牧師 末留 英夫 1 2018.1.14
説教「イエスの洗礼」
マルコ福音書 1 章 9~11 節 降誕節第 3 主日の聖書日課によって今 日、私たちに与えられたマルコによる福音 書第 1 章 9~11 節は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたこ とを伝える御言葉です。マルコによる福音書は全体で 16 章までありま すが、第 1 章 1 節の御言葉は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」 です。「神の子イエス・キリストの福音の初め」とは、2 節以下 15 節ま での序の部分に書かれていることですが、イエスがヨハネから洗礼をお 受けになられたことは、「神の子イエス・キリストの福音」の中心的な出 来事ということができると思います。 今日与えられた 9 節では、「そのころ、イエスはガリラヤのナザレか ら来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」とあります。「その ころ」とは、2 節、3 節に書かれていることで、2 節の初めに「預言者イ ザヤの書にはこう書いてある」とありますが、これは正確には旧約聖書 のマラキ書 3 章 1 節とイザヤ書 40 章 3 節の引用による預言であり、そ の旧約聖書の預言によって、洗礼者ヨハネが現れて、キリストを迎える ための活動を始めた、そのころ、ということです。 洗礼者ヨハネの活動については、4 節、5 節に、「洗礼者ヨハネが荒れ 野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告 白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」とあります。 マタイによる福音書は 3 章 13 節以下で、イエスの洗礼について、マ ルコよりも詳しく多くのことを伝えています。イエスが洗礼を受けるた めに洗礼者ヨハネのところに来られたとき、それを思いとどまらせよう牧師 末留 英夫 2 としたこと。それに対してイエスは、「今は、止めないでほしい。正しい ことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ 3・15)と 言って、ヨハネから洗礼をお受けになったと伝えています。 しかしマルコ福音書は、そういうことは何も伝えていません。イエス は、ユダヤの全地方から集まって来た大勢の人の中の一人として、それ らの人々と同じように、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼をお受けに なりました。イエスと洗礼者ヨハネには、マタイが伝えているような葛 藤は、なかったのでしょうか。はっきりしていることは、イエスがすべ ての人と同じように、洗礼をお受けになられたということです。それは、 イエスがすべての人と同じ罪人となって、洗礼を受けられたということ です。なぜ、イエスは罪人となって洗礼をお受けになったのでしょうか。 そのことを知るために大切な聖書個所が、イザヤ書 42 章 1~9 節の御言 葉だと言われます。新共同訳聖書では「主の僕の召命」という小見出し がつけられています。旧約聖書の 1128 頁です。 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎え る者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼 は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることな く/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなも のとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを 置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」 これは直接的には、国を滅ぼされてバビロン捕囚となっているイスラ エルの民に対する解放と救いを伝える預言ですが、これが主イエスを指 し示す預言と言われています。 3 節は、「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すこと なく/裁きを導き出して、確かなものとする」です。 イスラエルの民は、神に選ばれた民であり、神の偉大な力ある御業を たくさん知らされていました。それにも関わらずイスラエルの民は、神 に背き続け、罪を犯し、遂には、国を滅ぼされてしまいました。しかし
牧師 末留 英夫 3 神は、そのようなイスラエルの民をお見捨てにはならなかったというこ とです。それは神の憐れみによるものです。 その神の憐れみは、世界のすべての人の及ぶものです。たとえ、人の 目には取るに足りないような小さな存在であり、世間のだれも相手にし ようとしないような人であっても、そして、神を信じようとしないよう な人であっても、神は、決して、お見捨てにはならないということです。 マルコ福音書が伝えているように、イエスがヨハネから洗礼をお受け になったという出来事は、イザヤが預言しているように、主の僕である キリストの働きを示すものであるということです。 マルコ福音書は、イエスがヨルダン川で洗礼をお受けになった後、「水 の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って 来るのを、御覧になった」と伝えています。これはイエスが洗礼者ヨハ ネから洗礼を受けて、すべての人間と同じ罪人となられたことを、神が 御心に適ったこととして、お認めになったということです。そのことを イエス御自身が御覧になったということです。それはイエスが、その時 まで、神の御心を尋ね求めて祈り、神との交わりの中におられたことを 示すものです。イエスの洗礼は、イエスが神に祈り求め、神の導きに従 われた結果であったということです。マルコ福音書は、そのことを確証 するように、11 節で、<すると、「あなたはわたしの愛する子、わたし の心に適う者」という声が、天から聞こえた。>と伝えています。 天からの声は、イエスが人間と同じ罪人となってくださったことを示 すものであり、同時に、イエスが神の子であり、神に御心に適う者であ るということです。イエスの洗礼は、すべての人間の罪のためであり、 すべての人間を救うためです。私たちが洗礼を受けることができたのは、 イエスが人間と同じ罪人として洗礼を受けてくださったことによって です。私たちは洗礼によって、神の子とされ、神の恵みに与っている一 人ひとりであります。 洗礼は聖餐と共に、プロテスタント教会にとっては、二大聖礼典と言
牧師 末留 英夫 4 われています。キリスト教信仰の根幹に関わる大切なものです。聖餐は 繰り返して祝いますが、洗礼は、一生に一度だけでです。キリスト者に とっては大切な意味のあるものです。洗礼については、お一人ひとりが 忘れられない思い出を持っておられるのではないかと思います。洗礼を 受ける前、洗礼を受ける決心をした時、そして洗礼を受けてからの信仰 生活において、いろいろな思い出があることと思います。 洗礼と聖餐は切り離せないものです。洗礼を受けた者は、キリストの 体と言われる教会の一員とされて、教会員名簿に記されて、神の恵みの しるしである聖餐を、神の家族として共に喜び祝う者とされます。洗礼 は教会とキリスト者の交わりの根本にあるものです。 マルコによる福音書がイエスの洗礼によって私たちに示している大 切なことは、私たちが自分の罪を知ることです。そのために、罪を犯さ れなかったイエスが罪人である人間と同じになってくださり、洗礼者ヨ ハネから洗礼をお受けになったということです。それによって罪人であ る人間を救うためです。罪とは神に背くことです。罪が、人間の悲惨・ 不幸の根本原因です。私たちはどうしたらその罪を知ることができるの でしょう。 現在役員会では毎月の役員会終了後に、15 分間の勉強会を行っていま す。勉強会のテキストとして学んでいるのは、『慰めのコイノーニア』 (牧師と信徒が共に学ぶ牧会学)という加藤常昭先生が書かれた本です。 今日の役員会終了後も勉強会を行います。毎回 1 章ずつ学んでいます。 今日学ぶ箇所は、第 5 章で、教会の交わりの中で、「何を語り合うか」と いうことです。 第一に大切なことは、罪について学ぶことであると教えられています。 その上で、自分が犯した罪を告白し、神がイエス・キリストによってす べての罪を赦してくださるということ、その恵みによって、悔い改めへ と導かれる、ということです。それによって教会は「慰めのコイノーニ
牧師 末留 英夫 5 ア=交わり」として、真の慰めを与えることができるということです。 罪を知るためには、十戒を学ばなければなりません。十戒によって教え られている神の戒めの中心は、神を愛し隣人を愛しなさい、ということ です。その神の愛の戒めに背くことが、罪です。今日のマルコ福音書が イエスの洗礼によって示していることは、イエスは、すべての人間を救 うために、洗礼者ヨハネから、罪人である人間と同じ洗礼をお受けにな ったということです。 マルコ福音書は、イエスがヨハネから洗礼を受けられたとき、天が「裂 け」たと伝えていますが、マルコ福音書は 15 章 37 節、38 節で、イエス が十字架上で息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ 二つに「裂けた」と同じ言葉を使っています。このことは多くの人が指 摘していることで、たいへん大切な意味があると言われています。 イエスが十字架上で息を引き取られたとき、その場にいた百人隊長は、 その光景を見て、「本当に、この人は神の子だった」と証ししています。 この百人隊長は、イエスを殺す側にいた人です。それまでイエスを信じ てはいなかった人です。そのような百人隊長が、イエスの十字架の死に よって、「本当に、この人は神の子だった」と証ししているのです。 イエスの洗礼とイエスの十字架の死は共に、イエスが神の子であり、 イエスが、神の御心に従って、そのことが現実のものとなったというこ とです。それは何よりも私たちに対する神の恵みを示すものであり、神 の子イエス・キリストによって、すべての者の罪が露にされ、すべての 者を闇の中から光の中へと導き入れてくださるためのものであるとい うことです。イエスの洗礼によって「天が裂け」たということは、その ことを示すものです。神の恵みと力によって、すべての者を救うために 「神の子イエス・キリストの福音の初め」が示されたということです。 私たちにとって大切なことは、神の御心に適った歩みをすることがで きるように、常に祈ることです。
牧師 末留 英夫 6 今日のテーマは「イエスの洗礼」です。イエスの洗礼については、イ エスが神の御心を祈り求めて、神の導きに従われた結果であるというこ とお話ししました。私たちにとって最も大切な祈りは、主イエスが弟子 たちに教えてくださった、主の祈りです。主の祈りには、私たちが常に 神と隣人と共に歩むために、祈るべき祈りのすべてのことが含まれてい ます。 天にまします我らの父よ、願はくはみ名を崇めさせたまへ。 み国を来たらせたまへ。みこころの天になる如く地にもなさせたまへ。 我らの日用の糧を今日も与えたまへ。 我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまへ。 我らを試みにあはせず、悪より救ひ出したまへ。 国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。 アーメン 主の祈りは、主の恵みによって洗礼を受けた者が、神の家族の一員と して共に祈ることのできる、神の共同体・教会の祈りです。そして同時 に、一人ひとりが大切にされて、共に生きることができるように導く力 のある祈りです。主イエスが神の御心を祈り求めて、御心を示されたよ うに、私たちも常に主にならって祈り、神と共に歩む者となることがで きるよう、絶えず祈りつつ歩む者でありたいと願います。 祈り 主イエス・キリストの父なる神、あなたの恵みと招きによって共に主 の日の礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。主が絶え ず祈り、ご生涯の初めから終わりまで御心を尋ね求めて歩まれたように、 主の御足の後に従って歩むことができるように、絶えず祈る者とさせて ください。主イエス・キリストによって祈り願います。アーメン