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ha38. 3ha 35. 4ha 3. 4km 40ha B. C m 40m 2. 5m 4 5m b 14 3, 4, 5 2 a 2 a, 3 a 25m 10m 4 9 MH 52 68% 3 b 10 30cm 6,7, 8 JIS A12

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2正会員 日本建設技術株式会社 代表取締役(同上) E-mail: hara@nkg-net.co.jp 吉野ヶ里遺跡の墳丘墓(B. C. 150 年頃)は主に層築で構築された我が国最古の巨大盛土構築物である. 盛土の構築技術は,レベルの低いものから,堆築,層築,版築の 3 段階に分類できることを示し,吉野ヶ里 墳丘墓の構築技術のルーツであると考えられる中国江南地方の土墩墓(西周∼戦国時代),と山東半島の墳 墓(前漢∼後漢時代)と吉野ヶ里墳丘墓の埋葬物の墳墓内の位置など様々な実態の比較,ならびに上記 3 段 階の構築技術のこれら墳墓への適用についての検討を行った.墳丘墓以外の文化・技術のルーツや伝播も 考えた結果,江南の土墩墓もしくは山東半島の墳墓の構築技術が,朝鮮半島経由ではなく海を経て直接,北 部九州の吉野ヶ里に伝播したことを結論とした.

Key Words: Yoshinogari burial mound, Chinese burial mounds, construction technique, Hanchiku,

Sochiku, Taichiku

1. はじめに

吉野ヶ里遺跡は佐賀県の吉野ヶ里丘陵に存在する 旧石器時代から中世までの遺跡が複合した大遺跡群 である.特に弥生時代の環濠集落と墳丘墓は我が国 最 大 級 で,吉 野 ヶ 里 遺 跡 の 中 核 を な す.墳 丘 墓 (B. C. 150 年頃)は異なる土を層状(層築)に高密に 締め固めたもので,我が国最古の巨大盛土構築物(盛 土遺跡)である.14 個の甕棺と豪華な副葬品が出土 した.この吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこの何なの か?またこの構築技術はどのように発展・伝播した のか? 土を締め固めて盛土を構築する技術の原点は中国 長江中流域の城頭山遺跡城壁(B. C. 3. 5 千年,堆築 の起源)や黄河流域の西山遺跡城壁(B. C. 3. 0 千年, 版築の起源)である.ここでいう城壁は古代都市を とり囲む盛土壁を指す.著者らはこれら盛土の構築 技術について,従来の版築と堆築に加え,新たに層 築を提案し,技術のレベルの低い方から,堆築,層 築,版築への発展の考えを述べる. 吉野ヶ里墳丘墓の構築に時間的に間近な直接の ルーツは中国の土墩墓(どとんぼ)であると考え,長 江下流域である江南の土墩墓(西周∼戦国時代),そ して最近注目を浴びている黄河下流域である山東半 島の墳墓(前漢∼後漢時代)の調査を行った.吉野ヶ 里墳丘墓と中国の土墩墓や墳墓の実態と構築技術を 比較し,中国の土墩墓や墳墓の構築技術が朝鮮半島 経由ではなく直接北部九州の吉野ヶ里に伝播したと の結論を得た. 本研究の成果の一部についてはすでに発表1)して きたが,本論文は新たな知見を加えて,整理しなお したものである.吉野ヶ里遺跡の調査に長年携わっ てこられた七田忠昭氏(前佐賀県立博物館長)の「墳 丘墓から出土した甕棺の年代は,甕棺の編年研究2) によると B. C. 150 年頃であり,墳丘墓構築はそれ以 前である」という,この度の教示に従い,墳丘墓の構 築年代は B. C. 150 年頃とした.

2. 吉野ヶ里遺跡の概要と墳丘墓の構築技術

(1)吉野ヶ里遺跡の概要 a)環濠集落と墳丘墓 吉野ヶ里遺跡は佐賀県神埼市と神埼郡吉野ヶ里町 にまたがる標高 7∼25m の丘陵地にある.吉野ヶ里 遺跡は旧石器時代から中世にかけての複合大遺跡群 であり,特に弥生時代の環濠集落(図-1)と墳丘墓 (図-2)はわが国最大規模を示し,遺跡群の中核をな

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す.これら遺跡の調査は 1976 年から本格的に始ま り,2001 年に総面積 73. 7ha(国営公園:38. 3ha,県 立公園 35. 4ha)の吉野ヶ里歴史公園として整備され た.環濠集落は,外濠と内濠の総延長約 3. 4km の濠 で囲まれる,宮殿,物見櫓,高床倉庫群を配置する 40ha の集落である.墳丘墓(B. C. 150 年頃)は東西 30m 弱,南 北 40m 以 上,高 さ は 2. 5m(か つ て は 4∼5m)である.これは日本最古の巨大盛土構築物 (盛土遺跡)である. b)構築物と出土品 当遺跡では,環濠,墳丘墓,高床建築物などの構築 物,甕棺,青銅器,ガラス製品,絹などの出土品,そ してコメ(炭化米)などの食料が見つかっている. これらの構築,製造,生産,のあらゆる分野に当時の わが国最先端の技術が駆使されていた.とくに墳丘 墓について言えば,14 個の甕棺と,甕棺の中から細 型銅剣やガラス玉などの副葬品が出土している. (2)吉野ヶ里墳丘墓の構築技術3),4),5) a)地盤特性 墳丘墓(図-2(a), 図-3(a))は丘陵の最高地(標 高 25m)にあり,地下水位はほぼ地表面下 10m にあ る.丘陵土は主に,れきを含まぬ火山灰土(「阿蘇 4」, 約 9 万年前)であり,墳丘墓土は現地の土を採用し ている.土の分類は MH(シルト,高液性限界).墳 丘墓の含水比は 52∼68% と高い.墳丘墓土の中心部 は 図 -3(b)に 示 す よ う に,異 な る 土 を 用 い た, 10∼30cm のきれいな層状の締固めである. これは版築様(状)6),7),8)と呼ばれてきたが,著者 らが提案する「層築」による締固めである.締固め 度(JIS A1210 A の最大乾燥密度の対する値)は 85∼94% とかなり高いが,れき分を含まぬため標準 貫入試験による N 値は 7∼11 とそれほど高くない. 墳丘墓の北側部分は図-3(c)に示すように,ただ盛 り上げただけのものであり,トレンチ断面の土塊を 手で容易にブロック状に取り除くことができるほど 緩い.これはあとで述べる「堆築」による締固めで ある. b)構築方法 構築は佐賀県6),7)および七田忠昭8)によると,は じめに黒色土系の土(有機物を含む火山灰土)を 1m 前後,土を平らに盛ってその上に,さまざまな土を 幾層にも版築様に締め固める.すなわち,いくつか の小山を締め固めて築き,小山の間に土を盛って水 平に締固める.その上にまた小山を築くという操作 を繰り返したようである.このことは,墳丘墓の掘 削断面を示す図-3(d)から,推察が可能である.墳 丘墓の構成土は色が変わっても,基本的には火山灰 土である.現地土および墳丘墓土の自然含水比がか なり高いことと,杵で突いた痕跡が盛土の水平断面 に残っていないこと,「版築」に用いる杵や拘束板が 残存していないことなどから,墳丘墓は 3. (1) c) で述べる「層築」による構築であると考えている. 締固め方法は足踏みである可能性が高いと思われ る.このことは室内実験で確かめている5).また, 図-1 発掘時の南側の環濠集落遺跡 図-2 墳丘墓 (a):墳丘墓全景 (b):甕棺

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墳丘墓の模型作製を元に,200 人が構築に携わった と仮定して,完成までに 2 年程度を要したと推定し ている5) c)墳丘内への甕棺埋葬 墳丘構築後,竪穴を掘削して甕棺を埋設し,高密 に埋め戻しを行っている.14 個の甕棺はほぼ反時計 回りに埋設されている.ほとんどの甕棺がこの埋め 戻 し の 時 点 で 破 壊 さ れ た 可 能 性 も あ る と い う6),7),8).この高密な埋め戻しのため,考古学調査 の削り出しに苦労したといわれる.墳丘墓地点の地 下水位は地表面下 10m であり,元々地下水の心配は ない.丘陵地での盛土構築は後で述べる中国江南の 土墩墓によく似ている.

3. 盛土の構築工法(堆築,層築,版築)とその発

(1)盛土の構築工法 a)版築 前章で,盛土の構築工法として「版築」,「層築」, 「堆築」の用語を使用した.本章では,これらの用語 の定義と説明を行い,これらの技術の発展について 記す. 「版築」とは「土壁や土壇の築造法で,板で枠を作 り,土をその中に盛り,一層ずつ杵で突き固めるも のであり,古く中国の竜山文化時代に始まり,現在 まで存続(広辞苑)」である.竜山文化は B. C. 2. 5 千 ∼B. C. 2. 0 千年頃,黄河中下流域で栄えた文化であ る.山内豊聡9)は,「版築の版は牆(しょう)(垣の意). 築は杵(杵,タンパ−の意)であり,側方を丸太など で,一定の間隔をおいて拘束し,水を加えながら黄 土を入れ,杵で突き固める盛土技術が版築である. 図-3 墳丘墓の掘削断面 (a):東側から見た墳丘墓 墓中心部の層状断面(層築)(b):墳丘 (c):北側の乱雑な断面 (堆築)(d):断面図7) 図-4 中国古来の版築の様子11)

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版築は特に黄土の盛土築造にもっとも適した技術で ある」と述べている.版築は黄河流域で誕生した中 国古来の盛土構築技術10)である.図-4 に中国古来 の版築による築地塀(ついじべい)構築の様子11) 示す. 黄河流域の黄土は土の分類では CL であり,シル ト分を 60%以上含み,残りは粘土分である.粒径が 小さいにもかかわらず,シルト分が多いため,むし ろパサパサした感じである.水を含ませると,溶け るように消失し,指の間で感触が無くなる.黄土の 雨水による浸食やコラプス現象が著しいことが良く 理解できる.このような黄土を用いて城壁(都市を 取り囲む巨大な盛土壁)や基壇(土壇)を造るのに版 築が必要12),13),14)であった. 黄河流域の西山遺跡(河南省鄭州市郊外)の城壁 (B. C. 3. 3 千∼B. C. 2. 8 千年)が版築の起源15)と考 えられている.著者の一人は現地を訪ねたが,版築 による明確な土層断面を確認できなかった.これよ り 1. 3 千年ほど後の岳石文化時代になるが,同じ黄 河下流域の城子崖遺跡城壁16)(山東省章丘市竜山鎮) (B. C. 2. 0 千∼B. C. 1. 5 千年)の版築による土層断 面を図-5 に示す. 中国では,土の突固めを「夯土(hang tu)」,杵によ る突固めを「夯筑(hang zhu)」という.版築は「版筑 (bang zhu)」と呼ぶ14),17) 著者らは従前,枠の板の代わりに,盛土や掘削孔 側壁でもって拘束し,その拘束壁内に土を入れて突 き固めるものも版築であると,広義に解釈してきた. それは,厳密な定義の版築に合致する工法で作られ た構築物が少なく,多くの場合「広義の版築」が用語 として用いられているからである.しかし,構築技 術の発展過程を踏まえると,新たな定義が必要であ ると考えるに至った. そこで著者らは,「1)杵の痕が突固め層の平面に 見られる.2)拘束板の痕跡が存在する.3)突固め 層が水平で,整っている.」の 3 条件を満足する盛土 の構築方法を「版築」である,と新たに提唱したい. b)堆築 中国最古の盛土遺跡は長江中流域の城頭山遺跡 (湖南省常徳市)の城壁(B. C. 4 千年)であるが,土 を盛り上げただけで,丁寧に層状に締め固めた様子 は見られない(図-6 参照).中国ではこのような盛 土の工法を「堆筑(Dui zhu)」18)と呼んでいる.日本 語では「堆築(たいちく)」19),20)である.このよう に,土を盛り上げただけで,丁寧な層状の締固めが 見られない盛土の工法を「堆築」と呼ぶ14)ことを提 図-5 城子崖遺跡城壁の版築による土層断面 図-6 城頭山遺跡城壁の堆築による土層断面(菅谷文則 氏撮影) 図-7 三星堆遺跡城壁の層築による土層断面

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案する.先に記した吉野ヶ里墳丘墓の北側部分がこ の堆築によるものである. c)層築 吉野ヶ里墳丘墓の中心部分は,上に述べたように, 版築によるものではないが,明瞭な層状の締固めで ある.長江流域の三星堆遺跡21),22)(四川省広漢市) は大量の青銅器や黄金のマスク発掘で知られる.残 存する城壁の断面は図-7 に示すように層状の締固め であり,吉野ヶ里墳丘墓断面に似ている14).それゆ え,吉野ヶ里墳丘墓や三星堆積の城壁は,「堆築」と 「版築」の中間の構築工法によるものである.菅谷文 則氏(滋賀県立大学名誉教授,奈良県立橿原考古学 研究所長)は以前,この種の構築工法に対して「層積 み」なる用語を使用された.著者の一人は「堆築」, 「層築」の既存の用語をもとに,「層築」なる用語を提 案している14) (2)盛土の構築工法の発展 古代の盛土構築工法は,その技術のレベルの度合 いからいうと,低い方から「堆築」,続いて「層築」, 最後が「版築」になる.上で記したように,「堆築」 は単に土を盛り上げるもの,「層築」は盛土に明瞭な 層状断面は見られるが,周りを板で囲ったり,杵で 突き固めたりした痕跡や道具類が確認できないも の,「版築」は文字どおり,版(板)で囲って中に土 を入れて杵で突き固めるものである. この 3 つの工法を整理したものが図-8 である.同 図は,これらの構築による土層断面を示し,そのう ち版築に関しては作業の様子(前掲の図-4),用いら れた杵(後掲の図-13),杵で突いた痕跡を付加して いる.3 つの構築方法は図の矢印の順序で,発展し たと思われるが,盛土の規模や,その機能に応じて, その工法の出現時期は地域(風土)で異なる.寒冷 乾燥の黄河流域では,粘着性のない,かつコラプス 現象を生じやすい黄土を締め固めて大きな城壁を造 るためには版築の技術が必要であった.いっぽう, 温暖多湿の長江流域の土は水を含んでおり,適当な 粘着性を有しており,特に版築を用いなくとも安定 した盛土を造ることが可能であった.そのため長江 流域では版築の出現は黄河流域に比べ,遅れたもの と思われる. 図-8 3 種類の構築方法と発展

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4. 中国の土墩墓・墳墓の構築技術

(1)土墩墓(どとんぼ)23)-30) 土 墩 墓 は 主 に 西 周 時 代 か ら 春 秋 戦 国 時 代 (B. C. 1070∼B. C. 221 年)にかけて,中国江南地方 (長江下流域)に構築されたものである23).「墩(と ん)」は「土を盛り上げたもの」の意味で,土墩墓は 土を盛り上げた墓を意味する.一般に,標高の高い 原地盤を整地して,石を並べてその上に遺体を安置 し,その上に土を盛り上げて作った墓である.もっ とも基本的な土墩墓の模式図を図-9 に示す. 一部,高い原地盤に穴を掘って遺体を埋葬し,土 を盛り上げるものもある.さらには原地盤上に土を 敷きならして基礎(厚さ数 10cm∼1m 強ほど)を設 け,その上に遺体を安置したり,穴を掘って遺体を 埋葬したりして,土を盛り上げるものもある.時代 とともに,また被葬者の位が高くなると,木棺や石 棺(石板の棺)に埋葬するようになる. 一つの盛土に一つの遺体(墓)を埋葬するものと 複数以上の遺体(墓)を埋葬するものがある.中国 ではこれを,「一墩一墓(いちとんいちぼ)」,「一墩多 墓(いちとんたぼ)」と呼ぶ.多墓では 10 墓以上の ものもある23),24).多墓の追葬は,はじめの盛土,あ るいは拡張した盛土に穴を掘って埋葬する.盛土の 中心に遺体の頭を向けて円周上に埋葬する多墓の報 告(江蘇省)29)があるが,最も古い甕棺を中心にし て,その南から反時計回りに甕棺を埋葬した吉野ヶ 里墳丘墓8)の先例であろうか. 土墩墓は中国江南の標高 10∼260m の丘陵地や山 地 に た く さ ん 遺 跡 と し て 存 在 す る23).直 径 10∼40m,高さ 2∼7m 程度であり,外観は吉野ヶ里 墳丘墓によく似ている.図-10 に群在する土墩墓の 遠景を示す.湿潤地帯の江南では,遺体や棺は地下 水や地表水を避けて,すでに記したように,高い原 地盤上もしくは盛土内に設置する. 土墩墓からの出土品25)は大半が印紋硬陶(いんも んこうとう)と原始施釉陶(げんしせゆうとう)(釉 薬を掛けたもの)の器類であり,時には青銅器類も でる. 江南には土墩墓とは別に,石室を内包する石室土 墩墓23),25),30)がかなり多く存在する.石室土墩墓は 土墩墓が発展したものといわれるが,構築時期は土 墩墓にいくらか遅れて,西周∼春秋・戦国時代にか けてである.これらは見晴らしのよい,山陵の頂き や背に設置されている.著者らはこの石室土墩墓が 我が国の古墳のルーツと考えるが,石室土墩墓につ いては本論文では取り上げない. 最近,山東半島の沿岸部でも土墩墓に似た墳墓が 見つかっている31),32).形状は江南のものと同じだ が,盛 土 は 黄 土 か ら な り,前 漢 か ら 後 漢 時 代 (B. C. 202∼A. D. 220 年)にかけて構築されたもので ある.乾燥地帯の黄河下流域の山東省墳墓では,水 の心配は長江流域ほどにはないので遺体を入れた 棺・槨(槨:棺を内包する木製の外側の箱.郭とも書 くが,本論文は槨を用いる)は原地盤下に設置する. 実際には地下水で埋葬物が濡れた状態にあるものも ある. 秦の始皇帝陵は巨大な四角錐の盛土(墳丘)(底辺 350 × 345m,高さ 36m)を有するが,棺・槨や副葬品 類は盛土内にはなく,すべて地盤の下の地下宮に設 置されている.黄河流域の巨大墳墓の盛土は権威や 権力の誇示・象徴であり,江南の土墩墓はまずは湿 図-9 土墩墓の模式図 図-10 群在する江南の土墩墓の遠景 図-11 江南の普通サイズの土墩墓(層築)(直径 20 × 4. 5m)

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潤や水を避けるための盛土であり,盛土の構築目的 が黄河流域と江南では異なるのである. (2)江南の土墩墓の構築技術26),27),28) 平民(庶民)の普通の土墩墓と貴族の大型土墩墓 の地盤工学調査を行った.平民用の江蘇省の金壇の 土墩墓は標高 20m にあり,寸法は普通サイズの直径 20m,高さ 4. 5m で,ほぼ一様な土からなる.周辺に 存在する土墩墓群の一つである(図-11 参照).シル ト分と粘土分がほぼ半々の CL である.含水比は 22∼26%,平均締固め度は,93% とかなり高く,N 値 は 6∼14 である.トレンチ断面の掘削は許可が下り なかったので,断面掘削による層状断面の確認はで きていない.しかし,近くの壊れかけた土墩墓の断 面を見ると吉野ヶ里墳丘墓に比べるとかなり見劣り するものの層状断面であることが分かる.これらの ことから,当該土墩墓は層築によるものであると判 断している. 浙江省安吉の貴族埋葬の大型土墩墓は標高 40m に あり,寸法は大型サイズの東西 40m,南北 50m,高さ 8m である.春秋戦国時代の越のものであると考え られる . 土墩墓の一部は図-12(a)に示すように,建 設材料土採取のため掘削されており,裸の切土面を さらしていた.その近くには自然の山の上部を削っ て構築した土墩墓が数個あり,これらは濠を有する 巨大な墳墓である. 大型土墩墓は原地盤上に,土の種類と厚さが異な る 5 層の締固め土からなる.各層がその機能を発揮 できるように工夫がなされている.特に頂部から 5. 0∼6. 5m(厚さ 1. 5m)の第 3 層目は図-12(b)に 示すように,10∼15cm の土層に 3∼5cm の赤紫色の 砂層を挟む.この砂層は第 5 層内にあると考えられ る木棺への浸透水を排除するための排水層である. 第 5 層からは中国で「青膏泥」と呼ばれる透水性が きわめて小さい青白色の粘土が見つかった.この粘 土層の中から後日,木棺が出土したと聞く.盛土の 土は排水層の砂層を除くとすべて CL である.盛土 全体の自然含水比は 15∼24%,締固め度は 90∼94%, N 値は 8∼18 である.トレンチの水平断面に杵の痕 跡は見つかっていないが,かなり高レベルの技術が 駆使されている.構築工法は「層築」もしくは「版 築」と考えられる. 始皇帝陵と並び称せられる「南の越王陵」,(浙江 省紹興市)は自然の山を利用した巨大な土墩墓であ る.頂部を削り,ここに土墩墓を築いている.長さ 40m,高さが人の数倍もある大きな木構(木材を三角 断面に組んだ)墓室を有する.この墓室の周りを木 炭,樹皮,粘土で厚く数層に囲い,その上部を現地土 を用いて版築で突き固めている.この版築に用いた 杵が図-13 のように,見つかっている14),28) 吉野ヶ里墳丘墓では構築に用いた杵などの道具類 は発見されていない.吉野ヶ里墳丘墓だけではな く,全国的に見て墳丘墓や古墳,堤体などの突固め 図-12 江南の大型サイズの土墩墓(40 × 50 × 8m)(a): すでに壊された土墩墓の調査 (b):砂層を挟む第 3 層の鉛直断面(層築もしくは版築) 図-13 越王陵の構築に用いた杵

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の道具は出土の話を聞かない.それに比べ,農具類 は数多く出土している.盛土構築の道具類は工事が 終わると処分され,農具類は定期的に使用するので 保存されたのであろう.吉野ヶ里遺跡で出土した木 製農具の杵8)は図-14 に示すように,越王陵の杵に比 べ,長さは短いものの,形状はよく似ている1),14) (3)山東半島の墳墓の構築技術 山東省の半島沿岸部に存在する墳墓31),32)は,中 国では「漢代封土墓」や「漢墓」,「漢代墓地」と呼ば れており,もともと江南の土墩墓との関連性の認識 はなかった.最近になって江南の土墩墓との類似, 関連,相違などを意識した調査や報告がなされてい るように思える.それゆえ,著者の一人が 2008 年初 めて調査した時点では,本格的な調査はもとより, その存在の確認すら不十分のように思えた.山東省 の墳墓の形状や立地の状況,破壊状況などは江南の 土墩墓と同様である.図-15 に山東半島の墳墓の 1 例を示す.ただ,先に記したように,江南の土墩墓 は遺体や棺が基本的には原地盤上もしくは盛土内に あるのに対し,山東半島の棺や槨は盛土の下の原地 盤内にある31),32).盛土の土は黄土であるが,砂分 やれき分が多く,シルト分が少ない.本来シルト分 を多く含む自然の黄土と粒度が異なる.当地が黄河 の下流域であるので,二次堆積した黄土を用いてい るものと思われる. 著者らは本格的な地盤調査を行っていないし,中 国での考古学調査も着手したばかりの様子であり, 墳墓の詳細な実態と構築技術については分からな い.一部壊された墳墓断面や文献写真などを見る と,山東半島の墳墓は堆築もしくはレベルの低い層 築によるものではないかと考えている.

5. 中国土墩墓・墳墓と吉野ヶ里墳丘墓との構築

技術の比較および構築技術の伝播

(1)中国土墩墓・墳墓と吉野ヶ里墳丘墓との構築技術 の比較 中国の土墩墓・墳墓と日本の吉野ヶ里墳丘墓の構 築技術の比較を行う.中国江南の土墩墓と吉野ヶ里 墳丘墓については,著者の本格的な地盤工学調査に 基づき個別的・具体的に,山東半島の墳墓について は,著者らの現地調査(10ヶ所,約 50 基ほど),採取 した土試料の試験結果や現地研究者から得た情報に 基づき一般的に,整理した. 1)構築年代,2)寸法,3)埋葬者の身分,4)埋葬 施設とその位置,5)盛土の土の多様性,6)土の分 類,7)含水比,8)湿潤密度,9)締固め度,10)最 大N値,11)構築方法,12)一層の厚さ,について比 較したのが表-1 である. 1)構築年代は,江南の土墩墓は春秋時代から戦国 時代,山東半島の墳墓は前漢時代から後漢時代,吉 野ヶ里墳丘墓は弥生中期前半のものである. 2)寸法は,江南の土墩墓の普通サイズと大型サイ ズの平均値がほぼ吉野ヶ里墳丘墓のサイズに相当す る.吉野ヶ里墳丘墓の長方形状は貴族の大型サイズ の土墩墓に似ている. 3)被葬者の身分は,江南の土墩墓の普通サイズは 平民,大型サイズは戦国時代の貴族,吉野ヶ里墳丘 墓は弥生中期の吉野ヶ里の支配(統治)者達である. 4) 埋葬施設とその位置.江南の普通サイズの土 墩墓は遺体のまま,大型サイズは木棺,吉野ヶ里墳 丘墓では甕棺を,原地盤上もしくは盛土内に埋葬し, 山東半島の墳墓は木棺・木槨を原地盤下に埋葬して いる. 図-14 吉野ヶ里で出土した木製農具8) 図-15 山東半島の墳墓

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5)盛土の土の多様性.江南,山東半島の普通サイ ズの墳墓は一様の土を,大型サイズの土墩墓と吉 野ヶ里墳丘墓土は多様な土を層状に盛る. 6)7) 土の分類と含水比.江南土墩墓は CL で 14∼26%.山東半島墳墓は黄土の二次堆積土で SF. 吉 野 ヶ 里 墳 丘 墓 は 火 山 灰 の MH で,含 水 比 は 52∼68%と江南土墩墓の 3 倍の値である. 8)湿潤密度は,土墩墓の大型サイズが最大で,普 通サイズ,吉野ヶ里墳丘墓の順に小さくなる. 9) 締固め度は,江南の土墩墓はいずれも 90% 以 上,吉野ヶ里墳丘墓は 84∼94%である. 10) 最大 N 値は上記の締固め度に対応しており, 土墩墓の大型サイズが最も大きく 18,吉野ヶ里墳丘 墓が最も小さく 11 である. 11)12)構築方法,一層の厚さは,切り出し断面の 調査を行った大型サイズの土墩墓と吉野ヶ里墳丘墓 は,前者が一層 10∼15cm の版築もしくは層築によ るもの,後者が一層 10∼30cm の層築,もしくは堆築 によるものである.江南の普通サイズの土墩墓は層 築,山東半島の墳墓はレベルの低い層築もしくは堆 築によるものであると思われる. 吉野ヶ里墳丘墓は形状,寸法は中国の土墩墓,墳 墓に似ている.吉野ヶ里墳丘墓土は,北部九州に類 似の気候である長江下流域の,江南土墩墓の土と性 状が近似しており,粘着力を有する土からなる.黄 土の二次堆積土からなる山東半島の墳墓の土は粘着 力がなく,墳丘墓土とは全く異なる.吉野ヶ里墳丘 墓の実態と構築技術は江南の特に大型土墩墓に似て いる. (2)墳丘墓構築技術のルーツと伝播 盛土遺跡である墳墓(土墩墓や墳丘墓)の構築技 術のルーツと伝播について考える.吉野ヶ里墳丘墓 のルーツは長江下流域の江南の土墩墓(西周∼戦国 時代,B. C. 1070∼B. C. 221 年)であり,この構築技 図-16 中国土墩墓,墳墓と吉野ヶ里墳丘墓の相違と構築 技術の伝播(矢印:伝播)の模式図

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術が黄河下流域の山東半島沿岸部に伝わり,前漢か ら後漢時代(B. C. 202∼A. D. 220 年)の墳墓となる. これらの土墩墓や墳墓の築造技術が朝鮮半島経由で はなく海を経て直接,北部九州の吉野ヶ里(B. C. 150 年頃)に伝わったと考える.中国江南の土墩墓,山 東半島の墳墓,吉野ヶ里墳丘墓の構築時代,埋葬施 設(遺体のまま,棺,槨,甕棺)とその位置(盛土内 あるいは原地盤内),そして伝播の順序を示したのが 図-16 である. 前漢の武帝が朝鮮半島の北部に,楽浪郡(B. C. 108 年)をはじめ 4 カ所の朝鮮支配のための出先機関を 設置する.これ以降,中国と朝鮮半島の交流が盛ん になり,現在のピョンヤン近くの当時の楽浪郡には たくさんの墳墓が造られている33)-36).いわゆる「楽 浪郡墳墓」「楽浪古墳群」と呼ばれるものである.文 献資料33)では,一辺 20∼30m の方形断面で,高さ 2∼5m である.写真の外観は山東半島の墳墓に似て いる.埋葬施設の位置は山東半島の墳墓に同じで, 原地盤の下に棺や槨を設けている.しかし,朝鮮半 島南部,すなわち現在の韓国では吉野ヶ里墳丘墓よ り古い墳墓は今まで見つかっていない.このことは 国内の考古学の専門家に確認している.そこで,吉 野ヶ里墳丘墓の築造技術は図-17 に示すように朝鮮 半島経由ではなく,中国江南あるいは山東半島から 直接,北部九州に伝わったと考える.同図に技術の 伝播を矢印で表し,朝鮮半島南部に×印を付けてい る. (3)墳丘墓構築技術以外の文化・技術のルーツと伝播 「吉野ヶ里墳丘墓の構築技術は中国江南あるいは 山東半島から,朝鮮半島経由ではなく,海を経由し て直接,北部九州に伝わった」というのが本論文の 主張である.これに対して,「環濠集落などの構築物 や多くの出土品,コメ(稲作)など,様々な文化や技 術のルーツや伝播経路はどうなのか」という疑問が の日本はすでに中国大陸や朝鮮半島との交流があっ たことはよく知られている.たとえば,佐賀県伊万 里市の腰岳で採取された黒曜石が,縄文時代に朝鮮 半島で打製石器の材料として用いられている.佐賀 県をはじめ全国各地に徐福伝説がある.周知のよう に,始皇帝(在位 A. D. 221∼A. D. 210 年)の命をう けて徐福が不老不死の仙薬を求めて来日したという ものである. 当時(西周∼後漢時代)の中国は最先端の文化や 技術を有する世界の超先進国であり,それゆえ文化 や技術の伝播は中国から周辺の朝鮮半島,そして日 本列島へとなるのはごく自然のなりゆきである.た だ日本は大海にあり,中国から直接日本への伝達も あり得たわけである. その一つが本テーマの吉野ヶ里墳丘墓の構築技術 である.他には吉野ヶ里遺跡で見つかったコメ(炭 化米)は,今我々が食している米(短粒系米)と違っ て長粒系米であるが,これが墳丘墓と同じく中国江 南から直接有明海に面する筑紫平野(吉野ヶ里など が立地)に伝来したようである.ついでに,短粒系 米は中国江南から直接九州北岸(佐賀県の菜畑遺跡 など),あるいは中国江南から朝鮮半島の南西岸に伝 わる37),38)という.吉野ヶ里遺跡および周辺で見つ かった絹も,墳丘墓築造以前は中国から持ち込んだ 蚕で作られている39).また,墳丘墓の甕棺から出土 したブルーの管玉のガラス原材料は長江中流域の長 沙のものである8)ことがわかっている. 吉野ヶ里遺跡の環濠集落の源流は中国古代の環濠 都市であり,朝鮮半島の影響を受けている.竪穴住 居は朝鮮半島の松菊里型といわれ,また,たくさん 見つかった土器は朝鮮系無文土器に分類される.銅 剣などの銅製品は朝鮮半島系であるが吉野ヶ里でつ くられ,刀子などの鉄製品の材料は半島内部から持 ち込んで,これも吉野ヶ里でつくられた可能性が大 といわれる8) 以上のように,吉野ヶ里墳丘構築の時代において, 当時の日本は中国や朝鮮半島との深い交流があり, 文化や技術はこれら大陸の影響を大きく受けた.吉 野ヶ里墳丘墓の構築技術は,コメ(長粒系米)や絹な どと同様に,朝鮮半島経由ではなく,中国から直接 伝播したと考える. 図-17 朝鮮半島経由ではなく,中国江南もしくは山東半 島から直接,北部九州に構築技術の伝播

(11)

朝鮮半島経由でないとする理由は以下のとおりで ある.前漢の武帝が楽浪郡を設置(B. C. 108 年)す る以前は,朝鮮半島には墳丘墓はないと考えられて いる.また韓国には吉野ヶ里墳丘墓より古い墳丘墓 は実在しない.それゆえ,構築技術が朝鮮半島経由 で吉野ヶ里墳丘墓(B. C. 150 年頃)に伝播したとは 考えられない. 謝辞:1993 年の吉野ヶ里墳丘墓地盤調査以来,佐賀 県文化財課の諸氏および佐賀大学理工学部都市工学 科研究室の諸氏に,また 1998 年の中国江蘇省寧鎮地 区の土墩墓調査以来,研究室の中国人留学生諸氏お よび中国の考古学関係者諸氏に多大のご協力とご支 援をいただいた. 参考文献

1) Onitsuka, K., Hara, Y., Lu, J., Tang, X. and Chen, P. : Roots in China of construction methods of ancient Yoshinogari burial mound, Proceedings of Special Session on

Geo-Engineering for Conservation of Cultural Heritage and Historical Sites, 14 Asian Regional Conference, ISSMGE,

pp. 13-18, Hong Kong, China, 2011.

2) 橋口達也:弥生文化論―稲作の開始と首長権の展開 ―,雄山閣出版,1999. 3) 鬼塚克忠,原 裕,島 宏信,横尾磨美:吉野ケ里遺跡・ 墳丘墓および戦場古墳群・33 号古墳の土質工学的特 性と構築の技術,土質工学会,遺跡の保存技術に関す るシンポジウム発表論文集,pp. 113-120, 1995. 4) 鬼塚克忠,原 裕:吉野ヶ里・墳丘墓の土質工学特性, 土と基礎,Vol. 44, No. 7, pp. 19-22,1996. 5) 鬼塚克忠,佐藤磨美:吉野ヶ里遺跡・北墳丘墓などの 盛土遺跡の地盤工学特性と構築技術,土木学会論文 集,No. 736/ III-63, pp. 217-230, 2003. 6) 佐賀県教育委員会:環濠集落吉野ケ里遺跡概報,吉川 弘文館,1990. 7) 佐賀県教育委員会:佐賀県文化財調査報告書「吉野ヶ 里神埼工業団地に伴う発掘調査概要報告書(本文編) 26-28, 2002. 13) 鬼塚克忠,Chen P., Tong P., 根上武仁,早川慶:黄河流 域における版築盛土遺跡の構築技術と地盤工学特性, 地盤工学ジャーナル,Vol. 2, No. 4, pp. 287-295, 2007. 14) 鬼塚克忠:古代中国の盛土遺跡の構築技術について, 歴史的地盤構造物の構築技術および保存技術に関す るシンポジウム,pp. 141-148, 地盤工学会, 2008. 15) 国家文物局考古領隊培訓班:鄭州西山仰韶時代城址的 発掘,文物,pp. 4-15, 1997 年 7 期. 16) 山東省文物考古研究所:山東考古的世紀回顧与展望, 考古,pp. 1-14, 2000. 17) 鬼塚克忠:中国古代の版築盛土遺跡について,土と基 礎,Vol. 53, No. 3, pp. 15-17,2005. 18) 許 宏:先秦城市考古学研究,北京燕山出版社,2000. 8. 19) 徐 光輝:中国の農耕集落,後藤直・茂木雅弘編,「東ア ジアと日本の考古学 V,集落と都市」,pp. 3-51,同成 社,2003. 20) 趙 輝,魏 峻:中国における新石器時代城址の発見と 研究,後藤直・茂木雅弘編,「東アジアと日本の考古学 V,集落と都市」,pp. 149-193, 同成社,2003. 21) 朝日新聞社:三星堆―中国 5000 年の謎・驚異の仮面 王国,1998. 22) 徐 朝龍:中国古代の謎に迫る長江文明の発見,角川文 庫,1998. 23) 楊 楠:江南土墩遺存研究,中国民族出版社,1998. 24) 森 浩一:図説,日本の古代史 4,諸王権の造型,古墳 時代,pp. 36-40, 中央公論社,1990. 25) 樋口隆康:稲の伝来と日本の夜明け,内藤大典編,「虹 を見た」,pp. 70-71, 海援社,1998. 26) 鬼塚克忠,張 敏,唐 暁武:中国・江南の土とん墓につ いて,土と基礎,Vol. 48, No. 8, pp. 20-22, 2000. 27) 鬼塚克忠,陸 江,唐 暁武,甲斐大祐:中国・江南にお ける土とん墓の地盤工学特性,土と基礎,Vol. 50, No. 9, pp. 10-12, 2002.

28) Onitsuka, K., Lu, J., Tang, X., Hara, Y. and Kai, D. : Geotechnical characteristics and construction methods of

(12)

85-89, 文物出版社,2005. 30) 林 華東:江南の石室・土墩墓の謎(副島清隆訳),「稲 ―その源流への道,中国江南から吉野ヶ里」,pp. 83-85, 東アジア文化交流史研究会,1998. 31) 日照市文化局,日照市博物館編:日照海曲漢墓,2002 年全国重大考古新発現,2002. 32) 爛 玉富,李 文勝,王 磊:山東膠州趙家庄漢代墓地的 発掘,2005 中国重要考古発掘,pp. 110-114, 文物出版 社,2005. 33) 朝鮮総督府:平壌付近に於ける楽浪時代の墳墓,大正 8 年 3 月,朝鮮考古資料集成 9,古蹟調査特別報告,出 版科学総合研究所,1982. アと日本の考古学 I,墓制(1)」,pp. 33-62, 同成社, 2001. 37) 和佐野喜久生:東アジアの稲作起源と古代稲作文化, 文部省科学研究費による国際学術研究報告・論文集, 1995. 38) 和佐野喜久生:徐福と弥生の稲作,佐賀・徐福国際シ ンポジウム,講演資料,2008. 10. 39) 布目順郎:絹の道―長江下流域ルートを探る,内藤大 典編,「虹を見た」,pp. 115-116, 海援社,1998. (2011. 11. 11 受付)

ROOTS OF CONSTRUCTION TECHNIQUE OF ANCIENT YOSHINOGARI BURIAL

MOUND AND ITS PROPAGATION

Katsutada ONITSUKA and Yutaka HARA

The ancient Yoshinogari burial mound (about B. C. 150) is the oldest large earth fill which is mainly constructed by Sochiku method. The construction technique of earth fill is classified as Taichiku, Sochiku and Hanchiku in the order from the lowest to the highest level. The Chinese burial mounds, namely Jiangnan burial mounds (B. C. 1, 070 - B. C. 221) and Shandong Peninsula burial mounds (B. C. 202 - A. D. 220), and Yoshinogari burial mound are compared on various actual conditions such as the application of three construction techniques to the mounds and the location of burial matters in the mounds. Considering also the roots and propagations of other cultures and techniques, it is concluded that the construction technique of Jiangnan burial mounds propagated to the Shandong Peninsula burial mounds, and that the technique of Jiangnan or Shandong Peninsula burial mounds propagated to Yoshinogari, in northern Kyushu, Japan, through the sea, not through the Korean Peninsula.

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