元弘・建武津軽合戦に関する一考察
著者
橋本 竜男
雑誌名
国史談話会雑誌
巻
53
ページ
1-23
発行年
2012-12-21
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127074
冗弘・建武津軽合戦に関する一考察
はじめに 元弘三年(二ニ三一ニ)五月に鎌倉幕府が滅亡すると、陸奥 守 に 任 じ ら れ た 北 品 開 制 家 は 、 河 年 十 月 議 良 親 王 を 車 中 じ て 父 親 一 一 応 と と も に 陵 奥 に 下 向 し 、 時 間 奥 国 府 に 入 部 し た 。 そ し て こ こ を拠点に﹁臨時州小幕府﹂とでも呼ぶべき支配体制を確立して いく。この体制の下で、奥羽各地には一から数郡ごとに郡奉 行が置かれ地方支配の要となった。また軍事謬祭権を持つ郡 検断も泣かれ、郡奉行を補佐した。しかし、幕府滅亡後も津 軽 地 ガ で は 新 政 権 に 対 す る 抵 抗 が 続 き 、 一 克 弘 一 一 一 ノ 壬 木 か ら 建 武 元 年 ( 二 一 一 一 一 一 一 間 ) に か け て 大 光 寺 楯 合 戦 ・ 石 市 内 楯 合 戦 持 寄 城合戦仙寺の戦乱が棺次いで起こった。この際、北畠顕家は各 地の有力武士を続々と津軽に派遣し、顕家自身の津経下向も 計阪された。その甲斐あって建武元年の年末には戦乱はひと橋
本
竜
男
ま ず 終 息 に 向 か う 一 ( 地 図 l 、年表 l ) 。これが本稿で取り上 げ る 津 軽 合 戦 で あ る 。 この津軽合戦に関する従来の研究は、合戦の経過について 略述したものが殆どである。というのは、同合戦について扱 った文献の多くが、概説批判や自治体史の通史編といった性格 のものだからである。本格的論文でこれを扱ったものは少な く、津軽合戦について詳細に分析した研究というのは管見の 限りでは無い。さらに問題なのは、それら合戦の経過に関す る記述にさえ、分析の不十分な点や見解の不一致が見られる ことである。つまり、津軽合戦は、その基本的情報である経 過についても十分に解明されているとは言えないのである。 言うまでもなく津駿合戦は、津経で局地的に発生した戦乱 ではない。一克弘動乱、そして幕府の滅亡という当該期の全劉 的動乱の一端を成すものである。その怒味で﹁津軽にお付る2 元弘動乱﹂と蓄えよう。このような重要事件の経過が十分に 明らかにされていないのは問題である。 そこで本稿では、史料にまで遡って津軽合戦がどのように 展開されたのか分析し、より詳細な合戦の経過についての叙 述 を 提 示 す る 。 津軽合戦の経過に関する先行研究とその問題点 まず、先行研究において、津軽合戦の経過をどのように説 明してきたのか確認し、その問題点を指摘するところから始 める。最初に代表的な四つの箸怒・論文の必要箇所を要約し て 掲 げ る 。 ①宮崎道生﹃青森県の歴史﹄ イ 、 当 該 期 の 律 相 祉 の 動 乱 は 曾 我 氏 の 動 き が 中 軸 と な る 。 品目我氏は腕家の大光寺曾我氏と庶子家の岩楯合我氏の ニ 派 に 分 か れ て 対 立 し て い た 。 口、嫡家大光寺管我氏は幕府方につき、津軽に逃れてき た北条一族の名越時如安達高祭等とともに大光寺楯 を拠点とした。これを、岩槻曾我氏の曾我光高や工藤 貞 行 、 尾 張 部 正 左 衛 門 尉 ら 朝 廷 方 の 寧 が 、 一 苅 弘 一 一 一 年 末 から別立建武元年一月にかけて攻捜したことにより大光 寺 繍 合 戦 が 始 ま る 。 ハ、大光寺の幕府方は敗れて石川城に入ったが、曾我光 高らは、陵曲世間同司北品鎖家の命をうけた多田貞綱伊 賀貞光および根城南部師行らの援助を得て、五月には 石 川 城 を も 攻 略 し た 。 二、幕府方はさらに持容械にたてこもったが、朝廷方は 安東氏も加わり十一月には持容城も陥柑惜し、名越時 如安迷路奈は降伏した。 ② 阿 閃 清 一 ﹁ 元 弘 ・ 建 武 則 の 律 相 粧 大 乱 と 曽 我 氏 ﹂ イ、北条氏の強翻な支配に組み込まれた奥羽の地には、 新 政 権 に 抵 抗 す る 残 存 勢 力 が 多 々 存 在 し た 。 一 克 弘 一 一 一 年 十二月、それらと新政権側との殻初の衝突が平賀郡大 光寺楯において勃発した(大光寺楯合戦)。 口、翌雄武元年間月十三日、合我光潟と向族経光との間 で合戦が生じ、翌五月二十一日には平賀郡石河楯での 合戦へと発展。詳細は不明なるも、縫光と光前の戦い が石河楯合戦の前哨戦であった可能性がある。 ハ、お河栃合戦は容易に決務が付いたが、大光寺、石河 の合戦に放れた軍勢の一部はさらに持寄城に逃れ、ま たその一部は山辺郡にも逃れ、建武政権に対抗した。 ニ 、 こ う し た 情 勢 を 打 開 す る た め 、 国 内 勺 北 畠 顕 家 の 律 相 弛 下向が計閲されたが、山辺郡で合戦が勃発したため延
期 と な っ た 。 ホ、その後十一月に﹁叛乱﹂寧の首班、名越時如安迷 高 m H らが投降し、津軽大乱はひとまず終結した。 { 凶 v へ 、 ﹁ 叛 乱 ﹂ 事 は ﹁ 式 部 郷 宮 ﹂ を 推 戴 し 、 ﹁ 小 鹿 島 弁 私 凹 城今淡﹂に楯を構築し、津軽に乱入した。 ③小口雅史﹁津軽・糠部の鎌倉武士﹂ イ、元弘三年から四年初めにかけて、大光寺械を中心 に、朝廷方と幕府方とで戦いが始まった。朝廷方合戦 奉行は早川禅門、それに工膝貞行・尾張郎正左衛門ら が従い、曾我光高も一族郎等とともに参戦し勝利に貢 献 し た 。 口、また、北条方が小鹿島・秋田城に楯を築いて洋経方 聞に侵入する動きを示したのに対し、光高は﹁国中給 主御家人﹂を大向か(大鰐)に集めて防戦しようとし て い る 。 ハ、北条ガはついで石川楯にたてこもって抵抗を続けた が、曾我光高らの奮戦で五月には務滅。 ニ、幕府方最後の拠点は持容域であった。顕家は各地の 有力武士を統々と津駿に派巡し、八月から九月にかけ ての激戦を経てついに持容械も務減、十一月には幕府 方の巨将名越時如安達高気も降伏した。 F U ︼ ③ 山 国 島 勝 一 一 一 ﹃ 市 浦 村 史 ﹄ ィ 、 一 冗 弘 四 年 正 月 十 日 、 曾 我 光 高 代 恵 藤 道 為 寧 忠 注 進 状 案(のち史料 I で 引 用 ) に よ れ ば 、 一 克 弘 一 ニ 年 十 二 月 以 前に﹁大光寺合戦﹂が始まった。これは鎌倉幕府の北 条 氏 余 党 の 反 抗 と 見 な さ れ る 。 口 、 元 弘 凶 年 一 一 月 ( 大 光 寺 合 戦 の 翌 月 ) 、 曾 我 光 高 は 大 光寺合戦の戦功によって旧領の安堵を請うているが、 その申状(のち史料
2
で引用)によると、﹁朝敵余党 人等が小鹿島や秋田城の諸所に循を築き、そこから津 軽へ乱入する﹂との風聞があった。そこで﹁闘中(津 軽を指したものか)の給主御家人を集会させ、大阿匁 郷(現南津軽郡大鰐町)で秩聞方面の凶徒乱入を防戦 する﹂という。これは﹁大光寺合戦﹂に統いて次の合 戦が待っていたことを示すものである。 ハ、大光寺合戦の約五ヶ月後、第二の戦いは石川舗にお い て 展 開 削 さ れ た 。 光 高 の 相 手 は 一 族 の 曾 我 氏 で 北 条 余 党に加わった者たちであった。この合戦は、二月の光 高申状にあった風開通り﹁小鹿島・秋尽城﹂の北条残 党が津軽に入って合流しての反乱と考えられる。また この合戦は、北条氏一門の名越時如や前秋田城介安達 泌 景 も 既 に 伴 嫁 入 り し て の 合 戦 で あ っ た と 推 測 さ れ る 。 ニ 、 ( 建 武 元 年 ヵ ) 六 月 十 二 日 、 北 品 顕 中 部 御 教 滋 ( の ち4 史料
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、刊で一部引用)によると、この時点で就に ﹁石川楯﹂は国街側に陥落させられ、安達肉強や名越 時如らを主体とする北条余党は集結して持寄誠に立て 能もって抵抗を統けることになる。しかし建武元年十 一月、大光寺繍合戦から石川栂合戦を経て頑強に抵抗 を繰り返した北条余党による反乱も、この持寄城合戦 を段後に大将株の名越時加・安迷高景以下両手を組ん で降参して幕切れとなった。 ①宮崎道生氏の説は、大光寺石河持寄の一一一件の合戦を一 巡の流れとして捉え、先の合戦の敗兵が次の織に移って戦う という関係で説明している。また、大光寺栃合戦の翌月にあ った出羽側からの北条氏勢力の乱入については言及していな し 次に②岡田清一氏の説も、基本的には宮崎氏同様、先の合 戦の敗兵が次の織に移るという連続関係で捉えている。ただ し岡悶氏の場合、大光寺楯合戦と石河楯合戦の関係は必ずし も明確にしておらず、大光寺白石河それぞれの敗兵が持容械 に移ったと理解しているようである。そして附田氏は、出羽 側からの北条氏勢力の介入に言及しているが、それが津軽合 戦の推移の中にどのように位置づけられるのかは説明し得て し な し 。 ③小口雅史氏の説も、ィ、ハ、一一の合戦の推移について述 べた部分を見る限りでは、先の敗兵が次の楯に移るという関 係で一一一件の合戦を捉えていると考えられる。問題はロの出羽 側からの北条氏勢力の乱入について述べた筒所で、この記述 は単に時系列に沿って間に挿入しただけという印象が強く、 他の部分との m関係がうまく説明出来ていない。試みに口の部 分を飛ばして小口氏の説明を読んでみて欲しい。すると氏の 説明はすんなりと理解できるのである。 最 後 に ③ 鐙 島 勝 一 一 一 氏 の 説 も 、 他 の 一 ニ 説 と 向 様 先 の 敗 兵 が 次 の楯に移るという関係で三件の合戦の挽移を説明している。 ただ豊島氏の場合は、出羽からの北条余党乱入の動きを合戦 の推移の中に明機に位置付けており、大光寺楯合戦後にこの 動きがあり、彼らが津軽の北条余党に合流して石河織合戦を 引き起こしたとしている。 以上の説明を受けて、先行研究の叙述に見られる問題点を 指摘する。第一に、先行研究の叙述はいずれも各合戦闘の関 係を単純化しすぎているように田山う。問者とも先の合戦の敗 兵が次の楯に移って戦ったというような理解を示すのみであ り、三件の合戦を単純に一つの流れとして捉えてしまってい る。第二に、洋経合戦全体の推移については述べているが、 側々の合戦の顛米についてはあまり詳しい記述が無い。第一ニ に、出羽からの北条余党の乱入を洋経合戦の推移の中にどう位詑付けるかという問題である。これについて明確に説明し 得ているのは、③豊島氏の説のみである。 以上の問題点を受け、これらを解決し、より撃った津騒合 戦の経過の叙述を提示することを本稿の課題とする。そのた めにはまず、先の合戦から次の合戦へと至る過複を仔細に分 析する必要がある。第一の問題点は、この検討が不十分であ ることに由来すると考えられるからである。各合戦問問に単純 な連続関係を怨定するのではなく、どの微な関係が見られる のか、或いは見られないのかを検討し、より詳細な津軽合戦 の流れを錨くことを目指したい。 そしてその分析は同時に第二の問題の解決にも繋がる。各 合戦闘の関係を分析する擦には、先の合戦の終結から次の合 戦の限始に至る流れを検討することになり、個々の合戦の顛 末に触れざるを得ないからである。従って、第一の分析を行 う中でそれぞれの合戦の顛末も明らかにしていく。 議後に第一一一の問題であるが、北条余党の乱入を津軽合戦の 中に位撹づけるには、結局この動きがそれぞれの合戦とどの 様な関係にあるのかが分かれば良い。そこで第一の分析の中 でこの点も検討していく。 以下、章を改め分析に入る。 各会戦間の関係 川大光寺楯合戦と出羽の北条余党の津軽乱入 本節では、大光寺栃合戦と、それに引き統いて起こった出 羽側からの北条余党津軽乱入の動きとの関係について考察す る。これは先行研究では検討されていない問題である。 まずは、大光寺楯合戦の顛末から見てみよう。この合戦に ついて最も詳しく知ることが出来るのは、合戦終了後に曾我 光筒(童名乙房丸、乙丸)が提出した次の手負交名注文であ る 。 沙 弥 日
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胤 頭 小 問 郎 光 継 在 日 高 川 f ︻ C ︼ 閉 d 人 人 人 人 人 人省、此条々、一本一言も偽令レ申候物者、 車 中 レ 始 ニ 上 党 天 帝 尺 一 、 惣 日 本 悶 中 大 小 神 祇 、 民 ︿ 円 い い い じ 罰 、 於 原 深 可 ニ 罷 山 総 一 候 。 何 起 請 文 之 状 仰 レ 件 。 一 五 弘 一 一 年 l 正月十日乙丸代沙弥道為(花押) 傍線部門
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︼ か ら 、 大 光 寺 楯 で は 遅 く と も 元 弘 一 一 一 年 十 二 月 十 一日には戦闘が始まっていたことが分かる。ただし問問団清一 氏は、元弘三年の十月段階から既に合戦が行われていた可能 性 を 指 摘 し て い る 。 す な わ ち 、 建 武 二 年 ( 一 三 一 一 一 五 ) 八 月 七 日付、曾我貞光知行分社寺注文案(﹃南北﹄一一五九)に よ れ ば 、 元 弘 一 一 一 年 十 月 三 日 夜 に 、 平 賀 郡 岩 楯 村 内 の 放 光 寺 と 大平賀郷内の地球蛍の知行を安堵した﹁御下文﹂が焼失して いるが、これが戦火によるものであったとするとその様に推 測出来るのである。その後、傍線部門A
︼ 、 ︻C
︼から、翌四 年正月一円師、八日と合戦が行われていることが分かり、手負 注文が作成されたのが十羽であるから、正月八日の戦闘でほ ぼ合戦が終結したと思われる。 で は 次 に 、 山 山 柄 引 側 か ら の 北 条 余 党 の 津 軽 乱 入 に つ い て 見 て み よ う 。 ︹ 史 料2
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元 弘 四 年 二 月 日 、 曾 我 光 高 山 中 状 案 ( 町 南 北 ﹄ 五 二 ) 曾我太郎光高約九謹言上 欲 下 早ι
比 二 重 代 抑 制 伝 知 行 一 、 被 レ 成 ニ l 下安堵悶骨子、 備一一色鋭一、津戦平賀郡内岩織大平賀沼栃村々、 弁奥州名取郡四郎丸郷内若限郎名等、 4 4 ニ 所 領 一 、 弥 拙 t 一 一 合 戦 忠 助 一 本 悶進 一 巻 代 々 先 制 御 下 文 弁 外 題 仙 寺 一一通波状弁系図 右、岩楯大平賀村々者、重代相伝所館、知行子レ今 無一一相違⋮。次招楯村者、光商親父曾我左衛門太郎入道 ︹ 光 翻 ︺ 光 称 、 自 二 子 息 余 一 資 光 許 一 被 一 一 線 与 一 、 多 年 知 行 無 ニ 相 違一。次四郎丸郷内若四郎名者、令レ荒ニ L 除 問 地 一 、 離 レ 為ニ数ヶ年畠均六光商品問祖父宝治合戦勲功一所領随一 也。市当知行子レ今無ニ相違一。愛津軽大光寺合戦時、光利説明劃明創出掛川捌寸判矧判制刻町制州制判樹
新友噺判謝 dw 吟 レ 訓 明 日 一 i 進手負交名一処、如ニ返答一者、在 悶 合 戦 奉 行 人 令 レ 進 一 一 覧 注 進 刊 之 持 、 可 レ 令 レ 倣 ニ ム 堪 手 負 波 文 一 之 由 申 、 被 レ 返 一 一 彼 手 負 交 名 目 安 之 一 了 。 附 叫 而 朝 敵 余 党 人 仙 寺 、 小 鹿 納 腕 弁 秋 田 誠 一 院 側 築 二 所 々 一 、 一 吋 レ 乱 ニ l 入津 軽中一之由、有ニ其聞}之問、問中給主御家人令ニ集 会 一 、 大 河 が 郷 ト 之 為 一 一 妨 戦 一 、 令 レ 相 一 一 l 待凶徒一之由、承 及之上者、可レ然者、被レ成一一下安培殴笈一、金一一所領 司 、 弥 為 レ 抽 一 一 合 戦 忠 勤 ⋮ 。 恐 々 粗 畳 一 口 上 如 レ 件 。 元弘四年二月 日 この史料は、曾我光高が自らの所領の安堵を求めて作成した ものであるが、大光寺楯合戦の翌月に作成されており、本文 中でも河合戦に触れている。従って、ここに記された﹁朝敵 余党人等が小鹿島(男鹿半島)や秋田城に楯を築いて洋経に 乱入しようとしている﹂という動きは、大光寺楯合戦後問問も な い 頃 の も の で あ る 。 このことから、娘測の域は出ないが、間合戦とこの動きと の関係について次の様な可能性を指摘できよう。﹁小鹿烏﹂ ﹁秋田城﹂などの北条余党は、大光寺栂合戦における幕府方 の敗北を見、背後の津経を脅かされることを恐れてこの地の 合験への介入を始めたのではないか、と。 7
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石河栃合戦の勃発まで 次に、北条余党の津軽乱入後、石河栃合戦の勃発に至るま で の 過 程 に つ い て 考 え る 。 先行研究の多くは、先の大光寺栃合戦の敗兵が石河楯に移 って戦ったと考えていた。また④焼防説は、出羽の北条余党 が洋経に乱入し、大光寺の敗兵に合流して石河楯合戦を引き 起こしたとしている。果たしてそうした関係は見られるの か。まずは石河楯合戦の発端から見てみよう。 筆者が、石河楯合戦を惹起した原因と考えているのは、品自 我光高とその叔父余次(二)経光との践の平賀郡大平賀郷を めぐる所領相論である。次の史料は、史料l
の紙背に記され たもので、大光寺楯合戦の前後から光高が叔父の経光との聞 に所領結論を娘えていたことが分かる。 門 史 料3
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年月日欠、曾我乙丸代恵藤孫三郎為円申状土代 ( ﹃ 南 北 ﹄ 一 一 ニ 九 ) 曾我乙丸代怒燦孫三郎入道為門謎汀川川川川 同 欲 早 叔 父 余 次 経 光 掠 給 安 出 世 門 川 川 ハ ハ 津軽平賀郡内大平賀郷附事 布 於 ニ 乙 丸 } 者 、 相 二 副 重 代 手 継 証 文 等 一 門 川 川 川 LA 後 来 U 叫 川 竹 内 川 け け け 光 信 設 ニ 与 亡 父 肉 太 郊 入 道 光 称 一 部 阻 わ い い け 口口日米曾有次第口手経光円川川け 絞 口 口 問 弐 丁 在 家 一 一 一 宇 是 也 。 商 関 門 什 什 ハ ハ 剰 自 ニ 光 称 許 一 経 光 仁 、 回 一 丁 進 給 門 川 ハ ハ 川 大平賀郷銃部正之条、頗好謀也。所設打ハけ 復 光 任 一 一 亡 父 光 称 等 液 状 ⋮ 、 如 レ 元 帰 賜 門 川 け け 石河機合戦勃発へと至る過糧を考える上で、光高が、武力開削 争へと発展しかねないこのような火額を抱えていたことをまず押さえておく必嬰がある。 この所領相論はやがて経光の大平賀郷乱入という事態に発 展するが、その契機となったと考えられるのは、大光寺楯合 戦ののち光高が取ったある行動である。それについて記した 史料が前掲史料 2 と 次 の 史 料 で あ る 。 合我光商申状案 ( ﹃ 南 北 ﹄ [ 史 料
4
︺ 元 弘 四 年 二 月 日 、 五 三 ) 議 刊 の あ ん と の 国 せ ん 山 中 状 あ ん ﹂ 曾我太郎光潟凶炉設言上 欲下問T
ι
比 一 一 重 代 棺 伝 当 知 行 国 間 一 、 且 依 一 一 合 戦 忠 勤 二 被 レ 成 二 l 下安堵園出五九津軽平交郡内大平到。岩栃沼 栃羽喝品川端羽嚇洗嚇内法咽嚇哨 A 司、全ニ所領二弥抽中 合 戦 忠 勤 丸 事 剖 進 一巻代々先御下文弁外題等 二通談状弁系図 右、大平料品山右楯村々者、重代初伝所領、当知行子レ今 畑山一一相述、次沼楯村者、光高親父曾我左衛門太郎入道 た 制 ︼ 光 称 、 自 二 子 息 余 一 資 光 許 一 被 一 一 級 与 一 、 多 年 知 行 無 二 相 違 一 。 議 境 調 諸 君 端 、 冷 レ 品 切 一 味 咽 地 一 、 嚇 レ 鳴 ︼ 一 品 引 け 咋 噛 判 二 北 浦 噌 唱 叶 司 法 品 川 崎 峨 執 効 羽 根 判 明 い 池 。 調 川 当 吻 戸 W 4リ レ 吟 湘 議 。 安 洋 戦 大 光 寺 合 戦 、 光 市 川 川 引 等 数 議 負レ手被レ耐師、半死半生之問、合戦奉行人目 T 河禅門弁 除 問 続 開 相 共 、 同 所 設 一 一 煉 安 一 之 閥 、 記 ニ l 載 注 進 之 状 一 上 、 守 二 l 談 凶 徒 話 人 一 令 一 一 参 上 一 之 上 者 、 仰 二 上 裁 一 、 可レ然者、於ニ所領一者、重一代当知行之上者、下一賜安 堵 国 笠 二 為 レ 会 一 一 一 所 領 一 。 恐 々 品 寸 一 間 上 如 レ 件 。 元 弘 閉 年 一 一 月 日 史 料2
と史料4
の傍線部は、いずれも大光寺楯合戦後の光筒 の動きについて記しているが、内容に迷いが見られる。これ をどう解釈すべきであろうか。まず両通の史料の日付はいず れも大光寺楯合戦の翌月のものであるので、これらの文設は 合戦終結後ほどなくして作成されたと考えられる。従ってこ こに記された合戦後の光高の励きも、ほほ文沼作成時のリア ルタイムなものである可能性が高い。そうだとするとこつの 記述に違いが見られるのは、二遜の史料は多少の時間差を股 いて作成されており、その間にあった状況の変化がそのまま 記述に反映されているからではないだろうか。 そこで二週の史料を見比べてみると、史料4
には史料2
の 本文を修正した附刷所が見られ、史料2
を推紋したものが史料4
であると考えられる。つまり史料2
が先、史料4
が後に記 されたのである。以上のことを考隠して、一一つの記述から合戦後の光高の動きを解釈すれば次のようになろう。 大光寺楯合戦ののち、脅我光高は自らの家子・若党らの手 負 等 を 記 し た ﹁ 正 予 負 交 名 目 安 ﹂ を 国 府 一 一 一 番 引 付 安 威 左 衛 門 尉 方に提出した。ところが﹁在国合戦奉行人﹂を通して提出せ よと返却されてしまう。その後光高は、小鹿島や秩悶滅の朝 敵余党人らが津軽に乱入しようとしているという風聞がある ので、津軽中の給主・御家人等を大阿保(大鰐)郷に集結さ 一 泊 v せ、これに備えさせるとの命を受けた。そこで光高は、先に 返却されてしまった﹁手負交名目安﹂を指示通り合戦奉行人 早河禅門を過して提出すると、﹁凶徒召人﹂(大光寺楯合戦の 降人か)を護送して大阿保まで参上した。 ここで注目したいのは、大光寺楯合戦の直後、光高が自ら の本拠地を離れて大阿が(大畑町)まで出向いているというこ とである。経光は、この光潟の大鰐当参の隙をついて大平賀 郷内の光高所領に乱入したものと見られる。 司 自 〔 曾 「 占 史 差 欲 我 w ! 潟 』 料 ニド骨密~_ 5 闘争係主 I~ 御 一 光 一 五 建
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所 設 被 レ 差 一 一 在 国 御 使 ↑ 、 一 再 二 郷 内 百 姓 等 物 共 一 、 云 一 一 光 商 財 宝 仙 守 一 、 令 二 札 返 ⋮ 之 後 、 光 古 川 所 領 中 、 被 レ 追 一 一 出 経 光 己 下 従 類 ︽ ↑ 小 企 等 一 、 金 二 所 掘 調 一 、 致 一 一 経 光 罪 科 一 者 、 為 一 一 向 後 一 仰 二 上 裁 一 。 仰 恐 々 言 上 如 レ 件 。 建 武 一 五 年 一 一 一 月 日 恐らくこの経光との争いがやがて布河繍合戦に発展したもの と考えられる。それは、合戦の後光潟が提出した次の合戦注 文を見れば明らかである。 [ 史 料6
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曾我太郎光高五月日一白石河合戦事 分取頭 安 五 郎 六 郎 頭 、 間 矧 叫 凶 川 品 川M
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曾我彦三郎以 同 与 次 若 党 政 、 R H J 一 体 河 次 郎 一 ( ﹃ 南 北 ﹄ 曾我光高合戦注文1
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右 、 合 戦 注 文 如 レ 件 。 建 武 一 克 年 六 月 日 史料中の﹁曾我与次﹂は品目我余次(二)経光と伺人と考えら れる。これを見れば、合我彦三郎と名の知れないこ名を除く と、この合戦で光寸前の認が討ち取った相手は全て経光の若 党中間であったことが分かる。この合戦はあくまで光高と 経光の対決であったのだ。 以上のように合戦勃発に歪るまでの過程を数理してみる と、先行研究がさしたる根拠なく説明してきた、大光寺の敗 兵が石河械に総って戦ったという関係は読み取ることが出来 ない。また、﹁小鹿島秋田誠﹂の北条余党が洋経に乱入し、 津軽の旧幕府方と合流することで石河栃合戦を引き起こした という関係も見られない。石河楯合戦は、大光寺楯合戦、そ して出羽からの北条余党の乱入という混乱状況の中で品目我光 高が自らの本拠地を不在にしたため、かねてより抱えていた 叔 父 経 光 と の 一 政 相 聞 相 論 が 表 街 化 し た も の な の で あ る 。 仙川石河楯合戦と持容城合戦の関係 次に、石開門楯合戦の終結から持容城合戦の勃発に歪るまで の過程について分析する。先行研究では石河栂の敗兵が持寄 械に移ったと考えていた。こうした捉え方が妥当なのか検討 し て み よ う 。 雨合戦の関係を端的に示しているのが次の史料である。 [ 史 料7
]
(
建武元年カ)六月十二日、北向曲顕家御数議 ( ﹃ 南 北 ﹄ 一 ー l 七 一 一 ) ( 品 問 的 ) 一津艇事、石川楯無為資柑階段。目出候。持寄域紛諮無二 御心元一候。尤被レ打ニ向彼域一之条、雌レ可レ玄、郡内 事 、 無 二 左 右 一 、 又 難 レ 被 レ 閣 之 問 、 米 レ 被 レ 仰 候 也 。 ロ 品 可 レ 被 レ 随 ニ 事 体 一 鍬 。 中 条 ニ ハ 早 可 レ 向 之 街 、 被 レ 仰 了 。 ( 後 略 ) この史料は、陸奥守北品顕中部から糠部郡奉行南部師行に宛て ︽ 円 カ v られたものである。文叡聞頭に﹁ロレ是態欲レ被レ仰之処、 条々注進之越、具披露間半﹂とあることから、本史料は、これ より先に南部師行から陸奥飼府に対して﹁条々﹂の注進があり、それに対して逐一指示を与えたものであったと考えられ る。文中の﹁都内﹂とは、津軽のことではなく師行のいる糠 部 郡 を 指 す 。 さて、本史料によれば石河栃合戦が終結した時点ですでに 持寄城合戦は始まっており、石河楯陥落以前、阿合戦は問時 ( 幻 ︼ 並行で戦われていたことになる。そうであれば石河楯の敗残 兵が持寄城に集結したという理解は成り立たなくなる。 では史料
7
に見える石湾精の陥洛とはいつのことで、持容 城ではそれ以前のいつ頃から戦闘が行われていたと考えられ る の か 。 史 料7
の石河栃落城は、史料6
に記された五月二十一日の 戦闘によるものであろう。従って持容械における戦闘はこれ 以前からということになるが、その具体的時期については判 然 と し な い 。 ただ、その一つのg
安となると考えられるのが、建武元年 四月以降、陸奥図府が各地の有力武士を次々と洋経に派遣し ていることだ。まず閏月十三日以前に多聞貞織が派巡されて ︽ n v おり、ついで史料7
に見えるように六月十二日以前に中条時 長 が 巡 わ さ れ 、 八 月 に は 時 間 奥 守 北 島 田 畑 家 自 身 の 下 向 が 計 画 さ れ、八月二日以降に鯨問乗降、八月六日に伊賀盛光同光俊 代官小河時長、九月二呂以降に大河戸隆行が下向している。 このうち中条時長と伊賀盛光小河時長については持寄城鋭 定のために派遣されたことが史料の記述から明確に分かる。 そして、彼らより後に下向した鯨同乗隆と大河戸際行は、そ れ ぞ れ ﹁ 為 一 一 津 軽 凶 徒 追 罰 一 ﹂ ﹁ 津 軽 凶 徒 来 一 一 静 諮 一 之 附 ﹂ 派 巡されているが、この﹁津軽凶徒﹂は持寄城の﹁凶徒﹂と考 えて間迷いあるまい。よって少なくとも中条時長以鋒の津軽 下向は持寄城平定のためであったと考えてよい。 問題はそれより前の多国貞綱である。貞抑制が津経に下向し { " と たのは﹁為一一朝敵追罰乙であった。この﹁朝敵﹂が持寄城 のものであるという明確な根拠はないが、点制酬が下向した四 月十三日以前は、既に大光寺楯合戦は終結しており、また石 河楯合戦が始まっていたという史料的被拠もない。従って、 持寄城の﹁朝敵追閉山﹂のためであったと一応見なせるのでは ないか。そうであったとすれば持寄滅合戦は四月ころには始 ま っ て い た こ と に な る 。 以上をまとめておこう。石海楯合戦と持寄城合戦の関係 は、前者が五月二十一日の戦闘で楯が陥移して終結したのに 対し、後者はこれよりも前(湖沼頃か)から既に合戦が始ま っている。従って二件の合戦の聞に先行研究が説明するよう な単純な連続関係を想定することは困難である。 川大光寺楯合戦と持容城合戦の関係 ここまでの考察で、一二件の合戦の内、最初に勃発した大光寺楯合戦と二番目に起こった石河栃合戦との問、そして二番 目の石河栃合戦と絞後に起こった持寄城合戦との聞には直接 的な連統関係が認められないことが分かった。そこで本郊で は、最初の大光寺繍合戦と絞後の持容城合戦の関係について 考察する。これは、三件の合戦を一巡の流れとして捉えてい た先行研究においては分析されていない点である。 まず、大光寺機合戦の期末から確認しておく。
ω
で見たよ うに、同合戦は元弘一二年十月ころから戦協が行われていた可 能性があり、その後十二月十一日、翌問年正月一日、八日と 合戦が行われ、正月八日の戦闘でほぼ合戦が終結した。 その後悼付帯域合戦の開始に至るわけであるが、前述したよ うに向合戦の間開始時期を明確に特定することは出来ない。そ こでその終結から確認しておく。それを示すのが次の史料で あ る 。 [ 史 料8
︺ 建 武 一 苅 年 十 二 月 日 、 伊 賀 光 俊 軍 忠 状 ( ﹃ 南 北 ﹄ 一 一 一 一 ) 合戦目安 脱出奥国岩城郡好嶋庄西方御家人伊奴式部次郎光俊、差ニ ム 地 代 官 小 河 又 次 郎 時 長 一 、 相 ニ 1 伴 惣 領 伊 賀 一 ニ 郎 撚 光 一 、創
川
別
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則
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1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 I l l i -L 仰 陥 ト i l i l i l i -l i l i -種 々 致 ニ 合 戦 一 上 、 同 九 月 壮 三 潟 一 一 忠 節 一 、 於 ご 翌 日 廿 四 民 合 戦 ⋮ 者 、 捨 ニ 身 命 ⋮ 致 一 一 忠 節 ⋮ 誌 。 然 後 室 二 十 一 月 十 九 日 御 合 戦 之 訪 問 居 一 、 致 ニ 勤 町 中 一 抽 一 一 軍 忠 一 之 上 者 、 争 可 レ 不 レ 被 一 一 党 翫 一 掃 J 。 然 早 賜 一 一 細 川 判 一 為 レ 俄 ニ 後 証 一 。 何 回 安 吉 田 上 如 レ 件 。 建武元年十二月 日 ﹁ 科 刊 ド ハ 仇 内 出 副 什 ) ﹂ これによれば建武元年十一月十九日に合戦が終息したことが 分かる。そしてこれは具体的には北条氏一族の名越時如と秋 内 初 ︼ 回域介安達占対策の降伏によってもたらされたものであった。 ︹ 史 料9
︺ ﹃ 元 弘 日 記 談 話 ﹄ ( ﹃ 群 刑 制 類 従 ﹄ 第 二 十 五 純 雑 部 ) 今年特(中略)十一月、洋経凶徒時如商品品以下京レ手 乞 レ 降 。 この事実から、持容城合戦は秋田城介らを首班として結集し たものだったことが分かる。 ここで思い出されるのは、大光寺楯合戦の後、﹁小鹿島﹂ や﹁秋郎城﹂の北条余党が津軽に乱入を謀ったことである。 この動きは、秩田城介安達官同長らの動向だったと見てまず問 迷いあるまい。つまり、大光寺楯合戦後に津軽に乱入を謀っ た防羽の北条余党らが、扱終的には持寄械に終結したと考えら れ る の で あ る 。 以上の考祭内容と
ω
から、二件の合戦の関係を次のように 推拠出来よう。大光寺楯合戦の終結後、安達商長名越時如 ら出羽の北条氏勢力は、向合戦における幕府方の敗北を見、 背後の体阪を脅かされることを恐れてこの地の合戦への介入 を始めた。そしてい拘禁らのこうした動きと、大光寺栃合戦の 波残兵が結びつき、やがて持容城合戦に発展していった。 13 同 州 h d 括 以 上ω
から川刊の考察結果を踏まえて、一ニ件の合戦の相互関 係についての見通しをまとめておく。 当該矧の一一一件の合戦について、従来の説では大光寺の敗兵 が石河栃へ、石河楯の敗兵が持寄城へ移るという連続附関係で 捉えていた。また、出羽からの北条余党の介入については、 彼らが律相批の北条余党に合流して石河楯合戦を引き起こし、 これら石市内楯の敗兵が持寄城に移るという見方が存在した。 しかし、先の合戦からつぎの合戦へと至る過程を仔織に分析 すると、連続関係が認められるのは大光寺←出羽からの乱入 ←持容という流れにおいてのみである。その怒味するところ は、大光寺栂合戦から持寄城合戦へと至る過程が津軽合戦の 大勢をなす一連の流れであり、これに対して石河繍合戦はそ の途中で付属的に発生した品目我氏内部の私戦的性絡のもので あったと考えられる。 川一一一件の合戦の規模の比較 そこで次にこの見通しをより強固なものにするため、一一一併 の合戦の規模の比較を行う。具体的には、まず各合戦に動員 された兵力を比較し、次に合戦の戦闘期間の比較を行う。こ れまでの考察結果が正しければ、津軽全土を巻き込んだ侶幕 府方と新政権方の戦いである大光寺綴合戦と持寄城合戦は規 模が大きく、曾我氏内部の私戦的性格が強い石河繍合戦は規 模が小さいはずである。 まずは兵力の比鮫を行う。これについて厳密な兵数を出す ことは不可能であるので、各合戦に関与したと見られる人物 を列挙する方法をとる。 まず大光寺楯合戦から始める。この合戦で陸奥国府側の兵 と戦った棺手の名を史料から知ることは出来ない。そこで国 府側の人物について見ると、史料上この合戦への関与が認め ( 却 } ︻ 初 V られる人物は、曾我光寸前、安藤高季、工膝貞行などの津軽の { 訓 V 戸 松 V 有力武士、尾張部正友絡門別刷、合戦奉行早出内禅門、南奥岩城 A n ︺ 郡好嶋茂の武士伊賀盛光らが確認される。これを見れば、津 軽の有力武士に加えて南奥からも兵力が動員されており、か なりの軍勢が投入されたであろうことが綴われる。 持容滅合戦はこれ以上である。先に見たように、陵爽隈府1
4
は建武一苅年四月以降、各地の有力武士を続々と津軽に下向さ せており、その多くは持寄城平定のために派巡されたと考え られる。また間合戦には合戦終了後に作成された﹁津軽降人 交名注進状案﹂(﹃南北﹄一一一九)がある。ここには五十 三人の降人とその細川人二十一人が記されており、品目我氏工 藤氏・安藤氏など津軽の有力氏族が分裂して戦った状況が綴 われ、同合戦に動員された兵力の大規模さを伝えている。 一方の石河楯合戦であるが、史料6
を見れば分かるよう に、品目我光商経光とそれぞれの家人の他には、平賀茶の関 与が認められるのみである。 次に各合戦の戦闘期間の比較を行う。 まず大光寺楯合戦の戦闘期間について。すでに何度か述べ たが、同合戦は元弘三年十月ころから戦闘が始まっていた可 能 性 が あ り 、 翌 年 正 月 八 日 に 終 息 し て い る 。 従 っ て 一 一 一 か 月 程 度の合戦であったことになる。 次に持寄滅合戦の戦闘期間について。先に見たように間合 戦は建武元年五月二十一日の石河楯陥落以前から戦闘が行わ れていたと考えられ、十一月十九日に終息している。従って 六カ月以上にも渉る長期戦であった。 一方石河楯合戦は、史料上確認出来る毅初の戦協が限月十 一 一 一 日 の も の で あ る か ら ( 史 料6
)
、これ以降五月二十一日ま で と な る と 、 一 か 同 月 強 と い う こ と に な る 。 以 上 合 戦 の 動 員 兵 力 と 戦 闘 期 間 と い う 二 つ の 観 点 か ら 一 一 一 件 の合戦の焼般を比較したが、本節閏闘頭で述べた見通し通り大 光寺楯合戦・持容域合戦は大規模であり、石河楯合戦は小規 模であった。つまり、大光寺栂合戦持容滅合戦が津軽合戦 の本流であり、石河栃合戦はその途中で発生した曾我氏内部 の私戦という見通しは、合戦の続税という観点からも支持さ れ る の で あ る 。 凶 石河楯合戦の性格について さ て 、 前 章 ま で の 考 察 で 、 一 一 一 仰 の 合 戦 の 相 互 関 係 に つ い て の見通しが明らかになったが、まとめへと進む前に触れてお かねばならない問題がある。それは、石河楯合戦の性絡規定 に 関 す る 間 同 題 で あ る 。 前章で筆者は、石河機合戦を津軽合戦の本流から外し、こ れを曾我氏内部の私戦的性格のものと佼限付けた。しかし、 すでに引用した史料の中にこの主張にとって都合の悪い史料 が存在するのである。それが史料6
と史料7
で あ る 。 史 料6
は、石河楯合戦終結後に曾我光高が提出した寧忠状 であり、恐らく本文中に見える﹁御奉行平賀﹂のような津軽 現地で活動していた合戦奉行人に出されたものであろう。そ して史料7
を見ると、合戦が終了した翠月には陵奥悶府側で 河合戦について抱握しており、しかもその終息について﹁目出侠﹂と述べている。つまり、史料
6
で 光 寸 前 が 行 っ た 注 進 は、最終的には陸奥悶府に遥せられたのであり、しかも陸奥 国 府 は 河 合 戦 が 終 息 し た こ と を ・ 一 向 く 評 価 し て い る の で あ る 。 石河柑合戦が骨我氏内部の私戦に過ぎないならば、軍忠状が 提出されるというのは不自然であるし、まして悶府が合戦終 結を﹁目出候﹂などと祝福することがあるであろうか。 この問題については一応次のように考えている。体較の様 な迷隔地の場合特にそうであったと忠われるが、陵奥悶府は 現地の詳しい事情までは把握していなかったのではないか。 そして曾我光高はそれを利用して、本来所領相論の相手を倒 したに過ぎない石河楯合戦を、悶府への反抗勢力を倒した勲 功として陸奥国府に伝えようとしていたのではないか、と。 つまり、率忠状の提出は、石河繍合戦をそうした勲功として 粉飾して国府に伝えるために行ったことであり、国府が合戦 終結を祝しているのは、光高のその様な工作がある程度成功 していたことを示すものと考えたいのである。 陸奥劉府が在地の詳織まで畑山援していなかったことは、史 料7
でも一部引用した南部師行宛て北翁顕家御教翠に見える 次 の 記 述 か ら 明 ら か で あ る 。 [ 史 料ω ]
(
建武元年カ)六月十二日、北畠顕家御教設 (﹃市問北﹄一l
七 二 ) ( 前 略 ) 去 春 ハ 、 偏 被 レ 任 一 一 御 使 注 進 一 之 閥 、 実 又 参 差 御沙汰も候つらん。然布地下事、いかにとして委細ハ 被 一 一 知 食 一 候 は ん そ 。 一 往 先 被 レ 任 ニ 御 使 注 進 一 て 、 有 一 一 懇 申 之 品 輸 一 者 、 可 レ 被 レ 改 。 ( 後 略 ) まず前半部分で﹁去る春は専ら御使(糠部郡奉行南部削行) からの注進を受け、それをそのまま承認する形で沙汰を行っ ていたので、実際には相互に矛盾するような沙汰もあっただ ろう。しかし在地の詳締まで閤府側でどうやって把握したら よいのか﹂と述べており、ここから罰府が在地の詳しい事情 までは犯援しきれていなかったことが分かる。 なお後半部分では、﹁(闘府側で在地の詳細まで把握できな いので)ひとまず御使からの注進に任せて沙汰を行い、(そ の上で﹁参羨御沙汰﹂が生じるなどして)切実に訴え出てく る者がいたら、先の沙汰を改める﹂と述べており、﹁参差御 沙汰﹂が生じた場合にある種の﹁再審議求﹂を認めていたこ と が 分 か る 。 突は品目我光高は石河楯合戦の翌月、この﹁再審議求﹂を利 用して、先に﹁安堵悶宣﹂を得たにも拘わらず別人に与えら れてしまった所領の還付を求めているのだが、その待相提出し た申状に、石河楯合戦を自らの勲功として図府に伝えようと する光高の意識を読み取り得る記述がある。1
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︹史料日︺建武元年六月日、曾我光筒申状案︿﹃南北﹄ 七 六 ) 曾我太郎光町削謹言上 欲 ド 早 仰 一 一 御 善 政 一 、 霊 山 袋 小 御 下 知 人 先 度 下 一 一 ; 叩 悶 悶 ( 百 出瓦一安堵地内所領、以ニ津軽平賀郡内沼楯村二被レ奇 日 一 l 附安保弥五郎入道一問事 副進 一 通 悶 宣 安 堵 案 右 、 於 一 一 沼 楯 村 一 者 、 為 一 一 議 代 相 伝 所 領 一 之 問 、 依 レ 無 二 当 知行初途一、下二 l 賜安堵殴出品⋮上者、被レ付二別人一之 条 、 不 使 次 第 也 。 凡 光 高 者 、 一 五 一 一 也 絡 相 伝 当 知 行 一 、 一 百 一 一 刻 沼 新 寸 刻 州 矧 咽 劇 ぺ 、 方 々 難 レ 被 レ 目 前 日 一 置 理 訴 一 。 WWM 附 無 二 御 信 用 一 、 於 ニ 弓 箭 家 一 失 一 一 一 曲 目 一 者 山 唱 。 然 早 重 下 一 一 l ヲ 沼 野 } 賜安堵間出向具一、弥為レ令レ致一一合戦一。恐懐雪国上如レ h f 建武元年六月 日 一七七) [ 品,;;::史 光 欲 義 ぬ 話 料 ま当12 可 下 太代宅郎た〕
守 室 主 ヰ て 年 ー や の 月日
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ん 状 τz: L.. W 難 堵 常 に 剛 司訟岩
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』 A 出 弥 子 五 上 郎 者 入 、 道方一事 副進 一 通 閑 寂 室 右、津軽平賀郡於ニ大平賀山右楯沼楯村々一者、申ニ代 々相伝当知行一、申一一大光寺合戦忠勤六下二 i 賜安堵紛 旨国宣一事明白也。然安保弥五郎入道、被レ行一一大光寺 合戦忠賞一時、光潟当知行内招栃村、号ニ関所一申ニー賜 闘宣一事、無レ術次第也。所設為ニ打渡御使一上者、進ニ 路国宣案一者也。然者於ニ当村}者、難レ打ニ l 波 之 一 鍬 。 旦 為 レ 内 清 一 一 刑 判 裁 許 一 。 仰 恐 々 己 中 日 上 如 レ 件 。 悶じ案件について述べた若干内容を異にする文怒がニ通存在 するが、史料はは﹁為ニ打渡御使一上者、進目寸悶悶宜案一者 也﹂とあるので安保弥五郎に沼楯村を打渡しにやって来た ﹁御使﹂に対し提出されたものであると分かる。一方史料日 はお止文言が﹁恐抽出言上﹂と史料ロよりも厚礼であるので、 より上位者に提出されたものであることが分かる。それはど こかと皆問えば、注進内容が﹁震予一一一賜安堵劉宣一﹂ること であることからすると、陸奥国府であると考えるのが自然で あ る 。 ここで注目したいのは、現地の奉行人に対して提出した史 料はでは、所領巡付の恨拠となる勲功として﹁大光寺合戦忠勤﹂しか載せていないのに対し、陵奥国府に提出した史料日 では﹁大光寺石河等家出血﹂と両方を載せている点である。 ここに、現地の事情をよく知った奉行人に対しては石河楯合 戦を勲功として用いることが出来ないのに対し、在地の詳細 まで知らない間府に対してはそれが可能であるという光潟の 恕識を読み取ることも出来るのではないだろうか。 よって前述したように、史料
6
の よ う な 軍 忠 状 の 提 出 は 、 そうした意識に基づいて石河楯合戦を勲功として粉飾サるた めに行った行為であり、史料7
で国府が合戦終結を祝してい るのは、そのような工作がある程度成功していたからである と 考 え た い 。 以上の考察から、一見都合の怒い史料6
や史料7
の 存 在 に も拘わらず、石河櫛合戦は、やはり所領相論に端を発する品目 我氏内郊の私戦と見なせるものと考える。 五 まとめと今後の課題 これまでの考察に基づき、抑謀者なりの洋経合戦の政治過程 の叙述を行い全体のまとめとする。ついで本稿で論じ残した 問題を指摘し、今後の課題として提示してむすびに縫える。 元 弘 一 一 一 年 五 月 に 鎌 倉 幕 府 が 滅 亡 す る と 、 陸 奥 守 に 任 じ ら れ た北畠顕家とその父親一肢は、義良親王とともに奥州に派遣さ れ、陸奥底府は建武政権の怒援するところとなった。 しかし津軽地方ではこれ以降も新政権に対する低抗が統い た 。 ま ず 元 弘 一 一 一 年 か ら 閏 年 初 め に か け て 平 賀 郡 の 大 光 寺 楯 を 鉾台に合戦が行われた。陵奥閤府は曾我氏工藤氏'安藤氏 など津軽の有力氏族に加えて潟奥からも兵力を動員して当城 を 攻 め 、 一 克 弘 四 年 正 月 八 日 の 戦 闘 で ほ ぼ 合 戦 は 終 了 し た 。 翌二月、この大光守楯における幕府方の敗北を受け、出現 の旧幕府勢力が動き出す。北条氏一族の名越時加と秋悶城介 安迷筒景らを品目班とする鍛勢は、小鹿島や秋剖城に楯を築き 津経への乱入を謀る。これに対し陸奥闘府側は大阿が(大鰐) に 津 軽 中 の ﹁ 給 主 御 家 人 ﹂ ら を 終 結 さ せ 、 こ れ に 備 え さ せ た 。 その後詳細は不明であるが、時如高裁らの鍛勢は殺終的に 奥和郡の持寄城に集結し、これに先の大光寺の敗残兵等も加 わり、おそらく建武元年の四月から五月頃までには持容城に お い て 戦 闘 が 始 ま る 。 以後河械における合戦は長期戦となり、陸奥閤府は各地の 有力武士を次々と津軽に下して陀城を平定させようとする。 この間八月には北畠顕家自身の洋経下向も計劉されている。 こうした努力の甲斐あって、十一月にはようやく反乱啄の 大将時如吉川公らが降伏し、同城における戦闘は終結し、津 躍の戦乱はひとまず終息する。 なおこうした動乱状況は、当地の領主が抱えていた矛盾を 表面化させる契機にもなった。その具体例が曾我光潟のんや例である。骨我光高は平賀郡の大平賀郷や場楯郷の領主である が、かねてより叔父の経光との聞に大平賀郷をめぐる所領相 論 を 抱 え て い た 。 大光寺の戦闘に参加した光高は、合戦終結の後、出羽から の北条余光乱入の動きと、これに鍛えるために津軽中の﹁給 主御家人﹂を大阿保に集結させるという動きが起こると、こ れに応じて大光寺の降人を談送しつつ自らも大河係まで参上 した。ところがこの隙をついて経光は大平賀郷内の光潟所領 に乱入し、﹁御年貢銭伯余震文﹂などを奪い取るという行為 に 及 ん だ 。 建 武 元 年 一 一 一 月 に 光 高 は 申 状 を 提 出 し 、 経 光 を 追 い 出し所領を保全せられんことを乞うているロ しかし巴月十三日、結局この争いは光高│絞光問の戦闘を 惹起し、さらに平賀郡の石湾楯における合戦にまで発問脱す る。そして五月二十一日に光高が石海楯を攻め落とすに及ん で こ の 争 い は 幕 を 閉 じ る 。 以上、津軽合戦の政治過程の推理を延々と行ってきたが、 本秘では津軽合戦を、もっぱら﹁津経における元弘動乱﹂と して扱ってきた。従ってその性格についても、当地における 後醍制方と鎌倉首都府方の戦いという基本的性絡にしか着目し て来なかった。しかし、津軽には、前代から﹁蝦夷管領﹂安 藤氏が派泣され、蝦夷支配の拠点となっていたという注目す べき援史的特殊性がある。﹁蝦夷管領﹂とは鎌倉諮問川の﹁東 爽成敗﹂権を四世地で体現する存在であり、中世悶家編成上非 A 冗抑} 常に重要なものであった。このような洋経の持つ特殊性は、 この地の歴史を考える際に見落としてはならないものであ る。そうした股史的特殊性を視野に入れた時、洋経合戦はど のような戦乱であったと言えるのか、こうした視角も必要で あ っ た と 考 え て い る 。 例えば、津軽合戦は、蝦夷支配の拠点である津軽を巡る新 政権方と旧首都府方の抗争でもあったという見方も出来るかも 知れない。大光寺楯合戦における幕府方の敗北はすぐさま秋 田城介安迷商録らの津軽乱入を招いているが、遠藤鍛氏は、 この事実も一例託として、かつては﹁まったくの空戦﹂﹁単 なる武門名数の峨﹂とされていた鎌倉期の秋田城介が、現実 に秋田城をつうじて蝦夷支配に関わっていたことを論じてい ︹ 担 る。また、秋悶城介らの乱入に対し、陵奥国府側は各地の有 力武士を次々と津軽に派巡し、さらには健闘山守北島駅家の下 向まで計闘しているが、伊藤答良氏によれば、そもそも後醗 測が顕家を奥羽に送り込んだのは、鎌倉末期の﹁蝦爽叛乱﹂ 以来沈静化していない洋経の混乱を鋲め、旧政機の与党を一 揃し、鎌倉幕府の﹁蝦夷管領﹂に代わって﹁蝦夷沙汰﹂を行 { 刊 却 } 使させるためであったという。こうしたことからすると、枠 組仕合戦の政治過程の中に、蝦夷支配の拠点である当地を巡る 陸奥田府対秋田城介の戦いという構図を読み取れるようにも
間 一 ? っ
。
無論、これは現時点での根拠のない深読みに過ぎない。し かし、序論で述べたように、津軽合戦に関する従来の叙述の 殆どが合戦の経過の略述に留まっていたのは、そもそもそれ 以上の深い分析をする程の重要性を認められていなかったか らではないかとも感ずる。このように津軽の持つ歴史的特殊 性も視野に入れて分析することは、津軽合戦に、単なる﹁津 軽における元弘動乱﹂という以上の歴史的議要性を見出すこ とにもつながるのではないだろうか。今後の課題としたい。 19 註 ( l ) 佐藤進一氏は、比尚氏によって陵奥国府に整備された支配体 制を﹁奥州小幕府﹂と呼んだ。佐藤氏は、北畠氏が旧幕府とほ とんど河じ職制を設けていることに注目し、これを﹁陸奥山 羽ニ悶を管轄﹂し、﹁議良を将軍、顕家を執権とする﹂小幕府で あ っ た と し て い る ( 佐 藤 進 一 ﹃ 日 本 の 脱 出 史 9 南 止 似 の 動 乱 ﹄ 中央公論社、一九六五年、問一貰1
四 五 頁 ) 。 ︿ 2 ) こうした陸奥田府の地方支配機構については、遠藤縦﹁建武 政権下の銭奥用問府に闘する一考察﹂(故田武教授還暦記念会縦 吋 岡 本 古 代 ・ 中 世 史 の 地 方 的 股 間 ﹄ 古 川 弘 文 抽 出 、 一 九 七 一 一 一 年 ) 、 同氏﹁南北朝内乱の中で﹂(小林消治大石直正編﹃中世奥羽の 世 界 ﹄ 東 京 大 学 出 版 会 、 一 九 七 八 年 ) な ど 参 照 。 ( 3 ) 地 図 l の郡域の現地比定は、遠藤厳﹁中世初期経奥出務両 悶の郡平保一野(小林法治大石直正純明中世奥羽の枇界﹄ 東京大学出版会、一九七八年﹀による。また、楯の位低比定に は 、 沼 館 愛 一 一 一 ﹃ 枠 組 枇 諸 城 の 研 究 ﹄ 伊 吉 お 脂 、 一 九 八 一 年 、 ﹃ 日 本 歴史地名体系 2 背 森 県 の 地 名 ﹄ 平 凡 社 、 一 九 八 一 一 年 を 参 問 ' し ‘ 一 。 Jh ( 4 ) 官附道生﹃背森県の歴史﹄山川山版社、一九七O
年 。 ( 5 ) 大光寺楯合戦において嫡家大光寺骨我氏と庶子家岩楯骨技氏 が対立したとしているが、これは古くから明確な恨拠なく繰り 返 し 説 か れ て き た 説 で あ る 。 サ な わ ち 骨 我 文 巾 問 中 の 曾 我 氏 系 開 削 (叫す森県史資料編中世 i ﹄ 一 一 一 一 一 一 号 ) に は 惟 泣 系 と 助 光 系 の 一一系統が示されているが、前者の系統が文書からも確認出来る のに対し後者は磁一認出来ないことをもって、助光の系統を、大 光寺を拠点とし北条方についてやがて減ばされた大光寺品目我氏 と恕定したものである。しかしこの説に確たる根拠はなく、大 光寺掘削合戦で河城に拠った者の名も史料上は不明である(小口 雅 史 ﹁ 洋 経 合 我 氏 の 基 礎 的 研 究 ﹂ ﹃ 弘 前 大 学 臨 史 研 究 加 八 九 、 一 九 九O
年 ) 。 ( 6 ) 大光寺機合戦に名越時如。安迷肉筑の介入が見られたとして いる。確かに後に見るように、この阿人の津軽合戦への関与は 史料上確認できる。しかしそれが大光寺栃合戦から始まってい た と い う 根 拠 は な い 。 ( 7 ) 伊 賀 獄 光 の 誤 り で あ ろ う 。 ( 8 ) 問問清一﹁一克弘雄武期の津軽大乱と曽我氏﹂(吋鎌倉幕府と 東 関 ﹄ 統 群 市 計 閉 山 従 完 成 会 、 ニOO
六 年 。 初 出 一 九 九O
年 ) 。 ( 9 ) 附田氏は、敗兵の一部が山辺郡に逃れ山辺郡で合戦が勃発し たとしているが、これは翌建武二年に起こった山辺合戦(﹁建武 二年九月一日、比品凱家御教沼写﹂﹃市化刷迫文京叱編﹄第一2
0
巻一六八号。以下訪問北﹄一 11 一 六 八 の よ う に 帆 明 記 ) を 迎 武 元 年の合戦に混同したものであり、明らかな誤りである。 (叩)問問氏は、﹁小鹿島﹂や﹁秋悶城﹂に楯を築いて沖経に乱入し た﹁叛乱﹂躍は、﹁式部卿宮﹂を推戴していたとする。これは、 元 弘 四 年 二 月 語 、 品 u我光高申状案(のち史料 2 で引用)に見え る出羽からの北糸余党の乱入と、(控武元年ヵ)六月十二日、北 品 開 削 家 御 教 書 ( の ち 史 料 7 、叩で一部引 m m ) に 見 え る 、 ﹁ 外 浜 明 附﹂なる人物が﹁式部卿官﹂を自称する﹁思党人﹂を推戴して いたという記述を結びつけての解釈である。しかしこの一一つの 記 述 を 結 び つ け る 理 由 が 分 か ら ず 、 此 一 一 か 強 引 な 史 料 解 釈 の よ う に 忠 わ れ る 。 (日)感邸稔・長谷川成一総﹃図説苛森県の陛史﹄河出羽房新社、 一九九一年。肉じく小口氏の手になる五所川原市抑制﹃五所川原 市 史 通 史 編 i ﹄ 一 九 九 八 年 の 第 四 綱 、 第 一 訳 、 第 二 郎 の 記 述 、 浪間町史編纂委員会編﹃浪岡町史第一巻﹄一一0
0
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年の第盟 部 、 第 一 一 一 章 、 第 四 節 の 記 述 、 ﹁ 新 編 弘 前 市 史 ﹂ 編 纂 委 只 会 縦 ﹃ 新 編弘前市史﹄通史編 l ( 古 代 ・ 中 世 ) 一 一OO
三年の第問章、第 二 節 、 第 八 項 の 記 述 も 殆 ど 河 じ 。 ( ロ ) 波 乱 削 勝 一 一 一 編 ﹃ 市 消 村 史 鈎 弐 務 ﹄ 一 九 九 六 年 。 (日)便宜上イ、口、ハ、ニの閲段に分けて説明したが、原文を見 るとイの部分とハニの部分がそれぞれ一つの段絡を構成して おり、ロの部分は独自の段落としてその問に押入されるように 配 位 さ れ て い る 。 (日比)本史料の他に、ほぽ向内容だが全文漢文体のものがもう一通 存 在 す る ( 吋 南 北 ﹄ 一 ー ー 一 ニ 入 ) 。 ま た 、 京 大 史 料 編 纂 所 架 践 の 彬 写本﹃南部家文怒﹄には、これら二通の他に本史料とほぼ向文 の文部がさらにこ通収録されており、同内務の文叫が余部で問 v接骨在することになる(外山室生﹁合我光高叔父光経の大平賀 郷 抑 領 ﹂ ﹃ 弘 前 大 学 悶 史 研 究 ﹄ 一O
四、一九九八年三これら問 通の文訟の関係については未考。なお、本摘において以下で引 用する古文おは、法本的には﹃溺北朝遺文京北編﹄に拠って いるが、向時に吋行森田附史資料編中位lhとの比較を行い、 文字の異同がある場合には、写真などで硲認出来たものに関し て は 字 を 改 め た 筒 所 が あ る 。 ( 日 ) 設 8 前 掲 附 田 氏 論 文 一 一 一 七 九 頁 。 ︿日)岡田消一氏は、﹁御下文﹂ではなく放光寺や地球堂が焼失した と解し、大光守楯だけでなく税制村や大平賀郷を含めた広範聞 で合戦が行われたと推測しているが、史料を素直に読めば焼失 し た の は ﹁ 御 下 文 ﹂ で あ る 。 ( げ ﹀ 本 史 料 は 過 去 の 史 料 集 に は 採 録 さ れ て お ら ず 、 吋 南 北 初 遺 文 ﹄ にはじめて収録されたものである。本史料については討は外山 氏 論 文 が 史 料 紹 介 を 行 っ て い る 。 ( 日 ) 註 2 前 倒 抑 述 藤 氏 論 文 ﹁ 迎 武 政 権 下 の 陛 呉 国 府 に 関 す る 一 考 抑 制 ﹂ は、史料 2 に見える﹁河川川新左衛門尉﹂を吋総武年間記﹄所殺 の﹁奥州式評定衆引付・諸事行交名注文﹂(﹃南北﹄一四郎﹀ に 見 え る 陸 出 世 間 府 一 一 一 需 引 付 ﹁ 市 立 威 左 術 門 尉 ﹂ に 比 定 し て い る 。( ω )
史料 2 に見える﹁国中﹂は津軽のことを指していると考えら れる。それは例えば次のような用例から明らかである。 A 麿 応 一 一 年 ( 一 三 一 一 一 九 ) 五 月 日 時 、 品 開 我 貞 光 明 中 忠 状 ( ﹃ 南 化 ﹄ 一四五九) ︿ 前 山 崎 ) 去 一 一 一 月 、 為 レ 大 ニ 将 軍 先 代 越 後 五 郎 般 日 、 南 部 六郎普類弁成剖小次郎左衛門尉同六郎工藤中努右衛門 尉跡若党相守安保小五郎倉光孫三郎総瀬彦次郎入道以 下 御 敵 等 、 令 レ 乱 一 三 入 沼 中 司 、 大 光 寺 外 掲 打 務 之 処 ( 後 同 時 )21 B 点 和 一 一 一 年 ( 一 一 一 一 間 七 ) 二 九 五
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(前略)蹄応二年三月、御敵越後五郎↓代南部六郎 誠 同 小 次 郎 左 衛 門 尉 以 下 説 、 市 中 ニ 数 百 騎 二 資 -一 入 洋 経 中 一O
向(後略) これは、脳応二年三月、南朝方の南部氏らがこのとき北朝方に 転 じ て い た 品 目 我 貞 光 ( 光 高 と 河 人 ) の 本 拠 大 光 寺 外 掛 加 を 攻 め 務 とした事刊について記したものであるが、Aの﹁国中﹂は文脈 上明らかに洋経のことを指しているし、 B では同一の本刊につ い て は っ き り と ﹁ 資 日 寸 入 洋 経 中 こ と 記 し て い る 。 ︿初)大鰐は奥州の幹線道路である央大道ル l ト上に存在し、比内 郡から矢立峠をこえて洋経へ入った災大滋が最初に平野部へ足 を踏み入れるという関門の地に位位していた(斉藤科男﹁悼世界 都市平泉と北奥世界﹂一同橋滋雄綴﹃東北古代史の研究﹄古川弘 文館、一九八六年)。出羽からの北条余党津軽乱入の風聞を受け て当地に本勢が集結されたのは、大鰐の持っこうした交通の姿 街としての性格から考えて、ここが侵入ル l トと目されたため で あ ろ う 。 (幻)このように考えずに、五月二十一日に石河縮が落城し(史料 8 ) 、ついで五月二十一日から史料 7 が作成される六月十ニ日ま での削に持寄域合戦が勃発したと解釈することも可能ではあ る。しかし、﹁石河楯法城﹂と﹁持容械的諮せず﹂という二つの 情報は時間援をおいて瓶番に国府にもたらされたのではない。 本文で述べたように、史料 7 はこれより先に南部師行から﹁条 々﹂の注進があり、それに対して逐一指示を与えたものであっ たと考えられる。従ってこの二つの悩報も師行からの﹁条々﹂ に一緒に記されていたのである。当時間行の賠た際部郡は津軽 五 月 日 、 骨 我 貞 光 申 状 土 代 ( ﹃ 南 北 ﹄ から非潟に近い場所にある。従って師行は洋経情勢をほぼリア ルタイムで把抑曲していたはずである。であるから﹁石河械が洛 城し、持寄械の合戦が未だ静識しない﹂というのは、師行が ﹁ 条 々 ﹂ を 作 成 し た 時 点 の リ ア ル タ イ ム な 律 相 批 情 勢 を そ の ま ま 記 し た も の だ っ た の で は な い か 。 ( 辺 ) 建 武 元 年 四 月 十 三 日 、 昨 蹴 嗣 世 間 同 霞 笠 ( ﹃ 南 北 ﹄ 一 l i 六 五 ) 、 建 武 元 年 八 月 日 一 一 日 、 沙 弥 進 性 寄 進 状 ( ﹃ 荷 北 ﹄ 一 九 四 ) 。 ( 幻 ) 建 武 元 年 八 月 二 日 、 陸 奥 図 悶 笠 ( ﹃ 南 北 ﹄ 一l
八六)で南部獅 行 に 対 し 、 ﹁ 津 軽 御 下 向 路 次 、 拙 慨 部 郡 内 宿 々 御 雑 事 用 意 事 ﹂ に つ い て 命 じ て い る 。 ﹁ 御 下 内 向 ﹂ と あ る こ と か ら 従 来 顕 家 の 下 向 を 指 したものと解釈されている。なお、註 8 4 別掲何回氏論文は義良 続玉の下向の可能性もあることを述べている。 ( 刷 出 ) 迎 武 元 年 八 月 二 日 、 願 文 代 咋 閉 経 施 行 状 写 ( 明 南 北 恥 一 i l -八 七 ) 。 ( お ) 史 料 8 参 照 。 (部)建武元年九月二日、陵奥国岡笠(明南北﹄一一O
一 一 ) 。 ( 幻 ) 註 n v M 掲 、 山 地 武 元 年 八 月 廿 二 日 、 沙 弥 速 性 寄 進 状 ( 吋 南 北 陥 一 ー 九 四 ) 。 (犯﹀安迷肉祭は、安迷時顕の嫡子であり秋凹城介に任官していた ( 町 時 卑 分 脈 ﹄ 魚 名 公 孫 ) 。 ( 鈎 ) 史 料 l お よ び ( 元 弘 一 一 一 年 ヵ ) 十 二 月 廿 五 日 、 時 重 視 状 ︿ ﹃ 南 北 ﹄ 一 三O
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、 建 武 元 年 一 一 一 月 十 二 日 、 北 畠 顕 家 下 文 ( 吋 南 北 ﹄ 一l
五 六 ) 。 ( 初 ) 史 料 4 、処武元年八月甘一目、工藤貞行液状(﹃南北﹄ 一 一 一 ) 。 ( 剖 ) 史 料 4 参 照 。 ( 詑 ) 史 料 4 参 問 問 。 ( お ) ( 姥 武 一 五 年 ) 一 一 一 月 一 目 、 北 品 顕 家 推 挙 状 ( ﹃ 南 北 恥 九 一 五 四 ) 。22 (剖)時如・高裁らの軍勢が具体的にどのような経路を通って津軽 に乱入したのかは不明である。ただし一つ言えることは、津軽 中の軍勢が終結している大鰐を通ったとは考えにくいことであ る。ここを突破するというような行動を取ったのであれば、そ れに閲する合戦の記録が残っていそうなものであるが、そうし た史料はない。従って別ル l 卜を通ったものと考えられる。そ の候補としては、出羽側から海岸線を北上して津軽に入る近世 の西浜街道に当たるル i ーなどが考えられよう。西浜街道ぞい には中世の板碑や館跡などがあり、これらを結ぶ逃が中世畑山か ら存寵したものと考えられる(背森県立郷土館編﹃官蘇県﹁歴 史の道﹂調資報告部西浜街道(鯵ヶ沢街道)﹄狩森県教育委員 会 、 一 九 八 四 年 ) 。 ( お ) 遠 藤 綴 ﹁ 中 役 隠 家 の 東 夷 成 敗 艇 に つ い て ﹂ ( ﹃ 松 前 滞 と 松 前 ﹄ 九 、 一 九 じ 六 年 ) 。 ( 羽 ) 述 山 崎 鍛 ﹁ 秋 田 城 介 の 復 活 ﹂ ( 高 橋 お 雄 編 ﹃ 山 県 化 古 代 史 の 研 究 ﹄ 古 川 弘 文 抽 出 、 一 九 八 六 年 ) 。 (幻)鎌倉米湖、津軽で、蝦夷の﹁叛乱﹂を発端とする大規模な戦 乱が起こったことはよく知られている。﹁蝦策管領﹂安藤氏に対 する蝦前向の蜂起が起こり、それが安藤氏一族の対立を引き起こ し、やがて蝦夷を巻き込んだ安藤氏の内紛へと発展していった もので、いわゆる﹁安藤氏の乱﹂である。これについては、斉 藤 利 男 ﹁ 聞 過 の 十 一 一 一 波 安 藤 氏 相 伝 文 お と 八 戸 南 部 氏 ﹂ ( 藤 木 久 士 山 伊 藤 忍 良 編 ﹃ 奥 羽 か ら 中 世 を み る ﹄ 古 川 弘 文 館 、 一 一
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九 年 ) 、 大高波正﹁外が浜市内向考﹂(同氏吋中世北方の政治と社会陥校 倉 お 房 、 一 一O
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年、初出一九八O
年)、入問問定夫﹁鎌倉幕府 と奥羽悶悶﹂(小林市治大石直正抑制﹃中世奥羽の世界﹄東京大 学出版会、一九七八年)、設お前掲述燦燦氏論 X な ど 参 照 。 (犯)伊藤惑良﹁建武政権試論成立過程を中心として﹂(同氏 ﹃ 中 枇 岡 家 と 京 悶 奥 羽 ﹄ 校 念 書 一 ⋮m
、一九九九年、初出一九九八 年 三¥_/
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