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心に響く道徳指導へ向けた工夫のあり方について(1) : 道徳授業論の今日的状況をふまえて

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(1)心に響く道徳指導へ向けた工夫のあり方について(1)       一道徳授業論の今日的状況をふまえて一. 渡 邉. 満. はじめに.  我が国における学校の道徳教育が、学習指導要領において、今日の形を取 るようになったのは、昭和33年のことである。それは道徳の時間が設定され たときのことである。それ以来ほぼ半世紀が経過したのであるが、その間道 徳の時間における道徳教育が今日ほど重要な課題と見なされた時期はなかっ たのではなかろうか。確かに学校現場では、未だに道徳の時間の成立時の経 緯にこだわりを持つ向きもないわけではないが、道徳教育それ自体は、子ど もたちの現状を前にすれば、ないがしろにはできない教育の重要な課題であ ることがますます明白となってきている。道徳の時間もこのような状況では 貴重な道徳教育の機会となっていると言うことができるのではないか。まし てや教育課程それ自体が週五日制の実施と共に時間数の削減が行われ、しか も、各教科では確かな学力の育成が最重要課題とされている現状では、なお さらのことであろう。問題なのは、道徳の時間それ自体ではなく、その時間 に行われる授業ではなかろうか。規範意識の弱体化、人間関係の希薄化等々 が課題とされている今こそ道徳の時間における道徳教育がその意義を実現す べきときであろう。.  以下では、2回に分けて、この課題についての筆者なりの見通しを提案し てみたい。(1)では、今日の道徳の時間に行われる道徳授業についての多様な. 工夫の現状と課題を述べ、それをふまえて今日の子どもたちの諸課題に応え ることのできる新たな道徳授業の提案の概要を述べたい。(2)では、その提案. にもとづいて、具体的な道徳授業の実践を紹介したいと考えている。.  なお本稿は、和歌山県上富田町立上富田中学校において行った2回の講演 をベースにしている。長時間にわたる講演を忍耐を持って傾聴して頂いた同 校の諸先生方に、この場を借りて敬意と感謝を申し述べたい。. 一37一.

(2) 1 「’ひに響く」とは. 1.1主体的に取り組むこと.  平成16年に行われた平成10年の学習指導要領の一部改訂1から、子ども達 の状況をふまえて、道徳教育あるいは道徳の授業を、子ども達の「こころの 在り方」に関わる諸課題により一層つながりを深めたものにしようというこ とで、「心に響く」という言葉が使われるようになったと私は把握しておりま. すが、しかし、この場合、「心に響く」ということは単に子ども達を「感動 させる」ということだけではないと、私は考えています。.  その場合、大事なことは二つあります。一つの重要な点は、多くの方がそ うお考えだと思いますが、子ども達が主体的に学習活動に取り組むことがで きるということだと私も思っております。その際、「主体的に」という言い方. は、注意深く使用する必要があります。学校の先生方が「主体的に」という 言葉をお使いになるときには、「一人ひとりが積極的に」という意味合いが強. いかと思います。その「一人ひとりが積極的に」ということがきちんと行わ れていくためには、子ども達の場合には、「子ども達同士が積極的に」とい う意味合いを含み込んでいるというふうに考えた方が良いと私は思っており ます。.  実際、学問の世界でも「主体的」という言葉と同時に、「相互主体的」と いう言葉があります。「互いに力を合わせて」という意味ですけれども、英語 で言うと”intersubjective「’。あの高速道路のインター1「intef’、そのインターが. つく言葉です。主体的という部分は”subjective”ですから、「インターサブ ジェクティヴ」(”intersub壷ective”)こうなるわけです。.  この部分が、私は子ども達の学習活動を考えるときに、とても大切な部分 だと考えています。道徳の学習においては、特にこのことが重要です。道徳 は一人の枠内で成り立つことではありません。人と人が共にかかわりながら 生活するとき、互いに認め合わなければならないことが生まれてきます。行 動の在り方とか、人間らしい在り方とか言いますが、それらはそれぞれが勝 手に考えるというわけにはいかないものです。.  反面、やはり一人ひとりがきちんとしっかり自分の在り方を考える必要も あります。人と人のかかわりの中での自分の在り方は、他人に考えてもらう ことではなくて、自分がしっかり考えなければならないことです。しかし、 一38一.

(3) それができるためには、他の人々と共に考えることがしつかり行われている ことが必要です。それによって自分勝手な考え方に陥らずにすむのです。で すから、道徳の学習では、一人ひとりばらばらに学ぶということは、実は成 り立ちにくいというのが実際のところだと思います。.  道徳に限らず、そもそも学ぶというのは、一人ではできないことなのだと、 私は考えております。何が正しいことなのかは、自分で勝手に決めるわけに はいかない。その基準に当たるもの、正しさの根拠に当たるものは、独断で 決めることのできないものです。.  そこで、やがて一人で考えたり、学んだりできるように、まずは、学級の 子ども達が互いに協働しながら課題に取り組んでいくのを指導していく。あ るいは、そういう取り組みを活発に進めていくのが教育活動であり、学校教 育の課題だというふうに考えています。. 1.2子ども達の課題に応えること  そして、もう一つの側面は、子ども達が今、何の問題もなくすくすくと育 つことができるような状況にあるかというと、むしろ、とんでもない状況に あるということです。.  いろいろな問題が、本当に深刻な問題がたくさんあって、しかも、それら の問題は特定の子ども達の問題ではないというのが、大方の認識でもあり、. 専門家のほとんどの認識でもあります。格別問題を抱えているとは思えな かった子どもによる、予想もしなかったことがある日突然起きてしまうと いったことが、いろんな所で生じております。実は本当はある日突然ではな くて、そういう問題行動が出てくる素地はすでにあるわけですけれども。  例えば、青少年問題審議会は、『「戦後」を超えて一青少年の自立と大人社. 会の責任一』の中で今日の青少年の特徴を以下の4点に集約しております  ①社会の基本的なルールを遵守しようとする意識が希薄になっている。. ②自己中心的で、善悪の判断に基づいて自分の欲求や衝動を抑えることが   できない。. ③言葉を通じて問題を解決する能力が十分でない。 ④自分自身に価値を見いだし、自尊の感情を持つことができないでいる。  道徳教育は、そのような問題行動の原因になっている「素地」に何らかの 形でつながっていくことが求められておりますし、またそうでなければなら ないと思っております。 一39一.

(4)  道徳教育というのは、どうも今まで、そういう子ども達の具体的な課題と はつなげて考えられてこなかったように思います。むしろ、それらとは離れ たところで、抽象的な「人格形成」であるとか、高尚な「人間とはどうある べきか」というところで考えられてきたように思います。.  したがって、そのような道徳教育は子ども達にピンと来ないでしょうし、 そこでの学習の成果が、具体的に子ども達の課題につながるというようなこ とは、あまりなかったのではないかと思っております。現実の日常生活の中 の子ども達の在り方に、あるいは在り方が持っている課題につながっていく ことができるということが、私は「心に響く」という言葉の中にふくめられ ている実際の意味だと捉えております。. 2学校における道徳教育の基本的な考え方 2.1内面に根ざした豊かな道徳性  学校の道徳教育がそういうものになるためには、どういうふうに考えてい けばいいのかということは、学習指導要領そのものの中にもある程度述べら れております。これは学校の道徳教育に関する原則的なことですけれども、 学校の道徳教育というのは学校の教育活動全体で行われなければならないと. いうことです。これは200年間ぐらい歴史を持つ教育学の基本的な考え方を 日本の学習指導要領はきちんとふまえているということです。ですから、教 科の学習も、実は子ども達の道徳性を育てていく上で大きな役割を果たして いるという認識を持つ必要があります。.  例えば、教科によって育てていくものは少しずつ違ったものがあるわけで すが、一つは、基本的に、これは多くの教科でそうなのですが、「筋道を立 てて考えることができる」、あるいは、別の言葉で言えば「きちんと論理的に、 客観的に考えることができる」ということです。.  自分の「生き方・在り方」みたいなものは、人のものまねであったり、い ろんな矛盾するところを持っていたりしたのでは、「生き方・在り方」とは 言えないということは当たり前のことです。一人ひとりが自分の「生き方・ 在り方」を論理的に筋道を立てて、一貫性を持って考えることができなけれ ばならないのです。従って、「道徳的に考える」、「道徳的な」という側面も. 当然それを基盤に含み込んでいなければならないのです。 一40一.

(5)  それから、豊かな感性のようなものも当然道徳の中身になっていくわけで すけれども、それらを育てていこうとする教育活動は、すでに学校教育の教 科の中にもあるわけです。そういう教科の学習の積み重ねが、言ってみれば、 「一人ひとりの子ども達の豊かな内面を作り上げていく」、「豊かな道徳性を. 育て上げていく」ということです。これが、一番の基本です。. 2.2現実世界で生きること  それからもう一つ。教科の知識や技能の学習活動、それら自身が、実はわ れわれの生活の中に組み込まれている道徳的なものと不可分に結びついてい るということです。.  パソコンを例にとってお話ししますと、OSというのがあって、その上にソ フトが立ち上がっていくというのはどなたもご存じのことですが、それらの 両方は、実はお互いに支え合っているということです。教科というのは言っ てみればソフトの部分です。その教科のソフトがきちんと立ち上がり機回し ていくためには、それを動かしていく原動力になるようなものが必要になっ てくる。.  それが道徳、生活の中に組み込まれている道徳、あるいは価値であるとか 規範であるとか、こういうふうに言ったりしているものです。そういうもの を確実に身に付けていくことが、学校で学習活動を上手くやっていくために、 欠かすことができない。したがって、学校全体の教科の学習活動と連動しな がら、道徳の学習というのは基本的には展開をしていくということです。そ のことをふまえておくことが必要です。.  しかし、それを進めていこうとしたときに、なかなか難しい状況が今日広 がっております。生活と言ったって、みんなが違う上に、みんなが安定して 生活が展開しているというふうには言えない状況があります。この町も、都 会化して、かつての町とは比べものにならないほど大きく変化しています。 すぐ近くには田辺市の繁華街があります。そして、便利なさまざまなものも 生活の中に入り込んできたりするわけです。すると人々は便利さや快適さを 求めて、ますます自分の欲求を募らせ、個々人の枠の中でものを考えること に慣れてしまい、他の人々との協調した在り方を見失うこととなってしまい ます。また、テレビの普及は生活スタイルの一元化とでも言えるような状況 を引き起こしています。かつてはだれもが大切にしていたものや慣習は廃れ ていくといったことも生じてきています。 一41一.

(6)  そうすると先ほどの状況も危うくなっています。かつては当たり前のこと として多くの人々に前提されていたものが消え去ってしまい、放っておいた のではそれが一定の役割を果たすというふうにはいかない。このような状況 に子ども達が置かれているのです。そういうものを意識的にふまえながら、. 道徳の時間の授業を、あるいは学校の道徳教育に取り組んでいかなければな らないという認識が同時に示されているわけです。.  それが教師と児童、及び児童相互の人間関係を深めるという記述になって いるのです。中学校であれば生徒ですけれども。教師と生徒、生徒相互の人 間関係を深めていくことが重要であるときちんと述べられています。.  それから、家庭や地域社会との連携を図ることが強調されています。学校 だけで道徳教育ができるというものではありません。生活との繋がりが大切 になりますが、生活と言っても家庭での生活、地域での生活さまざまなもの があるわけですけれども、そういうものも、ある意味では繋がりが不明確に なっています。そのことが学校教育を難しくしているというところもあるわ けですから、学校と家庭や地域が連携をきちんと取りながら、ボランティア 活動や自然体験活動等の豊かな体験活動を通して自主的に取り組みを進める ということです。.  都会的な生活になってしまうと、テレビの影響も非常に大きいのですが、 バーチャルリアリティという言葉もありまずけれども、もうわれわれはバー チャルな世界を生きているようなものです。時々つねって、「痛い」というの. を確認しなければいけないような状況があります。それは仮想空間といった りしますが。仮想の世界ですから、現実の世界があるわけです。そうすると 仮想の世界と現実の世界とを行ったり来たりして、現実の世界をきちんと確 かめていく必要があります。そういうことが、子どものときから必要になっ ているのです。.  昔はこのようなことはあまり必要なかったように思います。子どもは結構 現実的なもの、大人の様子をちゃんと見ていました。そういうことができて いたのですが、それが最近ではできなくなったのです。現実の世界へ行って、 つねって痛さを確かめるのと同じように、手探りで、それはどういうものか ということを経験してみることがとても重要になっているということです。  そういうことに対して、ここでは、三つの課題として取り組みが求められ ているわけです。 一42一.

(7)  それらの三つの取り組みをふまえて内面に根ざした道徳性の育成というの が、図られることができるのだと、学習指導要領は考えているのです。  この中学校で、先生方が今進めている体験活動と学習を結合させる取組の 根拠というのは、ここにあるということになるわけです。それは多様なそれ ぞれの学校の努力というか、試み・考え方に従って具体的に行っていくもの です。ですから、学習指導要領が全国の全ての学校に「大事な点をきちんと ふまえてください」と、言っていることに、この学校は、確実に取り組んで いるのです。. 2.3道徳的実践力と「かまえ」.  それから学習指導要領の第三章には道徳の時間の中身について規定がされ ています。.  学校全体での道徳教育の目標は、道徳性を養うことです。道徳の時間の目 標、ねらいは何かといったら、「道徳的実践力」を育成することだとあります。. もちろん、各教科や特別活動さらには総合的な学習の時間で行われる道徳教 育を、補充・深化・統合しながらということです。.  その際、道徳的実践力とは何かということはわかりにくいのですけれども、. 私は「道徳的なかまえ」をつくるのだというふうに思っています。指導要領 はこれを心情、判断力、実践意欲・態度、この三つを道徳の時間の実践力の 中身として示しています。これは『解説』の方にもきちんと明記されていま す。道徳性を養う学校全体の道徳教育と実践力を育てる道徳の時間の課題が、 各々の課題として区別されている。それは全ての先生が念頭に置いておかな ければいけないことだと思います。  それから、今、「かまえ」をつくるのだとこういうふうに言いましたが、「か. まえ」と言ったって単なる態度をつくるという意味ではありません。こんな 厳しい時代でありますので、「かまえ」をつくるためのさまざまな実践的な取. り組みがあってよろしいと思っています。むしろあるべきだと思います。.  ですから、座学で、道徳の時間にああだこうだと考えるだけで、実践力が 身に付くのかとよく言われますが、やはりそれは身に付かないと言うべきで しょう。やはり、先ほど言った体験活動とか、あるいは子ども達同士のもっ と多様なかかわりみたいなものに繋げていかないと、「かまえ」は、育たない、. 育っていかないと思います。道徳の授業の工夫の重要な点の一つはここにあ ります。. 一43一.

(8) 3道徳の時間における道徳授業の諸工夫 3.1諸工夫の有効性  最近先生方に行ったアンケートで、資料化したい題材の内もっとも関心が. 高いものの一つはNHKのプロジェクトXだということがわかりました。プ ロジェクトxのビデオというのは、すでに相当数公刊されています。ビデオ. だけでなくDVDや単行本、マンガにもなっています。ビデオやDVDは、ど の先生もおっしゃるように何本か見ると、「もういいか」ということになるの. ですけれども、実際にテレビでもかつてのもののリメイクされたものが放送 されています。.  これを実際に道徳の時間で使っている中学校がたくさんあります。45分間 のプロジェクトXを全部見せて授業を行うと言っていた先生もいました。ま だ授業をやればいいのですけどね。見せるだけで、後何もしないという学校 も多いようです。そういうことでは、こういう現実的な実践的な「かまえ」 は育っていかないでしょう。やはり道徳の時間の授業で子ども達同士が切磋 琢磨しながら追求していく学習活動が必要になってきます。そういう学習活 動をそれぞれの内容に応じて、どういうふうに工夫して展開するのかという ことが、非常に大きな課題です。.  その時に、私はいろんな考え方や方法を使って授業を行えばよいと思って います。ある一つのオーソドックスな権威付けをされた方法みたいなものが、 あるいは事の本質に従った唯一の方法があるというふうな考え方は、私自身 は間違いだと思っております。.  悪いわけではないのですが、何が問題かと言えば、それしかないからです。  子ども達の状況や今日の社会の状況というのは、価値の相対化、つまりい ろんな考え方が共在しながら錯綜しております。問題それ自身が複雑でいろ んな側面を持っているわけです。.  それなのにただ一つの方法やり方で授業ができるのか。あるいは、学習指 導要領が述べていることを、一つの方法だけで達成できると考えてよいのか ということなのです。.  やはり、いろんなやり方を一人の先生が持つべきなのです。  道徳では、基本的には学級担任が授業をやります。少なくとも学級数に対 応する数だけ授業者がいるわけです。そこで、この学校の先生方が取り組ま 一44一.

(9) れたように、手分けしていろんな方法を調べて、それらを具体化してみて、・ みんなで共有し合うということも必要になってきます。.  そうすれば、それほど法外な仕事ということではないのだというふうに思 います。.  実際、その方が子ども達も喜びます。ワンパターンでは、「もう、またか. よ」となります。プロジェクトXと同じように。あれってナレーションが同 じでしょう。トモロウという人が、やるのですかね。同じ口調、同じ文体、 同じ語り口なのですね。「あ一また始まったぜ」という感じにやがてなってい くのと同じです。.  毎回やり方が違うと、子ども達は「お一今度は何をするのだろう」という ような期待を込めて次を予想するというか。それが生き生きとした積極的な 取り組み、学習活動への参加を促していくことにもなるだろうと私は思って います。.  これが、基本的な私の考え方の一つです。. 3.2価値を伝える工夫  そういうことをふまえた上で、「じゃあどんなやりかたがあるか」というと、 本当にたくさんあります。たくさん本も出ています。ちょっと、「あれ一」と、. 首をかしげるようなものもないわけではありませんが、よりすぐって分類し ていくと次のようになります。.  まずは一つ目のグループが「価値を伝える工夫」です。  それは、誰にとっても大切な、基本的な価値みたいなものがあるのだとい う考え方です。価値の内面化を重視する立場です。そして、その価値を一人 ひとりの生徒みんなに学ばせていくという考え方です。価値を子どもたちに 伝える授業ということになるでしょう。これは押しつけ、先生方の資料の中 の研修記録にもありましたけれども、価値の押しつけになりやすい。そこで、. 押しつけにならないようにいろいろ工夫をしているわけです。構造化方式2 もこれに属します。類型化、一般化3もそうですし、再現構成法4という小学 校で人気のやりかたもあります。.  構造化方式というのは、一人ひとりの中に生活経験の中で築き上げられて いる価値の把握の在り方を人間としてより好ましい在り方に組み変えて行こ うとする考え方です。子どもたちの現状では価値のとらえ方が不十分という 場合もありますし、価値の数も不十分ということもあります。新たな価値を 一45一.

(10) 適切に理解する学習を通して自分なりにより整合性をもたせて内面できちん と整理されるよう学習を展開させようというのがこの考え方です。道徳的に 未熟ということは、内面における諸価値のつながりが十分に整っていないと いうことであり、構造化が不十分ということになります。.  この学習の特徴は、この価値の構造化を内面において進めるということと 同時に、その構造化を行う方法として内面的葛藤を重視していることが挙げ られます。入間は理性的な側面と同時に動物的な側面を持っていますから、. 両者が相争うことをここでは葛藤と呼んでいます。その葛藤の中で子どもた ちは人間としてふさわしい在り方を選択し、それによって価値についてのと らえ方もより整合性のあるものになっていくことになります。.  再現構成法とは、一つのお話を子ども達に先に読ませたり、教師が読んで、 学習活動を行っていくのではなくて、お話を読み進めながら同時に学習活動 を展開していく方法です。小学校低学年の場合は、文章を読むのはそれ自体 が優しいことではなく、読むことだけに集中しやすいため、内容の把握に時 間がかかるということもありますし、先生が最初にお話を語って聞かせると、 聞き終わった頃には内容を忘れてしまっていることもあります。  そこで、ある一つのまとまった話をいくつかにわけて、一つずつ子ども達 に語りかけて、さあ「次はどうなるだろう」と、子ども達に想像させたりし ながら、子ども達のお話の全体をイメージ化していく。先生と子どもたちが 物語を再構成していく。その中で子ども達はねらいとする価値についてしだ いに深く考えていくという作業を同時にやっているということにもなるわけ です。.  あるいは一枚の絵を示して、一部分だけ見せて、後は隠しておきます。最 初はある部分だけ見せて、少しずつ広げていって、子ども達にその絵がどん な何の絵かということを印象深く考えさせていく。.  このようなやり方が再現構理法として実施されております。これは、感性 とか感覚というものを生かし、それらをフルに発揮させるような取り組みだ と、これを開発したご本人はおっしゃっております。.  これらが価値をベースに置いた方法、考え方になります。. 3.3生き方を明確にする工夫  もう一つは、価値観の相対化というのが社会の現実だと考える立場に立っ て道徳の授業を構想する考え方です。これは全ての子ども達が学ばなければ 一46一.

(11) いけない価値、あるいは、全ての子ども達がある価値のある考え方を学ばな ければいけない、というのはおかしいのだという考え方です。.  これは、一人ひとりはすでに自分の価値観というものを作り上げていこう としているのですから、その自分の価値観を確かなものにしていく。合理的 な、筋道の通ったものにしていくという学習が学校教育の中に必要だ。こう いう考え方です。.  こういう考え方を「価値の明確化」と言うのですけれども、それを進めて いく方法として「構成的グループエンカウンター」5という国分康孝という人 が開発した心理臨床め分野のやり方が応用されて、これを使った道徳の授業. が行われています。これは諸富祥彦6という大学の先生、千葉県等の学校の 先生方がいろんなエクササイズを開発しています。全国的にも、しだいに人 気が高くなっている方法・考え方です。この学校でも使っている東京書籍の 副読本、『明日をひらく』も、この方が編集委員に入ってそういう資料もい れるようにしております。.  本校で編纂されている今回の紀要を読ませて頂いたら、構成的グループエ ンカウンターを使った授業方法に関する本をお読みになってその内容を報告 されていた先生もおられましたので先生方もよくご存じかと思います。  これはやはり価値観の相対化の状況の中で一人ひとりの価値観に焦点をあ てた方法・考え方だということです。. 3.4道徳性を高める工夫  この方法については、価値観の相対化は認めるのだけれども、でも、一人 ひとり別々でいいのかという意見があります。これが道徳性の発達段階に焦 点を置く考え方です。.  構成的グループエンカウンターの授業では「シェアリング」ということが 大切にされます。その場合、何を「シェア」するのか。「シェアとは分かち 合う」ということですが、何を共有することになるのかがはっきりしないと いう疑問が出てきます。要するに、あのエクササイズをして「何か大変だっ たとか、むずかしかったとか、友だちは大事だ」といった感想を語り合うこ とでいいのかということです。ちょっと曖昧じゃないかという批判があった りするわけです。そこは、やはりみんなが共有していくものをはっきりと示 すべきではないかという考えです。.  それに対して、道徳性の発達段階を重視する考え方は、実はそれぞれの二 一47一.

(12) 値に対してはさまざまなとらえ方があるのですが、それぞれの価値がそれぞ れの人たちの中で正しいもの、適切なもの、妥当なものというふうに判断さ れる根拠にあたるようなものは実は同じなのだという考え方です。だからど この社会でも子どもと大人というのは同じように区別されるのだと。子ども が大人になるというのは、どこへいっても同じだという考え方です。ここか ら発達段階という考え方も生まれてくるわけです。.  そこで、この考え方は、一つひとつの価値の正しさを合理的に考えていく、 その考え方は普遍的なものなのだとこういうことです。この考え方が基盤に なって、さまざまな道徳場面で、判断がより大人に近いものに高まることが、 ねらいや課題になっていくと考えるべきではないかという考え方です。  この考え方がコールバーグという人の、道徳性の発達段階をふまえた「ジ レンマ資料を使った道徳の授業」7ということになるわけです。.  この授業論は、他の多くの考え方とは異なる画期的な諸端緒を含み込んで います。他の考え方には、価値の正当性、価値について道徳的な行為を支え ているもの、判断を支えている道徳的なものの考え方として道徳性というも のを捉えるということはなかった。ところが、この考え方は、道徳性とは何 かと言ったときに、判断を支えている道徳的な考え方(正しさの根拠)だと 見なすことによって、相対的な価値や価値観を基盤におかずにすむというこ とです。.  つまり、道徳性を正しさについての考え方というふうに規定しております ので、道徳性というものが捉えやすいということになります。.  1のグループの方、価値を重視する方は、道徳性というのはいくつかの価 値によって構成されるものだと考えております。.  これはいろいろ問題点も指摘されます。なぜならば価値というものは23個 しかないのか。23個の価値に限定して、その23個の価値がどれだけきちんと 把握されているかということだけを見て、道徳性が高いや低いなんていうこ とは言えるのか。あるいは価値の集合がある構造を成していると言うけれど も、23個の価値だけが構造を成しているのか。その他の価値はないのか。23 個でフォローできるのか。.  そうすると、価値にこだわらないで、道徳が問題になる具体的な場面それ ぞれにおける価値の正当性、正しさをきちんと合理的に考える考え方みたい なものに、むしろ焦点を置いた方が良いのではないか。しかし、それは価値 一48一.

(13) をないがしろにしていくということではありません。そうではなくて、より 大人に近い、より合理的な考え方でもって価値を捉えていくということにな るわけです。私はコールバーグのジレンマ資料を使った道徳の授業は、そう いう良い点を持っていると思っています。. 4三つの工夫を統合する試み 4.1ジレンマ授業の課題  一方では、この道徳性の発達を重視する考え方も問題点を持っています。 なぜかというと、ややもすれば、価値は横に置いてしまい、考え方、つまり 道徳性の発達段階だけを育てていく。道徳性の発達段階のレベルだけを上げ ていくことを道徳教育と考えてしまいやすいという問題点があります。  ジレンマの授業は、子ども達が対立点をはっきりさせて、どっちが「合理 的なのか、正しいのだろうか」というふうに、子ども達が追求していく話し 合い活動を進めていく上でやりやすいのです。.  だから、この考え方は、活発な討論に展開しやすいのです。ある意味では、 道徳の授業のねらいにアプローチしゃすいということにもなります。  ただし、授業の最後をオープンエンドといって、結論を出さない形にして いますから、極端なことを言えば、盗みを行うことも、場合によっては仕方 ないということで、授業が終わってしまう。あるいは「何かを守るためには、 人を殺すこともやむを得ない」といったような意見が子ども達の中から出て きたりするのです。.  子ども達は合理的に考えていくわけですけれども、しかしながら、それが 良いのか悪いのかの判断をそこでしませんので、終わり方が教師にとって不 安になるということになりやすい。.  実際には生活の中では正義のために、盗むということだってあり得るわけ ですけれども、道徳の授業において盗むという行為を容認するような方向を 残したままで扱ってよいのかということです。容認しているわけではないの ですけれども、そのままで終わってしまうことにもなるわけです。  こういう問題の他に、発達段階を子ども達に押しつけてしまうことになっ. てしまっているのではないかという批判も起こって参ります。村井実8とい う先生がいらっしゃる。その方はその点を批判されています。 一49一.

(14) 4.2統合的プログラム  ここから、第三のものが出てくるのです。価値にこだわる・こだわらない という二つのグループに対して、両方大事なんじゃないか、価値も大事だし 価値に関する考え方、道徳的なものの考え方も大事じゃないかという第三の 考え方が出てくるわけです。.  それが、資料の次の田「三つの主要な道徳授業の方向を統合する試み」と いうのがありますよね。そこに示したものです。.  一つは統合的プログラムによる道徳授業です。伊藤啓一9という方が提案 されているものです。統合的道徳教育論とも呼んでいます。既に先生方は、. お読みになったと思いますけれども、道徳の授業をそのねらいに即してA 型・B型という二つのタイプを区別いたします。A型は、価値を教える。 B 型は、価値についての考え方や道徳性を子ども達に育てていく。具体的に言 えばジレンマ的な授業です。あるいはエンカウンター的な授業です。これを A型とは異なるタイプに位置づけます。.  A型とB型という道徳授業の分類に関わって興味深いのはアメリカの状況 です。今日、アメリカで一般的に行われている道徳教育は、品性教育(キャ ラクター・エデュケーション)ですが、それは人格の基盤を構成するいくつ かの中心的な価値(徳目)を子どもたちに確実に教えるというものです。尊 重、責任、正直、思いやりの心、公正さ、自制…といった具体的な価値がそ. れらの中心的な価値にあたります。この品性教育は元々20世紀の初め頃か らアメリカにおいて一般的に行われていた道徳教育なのですが、ジレンマ資 料を使った道徳授業や価値明確化といった方法が出てきたのはこの品性教育 への批判からでした。しかし、今アメリカでは逆にこれらの方法が批判され、 品性教育の方が前面に立っているという興味深い状況にあるのです。それは 学校教育をリードしている考え方が保守的な方向に向かっているということ とも関連しているのですが、アメリカの社会の現実とも関わっているようで す。伊藤先生は、この間の事情をよくご存じの方であり、二者択一ではなく、 どちらも重要なのであるから、その両方を組み合わせた大単元を作ればいい ではないかというのが、伊藤先生の考え方です。例えば、「命」を大テーマ にして、生命尊重をきちんと受け止める(知る)授業と自分の生き方を考え る(自分の中で生命について深く考える)授業を組み合わせれば、より実際 的で、効果的な授業を行うことができるのではないか。こう考えているのです。 一50一.

(15) 4.3諸課題克服への提案一討議による道徳授業一  この統合的プログラム(統合的道徳授業論)も一つの考え方ですが、私は、 批判的です。実践的な観点から見れば、現実的ではありますが、原理的に相 対立する考え方を組み合わせるというのは理論的には不十分なところがある. のではないかと思っております。それで提案したいのが7番目の渡邉方式と なるのです。.  それは、「コミュニケーション的行為の理論に基づく道徳授業」、あるいは. 「討議による道徳授業論」です。基本的にはジレンマの道徳授業を生かしな がら、しかし、オープンエンドにしないでクローズエンドにしていく。つま り問題解決に向けて子ども達が議論を進めていくような、授業の形にすれば いいのではないかというのが私の考え方です。.  第一ラウンドも終わりに近づきましたので、急いで、この考え方がどうい うものかをお話ししょうと思っています。. 5道徳教育の基本的な課題 5.1社会性と道徳性一コインの裏表  今日どこの学校や地域においても、子ども達は大変な状況にあります。そ の大変な状況は、道徳教育が抱えている大変な状況と無関係ではないのでは ないかということが、次の課題です。私は道徳教育が、逆に子ども達の状況 に立ち向かうような、そういう道徳教育の考え方を創っていかなければいけ ないのではないか、と考えています。.  そのためには、どういう考え方でいったらいいのかという話をしたいと思 います。.  その場合、社会性というものと道徳性というものを私は基本的には一つの ものというように考えております。あるいはコインの裏表というふうに考え ております。.  実は道徳という言葉は「モラル」と英語で言いまずけれども、その語源は 「モレス」というラテン語です。「モレス」というのはどういう意味かと言 うと「住みか」という意味です。それから人が集まっている「生活の場」の ことをモレスというのです。.  実はラテン語が最初ではないのです。ギリシャ語の方が先なのです。それ 一51一.

(16) がローマに入ってきて「モレス」という言葉をあてはめて、「モラル」とい う言葉のもとになったのです。.  それでは、ギリシャの言葉は何かというと「エートス」なのです。  「エティック」と言うじゃないですか。「倫理」。そのもとが「エートス」 と言うのです。「エートス」とは、何かと言うと、「モレス」と同じです。「住. みか」です。人々が一緒に生活しているその場のことを言うのです。  そうすると、みなさん、「エティック」とか「モラル」とか言う場合、「エ. ティック」は社会の規則を、「モラル」は個人の内面の在り方をさしている ことが多いのですが、語源的には同じ意味を共有しているのです。道徳性と 言う場合、ようするに一人ひとりの内側の問題がまずあったわけではないの です。人々が一緒に生活している、その共同生活の中での一人ひとりのあり 方のことを道徳と言う、そういう意味合いになります。.  それが、実は18世紀ぐらいから意味合いが変わってくるのです。何故かと いうと、人々が一緒に生活している社会の場の方がぐちゃぐちゃですから、 むしろ、そういう側面よりも、まずは一人ひとりのあり方をがっちり固めて いくことの方が大事なのだということで一人ひとりの道徳性と、こうなった わけです。.  18世紀ぐらいから、この考え方でずっときたものですから、道徳教育はう. まくいかないのではないかと私は考えております。それは何かを捨ててし まっているのです。一人ひとりの内面のあり方だけを考えてしまいやすい。 人との繋がりみたいなものがもっている、それを「これで良いのだろうか」 と、一緒に考え直していくような取り組みが欠けているのです。社会や生活 の場というものをより良いものにしていくという側面を抜きにしないで、そ れに取り組みながら一人ひとりが自分のあり方を考えていくというのが、私 は本来のあるべき道徳の考え方だったのだろうと思います。  そうすると、今まで私たちはこう考えてきたのです。自分の内面は道徳性 で表現するとしますと、他の人と繋がっている、その側面をきちんと考える ことができるというのは何か。それは、社会性という言葉で私たちは表して きたのだと。これからは、それらがつながっていて、コインの裏表としてあ るのだということをふまえることが必要だと思うのです。. 5.2コインの裏表を繋ぐ営み  そうすると、やはり子ども達の道徳性を育てていくということは、子ども 一52一.

(17) 達が一緒につくり出している場を、見つめ直していくこととは、切り離せな いのではないかと思うのです。.  すると、次には、その場所、つまり社会を見つめ直して、自分たちの関係 のあり方を見つめ直していくという活動は何によってなされるのかというこ とが問題になります。.  私は、ドイツのユルゲン・ハーバーマスという哲学者がいて、その人が難 しい本10を書いているのですけれども、多少がまんして、ぐっとこらえて読 みながら、そこで学んだ「コミュニケーション的行為の理論」という考え方 が支えになるなと考えております。  つまり、その入はこう考えるのです。.  人は対話をしながら、話すことによって、実は他の人の考え方との調整や 他の人との関係のあり方の見直しを行っているのだと。  語り合うことによって、互いの考え方を調整しながら関係を作り直してい. く。こういうことです。関係を作り直していく上での、一つの大きな柱に なっているのが。道徳的な規範や価値と呼ばれるようなものだと彼は言うわ けです。.  社会には規範や価値・規則・ルールみたいなものがあって、人間の内面に は価値や規範やルールみたいなものに対するとらえ方や考え方みたいなもの があると。そしてその二つがコインの裏表で繋がり合っているのだと。その 繋がり合わせる営みを、私たちは、人と人の会話の中で現実に行っている。 こういう考え方です。. 5.3調整し合う話し合い方  そうならば、道徳の学習の中で、話し合い活動が、今まで重要視されてき たのは、当然のことではないかというふうに私は思います。ところが、今ま での道徳の授業での話し合いというのは、意見交換というか、考え方を紹介 し合うぐらいの意味合いでしか考えてこなかった。もっと「調整し合う」と いう役割を担った、話し合いという観点を道徳の学習の中にも導入していく 必要があるのではないかと、こういうふうに考えているわけです。  もうちょっと詳しく言わなければいけないのですよね。  「調整し合う」と言うけれど、どういうふうに調整しているのか。われわれ. は実際やっているのだけれども、日常はそういうことを意識していません。 そこで、そのものに虫眼鏡を置いて拡大して、見ていくとこうなるのです。 一53一.

(18)  「私は…は∼であると思う」と、言ったり、文で表しますが、実はそれだ け言っているのではなくて、(私は…は∼であるは、正しいと思う)と言っ ているのだと考えてみましょう。.  ですが、その際、お互いに考え方が同じであれば、当然のこととして認め 合っていれば、あえてそれは問題にしないので別に意識しないのです。です が、考え方が違う人がぶつかって、「僕は…は∼だと思う」、「いや違う」と、. こういう話になってくると、「君のは違う。何故かというと、…だからだ」 という会話が生まれてきます。実はその部分が話し合い活動の中心的な部分 だということです。つまり、どうして相手の言ったことが正しくないのかと いう、その根拠や理由を相手に示して、相手はその根拠や理由を指摘された わけですから、それは認めることができるのかできないのかというのを考え るわけです。認められなければ、「違う、君の言っている方が正しくない。ど うしてかというと…だからだ」と、根拠を改めて出すわけです。.  そうなると、そこでの言葉のやりとりの中心は、最初の「…が∼である」 から、「…は∼であるは、正しいかどうか」というところに移るわけです。根. 拠・理由が改めて、どっちが適切なものかということをここで議論し合うと いうことになるわけです。.  これこそが話し合うということの活動のエキスなのです。今までの話し合 うは話し合うではないのです。紹介し合うぐらいのものです。そういう根拠 を問い合うことによって、実は調整が行われていくのです。その時の調整の 根拠は、根拠というか規準は、合理性。納得できるかどうか。誰もが納得で きるかどうかとは、普遍性、難しい言葉で言えば、科学的というように言っ てもいいでしょう。. 5.4理由についての話し合い  ですから、道徳性を育てていく道徳教育というのは、道徳の時間だけです むような問題ではない。数学や、国語・社会で追求しているのは何かという と、科学的なものの考え方です。それをそこで学んでいるのです。それは、 当然道徳教育につながってくるという最初の話になるわけです。  そういう、それもこれも、われわれがしゃべるというのは、単純な伝達の しあいではないということなのです。.  実は、話すことは二重構造を持っています。事実を表明する側面の他に、 その事実が事実かどうかというのを問題にするもう一つの部分があるのです。 一54一.

(19) 問題が生じたとき、あるいは行き違いが生じたときには、下の部分を表にあ げて、上の部分を修正していく。認められるものかどうかということを検討 していく。話すというのも二つの部分があるといケことです。.  話し合うということで重要なのは、下の部分の「話し合う」です。これを 難しく言うと「メタレベル」と言います。.  「メタ」というのは、実は学問というのは何をすることかというと、メタ の部分を正確に追求していくことが学問なのです。教育学というのはまさに それをやるのです。.  しかし、実は学問だけがやっているのではなくて、われわれも生活の中で それをやっているということです。ただそう思ってないだけのことなのです。 生活の中でやっていることですから、ちょっといい加減な部分もあります。  でも、学校教育の場合には、きちんとそのいい加減さを正して、「メタ」 の部分をきちんと上とは区別して、その部分を厳密に追求していくことが大 事なのだということになります。.  ここまで言うともうおわかりですよね。話し合い活動で大事なことは何か。  「僕は∼と思う」このやりとりで終わらせてはいけないのです。「僕は∼と 思う、なぜならば、…だからだ」、「…だから」ということを、子どもたちが. 豊かに考えることができるようになったときに、子どもたちのものの考え方 や道徳性はより高まっていく。そして大人に近づいていくということなので す。「そういう考え方はわがままなのではないか。自分だけよければいいと いうような考え方になってしまうよ。だけどぼくたちは一緒に生活して、○. ○中学校という一つの大事な社会、場を担っている。一人ひとりバラバラ だったら、そっちの部分はどうなるのだ。」.  そういうことを考えることができるようになったら、子どもたちは発達段 階としては、私は、大人に育った、少なくとも大人に近づいたと言えるので はないかと思います。、.  そういうことを、誰もが考えることができるようにすること、それをめざ すこと、これこそ学校の道徳教育がもっとも大切にすべきことなのです。子 どもたちの学習活動をこのことにねらいを定めて進めていくことが、この中 学校で進められている道徳の時間の授業の取り組みの、大きな目標というこ とになるわけです。. 一55一.

(20) 小結.  それでは、具体的に授業の中で展開していくためには、どういうふうにし. たらいいのかということを、休憩した後に第2ラウンドでお話ししたいと思 います。. 1 文部科学省(2004)「中学校学習指導要領改訂版』. 2 このことについては以下を参考にしてください。金井肇(1996)『道徳授業の基  本構造理論』明治図書、同編著(1998)『生き生きとした構造化方式の道徳授業 中  学校』. 3 このことについては以下を参考にしてください。赤堀博行他国(1995)『道徳授  業の新しい展開』小学館. 4 このことについては以下を参考にしてください。八木下洋子(2005)『新しい道.  徳授業づくりへの提唱13再現構成法による道徳授業・小学校編』明治図書、同  (2005)「新しい道徳授業づくりへの提唱20 !枚絵・場面絵で創る再現構成法の道.  徳授業 小学校編』明治図書. 5 このことについては以下を参考にしてください。國分康孝・國分久子総編集  (2004)『構成的グループエンカウンター辞典』図書文化杜. 6 このことについては以下を参考にしてください。諸富祥彦他州(2002)『エンカ  ウンターで道徳 中学校編』明治図書 7 このことについては以下を参考にしてください。荒木紀幸(1990)『ジ1/ンマ資  料による道徳授業改革一コールバーグ理論からの提案一』明治図書、同(1990)『モ.  ラルジレンマ資料と授業展開 中学校編』明治図書. 8 このことについては、以下を参考にしてください。村井実(1990)『道徳教育原  理一道徳教育をどう考えればよいか一』教育出版. 9 このことについては、以下を参考にしてください。伊藤啓一(1991)『統合的道  徳教育の創造 現代アメリカ道徳教育に学ぶ』明治図書、同編著(1996)『中学校統. 合的プログラムの実践「生きる力」をつける道徳授業』明治図書、トーマス・  リコーナ、水野監訳・編集(2001)『入格の教育 新しい徳の教え方学び方』北樹  出版 lo. @このことについては、以下を参考にしてください。 J.ハーバーマス(河’上・フー.  プリフト・平井訳(1985)『コミュニケーション的行為の理論(上)』未来社、J.バー. 一56一.

(21) バーマス(藤沢・岩倉・徳永・平野・山口訳)(1986)『コミュニケーション的行為 の理論(中)』未来社、」。ハーバーマス(丸山・丸山・厚東・森田・馬場・脇訳) (1987)『コミュニケーション的行為の理論(下)』未来社。. 一57一.

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参照

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