第二章から要約すると次のようになる. 創作的立場 /存在的ポエジイ (作品) ー形成的ポエジイ (詩的精神) 観照的立場 ′知るポエ ジイ (詩的精神) ・ L知られるポエジイ (作品) 1 ( )存在的なるポエジイ の領域を対象とするもの, 即ち知られるポエジイ としての作品を中心と i i ) と 言 っ て い る. す る研 究 であ る. これ を 私達 は 「詩 論」 (Poet sche The。r. )形成的なるポエジイ の領域を対象とするもの, 即 ち知るポエジイとしての詩的精神を 組識的 魔 - 57 -.
(3) . 角. 田. 敏. 郎. i k) と 言 っ て い る. 体 系 と して 論 究 す る学 であ る. こ れ を 私 達 は 「詩 学」 (Poet. 圏 ァ . プ リ オ リ と し て の ポエ ジイ を 対 象 と す る も の, 即 ち 知 る ポ エ ジイ を 知 る ポ エ ジイ, 知 る. ポエジイの学の, 於いてある基礎 づけとなる基礎学である. これを私達は 「芸術学」 (Kunst. t ) であ る と 言 っ て い る. 詩 諭 ・ 詩 学 の 体 系 的 概 念 規 定 は 目 下 の と こ ろ 外 山 氏 の も wi ssenschaf. のが有効である. 「詩学」 という用語に関しては 外山氏 と伊藤氏の見解は全く相反しているので 1 )の体系的な規定と あるが, 「詩論」 という用語に関しては, 伊藤氏の包括的な規定と外山氏の( は 矛 盾 す る と こ ろ は な い.. 拙稿の立場としては, 詩論の実態を史的に展望することによっ て, 逆に外山氏のいう 「詩学」 の本質も明らかにな ってくると見たい, 80余年間の詩論の実態を捉えることが, つまり日本近代. 詩論史を持つことが, 何にもまして先決の条件となるにちがいない. ところで詩論史と, 詩の歴史としてのいわゆる 「詩史」 の関係について も考えておくべきであ ろ う.. .. 木下常太郎氏によれば, 「詩諭などなくとも詩は存在する. しかし詩諭のない段階の詩は元始 的で素朴の域を出られないのに対して, 正統の詩諭的意識 が発達 してくると詩はその発展の高度 を加速的に高めてくるものだ」 (昭33・5国女学) と言われる. つまり 「正統の詩論的意識」 が. 詩の発展をうながすというのである, 結局詩史が詩の変遷発展の歴史であるのに対して, 詩論史. は, 詩に対する自覚の歴史であるということができるのではなかろうか. 村野四郎・木下常太郎 二氏の編著 『現代の詩論』 (昭2 9・11宝女館) では, 「現代の日本の詩を産むにいたるま での知. 的考慮の歴史, 即ち詩諭の歴史」 と述べられているが, これも同じ見解であると思う. 詩史と詩論史とは時代区分の上 ではどのような関係をもつであろ うか. 結論的にいえば詩史と. 詩論史とは時代区分の上 では必ずしも一致しない. 時には詩 (作品) に詩論が先行することもあ. り, また詩論に詩 (作品) が先行することもある. しかし多少のその間の幅を認めれば, 詩論の みの, また実作のみの独行ということは, 近代詩においてはあり得ない. 木下氏は 「日本詩論史の発展を便宜上から区分すると次のようになる」 とされる.. 第一期女語定型詩時代 H模索期. 明治15年~明治29年. 口低迷期. 明治30年~明治39年. 第二期口語自由詩時代 け試作期. 明治4 0年~大正5年. ロ確立期. 大 正 6年 ~ 昭 和33年 現 在. I 召33・ 5国 文学) G. しかしこの区分は詩諭史の区分と いうよりも, むしろ詩史のそれである. 模索期・低迷期・試 作期・確立期というのは, 詩論のことではなく, 詩 (作品) のことである, 木下氏はこれらの詩 史的な変遷にしたが って詩諭の整理を行なう方法をとられるようである. これはこれで意義ある ことと思うが, 他 に方法はないであろうか. つまり詩史に従属した詩論史ではなく, 詩論自体の 発展の過程に一つの秩序を求めることはできないであろうか,. その一つの試みとして, 筆者はさきに韻律論を中心とする詩諭の系譜を探 った. そこから得た ものは, 詩諭の性格の変化という現象の確認である. ほぼ 『詩と詩論』 (昭3・9創刊) あたり. を転換期として, それ以前の韻律論中心から心象論中心の詩諭へと変化している事実である. 詩 史とは別に詩諭史として整理する方法は, たとえば上のような点に留意して, 韻律論主流期 ・′b 象論 主流 期などということも考えられる. しかし現段階にお いては, できるだけ既成の考え方に - 58 一.
(4) . 0年頃までの動向- 近代詩論史稿 一明治3. とらわれることを避けて, 現象, あるいは動向を把捉することからはじめたいと思う. 近代詩における詩諭史という構想は, 比較的少ない. 昭和9年10月, 改造社から出た 『日本文. 学講座9・新詩文学編』 中 に, 「明治詩論史」 として日夏秋之介, 「大正昭和詩論史」 として吉 田一穂, 以上二氏の記述が 見られるが, 詩論を詩論としてとりあげた本格的なものとは受けとり 0・3) から 9・8創刊) の第4号 (昭3 がたい. 近年物故された佐藤清氏が, 詩誌 『詩声』 (昭2. 第26号までに書きつがれた 「明治詩諭史」 が有力な先行業績である. 佐藤氏はその第24号 (昭34 ) で, 次のように既成のいわゆる詩史に対して抗 議されている. ・10 「思い出」 を 「史」 と称して, それが一番確実な 「史」 であるかの如き考えを もつのは誤で ある. 「思い出」 はあくまで 「思い出」 であって, それを書く人が自分に有利にかくのは勝手 であるが, それを 「史」 として, 即ち事実として押しつけられるのはたえられない. 渦中の人 々や作品 について, 冷静に, 第三者の立場に立って正直に書かれるのが 「史」 である. 史家は あらゆる記録の真偽を試 金石にかけて判断する. 「思い出」 にすぎない 「史」 と自称するもの は 「史」 の材料 でしかない. 材料は史家の手によって整理されれば自然に理路整然となる. 日 附を 整理す るだけ でも, 事実はおのずから確立するの であって, いくら多数をたのん で強弁し. ても, 「時」 の力には抗することが出来ないだろう, 「史」 はかくして, 訂正に訂正を かさね られ, 事実を不動の地位にすえるのである. また作品の解釈影響価値等に対する史家の見解も 事実を基礎として行なわれる場合にのみゆ るさ れるだろう. この点において 「明治詩論史」 は今日まで書かれたいわゆる 「詩史」 なるも のとは全くちが ったものであり, ある場合には価値顛倒がおこなわれているが如き観があるの もいたし方がない. すべての俗説を採用 しながらすべての俗説を超越せんとするの である,. (「明 治 詩 諭 史」 に つ い て). この文章にあらわれたやや激した調子は, 佐藤氏自身が英女学者として教壇に立つかたわら, 詩人としてすでに 『文庫』 (明20・8創刊) の後半の時期から出発し, 詩壇の表面的存在でこそ. なかったが, 明治・大正・昭和と近代詩の歴史の大半を生きてきた人であ ったことによると思わ れる, 北原白秋の 『明治大正詩史概観』 , 日夏秋之介の 『明治大正詩史』 など周知の教科書的 存在 とでもいうべき詩史に対しても, 抗議と批判をなし得る資格を十分にそなえた人といえる であろ う. おそらく佐藤氏が 「いわゆる 『詩史』 なるもの」 とされた時, 上記の二書を意 識 しておられ. たと思 う.. 筆者の構想は佐 藤氏のそれとは必ずしも一致 しないが, 雑誌 『詩声』 の各号を通 じて記述され ている 「明治詩論史」 の骨格の確かさに敬意を表 し, 範とさせていただくものである) (二) 調査の現段階からして, 収 集 し得た資料が明治20年代から30年代初頭に限られているので, こ のあたりの約10年間にあらわれた詩論の実態を捉えてみたい. 明治21年6月, 『女学雑誌』 「116号) にあらわれた 「新体詩の二著書」 という書評は, 書評な がらややまとま った詩諭的性格を そなえている. 筆者は山田美妙であるが, その前書は他の編 集 者の筆になるものである. 当時の情況 がわかるので次に示す.. 新体詩とは改良したろ歌の事にて, 前年大学の先生達 が大層に吟じ出されたろ比るより, 今 まは最早普通の文字と成りたり. 然るに, 新体詩の主唱者は其後全くヒ ッソリとせられたるに 1 昌 昌ふ るものあり,n 拘はらず, 世中に於ては共気運 追々に熟し, 歌人の仲間にも和歌改良論を1 一5 9-.
(5) . 角. 田. 敏. 郎. 歌の流行と共に追々共の歌を作らるふもあり, 将に之より一層 の進歩あ って, 新日本の鬼 神も 泣き玉ふの日あらんとす. 而 して此頃に至 って出版されたろ新撰讃美歌, 明治唱歌集の二著の 如きは, 此の気運 に推されて現出 したろ, 注意すべきの新体詩なり. 其の綱評の如きは 社友 , 美妙斎の稿にかか るものあり. 読者乞ふ之 に因りて 更に一評を下せ. 「前年大学の先 生達が大層に吟じ出された ろ」 ものは, もちろん 『新体詩抄』 であり それか , らわずか6年のうち に, 「新体詩」 という用語が 「普通の文字」 となっ ている. しかし一般の理 解は, 「改良 したろ歌」 とい う捉え方であ って, とうてい 『新体詩抄』 序に見られ る外山・井上. ・矢 田部の三著者の意図には及ばなか った. 「歌人の仲間にも和歌改良論を唱ふるものあり」 と あ るように, 『新体詩抄』 の一石を投 じた波紋は, も っ ぱら和歌との関 連においてひろが ってい った観がある. 佐藤清氏もとりあげておられる末松謙燈の 『歌業論』 (明治17年9月10日から翌. 年2月 3 日まで9回にわた って東京日々新聞に発表されて いる) や, 小中村義象の国学 改良論と 萩野由之の和 歌改良論とを合わせた 『国学和歌改良論』 (明20・7) などが出て いる. さら には この 「新体詩の二著書」 の後に佐々木弘綱の 「長歌改良論」 (明2 1・9 『筆の花』 ) をきっかけと. する長歌改良論争なども行なわれている. 「新 体詩の二著書」 とは, 『新撰讃美歌』 「明2 1・5) と 『明治唱 歌』 第一集 (明21・5) との 二書をさ して いる. 前掲の前書き につづいて, 「其一」 と して書評されて いるのはまず讃美歌で 唱歌は次号の7月 に 「其二」 としてとりあげられて いる.. 美妙はここで 「この批評は文学上 に関してのみ言ふ論です. 」 と前置き して, これ以前に出た讃 美歌よりす ぐれて いると評している. その理由は, 「語句が従前の讃美歌より一層簡略 にな って 音調も 非常 に好く, 尚共上肝 心の道理を自由自在に言回されて」 いるという点にある. また 「和 あやまり. 女の誤 謬」 がな いという点も世に誇れることだと して いる, こなれ. 欠点と しては 「処々消化切れぬ語句が有る」 として,. 其一二を挙げれば夕 の礼拝の歌の第九第四首に 「天のあけぼのにぞよびさまされて おほ. 光とし. ばまぬ花に掩はれん」 とある, これが猶, 言はゞ, 直 訳を脱 し切らぬ句法で, 殊に 「光」 と つりあひ 「花」 との権衡が何処やら不平均にな って居 ります. 其他聖霊の歌の第八十九第一首に 「な ぐ もう さめをもちて」 などとある, これが どうも前と同様な句法で, 或は最一層御鍛錬なさ ったら耳 なり. 立たぬ様に為ませう, と 評 し て い る,. 『明治1 唱歌』 は大和田建樹・奥好義の共編で, 第一集は5月, 第二集は12月 に出ている. ここ では当然第一集がとりあげられて いるの である. こまかな技術批評を行ない, 総 じての評は, 大. 和田建樹の作に向けられ, いづ れにしても大和田氏の御作はいつもながら敬服 いたします が, 更 に 「あ 」 と か 「い ざ. や」 とかいふ間投詞が中々御好きで, また主意のよく通徹 した作 が抄 いのが遺憾です. と評している, 『新撰讃美歌』 に対する讃辞に比して, この 『明治唱歌』,に対しては, 「今の この第一集ではまだ十分に感謝をば申しません. 」 と結んでいる. こうした 「新体詩の ・二著書」 の ような, いわゆる今日の書評の形で行なわれているものにも, 詩論と してとりあ げるべきものが. 当時には多くあ って, 我々の目 にふれないでいると推察される. 詩論というものの在り方の問題 であろう. また新体詩と してとりあげられた対象が, 讃美歌と唱歌とであることも見のが しては ならな い, 新体詩を世に広く普及させるのに力があ ったのは, こう した歌われる形 によるのであ る, つまり逆にいえば, 当時の意識としては, 今日我々がも っぱ ら目で読む形で詩を見ているの - 60 -.
(6) . 近代詩諭史稿 一明治3 0年頃までの動向一 に対 し て, 耳 で聞 く 歌 い も の であ っ た と い う こ とな の であ る. さ ら に前 にふ れ た よ う に, 「新 体. 詩とは改良 したろ歌」 として, 和歌との関連において考える面が比較的強かったことも指摘 でき る.. ,. r. 上のように書評的形式をとるものに対 して, 文明批評的な見地から評論形式で, 対象を詩歌に 求めたものも存在した. 同じく明治2 1年の8月 『国民之友』 第二十八号に掲げられた 「新日本の. 詩人」 などがそれである. その筆者は徳富蘇峯である. これには同年9月 に同じ 『国民之友』 に おいて井上通泰が 「新日本の詩人の評」 で応 じているが, 『女学雑誌』( 124号) でも, 「新日本 の詩人の論をよむ」 という寄書が掲載されている. 署名は柳園主人とな っている.. 民友記者は国民之友廿八号に新日本の詩人と題 し例の雄壮なる筆を以て 詩人の功能及従来我. 国に真正の詩 人の出ざり し事を論ぜられた り. 其論の内和歌に関 して 一二の不審な る所ありか げて以て大 方の教を乞ふ民友記者云, 練 って我邦を観れば開国以来以来三千年末一個の詩 人有るを見ず (中略) 真正の詩人即高尚な る意味に於ての詩人彼 「ヴオル ヅヴォ ルス」 が明言 したる如く 真理 に就て高大に就て美妙に就 て愛と望みとに就て及 信仰 に依りて調和されたろ悲槍なる恐擢に就て 苦 しめる時に恵まれた ろ 慰籍に就て道 徳の浩気に就て智慧の勢力に就て 広く天下庶民の間に溢れたろ祝喜に就て歌ふ所 の歌人は未 之有ろを見ず 余は思ふ高尚なる意味に於ての詩人をのみ真正の詩人と云には非ず 我国の文学未進歩せざり し上代に高雅なる思想を備へ想像に富みて 美妙の言語を用ひ美妙の趣を云あらはしたろ多くの 歌人あり是らの歌人は真理に就て信仰に依りて調和されたろ悲槍なる恐擢に就て 智慧の勢力に 就て歌ふ所は欠乏 したりと雌もそは歌人の責 には非ずして 其時代に文学の進歩せざり し故と云 べ し,. 上の如く民友記者が 「我邦を観れを 開国以来三千年末一個の詩人有るを見ず」 と断じたことに 対 して反論を出 し, 時代の文明の発展 段階から, その断定の不当であることを論じているのであ る. また民友記者が, 和歌は中国の詩から換骨奪胎したものであるから 「格調声律に拘はる疾」. も伝染し, その上三十一文字のような小詩形 に雄大高尚な思想を托す ることは, ちょ うど 「太 平 洋の水を盆石に盛る」 ようなものだと述べたことにも反対している. まず換骨奪胎に関しては, 「我国の上古支那より輸入 したろ女明は多く思想上にのみ関して我 文法語格等を変 ずる能はざりしは史家の云ふ所なり 和歌の如きも思想上にて多少支郡の詩の影響. を受し事はある べけれど脱嫌換骨 したりなどと云事は全な し」 と応 じている, 多少あげ足とりの … 感はあるにしても正論であろう, また雄大高尚の思想を小詩形に盛るということに関しては, 伝統詩歌に対する知識の不足をあ. げて, 長歌.今様・旋頭歌がこれ にこたえ得るとしている, 民友記者の見解は, このあたりでは 『新体詩抄』 序文と同じで, 「三十一女字や川柳等の如き鳴方にて能く鳴り尽すことの出来る思; 想は線香畑花か流星位の思に過ぎざるべ し 少 しく連続したろ思想内 にありて鳴らんとするときは 固より斯く簡短なろ鳴方にて満足するものにあらず」 (外山正一) というのと同一の線上に立つ ものである. 要するに柳園 主人は, 伝統詩歌の側に立つ論者で, こうした二三の点については異 議を唱えるが, 新体詩については民友記者に同調 して, 評価はきびしい. 民友記者の女を引いて 次 の よ う に い う.. 次に現今の詩 人の事を論じて云, 新体詩家とか云一種の詩人出来りたり 吾人は其作を一読するに未其有難味を発見する能はず -6 ユー. . ● - r . ’ . . , . . 1 . . 1 . ● ・ 1 ・ 1 1 ・. - ・ . 1 ・ ● ・ ・. 1. 1 ..
(7) . 角. 田. 敏. 郎. (下略).. 此事は余も同感なりし近来の新体詩 叉は唱歌叉は何の曲などいへる新作の歌を見るに (余の 眼力の及ばざるかは知らねども) …是ぞ新日本の詩人の作と感服するは少なし しか して共の 中には趣向の陳腐なる思想の高雅ならざる想像の浅薄なる 美妙の風情なき句調の面白からざる 文法叉は修辞上の誤あ る等も少なからず.. こう して柳園主人は, 「万葉・延喜以後の長歌, 源平時代の今様, 建武以後の童謡」 と比較し て, 学術の進歩 した 「新日本の詩人」 よりも幼稚であっ た 「旧日本の歌人」 にかえってす ぐれた. ものが見出せ るとしている. ただ民友記者 がこうした現状の不振の原因を, 古来一貫してわが国. に宗教・道義・真理・高尚というような観念が欠乏していることに帰するのに対して, 柳園主 人 は発展段階説で伝統詩歌を弁護し, マコ←レーの 「ミルトン論」 を援用 して, 必ずしも観念と詩. 作とが直結 するものではないことを説き, 新しい詩の生まれることを望んで論を結んでいる. 要するに明治20年代初頭 にあ っては, 6年前に投じられた 『新体詩抄』 の波紋が, まず伝統詩. 歌をゆり動かし, 伝統破壊の側に立つ か, 伝統詩歌を弁護しつつ改良の側に立つかというちがい はあるにしても, ひと しく新 しい思想を 盛るにふさわ しい新 しい詩 形を待望する情況にあ ったと. いえる であろう. ただ しその新 しい詩 形も唱歌や讃美歌がとりあげられていることからもわかる ように, も っぱら歌われ る形にお いて求められていたのである. たとえば当時としては有意義な. 試み であ ったと思われる北村透谷の 「楚囚の詩」 も,. 蓋 し新体詩なり. 十六章を通読するに, 気骨, 想像, 愛思の三つ共に凡ならず見ゆれども, し 、か 律詩として評す‐ る時は不幸にも敬服する能はず, 若 し之を歌はんには何如なる調にて歌はんか. われわれ. 『女学雑誌』160号) 吾人は云ふ此れ詩情あるの散女なりと. (. と評され, 五音七音以外の音数律を研究することは発展を見なか っ た. 『明治大正詩史』 上巻 の 「詩的論争」 の節 で, 日夏氏は 「詩 壇最初の詩的論争を 惹起したものは, 池袋清風が詩諭を先 縦と して, 美妙が二十三年九月十三日発行 『国民之友』 に掲げた 『日本韻女に対する放任主義』. と, つ ゞい て十月 三日の第九十六号から連載した 『日本駒女論』 であ った」 とされて いる, 池袋 清風が 「詩壇最初の詩的論争」 を ひ き お こ し た 論者 と す る こ と に は そ の ま ま した が え な い が, そ 9号から4 6号) は初期の詩論らしい詩論で 2号, 4 の 「新体詩批評」 (明治22・1 『国民之友』 第3. あ った, これには森鴎外などが 「池袋清風君 に一言す」 (明治22年4月 7日読売新聞) を書いた り して い る が, 日 夏 氏 の 紹 介も あ る の で, 今 は ふ れ な い.. (三) 明治23年は周知の山田美妙の 「日本豹女論」 の出た年である. しかしこの頃の詩論家と して記 憶されてよい 人は, 美妙の他に森鴎外や磯貝雲峯などがある. 美妙は, 「日本駒女論」 を発表す るに先立って, この年の1月, 女学雑誌に次のような一文を寄せている , o 雲峯子に 美妙斎主人 あまつさへ. りこまこまとの御説をさへ 御カ ロヘ下さ った御信切感 はかない拙作の韻文を詳に御覚にな って乗. 銘の至りです, 御諭は一々御尤, それだけまた私 しの意見と多少相違する処も無くは有りませ ひか ん. が, 今 は しを らく才 ロへま した. 申す と何か鳴呼な言葉ながら韻文はもともと私しが-明言 しますが-小供の時からの好物, 二三年来す こしは取調べた処もあり, かたかたそれをば詳に 書き記して近々に出す所存, 其の時は今日批評を賜は った御よしみ甲斐に折角御覧の上は示教. ら私 しが 計画して居たエ ピックは共実一御 も願ひます. 叉つ い でに申しますが, 半年程以前か・ ー 62 -.
(8) . 0年頃までの動向- 近代詩諭史稿 一明治3. 推量でも有 りましたが-先日の酔沈香では ありません. 近々に金港堂から出版するのが即ちそ れで, 平生の私しの韻女論もそれと 同時に揃へて出すつもり です. それ故にそれだけは御含み を 願 ひ ま す.. 〈つきよぅ. まだ御目にも掛らず, 御本名さへ知らぬものが, 究寛の畏友と見上げて預言をさへ しま した. 進からも攻撃は是非ある事. か 一種の ,歌とも, 詩とも つかぬものを出すか らには保守からも急 れ是乱 雑な共中に於て, 天晴れ一句でも精の精評を賜はらば決して忘れぬ程恭く存じます. 敬具. 『女学雑誌』 197号) ( 女面からくみとられるように, 美妙は雲峯をこの方面. これは 磯貝雲峯にあてた公開状である. ) に発表 3 における先輩として立てている. 「酔沈香」 は 『国民之友』 (明治23年1月 日第69号 ピ ク と述べてい した10節か らなる長詩形の作品である. また 「近々に金港堂から出版するエ ッ 」 7 8 『国民 之友』 明治23年4月第 号) , 「夏の貧家」 るが, これは見あたらない. 「つぼすみれ」 ( 『国民之友』 明治24年7月第124号~第125号) があるが, このいずれかをさすのであろうか. ( ともかく二三年来 とりしらべ, それを詳しく書きしるした 「私しの韻女論」 は, 「日本艶女論」 と し て 予 告 ど お り 世 に 出 て い る.. 00号) に 「詩歌を学ぶの功用」 美妙か ら公開状を受け た当の磯貝雲峯は, 翌月の女学雑誌 (第2 と してややまとま った詩論を出している. ただし美妙のものが大体において詩形論をふまえてい るのに対して, これはむしろ 「新日本の詩 人」 と同じタイ プに属する文明批評的な見地に立つも の であ っ た.. 明治の今代に至 って詩歌の 秀作逸品と云ふ べき者甚だ少きは 人民一般美の 感情思想乏しきが 故なる べ し是貴賀す べき事ならんや. という現状把握の仕 方は, 前にふれた民友記者や柳園 主人のそれとま ったく同様である, とこ. ろで雲峯は, この人民一般に不足している 「美の感情思想」 というものは, 「天の賦与する所に して各人其能力に従て之を培養し発達せ しむるの義務」 があるという. ここまでは芸術一般につ い て も い い 得 る こ と であ る. では 詩 歌 に つ い て は ど う い う 見 解 が 示 さ れ て い る であ ろ う か.. 夫れ詩歌の妙は実景を写すにあり神を穿つにあり, 有のま を画くにあ り, 縦令金言玉語を 並列するとも若其詩歌にして実際に迫ら ざる時は 之を秀逸と云ふ可からず, 古来名作と称賛せ. もの一として其字句の妙絶なるが故にあ らず, 真景真情を穿写せ しに依らずんばあらず 偶字句の妙なるが如く見ゆるものと云へども 深 く之を極むれば必らず其描写する所の実景を穿 ちる. たまたま. てるに基かずんを あらず. これは写実主義の主張である. これをも って詩歌の特性とするのは, 今日から見れば, あまり にも安易な 考え方といえよう. すでに明治18年9月, 坪内週遥の 『小説神髄』 が出て写実主義の 精神は紹 介ずみであ った. 雲峯がここで 「詩歌」 といい, また 「女学」 ということばを用いて表 明せ ん とす る と こ ろ は き わ め て 無 限 定 で あ る と い わ ざる を えな い. ジ ャ ンル と し て の 詩 歌 は ほ と ん ど 自 覚 さ れ て い な か っ た と い え る であ ろ う. と も か くも この 一 文 で, 雲 峯 が 示 し 得 た と こ ろ の. 「詩歌を学ぶの功用」 とは, 「美の雅味力を 養成 し且つ注意力を与へ, 観察する処の事物は詩歌 の思想を補碑し互に因となり果となり以て大に美の 感念を発達せしむ」 ること, 「思想を高潔 清 白ならしめ亦想像力を養成する」 こと等にすぎない. したがって結語は次のような オプティミス テ ィ ッ ク な 啓 蒙 的 言 辞 と な っ て い る の で あ る.. 唯天賦の能力に従ひ各人美の感 念を発育し 其取る所の職業を間はず其位置の如何に係はらず - 63 一.
(9) . 角 ・田. 敏. 郎. 万物万象に現はるる美の幾分を感得し之 に依て多少の快楽を得, 以て人界の苦悶煩愛を慰愈し パラダイス. 遂には現世をして楽園となし極楽と 化するに至らしめん事を.. こうした雲峯の功利的な面をあげつら った常識論 に比して, より詩形論に密着した本格的な詩 論が, 公開状 に予告されたとおり, 山田美妙によって提出された. 「日本韻文論」 は明治23年10月 3 日発行の 『国民之友』(第96号) に特別寄書として そのけが 載せられ, 以後翌24年1月23日の第107号まで8回 にわた って発表された, この詩論の詩論史上 の位置として考えられることは, ( 1 )以後の韻律論の典型ともいうべき形式をそなえていること,. 2 ( )ア ク セ ン ト に よ る リ ズ ム を 考 え た こ と, こ の 二 点 で あ る. ( 1 )の 韻 律 論 の 典 型 と は, 西 欧 の 詩 の. プロ ソディ および漢詩の平灰 にふれ, これとの比較において我国伝統詩歌の韻律, すなわち和歌. ・今様・俳句などの音数律を検討し, その上で新意見を述べるという順序および構成をいう. も ちろん論の質や量, 分析の度合い, 見解の妥当性などはいるいるであ って, 決してすべての韻律 論を}律 に見なすことはできない が, 大体において上のような形式をとって いるということがで 2 1の ア ク セ ン ト に よ る リ ズ ム につ い て は, 昭和30年 に 出 た 土 光 知 博 士 の 『日 本 音 声 の 実 験 き る. (. 的研究』 にまでつながるもので, 単に詩のリズムにとどまらず, 広く日本語の言語的研究におけ るアクセント研究の先鞭をつけた点でも意義が ある. ただし美妙の考えたア クセントは, 英詩な ど に 見 ら れ る ス トレ ス ア ク セ ン ト で, 日 本 語 で は ピ ッ チ ア ク セ ン トを 考慮 し な け れ ば 実 際 の 役 に. は立たないという事情があ った. 美妙はこれを区別できないで混 同している. ここに 「日本論文 論」 が単なる試論にとどま った一原因が あ った.. 美妙はここでふれられる限りの問題をとりあげ 総目次を絞 った予定を最初に掲げているが, こ の中で特に問題にされたのは, 散女と 「韻文」 との区別に関する所であった. 美妙は 「二者相違. の根本といふは唯一つの節奏です」 と断じ, 「韻文とはポエトリーの事」 と考えた. この点が内 田不知庵の反論を招いたのである. 詩形元より軽視すべきにあらねども 是を第一義と為して却 て共本源を忘れ極め て軽卒 にも韻 文なる新熟語を造出して以ってポエトリーを論じ, 然かも先人が思想説を大胆にも浅薄なる論. 定なりと打破し了す. これは不知庵の 『国民之友』 「明24・1, 第105号~第106号) に掲げた 「詩弁一美妙斎に与う -」 の一節である. 「韻文」 という用語は 美妙がはじめ て創出したかどうかは明らかではない. しか しこれ以前 にはこうした用法は見あたらな いので, 不知庵の説 にしたが ってもよいように思 われる, とも かく 「日本韻文論」 は多くの批判を受けた. この間の事情は周知のごとく森鴎外の 「美妙斎主人が韻文論」( 『志がらみ草紙』 明24・10第25号) に出ている. これに関しては韻律論. として取りあげ, 稿を別にしたい. さきに美妙から公開状を受け, そこで 「日本豹女論」 の予告をされた磯貝雲峯 は, その第一回 が 発表 されるや, さ っそく 「一家評, o韻文」 という一文を 『女学雑誌』 (明2 5号) 3・10 , 第23 に書いている. 以下その全文である, 今の昔, 指折り数 ふれば数自前, 山田美妙氏が韻文論の著ありと聞たりけり, 繭来鶴首長頚 以て其世に公にならんを待てり, 去んぬ三日発行の国民之友に掲げ初めしは是なん待ち望みし 韻女論なり, 我国今後の文学上に一大問題 となるべき韻文論の事, 読者と共に吾人は割目して 見んとす, 今日迄小説の流行せしを以て直ちに文学隆盛と思へりし人の迷夢を覚醒せんは近き にある べ し, 生れながらにし て大人たるものあらず, 亭々空を突くの大樹も始め は是二葉のみ 今日の韻文もとより幼稚なり, 不完全の点多きは論を要せず, 荷も我国文学の前途を思ふ人は 一 64 一.
(10) . 1 . ′ . ●. 近代詩諭史稿 -明治30年頃までの動向- 力を協せて共発達を計ら ざる べからず, 之を見て文壇の悪鬼と云ふは甚だ不当の見なり, 吾人 は之より韻文の愈発達せんことを 望み て止まず, 美妙氏の論文の如きは他日全班を閲して 云ふ 所ある べし.. 「日本f 鈎女論」 を契機 として一連の論争が行なわれたことは, すでにふれた. 雲峯も上のよう に美妙に支 援を送りつつ, 美妙の論の 終結を待 っ て自己の所信を表明した. 明治24年2月 『女学 一般の 「美の 54号および3月第255号に掲げた 「幾多の韻文論」 がそれである. さきに・ 雑誌』 第2. 感情思想の乏しさ」 を嘆 じた雲峯も, 新しい詩歌興 隆の時代が来たとして, 次のようにいう. 日本文学史に一新面を開くの時期近けり, 即ち韻文の隆盛と之に関する議論の興起これなり, 日本評諭に於て, 国民之友に於て, 其他諸新聞諸雑誌に於て, 見る所を以て知らる. 荷も日本 女学に志あるもの多少韻 文に関するの意見あらん. されど余はーた之を評せ んとするものにあ らず, 幾多の議論中余の聞き知れる所を大別して一言を附せん. 雲峯がこの本論で述 べて いることは, 「幾多の議論」 の性格によ って, 当然規定されることに なる. この時期の多くの詩論は, 韻律論・格調論であった, 雲峯はこれらの論を 整理大別 して, 「格調, 是を云ふもの二種あり, 一は日本従来の格 調即ち七五若くは五七を用ゆ可しと云ひ, 他 は新調を創む べしと道ふ」 としている. また美妙 が七五よりも五七を用いるのがよいと改進新聞 で論じているけれども, 古来の長詩形を見ると, 五七の調のものは少ないし, また五七調として 七五の調で読む方 が自然なものが多い. だから, 「従来の格調 書いてある現在の作品を見ても, . に則れば自 ら七五となるのは自然の勢」 であると論じて, 七五調自然説を述 べている.. また新格調を求 めて 「韻文界に新天地を開かんとする」 ものにも二派があり, その一 つは 「俳 雲 譜に則とり」 , 他は 「定まれる格調を用いず」 という. この定ま った格調を用いないのを, 峯は 「無法体」 と呼びたいという. そしてその実例として, 中西梅花の 「九十九の姻」 をあげ, 格調. ら し い も の が 見 え な い し, す こ し 格 調 ら し い 所 は 七 五 にな っ て い る と 難 じて い る, 要 す る に 我 国 に は, 西 欧 の 詩 の よ う,な 「音 声 を 上‐下 し.て 読 む」 ア ク セ ント が な い の だ か ら, 目 下 の と こ ろ 七 五. 調の詩体以外にはないのだというのが雲 峯の論の骨 子である. 明治20年代前期の詩 諭の大体の動 向は, 「新体詩」 という用語の定着一般化という現象, およ び 「日 木的女論」 による 「韻女」 という 用語の登場には さまれた期間として捉えることができよ う. つまり 「新体詩」 とは何ぞやという問いか ら, 「韻文」 とは何ぞやという問いへの推移の過 程 と し て, こ の期 の 詩 論 史 を 捉 え 得 る と い う こ と な の であ る,. 「新体詩」 とは何 ぞやという問いか らは, 旧体としての伝統詩歌, すなわち漢詩, 和歌・ 今様 また, 『新体詩妙』 の範とした西欧の詩歌が問題にされた. 「新体 ,俳譜などが問題にされた. ・ 詩」 という用語の直接あらわすところは詩体, あるいは詩形であるが, これが形想の二元的な考 え方を当初からも りていたため, この期の詩論はす べて既定の常 識として二元論に立 って いる. しかも一 方の詩精神の探求はほとん ど放置されて, 新詩体の探求に力が注 がれて いる ことも大き. な特徴とな って いる. 新詩体の探求という方向において, 伝統詩歌・西欧詩学の知識教養の 深浅 その他から, 論者はさま ざまな立場をとった. 大別すれば伝統破壊の急進的傾向のもの, 伝統擁. 護の改良主義のものなどである. 『女学雑誌』 を拠点とした磯貝雲峯などは後者に属するし, 山 田美妙はいずれかといえば前者に属する. , 本稿ではふれないが, 森鴎外, 大西祝などの学識ある 人々の論はこのいずれにも属さず中正な在り方をしている.. 新詩体の探求は, やがて目を日 に語 と ・う言語の性格に向けさせることにな った, . 日本語の詩 「節奏」 「 「 音調」 議論が続出し 格調 考察 七五調 五七調に関する 」 語としての性格の から, , , - 65 -. ‘ . 1 ・ ● - . ● ・ 1 1 1 1 1 1 . , ・ 1 ● . . . 1 ● . ・ 1 ・ , . . ・ ● ● . . . ● . ・ . ● J ・ ’ r ・ 1.
(11) . 角. 田. 敏. 郎. などの用語が, ほとんど各諭各様に用いられ, これらリズム に関する用語が氾濫 したのである. 「韻文」 もこ うした情況 から生まれた用語ということができる. 不知庵に非難されたこの用語は. のちに島村抱月 によって訂正せられ, 「韻文」 という用語で一般にあらわしているものの実体は 実 は 「律 女」 で あ る と さ れ る の であ る が, 今 日 に 至 るま で こ の 誤 用 は 行 な わ れ て い る. と も か く. も 「新体詩」 から 「韻文」 へ, 詩形論から韻律論へというのが明治2 0年代前期の動向である.. この期 においてまだふれていない重要な詩論は多い. しかし上の 如き動向は現象として動かな , い ものと思う.,次にこれにつづく時期を 『文学界』 (明26・1創刊) にあらわれた論を中心とし て 見 て お き た い.. (四) 明治26年1月の 『文学界』 創刊号の桑報欄を見ると, 「新年現象」 として記されている一文が ある. その中に次のような部分がある.. 所謂韻文といふもの新年に至りて表はる もの二三, (中略) 如何にも韻文なり, 詩として 幾何の価値あるを知らず, 詩形定らざる今日作家の苦心は察するに余りあるなり. さて詩形論 まらず, 尚彼是と論議する人絶 は前に美妙韻文論に失敗し, 敬香漢詩改良論に失敗せしにか 軸, 『 と題して磯貝某の云々するを見たり えず, 六合雑誌にも 国詩論』 , 大詩人の出で 大なる想 を謡ふの日は即ち我新詩形成るの日にあらずや, 今屑々としてこの間に言を弄するは蓋し技詩. 人の徒のみ. (後略) 上の如く 『女学界』 記者の見解は, 詩諭というものに対しては否定的で, 新詩形の完成するの. は, 詩 論 に よ る の で は な く, 実 際 の作 品 に よ る も の で あ る こ と を 主 張 し て い る. 磯 貝雲 峯 の 「国. 詩論」 は, 「新体の詩を強調して之れを国詩と呼ぶ べ し」 と論じている由, 日夏歌之介氏の紹介 があるが未見である. ともかく積極的な美妙の韻文論を失敗と断じ, 改良漸進的な雲峯の詩論も. 「技詩人の徒」 の言としてしりぞけているのである. ・ しかし大勢はこうした一部の論とかかわり なく, 続々と詩諭があらわれ, 各自の意見を述べ新詩形の定ま る ことを待望 した. こ うした動 向の代表的な人物の一人に, 大和田建樹がある. 大和田建樹は新体詩に関する啓蒙 6・3) などがそれであ 6・2) ・かんに出した. 『修辞学』(明2 的な著書をさ , 『新体詩学』 (明2 る. 『文学界』 の2月 号および3月 号の紹介で, そのおよそを見ると, 『修辞学』 は・「之れ固より レトリ ックとして完全なるものと言ふ可らずと難ども, 務めて和文体の美女のみを分り易く記述. して其引例に務められたろ所最 も共労を謝すべし」 とあり, その題目にふさわしくない粗末なも 稔の種類も, 当時は詩 のであったことを述 べて いる. しかし今日われわれの常識とな って いる比1 imi l l l e 直n命), 「ア レ ゴ リ ー」 (a 学 的 な 新 知 識 で あ っ た に ち が い な い. 「シ ミ ー ル」 (s egory. 寓. -愉), 「メ タ ポ ← ル」 (metaphor 暗;除), 「エ ピグ ラ ム」 (epi gram 警句) などについての説明が不. 十 分であることを 『文学界』 で指摘されているが, . 一般 に対して こうした詩学的知識に目を開か せた役割は認めねばならない. 『新体詩学』 は次のような紹介が出ている.. 題号の日新らしきと百八十頁の学書十五銭の廉なるとに注意を曳けり, 読み去り読み来る平 易流弁, 例の建樹君の筆法面白くて肩の張る患ひなし, 著者言へり, 余は新体の二字を以て文 学上の光明と信ずると同時に陳腐の二字をば 更 に文学上の暗黒とも呼ぶ者なれば ここに新体詩 学を著はして飽くま でも明治文学の区域を拡め, と改進派にして最も快活なる筆法を以て, 新 体詩の歴史, 種類, 句格, 詞の撰方, 意匠の工夫, 装詞の種類, 文法の変 格, 題の附方, 書式 - 66 一.
(12) . 近代詩諭史縞 一明治30年頃までの動向一. 読方等を述べらる. (以下略). 建樹 の 『新体詩学』 は和歌や国女学の系統を引く もので, 何ら詩諭史上の新意見を提出するも のではな かった. これに類した作法書は相当出て おり, 毛色の変 ったものでは河添樵霞という人. 『文学界』 第 4号で紹介) のように漢詩の 「韻法」 を応用 した我国の詩歌には の 『韻文組立法』 ( 無理な論で書かれた ものも見られる. 次に 『文学界』 の前期における代表的人物であっ た 北村透谷の詩論史上の位置についてふれて おき たい. 明治26年10月の 『文学界』 (第10号) に出た 「漫罵」 という一女は透谷の位置 をよく. 表明している. 電影窟主人という名 で透谷は銀座から木挽町へかけての風景・風俗から発した感 慨からはじめている. 時代の風潮があま りにも西欧の, それも物質的女物を模するに急 であ るこ . 国としての プライ ドや民族としての共通感情を忘れ 「曇逸遊 惰」 に流されていると述 とを嘆じ, べて い る.. 汝詩人となれるものよ, 汝詩人とならんとするものよ, この国民が強 いて汝を探偵の作家と せんとするを怒る勿れ, この国民が汝によりて艶語を聞き, 情話を聴かんとするを怪しむ勿れ. 嘘詩人よ詩人た らんとするものよ, 汝等は不幸にして今の時代に生れたり (中略) 汝が ドラマ ’ を歌ふは賛沢なり汝 が詩論をなすは愚癌なり, 汝はあ る記者が言へる如く偽はりの詩人なり, 怪しき詩論家なり, 汝を罵るものは 斯く言へり, 汝も亦た自ら罵りて漸く言ふ べ し. (後略). 7年5月紐死し, ついに25才の短 透谷は この年12月末自殺未遂を行な っている. そ して翌明治2 「 「 最後の欝状態 」 にあ ったといわれて い い生涯を閉じた. この 漫罵」 を発表 した頃の透谷は,. る, しかし今はそうした実生活上の背景にまで立ち入る必要はあるま い. ここに普遍的な詩人の 運命というものに関する認識が表明されて い ると見るべきである, 単なる知識や空論でなく, よ くみずから主体的に 「詩人」 を生きたもののことばで ある. ここに至るまでに発表された 「厭世. 詩家と女性」 (明25・2 『女学雑誌』 第303号~第305号) をはじめとする数々の評論, ま た山路 愛山と戦わ せた 「人生相渉論争」 については今はふれる余裕がない. ここではこれらの 論を通 じ て透谷が行な った仕事の意味を 象徴的にあらわしている 「漫罵」 をこそ, 詩論としてとりあげる の が ふ さわ し い と 思 う.. 詩形論・韻文論というように, もっぱら詩体や韻律の探求に明け 暮れ して 来た詩論の分野に, 詩精神の面からする詩論がは じめてあらわれたと見るべきであろう. 前にふれた外山卯三郎氏の 体系からすれば, 「形成的なるポエ ジイの領域を対象とするもの」 である. 「詩学」 と呼べない のは組識的体系化の産物でないからである.. 「漫罵」 に 象徴される透谷の詩業の近代詩 論史上の意義は, 『新体詩抄』 序文から 『日本艶女 論』 に至るま で, 一貫 して新詩形の探求に偏して いた詩論の流れに対して, 漸詩精神の探求を忘 却していた事を知らしめたところにある, 透谷のここでいう 「詩人」 とは, 文学を商品化する風. 調にたえられないi そ して軽口や頓智のみに あまんじることのできない, 十七文字 や三十一文字 の文学に満足できない詩人のことである. この一女をおお って いる激 しい反語表現には, 戦い疲 れた詩人すなわち透谷自 身の絶望的な気息が感じられる, 透谷ら 『文学界』 同人のもたらした浪 . 漫精神が女廿何なるものであったかは, しばらくおくと しても, これが詩論史上に形成的ポエ ジイ 論と して登場 したことを確認してお かなければならない. 6年10月に, もう一つの重要な詩論が発表されている. 『早 透谷の 「漫罵」 と同じく この明治2 9号の 「国詩の形式に就いて」 である. 佐藤清氏も 「明治詩論史」 でとくに 「大西 稲田文学』 第4 一6 7-.
(13) . 角. 田. 敏 ,郷. 祝の詩歌論」 の章をもうけておられる. 大西祝の諸諭は 適正妥当なものとして定評があり, 丁国 .は この頃までに多数あらわれた詩形論や韻律 論を展望 て整理 詩の形式に就い て」 し し, 適正な , 見解を しめ して いる. 佐藤清氏は 「リ ズム論と しては最後的なもの」 で, 「リ ズムの基本はこれ で決定されたもの. とい ってよ かろう」 とされている. 内容に関 しては先に述べたとお り今はふれ なし・.. (五) 明治27年7月, 日清戦争がはじまり社会は戦争ム←ドで湧きたった, 12月 『文学界』 第24号の 「時文」 欄では, 風燈 こと平田禿木がこの年を見て 「戦の起りてより民衆の心は奮ひ立ちて 文 , 学の如 きを顧るに暇あらず」 と嘆 いている. ま して詩歌などは 「浮華繊細の議を蒙り」 世間にし りぞけられたと述べている. こういう情況であるから見るべき詩論もあらわれていない. 戦争文 学や軍 歌が流行のきざしを見せているが, 禿木 は 「今の女士が戦争の文学といひ, 新体の軍歌と. いふ もののごとき, 多くはこれ露伴子の所謂, 興の足らざる詩の税と, 目的あやしき詩人の流産 に外ならず」 ときめっけ, 「一点詩的永遠の価値を有するものにあらず」 と見識を示している. 真剣に芸 術, 文学を考え, 詩精神を探求することを忘れ, 世間一般の軍国的風潮に乗ずる文学者 や 詩 人を い ま しめ て い るの で あ る. 文 中 の 露 伴 の 言 は, この 年10月13日 の 新 聞 「国 会」 に出た. 「戦争について」 という一文を指すのであろう. 「新体の軍歌」 は露伴や禿木のいうとおりで, 詩的, 芸術的価値は薄いものであ ったが, この日清と日露 (明37 ) の両役を通 じて流行し, 世に. 新体詩を普及させたことは事実として認めねを な ら な・い,. 明治2 8年はまた詩論も数多く出るようにな ってい る. 『文学界』 2月 号 (第26号) に 「新体詩 に就きて」 という寄書が掲げ が, .てある. 署名は格文堂主人であ る. 新見もなく‐平凡な論であ る . 詩論の動向を概括してある点で注目を したい. すなわち詩歌改良の論も大方の是認すると, ころと な ったこと, そ して 「擬古文派」 「守旧派」 といわれた人々も, これに対立した 「改良主義者」. といわれた人々 も時流に流され, ともに似通 っ た作品を書い ているという ことである. 結局詩体 の点では長歌や今様と新体詩とは変わ ってい ないが, 従来の歌人が 「ロ ーマソス的及びヒストリ. 的材料」 を歌わなか っ 、たことが世の不満とな って, 新体詩を生 んだのだろうという のが論の骨子 であ る.. 同じく 『文学界』 の5月 号 (第2 !か 思ひを述べて今日の批評家に望 9号) には, 島崎藤村が 「珊 ‘ ここで む」 という文章を掲げている. はいたずらに詩人や作家を責めるばかりでその行くてを示 さない批評家にも責任 の半分はあるとして, 形想諭もずいぶん出たが, 多くの論は 「いかなる想. を 執 れ」 と い う こ と に は ふ れ て い な い の で 詩 人 は 「岐 路 に 泣 く」 よ う な 思 い か す る と 述 べ らメtY〔 い る.. 藤村のいう 「相形の論」 とは, 詩形と詩精神との関連を論じたものを指す. 詩精神そのものを 探求する詩諭は, わずかに北村透谷の浪漫的詩精神の主張 ぐらいのものであった. 藤村の胸中に ‘ は, 前年倒れた透谷の苦闘がよみがえ っ ,ていたであろう. 文中に 「詩人が一生の重荷として負ふ べきもの, 考究すべきもの, 洞察すべき ,も の」 という こと ばが見えるが, これは真の詩人の在り 方に関す る ものである. 詩人の倫理的意義を問うことばとい える 、であろう. 透谷は 「漫罵」,で示 された ごとく時代の重圧にたえられずに, 藤村に 「間桂夫折の嘆き」 を残して去ったのである.. 藤村はこの一女で, まさしく透谷の詩精神を受けついでいる ことを示している, 批評家に教えを 乞うという形でつづられている この女は, 実は藤村の詩観とその探 求の方向を, 自信をもっ て表 -6 8-.
(14) . 近代詩諭史稿 一明治30年頃までの動向一. f 明したものであっ たとい えよう. 形成的ポエ ,ジイをたずねて, そうした詩論の不毛を訴え, 更に 「日本想」 ともいうべきものはないか と, これに関する論を要望したのである. 藤村は透谷の屍 をふみこえて, 「活きたろ俗 人は死せ る理想家に勝れり」 として, まもなく 『若菜集』 一巻を世 に 問 う の で あ る.. 他にこの年は多くの詩諭が各誌 に掲げられているがふれる余裕がない. これら群小詩論のうち 『早稲田文学』 明28・11~12 で, 島村抱月の 「新体詩の形に就いて」( ) は本格的な形想諭であっ. た. このあたりに関しては, すでに日夏秋之介, 吉田精一, 佐藤清その他 の研究や言及 があり, 付加すべき事柄も用意はじていない が, 簡略に動向を捉える意味からふれておきたい.. 問題の直接の発端は, この明治2 8年9月, 外山正一・中村秋香・上田万年・阪正臣の四人が出 . 物議をかもしたのは 外山正一の序女で, 新体詩の元祖は自分であ した 『新体詩歌集』 にあ った, るという自負にあふれ, ま た盛んになった 「軍歌の噛矢」 は自分がかって作 った 「抜刀隊」 の歌. であるとして, 「明治十年代に新体詩を創始せるものは, 明治二十年代に亦新体詩を創始するの 特権あるものと自認し, 数年前より叉一種の新体詩を詩作す ることを勉めたり」 という調子であ 『文学界』 ) ものであ った. ったふ しか しその 「一種の新体詩」 は 「散文とのけじめなき」 ( 抱月の 「新体詩の形に就いて. 」 は, ここに整理されねばならな い問題 を見出′ して, そ・ の詩学的. 知識を動員し, 形式から, 詩想から, 詩の分類法を紹介しなが,ら 「新体詩」 の性格を規定して行 ・ った. 抱月は 「新体詩の実質は主観詩なり, 汗情詩な り」 とし,、さらに拝情詩とするならば 「拝. 情詩的詩想を円に発揮する最好方法は律語にあらざるか, 叉は, 律語は拝情詩の場 合に於いて想 と同等の価値を有することなきか」 と して, 想において拝情, 形に於いて律語をとるべきである ことを論じた. 律語とは, 「音数を本とするの律」 すなわち音数律を指している, . 『帝国文学』(明28・10 ) で林斧太 (高山樗牛) が 「我邦将来の詩形と外山博 士の新体詩」 を書 い たのは, 『新体詩歌集』 序文に見られる外山正一の 口演体散文詩論に同調するためであった, 杯が 「H形式は素と内容の自然の,.叉必然の発表に過ぎずといふ事, ロ内容は内容みづ から形杖 を有し, 形式は形式みづからの内容を有すといふ事, 旨形式と内容とは哲学上に於ける二元と等. しく矛盾すとい,ふ事, 回人心の発達と共に詩の形式 は変遷す べしといふ事」 をあげて, 形想一元 論の立場から律格を排斥したことはあたらない. 抱月.の説くように 「具象的一元論の価値は形式 を拒排せずしてむしろ之れを取り入るる所に存する」 のではなかろうか. ともかくも このあた り ● の論争は, 日夏氏もいうように 「韻女論以来の注目すべき史価ある論議」 であった.. 藤村の 「音員文に就て」 は, 抱月の形想論の後, 12月に 『太陽』 に出たが, , さきに 「日本想」 を ・幸なる 位置を 評家に問うたのとは 打って変 わり 「今日の韻文ほど多 こあるはなし」 と多数の詩論の ことを述べ 「 この多幸が あ らわれている 反て韻文は批評家の肩によりすがり」 自由のとれない , ●ている. はなはだ手前勝手な論法であ・ 結果にな っていると る が, 一面また当然のなりゆき・とも ‐し rる. 形想論を要望して, ともかくも形想論議を見, しかもなお振るわぬ詩歌を見て, 此度は いえ その原因を日本語の不完全説によって説明しようとするのである. 藤村は 「韻文の妙味を感ずる こと少なきは単調子に流れ易き傾向を有すればなり」 とし, さらに日本語は, 「語の滑 かなるが 為に 『アクセ ン ト』 少く, 流暢にして長短高低の語音に乏し. 母音に充分なる力なく変化なく,. 語音に長短高低少なきが故に, 西詩漢詩に於て見るが如き声調の妙味は吾国の韻文に乏し」 と述 べて .い る,. 外山正 一の口演体散文詩論が出るような素地は, ここで藤村が 指摘するような日本語の音声面. での性格が一端を荷 っているのである. 日夏氏が い われるような後代の散女詩論との関連は, 考 一 69 一.
(15) . 角. 田. 敏・ 郎. えるべきではない.「字数を限りて散文と区域を立て」 る, いいかえれば音数律しか通用しない, 藤村にい わせれば 「言語に於 て不完全な る」 日本語の特性によるものである. こ の よ う に し て 明 治28年 は 終 わ る.. (六) 明治28年の詩諭史上のトピックを形想論の展開と見るならば, 明治29年のそれは 「際i戯体」 論 龍体」 論争の 争といえるかもしれない. 形想論争の論者の一人, 林斧太 こと高山樗牛はまた 「脚i 8年1月創刊) にあって, 明治3 2年頃まで相当多数 論者でもあ った. 樗牛は雑誌 『太陽』 (明治2. の詩論を書いている. 以下 『太陽』 を中心として動向を見て行きたい. こ至らずして歳は暮れぬ」 として, さら 前年に行なわれた形想論争を 「鱒方の議論未だ酪なるを. 『太陽』 1月 2巻2号) で一元論の自己の立場を説いているが, 別に新しい展 に 「新体詩形論」( 開 も な い も の で あ っ た.. 『太陽』 2巻3号) では 「武島羽衣・ 塩井雨江・大町桂月 ・杉 2月 「新体詩のけふこの ごろ」(. 山烏山等所謂 大学派の新体詩家」 が 「助辞・枕詞・かけ言葉・かかり結 びのいろいろを, しかも. 擬古文に書き流 し」 ていることを責め ている. 「其文字 の長きに較べて其内容の甚だ貧しき」 こ とを指摘して, 「其調子のみ耳につきて 其意義の索然たるもの, 是れはた好良の詩歌と称するを. 瀧体」 の語を発するようになる素地がここにうかが われるの 得べきか」 と難じている. 後に 「際! で あ る.. 『近代文学論争事典』 中の石丸久氏の 3月, 批判を受けた大学 派の一人武島羽衣は, 「HT」( 指摘による) という署名で, 『帝国文学』 の雑報欄に 「際腕体」 「新体詩と雅俗語」 という女章 を書 いて応じている. また外山正 一も同じ 『帝国文学』 で, この月と翌4月に 「新体詩及び朗読 法」 を書き, この中で大学派が 「意味を際鹿たらしむる」 として難じている. 『太陽』 2巻8号) で次のように 4月, 樗牛は2月にひき続いて 「今日の新体詩家を警醒す」 ( 述 べ て い る.. 今の詩人と称するもの, 想を構ふること余りに刻なり. 情を駆ること余りに強なり. 是を以 り. 強て境を作り, 務め て て他の 狭を捉へて強ゐて悲喜するものに似たり. 詩は霊魂の談話な, 1 情を動かす もの, 争でか 斑惚非念の妙境に他を導く ことを得 べき. 夫の故らに其,言を迂にし, 其語を微にし, 僅に声調の美を求めて得々たる もの>如き, 登共に詩を言ふに足らむや. 『太陽』 2巻11号) で 「際l 龍体」 の譜を使用している. i 5月, 樗牛は 「起てよ新体詩家」(. 所謂際腕体は, 桜 か ざして 今日も暮しつと云ふが如き, 優美閑雅なる王朝的感情を 歌ふべき も, 以て今日の変化多き情緒を陽ぷ べか らず. 漫にキョル子ル, スコ ッ ト, シルレル等の手に 艇体に擬する が如きは, 束帯して, 村田銃を担ふか如 したろ題目を捉へ来りて,. 是を七五の際!. し. 真にスタイルを知るの人は, 是スタイルの適応する内容をも知ら ざる べ からず. 髪に際=龍 体と呼 ぶは, 刻下他に適当なる名称を発見する能は ざる が為のみ. 肇も軽侮の意を含有するに 瀧体と云ふば余りに 非ず. もし読者にして他に妥当の名辞を見出 されなる 喜で之を用ゐむ. 際!. 是派が欠点のみを声明するの弊あ ・ればなり.. ここで樗牛がわ ざわざ 「原1脆体と呼ぶは, 墓も軽侮の意を含有するに 非ず」 とことわ っている ことは, 逆に一般では軽侮の意に受けと っていたことを示している. 際園 体の語があまりにも大. 学派の詩の欠点をあげつらう道具の観を呈して来たことを気 づ かっているのである. 『太陽』 明29・ 際腕体とい う用 語によ って, 樗牛がものした詩論は, 他に 「最近の新体詩界」( - 70 一.
(16) . 近代詩諭史稿 -明治30年頃までの動向一 『太陽』 龍体の末路」( 『太1 場』 明29‐12 龍派と藤村」( 7’ 2巻14号) 「所謂慶一 , 2巻24号)・「廟1 『太陽』 明30・9,. 3巻19号) などがある. これ 明30・9, 3巻18号) 「際脆派の詩 人に与ふ」( らを一貫して樗牛のと った立場は, 「際瞳といふ必 しも悪名にあらず, 好情詩に 脚脆の欠く べか. ら ざるは我等も固より之を認む, 然れども所謂脚騰派は明瞭の欠くべからざる薦にも 暇龍なり, 我等が屡其反省を 促すも是が為なり」 という所にあ った. ,上も っとも活気ある時期の一つであ った. 各雑誌がこぞ 明治2 9年か ら30年gかけては, 詩論史 『 9・7 『太陽』 「最近の新体詩 界」 明2 , 「今日の新体詩界」 明30・2 帝 って詩壇の動向を述べ ( が輩出している, と うていこれ 『 ) 国文学』 , 「新詩界の機運」 明30・3 新声』 など , 多数の詩論 『 0・4, 3巻 8号) に掲 らの一々に目を通す余裕はないので, ひきつづ いて樗牛の 太陽』 (明3 げた 「時女論評」 の うちの二三にふれて動 向の一端を見ることにする. この 「時文論評」 は4章 「 よりなる長諭 で, 本格的にとり組んでいる詩論と い うことができる. 「新体詩界の気運」 新 体 詩名称の適用」 「汗情詩研究の困 難」 「好憎詩の地位に就きて」 がその各章の表題である. 今や満街の桜花と共に斯界の光景漸く賑は しからむとす,「花紅葉」 「この花」 「天地玄黄」. 較々人を惹きしより以来, 花袋湖麗子等の新体詩も出づべく, 天遊天来等の 「松 織鈴轟」 も出 i麹辰の気焔も察せらるべく, 外山博士上田文科大学教授, 海上 づべく, 学士会場に於ける非瞭! 際 大人, 中村大人等の訪問記もチ ラホラ出づ, 唯憾む其都度々たに現はるる議論意見が龍の雲 (新 に躍るが如く, 或は爪を出し或は鱗を現はすのみにて終に其全貌を覚知すること能はず, 体詩界の気運) およそこうしたはなはだ判然としない詩諭が多いので, 樗牛は好情詩というものをも っと研究 しようではないかと提唱している. 「汗情 詩の地位に就きて」 は西欧の各種の詩学にふれて, 叙 こ 事詩と劇詩を一つの類と し, 汗情詩を これに対置させ て考えるのがよいだろうと結んでいる. 『太陽』 明3 0・5, 3巻9号) な ど翌年にかけても の後も樗牛は 「音調か音数か」 「詩と創作」( 続 々 と 発 表 し て い る.. 次 こうした情況の中で島 崎藤村の 『若菜集』 (明治30年8月) が世に出た. 『女学界』 9月号は. の よ う に 簡 単 に 報 じ て い る.. 自然詩人と呼を れつ ある島崎藤村 氏が明治二十九年の秋より 三十年の春へかけて試みられ 無邪 たろ新体詩集なり. 氏の歌ふと ころ必ずしも情熱し気昂れる想は見えずとも, 毎編いとも 如何は 対して , 気にして奇屈なるところなければ, 通読してロ吟する も可し. 或る一二の編に. しき批評はあれど, そは深く谷むるに足らず, 趣きある愛らしき小冊子にして冊中 の挿画亦皆 思 ひ 付 き の も の な り.. 本稿でふれ得た明治20年から同30年にかけての詩諭の数は限られたものである. とりあつかい 『 の中心をなしたものは, 『女学雑誌』 と磯貝雲 峯, 『文学界』 と北村 透谷・島崎藤村, そして 太 陽』 と高山樗牛の諸論であった. 一つ一つ論争, 論議の問題点をた どり, これを明らかにするた めには, なおこの他に 『国民之友』 (明治20年2月創刊) や 『志がらみ草紙』 (明治22年10月創 刊) , 『文庫』 (明治28年 , 『帝国文学』(明治28年1月 創刊) , 『早稲田文学』 (明治24年10月創刊) 8月創刊) などを詳細に調査する必要があり, とうてい短時日になし得ることではない. 現段階. では以上のごとき中間報告の形をとら ざるを得ないの である. しかし以上の中間的な調査からも, この期の動向のいくぶんかは明らかにあらわれていると 思 う. すなわち近代詩論史の出発は, 新体詩とは何 ぞやという問いからはじまるの である. 新しい 詩体を探求して 「韻律」 論に向かい, 新体詩はやがて 「韻女」 という異名でも呼ばれるようにな - 71 -.
(17) . 角. 田. 敏. 郎. る. これは 「日本的女論」 の出現を契機としていることはすでにふれたとおりであ る こうした . 詩形やリ ズムに関する研究がなされる一方では, 透谷らによ っ て詩精神の探求が要望され 形想 , 論が興るの である. 形想論が一応 の 落着を見せるよう になると, 日本語の詩語不適格説など, もあ 「 らわれ, やが 蹟鹿体 」 論議もあらわれる. また本稿では間接にも十分 にふれ得なか ったが, ,て 外山正一らの口演体散文詩論などもあらわれ, 詩論はますます多岐の様相を見せ るようにな る,. こうしたところで, ようやく芸術, あるいは女学 の名に値いす る 『若菜集』 が世に出たのであ っ た. 初期は歌論の亜流の域をあまり出ることの出来なかった詩論も, この間に次第 に西欧の詩学 的知識を吸収消化し, 本格的な研究を指向するようにな って来ている‘ 詳細正確な詩論史年表作. 成も今後の課題としたい.. 一 72 一.
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