• 検索結果がありません。

ヒューマニズムの概念

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ヒューマニズムの概念"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. ヒューマニズムの概念. Author(s). 松田, 義哲. Citation. 北海道学芸大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 15(2): 13-27. Issue Date. 1964-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3889. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第1 5巻 第 2 号. 北海道学芸大選紀要 (第一部C) 北海道学芸大学紀要. 昭和3 9年12月. ヒュー マニ ズム の 概 念 松. 義. 田. 哲. 北海道学芸大学岩見沢分校教育学教室. Yoshi i aki M ATSUDA : The Concept of Human sm. l. 自. 然. と. 人. 間. やたらに人間の意識ばかりが高揚 して, 人間が自然的な存在でもあるという事実を忘却 した時 代があった. 偉大な観念論哲学の体系は, かく して成立したが, 人間がそ の事実に気づき始める や否や, 今度は人間というものを自然的体系の中に位置させて, やたらに意識の働きに抑制を強 い, 人間が動物の一種 であることを 無理にでも意識に言い含めて, 人間の生き方と しては極めて 不自然な状態にお いて, それで足れりとした時代 もあった. そういう哲学は今もなお現代を何ら. かの程度に支配 しているということも できる. しか しこれらの哲学は, いずれも人間の自己診断 も しくは自己意識の誤謬から来ているというほかはない. たしかに人間は自然の森羅万象と同じ法則によって支配されている, だから生 に長短の差こそ. あれ, 他の生物と同様に, 生れ, そ して, やがては死んで行く の である. その限りにおいて人間 はた しかに動物の一種ではある. 人間は文化的遣産を受けつぐことによ って, すでに生れたとき から他の動物とは異 ったもの して養い育てられて, いかに自分が純粋の動物と して生きようと し. ても, 生きられないように宿命 づけられているが, しかし文 化をもたない社会, 例えば原始民族 の社会においては, 現代にお いても, なお人間は動物に近い生活を している. それは彼らの意識 構造が未 だ文化の段階にま で成熟 していないからである. このように考えると, 問題は人間の意 識に帰 一する.. 人類の思想史の上 で, 人間そのものが問題にされ始めたのはソクラテスのときからであるとい われている. それ以前のギリシ ャ哲学は, も っぱら自然的宇宙だけを研究対象と していた. それ. も当然であろ う. 人間が生きて行く上に, 何ら問題が起らない限りは, 特に人間が自分自身につ ん・て自覚を もつ必要もないからである, 人間は必要に迫られて問題を発見し, それを解決 し, そ して生きの .びょうとする. その営み, ない し努力の過程において思想が生れ, 制度が生れ, また 科学も生れる. だからギリシ ャ人が最初, 自然現象のみに関心を 向けて, 人間自身を問題に しな. か ったとて何の不思議 もない. 当時は, それよか ったのである. しか し人間の数が ふえ, それら の者が相互に何らかの交渉をもつようにな って来ると, そこに種々の問題が発生する. そ してそ の問題の解決が困難であればあるほど, それらの問題をかもし出す人間その ものが比較的, 知能 のす ぐれた人々の関心の対象とな っ て来ることは必然である. ソクラテスが人 間を問題にし出し . こ の よ う な 事 情 に も と ず く こ と は 容 易 に 想 像‐し 得 る と こ ろ で あ る た の が, . だか ら ソ ク ラ テ ス が 、. もっぱ ら問題にするものは, 人間の生活を秩序づけるための道徳である . 人間の道徳を確立する - 一 13 -.

(3) . 松. 田. 義. 哲. た め に は, 人 間 そ の も の が わ か ら な く て は な ら な い. そ こ に ソ ク ラテ ス の 哲 学 が 成 立 し た も のと. 思われる. つまり秩序のない人間の世界に秩序を打 ち立てなく てはならないという要求に迫られ て ソ ク ラ ス の哲 学 が 生 れ た. そ の と き ソ ク ラ テ ス は, 何 に よ り ど こ ろ を 求 め た か. そ れ は 智 で あ. る. 彼は個 人の意識を問題に したが, その個 々人の意識の働きが一致する点, すなわち普遍妥当 性を有する智, そこに人間社会の秩序の根拠を見出そうと した, それはソフィ ステ←スが余りに. も自分の主観的意見を真理と思い込んで, ふれまわ っていたのを見て, ソクラテスと しては, 個 人的意見の一致する点, 普遍妥当性を有する智を追求せ ざるを得なか ったという事情 に も と ず く. だ か らソ ク ラ テ ス に お い て は, た だ 問 い つ め て 行 く こ と が 学 問 の 方 法 と 考 え ら れ て い る. しか し, た だ 人 間 だ け を 問 い つ め て 行 っ て も, し ょ せ ん, 明 確 な 答 え は 与 え ら る べく も な い.. なぜなれば, すべてのものは, それ自体のみを取り上 げ, 究明しても, しょせん, 明確にはなら ないからである. 研究の方法としては, それ自体を問いつめる共に, それを宇宙に位置せしめて 一定の状位の中で, 他との関連において, それを問題とすることが必要である. これを具体的に 説明すると, 人間は, もともと自然の体系の中に属するものと して出現した. 人間が他の生物と 共通な条件の下に生きている こと は疑う余地のな い ことであるから, この人間の存在の基本条件 は, い かに, われわれが人間そのものを問題とする場合にも, 忘れてならないことである. そう いう関連の中に人間を位置させ, そ して人間そのものを追究するとき, 研究の 体制は根本的にで きているわけである. しかしそ ういう体制ができていない で, やたらに専門化 して しま って人間 そのものを追求するとき, そこには学問研究の基本体制 か ら遊離した, 特殊な行き方, 学問研究 と しては価値のない行き方があらわれて来て, その結果と して築き上げられる特殊な世界は, 学. 問的には価 値の貧しい世界となる.. ご し か しソ ク ラ テ ス で さ え, よ く ダイ モ ニ オ ン (6鯛”dし oし) の 声 を きく と い っ た. そ れ は 天 地 を. 創造した神とい ったようなものではなくて, 良 心の声というようなものを神格化したものと受け. 取れる. 彼においては ダイ モニオソが, よく諌止の形で働いたといわれているが, それは人間そ のものの 追究との関連において考えられる人間的な神ともいう べきものであろう. それはギリシ ャ的な思惟 形式の限界において考えられる べきものである. さて, ソクラテス以後, 人間を自然と対立せ しめ, 人間の意識をやたらに高揚せ しめ るべく人 類のエネル ギーは発動 された. そ してそこに人間の所与の条件を無視 した, 人間に固有の社会が 形成された. それは人間自身の努力によって, やたらに人間の意識を高揚せしめることによ って, ときには神の意 図を, ときには宇 宙において神によ って定められた人間の地位をも無視 して, つ. く り出された特殊の世界である. そういう世界は, 人間自身のつく り ・出 した世界であ り, その世 ちの力によ てつく したという自負をも り出 々は それが自分た 界の中に生きる人 っ って生きてい , る. その精神状態は, この上もなく微慢である. しか しそれは人間自身の ・意識が倣慢な のであり, 自己満足の状態に あるので, 一層高い次元から見れば, 愚か しいことでしかない. パウロがコリ ン ト人 へ の 第一 の 手 紙1.18一25で 次 の よ う に 言 っ て い る の は, こ の 点 を 指 摘 した も の と 解 せ ら れ. る. 「十字架の言は, 滅び行く者には愚かであるが, 救いにあずかるわたしたちには, 神の力で ある. すなわち, 聖書に 『わたしは知者の知恵を滅ぼし, 賢い者の賢さをむな しいものにする』 と 書 い て あ る. 知 者 は どこ に い る か. 学 者 は どこ に い る か. こ の 世 の 論 者 は どこ に い る か. 神 は. この世の知 恵を, 愚かにされたではないか. この世は, 自分の知 恵によ って神を認めるに至らな . そこ で神は 宣教の愚かさによ て 信じる者を救 か った. それは, 神の知恵にかな っている, っ , , う こ と と さ れ た の で あ る. ユ ダヤ 人 は し る しを 請 い, ギリ シ ャ 人 は 知 恵 を 求 め る. しか し わた し. - 14 -.

(4) . ヒューマニズムの概念. たちは, 十字架につけ られたキリストを宣 べ伝える. このキリストは, ュ ダヤ人にはつまずかせ るもの, 異 邦人には愚かなものであるが, 召された者自身にと っては, ュ ダャ人にも ギリシャ人 にも, 神の力, 神の知恵たるキリス トなのである, 神の愚かさは人よりも賢く, 神の弱さは人よ りも強いからである」. 人間の高揚された意識から生れた思想や哲学-- それを人々はヒュ ーマニ ズムと呼ぶ-- が,. 宗 教 的 に 見 て, 愚 か しい も の で あ る こ と を, こ の パ ウロ の 言 葉 は 言 お う と して い る の で あ る が,. それは単に宗教的の事柄であるだけ でなく, 科学的に見ても, 人間が, この地上に おいて占める 地位を没却している点で誤っている. マルクスなどには, 特に, その点をついて, 人間をを自然 科学的に位置 づけ, そこからす べての科学を出発させようとする意図がうかがわれるように思う のであるが, しか しそれが, ただ人間を, その王 座か らひきずりおろして人間の地位を低下させ. るだけに終ってよいものであろうか. 人 間を正しい位 置につけ, その高揚された意識状態を平静 にもどして, 不安定な文化を生み出さないよ うな体制におくことは必要であろうけれども, しか. し, それによ って神から人間に与えられた特権をも奪 ってはならない. 問題は真理を明らかにし 得る体制をつくることにあるのであって, いたずらに人間の地位を低下させることにあ るのでは ない. また人間の地位を不当に低下させてみたところで, かえって不安定な状態を招き寄せるこ とになるだけである. もちろん余りに高揚された意識からは不安定な思想や状態しか生れて来な. いが, それかとい って, いたずらに人間の地位を低下させたところで, よい結果が得られるわけ ではない. なぜなれば, それは誤 っており, 反真理 であ るからである. 人間は, たしかに自然的 体系 の 中 に く り 入 れ ら る べ き一 面 を も っ て い る. しか し, そ れ か と い っ て, も し人 間 に他 の 動 動. とは, ちが った特権が与えられているので あれば, その特権をも 無視することは反真理である. キリスト教 が特に問題にするのは, その点だと思う. 人間の意 識を過度に刺激 し高揚させて, 不安定な思想や状態を生み出させることが社会の 発展. て人間が単 のためにならないことは, 以上に明らかにした通りであるが, しか し, それかとい っ・ な る ホ モ ・ フ ァ ー ベ ル で は な く て, ホ モ ・ サ ピエ ンス で あ り, そ の 意 味 で 他 の 動動 と は 異 っ た 一. 面 を も っ て お り, そ して, そ の 限 りに お い て, い わば 特 権 を も っ て い るこ と も 事 実 で あ る. す な. わち人 間には, 他の動物には見られない 内面的な生活が あるという事実を無視することは, また 不安定な思想や状態を生み出す原因となる. マルクス主義が全面的にそうだというのではないが, しか し マ ル ク ス の 思 想 に は, 多 分 に, そ う い う 要 素 が 含 ま れ て い るこ と は 否 定す・る こ と が で き な. . こよ て創造された すべての被造物の中で 特に人間には 固有な内 い, キリス ト教では, 神む , , っ , 面生活を認める. それを人間的事実と して認めるのであるから, それ自体決 して反科学的のもの で は な い と い う こ と が で き る. 例 え ば マ タイ に よ る 福 音 書23.25一28で は,こ う 述 べ ら れ て い る.. 「偽善な律法学者, パリサイ人たちよ. あなたがたはわ ざわいである. 杯と皿との外側はきよめ るが,内側は貧欲と放縦とで満ちている. 盲目なパリサイ人よ. まず杯の内側をきよめるがよい. そうすれば外側も清くなるであろう. 偽善な律法学者, パリサイ 人たちよ. あなたがたは, わ ,ざ わいである. あなたがたは白く塗 った墓に以ている. 外側は美 しく見えるが, 内側は死人 の 骨 や, あらゆる 不潔なものでい っぱい である. このようにあなたがたも, 外側は人に正 しく 見える 1でも 同じようなこと が述 が, 内側 は偽善と不法でいっぱいである」, ルカによる福音書11 ,37一4 べ ら れ て い る. 「イ エ ス が 語 っ て お ら れ た と き, 或 る パ リ サ イ 人 が, 自分 の 家 で, 食事 を を して. いただきたいと申し出たので, はい って食卓につかれた. ところが食前にま ず洗うことをなさら なか ったのを見て, そのパリサイ人が不思議にな った. そこで主は彼に言われた, 『い ったい, 一 15 一.

(5) . 義. 田. 松. 一瓦. あなたがたパ リサイ人は, 杯や盆の外側を きよめるが, あなたがたの内側は貧欲と邪悪とで満 ち ている. 愚かな者たちよ, 外側を造 っかたたは, また内側も造られたではないか. ただ内側にあ る.も の を き よ め な さ い. そ う す れ ば, い っ さ い が あ な た が た に と っ て, 清 い も の と な る』」.. この立揚は ペ スタロ ッチ-に受けつかれて, 彼のヒ ュ ーマニ ズムを基本的に性格づけていると. い う こ と が で きる. こ れ は 彼 の 全 著 作 に つ い て 言 い 得 る こ と であ る が, し か し.「リ ー ンハ ル トと ゲ ル ト ル ー ト」 (「Li t enhard und Ger rud)を 書 い た こ ろ の ペ ス タロ ッ チ -をま, 少 な か ず 唯物 論 的. 傾向に支配されている. それだけに彼の人格は統一を失い, 彼の精神状態は荒廃 していたとい っ て よ い. そ の 後 ベ ス タ ーロ ッ チ ー は 精 神的 自 律 を と りも ど す の で あ る が. す で に そ の と き の彼 の. 思想的宇宙に お いては宗教と道徳とは明確に区別されないものにな っている. 彼自身も自分の思 想が必ず しも啓示信 仰に一致しないことを認めている. しかし, それでも彼の生活状態は一貫 し て キ リ スト教 的 で あ る. こ こ に 敢 て キ リ ス ト教 的 と い う の は, 彼 の 根 本 の 立 場 は, や は り ヒ ュ ー. マニ ズムであるか らである. その意味での彼の立場を最もよく説明す るも の は,. 「シ ュ タ ソ ッ だ. fentha l iber seinen Au i f an einen Freund t tin・Stanz) (1799年 出版) の よ り」 (Pestalozzis Br e ,. 一節である. 「私が事業を始め, 子供たちの本心を堕落もさせれば放縦にもした環 境の泥土と粗 野とか ら, 私の子供たちを救い出す出発点とすることができ, またそうす べきであったものは, 「般に経済的のものでなければ, また何ら他の外面的のものでもなか った. ……私は是非とも’. まず第一に彼らの内的なものそのものと正しい道徳的の情調とを彼 らの心のうちに目覚まし, 鼓 舞し, それによ って外的なものに対しても彼らを活 溌ならしめ, 注意深からしめ, 愛情あらしめ’. 従順ならしめ ざるを得なか った. 私はそうするほかはな か った. 私は 『まず内側ををきよめるが よ, い, そうすれば外側も清くなるであろう』 というイエス ・キリストの崇高な原理に信頼せ ざる を 得 な か っ た. ← - そ し て, も し, い ず れ の 時 か, こ の 原 ・ 理 ・ の 真 な るこ と が 明 ら か に な る と. 1 ) この言葉 すれば, それは, この原理が私の事業によって矛盾 なく実証される時のこと である」. か らも わ か る よ う に, ヒ ュ ー マ ニ ス ト で あ り な が ら, ベ ス タ ーロ ッ チ ー ほ ど に キ リ ス ト教 的 に 思. ・とい ってよいと思う. 惟し実践し得た人は他になし 註. 1 ke hsg.v. F, Mann,5 Aua,1906, Bd,11 t s Ausgew苔hl e we 1)J r ,79-80 ,S . . H. Pestalozzi. 口. 神. と. 人. 間. わ れわれは, さ きに,人間の意識が, やたらに高 揚して, 病的な思想や状態を生み出す場合につ いて考えたが, その逆の場合, すなわち人間の意 識が不当に低下し, 沈下し, 逆の方向に人間の 地位を移動させる場合もある. これはキリスト教が反ヒュ ーマニ ズム として働く場合, 招来する. 結果である, 例えばヨーロ ッパ 中世の哲学は, 哲学思想と・しては, 根抵にヒュ ーマニ ズムをも っ ていたか ら, 従 って人間を不当に位置づけることはなか ったはずであるが, しかし中世は社会が 階級的構造をもち, 僧侶階級が支配的な地位を占め ていたため, 神と正しい関係に おかれていた. のは僧侶階級であり, 一般民衆は僧侶階級の支配の下に, 人間として正しく位置づけられていた ということはできない. 教会は信者,に対する支配を 徹底 させるために破門の手段を用いた. かく てキリスト教の信仰が強く人心を支配したために, 人民は, きそ って土地浄財を教会に寄進し, そのために不当に宏壮な殿堂が各地に建立された. 今日残 ってい るロ マネスク式及び ゴシック式. の寺 院 は, そういう歴史を証明するシンボルである. それかとい って僧侶階級が必ずしも人 間らしい生活を保障されていたとはい えない. 中世の知 一 16 一.

(6) . ヒューマニズムの概念. 的要素を含んだ教育, としては, ただ修道院の教育があっただけであるが, その修道院の生活のも との意味は禁欲主義である. それは魂が一層高い生活の興味に専念し得るように, す べての肉 体. 的欲求と人間的愛情とを抑制し鍛錬することを意味する, 真のキリスト教生活は現世を否定する ことによって, すなわち日常生活から遊離するこ とによ って得られると, 考えられていたの であ. る, 修道院生活の理想は, 普通, 次の三つの概念にまとめられる, 純潔・貧乏及び服従 である. これら三つの大きな理想を更に詳細に説明したものが, 各修道院によ って方式づけられた戒律で ある. 第六世紀以後は一般的に聖 ベネディ クトの戒律が, それらの戒律の基準となった. この戒 律の特徴は, 盲目的服従 の上に, 或る種の手仕事をつけ加えることを要求するものであった.. この禁欲主義は人 間が勝手につくり出した制度であ って, 何にもイエス・キリス トによ っ て定 められた戒律ではない. キリスト教が要求するものは, 禁欲主義ではなく, 一夫一婦のおき てで ある. 従って中世人はみずからが作 ったおきてによ って, みずからを束縛したということができ る. 近 代 人 が 反 橋 を 感 じた の は, こ の 点 で あ る. だ か ら ル ネ サ ンス の 人 々 は, 何 よ り も ま ず, 人. 間らしい生活と しての男女の結合を求めた. また宗教改革を起した人々も, 同じように, 男女の 結合が宗教生活と背反しないことを強調した. それは神との関係において, 不当にずれていた人. 間の地位--それも人間の意識の不当な沈下によ って招来されたものであるが←- を正常な状態 にもどすこ・ とにほ かならなかっ た. す べての栄光を神に帰そうとする場合,人々は往々して人間と. い うも の の地 位 を 不 当 に ず ら して, と き に は 人 間 と し て の地 位 を 完 全 に 喪 失 さ せ る こ と に よ っ て,. その目的を達しようとする. それはヒュ ←マニ ズムの否定を意味する. 中世に おいては, 哲学そ のも の は, 根 本 的 に は, ヒ ュ ー マ ニ ズ ム の 上 に 立 っ て い た が, キ リ ス ト 教 の 絶 対 的 支 配 の 下, と き に ヒ ユ マ ニ ズ ム が 否 定 さ れ る面 の あ っ た こ と も, ま た 否 む こ と が で き な い, だ か ら こ そ ル ネ サ. ンスが起り, また宗教改革が行なわれたのである.. 有神論の立場においては, 人間は神によ ってつくられたものとして, 全存在的に神とのかかわ. り の う ち に あ る. 多 く の ヒ ュ ー マニ ス トた ち が 考 え る よ う に, 人 間 は ホ モ・ サ ピエ ン スと して の. 面においてのみ, 神との関係に, はいるの ではない. 人間の知性も身体も, す べては神の創造に かか るものである. だから人間は全存在的に神との 関係のうちにあるというべきである. しかし 人間は知性あるが故に, かえって, その働きによ っ て, 人間を神との正しい関係の外におくこと がある. それに二通りある. 一つは, すでに明らかにしたように, 人間の意識を不当に高揚させ ることにより, 神を無視する状態に人間をおく場合であり, もう一つは, 人間が人間としての権. 利をすてて, 人間以下になりさか って, 神との正しい 関係の外に出る 場合である. それもまた, やはり人間の知性の誤 った働きにもとずくものである.. ‘ も し ヒ ーマ ニ 1を 否 定 す る だけ の 根拠 を も ち 合 せ な い. さ て- わ れ わ れ の ヒ ュ ー マ ニ ズ ム はれ 1 ュ. ズムが神を否定しようと思うならば, それは人間及び人間が生み出す科学の万能たることを証明. すること ができなくてはならない. ところが人間が有限的存在であり, 人間が生み出す科学もま た限界を伴 っていることは否定すべから ざる事実である. われわれは, いかなる手段をも っ てし ても, 人間が万能であることを実証することはできない. だから人間は神との 関係の中に立つと. いうテーゼは依然と して妥当性をもつ. しかし人間は不当に意 識を高揚し, 思い上 って, 神を否 定しようと したり, また余りに意識を沈下せしめて, 自己の存在を否定して, 神を肯定しよ うと したりする場合がある. しかし神によ って創造された人間が, 自己の自由意志によ って, 自己の. 存在を否定することは, 自己の自由によ って神の存 在を否定するのと同様に誤 っている. それは 人間の越権行為 であることにおいて共通である. 神を否定することも, 人間が自己自身を否定す - 17 -.

(7) . 松. 田. 義. 哲. ることも共に誤 っている. 神が肯定される共に, 人間もまた肯定されねばならない. しかし人間 は不当に思い上ることも, また不当に卑下することもなく,つねに自己の有限性を自覚しつつ生き ねばならない. 自己の有限性を自覚 するという 結果は神さ存在を肯 定することである.人間が自己 の有限性を忘却 する結果は神を否定, することになり, そこに不徳のしのび込む余地が生ずる,. 共 産 主 義 が 神 を 否 定 す る 立 場 を と る こ と を 知 る た め に は, エ ン ゲ ル ス (Fr i l i edr ch Enge s 1820-. 1895) の次の言葉を引用 するだけで充分 である. 「イ ギリスのすべて の学校 で宗教教育と結びつ けて施されている道徳教育が, 宗教教育以上 の効果をあげていないことは,かなり明らかなことで. ある, 人間のために人間と人間と の関係を調整す る単純な諸原理--それは, 社会状態のために, つま り万人の万人に対する戦争・のために, すでに全く甚 しい混乱に限りつつあ るの だが 一一も, 宗教上のわけ のわからない教義とま ぜあわせ, 懇意的な, 根拠のない命令という宗教的形式につ つま れて講義されるときには, 教育の労働者にと っては, いつま でた っても, 全く不明瞭な, 奇 異なものであるにちが いない. すべての権威者が, 殊に児童雇傭委員会が告白するところによれ ば, 学校は労働者 階級の道徳には殆ん ど何の 貢献も していない. イ ギリスの ブルジョアジーは,. その利 己主義 のために, ひ どく無 思慮で, またひどく愚か しく偏狭な ので, 労働者に, こんにち の道徳を教え込む努力 をしようとさえ しない. しかも, そのこんにちの道徳は, ブルジョアジー. )こ んな 口 が 自分自身の利益のため に, 自分自身を守るために, でっち上 げたものではないか !」1 吻に接すると, 共産主義は, いかにもキリスト教道徳を否定するかに思われるのであるが, しか. しそれはキリスト教道徳がプロ レタリア階級 の利 益になるときには, これを巧みに利用 する. 例 え ば マ ル ク ス が 「フ オイ エ ル バ ハ」 論 の 中 で, 次 の よ う に 言 う と き, そ の 思 惟 方 式 そ の も の は 全. くキ リスト教的であるとい ってよい. それはキリスト教的論理を用 いて, 一つ の階級の利益を擁 護 しているにすぎない, 「他人と の共 同関係において初め て各個 人は, 彼の素質を, あらゆる方. 面に向って発達させるための手段をもつ. 従 って共 同社会において初めて,人格的自由は可能とな る, 従来のもろもろ の共同社会代用物においては, 国家その他に おいては, 支配階級の諸関係の. うちで発展 した諸個人にと ってのみ, そして彼らが, この階級に属する諸個人だ った限りおいて のみ, 人格的自由は存在した, 従来, 諸個 人が結合して形成 した外見上の共同社会は, つねに諸 個 人に対立 して独立化され, そ して同時に, それは一階級 の結合と して他の一階級に対立してい たのだから, 被支配階級にと っては一 つの全く幻想的な共同社会だっだけではなく, 一つの新た な樽椿でもあ った. 現実の共同社会においては, 諸個 人は, 彼らの結合において, そしてこの結 合によ って, 同時に彼らの自由を護得するのである」. 2 ). 要す るに, 共産主義の本質をなすものは, キリスト教の理念であり, 共産主義の全理論は キ , リスト教的理念を一つの階級に有利なように改造 しようと した 一つの試みにすぎないように思わ れ る,. しか し そ の (質 は, あく ま でも キ リ ス ト教 的 であ る と い っ て 誤 り は な い 事 実 現 在 ソ , , .. ヴィ エトにおいては, 徐々にキリスト教が, そ の勢力を 回復しつつあるが, それは, 歴史的に も, 理論的にも, 必然的な過程であるとい ってよい. 元 来, ヒ ョ ー マ ニ ズ ム の 論 理 に は 否 定 的 な モ メ ン トは 含 ま れ て い な い そ れ は, も と も と ヒ ュ .. ーマニ ズムの概念が古典的古代の概念と結びついており, ギリシャ的楽天主義によ って特徴づけ. ら れ て い る か ら で あ る, 尤 も こ の 概 念 は ギ リ シ ャ で 生 じた も の で は な く て, ロ ー マ 時 代 キ ケ ロ (Ci ceroB. C.106‐43) に よ っ て 確 立 さ れ た も の で あ る. しか し そ れ は ギリ シ ャ の 生 活 文 化 に あ こ が れ た ロ ー マ 人 に よ っ て 一 つ の生 活 理 想と し て つ く り 出 さ れ た 概 念 で あ る. 人 間 性(humani tas ). の概念はローマ人の理想としてのギリシャ人の生活文化にほかならなか った. だからヒュ ーマニ ー 18 一.

(8) . ・ 」 ・ ・ ; ● ● . ・. ヒューマニズムの概念 ズム の 源 流 は, や は り ギ リ シャ の 人 間 哲 学 に あ る. と ころ で ギ リ シャ の ヒ ュ ー マ ニ ズ ム は, 周 知. のように意味ある生を自己に内在する原理や法則によ って, みずから産出し得る人 間固有の能力 に対する信頼もしくは讃美を内容とするものである, それは人間固有の能力に対する信頼 --そ. れは, さきに述べたように, 高揚された意識状態にすぎない--から, おご り, たかぶり, 従 っ ては神を冒流 し, また, みずからの力によ って, みずからに都合のよい神をつく り出そうとさえ. する. そういう思想は, 明るい南欧の太陽の下におのずからに形成された楽天主義 的世界観によ って特徴づけられたものである, こ の ギリ シ ャ 的 ヒ ュ ー マ ニ ズ ム は, ル ネ サ ン ス 時 代 のイ タ リ ア の ヒ ュ ー マ ニ ス ト た ち に よ っ て 受 け つが れ て, 再 び 大 きな 花 を 開く. そ の ル ネ サ ンス の ヒ ュ ー マ ニ ズ ム の ス ケ ー ル の 大 き さ は到. 底ギリシャのそれの比ではない. なぜなればルネソサンスのヒュ ーマニ ズムは中世を支配 したキ リスト教に 対する反抗と して起 って来たものであるからである. キリスト教 の世界が大きなスケ ール を も っ て い た だ け に, そ れ に 対 す る 反 抗 と し て の ヒ ュ ー マ ニ ズ ム も, 必然 に 大 きな ス ケ ー ル. を も た ざる を 得 な か っ た こと に な る.. ルネサンスの ヒュ ーマニ ズムもまた人間中心主義であ り, 人間に固有 の能力に対する信頼 の上. に 立 っ て い る 点 で, ギリ シ ャ の ヒ ュ ← マ ニ ズ ム と 共 通 で あ る.し か し両 者 は 次 の 点 で 異 っ て い る . ギ リ シャ の ヒ ュ マ ニ ズ ム は キ リ ス ト教 と 交 わ る 以 前 の も の で あ る のに 対 し て, ル ネ サ ンス の ヒ ュ. ーマニ ズムは, 中世という長い時代を通してのキリスト教 の支配ののちに, 漸く人間が 自分自身 をと りも ど し た と い う 意 味 で の ヒ ュ ー マ ニ ズ ム で あ ると い う こ と. し か も ル ネ サ ン ス の ヒ ュ ー マ. ニズムは, いかに人間が自己を 回復することができたといっても, 宗教そ のものを根低か ら否定 したものではないとい った意味でのヒュ マニズムである. それは中世的キリスト教には反抗す る. が, しか しキリスト教そのものを頭から否定するものではない. それはルネサンス時代の芸術品 によ って具象的に説 明される. ルネサンスの芸術は人間を讃美するけれ ども, そ の多くは宗教的 , 題 材 を 用 い る こ と に よ っ て 試 み ら れ て い る.. 中世の哲学の根砥にヒュ ーマニ ズムがうごめていたことは事実である. しか しそれが表面に出. て 来 た の は 中 世 末 期 で あ っ て, キ リ ス ト教 全 盛 の と き に は, ヒ ュ ー マ ニ ズ ム は キ リ ス ト教 と の 妥. 協のみを求め, 哲学も 「神学の蝉僕」 以上のものではなか った. 要するに, 中世のキ リスト教的 な文化及びその自覚としての世界観及び人間観は根本にお いて神中心であ った, 従 って人間は自 己のうちに中心をもつものと して でなく, 他 の一切の有限的存在と共 に神を中心と して動くもの. と見なされた. 人間がこのように神中心的に理解されるということは, 人間が生 のすがたにおい て でな く, 死 の す が た に お い て と ら え られ る と い う こ と で あ る . こ れ に 対 して ル ネ サ ンス の ヒ ュ. ーマニズムは人間を生のすがたにおいてとらえようとする. つまりそれは人間を自己のうちに中 心が与えられ, みずからの力によ って自己の運命の主人となることができる者と してとらえると. い う こ と で あ る. し か し ル ネ サ ンス の ヒ ュ ー マ ニ ズ ム は, こ のよ うに 人 間 を 生 に お い て と ら え る. としても, それは人間を死においてとらえた中世的態度に対する反抗と して である から, 無媒介 的に人間を生においてと らえたギリシャのヒュ ーマニズムとは, その論理的構造が根本的に 異 っ ていることは明らかである. しかもそれは神を根本的に否定するものではなく 中世的に歪曲さ , れた神と人間との関係を正常な状態にかえしたこと以外の何ものでもない その立場は宗教改革 . に よ っ て代 表 さ れ る が, ル ネ サ ンス の ヒ ュ ー マ ニ ズ ム だ っ て キ リ ス ト教 と 絶 対 に 相 容 れ な い も の. で は な い. け れ ど も そ れ が ヒ ュ ー マ ニ ズ ム で あ る 限 り キ リ ス ト教 と 対 立 す る 面 の あ る こ と は , , も ち ろ ん で あ る. 特 に ル ネ サ ン ス の ヒ ュ マ ニ ズ ム に は 反 動 的 傾 向が あ らわ れ る こ と も 止 む を 得 , 一 19 一. 1 . 1 . . . ・.

(9) . 松. 田. 義. 哲. なか った. それはキリスト教の 生の解釈も しくは生の評価に対する反抗 である. 言いかえると, それは人間の無力と神の恩寵というキリスト教的感情に対する意 識的或いは無意識的な 抗議 であ る. それは敢 てキリスト教を否定するもの ではないけれども, しかしあくまでも古代の人間の自 己感情を尊重し, 世界には多く の強力なものがあるけれども, しかし人間以上に強力なものはな. いという信 念を貫こうとする生活態度である . そこには 人間的なものの否定はあり得ない. ただ肯定の論理がある のみである, しかし, いか に人間が万物の尺度であり, 人間が歴史の意味であり, 人間が神の王位継承者であるといっても, 人間が有限的存在であることは疑う余地 がない. そこでヒュ ーマニ ズムは 自己矛盾に陥ら ざるを 得なくなる. この問題 が第十八世紀の新人女主義においては宗教との融念とい うかたちで解決さ れ て い る. そ れ は 一 つ の 新 しい ヒ ュ ー マ ニ ズ ム で ある. そ して こ れ を代 表 す る 者 が ペ ス タロ ッ チ ー で あ る. 註. 18頁 1956年青木文庫)1 1) 矢月!徳光編 マルクスニエンゲルス教育論 ( 2 ) マルクス著岡崎次郎訳 フオイエルバハ (「ドイツ・イ デオロギー」 第一部, 世界大思想全集第十二巻 昭和2 9年 河出書房 5 9頁) m. 人. 間. ら. し. さ. i i tas ) t)の 概 念が ヒ chke キ ケロ の 「人 間 性」(humani , ペ ス タロ ッ チ - の 「人 間 ら し さ」(Menschl ュ ー マ ニ ズ ム の 根 本 概 念 で あ る. ゴ ル フ は ヒ ュ ー マ ニ ズ ム を 定 義 して, 「ヒ ュ マ ニ ズ ム と は, そ. の意味と, その象徴とが 「人間らしさ」 の理想であるところの, 十五世紀から十八世紀に至る西 1 )と述べている, 洋文化の偉大な 精神的運動である」 しか しこの 「人間性」 もしくは 「人間らしさ」 の概念には二重の意味がこも っている. まず第. 一に, それは人間の現実, すなわち, すべての人間的なもの, 人間に自然 的に属する一切 のもの を意味する. あらゆる人間的なもの, ときには人間の弱さや醜さをあ らわすようなものも, それ が人間に本質的のものである 限りにおいて, やはりこの人間らしさの概念のに に 含ま れ る. しか. しそれ が人間らしさのす べて ではない. 人間らしさの概念は, 同時に人間の理想 をも意味してい る.つまりそ れは人間をして人間たらしめるところのもの, すなわち人間の本質を意味している. そ の意味では人間らしさは人格性と同義である. それは人間を他の動物か ら区別する徴標である. が, しかしそれが人間に 本質的のものである限りにおいて, それはヒュ ーマニズム の本質的要素 であるといわねばな らない. それによ って人間は自己日的的存在となり, 単に手段と して取り扱 われてはな らないとされる, ここでわれわれはカントの有名な言葉を思い出す.「汝の人 格に おけ る, 及びあらゆ る他の者の人格に おける人間性を決 して単に手段として取り扱うことなく, いか .) カ ン ト の こ の 命 題 は ヒ ー マ ニ ズ ム な る と き に も 同 時 に 目 的 と して 取 り 扱 う よ う に 行 為せ よ」 2 ュ. の 本 質 を 説 明 し た も の で あ り, ま た カ ン ト の 哲 学 が 人 間 の 哲 学 で あ る 限 りに お い て, カ ン ト も ヒ ュ ー マ ニ ス ト で あ る に は ちが い な い が, し か し彼 は 人 間 を 理 性 的 存 在と 見 る こ とに よ っ て, ヒ ュ ー マ ニ ズム の 概 念 を 狭 小 化 し た と い う こ と が で き よ う,. そ れ に 対 し て ペ ス タロ ン チ ー は, ヒ ュ ー マ ニ ズム の 概 念に こ も る二.重 の 意 味 を 統 一 的 に と ら え る こ と に よ っ て, ヒ ュ ー マ ニ ズム の 立 場 を 忠 実 に ま も っ た 人 と い う こ と が で さ る. 彼 も ま た カ ン ト と 同 じよ う に, ヒ ュ ー マ ニ ズ ム の 本 質 を 理 念 的 意 味 に お け る 人 間 ら しさ と して と ら え て い る.. 「乞食の子供も王侯の子供 も同じ本性であり, 同じ人間性が, すべての心に花咲いている. 同じ 心が女から生れた すべての人々のうちに去来 している. すべての人々のうちに 同じ発展の法則が -2 0-.

(10) . ヒューマニズムの概念. 3 ) 支配している. 自然は全然階級を知らない」, ヒュ ーマニズムの本質としての人間 性もしくは人間らしさの概念の理解において, それが右に 述べたように, 二重の意味をも っていることを知ることは 極めて重要である. なぜなれば, そこ. にこそヒ ュ ーマニズムの本質的意 味が存するからである. 人間らしさが単に理性的な概念ではな く て, 感性的基礎を有しているということ, そして感性と精神との統一において初めて, その真 の意 味 が 明 ら か に な る と こ ろ の 概 念 で あ る こ と は 特 に ベ ス タ ーロ ッ チ ー に よ っ て 強 調 さ れ る と こ ろ で あ る が, しか しそ う い う 理 解 の仕 方 は ペ ス タロ ッ チ ー か ら 始 ま っ た も の で は な く て, す で に. プ ラ ト ン に お い て も, キ リ ス ト教 の 経典 お い て さ え も, 発 見 さ れ る と こ ろ の も の で あ る そ れ は . ヒ ュ ー マ ニ ズム の 歴 史 を 一 貫 す る と こ ろ の 思 惟 方 式 で あ る と い って よ い .. 人間性もしくは人 間らしさの概念は, 以上に明らかに したような構造を有するが故に それ自 , 体, 自己発展性を有 しているのである. それは自己発展することによ って, 究極的には人格的価. 値に化する. しかしその実体をなすものは人間の能力であるが, これは三つの方面に分れる. す なわ知識的・道徳的および芸術的能力 の三つである. ペ スタロ ッチ←は, 人間に本性的に具わるこ れ ら の 能 力 を 人 間 の 三 大 根 本 力 と 呼 び, そ の 各 々を 精 神 力(Ge i f t t ) f eskra s t ) zenskra , 心 情 力(Her. お よ び 技 術力(Kuns tkraf t ) と か, 或 い は頭 (Kopf ) 心 臓 (Herz) お よ ど手 (Hand) と か, の 言. 葉をも っていいあらわ している。 これら三方面の能力が実現すべき理想を, それぞれ真・善.美 の概念であらわすのであるが, 完成 した人格とは, これら三方面の能力が調和的に発達した状態 である. これらの能力が完全に発達しなくても, 人間が人格的存在であることに変りはない, し かし人間は生きている限り, 人格という概念も生動的なものと して解さるべきである. 従 って人 間らしさの概念も, つねに生命的のものとしてとらえらるべきである. 生命の息吹 きがなくなれ ば, 人間らしさの概念も消失する. もともとヒュ ーマニズムとは人間を生けるすがた においてと. らえようとする態度である. しかもそれは人間に対す る統御の仕方をも準備している. ただその 統御の仕方を外的な力において見出すのでなくて, 人 間の生命そのもののうちに, 見出そうとす る. ヒ ュ ←マニ ズムは決 して神を否定する必要を認めない ,. そもそも人間は神を否定するだけの力. も根拠ももち合せてはいない. それなのに人間が神を否定しようとす るのは越権か, それともや せがまんというべきものである, 人間らしさの概念も, 決 して神の存在との間に矛盾を見出さな い, とはい っても, 人間を疎外して, 人間との関係の外に神を見出す立場はヒュ ーマニ ズムの本. 義 に 合 わ な い. ペ ス タロ ッ チ 」 は, 人 間 は 自分 自 身 を 知 る 限 り に お い て 神 を 知 る と い っ て い る が,. こ れ が ヒ ュ ー マ ニ ズム の 立 場 で あ る.. このようにヒ ュ ーマニ ズムの立場は神の存在と矛盾しないが故に, われわれはキリスト教の経 典 の 中 に も ヒ ュ ー マ ニ ズ ム を さ し 示 す よ う な 表 現を 見 出す こ と が で き る. ヨ ハ ネ 第 一 の 手 紙4 ,19. 一2 1にこ うある. 「わたたちが愛し合うのは, 神がまず, わたしたちを愛して下さ ったからであ る. 『神を愛している』 と言いながら兄弟を憎む者は, 偽り者である. 現に見ている兄弟を愛さ. ない者は,目に見えない神を愛す ることはできない. 神を愛する者は, 兄弟をも愛すべきである. この戒めを, わたしたちは神から授か っている」. ここでは, かなり強く人間の存在が意識されて い る. こ の 言 葉 は ペ ス タロ ッ チ ← の 「隠者 の 夕 暮」 の中の次の一節を連想させるであろう. 「す. ・ているように, 自由もまた愛にもとずいている. 純粋なる心は正義に べての正義が愛にもとずし もとずく自由の真の源泉である, そして純粋な親心は正義を実行し自由を愛するに充分なる だけ. 気高い, す べての政治力の源泉である. そして正義と, す べての世の幸福との源泉, 人類愛と同 -2 1-.

(11) . 松. 田. 義. 哲. 胞心との源泉, これらは, われわれが神の子であり, そしてこの真理に対する信仰が, すべての 4 ) 世の幸福の確実な 基礎であるという宗教の偉大な思想にもとずいている」. マ タイ に よ る 福 音 書 5.8 に 「心 の 清 い 人 た ち は, さ い わ い で あ る, 彼 ら は 神 を 見 る で あ ろ う」. とある, ここに いう 「神を見る」 を神秘主義的観照の意味に解することは充分可能である. また ギリシャのヒュ ーマニズムの根砥に横たわる精神と質料との二元論, また霊性の神 性と, それが. 肉 体に宿 っているという思想は, モーゼの天地創造の説明の中に 明らかな支持をもっている 「主 . なる神は土のちりで人を造り, 命 (いのち) の息 (いき) をその鼻に吹きいれられた. そこで人 5 ) 「ち り は, も と の よ う に 土 に 帰 り, 霊 は こ れ を 授 け た 神 に 帰 る」 6 ) は 生 き た 者 と な っ た」. . また. 人間の内部に神性が潜在することを教えたものとしては次の句が, しばしば引用される. 「神は 7 ) 自分のかたちに 人を創造された. すなわち, 神のかたちに創造し, 男と女とに創造された」. 新 約 に お い て も, 肉 の 慾 を 去 っ て, キ リ ス ト と 共 に あ る こ と を 願 う パ ウロ の 思 想 は, 明 ら か に ヘ レ ニ ズ ム と の 関 連 を 示 し て い る. パ ウロ と ヘ レ ニ ズ ム と の 関 係 に つ い て は 学 者 に よ っ て 種 々意. 見 を 異 に し て い る. ハ ル ナ ッ ク (A. v . Harnack 1851‐1930) の 如 き は, パ ウロ と プ ラ ト ンと の. 間には, いくらか思想比 の類似があることは認めても, それによ って両者の間に直接的 関係があ いたということを証明することはできないという見解と っている. しかし第二十世紀初頭以来, いわゆる宗教史学派が勃興してからというもの, パウロにおけるギリシャ的要素が学者 の注意を. ひくと共に, 彼の教説にあらわれた神秘主義的要素が尊重されるようにな った, 例えばダイ スマ f Deissmann 1866-1937) はマース丘上でのパウロの演説の中にある 「われらは神のう l ン (Ado )という言葉は, 僅か一行にもす ぎないが しかしそれはキリス 8 ちに生き, 動き, 存在している」 , ト教徒になる以前の神秘家パウロが ギリシャ神秘主義と密接な関係をもっ ていたことを 示す 貴重 な 資 料 で あ る と し て い る, と い っ て も パ ウ ロ の 神 秘 主 義 が 完 全 に ギ リ シャ 的 で あ る と い う の で は な い.. ギ リ シャ 的 ヒ ュ マ ニ ズ ム に お いて は, 人 間 は, そ の う ち に 存 す る 霊 の 力 に よ っ て 神 を 見,. 神 に 達 す るこ と が で きる の で あ る が, パ ウロ に お い て は, 人 間 の う ち に 存 す る 力 に よ っ て 独 立 自. 主的に神に 達することはできない. 人間の霊は神の霊が上か ら降り来ることによ って初めて救済. される. 人間のうちには真の意味での善なるものは存在しない. この点においてもパ ウロの思想 と ギリシャの思想との相違は明らかである. それにもかかわらず, なおパウロに ギリシャ的要 素 の 存 す る こ と を 否 定 す る こ と は で き な い. 少 な く と も パ ウロ が 伝 道 し た ア テ ナイ の ま ち が ギリ シ. ャ的零囲気にとざされたところであ った限りにおいて,彼が,いかにそれに反擬 したとしても, 何 らかの影響を受けずにいられないことは, 当然に考えられるところで ある. そういう観点からパ. ウロを解釈する一つのアプロ←チの仕方があると思う. いま, その部分を抜牽してみよう.. 「さ て, パ ウロ は ア テ ネ で 彼 ら を 待 っ て い る 間 に, 市 内 に 偶 像 が お び た だ しく あ る の を 見 て,. 心に 憤りを感じた. そこで彼は, 会堂ではュ ダヤ人や信心深い人たちと論じ, 広場では毎日そこ. で 出 会 う 人 々 を 相 手 に 論 じ た, ま た エ ピク ロ ス 派 や ス ト ア 派 や ス トア 派 の 哲 学 者数 人 も, パ ウロ. と議論を戦わせていたが, その中のある者たちが言った, 『このおしゃ べりは, い ったい, 何を 言 お う と し て い る の か』. ま た, ほ か の 者 た ち は, 『あ れ は, 異 国 のれ …灰 を 伝 え よ う と し て い る ら し い』 と 言 っ た. パ ウロ が● , イ エ ス と 復 活 と を, 宣 べ 伝 え て い た か ら で あ っ た. そ こ で, 彼 ら は. パ ウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って, 『君の行 っている新しい教が どんなものか 知 , らせてもらえないか. 君が なんだか珍らしいことを, われわれに聞かせているので, それがなん の 事 な の力・知 り た い と 思 う の だ』 と 言 っ た. い っ た い, ア テ ネ 人 も そ こ に 滞 在 し て い る 外 国 人 も み な, 何 か 耳 新 しい こ と を 話 し た り 聞 い た り す る こ と の み に, 時 を 過 ご し て い た の で あ る そ こ . - 22 一.

(12) . ヒューマニズムの概念 で パ ウ ロ は, ア レ オパ ゴ ス の 評 議 所 の ま ん 中 に 立 っ て言 っ た. 『ア テ ネ の 人 た ち よ, あ な た が た. は, あらゆる点において, すこがる宗教心に富んでお られると, わたしは見ている 実は, わた . しが道を通りながら, あなたがたの拝むいろいろな ものを, よく見ているうちに 『知られない神 , に』 と刻まれた祭壇もあるのに気がついた. そこで, あなたがたは知 らずに拝んでいるものを, いま知らせてあげよう. この世界と, その中にある万物とを造 った神は, 天地の主であるのだか. ら, 手で造 った宮などにはお住みにならない. また, 何か不足 でもしておろかのように, 人の手 によ って仕え られる必要もない. 神は, すべての人々に命と息と万物とを与え, また, ひとりの. 人から, あらゆる民族を造り出して, 地の全面に住まわせ, そそれ だれに時代を区分し, 国土の 境界を定めで下さったのである. こうして, 人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば,神を見いだ せるようして下さ った. 事実, 神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのでは な い, われわれは神のうちに生き,動き,存在しでいるからである. あなたがたのある詩人たちも言 ったように, 『われわれも確かにその子孫である』. このように, われわれは神の子孫なのである から, 神たる者を, 人間 の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと, 見なすべき. ではない. 神は, このような無知の時代を, これまでは見過しに されで いたが, 今はどこにおる 人でも, みな悔い改めなければならないことを命じでおられろ. 神は, 義をもってこの世 界をさ. ばくためその日を定め, お選びにな ったかたによ ってそれをなし遂げようとされている すなわ . ち, このかたを死人の中からよみがえらせ, その確証をすべての人に示されたのである」 死人の . よ み が え り の こ と を 聞 く と, ある 者 たち は あ ざ 笑 い, ま た あ る 者 た ち は, 『こ の事 に つ い て は ,. い ず れ ま た 聞 く こ と に す る』 と 言 っ た. こ う し て, パ ウロ は 彼 ら の 中 か ら 出 て 行 た し か し っ . ,. 彼にしたが って信じた者も, 幾人か あった. その中には, アレオパ ゴスの裁判人デオヌ シオと ダ 9 ) マ リ ス と い う 女, ま た そ の 他 の 人 々 も い た」.. キリストの十字架と復活という宗教的現実はヒュ ーマニ ズムの世界には見出されない それは . 霊肉背反の立場でしか考えられない事実であるが, 霊肉背反は反ヒュ ーマニズムである 例えば . パ ウロ は ガ ラ テ ヤ 人へ の手 紙5.16一24で 次 の よ う に 述 べて い る が , それは反ヒュ ーマニ ズム の思. 想である, 「わたしは命じろ, 御霊によ って歩きなさい. そうすれば, 決 して肉の欲を満たすこ とはない. なぜなら, 肉の欲するところは御霊に反し, また御霊の欲すると ころは肉に反するか ら で あ る. こ う し て, 二 つ の も の は 互 に 相 さ か ら い, そ の 結 果, あ な た が た は 自分 で し ょ う と 思. うことを, することができないようにな る. もしあなたがたが御霊に導かれるなら 律法の下に , はいない. 肉の働きは明白であ る. すなわち, 不品行・汚 れ・好色・偶像礼拝・まじない・敵意 ・争い・そねみ ・怒り・党派心・分裂・分派・ねたみ・泥酔・宴楽および, そのた ぐいである . わたしは以前も言 ったように, 今も前も って言 っておく. このようなこ とを行なう者は, 神の国. をつ ぐことがない. しかし, 御霊の実は, 愛・喜び ・平和・寛容・慈愛 ・忠実・柔和・自制であ って, これらを否定する律法はな い. キリスト・イエ スに属する者は, 自分の肉を, その情と欲. と共に十字架につけてしま ったのである」. .. こ の よ う に 考 え る と, ヒ ュ ー マ ニ ズ ム は キ リ ス ト教 と の 間 に結 び つ く 面と 結 び つ く こ と の で き. ない面とをも っていろ, 従 って人間らしさの概念もキリス ト教と結びつく要素と, そうでない要 素 と を も っ て い ろ. 両 者 を 調 和 的 統 一 の 関 係 に お い た の は, ル タ ←(Mar in Luther 1483-1546) t. で あ る が, しか し そ の ル タ ー の 人 間 観 に さ え, ど う して も ヒ ュ マ ニ ズ ム と 結 び つ か な い面 が あ ら. わ れ て い ろ. ヒ ュ ー マ ニ ス ト し て の 強 い 性 格 を も っ て い た ル タ ー も, キ リ ス ト教 に は ヒ ー マ ュ ,. ニ ズムの限界内にとじこ めることのできない面のあることを認めざるを得なか った それは当然 . 一 23.

(13) . 松. 田. 義. 哲. である. ヒュ ーマニ ズムの世界にはキリス トの十字架の死と復活とい う宗教的現実は存在しない からである. それは肉を否定した霊の世界に おいてのみ理解し得る事柄である. しかし肉を否定 す る と こ ろ で は ヒ ュ ー マ ニ ズム の 世 界 は 消 え 去 る.. 註 k,1924, S, 7. i d Romant i 1) H. A. Korぼ , Humansmus un. I Absch ik der Si t t taphys en )1 egungzur Me 2 . ,1 . Kant , Grundl kser l i i z ehung t cht e der vo t l rag zur Ges chi a ozzrs ograPhi n Be 3) 日. Morf e Pes , ,2 . Au刊. . Ei , Zur Bi i l 3, The .167. ,S. i i l l ken hsg.v. A, Buchenau, Ed Spranger u, H, i t i t a z s Samt chen We oz r 4) Kr sche Ausgabe von Pes St t tbacher e .281 . , Bd.1 ,S. 5) 創 世 記 2 . 7 6) 鱒道の書 1 2 , 7 7) 創 世 記 1 . 27 8) 使徒行偽 1 7 , 28 34 7 9) 使徒行徳 1 , 16‐. 1 V. 「源 氏 物 語」 の ヒ ュ ー マ ニ ズム. ヒ ュ ー マ ニ ズ ム の 立 場 か ら 観 る と き 「源 氏 物 語」 は, ま こ と は 興 味 あ る 作 品 で あ る. す で に 平. 安朝時代のムー ドがヒュ 「マニ ズムのそれである. この時代の教育は,根本的には,大宝律令の学 制をそのまま踏襲していたが, その運用 の仕方に おいて変 化が見られる. 大宝律令の学制は 唐制. を模倣したものであるが, それは大学と国学との二つから成つていた. 奈良の都の大学, すなわ ち大学寮には頭 (かみ) ・助 (すけ) ・允 (じよう) ・属 (さかん) の事務官と, 明経 (めょ う. ぎょ う) ・音・書・算の四道の教官が いた.・明 経道の教官を博 士 (はかせ) といい, その下に助 (すけ) 博士がいた. 音・書・算の三道に も, それぞれ音博士・書博 士・算博士がいた. 明経を 学ぶもの, すなわち学生 (がくしよう) は, まず博士について支郡音を学んだ, だから明経道が . 本科なら, 音・書は予科であり, 算は別料と い ったところで ある. 経書は礼記・左伝 を大経とし’ 詩・周礼 (しゆらい) ・儀礼を中経とし, 易・書を小経とする. 全部で七経である. そのうち二. 経 (大経一と小経一, 或いは中経二) を履修すると, 卒業して貢挙に応ずることができる. この ほかに論語と孝経は, どの学生も兼修することにな っ ていた. ところが808年平城天皇のとき, 大学寮に歴史と文学 を内容とする紀伝道 が新設され, 更に834. 年仁明天皇のときには,’ 同じく大学寮に文章道 が新設された. 特に文章道は, 平安時代に入 り, 詩文が貴族の社交に必要な教養にな ってからは, 益々入学志望者が多くなり隆盛を極めた. 反対 に経学の方は益々不振状態に陥った. 多くの文章道志望者は, ま ず大学寮の明経道に入り, 漢文. 読解の予備的知識を養い, それから詩賦の文章生試を受けることにな っていた, かくて文章道の 盛況は, おのずからにして文章博士の地位を向上させた. 創設当時の文章博士は明経博士よりも ) 年には, 文章博士の地位が従五位下に引き上げられ, 地位が低か った. ところが821 (弘仁12 経学の博士を越えるようにな った.. 経学は偏教 主義であり, 徳化をも って政治理想としたものであった. それは余りにも人間の自 然的欲求から遊離したものであった. またそれは, もともと官史を養成するためのものであった. が, 権門貴族の子第は, 特権をも っていたので, そんな学 問を修めなくても, また官史の 登用試 験を受けなくても出世することができた. また官史登用の試験問題も主として文章道にな ってき たとい う事情もあって, 経学に対 する興味は益々薄らいだ. 一 24 一.

(14) . ヒューマニズムの概念. その現象には, 平安時代の初期に平仮名・片仮名の 国字が創作されたという事情が伴 っている , 漢字は字画が多く不便であるところから, 漢字の字画を省略した草体が漸く変じて平仮名になり 漢字の点画を省いて扇芳 を去っ た片仮名も, お のず から発達した. かくて初めて簡易軽便で仮名 文字で国語を自由に写すことができ, 国民は自由自在に思想感情を表現することが できるように な った, それは人間の自然的欲求に かなうものであ った. また, そこから和歌, 和女が隆昌を見 る に 至 っ た,. 道学的な儒教主義から解放されて, 時代は自由潤達の気 に満ちていた, それは人間が束縛から 解放されて, その自然的欲求 をよりよく満たすことのできるようなムー ドの中にあ ったこと を意 味する. それを, われわれはヒュ ーマニズムの概念によ って説明する. その時代のムー ドは, 貴族社会における男女関係の上にも反映している. 彼らは自由な思想表 現の方法としての和歌, 和女によ って, 自由に自分の恋愛感情を表現することによ って, 人間ら. しい生活を満喫することができた. 人間は本性的に美的価値に対する強い欲求をもっ ている. もちろんヒュ ーマニ ズムは真や善の 価値を実現することにも力を入れるが, なかんずく人間を人 間らしく生かす上で重要 な要因と し て働く美的価値の追求に重きをおく. ギリシャのヒュ マニ ズムにおいても美的感 情が高い地 位を 占 め て い る し, ル ネ サ ンス の ヒ ュ ー マ ニ ズ ム に お い て は, 特 に そ の 傾 向が 顕 著 で あ る し, 十 八 世. 紀の新人女主義に おいても事 情は同じである, というのはヒュ ーマニズムは人間が人 間らしく生 きようとする生活態 度であるが, 人間が人間らしく生きるということは, 人間が美的欲 求をも充 分 に 満 た さ れ つ つ 生 き る こ と に ほ か な ら な い か ら で あ る. ま た ヒ ュ ー マ ニ ズ ム は 人 間 が 人 間 ら し. く生きることを要求するのであるから, 男女の愛にも高い価値を認める. それは最も人 間らしい 現象であるか らである. ところで 平安朝の貴族たちは愛の感情と美の感情とを同時に満足させようとした趣きがある. 1 )当時の教育においては, 漢字・音楽 ・和歌・詩 ・ 試みに当時の教育 内容について考えるがいい.. 書の五つが必ず学ぶべき芸能と認 められていた. それらのうちで特に漢学と音楽とが重要 であ っ た. 「源氏物語」 桐壷 の巻に, 「わざとの御学問はさるものにて, 琴 笛の音にも雲居を響か し」 とあるが, ここに学問とは漢学のことである. しか しその漢学は詩女 を主としたものであ った. だか らそれは美的教育と 考えてよい.. 2 )女子は主と して家庭に おいて教育されたが, その 女子の教育に おいては, 特にそうであ った, 内容は, やはり詩文と音楽ととが中心であった. 詩女では特に和歌を重んじた. 和歌は風雅の心 を表現する高 尚な趣味にな っていただけでなく, 社交上に必要なた しなみと考えられて いた. す でに奈良時代から男女が和歌の贈答によ って, 互いに自分の意志を相手に伝えることが, しきた りのようにな っていた. また手紙や, 日常の会話の中に古歌を挿入することも流行 していたので 「古今集」 のような歌集を読んで, 名歌を暗記することも教養の一つ であった. また作 った歌を. 巧みに書くことも必要だったので, 歌道と並ん で書道が重んぜられた. また管絃も女子には欠く こ と の で きな い た しな み に な っ て い た,. 要するに, 当時の貴族の生活を支配するものは人間らしく生きたいという意欲である. しかし, その場合, 人間らしく生きることが, も っぱ ら美的な意味に理解されていることは顕著な特 徴で ある. そこに, われわれは儒教的な束縛から解放されたいと願う人間的欲求のあらわれを見るこ とができる. そのことが, 一見平安時代が風儀が乱れていた時代であ ったような感じを与える. しか し当時のヒュ ーマニ ズムに おいて精神的価値が無視されていたわけではない. 例えば, ひ ど ー2 5一.

(15) . 松. 田. 義. 哲. その子夕霧に対 しては監督が きび しか った. 総じて女の子に対する く ・不品行に見える源氏さえ, 家庭の監督は極めてきびしか った, 人々は女は高きも卑しきも, ただ男に対する態度次第で, そ しての価値評価がなされるも のと思っていた, だか ら平安時代後期の作品である 「狭衣 の人間と,. 物語」 巻四上には, 力の限り, 命の限り, 乱れる心地のないよう心静かに世を送るように注意し な く て は な ら な い と 述 べ ら れ て い る. だ か ら こ こ で も ヒ ュ ー マ ニ ズ ム の 二 重 構 造 を ぅ べ き で あ る. 考えること ができるのであるが, た だ人格的価値に対する感覚は西洋ほどに鋭くはなか っ たとい う. それは当時の社会 が支郡の封建制をそのまま模倣 した社会であったから, 社会そのものの構 造から して人格的価値が余りに 問題にされないように, できていたということができる. そのこ. とは当時一 般に行なわ れていた一夫多妻制にもあらわ れている. この制度が人間生活の上に投げ )これは道綱の母が, その夫, 兼家との間 3 かける暗影をテーマに したものが 「鯖蛤日記」 である.. の家 庭生活を書きしるしたものであるが, 一夫多妻であ った当時には権門の出である妻に愛が集 くのを, ひとり悲しむのがっ ねであ った. 兼家 って, 勢力のない家の出である 妻は夫の離れて行 ’ 「 にも多 くの妻があ ったが, その妻の一 人である 鯖齢日記」 の著者は勢力のない妻の一人であっ. た. 彼女は 夫のつれなさ をかこ って鳴滝にこも ったり したが, け っ きよく兼家や子の道綱にすす められて帰 って来た. しか しそれはあきらめの寂しい生活であっ た. その気持をそ のままに書き 綴 っ た も の が, こ の 日 記 で あ る.. この 「鯖齢日記」 にも見ら れるように, 当時のヒュ ーマニ ズムに道徳的理念が欠けていたわけ ではない. しか しそれは封 建制度のために, むざんにも, ふみにじられた観がある. しかも, こ のよ うな社会悪とたたか うだけの自覚とか意欲とかも, 当時の人々には, なか った. すべてをあ き ら め て 忍 従 す る と い う 風 が あ っ た. そ の 点 で, そ の ヒ ュ ー マ ニ ズ ム は 西 洋 の そ れ に 比 べて, は. るかに力の弱いものであ ったとい うこと ができる. それは当時の人間の生命力の弱さを示すもの と解することも できよう.. 「源氏物 語」 浮舟の巻にも ヒュ ーマニ ズムの二重の意味がよくあらわれている. 薫と匂宮との 二人から愛されて 進退きわま った浮舟は, もはや自決するよりほかはないと 考えた. 彼女は遂に. 死を決 し, 死出の装束に着かえ, 灯をかき立てながら夜の更けろを待 った. ところで最後の瞬間, 浮舟の幻想の中に生 きていたものは何で あ ったか. それは母でも, 姉 でも, 薫でもなくて, 実に 情熱的な匂宮の明るい面影であったのだ. ここに, われわれが感じとるものは, 人間性を追求 し - ようとする著者のはげしい意 欲である. 浮舟の態度と行動とのうちには, 否むべくもなく , ヒュ も ーマニ ズムの二重の意味が示されている. しかしその全体を説明する のは人間らしさの概念で あ る.. ・. 「源氏物語」 の研究者のうちで, 特にヒュ ーマニ ズムを うたうわけではないが, 筆者のようなア て次のような プロ ーチの仕 方を試みた 人と しては池田亀鑑博士がある. 博士は「源氏物語」に対し・ 量 単 値は の大きさにあるのではなく 解釈を与えている. 「源氏物語の文芸と しての価 , 成 , ‐に分 立年代の古さに あるのでもなくて, より本質的な点にある. この物語は香り高い象徴的表 現と共 に克明な写実的手法を具えている. まだ神話や童話の類が, 文学の世界をおおうていた時代に,. かような近代 的性格の作品が生れたことは驚く べきことである. 古代の叙事詩的英雄の代りに, ここには平凡な人間と人間らしい行動 とが重んぜられてし・る. 作者 かつ 鋤こ人間を愛 し, 真に人 間的なものを探 求してやまな か ったことは, その日 記によ っても明らかであるが, この物語は, 4 ) 「作者は貴族社 会の内部において, ,その社会の そうした純粋な人間愛の精神の所産であ った」. 追求した 虚飾の彼方に真実を もつ美しさと 醜さとを謎よりも確実に見透すことができた. . 貴族 6- -2.

(16) . ムの概念 ヒューマニズ・. 的なものがおおい, 曇らせている人間の真実のすがたを真塾熱烈な憧慌をもって探求した. 作者 人間についての論議を愛 するのではなく, 人間その, ものを愛する人であった. あたたかい血のは. 5 )ここではヒ ュ 通った人間をなつか しむ愛情, それが作者の生涯を通じて胸の中に生きていた」, ー ニ ズ ム と い う 言 葉 は 用 い ら れ て い な い が, 筆 者 か ら 見 れ ば, こ れ は, ま さ し く 「源 氏 物 語」 の. 世界をヒ ューマニ ズムとして とらえた典型的な場合である. 註 1) 高橋佼乗著 2 ) 尾形裕康著. 日本教育文化史 (昭和八年同文書院)103頁-104頁 日本教育通史 (昭和三十八年早稲田大学出版部)6 7頁. 3 )藤 村 作著 国文学史総説(昭和三十年第八版角川文庫)参照. 4) 池田亀鑑校註 源氏物語 (昭和三十四年第十二版朝日新聞社)102頁 5) 同 書 103頁. 一 27 一.

(17)

参照

関連したドキュメント

 音楽は古くから親しまれ,私たちの生活に密着したも

が作成したものである。ICDが病気や外傷を詳しく分類するものであるのに対し、ICFはそうした病 気等 の 状 態 に あ る人 の精 神機 能や 運動 機能 、歩 行や 家事 等の

編﹁新しき命﹂の最後の一節である︒この作品は弥生子が次男︵茂吉

町の中心にある「田中 さん家」は、自分の家 のように、料理をした り、畑を作ったり、時 にはのんびり寝てみた

としても極少数である︒そしてこのような区分は困難で相対的かつ不明確な区分となりがちである︒したがってその

に至ったことである︒

・私は小さい頃は人見知りの激しい子どもでした。しかし、当時の担任の先生が遊びを

Ⅲで、現行の振替制度が、紙がなくなっても紙のあった時に認められてき