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ゲーテの小説理論 : 『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』における「偶然」の問題

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Academic year: 2021

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(1)Title. ゲーテの小説理論 : 『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』における 「偶然」の問題. Author(s). 大木, 文雄. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 34(2): 47-57. Issue Date. 1984-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4142. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . ゲーテの小説理論 -『ヴィ ルヘルム ・マイスターの修業時代』 における 「偶 然」 の問題 ‐. 大. 木. 文. 雄. 『ヴィ ルヘルム・マイスターの修業時代』 の第1巻第1 7章には, ヴィ ルヘルムが見知 らぬ男と知 り合いになり人間の 運命について話すという場面がある. そこでヴィ ルヘルムは次のように言う. 「ふとしたことからある 道をお歩きになる, すると, やがてむこうから好機がやっ てきて, 予 期しない出来ごとがつぎつ ぎに起こり, 最後には自分でもほとんど気づいていなかっ たような目 1 ) 標にちゃんと到達 していた -- そんな経験をな さっ たことはないでしょうか.」{ ここ でヴィ ルヘルムによっ て予 感的に言われているように, 彼の人生道はまさに 「予期しない出 来ごと」 の連続であり, この小説全体もそういう偶然との出会いの物語であると言える. たとえば それを 『修業時代』 の中から次のように ごく簡単に取り出してみてもそれはわかる. 俳優になりた いと憧れているヴィ ルヘルムが, 父から言い渡された商用の旅の途上, メリーナという俳優に出会 う, という偶然からはじまり, 第2回目の旅行 で女優フィ リーネに会い, さらに劇団を作るために 彼の 資金を必要とするメリーナに再会する こと, そ してその劇団はナターリエ の 義兄ヤ ルノーに よっ て契約されている ,こと, その後劇団は盗賊に襲われるが, それはナターリ エと関係すること, さ らに 傷つ い た ヴィ ル ヘ ル ム は ナ タ ー リ エ に よ っ て 発 見さ れ, ゼ ルロ ー と 知 り 合う こ と, ゼ ルロ ー の 妹 は, ロ タ ーリ オ の 恋 人 であ っ た こ と, そ して そ の 恋 人と の 関係 か ら ヴィ ル ヘ ル ム が ロ タ ー リ オ. の領 地へおもむいて, そこ で彼はナターリエと知り合い, 結局最後はナターリエと婚約するという こと 一一 このように彼をナターリエに導いて いくこと全てが, 偶然の働きによっ て引き起される. 、よ う に )の 言 う 偶然の出来事がいたるところに見られるのだ. なるほ どアイヒナー(Han chner sEi , ゲーテ時代の1 8世紀の小説には,度重なる偶然が小説技法として取り ,入れられていることはめずら 2 〉 しか し私はゲーテがそういう技法を自らの小説の中に取り入れ それを主人 しいことではないが( , , 公との関わりで,独自の形で浮き彫りにさせたという ゲーテの独創性に注目し ・ないではいられない. ゲーテ自身も, 『修業時代』を解く鍵として偶然の 重みについてシラーに当てた手紙の中 で次のよう に 言 っ て い る,. 「私は特別な注意を払って, 私の登場人物たちの意識状況を外部から降りかかっ てきたものと関 \主要な糸″ で 連させて叙述しました, そしておちついて全てを関連させているこういうも のは \ 3 ) なければなりません, そういっ た糸のないような小説は価値のない小説でしょう.」( 47.

(3) . 大 木 文 雄. さて偶然の出来ごとを 「主要な糸」 に見立てて 『修業時代』 を解釈した研究書はそれほど多くは ない. しかもそれらの研究書のほとんどはここ数十年の間に発表されたところのきわめて新しいも のに属する. そしてそれらの研究書は今まであった 『修業時代』 の解釈を塗り替えるような斬新な ものばかり である. 私はこの稿において, これらの研究書を背景 にしながら 『修業時代』 の偶然の 意味するところのものを問題にしていこうと思う.. 1 1. 『修業時代』 を偶 然の 「主要な糸」 に見立てて解釈している最近の研究書のひとつに, ハン ブル 4 }が あ る こ の in)の 著 書 『ゲ ー テ の 小 説』 (尺の7 ク 大 学 講 師 ブ レ ッ シ ン(Stefan B1 ess 2の28 G解 放e s)( .. 研究書は1 979年に出版されていて, ゲーテの4大小説『修業時代』 , 『遍歴時代』 , 『親和力』 , 『若き ヴ ェ ルテ ルの 悩 み』 を 取 り 扱 っ て い る の だ が, ブ レ ッ シ ン は こ れ ら 4つの小説をいずれも文学社会 学的立場から研究している. すなわちフランス革命勃発から産業革命直前までの市民社会を背景に してゲーテの小説を解釈しているわけである. そしてこの著書の最初に掲載されている『修業時代』 論も, 一貫して市民社会という立場から解釈されている. それでは少しく ブレッ シンの言うところ に耳を傾けてみよう. まずブレッ シンは 『修業時代』 の登場人物たちの, 意識的に考えたり, 行動したりする自我を誤 謬であると解釈する. そして主人公ヴィ ルヘルムの場合も, 俳優志望という自我が誤謬と解釈され る. それはつまり次のようなことによる. 商人の子として生まれたヴィ ルヘルムは, 商人としての 市民社会には不満を抱いている. なぜなら与えられた市民社会という状況のもとでは, 彼は自分の 人間的可能性を完全に展開することができないと思っ ているからである. ドイツでそのようなこと を可能にするのは貴族社会においてのみ である. 貴族は 「自分の人柄を見せただけ ですべてをあた えることができ」「その存在が光り輝いてもかまわないし, またそうなくてはならない」からである. 市民であるヴィ ルヘルムにとっ て, このような貴族社会におけると同じように,「人柄や人格に光彩 5 ( )のは舞台においてしか可能でないからである それ故ヴィ ルヘルムの俳優志願は 貴 を与え得る」 , . 族社会への憧 れ, すなわち貴族社会への憧れの代償なのである. 彼の 「衡動は, 公けの人であるこ { 6 )のである と, 広い圏の中 で気に入られ, 活動することに日々 打ち勝ちがたいものを感じている」 . にもかかわらずこの時代は, フランス革命勃発によ っ て, 貴族は没落し, 市民が台頭してくる時代 である. それ故 ブレッ シンはそういう ヴィ ルヘルムの意識的な自我が, 没落しつつある, つまりす でに乗り越えられようとしている時代遅れの貴族社会という封建制度を憧れるものであると, ハー 7 }を 援 用 して 主 張 し て い る だ か ら ヴィ ル ヘ ル ム の 自 我 は 前 進 バマス ( Jurger Habermas ) の 論 文{ ,. 的, 発展的というよりは, 逆行的意味しか持ち得ないということになる, さらに父親との関係にお ける ヴィ ルヘルムの心の状態でもそのことは証明される. 小さい頃から ヴィ ルヘルムは, きらびや かな人形劇に 心をう ばわれているが, それは豪華な住居を買うたり, めずらしいものを収集したり するきらびやかさを好む父親のイメージに由来するものだというのである. 父親は表面的にはヴィ ルヘルムと対立しているが, 内面的には族長的, 貴族的という点で同類である. ブレ ッシンの解釈 の新しさは, 主 人公の自我が時代に逆行するものだというところにある. ブレッ シンはそれ故1 8世 紀後半, 目覚めた市民が, 国民劇場を創設させることによっ て,「市民世界というみす ぼらしい散文 の狭さから詩的魂を解放させる」のだとするルカーチ(Geo rgLukacs ) や レ ー ヴ ェ ン タ ー ル (K1aus 8 }を間違 たものだとして批判する 『修業時代』 の主人公の自我も マルクス主義 L6wentha l ) 説( っ , . 48.

(4) . 『修業時代』 における 「偶然」 の問題. の立場からの ルカーチやレー ヴェンタールの解釈に従えば, 社会を活性化させる, 発展的可能性を 持つ形成力になり, 社会史的立場からの ブレッ シンの解釈に従へば, つまるところ貴族社会を憧れ る後退的, 逆行的なものということになる. 次に ブレ ッシンは, そういう 主人公が意識的に持っているところの 逆行しようとする自我を制限 するものとして偶然 .を持ち出してくる. 彼によれば, 偶然はその時代を反映する経済的基盤, つま i り《市場機構》 Ma rktme chan smusである. その市場機構は主 人公の知らない間に, 自 らの力を主 人公に働きかけ, 社会的に見れば自我も誤謬でありながらいつの 間にか主人公を正しい道へ歩ませ るという 機能を発揮する. この市場機構は資本, 金を循環させることによっ て力を行使する. ブレ ッ シンはヴィ ルヘルムの発展過程と社会の経済基盤との間に 《同族の構造》 Strukturhomologie を洞 l he lm 察しているのだが, そういう考え方を支えるものとして彼は, 哲学者ヘーゲル (Georg Wi d i h Fr i h l t e rc He ) の思想を援用している. スミス ) とイ ギリスの社会科学者スミス (AdamSmi ge の 『国富論』 は, 商品, 貨幣, 資本, 所得, 再生産等の資本主義社会の経済的諸現象を統一的に説 明していて, そういう資本主義社会を活性化させるには, 何よりも各人の利 己心にもとずく自由な 競争にまつのが最 善の方法であるとする経済理論なのであるが, それは同時にお互い同志の必然的 な制限を通して,つまりお互い同志で教えたり,教えられたりして他人の長所を引き出すことによ っ てのみ可能であるということである. 解放された競争社会の気ままさ (いわゆる偶 然) が, 無制限 に自我が拡大してしまわないために自我を知らぬ間に制御するというわけ である, そしてヘーゲル の場合も事情は同じである, 彼の理論は個人が自分の目的を追い求めながら, 同時に個人は, 社会 と歴史を直接展開させている理性の道具としての役割を演ずるというものである, それ故 「解放さ ( 9 )(ヘーゲル) は れた競争社会の気ままさ」 (スミス) や 「社会と歴史を直接展開させている理性」 , ldesZu f l l dasVerwi rrspi e 『修業時代』 の中では偶然のもつれた遊び ( ) として登場することに a s なる.. 1 1 1. さてそれではこの偶然のもつれた遊びは, この小説の中ではどのような形で, 具体的に表出さ れ 2章ま での物語に美事に表出されている. 父か ているのであろうか. それは第2巻の第4章から第1 ら商 用 の 旅 を 言 い 渡 さ れ た ヴィ ル ヘ ルム は,と あ る 町 でラ エ ルテ ス と フ ィ リ ー ネ と知 り 合 い に な る,. 二人は劇団員 であっ たのだが, 劇団が突然解散し, 仕方なくぶらぶらとその町の旅館に投宿してい る, そこへ以前に知り合っ ていたメリーナ夫妻が割り込んでくる. メリーナ は解散した劇団員たち が残していっ た演劇の道具を, 質から買い取り新しい劇団を作りたいと考える. そしてヴィ ルヘル ムにそのために必要な金を貸してくれと頼む, ヴィ ルヘルムは旅の途上でもあり, そろそろこの町 を去らなければと思っ ているのだが, 魅惑的女優フィ リーネに情熱を傾けていて, つまりフィ リー ネから離れたくないという理由から, しぶしぶメリーナの頼みを聞いてしまう, ヴィ ルヘルムの進 む道が二手に別れようとし, どちらに行くべきか判断に迷っ ているとき, 偶然は登場する, 偶然の 仮面をかぶっ てこの場面に登場するのは, 資本, 金を循環させている市場機構である. 小さい頃か ら人形劇に引きつけられ, 演劇の世界に憧れていた ヴィ ルヘルムであるが, 演劇への憧れが 皮を魅 惑的女優フイ リーネヘ近 づけさせ るのでなく, メリーナに金を貸してや ることによって, 新しく劇 団が作られ, その結果, 貸した金を取りもどすまで, 一緒に劇団仲間としてフィ リーネと旅をする ことになるのである, フィ リーネヘのヴィ ルヘルムの情熱を促進させるものは, 主人公の演劇 への 49.

(5) . 大 木 文 雄. 憧れという意識的に持っ ている自我ではなく, 主人公の生活を支えている資本, つまり金それ自身 i t t ) を支配する市場機構である. この市場 を貸し てやるところの, 所有 (Bes ) と交換 (Au z s aus ch 機構という偶然は, 主人公の自我に 柵をし, 主人公の意識下 で主人公を促進させる力となっ ている. スミスによっ て理論 づけられたことが,ここで美事に具体化 する.金という交換手段によっ てメリー ナは小道具を買い,劇団を作ることができる.それによっ て ヴィ ルヘルムはこの劇団にとどまりフィ リーネに近 づくことができるというわけである. 他人の長所を引き出すのは競争社会の気ままさ, すなわち金の交換手段を支配する市場機構である. フィ リーネヘの情熱は, 演劇 へ の憧れが介入し ていない故に, 主人公の進む道にと っては, よろめき, 誤謬 である. 世間的に見ればこの情熱は迷 い, 誤ちと判断されねばならない. にもかかわらず主人公は, 知らず知らずのうちに市場機構に導 かれて, 迷いながらも正しい道を歩むことができる, 主人公は誤ちを犯すが, 市場機構は誤ちを犯 さないのである. 司祭アベ ーが後になって格言風に 「誤ちは, 誤ちをすることによっ てのみ治療さ 1 0 ( )と言う が それは意識下 で市場機構が誤ちを犯すことなく動き 進ませているからこそ意味 れる」 , , を 持 つ の で あ る.. さらに所有と交換という経済カテ ゴリーが具体化されている場面は 『修業時代』 の最終場面に も ある. テレーゼがヴィ ルヘルムに当てた手紙の中 で, 憶測から彼と結婚したい旨 (所有) を書いて よこす. しかしそのことは個 人の自由を保障していない. 心 の中 でヴィ ルヘルムは, テレーゼと結 1 1 { )を抱いていた ヴィ ルヘルムがナターリ 婚することに何かわからないが「説明できないある感情」 . エと, テレーゼがロターリオと結婚するという交換関係が行われたときは じめて, 全体がうまくい 1 ( 2 }というのである くことになる. 「人は所有しようと欲するなら, 交換しなければならない」 . このように して市場機構の名のもとに偶然はたえず主人公に係わっ てくる. そしてこの偶然はこ の小説の 結末における ヴィ ルヘルムの目標実現, つ まりナターリエとの結婚, 裕福, 社会認識の実 現へと主人公を着実に導いて行くの である. しかし主人公自身はその偶 然の働きに全く気付いてお らず, いろいろな誤ちを体験しながら, いつの間にか, 自分 でも気付かないうちに, 目標に到達し ている自分を発見するというのである. かく して次のような ブレッ シンのきわめて斬新な結論が導 き出される. 「ヴィ ルヘルムは, 保証された社会的完成と幸福な自己実現によっ て, 彼の望みの目標に到達す 1 3 { ) るにもかかわらず, この教養小説の 主人公は何も学んでいないのである.」 ブレッシンにとっ ては 主人公の意識的な力 は 二義的なも のとして 扱われる, それ故ゲーテが本来 この小説の中 で言いたか ったことは, ブレ ッシンに従えば, 主人公の成長過程それ自体よりも, そ の背後に隠れて引き上げている市場機構の力 だというの である.. IV. 『修業時代』 が公けにされて以来, 今日に至るまでこの小説に対する様々 な論文が書かれてきた が, 現代のゲーテ研究のひとつとして, これら多くの論文を歴史的にた どってみるという, 受容史 的研究が重要な役割を演じてきている, その受容史をずっ とたどっ てみてもこのブレッシンの研究 I は異色のものだということがわかる. 周知のように『修業時代』は1 803年モルゲンシユテルン(Ka r Morgens tern) に よ っ て 次 の よ う に 定 義 さ れ た , 50.

(6) . 『修業時代』 における「偶然」 の問題. 「 《修業時代》は教養小説と名づけられてもよいだろう 第一にその素 材のために つまりこの小 . , 説は主 人公の教養を, その教養のはじめから完成の段階に至るまで叙述しているからだ 第二に . しかしこの小説は, その叙述によって読者の教養を他の小説よりも包 括的に促 進す るから であ 1 4 ( ) る.」. すなわちこの 『修業時代』 は, 主人公の教養のはじめから完成の段階に至るまでの物語 であると いうの である. この 「教養小説」 という定義にその後の 『修業時代』 の解釈は ほとん ど束縛され , てしまった, そしてこの小説は「古典的 ドイツの教養小説」という形 で文学史の中に封じ込められ , 解釈し尽くされたかに見えた, しかし1 9 10年に 『修業時代』 の初稿として書かれていた 『演劇的使 命』 の原稿が発見されるに及ん で, それまでの 「古典的 ドイツの教養小説」 という月並みな文句は , 再 び塗 り 替 え ら れる こ と に な っ た た と へ ば シ ユ レ ヒ タ (Kar ISchl echta) は そ の 論 文 の 中 で, 主 .. 人公ヴィ ルヘルムの教養発展はこの小説の中 では存在しないと説く つまりヴィ ルヘルムはこの小 . 説のはじめ で, マリアーネに出会うことによっ てすでに 「人間的可能性を経験してしまったのであ 1 5 ( )と い う こ と に な る あ る い は アイ ヒ ナ ー (H り, こ こ か らは た だ 下 降 が あ る の み」 ansEi ) chner .. はシュ レヒタ説を発展させ て, ヴィ ルヘルムの教養は,「単なる発展 ではなく 活力を失っ ていくこ , とでもある」 と解釈する. なぜなら 「マリアーネの死, ミニヨンの死は ヴィ ルヘルムの様々 な若き ( 1 }ものだからと いうのである つまりアイ ヒナーは主 6 日の可能性が失われていくことを表わした」 ↓ 人公が理想とした 教養理念に到達しなかっ たと解釈する さらにギレ (K1 l 1 も又上述の ausF.Gi . 二人と同じような解釈を示して次のように言う , 「この小説はあらゆる教養の努力にもかかわらず それが無意味であることを知り 全体的に諦 , ,. 1 ( 7 ) め る ヴィ ルヘ ル ム の 姿 で終 っ て い る 」 , ,. つまり彼らの解釈は, この小説は 「教養小説」 といっ たような一定の概念 では把握され得ないと いうところに主眼点を置いている, 主人公一人の教養が叙述されているの ではなく 登場人物全て , のあるがままの姿が問題になつているというのである そしてこのような解釈 の中では ヴィ ルヘル . ムという 主人公としての意味は消失してしまう. もはや主人公の自己充実 現実での自己の責任あ , る存在というものは問題とはならない. なるほど彼らの解釈は第一次世界大戦前のあの月並みな決 まり文句を打破したという点で評価される しかしながら彼らのような解釈は ゲーテの保証であ . , るところの, ヴィ ルヘルムはあらゆる迷いにもかかわらず 幸福な目標に到達 したという表現とは , 矛盾してしまう. 『修業時代』 は教養への無駄な努力 の物語 であると結論づけるギレの説は 「この , 世のなにものにもかえがたい幸福を手に入れた」 とこの小説の最後に書いたゲーテとは矛盾せ ざる を得ない, そのような矛盾を,,社会史的立場から解決しよう としたのがブレッシンであった 彼はこの小説 . の中で特徴的な偶然の出来 ごとを社会の市場機構と,同族の構造とみなした そして幸福の目標に到 . 達せ しめたのは, その市場機構 であっ て 主人公自身の自覚的教養発展ではないと解釈 したのであ , る, ブレッシンの価値は, 以前の月並みな文句となっ た教養小説の概念を撃ち破りながら しかも , 主人公の下降してい G過程と捉 えたシュレヒタ アイヒナー ギレ等の解釈の矛盾をも 偶然とい , , , う市場機構を持ち出してくることによっ て美事に解決したというところにある そういう意味から . す れ ば ブ レ ッ シ ン の 解 釈 は こ れ ま での 色々 な 解 釈 の 頂 点 に 立 っ て い る と 言 っ て も い い だ ろ う ,. しかし果たしてブレッシンの解釈にはもう何も問題は残っていないのであろうか 彼の 結論である , . 51.

(7) . 大 木 文 雄. ところの「主人公は望みの目標に到達 したにもかかわらず, 彼は何も学んでいないのである,」とい 《修業時代》は上昇する人生道の姿をとって, ついにはわかるようにされた発展で終ると う表現や「 1 8 ( )という解釈には全く問題はないのであろうか 主人公自身が いう姿をとらない発展小説である.」 . ブ 到達 シンは言うが レ したと く気付かず いつの間にか幸福に ッ 自らの発展過程に全 , 本当に主人 , 公は自分 の発展を規定している諸力に気づかなかっ たのであろうか, あるいはナターリエとの最後 の結 婚は, 主人公の主体的, 意識的理想によっ て導かれたものでは なかっ たのだろうか. そして ブ レ ッ シンの偶然の解釈は, 確かに美事な, 興味をそそるもの ではあるが, 上述の疑問によっ て問題 は残らないであろうか.. V. そういう意味から偶然というものを 又遮りた角度から解釈し, 上述の様々 な問題点に 新しい光を l ) の著書 『教養小 rsagmo va 投げかけている研究書は, ノルウェーのトレムゼー大学教授サ グモ ( 1 9 ( ) osop肋e sc履物始め厩Z 説 と 歴 史 哲 学』 (β”〆““gs知加α7”〃⑦〆 Ge ,ヱ982) であ る. 彼の 研 究 は, 主 人 公. の主体的理想がた えず偶然と結びついている .と主 張することによ って, ブレッ シンの主張する無意 識的に主人公を制御する偶然ときわ立った対立を見せている. 私はかねがねゲーテの小 説理論とは 如何なるもの であるのかということに関心を抱いていて, そういう角 度からゲーテを見ようと思っ ていたのだが, サ グモの研究書はまさにそういう要求を満足させるものであった, というのもサ グ モは 『修業時代』 の中に 様々 な形で現われてくる偶然を, ゲーテによっ て 『修業時代』 の中に挿 入 された小説理論ときわめて興味深い方法で結びつけてくれているからである. 単なるゲーテの小説 理論それのみを問題にするのではなく, その小説理論が如何なる形で 『修業時代』 に 影響を与えて いるかという 連関性を浮き彫りにしているからである, さしあたり我々 は 『修業時代』 の中に 挿入されている ゲーテの小説理論とは如何なるものか, と いうこ ,とを問題にしていこうと思う. 第5巻第7章に, それは挿 入されている. 小説と戯曲 では どちらが優れているかという議論とし てそれは始まる. しかしどちらにも優 れた点があるということで, 話の進行は両者の特性を論じて みようということになる, そしてこの二つの文学ジャンルの相違は, 単に戯曲 では登場人物たちが 直接語ったり,小説では人物についての物語 が語られるといったような外的形式にあるのではなく, もっと質的なところにその相 違があるという話になり,・次のようにそれは進んでいく, 、「小説で描かれるのは 主として思想あるいは相念, 言いかえれば人生観と出来事であり, 戯曲で は性格と行為でなければならない, 小説はゆっくりと歩かなくてはならない. そして, 主人公の 思想と人生観は, どういう方法に よっ てであれ, 全体が筋書きの展開を求めて 突進しようとする のを引きとめなくてはならない, 戯曲は, 駈けださなくてはならない. そして主人公の性格は, 結末にむかっ て突進し, むしろ引きとめられる立場にのみ 立た ねばならない. 小説の主人公は, 受動的でなければならない. すくなくとも, 非常に能動的であってはな ,らない, 戯曲の主人公に 2 0 ( } 要 求 さ れ る の は, 能 動 的 な 行 為 で あ る.]. ▲. Z 7 7 2 zmg)と s 2 ここ では小 説と戯曲の特性が, 簡潔にまとめられている. 小説では心のありよう(Ge , ) が特徴的であり, しかも主人公は受動的 であり, 筋はゆっくりと進展す 出来ごと (β曜eb 7効“彰” e 52.

(8) . 『修業時代』 における 「偶然」 の問題. るというのである. さらに続 いて1 8世紀のイ ギリス小説『クラリッサ』 , 『パミラ』 , 『グランディ ソ 『 ウ ン』 イ ー クフ ドの牧師 』 ェ ィ ル , , 『トム・ジョーン ズ』 の名 前が挙げられ, これらの小説は 「出 来ごと」 が, 小説の主人公の 「心のありよう」 によっ て 「肉づけされている」 ( l t ) と述べら gemode れる, つまり戯曲の主人公の 「性格」 と対照的に, 小説の主人公の重要性は 「心のありよう」 の中 に存在し, 筋の進展は主人公の内面で過去の形をとっ て 「肉づけされる」 というのである すなわ . ち 「すべての事件や出来 ごとは, ある程度彼ら (小説の主人公たち) の思念や考えかたをひな型に してつくられている」 というわけ である, それに対して戯曲の場合 事件は 「障害物」 として主人 , 公たちにむかってくるというの である. それ故戯曲の場合, 「敵対的世 界」( i i t t l an t agov s s che We ) が特に支配的 であると考えられ, 小説の場合, そこで起きる出来 ごとはことごとく主 人公の 「心の ありよう」 と関わってくるから, 自然発生的なも の (Spon t ) とか支離滅裂なも の (Abrub ane s t ) e s では決してあり得ないということが考えられる, そのように小説論 が理解されてく ると この論争 , の後半で述べられる偶然と運命の小説と戯曲に対する関係 が自然な形で我々に理解されてく る 続 . いて論争は次のように進む, 「小説においても偶然が活躍することを許容することができるが その偶然は つねに人物たち , , の思念や人生観によっ て制御され規制されていなくてはならない これに反して 人間のせいで . , もないのにたがいに連関のない外的事情によっ て思 いもかけぬ破局 へと人間を駆りたてていく運 2 1 ( ) 命は, 戯曲にしか場所を得ない.」 主人公のまわりで起こる偶 然は, 常に主人公の心のありようと結び合わされる それ故小説の中 . 偶然 は, 決して支離滅裂なものでないし, 自然発生的なものとしても出現して来ないというので の ある. それ故サ グモの言うように小説の場合 「偶然は心理的に首尾一貫性を持っ ていて 合理的 で , 2 2 ( )ここ では自然発生的という意味 での偶 然は考えられていないのである とすれば『修業時 ある,」 . 代』 における偶然は因果律の彼岸にある必然と同じものだと主張するサ グモの解釈も理解さ れてく るわけである, 偶然は肉づけされ必然化される, 当然肉づけするのは作家ゲー テの仕事である 『修 , 業時代』 の中でヴィ ルヘルムが, 予定調和 のように動くことができるのもゲーテの世界像が 偶然 , と必然の関係にしっかりと立脚しているからこそだとサグモは言う つまり主人公の 「心のありよ , う」=「必然」は人生を歩みはじめるとき, まだそれは明確にされていないのであるが 「出来ごと」= , 「偶然」 に出会うことによっ てそれが 「肉づけされ」 ていくのだ . サグモはこのようにゲーテの小説理論に立脚しながら 『修業時代』 の偶 然 を解釈していく .. VI. 『修業時代』 の様々な女性たちが, 偶然の形をとっ て主人公ヴィ ルヘルムに関係してく る サ グ . モは, 偶然と必然の関係を証明するものとして, そういう女性たちの姿を特に強く 浮き彫り にさせ て い る.. ヴィ ルヘルムは小説の最初に出てくる女優マリアーネに愛の絶頂を感じていると 思 っ て い る そ . れは彼の心の奥にある本来の愛 (サグモはそれを指導像 And rogynenと呼んでいる) とは違っ たも のである. 彼が彼女を抱きしめるさまは, 彼女自身ではなく, 彼女の外面である衣服を抱きしめて いるかのよう である, 『修業時代』 の中でそれは次のように語られている . 53.

(9) . 大. 木. 文 雄. 「ヴィ ルヘルムは, 夢中 で赤い士官服を抱き しめ, その白い, かわいい嬬子のチョッキを自分の. 2 3 { ) 胸 に お しあ て た.」. ヴィ ルヘルムは自らの内に持っている詩的・ 英雄的理想像を, 現実はそう でないマリアーネに投 影しているのだ. それ故この時の ヴィ ルヘルムは 次のよう な状態である. 「彼は何時間もこ だまに 楽しみを覚える子 供のよう である. 彼は自分の豊かな 感情全てをマリ 2 4 { ) ア」ネにあげてしまい, 彼女のほどこし物によっ て生きているこ じきとして自分を見ている.」 本来の目標をおぼろげながらヴィ ルヘルムは 持っている. しかしどのようにしてその自 己の内に 宿るものを認識 していっ たらいいのかというこ とは彼には 皆目わからな,い, マリアーネのもとを 会いの過程こそが, 自らの内 去っ て旅に出る ヴィ ルヘルムは , , 様々 な女性に出会うのだが, その出 「心のありよう」 に 「 偶 ヴ ルヘルムの 然 が 」 , ィ に宿るもの を認識する 道である. すなわち様々の 「肉づけさ,れ」 , 「必然化」 されていくのである. 主人公の認識過程, つまり発展段階 をサ グモは, 二通りに分けている. すなわち主人公自身の認 識過程がその 一方 であり, 他方はマリアーネがフィ リーネ, ミニヨンを通って「美しき 魂」の女性, テレーゼに 上っていき, ついにはナターリエに 至る形態的発展化の過程である, この 二つの過程が からみ合っ て筋を押 し進めるわけ である. 女性の形態的発展化は三段階に分けられる. まず第一段階は, 自我と世界とが分裂する 以前の最も古い時代の形姿であり, それはフィ リーネ. に よ っ て 具 体 化さ れ て い る, ブ ロ ン ドの 髪 の フ ィ リ ー ネ は 身 軽 な ハイ ヒ ー ル を は き,非 常 に エ ロ チ ッ. クなしぐさをする. しかし彼女の 軽薄な,.みだらな行為は不道徳とは関わりのないものである. 彼 女のふるまいはキリスト教的道徳観念のかなたに ある領域に根 ざしたも のだか らである, しか し ヴィ ルヘルムの時代に登場するには, あまりに自然的す ぎ, それ故不道徳と思われてしまうわけで ある, 主人公の認識過程には, フィ リーネは, 内面がまだ未完成な単なる外面の美しさを持つ女性 』 出てくる男を 惑わす妖婦キルケーにもた として現われる ・のだが, ホメーロスの 『オデユセイア に とえられる, フィ リーネは彼を自分の領域へ引き入れよう としたり, 彼の初恋の女性マリアーネを 忘れさせようとしたりする, しかしながらヴィ ルヘルムは横道にそれながらも自分の指導像を決し て忘れない. それにもかかわらずフィ リーネは ヴィ ルヘルムの初恋の女性マリアーネに対する修正 の, 善的役割を演ずる. l imen t t ) en a s 女性の形態的発展化の第二段階は, 自我と世界とが分裂した時代, つまり情感的な( ず南の国を憧 ず 景して 時代に生きる女性 である. それはミニヨンによっ て具現化される. 彼女はたえ い る. そ して 男 の 子 と 女 の 子 と の 中 間 の 姿 を も つ こ の ミ ニ ヨ ン は, あ こ が れ る ポ エ ジ ー な の だ が,. この小 説の現実の中 では, つまり散文の中では, 現実を否定するものとして規定される, 彼女は「も 2 5 { }との間に定住して t ) ch i noch ‐Ni t )と, 「まだ存在しないもの」( n ‐Mehr ch はや存在しないもの」 ( いる. それ故彼女は ヴィ ルヘルムにとっ ては, 内面をくまなく照らすポエジーの象徴であり, それ を味わいつくすことは彼の 目をに ごらしている意識層から解放する治療的機能の役割を演ずる, ミ き り と 自 分 と 世 界 を 見る こ と が でき る わ け で あ る. ニ ヨ ン の お か げ で, ヴィ ル ヘ ル ム は ま す ま す は っ・. ・時代の女性 そして第三段階の女性の形態的発展化は, 自我と世界, 個人と社会の断絶を 止揚する 像であり, それはナターリエによ って具体化される, そして彼女は女性の形態発展の最高に 位置す る. 彼女は塔の結社の一員なのだが, 結社員のもう 一人の女性テレーゼと比較されることによっ て, 54.

(10) . 『修業時代』 における 「偶然」 の問題. ますますく っ きりとナターリエの女性像 が浮び上っ てくる, テレーゼは 「美しき魂」 の女性 (実は 彼女はナターリエの伯母である)とは対極をなす女性 である, 「美しき魂」の伯母は, 純粋に求道者 であるのに対して社会に対する有益な行為に身をささげているのがテレー ゼである 伯母は確かに . l 存在の純粋性という 点で完全な(komp t t ) 人間であったが, しかし「からだがとても弱く」「自分 e 2 6 { ) 自身の心の問題にかまけすぎて」 , 「宗教的に神経質すぎ」 , 彼女の魂には「触角だけで目がない」 ので, 形態発展段階 では問題がある女性である. それに対してテレーゼは,「りゆうとした男を百人 2 7 )ようなアマツオーネを思わせる健康体の持 そろえたっ て, とてもじゃないが太刀打ちできない」( 8 2 )は世の中のどんな出来事も見逃さない 彼女の唯一 ( ち主で, 「明るい, 青い, ぱっ ちりとした眼」 . 2 9 )である 伯母 には精神化(Ve ( の喜びは「家の中をかたずけたり,掃除したりすること] i i t rge s ) gung . l l i が, テ レ ー ゼ に は 世 俗 化 (Verwe t chung) が 象 徴 化 さ れ る, そ して テ レ ー ゼ に 欠け て い る の は 美. しき仮象の世界である, というのも舞台で,「実際の 自分とはちがった者に見せようと懸命になっ て 3 0 )思うから である ・つまり 彼女には演劇的・仮象の世界 いる」 姿を見た彼女は, それを 「滑稽に」( . が欠け ているのである. 折しも演劇という仮象の世界から行為の世界へ移行しつつある主 人公 ヴィ ルヘ ル ムに とう て÷ 彼 を そ こ へ 橋 渡 し し.て や る 女 性 は, テ レ ー ゼ では あ り 得 な い .. I V I. 美しき魂を持つ女性 の姪にあたるナターリエこそは, 生まれながらにして伯母の美しき魂を持ち 備えながら, 伯母のように極端に自らの内に寵らない社会的行動力を持っ ている それ故ナターリ . エは反省などせずに, 自然な姿のまま隣人愛を行なえる女性 である 彼女には信仰と愛情と希望が . 3 1 )女性 である なぜなら彼女は 「生ま れつ ある, 彼女は 「生きているうちから天国にいるような」( , きからして, 世間が望んだり必要としたりするものの他は何ひとつ求めない」 からである 彼女は , 思考と行為の両方のわれ目を持たない. 世の中のあるひとつの 器官として行動できる存在である , 個人と社会との断絶が止揚さ れた理想の時代を打ち立てる女性 がナターリエ・ である. かく して女性たちの形態発展は, ナターリエにおいて最高点に到達する ヴィ ルヘルムはこのよ . うな各段階に具体化されている女性た・ ちに出会うことによっ て, 同時に彼自身の 「心のありよう」 が肉づけされ, 認識され, 必然化されていく の である, すなわちヴィ ルヘルムは様々な女性たちの 3 2 ) loser Sch t i 中に 「本質のない仮象」 (wel l l i i ) や 「世界のない内面性」 (we t e n t )( chke os elnnerl を直観し, 同時に世の中で何が重要なこと であるかを認識していく のである 様々 な女性 たちはナ . ターリエという総合の前提である. そして ヴィ ルヘルムがナターリエと糸吉婚するという ことは 彼 , が人間存在のこのような形態的発展化の根本現象(Ur ) を直観し得たということであり, phanomen それがすなわち彼が最終的に到達し得た 「幸福」 という意味なの である. 以上私は 『修業時代』 の中に出て来る様々な偶然の問題を, ブレッ シンとサ グモを援用 しながら 論じてきた, 前者にあっては偶然は 「市場機構」 になり, 後者にあっては 偶然が序列化され 肉 , , づけされることによっ て人間存在の目標に至る必然へと変貌する 前者において到達 した結論 「主 . 人公は望みの目標に到達するにもかかわらず, 彼は何も学んでいない」 は, 後者によっ て 「根本現 象を純粋直観」 すること で最終目標は認識されていると修正されたのである そしてそれは 静修! 業 , 時代』 の中に挿入されている小説理論から導き出されたのである , なるほどブレッシンの解釈は, これまでの 『修業時代』 の解釈とは違っ た異色なもの で 人を引 , きつけるものではあるが, あまりにも市場機構という社会の経済基盤に解釈の中心を置きすぎたよ 55.

(11) . 大. 木 文. 雄. うに思われる. その結果主人公は「何も学んでいない」というあまりにも極端な結論に達してしまっ た. かといっ て ブレッ シンの解釈の極端さを修正するサ グモの歴史哲学的論文だけでは, そういう da s 文学社会学的な面が見逃されてしまう. それだけゲーテの 『修業時代』 は「汲み尽せないもの」( labl lnca l )を 持 っ て い る と い う こ と に な る の だ ろ う, e cu. G“ i i t ′ chgesehenund z s Chdur rAusgabei n14Banden :Goe 2 e s 粥多暁8 ( 1 )1 .Hamburge ,Band7 ,textkr .V v.Goethe l i ch Trunz mid Anmerkugenvers ehenvon Er .71 . 以 下に 使 . . Auf ,6 ,Hamburgl965 (以下 日.A. と 略す) ,S. 8 2 われる原文の訳は次のものに拠った. 『ゲーテ全集7』 , 前田敬作, 今村孝訳, 潮出版社, 19 .. ′ ! ′ ため’ ′の城惚,だ ln: Goal 2 sW e 2 Me紡げ ′ ( } z 肌e縞のsLe 2 ) 日ans Ei z ‘ ’ 7 2, chner:Aus: み″ D禦ご g の7 ,Wi粥招か i T henaum,1979 K 1 F i l l H K i G b t 虚 ) 似 4 臨ん ! ( / / d L e r sg ‐ ngsen s 8/ aus . 7 2 の声 ’ e . ez”‘ . 2粥 尺e2ゆ”の?増esc 云 ,:At .. ,S . α 281 . i ber tLe tzmann / !〃“ ”“〆 Goβが ′ ( 3 z z 2 2 ) Deγ Bガヂリ ec 2 s司 れりなc e“ &′ .von HansGerhardGrafund A1 , ,B.1 ,hrsg 2 1 i igl912 S 6 f Le pz . ,. igs i fan B1 in: D! te n/Ts. :Athenaum,1979 ( 4 ) Ste s es s e Ro , ’ 2 4 7 2 2 Gク e豹e . . K6n { 5 ) 日,Aり B,7 ,292 , ,S ( ) Ebenda 6 .292 . ,S I Wi l he lm i i l lus i t am Be t 日 も虎芦濯ぎ汲々e ちi spi e r er J a ( 7 ) rgen abermas : Dぬs E’ばg deγ ’ゆ’#Se“ .如むかの? , 0 i h i h d k/ i G E i f i d Wi h f t t M ! l A 8 i Z W ! / ! ′ 云 t Me i 1962 e e r ma n s t 》 n n s s e n s c a s e s c c ( ) s γ: : 2 z 8 z e ’ , 2 e e s ers “ 8 g n . , , , lag igs i i l te K1 n/Ts nke rne -K6n rghahn;Beate pi aus L.Be .234 . ,:Athenaum-Ver ,S . ,B.2 ,1980 i in/Ts ′ fan B1 in Z t e ( 8 ) Ste 2 e s ess : D迄 尺の’雛“β Cog gs . . K6n ,:Athenaum,1979 ,S,15 { ) Ebenda 9 .13 . ,S i o o 日.A・ ( .550 . ,B.7 ,S f ( 1 1 ) Ebenda,S.530f . i in/Ts ′ t fan B1 in: D彰 尺の7 云 e ( 1 2 ) Ste z e s 2 7 7 es s 4 2 Goe gs . ,: Athenaum,1979 . K6n ,S,38 S 2 7 ( 1 3 ) Ebenda . . , landi t IMorgens t s en Bandes sches Museum 1820 i i s ( ) Kar 1 4 s L物sの2de s β”d z例解加川α ern: びるβγ 〆” . ln:ln ,Er f i dr t tes He t . .13 ,S l ta f ISchl s ぼれ Frankfur 1 s 輝石/厳かz Me ( 5 ) Kar echta: Cog的e . . M.1953 .106 ,S ルe ′ ′ /リブ r s “/ ? 〃 ’ “ Meなそのー ”ん’のzq ln: Goa (櫛 日ansEi ? 7 s Lβ chner:Aus: 為″ De”“〃 g ひのち才偽物須川 虜を縞2 l l K1 ) e(Hrsg ausF.Gi .286 . . ,S ,Athenaum,1979 l l毎品の2筋“じれ ・ K1ausF l l ( 1 ) ’ 2 び“〃“ dの Ze′恕の2osse九 Assen l971 7 e:“W湯郷加 川8冠8〆 i ’ . Auf . Goa ,2 り .Gi ike l“Amazone” Stut tgar tl961 t .17 . ,S ,Ar in/Ts igs B 1 i Dを G ′ s f f te 尺 1 8 t (D sn: s ean es の’難解 oe 2e ,28 , .:Athengum,1979 , K6n ,S ′ ” S 〆 G 〆 れ 屑 脳 / 疑 G 崩 o g z e s Rの〃伽 “ 湾“招か〃 Meなそのs ( 1 D 1varsagmo:β”〆”“gs ′〃 ‘ 〃 9 ’ り“ zm7 “ ” じ 物 o s ゆ e e s c 雛 . . ” 乙8膚如ん, セ er . Bonn:Bouvi . ,1982 B S 3 0 7 7 < 0 日.A. 2 0 . . . , , ( 2 1 ) Ebenda .308 . ,S ′ i ′ er ( 2 2 ) lvarSagmo:β〃d 〃 s c zた/れ力履′ o s oがz z “ ? 7m刀mz””d Ge gs .102 . .Bonn:Bouv ,1982 ,S B S 1 1 7 ( ) H.A. 2 3 , .,. . { 2 4 ) Ebenda .57 . ,S ! げびぼり′ ほめs er ( ) 工varsagn s c oがz迄 Bonn:Bouvi 2 5 lo: β”汝例解’ の“ ? ”“ ”“〆 Ge .150 . ,1982 ,S B S 5 0 7 7 ( 6 ) 日.A. 2 . . . , , ( 2 ) Ebenda 7 .439 . ,S 〔 2 め Ebenda .44i . ,S S ( 2 9 ウ Ebenda ・ , ・447 ( } Ebenda 3 0 . .448 ,S 56. ・.

(12) . 『修業時代』 における 「偶然」 の問題 ( 1 3 ) Ebenda .540 . ,S 例 lvarsagmo:正規〆”“#謬り’ “のzz ‘ “〆 Ge s物北Z赤め棚/ i o s oかねノ 8 e rl982 . Bonn:Bouv .235 . ,S (本 学 講師. 釧 路分 校). 57.

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