Japanese Society for the Science of Design
NII-Electronic Library Service Japanese Sooiety for the Soienoe of Design
ア
ー
トセ ンター
ス クー
ルデ ザ イン講 習 会 戦 後、
デザ インの重要性が急速に高 ま る な かで、
より熟 練し た デ ザ イ ナー
を、
より短 期 間に、
よ り効 率的に、
よ り多く育て るため に、
通 産省は、
中小 企業 庁、
産業工芸 指導所 な ど と協 力し て 「外 人 意 匠 専 門 家 招 聘 計 画 」を た て、
1956年か ら実 施した。
その第1同 で最 大 規 模だっ たのが、
アー
トセ ン ター
スクー
ル の講 習 会であっ た。 アー
トセンター
スクー
ル か ら、
ア ダ ム ス校 長、
ジャー
ゲン ソ ンID
部 長、
コー
ルマ ン教 授、
フラ ンク中村の 4名 のチー
ム が来日 し、
1956年ll月12日 か ら30 日 まで の 3週 間の コー
ス に、
50歳 代か ら 大 学等 を卒 業したばか りの デ ザ イ ナー
まで 69名が参 加し た。
マー
ケッ ト リサー
チ の重 要性や ラフ スケッ チ、
レ ンダ リング、
モデル メー
キング な ど デ ザ インの手順、
手 法 を中 心に、
実 際 的 な指 導が行な わ れ た。当 時日本には な かっ た 楕 円定規等 を駆 使 し、
パ ス テ ル や色鉛筆を使っ たハ イラ イ ト手 法に よ るレ ン ダ リ ン グは、
筆と 絵の具だけの技によ るス ケッチ を して いた 日本の デ ザイナー
た ちの大 きな関 心を集め た。 ま た、
次の3
週 間 は各 地 区で のデザ イン指 導に当たり、
広く デ ザ イン界に 影 響を及ぼ し た。
翌年 講 師チー
ムから 提 出 され た 「日本産業意匠の将来」と 題 す る 報告と勧 告は貴 重な もの で あ るD こ の講 習 会 を第 1回として、
「外 人 意 匠 専 門 家 招 聘 計画」は1970年 まで 15年間続 け られ、
先 進 国の デザ イン の 考え方、
手 法、
方法論を 急速に学び と る機 会とな り、
日本の デザ イン の レベ ル ア ッ プ に お おい に貢 献 するこ と に なっ た。 ま た、
これ を 機会に アー
トセ ン ター
スクー
ルへ の 日本 人留 学生 が増え、
帰 国し た卒 業生 た ちの活 躍 にも大 きなも のがあっ た。 (宇 ) アー
ル・
デコ流 行 アー
ル・
デ コ は、
ig20年 代か ら1930 年代 に 展 開 し た 独自の芸術様 式に対し て命 名され た名 称であ る。
しか し、
そ の時代のすべ て の分野 が 同一
の様 式を もっ ていた わけで は ない。
そのた め、
分野 によっ て独 自の用 語が試み ら れて い た。
服 飾 デ ザ イ ナー
のポー
ル・
ボア レとコ コ・
シャネル に基づい た 「ボア レ様 式 」「シ ャネル様 式 」、
グロ ピ ウス が設立 し た デ ザ イン学 校に 基づ く「バ ウハ ウス様 式 」、
オザン ファ ンやル・
コ ル ビュ ジェ (ジャン ヌレ)が提唱 し た 「新精神 (エ スプリ・
ヌー
ヴォー
)」、
オ ラ ンダの ファ ン・
ドゥー
ス プル グ、
ア ウ ト、
モ ン ドリ ア ンらの ラ デ ィ カル な芸 術 革 新に基づ く「デ・
スティ ル」、
さ ら には、
革 新 的 金 銀工芸デザ イナー
の ジャン・
ピュ イフォル カ に 基づい た 「フ ォル カ様 式」な どが知ら れてい る。 二つ の大 戦には さ ま れ たこ の時 代は、
都市化 し た大 衆 社 会と大 量に生 産 され た 生活 用 品に囲ま れ た諸 現 象が 包括的 に出 現 した。
自動 車をは じ め とする交 通 機 関、
建築や 住 宅 設 備、
家具、
照明 器 具、
ガ ラスや陶磁 器、
宝 石ア ク セサ リー
は じめヘ アス タ イルや 装身具を含 む 服飾 品 など、
すべて の美 術、
工芸、
ファ ッ ショ ンな ど が統一
され た デ ザ イ ン計画 に基づ いていた、
, これ ほ どの広 範 囲な 内 容 を もつ様式 にふ さ わ しい 呼び名と して、
1925年に パ リで開 か れ た 博 覧 会 「現代装飾 美 術 産 業 国 際博 覧 会」の名 称か らアー
ル・
デコが定 着し ていっ た。
その契 機は、
1966年にパ リ装 飾 美 術 館で開か れ た回 顧 展 「25年様式 」展の図録のサ ブタイ トル に 「アー
ル・
デコ」が使わ れ たこ とにあっ た。
これ が、
1920年 代から 1930年 代の芸 術 様 式に対す る 総称と し て 用い ら れ る ように なっ た。
そ れ は、
単 なる ひ とつ の様 式とい うよ り、
その時 代の技術 や 芸 術 お よ び 生活 様 式 が生み出す 文 化 的な現 象といえ る もの であ り、
その特 徴 は、
デ ザ イン を大 量 生 産に連 合させ る ことであっ た,、
その 意 味で、
今日 に おいて も、
多く の 分 野 は 「アー
ル・
デ コ 」の延 長上にある と v、えよう。
(t
}) アー
ル・
ヌー
ボー
の紹介 アー
ル・
ヌー
ボー
の 日本へ の紹介 は、
主と して 1900(明 治33)年に開催 さ れ たパ リ万 博の参 加 者や、
当時 輸入 さ れていた海 外 美 術雑 誌に よっ て行な わ れ たtt例えば黒田清 輝の もと に寄 寓 していた杉 浦 非 水が、
彼の帰朝土 産の 作品 に 強い関 心を持 ち、
1903年に大 阪 天 王寺で開か れ た第5回 内 国勧 業博で は 「う ど ん式」のデ ザ インを盛ん に描 いていた し、
ま た 黒 田の 親 戚 筋 に 当た る橋凵 五葉は当 時ロ ンドンか ら帰 朝 し た夏 目漱 石の 『吾 輩ハ 猫 デアル』など の装 丁を手 掛 け、
藤 島 武二 は雑 誌 『明 星 』に アー
ル・
ヌー
ボー
風の 挿絵を 描 く な ど、
さ まざ まな影 響が見ら れ る。
また、
東 京 美 術 学 校 図 案 科 教授を辞 し た 福 地 天香は、
浅井 忠と ともにパ リ で S.
ビングの店を訪れ、
帰国 後 日 本 図案 会 を起こし 「天 香 式ヌー
ボー
」の 作品 を 描いた。
東京 美術 学校西洋画科 教 授であっ た浅 井は、
パ リ滞 在 中に中 福 島 行 信 邸 (竹田五一
設 計 ) 1911年 沢岩太の勧めで新 設 さ れ る 京 都 高 等工 芸 学 校へ の移 籍を決 断し、
京 都では総 合 的な芸術 活動を夢みてその影 響 を受 け た デ ザ インを残してい る。
建 築では 旧渡辺 千 秋 邸 (元 東 京 芝 高 輪、
茅野市へ 移 築、
現蓼料 ト ヨ タ記 念 デ ザ イン学研究 特 纂 号 SPECIAL [SSUEOFJSSDVol.
3 No.
3 1996 39 N工 工一
Eleotronio Library「襖 四 季 山 水 図 」 (福 地 天 香 ) 1902年 館。 1905年
、
設計 木 子幸三郎 )や、
重 要 文化財の旧松 本 家 住宅 (北 九州 市、
現西日本工業倶 楽 部。 1911年、
設 計 辰 野金 吾・
片 岡安 )が あ る が、
セ セ ッ ショ ンの影響 を受 けた武田 五一
設 計の 福 島行 信 邸 も当 時評 判と なっ た。
アー
ル・
ヌー
ボー
の紹 介 経路やその 影響につ い ては、
まだ研 究が十 分 進ん でい ない が、
相 当 広範囲にわ たっ てい た と思わ れる。物 珍しさ もあっ たろ う が、
「青春 様 式 」と呼ば れ る そのス タ イル には、
当 時の 日本人にとっ て も心 魅せ られる とこ ろがあっ たので あ ろ う。
〔日) ア メニァ イ amenityc 場 所や環 境 気 候 などに関連 する「好 まし さ、
快 適 さ、
心 地 よ さ」の意味。
ま た、
住 宅、
職場、
都 市な どの快 適 な 設 備、
環境、
文 化施設 な どの意味も含 ま れ る。
1898年、
英 国のE .
ハ ワー
ドに よ り 田 園 都市の構 想が発 表さ れ た が、
その 背 景と して、
当 時の産 業 革 命がもた ら す 都市 労働 者の生活 環 境の悪 化に加 え て、
大 気 汚 染、
水 質 汚 染とい う公 害 問 題、
労働 問 題 とい う社会 事 情があっ た。 そこで、
都 市の魅 力と農 村の魅 力 の融 合を 図 る た め、
田 園都 市構 想が 考 え ら れ た。 その キー
ワー
ドの ひとつ が ア メニ ティとい う概 念であっ た 。 この ような概 念は、
日本で は専門家 の問で は古 くか ら理 解 さ れてい た が、
1962 (昭37)年 厚生省の 「新 産 業 都 市 にお ける生 活 環境の造 成」とい う報 告 書 に公文 書と して初めて使 用さ れ、
1985(昭60
)年環 境 庁が 場所、
気 候 風 土、
自然、
社 会 環 境、
住 民 気 質等 を総 合 的に考 え、
都 市生 活の快 適さ を追 求 す る 「ア メ ニ テ ィ・
タ ウ ン計 画 」 を最 優 先政策と して打ち 出 し た時期よ り、
「ア メニ テ ィ=
快 適な都 市 環 境 」とい う考 え方 が一
般 化さ れ た。
い ま や、
ま ちづ くり、
環 境政策の重要な キー
ワー
ドとなっ ている。
(平) 意 匠条 例 公 布 明治政府の最 大の政治ス ロー
ガンは 「富 国 強 兵 」 「殖 産 興 業」である。
しか し、
幕藩 体 制の滅 亡 は、
江 戸時代か ら 続い て いた商 人、
職 入の 自主 的 共 同体 で あ る株仲 間 を 解 体 させ、
結果、
生 産 品の品 質維 持、
技 術の尊 重、
模 倣の禁 止な どの規 制ルー
ル も瓦解 した。
開 国に と も ない、
外 国商品が輸人 さ れる と、
商 品 その ものや商 標の偽 造が 盛んに行な わ れ る ように なっ た。
1871 (明 治4) 年、
神 戸におけるベー
ス商 会の ビー
ル の商標 偽 造事件は外 交 問題 に発 展、
政 府に とっ て意 匠 保 護は急 務 と なっ た。
1876 (明 治9)年、
内 務 省 勧 商局に おいて 「免 許 新 形 条 例 案」草 案の作 成 作 業 が開始さ れ、
さ らに、
1879 (明 治 12) 年、
大蔵 省の神 鞭 知 常が 中 心 に なっ て意 匠 保 護の内 容を含んだ「新 発 明 専 用 免 許 条例案」が作 成さ れ、
1880 (明 治13>年、
「新 形 専 用 免 許 条例案 」 へ と 展 開 し てい く。
同 案には、
「新 形 ヲ創 製シ タル者ニ ハ 其 創 製二 対シ免 許 状 」を付 与して保 護 する とい う条 文 が収め ら れてい る。 産 業 界は粗 製 乱 造、
模倣、
価 格問 題 等の 打 開のた めに、
株 仲 間に代わる同 業 組 合の結 成 をす すめ、
そ れ らの同 業 組 合の規 程の な かに、
意 匠の保 護にか か わる先駆的な条文を み ることがで き る。 そ して、
卑売 特 許 所 長の高橋是清 の欧 米にお ける制 度の運 用 に 関 す る 視 察を経て、
1898 (明 治21) 年、
「意 匠 条例 」 が 制 定さ れ た。
こ の条例 は、
先 行 す る 「専 売 特 許 条例 」の改正 と して 意 匠発 明 を追 加し た か た ち を とっ た。
その提案理 由 を、
高 僑 是 清は、
「我が 国二 於テ貿 易ノ隆盛ヲ図ルニ ハ 斯ノ意 匠ヲ保 護ス ルニ 在リ云々」と述べ る と ともに、
「意 匠 (英語デザ イン) とは 『工業上 ノ物 品二 応用スヘ キ考 案 即チ 各 種ノ形状 模 様 等ニ シテ 工業 ト相 須テ 離ルヘ カラ サル モ ノ』である」と述べ てい る。 勅 令第5号と して交 布され た 「意 匠 条 例 」 (全29力条 )は、
第1
条 「工 業 上 ノ物品二 応用ス ヘ キ形 状模 様 若クハ 色 彩二 係ル新 規ノ意 匠 」には じまり、
40 SPECIALISSUEOFJSSDVol3 N93 1996 テザ イン学 研 究 特 集 号 保 護の対 象、
登 録を受 けた権 利、
意 匠 権の効 力、
専用年限、
風俗を 害 す る等 の不登 録 理 由な ど を規 程 してい る。
参 考:特 許 庁 意匠 課編、
意匠 制度百 年の歩み、
他 (宮 ) 意匠法 現 行の意 匠 法は、
「意 匠の保 護お よ び利用 を は か るこ とに より、
意 匠の創 作 を奨 励し、
もっ て産 業の発 達に 寄 与 す る」こと を 目的と して 1959年 交 布、
1960年 施 行さ れ た。 同法で は、
意 匠 を 「物品の形状 もし く は 模様、
も し く は 色彩ま た は こ れ らの結 合であっ て、
視 覚 を通じて美 感 を起こ させ るもの をい う」(2
条1項 )と定 義して いる。意 匠 法 本 体は、
意匠 に 関する実体 法 的 かつ 手 続き法 的な法 律であ り、
細 目的には 意 匠法 施 行 法、
意 匠 法 施 行 令、
意匠法 施 行 規則お よ び 意匠登録 令、
意 匠 登 録 令 施行 規 則 が ある。
冒頭に か か げ た同法の目 的は、
わ が 国に おける法 制上のは じまりで あ るパ リ条 約 加 盟の た めに制 定 さ れた 「意 匠 条 例」 〔1888年 )と そ れ ほ ど大 差ない とい え よう。要 する に模 倣の禁止など 反 道 徳 的 な行為を 規 制 して、
適 正 な経 済 活動を維 持す ることにある。そのた め、
デザインを専 攻 する学 科で は、
デ ザ イ ナー
に必 要な知 識の一
部と して意 匠法 を開 講 してい る所が多い 。 と はい え、
時 代の雰 囲 気とい っ た ものを反映 して、
営業 上の利 益が害さ れ るこ と よ りも、.
般 需 用 者の混同のお そ れ に 対 し て 近年は よ り厳し く判 定さ れる傾 向 にある とい う。 意 匠 法が らみ の 紛争が時々 マ スコ ミ をに ぎわ せ る。同 法の存 在 を強 く訴 え た事 件に、
釣 り竿を肩に かつ い で遠 く を眺め るあどけない少 年像の土人形が 模倣 され 相当多数 製 造 販売さ れ た 「博 多人 形事 件 」や サ ザエ さん のキャ ラ ク ター
をバ ス の車 体に描い て「サ ザエ さ ん観光 」と銘 打っ て営 業し た事 件があ る。 また、
カ ッ プヌー
ドルの包装容 器 に描か れ た文 字と意 匠にかかわ る 「カ ッ プヌー
ドル事件 」は記 憶に新し いo 意匠法に よ れ ば、
形 態と は、
物 品の いわ ゆ る形 状、
模 様、
色 彩の総 称で あっ て、
その形態が美 感を もてば意 匠 と な りうる とい う。 ある いは、
物 品のJapanese Society for the Science of Design
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美 的 造 形 を 保 護 し てい るので あ る か ら
、
意味、
観 念は保 護 対 象には な ら な い とい う。
模 倣 と創 造 の 間 の あ やふ や な関 係に か か わる法律へ の知 識は、
今 後さ らに重要 性を 増 すであ ろ う。
参 考 :播 磨 良承,
六 法 出版デザ イン の保 護 (宮 ) ウィー
ン 万 国博 覧 会 19世 紀 後 半、
欧 州の 各 国は、
産業の 振興を 目 的 に競っ て博 覧 会 を計画 し た、
、
オー
ス ト リアは、
1873 (明 治6) 年、
ウィー
ンのプ ラ ター
公 園 を 会 場 に 万国 博 克 会を開 催 した。 同 博 覧 会に は、
フ ラン ツ・
ヨー
ゼ フ 皇帝即位25周 年を祝 すと と もに、
市 街 整 備が な さ れ た リン グ シュ トラー
セ の姿 を世界 にア ピー
ルする目 的も あっ た。 わ が 国 にも同博 覧 会に参同の要 請が あ り、
大 隈重信を博覧 会事 務総 裁、
佐 ウィー
ン万 博 会 場 主 建 築の 正面 1873年 野常民 を副 総 裁に任 命し、
日本政府は 初め て万 国博 覧 会に参 画した。 佐 野 常 民は佐 賀 藩の出身で、
蘭学を 学び、
当 時の西洋の事 情に詳しく、
日 本 赤 十 字社を創立 し たこ とで知ら れて い る。 佐 野は、
在日 ドイツ人フ リー
ト リッ ヒ・
ワグネル の援 助を受 け、
日本 政府の出 品方針 を定め た,
、
博覧会賛同 の 目的の ひとつ に 「技 術 伝 習 」が あ り、
民間の技術伝習 生20数 名を派 遣 し た。後に多産的工芸品の生産推 進に 貢 献した納 富介 次 郎 (1844〜
1918) も、
その一
員と して加わっ てい た。
ウ ィー
ン博へ の出 品は、
ワ グネル の 助 言も あっ て 日本文 化の紹 介 とい う面 が強 く、
欧 米の資 本主義を 意 識 した も の で はなかっ た。
名古屋 城の金の鯱や 浅 草 寺の大 提 灯、
鎌 倉大 仏の 張 り子等 人 目 をひ く大 きなもの、
技 巧のすぐれ た 日本 独 自の陶磁 器や漆 器、
織 物、
水 晶、
象 牙等の工芸品 が 出 品 され た。
出 品 物の詳細は、
田中芳 男 編 『澳 国博覧 会 参同記 要 ]に記 載さ れて い る。 ま た、
187正(明 治4
)年岩倉具 視 を 団 長 とする岩 倉 使 節団の一
行は、
ほ ぼ2年 に亘 る欧米 視 察の最終 段 階で ウィー
ン を見学し た。
その時の見 聞は、
久米 邦 武 編 『米 欧 回 覧 実 記』に収め ら れてい るn (小 ) 海 外 実 業 練 習 生 農 商 務 省 は、
日 清・
日露 戦争 後の貿 易 拡 張 計 画の一
環として、
1897〔明lrr 29)年に海 外 実業練習 生 派 遣 制度を創 設 してい る。
海外 実 業 練 習生派 遣 制 度 と は、
審査 に よっ て 選 抜 し た 志 願 者 に、
3
年 間にわ たり.
一
定の補 助金 を支 給し た う え で 海外諸 国 に滞 在させ、
各 実 業 方 面の実 際を学ば せ る とい うもの で あっ た、
、
「海外の商 業 事 情に精通 し、
又は実 業上の技 能を練 達す る もの を養 成し、
以て我対外 貿 易の改 善発 達に資 せ む とす る」こ と が目的で あ り、
1897 (明治29) 年 創設か ら1928 (昭和3) 年までの 約30年間 継続さ れた。
1916 (大 正5
> 年の段 階の累 計で は、
派 遣 さ れ た練 習生 は、
貿易業 (lll名 )、
織 物 商業 (60)、
絲 商 業 (14)、
水 産物 商 業 (19
)、
農 産 物 商 業 (2D、
雑 商 業 (78)、
染 色 匚業 (56)、
機 黍戒工業 (48)、
化学工業 (69)、
飲 食 物工業 (14)、
電 気 及 瓦斯工業 〔9
)、
金属粕 錬 業 (io>、
雑上業 (49)、
農 林 業 (ID、
畜産業 (5
)、
園芸 業 (ID 、
水 産 業 〔18)、
合 計609名であっ た。 練 習地別で は、
ア ジア諸 国 (170名 )、
ヨー
ロ ッ パ 諸 国 (]81
)、
ア メリカ諸 国 (243)、
他 (15) と なっ てい る。
最終 的 な 練 習修了 生 総 数は 857名に 及んだ [日本 貿 易 史 綱、
鶴 見 佐 吉 雄、
1939]。
新規 工業の勃興 や従 来 技 術の改 善 発 達は、
帰 国 後の練 習 生の努力 に よ るもの も少なくない と い わ れる。 ま た、
練 習生は、
技術 習 得 や 海外 新 販 路の開拓の ほか、
滞 在 国の 需 要状 況な どの情 報 収 集も行なっ たn 明治40年 頃 渡 欧し た詩 人 高 村 光 太 郎 も海外 実 業 練 習生とい う立 場 に あ り、
欧 州 に お ける 日本の輸 出T.
芸 品の評 判 や意匠 図 案の 問 題 点 など を厳 し く指 摘 する内容の報 告を寄せている こうし た調査報 告の一
部は、
「農 商 務 省 商 品 陳列 館 報 告 」 などにも掲 載され、
この 制 度と先の讃 施設 が定 着した明治30 年代 以 降に は、
国 内にお ける工芸 振 興、
輸 出振興の重 要 な指 針となっ た と 考えられ る。
(比) 家庭 電化製品 家 事用家 電 製 品の祖 型は、
1860年前 後に 欧米で 発明さ れ た が、
その普及 は、
婦 人解 放 運 動の.
一
貫と して家事 労 働の 軽 減 が 提 唱 さ れ た 米 国で あ り、
1910年 代以降には じ ま る。 日本で も、
1930年 代には、
米国 との技 術 提 携に よっ て電気 冷 蔵 庫や真 空掃 除 機の国産 化 がは じまるもの の、
その普及は富 裕 層に限られてい た。第二次 大 戦前にあ る 程度の普及 をみ た 扇 風機やア イロ ン、
ラジ オ な ど を除 けば、
家 電 製品の一
般へ の大 量 普及 (「家庭 電 化 」)は、
純 粋に戦 後の 現 象といっ て よい。
戦 争 直 後、
進 駐軍 と と ともに もた ら さ れ たアメ リカ的電化 生 活は、
さ まざ ま なメ デ ィ アを通して宣 伝さ れ、
1955 年こ ろから は日 本の 生活の実 情に適 合ご
盛
∴
ヅ
勲 譜撫 鞴 講緲 電気釜 ER−
4 (東 芝 )1955 し た国 産・
普及型の家 電 製 品 (電 気 炊 飯器、
小 型冷 蔵 庫、
小 型 洗 濯 機 など) があいつい で発 売さ れ た。家 電 先 進 国 アメ リカに 学 ん だ 国内電器メー
カー
各 社は、
1951年こ ろか ら社内に デザ イン 部 門を設置し、
マー
ケ テ ィ ング、
技 術 設計と デ ザ インが一
体 と なっ た商品 開 発 体 制を整えて、
その後の日本の企業 内デ ザ インの先導的役 割 を果 た し た が、
その デザ インは基 本 的に アノ ニ マ スな性 格の ものに なっ た。
高 度 成 長 期に入る と、
主要な家 電 製 品 は 急 速 に 普 及 し、一
部の層の ステー
タス シ ンボル か ら、
普通の庶 民家 庭の どの家でもみ ら れる ものへ と変わる。 庶 民の購 買 欲を煽 りたて る かの よ う に、
「三種の神器」 (1956年。
テ レビ、
電気 洗 濯 機、
電 気 掃 除 機の 三種。 テレ ビ は後に電 気 冷蔵庫に変わ る〉、
「3
デ ザイン学 研 究 特 集 号 sPECIAL ISSuEOFJSSDvol
.
3 No.
3 1996 4tC
」 (1966年。 カー、
クー
ラー、
カラー
テ レビ)な どの こ と ばが、
次々 と ジャー
ナ リ ズム に現 わ れ た.
、
こ の ころ か ら1973年のオ イル ショ ッ ク までが、
家 電 製品 が最 も社 会 的 な 脚 光を浴び た、
家 庭 電 化の時 代 で あっ た。
(面) 金沢工 業学校 金 沢工業 学校は、
1887 (明 治20)年7
月、
初 代 納 富 介次郎 校 長の も と、
石 川 県勧 業 博 物館を仮 校 合と して開校し た。
わが 国 に お け る工業デ ザ イン教 育 の先 駆 けと み な さ れ る。 これ に先 立つ 1882 (明 治15> 年と 1886(明 治19)年に石 川県では納 富を 招い て陶磁器、
漆器、
銅器 な どの品鷺 改 着を は かっ てい る が、
こ れ が縁で納 富の進 言 を入れ る こと と なり、
金沢 区 (後の金 沢市 )にす す めて開 校させ た もの で ある。 同校 規 則に よれ ば、
各 種 の工芸 に関 す る学理の応用法と芸術の 両 方 を教授 する ことが目的で あっ た。
学 科は、
専 門 画 学 部、
美 術工芸 部、
普 通工芸 部の3
部と し、
そ れ ぞ れを分 学と部 学にわけ、
さ らに大 修、
小 修に 分 けて い る。
別 に 研究生制 度 もあっ た。
職 人の 再 教 育を考えた た め か、
最 高30歳に設定さ れ た年 齢以外入学 資 格に制 限は な く、
男 女 共 学であっ た。
W
望.
創 立 当 時の校 舎 正 門 (『県工100年 史 』より) な お、
工 業学校に し て は美術の比 重 が高い が、
これ は地 元にはそれまで美 術 学 校 設 立の気 運が強かっ た た め、
納 富案と折 衷 さ れ た た めであろう。 1889(明 治22)年 経 費地 方税 支 弁 化 で 石 川県工業 学 校と改 称。 1889 (明治 32) 年 実 業 学 校 令の発 布に より、
染 織、
窯 業、
漆工、
図案 絵 画、
金工 の5
科に改め、
修 業 年 限4力年とする。
1926 (大正10)年 修 業 年 限を5力年 と し、
木工専 修 科 (修 業 年 限2
力年 ) を増 設。
1948(昭和23)年、
学制 改革に よ り、
石川 県立 金沢工芸 商等 学 校と なり中学 校 を 併 設。
翌24年石 川県立工芸 商 等 学 校と改称、
窯 業、
塗 装、
図案、
木材 工芸、
色 染、
紡 織、
工業 科 学の 7課 程 を 置 く。
1958〔明 治33)年 石 川 県立 工業 高等 学校と改称、
機 械、
電気、
工業化 学、
産 業 意 匠の4課 程に統 合拡 充 する。 同 36年 産業意匠 課 程 を デ ザ イン課 程 と改 称。 今日 に至っ てい る。 1946 (昭和21
)年に金沢美 術.
1二芸専 門 学校が誕生 す る まで、
長ら く地域の 美 術工芸、
テザイン教 育の中心 的 存在 であ り続 け、
日本の産 業に も大き な影 響 を及ぼす人材 を多 数 輩出 した。
(黒 ) 金沢 美術工芸 専 門 学 校 金 沢 美 術工芸 專 門 学 校は予 科ユ年、
本 科3
年の公 立専 門 学 校と して 1946 (昭和21)年秋に 開校し た。
当 時人 口 20万 そこ そこ の金 沢 市で あっ たが、
非 戦 災都 市と して の メ リッ トと役 割を最 大 限に発 揮 し た施 策とい える。
し か し、
同年5
月 文 部 省へ 提 出 さ れ た 設 立 申請書では金沢 美術 専 門 学校と なっ て お り工芸の 2文 字はない 。文 部 省に よ る指導の結 果と考 えられ る が、
詳 細は 不 明である。 申 請書に よれ ば、
目的の 項には 「新 日本 文 化 興 隆の一
翼を担 う」と並ん で 「地 方 産 業 と直結す る よ うな 工芸 中心の」との言があ り、
「輸 入品に対 する良 質 見返 り物資の多量 生 産」とい う表現もあっ て、
必 ずしも純 粋 美術の学 校をつ くるとい う論 調には なっ てい ない。
美術 学 校で は とうてい 認 可 がF
りそ うも ない と考え た 金沢 市 吏 員による作 文 が 自ずとそ うした論 調に なっ たの で あろうが、
初代 校 長 候 補であっ た高 村 豊 周の影 響 も見 逃せない。
高村は元東京 美術学 校の教授であっ て、
かつ て工芸 界に旋風を巻 き起こし た 「无型」の中 心メン バー
と して知ら れ、
「実 在工芸 」の 中心 人物で もあっ た。
校 長には結局志 を同じくす る美 術 学 校の同 僚、
森田亀 之 助 (美 術 史 専 攻 教 授 )を推 薦、
同 氏 が 初代 校 長と なっ たのだ が、
1948 (昭 和23>年からは 同 じく无型メン バー
の吉 田源十郎が、
翌 24年か ら は高 村 自身が教授と して参 画 42 spEclALISSuEOFJSsDvel,
3 No.
3 1996 デザ イ ン学研究特 集号 してい る。
こ の ように東 京 美術 学 校では産業派 と 目 さ れていた人達が 中心に なっ て学 校づ く りが 行 な わ れ・
たので あ り、
その 影 響は大 きかっ た。 昭和25年に3年 制の金沢美術工 芸 短 期 大 学と なり、
昭和 30年4年 制 大 学 へ と昇格、
同時に 工芸 科は廃 止さ れ産 業 美 術 学 科とな り、
今日に至っ て い る。
な お、
平 成8年 4月か ら産 業 美 術 学 科はデザイン科と工芸科に分 離、
改 組 さ れ るこ とが決まっ ている。 (黒 ) 環 境と工業 を結ぶ会Design Networks in lndustrial Age for Spaces略 称DNlAS 。 「本来
、
人 間 生活に貢献 すべ き工 業 が、
その混 乱のた めに、
害を お よ ぼし て きてい る傾 向が強い 今日、
これを正 しい方 向に導 くた めに関 係 分 野の入々 (工業デ ザ イ ナー、
建築 家、
プ ラン ナー、
および関連 する技 術 者、
研 究 者 と 産 業 人)が一
緒に なっ て問題解 決に 当たろ う」とい う趣 旨で、
1966年3
月 に、
当時の東 京大学教授で建 築 家の池 辺陽を中 心に 40人の発 起 人で発足し た。
当 時の会 員のな か には、
人 間 工学 の大 島正光、
建 築の内田祥 哉、
原 宏 司、
広 瀬 鎌二、
ロ ボッ ト工学の森攻 弘、
工業デザ イン の栄 久庵 憲 司、
清 水 千 之 助、
石川弘、
変わっ た とこ ろ では 絵 画の赤 穴 宏、
イ ラス トレー
ター
の真 鍋博な ど がい た。主 た る活 動の ひ とつ は、
月 刊 雑 誌 「造 』の編 集で あっ た。
『造 』 は多分 野 に わ た る会員の研 究発 表を中 心とし て いた。 その内容には、
多く作品研 究が含ま れ て お り、
抽 象 的 な学 術 論 文だけで はな く、
多くの具体 的な デ ザ イン研究 と して の アイ デア提 案や実施 例 が掲 載さ れ た。
そ して、一
般の本屋の店頭で 販売さ れ た。
出版社 は、
以前に 『新 建 材 』を発 行してい た 「きづ き書 房 」が担 当した。
ま た、
年刊 の“
DNIAS ANNUAL REPORT”
カ§、
会員の研 究 作品集に近い か た ち で刊行 さ れ た。 その他
、
随 時 研 究 会 が 開か れ た。
この時代に環境と 工業との関 連の な かにある諸 問題 点 を、
デ ザ インか ら の視 点で、
広領域の専 門 家 が 横断 的に 研 究を共有 する とい う試みは、
斬 新 な もの であっ た。
(石 )Japanese Society for the Science of Design
NII-Electronic Library Service Japanese Sooiety for the Soienoe of Design
関 西意 匠 学 会 1959(昭和 34)年創立の 「会 員 相互 の研究に より意匠学の進 展 を 図 る 」こ と を 目 的とした研究団体
。
初代会長井 島勉 (当 時 京 都 大 学 教 授 )。
当初会 員 は関 西 地区に限 ら れてい た が、
その 後 全 国 各 地に存 在 する こと か ら、
1978年に 「意 匠 学会 (The Japan Society of Design)」 と名称を変 更した。 毎 年の 研究 大 会や学 会 誌 『デザ イン理 論 』 を 刊行 す る ほ か
、
年 4回の研究 例 会や理 論 分科 会な ど各種の分 科 会 が 活 発 な活 動 を 続 けて い る。
日本デ ザイン学 会と 比較すると、
哲学 的 な 考 察、
歴史的 な 研 究、
映 像 に関する研 究 等が多く、
企 業の 開 発 事 例 の発表 も少な くない。 1978年以降、
大 会と同 時に作 品 発表 も 行なっ ている。
現在 会 員 数 約400 名。
会 長 上平 貢。
事務 局は 1996 年か ら大 阪 芸 術 大学に 置か れ る。
凵本デザ イン学 会と は、
同 じ 日本 学 術会 議 芸術 学 研究 連 絡委 員会 に属し、
友 好関 係 を保っ てい る、
、
(日) 木の芽舎 昭和期に はい ると、
ド イツ にお け る バ ウハ ウス の デザ イ ン活 動が、
建 築 界 を は じ め とし てグラフ ィック・
デザ イ ンや家 具・
インテ リ ア の分 野にも影響 を 及ぼす ようになっ た。
家 具・
インテ リ ア の分 野にもデザ イ ナー
の グ ルー
プ が 生 ま れて、
創 作 活 動 が開 始さ れ た。
その 最 初の グ ルー
プ が、
東 京高 等二1:芸 学 校 教 授森谷 延 雄 を 中心 と し、
同 校の新 進の卒業生森 谷 猪 三 男P
加 藤 真 次 郎らに よっ て、
1927 (昭 和 2)年に結 成 さ れ た 「木の芽 舎 」 であっ た。
この会は良 質の 家 具 を民衆の た めに 普 及 さ せ る こと を 目 的 と し たもの で、
その趣 意 書 には 「家具 とい う応 用美術 品は美と 生活と を一
如に結びつ けたも のでな ければな らず、
詩 を 物 語っ て く れる程 度の もので あっ て ほ しい 」「家 具は高い もの とい う言葉から離れて、
どこ までも一
般 民 衆の味 方と なっ て 同 入の作 品を お わ か ちするのが 目的で す」と あ る、
,
木の芽 舎の展 覧 会は、
】927 (昭和 2)年4月に東京駅前 丸ビル内の丸菱 百貨店で開催さ れ、
創作 住 宅家具約60 点が展 示さ れたe 松、
椹 (さ わ ら)な どの針 葉 樹 を 主 材料に し た家具 は、
そ の デザ インを直線によ る構 成 を 主体に し、
実 用 性 と 生産性の高い シンプルな もの であっ た。
バ ウハ ウスの機 能 主 義 の デ ザイン や表現 主義の ロマ ンチ ッ ク な影 響 もみ られ るもの であっ たtt 木の芽舎は、
家具の大 衆 化 運 動を目 指して活 動 を推 進した。
その な か で、
白木の家具を 重視し たこ とも注 目に価 す る。
この会の推 進 者であっ た森 谷延 雄は、
こ の展 覧会 が 開 会 され る5
日前 に、
病 を得て急 逝した。
(鍵) 規 範原型 規範原 型は、
ブルー
ノ タ ウ トが 工芸 指 導 所顧 問 (昭 和8
年11月〜
昭和9
年3月)と して所 員たちを指 導 する な かで使っ た ドイツ語Mustermodellの翻 訳 語 と して使わ れ た言 葉で、
大 量生 産 のた めの基本型 を意味する。
し たがっ て、
規 範 原型に基づ いた ヴァ リエー
ショ ンはい くつあっ て もよい とする。 後に優 良定 型とい う翻 訳 語も使わ れ た が、
規 範 原型の方 が 強い イン パク トで 浸透した ようである。 MustcrmodelS の概 念 は ドイツ工作 連 盟 やバ ウハ ウスの基 本 理 念で あり、
タ ウ トによっ て工 芸指導所 にもた らされ た。
タ ウ トは、
工芸によ る現 代日本の発 展とい うこと が 工芸 指導所の課 題 であ り、
その点を 助 言指導するのが顧 問と して の タ ウ トの課 題である と考 えた。
しっ かりと した 日本の伝統 がこ の新し い芸 術活 動の基礎と なると し た。 [933年11月14日付文書で 工芸 指 導 所に提 出した提 案PROGRAMM (プロ グラム)の な か で、
タウ トは、
「国立唯一
の研 究 所と して の工芸 指導所 は、
あ らゆる 近代的 な調度 品に対して、
規範 原型 を提 供し なけれ ば な ら ない」と.
述 べ、
使用 目 的 と機 能か ら近代 的 な 調 度 品の根 本 形 式を創造 す るこ との重 要性 を 説い た。 そ れ は、
居 住、
仕 事、
食事、
睡 眠の 各機 能に関 連 する椅 子、
机、
戸 棚、
化 粧 台、
衣裳箪笥、
寝 台、
照 明 具、
壷な ど 小 工芸品、
各 種 家 庭 用 品 (工業生 産 上改 良の必 要のあ るもの のすべ て)な ど につ い て、
日本固有の伝 統 (感 覚、
材 料、
技 術、
形 )と現代の 国際 的習 慣 および 生活 形 式との合一
か ら創 出 す る ことで あ る と した。真に 日本 的な もの は世 界に通 用す る と主張し た。
具体 的に は、
木 製 仕 事 椅 子、
照 明 具、
ドアハ ン ドルの規範原型の研究と 試作がタ ウ トの指 導下で行な わ れ、
タ ウ トが 離 れ たあとも工芸 指 導所で継 続 研 究さ れ た。
規範原 型は厳 しい工程を経て生み出 される。 タ ウ トによ れ ば、
国 内外の 最上 品の選 出 と収 集、
単 純 な 型の デ ッ サン、
原型作 製、
厳密 な 批 判、
原 型の変 更、
4−
5の繰 り返 し20回以 上、
最 後の型 の 完成、
芸術 的な 人 び とか ら なる委 員 会の承認一
異論が あ れば前の L程に戻る、
原 型の完 成、
委 員 会の承 認一
異論が あ れ ば前の工 程 に 戻る、
そ して、
最 後に 近代日本の作 品誕 生一
規範原 型 と して 発表さ れる、
とい う次 第である。 工芸 指 導 所では、
タ ウ トか ら研究と 試 作の方 法を教え ら れ、
用の研 究、
機 能の問題 を深く研 究 す るよ うになっ た。
な お、
タ ウ トは、
1934 (昭和9
)年8
月 より1936(昭和 ID 年10月まで、
群 馬 県 高崎の井 上房.
一
郎の地域工芸 産 業 振興事 業の協 働 者と して、
土地の材 料、
技 法を活か し た 近代デ ザ インを展 開 し た。 (庄) 京 都 高 等工芸 学 校 1899 (明 治32>年2
月 に貴 族 院、
衆 議 院は、
第13議 会で、
「美術 及び学理 を応 用 すべ き 工芸 即ち 染 織、
陶磁、
髪 漆等の技 術 を練 習せ しむ る学校を(中 略 〉美 術 工 芸の最 も盛んなる地 即 ち京 都に設立するの 急 務なるを 認め」とい う建 議 を 可決した。
当初 東 京、
大 阪に次ぐ専 門学 校であ ること か ら第三高等工業学 校とする予 定であっ た が、
その内容を示す京都 高 等工芸学校の名 称で、
京都 市 左 京 区吉 田町で 1902(明 治35)年9
月に授 業を 開始した,、
学 科は色 染 科、
図案科で、
翌年機 織 科が授 業を 開始。初代 校 長中 沢 岩 太 (1858−
1943>。 図案 科の初期の 教 員として武田五一
(建 築 家・
1872−
1938)、
浅 井 忠 (1856−
1907)等が指 導に当たっ た。
図案 科の内 容は、
建 築 関係の工芸 (家具、
室 内 装 飾、
建築装 飾、
小工芸 品テザイ ン学 研 究 特 纂 号 SPECIAL ISSuE oFJSSDVoL3 No
.
3 1996 43等建 築 を 中 心 と す る 工芸 図 案 )と
、
絵 画関係の工芸 (染 織、
商 業 美 術 等 絵画 を中心とする 工芸図案 )を包 含し、
特 殊な専攻 分 野 と して舞 台 装 置、
服 飾、
造 形 装 飾、
文 字 等 を も包 含 する と し た。
主 要 教科目 と して、
図 学 及 実 習、
製 図実 習、
生物 学、
工芸材 料学、
平面 図案学、
立 体 図案 学、
色彩 学、
建 築構 造、
建 築工芸 学、
紋 様 史、
美術工 芸史、
絵 画 実 習、
意匠計画実習等が置か れて い た。
1930(昭和5
)年に松が 崎 (現校地〉 に 移転。
戦前では東の東 京 高等工芸 学 校と並ぶ西 日本 唯一
の国 立 デ ザ イン関 係高等教育 機 関であっ たこと か ら、
関 西地 方を中心と して多 くの卒 業生 が 活 躍をしてい る。
な お、
こ の学 校の図 案 科 教 授 た ち を顧 問と して、
古 書 店 を開 業し ていた脇 清 吉 (1902〜
1966>が、
1937 (昭 和 12)年か ら発 足さ せ た広 告 印刷 物の実 物 を頒 布 する 「プレス アル ト研究会」の活 動も、
日本 近代デザイ ン史上で見逃 すこと がで きない存在で ある。
京 都 高 等工芸 学 校は、
戦 後の学制 改 革に よっ て1949 (昭 和24)年に京 都 繊 維専 門学 校と合 併し、
京 都工芸繊維大 学工芸 学 部と して現在に 至っ ている。 な お、
学 内に内 外の貴 重な デ ザ イン関 係 資料を保 存展 示 す る美術工芸 資 料館 を併 設してい る。 旧 ) 京都四 園 京 都の美 術工芸団体 と して は 1890 (明 治23) 年に創設 さ れ た京都 美 術 協 会 が 最 も早 く、
代々府 知 事が会 頭とな り、
明 治 初・
中期に は京 都 唯一
の美 術 工 芸団体と して啓 蒙 的 役割 を果た し、
西陣・
友禅・
漆 器な どの デザイン の発 展に も尽 く した。
最盛期に は 1,
000名 の会員 を数えた が、
大 正 以 降各 種 団 体 の結 成で活 動 が 下 火とな り、
1940(昭 和15)年には実 質活 動を停 止し、
第二 次 大 戦で 自然 消 滅 し た。
しか し、
その 機関 誌 「京 都 美 術 雑誌』 (1890−
1892)、
『京 都 美 術協 会 雑 誌 』 (1892−
1905)、
『京 都美術」 (1905−
1918)は、
当時の状 況 を 克 明に伝える記 録と なっ てい る。 また、
1892 (明 治25)年に河 合 惣之 助 ら10名で発 足 した友 禅図案 会 (1906年に友 禅 協会と改称 〉も、
展 覧 会を 開催し、
作 品 を 業 者に販 売 する 弊 s諺
薦
韜 鍵 ; 訟 数臨
際
鞍 離 遊魚 菓 子器 (浅 井 忠 デ ザイン、
杉 林 古 香作) などの活 動 を続けてい た。 京都の伝 統 産業に新しい デザイン の 息 吹 を注 入 す る 活動を行なっ たの は、
京都 高等工芸学 校 長 中沢 岩 太の指 導の もとに、
青 年工芸家 た ちに よっ て結 成 さ れ た4
つ の団体であ る。
最初の遊 陶 園は1903 (明 治36)年の結 成。
中 沢 を 園長と し、
浅 井 忠、
神坂雪 佳ら を指 導 者 と して、
清 水 六 兵 衛、
宮 永 東 山、
伊 東 陶ILI、
錦光 山宗兵衛ら が集まり、
月 1回の研 究 会を開 催した。
迎 田秋 悦、
杉 林 古 香、
戸嶋光 孚、
岩村 真 次 郎らの 京 漆 園は1906(昭和39)年の結 成であ る, 箸尾 清、
野 口安左衛門、
三宅 清 次 郎、
広岡伊兵 衛 等の染 織工芸 家の道楽 園は1916(大正5
)年の結 成。
その後、
陶芸・
漆 器・
金 工等の若 手工 芸 家 を集 め た時 習 園 もつ く ら れ た。
こ れ らの園 は、
協 同で デザ インの研 究 会 を開い て いた が、
1912 (明 治45)年か ら東 京の 農 商務省 陳列 所で共 同展 覧会 を開催し た。 昭和 初 期に解消。
な お、
こ の他に京 都の 工芸 界で注 目 され る 工芸 運 動と して は、
図案家 神 坂 雪佳 (1866〜
1942、
京都 市 立 美術工芸 学 校 教諭 )が 設立し た 佳都 美 会 (1909 年佳美 会と して設立、
戦 前 まで続く) の活動がある。
(日) 京都 博覧会 19世 紀後 半は博覧 会の時代と呼ば れ るが、
当 時の博覧会は 産業 振興に大 き な意 味 を持っ てい た。
明 治 初 年、
東 京 遷都に よっ て沈 滞し た京 都の産業と観 光の振興を図 る た め に、
当 時の豪 商三 井 八郎 右 衛 門、
小野善 助、
熊 谷 直 孝の3
名が出 資、
企 画 し、
1871(明 治4)年 10月に開催し たのが 京 都 博 覧会 あ る。
日本で最 初に 開 催 さ れ た博 覧 会であ る。
会場は 西本 願 寺 書 院。
内外製 品 336点の出品 で、
11,
455人の入 場 者が 44 sPECIALIssuEOFJSSDvol.
3 No、
3 1996 デザ イ ン学研 究特 集 号 あっ た。
た だ し、
京 都 博 覧 協 会で はこ れを 古 美 術 展の感 が あ り内容が伴わ な かっ た とし て、
記 録か ら除外 してい る。
翌 1872 (明 治5) 年 京 都 博 覧会 社 (後 京 都博 覧協会 と 改 称〉を 設 立 し、
第 1回 京 都博 覧 会を 開い たが、
以 後昭 和 初 年まで毎年の ように開 催 し た。
会 場 は後に京都 御 所、
京 都御 苑 (建 築は ワ グネル の設計)、
岡 崎 博 覧 会 館、
京 都 市 勧 業館と 移動し、
1886 (明 治17) 年以降は例 えば全国意匠 工 芸 博 覧 会 (1899)、
全国 美術.
二芸 品 博 覧 会 (1914) な どテー
マを絞っ ての開 催 を行 なっ た が、
1928 (昭 和 3)年の明 治 文 化 博 覧 会を最後に、
その役割 を 全 う した と し て協 会は解 散し た。
当 初 は居 留地 以外に移 動が許 可 され てい な かっ た外国 人の特別 入場を促す などし、
1873(明 治6)年に は70万 人 を越 す 入 場 者 を数 え、
京都の産業 振 興 に大 きな役 割を果た しただけでな く、
その後 全 国各 地で 開催さ れ た 共 進会な どへ の波及 効 果も大き かっ た。
また、
附博 覧と して桂 離宮・
修学 院離 宮の参 観な ど さ ま ざ ま な行 事も 開催され た が、
現 在まで続 く祇園の 「都 踊」は 1872 (明治5 )年の附博 覧と して創 始 さ れ たもの である。
(日〉 京 都 府画学校 京都工芸産業の基と なる画 学 を 振興 すべ し とする幸野楳嶺らの建 議に よ り、
1880 (明 治13)年7月に京 都 府 画 学 校 (現 京 都 市 立銅駝美 術工芸 高 校 ) が京 都 御苑内に開校さ れ た。
当 初 東 宗 (大 和 絵 等 )、
西宗 (西洋 画 )、
南 宗 (南 画・
文人 画)、
北宗 (狩野派等 )の4
科 が設 置 され た が、
1888(明治2D 年に 普 通画 学、
専 門 画学、
応用 画 学の3
科 と な り、
翌年 市 政 実施に伴い学校は京 都 市に移 管さ れ た。
1891 (明 治24)年 に京都市美術 学 校と改 称し、
絵画科、
工芸 図 案 科の2
科 となっ た が、
その後 度々 の改変を経て、
1909 (明治42 )年 に京 都 市 立 絵 画 専 門 学 校が 設立さ れ た。 校 地は知 恩 院、
左 京区 吉田を経て 1926 (大正 15)年か ら東 凵」今 熊野の地 に 移り、
昭 和 初期には京 都 市立美 術工 芸 学 校 (絵画、
彫 刻、
図 案、
漆工 の 4 科 〉と京 都 市 立 絵 画専門学校と が併立 するか たちと なっ た。後 者は 1939 (昭Japanese Society for the Science of Design
NII-Electronic Library Service Japanese Soolety for the Solenoe of Deslgn
和14)年に図案科が 設置さ れ
、
戦後の 学制 改 革で 1950(昭和25)年に京 都 市 立美術大 学 (日本 画 科、
西洋 画 科、
彫 刻 科、
工 芸 科 (図案、
染 織 図案、
陶磁 器、
塗 装の 4専攻 )と な り、
亘969 (昭 和44)年音楽 学 部の設置と と もに、
京 都 市 立 芸 術大学と して現 在に至っ てい る。
現 在の校 舎は1980年か ら 西京区 大枝沓掛町。
な お、
京 都市 立 芸 術 大学 は京 都 府 画学 校の設立 を もっ てその創 設とし ている。
元 来は京都の il芸 産 業の振興 を 図る た めの デザ イン教育機 関 と して設立さ れ た もの であるが、
東の東 京 美術学校 に対 す る 西の美 術 教 育機 関と して並 び 称され、
特に 日本 画において は美術 史 上 に残る数 多 くの卒 業生 を輩出 さ せ た。 旧 ) 起 立工商会社 1873 (明 治6)年ウ ィー
ン万 国博 覧 会に出 品 し た 日本の美術工芸 品は、
大 好 評 を†専し た。
イ ギ リス の ア レキ サン ドル・
パー
ク会 社 は、
目本政府が会 場 に建設 し た神 社・
売 店・
庭 園の庭 石・
灯 篭にい たるまで一
切の建 築物 をロ ン ドンに移 築し、
博 覧 会に出 品し た美 術 工芸品 を輸人販売したい 旨、
ウ ィー
ン 駐 在の佐野常民を副総 裁とする博 覧 会 事務 局に打 診し た。
日本政府は、
みずか ら商業を営むこ と はで き ない と し、
その代わりに松 尾 儀助、
若 井 兼三郎の ふ たりに美 術工芸 品を輸出 する貿易会 社 を 設 立 させ、
経 営にあたらせ た,
松 尾は元 製 茶 商、
若 井は 元道具商であっ た。
1974 (明治7
)年、
起 立工商 会 社は浅 草蔵 前に設 立 さ れ た。
同 社は、
博 覧 会 事務 局の手 厚い保 護 を受け、
代わ りに会 社 運 営の主体は博厂
・
鯊 奪
ポ
.
.
∵
概
デξ
.
歯豪
灘
:
舞
懸
食 器 図 案 起 立工商 会 社 (『明 治の装飾工芸図 案』京都 書 院よ り) 覧 会 事 務 局が行 な うとい う、
い わ ば半 官 半 民の よ うな か た ちで運営さ れ た。
起 立 工商会社は外 部の職人 に美術工 芸 品の製 作を 依 託 した が、
このな か か ら明治の美 術工芸 会を代 表 する人材が 輩出 し た。
宮 川香山、
柴田 是真、
二三浦 乾 也、
白Ill松 哉、
小川松 民、
池田泰 真、
鈴 木艮吉、
渡辺省 亭らである。 起立 工商 会 社は独 自に付 属工場を 設 置 し、
陶画工 服部 杏 圃 を工場 長に任 命、
陶 器 製 造 絵 付を行なっ た。
同社 は、
ウ ィー
ンの他 海外の万 国博 覧 会開 催を機に、
ニ ュー
ヨー
ク、
パ リ等に支 店 を設 け、
会 社 発 展の足 掛か りをつ くっ た、
,
しか し、
放 漫 経 営 が た た り、
累 積 赤 字が増え、
1991 (明 治24)年夏 に解 散し た。
(小 ) 型 而 工 房 昭和 初 期には、
西 欧の モダニ ズム め デ ザ インや 生活の近 代 化の影響 を受 け て、
わ が国におい て も住宅 や 生活の領 域 で、
近 代 化 と合理 化の方 向が進め ら れ た。 そ うし た な かで、
1928(昭和3
) 年、
建築 界の振 興 運 動 グルー
プの分 離 派に所 属してい た建 築 家 藏田周 忠 (当 時 東 京 高 等工芸 学 校講師)を 中 心 に、
東 京 高 等工芸 学校の卒 業生豊口克平、
松 本政雄、
斉藤四 郎、
中島 賢 次、
小林 登、
伊 藤 幾 次 郎、
池 辺 義 敦、
岩井良二、
佐藤梓 次を メンバー
と して、
新 生 活 用 具の研 究 組 織 「型而⊥房 」が 誕 生 し た。
1931〔昭和6
)年には池辺、
岩 井、
佐 藤 が 去 り、
高橋 実と手 塚 敬三 が参加 し、
以後 10 年近く活動が続い た。
1928 (昭和 3)年の型而工 房の パ ン フ レッ ト に よ る と、
「型 而工房ハ 室 内 工 芸ヲ中心 ト シテ出 来 得ル ダ ケ大量 二、
質 実二、
尚 市場ノ生産ヲ目標 トス ル モノ デス」と あ り、
工房の研究と製 作品 は家具のデザ インを中 心に、
木 材、
金属、
染織、
紙、
硝 子 な どの 日常 生活用品全 般にわ たる もの であっ た。 型而1
二房とい う名 称 は、
形 而 上的と い う無 形なデザ イン理論と工房とい う も のづ くりの実践的 行 為との結 合を目 指 すこと か ら 生 ま れ た もので あ る。
型 而 ⊥房の活 動は実 験・
調 査研 究を 中 心に しており、
「τ房ラポル ト (レ ポ・
一
トのエ ス ペ ラン ト語)』による と、
パ イプ椅 子の研 究、
イン テ リ アと家 具 の関係、
生 活実 態 調 査、
家具の設 計と 試作、
作 品展 示 会と講 演 会を実 施、
特 に テス トチ ェ ア によ る 日本人の体 格に 関 する適 合 寸法の実験は人 間工学 的研 究の初 めて の試みであ り、
画期 的なも の で あっ た。 1928 (昭和3
)年、
新 宿 紀 伊 国屋 画 廊で第1
回 展 を 開 催、
そ の後1
年おき に 4回展 示 会を実 施し た。 ま た、
主婦 の友社 と協力し て、
1940年頃まで作品 の普 及につ と め た。 「新 しい住 宅と家 具 」「新しい家 具と室 内の問題」と題 する講 習 会 も2回実 施し、
注 目を集め た。
(鍵) 樫葉 会 樫 葉会 は、
1915 (大 正4
) 年9
月 東 京 高 等工 業 学 校 (現 在の東 京工業 大 学 )で木工 技 術 を学ん だ 同志 10 余名 が集っ て会を重 ね、
1918 〔大正7>年 11月藏 前 工 業 会事務 室 に おい て 発会 式 をあ げ、
翌 年 同 会の機 関 誌 『木工 と装 飾』を創 刊 し た。
こ の会の目的は 「室 内装 飾、
家 具 及び木工芸に関す る学 術 的研究 と その成果を一
般に広 く普及 さ せる こと」で、
当 初の役 員は次の人 び と で あっ た。
会 長 は 木檜 恕一
(当 時 東 暴高 等工業 学 校 助 教 授 〉、
常 任 幹 事は 森谷 延雄、
当番幹事は 加 納淳男、
寺 坂 毅、
雑 誌 「木工 と装飾 」の編 集は森 谷 延 雄、
吉 田賢、
武問主一、
寺 坂 毅が担 当した。 樫 葉 会は、
発足 してからユ年 後に、
全 国の木工関 係 者2.
000人 余の組 織に 発 展 した。
第1
次 大戦 に よ る木工 に 関 する需要の増 大や、
合板、
ブ ナ材、
ラ ワン材 な ど新材料の活用 が高 まるなか で、
雑 誌の編 集は木工機 械の利 用法、
工作 技 術の改 善と品 質の向上、
さ らに 住宅 改良運動に ともなう実用家具の普 及に焦 点をあて てい た. 1922 (大正 lD 年にな る と、
樫 葉会 は 「木材工芸 学 会 」と改 称し、
雑 誌 『木材工芸 』の 発行、
木工業 界啓蒙のた め 講演 会や 展 覧会 など を活 発に開催し た。 1923 (大 正藍2)年には、
家具装 飾 協 会との協 力で 「新ら し き家 具と装 飾の 展覧 会 」、
1926 (大 正15) 年には主婦 の友 社の協 力を え て「趣 味と実用の家 具 展 」を開 催し た。
これらの展 覧 会 は、
機 械を家 具づ く りに利 用 し、
美し い 家 具製 品の実現 を意図 し たもの で あっ た。 テ ザ イン学研究特纂 号 SPEGIALISSuEOFJSSDVa13 No 3 1996 45 N工 工一
Eleotronlo Llbrary木工と装 飾 (樫 葉 会 > 1921年 木 材二L芸 学 会 会 長の 木 檜恕
・
は、
1881 (明治14)年生 まれ、
群馬県出身。
1908(明 治41)年 東県高等工 業学校卒 業 後、
母校の助 教 授、
1921〜
23 (大正 10〜
12)年木材⊥ 芸研究の た め 欧米に 留 学、
1923(大iE
12)年 帰 国後 新 設の 東 京 高等工芸学 校 木 材工芸科 教授に着 任、
家 具 木工に関す る学 術 研 究、
木工 界の技 術 改 革、
家具の設計およ び製 作 な どの著 作な どで活躍 し た。 (鍵 ) 芸 術工学と芸 術工学 学 会 「芸術 工 学」は、
新 構想 大学のネー
ミ ングに由来 する。福 岡市の芸術 家た ちの、
九州 に芸術系の大学 が 欲 しい と い う 声 が ようや く実 現す る き ざ しがみ えた 昭和39
年の夏、
国立 産 業 芸術大 学 設 置の会 議 が 開 催 さ れ た。
し か し な が ら、
最 終 報 告で も名称 決定にいた ら ず、
「芸術 工科 」、
「国 立 産業 芸 術 」、
「産 業設計 」 を候 補に あ げ た。
後の会議で、
第3
案 は技 術よ り も社 会 経 済 的な意味が強く、
第2
案は商工 業 のた め に 芸 術 が 利 用 さ れ る 意味にと ら れやす く、
第1案に落 ち着 き、
九州 芸 術工科 大 学と なっ た、
,
小 池 新二 (1901〜
1981)は会 議を 主導し、
後に初 代 学 長 を勤めた。
新しい事を起こすには、
なに より新 鮮な イメー
ジ が大切 で あ る。
「芸 術工 科 」は、
その新 鮮 さの故に成 功し た。
北 海 道東海 大 学 に 芸 術 工学部 が開設 さ れ、
後に神戸、
山形と芸 術工科 大 学が 誕生 したこ とがその こと を 立証してい る。
さ ら に、
1992 年、
芸術 工学 会が 設 立 さ れ た。 (1995年10月現 在、
会 員 数 278名、
賛助 会員7口)。
と も あれ、
そ の新鮮さ は日本語の語 感に よ る もの といっ て よい。
元 祖の九 州 芸 術T一
科 大 学の 英 語 名 称 は“
KYUSHU INSTITUTE OF DESIGN
”
で あ り