フロベールのグロテスク
-初稿『感情教育』から読み解く芸術家における現実の把握-
名古屋大学大学院博士課程後期課程山 下 英 夫
はじめに 当研究では、ギュスターヴ・フロベール(Gustave Flaubert, 1821-1880) が 23 歳の時に書き上げた 1845 年の作品、初稿『感情教育』をテクスト として用いた。 この物語には、ロマン主義に憧れるアンリとジュールという正反対の性 格をもった 2 人の少年主人公が登場し、次第にロマン主義に幻滅していく 様が描かれている。一方のアンリはパリの寄宿舎に入れられ、さまざまな 人生経験を経て社会に乗り出し、ブルジョワ化していく。他方ジュールは、 田舎に残って芸術家になることをめざし、孤独のうちに美学的思索にふけ る青年へと成長していく。 本稿では、若きフロベール自身の姿が描かれたものとして解釈すること ができる、芸術家を目指すジュールを考察対象としてとりあげ、彼の現実 に対する認識を通して、後に、ロマン主義に代わる写実主義の祖とされる フロベールが、彼の写実的技法の対象となる現実をどのようなものとして とらえているのか明らかにしていく。 1.理性による現実把握の試み 初稿『感情教育』の第二十六章では、ジュールが夕べに一人田園を散歩 していて、一匹の醜い犬に出合う場面が描かれている。この章の半分以上 は、ジュールと犬の出会いの場面のために割かれており、そのことからは 挿話の重要性がうかがえる。このジュールと犬の出会いの挿話を、 ディ ディエ・フィリポは « L épisode du chien ou le parti pris des choses » のなかで、ジュールの人間中心的な美のとらえ方に対する「醜の試練1」
« l épreuve de la laideur » として解釈しており、また、ジゼル・セジャンジェー ルは Naissance et métamorphoses d’un écrivain Flaubert et Les Tentations de saint Antoine のなかで、犬との出会いをきっかけにジュールが「虚無」 « le néant » という観念を排除し、「すべて」 « le tout » を知覚するにいたってい ると指摘している。
Lorsque le monstre apparaît-disparaît aux yeux de Jules le néant n existe plus. [...] l artiste ne cherche plus à dire le rien mais à voir le tout2.
怪物がジュールの目に現れたり消えたりするとき、虚無は存在しない。[・・・] もはや芸術家は無を語ろうとせず、すべてを見るのである。 ジュールが出合う犬について見てみよう。この犬は、その持ち主がわか らないこと、つまり謎の存在であることと、ジュールに対する異常なまで の愛着によって特徴づけられている。この犬の正体は研究者たちによって 言及されているが、そのなかで主要なものとしてジャン・ブリュノーと ジャック=ルイ・ドゥーシャンのものを挙げることができる。前者は Les
Débuts littéraires de Gustave Flaubert, 1831-1845 のなかで、犬をジュール
が飼っていたフォックスであるととらえており3、後者は Le Sentiment de
l’absurde chez Gustave Flaubert のなかで「単なる一匹の犬4」 « simplement
un chien » にすぎないととらえている。しかし彼らの言及には確証がなく、
1 Didier Phillipot, « L épisode du chien ou le parti pris des choses », in Bulletin Flaubert-Maupassant,
no 1, 1993, p. 75.
2 Gisèle Séginger, Naissance et métamorphoses d’un écrivain Flaubert et Les Tentations de saint
Antoine, Paris : Honoré Champion, 1997, p. 159.
3 「ブリュノー氏は確かにこの獣がフォックスであり、リュサンドの犬であると考えているの
である。」以下原文 : « M. Bruneau pense en effet que cette bête n est autre effectivement que Fox, le chien de Lucinde. », Jacques-Louis Douchin, Le sentiment de l’absurde chez Gustave Flaubert, Minard, Archives des Lettre modernes, no110, 1970, p. 26.
犬の正体は依然明確にされていないといえる。 目をそむけたくなるような醜い犬に家に帰るまでつけられることになる ジュールは、石を投げつけてそれを追い払おうとするが、それにもかかわ らず犬はたえず彼につきまとうのである5。彼は、次第になぜ犬がこれほ ど執拗に彼を追ってくるのか疑問に感じるようになっていき、そのことは、 芸術家として、現実の認識に関わる重大な考察材料へと変化していくので ある。 犬の正体を解明しようと試みるジュールは、理知的にその謎に取り組も うとしており、その結果、彼は、かつて彼の町にやってきたことがある演 劇一座の女優リュサンドに与えた一匹の犬のことを思いだしていることが わかる。
A mesure [...] qu il [=Jules] la considérait il croyait revoir son ancien épagneul ; cependant pourquoi n entendait-il plus son nom ? Lucinde lui [=au chien] en avait peut-être donné un autre, ensuite elle l avait chassé n en voulant plus, et battu peut-peut-être pour le faire en aller.6 [・・・]この犬をじっと見つめれば見つめるほど、彼[ジュール]は、昔のス パニエル犬を見るような気がした。だが、なぜこの犬はもう自分の名前がわから なくなっていたのか。リュサンドはおそらく彼[犬]に別の名前をつけていたの だろう。それから、もういらなくなって、この犬を追い払い、おそらくは立ち去 らせようとしてなぐりつけたのだろう。 ジュールは醜い犬のことをフォックスであると結論し、信じることに よって精神を安定させようとするのであるが、この場面に描かれている ジュールの思考方法からは、人間が何かを合理的に解明しようとする時、
5 Gustave Flaubert, L’Education sentimentale (1845), Œuvres de jeunesse, Œuvres complètes, édition
présentée, établie et annotée par Claudine Gothot-Mersch et Guy Sagnes, tome1, Paris : Gallimard, « Pléiade », 2001, p. 1030.
それは過去の経験をもとになされるということがわかる。つまり、理知的 思考は過去の経験の影響下に置かれているのである。
確実であると信じて疑わない自己の理性にしたがい犬の解釈を試みる ジュールは、犬が彼をどこかへ導いて行こうとしていると信じ、その後に ついて行くのである。
Il [=le chien] aboyait d une façon saccadée, colère. Il allait, venait, ― s approchait de Jules, le quittait, revenait à lui, l attirait sur ses pas, le ramenait d où il était parti, le reconduisant où il était allé ;7
彼[犬]は不規則に、怒ったように吠えた。行ったり来たり、ジュールに近づ くと、また離れ、また戻って来ては、彼を自分の方へ引きよせ、自分が出てきた 所へと連れて行き、自分が行った方へと導いて行くのだった 。
犬が指し示していると考えられる場所に着いた彼は、自分に関する過去 の不吉な記憶を呼び起こしている。
[...] il [=Jules] se rappela qu un jour ― oh ! qu il y avait longtemps ! ― il était venu sur ce pont, et qu il avait désiré mourir. Etait-ce là ce que voulait dire la bête funèbre qui tournait autour de lui ?8
[・・・]彼[ジュール]は思いだした。ある日、――おお、何と昔のことか。 ――自分がこの橋の上にやってきて、死にたいと思ったことを。彼のまわりをめ ぐりまわる不吉な動物が言おうとしていたのはそのことだったのか。 次いで、この不吉な思い出は、彼にそのような気持をおこさせたと考え られる女優リュサンドの思い出と連想的と結びつけられていることがわか 7 ibid., p. 1027. 8 ibid., p. 1028.
る。最後にジュールは、犬が止むことなく吠えたてることを犬が飼い主で あるリュサンドの死を彼に教えようとしていると結論づけているのである。
« Est-ce là ce que tu veux dire, avec ta voix qui pleure comme si tu hurlais sur un tombeau ? »9
「まるで墓に吠えているように、泣きじゃくっているその声で、おまえが告げよ うとしているのは、このことなのか。」
このように理知的に状況を解釈する彼は、犬が示していると考えられる 川底にリュサンドの死体を見るのである。
[...] il [=Jules] la [=Lucinde] voyait avec sa robe blanche, sa longue chevelure blonde épandue et les mains en croix sur la poitrine ― qui s en allait doucement au courant, portée sur les ondes10.
[・・・]彼[ジュール]は彼女[リュサンド]の姿を見た。白い着物を着、ブ ロンドの長い髪の毛をひろげ、その手は胸の上で十字を組んでいた。その姿が、 波にのって運ばれ、静かに流れ去っていった。 しかし、それは実際には妄想だったのである。私たちはこの場面で、現 実に対するジュールの理知的判断が途中でその働きを失っていることに気 づくことができる。合理的に現実を解明、把握しようとするうちに、彼の 思考はいつの間にか合理的なものではなくなっていたのである。 犬の挙動に対して行ったのと同様に、ジュールは、犬の吠え声に対して も、理性によって明確な意味を引きだそうと試みている。しかし、その努 力もむなしく、彼は、止むことなく吠えつづける犬の鳴き声が何を言わん 9 ibid., p.1029. 10 ibid., p.1028.
としているのか、その意味を推し量ることができないのである。
[...] il s efforçait de les [=les sons furieux du chien] deviner et de saisir la pensée, la chose, le pronostic, le récit ou la plainte qu ils voulaient exprimer. Mais son oreille n entendait que les mêmes vibrations presque continues, stridentes, toutes pareilles et qui se prolongeaient les unes après les autres. Fatigué, irrité par elles, il usait cependant toutes les forces de son esprit à tâcher de les comprendre. [...] Mais rien ne se fit − rien n arriva malgré les soubresauts de son intelligence pour descendre dans cet abîme [...]11
[・・・]彼はそれら[猛烈な犬の声音]を推し量ろう、その声があらわそうと している考え、もの、徴候、物語、あるいは嘆きをとらえようと心がけたのである。 しかし、彼の耳が聞きつけるのは、ほとんど絶え間なく続く甲高い声の、似たよ うな、同じ振動だけであった。それが次から次へと連なっているだけであった。 その震える声に疲れいらだっていたが、彼はそれでも心の力をふりしぼって、そ れを理解しようと努めていた。[・・・]だが、この深淵のなかに降りていこうと して彼は理性を飛躍させはしたものの、何も起こらず、何も現れてこなかったの である[・・・] 「理性を飛躍」させ、止むことのない犬の鳴き声から明確な意味を引き だそうとするジュールであるが、その結果、彼の理性が、錯綜した状態に おちいっていることが語り手がジュールの視点に立ち、「獣の目は突然大 きくなって人間のような形になった12」と述べていることからわかる。 ジュールは犬に人間の姿を認めているのである。 犬について行き、川底に眠るリュサンドの死体を妄想に「見た」ジュー ルであるが、ここでも彼の理知的思考力による現実への取り組みは非理知 的な結果に終わっていることがわかる。このことは、人間がもつ理性やそ れにともなう観察眼が十全のものではないということを物語っていると解 11 ibid.
釈することができる。この挿話からは、フロベールが、人間が備えている 知性や理性は経験によって既知のものとされていない事象に対しては効力 をもち得ないということを言わんとしていると解釈することができる。 2.「別種の現実」 犬のことを恐ろしく感じ、走って家に帰ったジュールは、犬との出合い について思い起こしているが、それが結論づけることのできない幻のよう な体験であったにもかかわらず、彼の目には相変わらず現実として認めざ るを得ないものとして認識されていることがわかる。
Il [=Jules] était sûr pourtant qu il n avait pas rêvé, qu il avait vraiment vu ce qu il avait vu. Ce qui l amenait à douter de la réalité de la vie − car dans ce qui s était passé entre lui et le monstre, dans tout ce qui se rattachait à cette aventure il y avait quelque chose de si intime, de si profond, de si net en même temps, qu il fallait bien reconnaître une réalité d une autre espèce et aussi réelle que la vulgaire cependant, tout en semblant la contredire13. けれども、彼[ジュール]は確信していた。自分が夢を見たのではないという こと、自分が見たものは本当に見たものであるということを。そのことは彼に生 の現実を疑わせるものであった。というのは、彼と怪物の間に起こったこと、こ の事件に関係のあるすべてのことには、何かとても内密な、とても奥深い、同時 にとても明確なものがひそんでいたので、別種の現実であったとはっきり認めな ければならないのだった。けれども、その現実は卑俗な現実と矛盾するように思 われていながら、それと同じくらい確かなものなのであった。 ここで述べられているジュールの体験は、彼が本来もっていた現実感覚 を揺るがせるものとして解釈することができる。彼が日常的に見なれた現 実と、「幻」のように思えた〈現実〉をどちらも「同じくらい確かなもの」 13 ibid., p.1031.
としてとらえていることがわかるが、このことは彼がまったく正反対の性 格をもった二種の現実を知覚しているということを物語っている。幻のよ うに不可解な〈現実〉の存在に気づいたジュールは、かつて、真実である と信じて疑うことがなかった卑近な現実に対して疑問を抱くようになって いくのである。 彼の現実に対する認識の変化は、語り手によって次のように述べられて いる。
Or ce que l existence offre de tangible, de sensible, disparaissait à sa pensée [=de Jules], comme secondaire et inutile, et comme une illusion qui n en est que la superficie14. ところで生活が与えるあきらかなもの、感じうるものは二義的な無用なものと して、表面的なものにすぎない幻として、彼[ジュール]の考えのなかから消え 失せていたのである。 私たちは明確に感じとることができる現実を、人間の主観に合わせ、合 理性をもたせてつくりあげられた虚偽の現実として解釈することができる。 それは、人間が自分たちの力で自然を支配しているという確信のもとに得 られる現実の知覚であるといえる。ジュールは、このような現実を二義的 なものとして芸術家の視点から排除するようになっていき、理性で把握す ることができない不可解な現実を真実としてとらえるようになるのである。 では、真実としてとらえられた「別種の現実」はジュールによりどのよ うな方法で知覚され、また、どのような特徴をもつのだろうか。 3.主観への懐疑とグロテスクな現実の認識 犬との出会いをとおして、ジュールが「別種の現実」を知覚したという 14 ibid.
ことは、彼がそれまで主観にたよった現実へのアプローチしかしていな かったということを物語っている。「別種の現実」とは、彼の意志とはまっ たく無関係のままに存在する現実を意味していると考えることができる。 ジュールは思考の末、自分をとりまいている「別種の現実」をありのま まの姿で把握するためには、作家が普遍的な視点をもつことが不可欠であ るということに気づくのである。それは作家が主観を二義的なものとし、 「没個性15」 « impersonnalité» とよばれる作家の立場を想起させる状態に 自らを置くことを示唆している。 現実世界に対するジュールの態度を見てみよう。主観への懐疑を行うこ とによって自己の現実把握に対し謹厳になっている彼は、見るということ に関してある「習慣」を自らに課していることが述べられている。それは、 先験的に美しいと感じられることに対してなされる懐疑的な試みであり、 語り手によって次のように述べられている。
Il [=Jules] porta dans les arts l habitude qu il avait contractée dans l étude du monde et insensiblement dans l analyse de lui-même, de ravaler ce qu il aimait le mieux, de parodier ce qui lui plaisait davantage, abaissant toutes les grandeurs et dénigrant toutes les beautés, pour voir si elles se relèveront ensuite dans leur grandeur et leur beauté première16. 彼[ジュール]は世間の研究、また、自分自身の分析のうちに知らず知らず身 につけていた習慣を芸術のなかにもちこんだ。それは、一番好きなものをけなし、 自分にますます好ましくなっていくものを茶化し、そのあらゆる偉大さをおとし め、あらゆる美を非難し、やがて、それらが再び偉大さと初めの美しさのままに 立ち直ってくるかどうかを見ようとする習慣なのであった。 15「没個性」という語がはじめて見られるのは 1853 年 11 月 6 日のルイーズ ・ コレ宛の書簡に おいてである。
この引用文からは、主観的な美の認識への懐疑を通して、ジュールが従 来の美の認識からの脱却を試みている様子をうかがうことができる。主観 の放棄ともいえるこの試みは、人間を対象にした観察においても同様に行 われている。その結果、彼が知覚する現実は、かつて彼が見たものとは異 なっていることがわかる。彼は、19 世紀社会の現実が悲劇と喜劇の混淆 にほかならないという見解にいたっているのである。
[...] à ne faire attention qu à l élément grotesque d une société et qu aux ridicules dont elle est spécialement douée, il [=Jules] en découvrit tellement dans la nôtre qu il en arriva par rapport au genre comique aux mêmes conclusions qu il avait trouvées quant au tragique17. [・・・]ある社会のグロテスクな要素や、また、その社会に特有の滑稽な要素 だけに関心を注いだとき、彼[ジュール]は非常にたくさんそうしたものを私た ちのこの社会に発見したので、喜劇的なものに関して、かつて悲劇について見出 したのと同じ結論に達したのだった。 客観性を帯びたジュールの視点から得られる悲喜劇のように把握されて いる現実社会の光景からは、フロベールが、現実世界を撞着した要素から なるものであると捉えていることがわかる。彼は現実を、理性を用いて一 義的に結論づけることができないものであると考えているのである。この ような現実観は、現実を理想化することなく、「神の目18」をとおして知覚 されたものとしてありのままに再現しようとする作家の制作態度を反映し 17 ibid., p. 1045. 18 エーリッヒ・アウエルバッハはフロベールの写実的描写に関して『ミメーシス』のなかで、 「フロベールはその文体によって現実を変容させ、それが神の目にうつったとおりに表現 しようとした[・・・]」と述べており、このことから、作家が自ら把握した現実を撞着一 致という形に変容させ表現していると考えることができる。以下原文 : « Flaubert voulait transformer la réalité par le style, afin qu elle apparût telle que Dieu la voit, [...] », Erich Auerbach,
Mimésis La représentation de la réalité dans la littérature occidentale, Paris : Gallimard, « Tel »,
たものと考えられるが、それは単なる現実の模倣を意味しているのではな い。彼の写実技法は、現実における人間の目には非合理的に映るものをと らえ、それを歪んだ〈美〉をもって表現しようとする美学なのである。私 たちはジュールが主観を排した視点から現実のうちに捉えた撞着一致を、 規範にとらわれた古典主義19とは異なる新しい〈美〉であるグロテスク20 を形成するための基底をなす要素として解釈することができるのである。 結論 初稿『感情教育』に登場する芸術家の卵ジュールをとおして、フロベー ルの現実へのアプローチの仕方とその認識について考察した。その結果、 フロベールは現実を、人間の理性を越えた無限のものとして捉え、そのよ うな現実の把握は主観を排した観察によってのみ可能となり、撞着一致に よって作品に表現されるということがあきらかになった。撞着一致からな る一義的に解釈することができない現実が描かれる彼の作品は、それを読 む者に、彼らをとりまいている現実への再考を促すと考えられるが、その ような働きをもつフロベールの作品は現実よりも一層現実らしいというこ とができるのである。 19 古典主義は「真、善、美」という規範によってなりたつ美である。これはプラトンの思想 に遡るものであるが、プラトンは現実世界の原型として考えられる状態をイデアと名づけ、 そこでは、「真、善、美」が十全な形で示されると考えた。このような思想は数世紀にわたっ て西洋における美の概念の根底をなしてきた。 20 撞着一致を用いた技法は、フロベールの初期作品、特に『ルイ 11 世』 Loys XI (1837 年)、『地 獄の夢』 Rêve d’enfer (1837 年) において顕著に取りこまれていることを確認することができ る。松澤和宏は『「ボヴァリー夫人」を読む 恋愛 ・ 金銭 ・ デモクラシー』のなかで、「フ ロベールは、ユーゴーの「クロムウェルの序文」(一八二七年) によって賞揚された「グロ テスク」をみずからの美学の中核に積極的に取り入れることで、新たな散文の可能性を拓 いていくだろう」と述べ、ユーゴーが用いた崇高なものと卑小(グロテスク)なものの撞 着一致からなる美がフロベールの制作に大きな影響を与えていることを指摘している。(松 澤和宏,『ボヴァリー夫人」を読む 恋愛 ・ 金銭 ・ デモクラシー』, 東京 : 岩波書店, 2004, p.5.)