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現代金融機関の社会的責任

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(1)

現代金融機 関 の社会 的責任

経済学研究室 藤 は じ め に一一問題 の所在一一

I

「企業 の社会的責任」 に関す る論点整理 Ⅱ 現代金融機関の公共性 Ш バ ブル経済期の銀行行動 と現代金融機関の社会的責任 Ⅳ 銀行 の社会的責任 と「自主性」 について

V

金融機関の社会的責任 と金融労働者の役割 は じ め に一 ― 問 題 の 所 在 ― ― 1990年代初頭

,バ

ブル経済の崩壊 を契機 として

,い

っせいに金融 。証券不祥事が明 るみに出た。 いわゆる

,偽

預金証書の発行やそれを担保 とす る不正融資な どの不祥事が

,同

時多発的 に起 こった のである。 まずその発端 は

,1991年

6月 の大手証券会社 による巨額の損失補填の発覚であった。つ づいて

,富

士銀行や 日本興業銀行 を舞台 とす る巨額 の不正融資事件。 さらに

,住

友銀行 とそれ をメ イン・バ ンクとす る商社 との出資法違反事件 な ど

,そ

うそうたる都市銀行が

,こ

の種 の事件 に名 を 連ねた。 確かに

,過

去 に も社会 に衝撃 を与 えた金融 。証券不祥事 は存在 した。 しか し

,そ

の多 くは職員 に よる個人的な詐欺行為の域 を出るもので はなかった。だが

,今

回の金融・証券不祥事 は違 っていた。 明 らかに

,金

融機関および証券会社 による組織的な不法行為であった ところに特徴が ある。 それだ けに

,こ

れ ら不祥事が社会 に与 えた影響 は極 めて深刻である。現在 において も依然 として

,景

気回 復への重い足枷 となっているだけで はない。バ ブル経済期 には

,銀

行 による不動産関連会社への過 剰融資が

,資

産 インフレを引 き起 こし地価高騰 を招 くことによって

,固

定資産税 の増税 や家賃 の値 上げをもた らし

,ま

た庶民のマイホームの夢 を奪 った。他方

,バ

ブル経済 の崩壊で は

,資

産 デフレ による銀行や各種信用組合 な どの破産 。信用不安 を招 き

,国

民経済 と国民生活全体 に与 えた損失 は, はか りしれない と言わなければな らない。 外見的には

,厳

格 で規律性 に富み

,精

密機械 のように誤 りを知 らない と思われていた銀行。 その ヴェールが はがれ,ついに内幕が国民の前 に露呈 された感がある。「銀行が聖域か らひ きず り出され た

Jの

である。 こうして 日増 しに

,銀

行 に対 す る社会的な風婆た りが強 まっている一方で

,銀

行サ イ ドも事 の重大 さに気付 き始 め

,現

,倫

理綱領づ くりや行動規範の再検討が行 なわれている。 し 安 田

(2)

藤田安一 :現代金融機関の社会的責任 か し

,通

リー遍 とうの書面の操作で片づ くわ けで はない。 今後

,日

本 の金融 システムの安定化 のために

,銀

行 を含 めた金融機関 はどうあるべ きなのか―一 この疑 間に応 えることは

,ま

ざれ もな く現在

,国

民 に提起 された最重要課題 の一つであると言 って もよいであろう。本稿で は

,こ

うした課題 に応 える手がか りとして

,銀

行 を中心 に現代金融機関の 社会的責任 をめ ぐる現状 を明 らかにし

,現

代 の金融機関が

,い

かにすればその社会的責任 を果 たす ことがで きるか を考察す る。

「企業の社会的責任」に関する論点整理

金融機関の社会的責任 についての検討 に入 る前 に

,ま

,金

融機関を含 めた「企業 の社会的責任」 に関 して

,簡

単 な論点整理 を行 なってお こう。 もっ とも,「企業 の社会的責任」といって も

,狭

,企

業本来 の規定的動機である利潤 の合理的追 求 のみをもって社会的責任 とす るものか ら (本稿で は

,こ

の狭 い意味の社会的責任 は「企業 の社会 的責任」には含 まない

),広

,企

業 の有す る能力 の積極的活用 による社会福祉向上への貢献 を求 め る社会的責任論 まで

,そ

の言葉 は極 めて多義的 に解釈 され

,使

用す る個々人 によってその内容 は大 きく異 なっている。学問的にも定説があるわ けで はない。 しか し

,

この問題 についての議論 は

,資

本主義 の発展 にともなって生 じて くる大企業 と

,そ

の活 動 の社会的影響力 の大 きさにともなって

,古

くか ら活発 に展開 されて きた。すなわち

,資

本主義的 企業が勃興 した初期か ら

,大

企業の苛酷 な苦汗労働 や市場での独 占的支配力 について

,根

強い社会 的反感があった。 これに対 して企業側 も

,慈

善的 。温情的な福利施策 をとった り

,パ

ブ リック・ リ レー ションズのための活動 を展開してきた(1七 とりわけ

,わ

が国に関 しては

,高

度経済成長 のひずみが

,1960年

代後半か ら70年代 はじめにか け て企業行動への社会的批判 となってクローズ 。ア ップされた時

,改

めて

,現

代 における企業 の社会 的責任 を考 える素材 として

,こ

の「企業 の社会的責任」論 の検討が行 なわれた0。 ここで は

,そ

の論 点 をご く簡単 に整理す るとともに

,著

者 の意見 を述べ ることにす る。 あ らか じめ

,最

初 にい くつかの論点 を提起 してお こう。第1に

,そ

もそ も

,企

業 の社会的責任 を 認 めるか否かである(社会的責任 の否定論 と肯定論)。 第2に

,企

業 に社会的責任があるとした場合, その責任 の内容 はなにか (社会的責任 の内容)。 第3に

,そ

の責任 は誰が誰 に対す る責任 なのか(社 会的責任 の主体 と対象)。 順次

,検

討 しよう。

(1)社

会的責任の否定論 と肯定論 まず

,社

会的責任否定論の代表者 には

,Friedmanゃ

Levittな どがあげられる。いずれの論者 にお いて も若干ニュアンスの違いはあ りなが らも

,競

争的な市場経済 を支持 し

,価

格 の資源配分機構 に 絶対的な信頼 をおいてい る点で は共通 している。彼 らはこうした立場か ら

,企

業が社会的責任 を受 け入れ ることは

,企

業 のコス ト増加 につなが り

,そ

の分 は価格 の上昇 とな り

,結

,高

価格 とい う 形で消費者 に転嫁 された り

,低

賃金 とい う形で従業員 に転嫁 され る

,

と主張す る。 また

,企

業経営 者が こうした社会的 目的のために決定権 を行使す ることは

,企

業 の株主 に対す る法律的義務 を侵す ことになる

,

と反対す るのである。例 えば

,Friedmanは

次のように述べている。 「企業 の社会的責任 は

, 1つ

それ も唯1つだけしかない。すなわち

,オ

ープンで 自由な競争 とい うゲームの規則 にごまか しや不正手段 を用いず に従 ってい く限 りは

,そ

の利潤 を増大 させ るよう資 源 を利用 し

,活

動 しなければな らない とい うことである。 ……企業幹部が

,彼

らの株主のために可

(3)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 47巻 第

1号

(1996) 能な限 り利潤 をあげる とい う以外 の社会的責任 を受容す るとい うことほど

,我

々の自由社会の根幹 を完全 に崩す ことがで きる傾 向 はない。 これ は

,基

本的 に破壊的な教義 なのである。」

0

こうしたFriedmanの議論が正当性 をもつためには

,少

な くとも

,次

の点が論証 されなければな ら ないであろう。第1に

,競

争的市場経済 の もとで

,企

業 は自己の経済的利益が最大 となるような合 理的行動 をとるとき

,社

会全体 の福祉 も最大 になること。第2に

,企

業 の規模が

,社

会全体 に影響 を与 えることがで きないほ ど小規模 であ り

,し

か も

,企

業活動 の影響が経済的側面 に限 られている こと。 しか し

,現

実 に照 らして

,不

完全競争が しばしば大 きな力 を発揮 しFriedmanの言 うように「 ごま かしや不正手段」が用い られ

,企

業 と社会 との結びつ きが

,ま

す ます広 くかつ緊密 になる現代社会 では

,企

業が社会 に与 える影響力 は絶大であ り

,そ

れ は経済的領域 のみな らず

,政

治的

,文

化的領 域 にまで深 く浸透 している。 こうした「企業社会」 といわれ る状況のなかで

,た

えず企業 はその活 動による社会的影響 を考慮せ ざるをえない ことはもちろん

,か

つてわが国が経験 し

,現

在 において もそうであるような

,企

業 による公害・ 環境破壊や不公正 な取引 きな ど

,企

業が市民生活 を圧迫す る事態 に対 して

,そ

の社会的責任 を問 えないはず はないであろう。 他方

,社

会的責任 を肯定す る立場 に立つ論者 には

,Da

s,Berle,Druckerな

,多

くの経営学 者 をこの中に含 めることがで きる。 とくにDa sは

,現

代企業が有す る社会的影響力 の増大 とい う 事実 を踏 まえて

,つ

ぎの3つの命題 を提示 し

,社

会的責任 と企業権力 との相関性 を強調 した。第1 の命題―「責任 は権力 に伴 う

J,第

2の命題―「責任 の縮小 は権力 の縮小へ と導 く」

,第

3の命題一 「責任 の履行 は権力の維持 もし くは促進へ と導 く」。これ らの命題 を通 して

,Davisが

主張 したかつ たことは

,企

業が存在 しようとす るな らば

,そ

の権力 に照応 した社会的責任 を受 け入れなければな らず

,責

任 を回避すれば企業 は存在 しえない という責任鉄則 (the lrOn Law of Responsibility)で あった。

(2)社

会的責任の内容 以上 のように

,ひ

とまず企業 の社会的責任 を肯定す るとして

,つ

ぎにその責任 は

,

どういう内容 をもった責任 なのかが問題 となる。 この点で は

,先

に述べた ように現代 の企業活動 の社会的影響力 の強 さとその範囲の広 さを考慮すれ ば,Ecllsの主張 を支持せ ざるをえない。Eellsは企業 の社会的責 任の内容 として

,広

義 に法律的な らびに道徳的な2つの意味 を含 み

,か

つ経済的責任 のみならず非 経済的責任 をも含 めている。Eellsは言 う。 「ほ とん どのひ とび とが

,会

社 の公共的責任 について広 く語 るときに心 に抱いてい るのは

,こ

れ らの明確 に法律的な概念で はない。む しろかれ らは

,会

社 と社会 の間の関係 を律 すべ き倫理的原則, 会社企業が ビジネスの場 を支配す るときに生 じる経済的問題

,お

よび公共政策が “会社権力

"を

処 理 しなければな らない ときに直面 さるべ き政治的問題 を考 えつつある。」141

(3)社

会的責任の主体 と対象 誰が責任 の主体であるのかについて は

,現

代の株式会社形態で一般的にみ られ るように

,所

有 と 経営の分離 を通 じて

,企

業 の意志決定権が経営者 に移 り

,企

業 による利益追求が必ず しも所有者 の 利益 に帰結 しない状況 においては

,

トップ経営者 を社会的責任 の主体 とみなしてよいであろう。 こ うして

,責

任 の主体 を確定す ると

,そ

の責任 は誰 に対す る責任であるのかが

,つ

ぎに問題 となる。 上記か ら導かれ る結論 として

,責

任 の対象 は企業 の トップ経営者 をのぞ く企業の利害関係者 という ことにな り

,図

1に 示 したように

,株

主のみならず従業員や消費者

,地

域社会 な どを含 めることが で きよう。

(4)

藤田安一 :現代金融機関の社会的責任 図

1

企業の利害関係集団 (注)大月博司・高橋正泰『経営学―理論と体系』(同文舘,1986年)78ペ ージより作成。 以上の検討か ら明 らかになった ことは

,次

の点である。すなわち

,資

本主義の発展 に ともない企 業 の影響が強 まり

,そ

の強大 な独 占力 をもって社会 との結びつ きを強 めつつある限 り

,企

業 は

,自

らの私益 と区別 された社会的ない し公共的利益 に対する社会的責任 に,たえず直面せ ざるをえない。 そして

,ひ

とたび この責任 を回避すれば

,企

業 は Davisの 言 う「責任鉄則」によって

,た

ちまちそ の存亡の危機 に立 たされ るとい うことである。 現代企業が置かれた このような危機感 を反映 して

,戦

後いち早 く

,わ

が国で も1956年に

,経

済同 友会 は「経営者 の社会的責任 の自覚 と実践」 と題す る次のような決議 を公表 した ことがある。 「そ もそ も企業 は

,今

日においては

,単

純素朴な私有 の域 を脱 して

,社

会制度 の有力 な一環 をな し

,そ

の経営 もただ資本提供者か ら委ね られておるのみでな く

,そ

れ を含 めた全社会か ら信託 され るもの となっている。 と同時 に

,個

別企業 の利益がそのまま社会のそれ と調和 した時代 は過 ぎ

,現

在 においては

,経

営者が進 んでその調節 に努力 しなければ

,国

民経済 の繁栄 はもちろんの こと

,企

業の発展 を図 ることはで きな くなっている。換言すれば倫理的 にも

,実

際的にも単 に自己の企業の 利益のみ追 うことは許 されず

,経

,社

会 との調和 において

,生

産諸要素 を最 も有効 に結合 し

,安

企 業 (ト ップ経営者)

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 47巻 第

1号

(1996) 価かつ良質な商品 を生産 し

,サ

ー ビスを提供す るとい う立場 に立 たな くてはな らない。 そして

,こ

のような形の企業経営 こそ

,ま

さに近代的 とい うに価す るものであ り

,経

営者 の社会的責任 とは, これを遂行することにほかな らない。」。)(傍点 は引用者) まさに

,格

調高 く明解 な文章である。 しか し問題 は

,そ

の明解 な表明ゆえに

,ま

す ます社会的責 任 に関する現実の不毛 さを浮 き立 たせていることにある。私達 は高度経済成長期 の公害問題 あるい はオイル・ ショック時の狂乱物価

,さ

らにバ ブル経済期 のマネー・ ゲームのいずれにおいて も

,つ

ねに主役 は企業であった こと。 そして また

,い

ずれ をとってみて も企業が外か らの社会的批判 を受 けないか ぎり

,自

らその社会的責任 をとろうとはしなか った事実 を想起 しなければな らないであろ う。企業の社会的責任 の問題 ほど

,言

葉 と実態 とのズ レを痛感 させるものはない と言 つて よい。今 回

,改

めてその感 を強 くしたのは

,ま

さに金融機関の社会的責任問題であった。

H

現 代 金 融 機 関 の公 共 性 金融機関の社会的責任 を考 える場合

,上

記 の企業 の社会的責任 に関す る検討で明 らか にした諸点 が

,そ

のまま妥当す る。ただ し

,金

融機関が他の一般企業 に比べて高い公共的性格 をもち

,し

たが つて

,厳

しく社会的責任が聞われる とい う事実 を考慮すればの ことであるが。 とくに銀行 は

,他

の私企業 に比べて

,一

方でその預金 の受 け入れ業務 によって

,不

特定多数 の国 民 に貯蓄手段 を提供 し

,他

,貸

出 し業務 によって

,多

くの経済主体 に対 して重要な資金 の供給 を 行ない

,総

じて

,資

金の供給者 と需要者 との間の円滑な資金移動 を可能 にし

,一

国の生産 お よび消 費の規模 と方向を決定 している。 したがって

,い

ったん銀行 の こうした公共′性が失われ る事態がお きると

,た

ち どころに

,金

融・ 通貨 システムに対す る信用 を失墜 させ

,社

会経済全体 の混乱へ と発展す る。 そうした事例 は

,1920

年代末か ら30年代初頭 におけるアメ リカや昭和初期 のわが国の金融恐慌 をはじめ

,多

くの歴史的経 験が示す ところである。 さらに現在の銀行 をとりま く状況 は

,金

融 自由化・ 国際化 の進展 にともなって

,銀

行間の競争 は 激化 し

,資

金調達 コス トの上昇が もた らされ

,収

益面での余裕 を狭 め不確実性の リスクが大 き くな るため

,銀

行 はます ますその公共性 を発揮す る基盤 を弱 めるであろう。 しか も

,そ

の ことは銀行 の 国民経済への影響力 を低 めるどころか

,ま

す ます増大す る過程 のなかでお きるため

,銀

行 の行動 と 国民経済 とのコンフリク トを強めざるをえない。今後 の銀行 は

,そ

の規模 の拡大 と業務 の多様化 に よって

,好

む と好 まざるとにかかわ らず

,社

会 に与 える影響力 の増大 はさけられないのである。国 民経済 を動か し続 ける資金循環 のなかで

,銀

行 の占める地位 は

,

もはや不可欠 という以外 にない。 その要因 は

,つ

ぎの諸点に求 められ よう。 第1に

,金

融機関に対す る国民 の期待 の増大 と多様化である。 かつてのように国民 は

,虎

の子 の預金 を預 け

,主

にその預金保護 を銀行 に期待 してい るだけでな く

,現

,所

得や貯蓄や消費が量的に増大 し

,ま

た多様化 してい くなかで

,銀

行 にはそれ に対応す る良質 な金融サー ビスの提供 を求 めている。 1960年代 の後半 にはい り

,IC(集

積 回路

)を

用いた第

3世

代 のコンピューターが登場 す るや

,大

銀行 は競 って これ を導入 し

,預

金・ 内国為替業務 を中心 に

,コ

ンピューター と営業店 の端末機 を通 信 回線で直結 して即時処理す るオ ンライ ン・ システムヘ と移行 していった。 こうしたオ ンライン化 によって

,営

業店 の後方事務 の集中化がすすみ

,そ

れだけ事務 セ ンター等の事務集中部門のウエイ

(6)

藤 田安一:現代金融機関の社会的責任 卜が人的にも機能的に も高 まるに至 った。 そ して

,オ

ンライン化 による労働生産性 の上昇 と事務処 理 コス トの低減 は

,

どの支店で も入出金が可能 なネ ッ ト・ サー ビス預金や総合 口座

,給

与振込みお よび公共料金の自動振替 え

,ク

レジッ ト・ カー ド等々の新 たな商品・ サー ビスの供給 を可能 にし, 銀行業務 の「大衆化」「多様化」 を促進 させた。 第2に

,産

業構造 の転換 に ともな う企業 の金融機関への要請である。 高度経済成長 を支 えた重化学工業 の過剰設備 や原油高 による石油多消費型の素材産業 な どの急激 な競争力低下 は

,1970年

代後半以降

,わ

が国の産業構造 の転換 を促 した基本的要因であつた。大企 業 の「減量経営」に伴 つてすすめ られた

,い

わゆる重厚長大型産業構造か ら半導体

,集

積 回路

,LSI

(大規模集積 回路,Large Scale lntegration),マ イクロ・ コンピューターな どの先端技術産業への 転換である。企業 は新 たな産業分野開拓 のための金融支援 を金融機関に求 める一方で

,企

業 は自ら の高蓄積 と80年代 の金融の自由化・ 国際化 によって調達 した過剰資本の運用先 を確保 す るため

,金

融機関に対 して各種 の金融商品の開発 を求め資本 の「証券化」 を要請 していった。 第3に

,国

際化 の進展 に対 する金融機関の対応である。 日本企業の急速 な海外進出に伴 う多国籍企業化 の進展 は

,銀

行 の活動領域 を大幅 に拡大 しつつあ る。 さらに

,非

居住者 の対 日投資の自由化 による外資の導入

,外

為法改正 に ともな う海外か らの資 金調達の自由化 による大量の外貨 の流入 な ど

,外

為法改正 を契機 とした国際化が多様 な形態で進行 している。当然 なが ら

,こ

れ らは日本 の金融機関 に国際金融市場 と外国金融機関 との恒常的な接触 を余儀 な くさせ

,時

に国際的金融摩擦 を引 き起 こす ことは避 けられない。 そのたびに

,わ

が国の銀 行 はその経営理念 と行動規範 の見直 しを迫 られ ることになるであろう。 ともあれ

,現

在 み られ ように

,金

融 の自由化 。国際化が急速 に進展す ることによって

,ま

す ます 銀行業務が国内外 の諸団体・ 諸個人 との結びつ きを強め

,文

字 どお リグローバルな展開 を示す と, その影響 は広範囲 にお よび

,各

国の金融 システムに重大 な結果 を招 くことになる。 だか らこそ

,銀

行 に とって公共性 を確保することは

,他

の私企業 のそれ以上 に重要な意味 をもっている。現代 にお ける銀行 の社会的責任 とは

,ま

さにそのような銀行 による公共性 の自覚 にもとづいている と言 えよ う。 Ⅲ バ ブ ル 経 済 期 の銀 行 行 動 と現 代 金 融 機 関 の社 会 的 責 任 しか し現実には

,上

記の意味 における銀行 の社会的責任への自覚が

,著

し く収益優先主義 に吸収 されていった。 その典型 を

,私

達 は1980年代後半か ら90年代 にか けてのバ ブル経済期 の銀行行動 に みることがで きる。 わが国 は1986年の「円高不況

Jを

短期間の うちにク リアー し

,早

くも1987年には景気 の回復基調 に入 った。にもかかわ らず

,政

府 はそれ以降1990年 の上期 まで

,公

定歩合 を

2.5%に

据 え置 く超低金 利政策 をとりつづ けた。企業 はこの超低金利時代 に「転換社債」や「フラン ト債」な どエ クイティ・ ファイナンス (equity inance,新 株発行 による資金調達)のための巧妙 な手段 を使 い

,低

コス トで 過剰 な資金調達 を行 ない設備投資や土地投資 を拡大す るとともに

,株

式投資な どの金融資産投資, いわゆる「財 テク」 を活発 に行 なった。都市銀行 を中心 とする大銀行 は

,自

らこうしたマネー・ ゲ ームを積極的に展開 し

,土

地や株 を転売す ることによって投機的利得 を獲得する と同時 に

,

これ ら 企業や不動産会社 に対 して

,土

地や株式な どの担保価値 を慎重 に審査せず

,異

常 な貸 出 し競争 にし の ぎを削 り

,地

価や株価 の暴騰 に象徴 され るバ ブル経済 を創 り出 したのである。

(7)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 47巻 第

1号

(1996) こうした銀行や証券会社 による収益至上主義的な経営戦略の必然的帰結 として

,小

口投資家 を犠 牲にした大 口投資家への損失補填や

,暴

力団 と癒着 した株 の仕手戦での株価 のつ り上 げとそのため の融資

,都

市銀行 による架空預金証書 の偽造 とそれをもとにした不正融資等

,数

々の金融 。証券ス キャングルが発生 した。 まず

,証

券会社 による損失補填 は,1988年 9月 期か ら91年 3月 までの間 に大企業 を中心に延べ787 件

,2164億

円の巨額 にのばることが明 らかになった。 さらに

,野

村證券 と日興證券が

,広

域暴力団 である稲川会前会長 に値上が り前の東急株 を信用取引で売 り

,そ

の後

,取

引決済 のための関連会社 である野村 ファイナンス と日興 クレジッ トか ら

,同

株券 を担保 にそれぞれ数百億 円を融資 した事実 が明 るみに出た。 一方

,銀

行で は日本興業銀行が関連 ノン・ バ ンクな どとともに

,暴

力団 とのつなが りが指摘 され ていた料亭 の女将 に

,東

洋信金の架空預金証書な どを担保 に5000億 円にものぼる資金融資 を行 なっ ていた。 また

,富

士銀行や東海銀行

,協

和埼玉銀行で は

,架

空預金証書 を偽造 しノン・ バ ンクか ら 巨額の資金がひ き出 され不正融資が行 なわれていた。 さらに

,住

友銀行が社長以下多数の役員 を送 り込み

,巨

額の融資 を行 なっていた中堅商社イ トマ ンが

,ゴ

ル フ場や絵画取引に2500億 円の資金 を つざこみ,そのほ とん どが闇 に消 えた事件 な ど,およそ表面化 した事件 だけで も

,銀

行 の反社会的・ 反公共的行為の多様性 とその規模 の大 きさに驚か され る。 バブル経済期の銀行 による社会的責任 を省みない行動の数々 をみると

,銀

行がつねに口を開けば 公共性 の必要 を説 くことの白々 しさが

,逆

に浮 きば りにされ よう。 同時 に

,そ

うした銀行 の反社会的行動 を生んだ歴史的背景 には

,1980年

代 における金融 自由化 の 推進が

,

もっぱら金融機関の効率性 のよリー層の達成 を目標 とし

,そ

のための金融 自由化が異例 の スピー ドで推 し進 め られた とい う事情 を考慮 に入れなければな らない。そこで は

,市

場 のメカニズ ムを通 じた資金 の効率的配分

=公

共性 とい う図式の もとで

,効

率性 は必然的に公共性 を約束す るも の とみなされた。 しか し

,そ

れ以前すでに

,こ

うした図式が疑間視 され

,反

省 をせ まられた時期があつた。1970年 代 はじめがその時期であ り

,経

済的混乱 と不況 を背景 に大企業 に対 して きび しい社会的責任 の追求 が行 なわれた頃であった。金融制度調査会 は

,1970年

の金融制度調査会答申「一般民間金融機関の あ り方等 について」 において

,金

融機関の効率性 と公共性 との関係 について

,つ

ぎの ように述べた ことがある。 「金融機関の公共性 は

,具

体的には預金者保護

,資

金配分

,金

利等の面で問題 となるが

,金

融機 関における効率化 とは

,ま

さにこれ らの各面 における金融機関の機能 を国民経済的見地か ら望 まし い方向に十全 に発揮 させてい くことをね らい とするものである。したがって

,金

融機関の効率化 は, 本来その公共性 の基盤 の上 において行 なわれるべ きものであ り

,ま

,

このような見地か らの効率 化が推進 され ることによって

,金

融機関の国民経済的機能 の面で公共性が よ り高め られ ることが期 待 され ると考 える。」161(傍点 は引用者) みるように

,公

共性 は効率性 を追求す ることによって必然的 に達成 され るので はな く

,あ

くまで も公共性 を基盤 にして効率性が追求 されなければな らない

,

とい う考 え方が

,上

記 の答 申によって 示 された。 そして

,そ

の後 の金融機関の行動が この答申に忠実であったならば

,バ

ブル経済期 にみ られるような

,金

融機関が国民経済 に多大 な損失 をもた らし国民的批判 にさらされ るような ことは なかったであろうし

,不

良債権問題 にみ られるように

,自

らの経営基盤 を弱体化 させ著 し く信用不 安 を惹起す るとい う状態 は起 こらなかったであろう。金融機関の社会的責任問題 については

,こ

(8)

藤 田安一:現代金融機関の社会的責任 ほど言葉 と事実

,意

識 と実態 とのズ ンを鮮明に映 し出す ものはない。 Ⅳ 銀 行 の社 会 的 責 任 と 「 自主 性 」 に つ い て では

,ど

のようにすれば金融機関 はその社会的責任 を果 たす ことがで きるのであろうか。現在, その答 えの種々な技術 的手段 はともか く

,そ

の考 え方の基本 は

,す

でに1979年の金融制度調査会 の 答 申お よび1981年改正 の新銀行法 によって提起 された といえる。すなわち

,金

融 自由化・ 規制緩和 に基づいて

,あ

くまで銀行 の自主性 に委ね ようとするところに特徴がある。 た とえば

,1979年

の金 融制度調査会答 申「普通銀行 のあ り方 と銀行制度 の改正 について

Jは

,つ

ぎのように述べている。 「国民経済全体 の見地か らみた効率的かつ公正な資金配分の実現 を図ってい くためには

,将

来 に 関する不確実性 の要素

,外

部不経済効果等 の存在 もあ り

,市

場 メカニズム を通 じる競争原理の活用 のみによって は現実 には十分でない ことに留意 し

,銀

行が

,長

期的観点 に立 ち社会 のニーズを的確 に把握 し

,自

己努力 によ り自主的に経済社会 の要請 に対応 してい くことが必要である。 そのためには

,銀

行の融資面 の態勢 を整備 してい く必要があるとともに

,銀

行 によるエーズの把 握及び自己努力 を促進 し

,銀

行 に対す る社会的要請 と銀行 の私企業性 との調和 を図ってい く自己規 正策 として

,資

金運用 を中心 とした銀行 のディスクロージャーを拡充 し

,活

用 してい くことが有効 であると考 える。」9) 以上

,わ

ずか数行 の引用文 の中で

,自

主性

,自

己努力

,自

己規正 とい う類似語が散在 しているこ とか らわかるように

,せ

っか く答 申で個々の金融機関による競争原理 の弊害 と限界 を指摘 してお き なが ら

,依

然 として個々の金融機関の自主性 に信頼 を置 くとい う論理展開 になっている。 さらに

,1981年

6月 に改正 された銀行法 には

,銀

行サイ ドの強い要望 によ り

,そ

の第1条第

2項

において,「この法律 の運用 に当たって は

,銀

行 の業務 の運営 についての自主的な努力 を尊重する配 慮 をしなければな らない」 と規定 し

,銀

行 の自主性 を尊重す る内容 となった。あ くまで

,現

在 の金 融制度改革 は

,

こうした考 え方の延長線上 にある。 しか し最大 の疑聞 は

,金

融機関の社会的責任 とい う公共的性格 を もつ問題が

,金

融機関の自主性 という心の問題 に置 き換 えられてよい ものなのか

,そ

れによって社会的責任 を果 たす ことが客観的 に保証 され うるのか

,

という点である。 ここに

,現

代金融機関の社会的責任 をめ ぐる根本問題があ る。 だが

,こ

の疑 間 に対 す る答 えは

,以

下 にみ るよ うに

,す

で に歴史 的 に決着 ずみで あ る と言 って よ ヤゝ。 1973年の第

1次

オイル・シ ョックの直後,「狂乱物価」 とい う言葉 を生んだように

,諸

物価 の著 し い高騰がお こった。 その原因 として

,物

価 の上昇 を見込んだ商社 による物資の買い占めや売 り惜 し みが指摘 され

,当

,国

民 の不満 と怒 りは商社 に向けられていた。 しか し

,や

がてその商社 に投機 的資金 を与 えていた銀行 の批判へ と発展 し

,企

業 の社会的責任 とともに

,金

融機関の社会的責任が 問題 とされ るようになった。 こうして金融機関の社会的責任 を国民が きびしく追求 した理由は

,金

融機関の自主性 に委ねてお いては

,適

切 な資金配分

,具

体的には社会的 に不当な融資の規制や歩積 み・ 両建預金 な どをな くし て

,個

人・ 中小企業な どを含 むすべての借 り手 にたいす る借入 の機会均等 を実現す るような

,公

共 性 を体現 した金融 システムにはな らないか らである。 さらに

,1980年

代後半か らのバ ブル経済期 に おける銀行行動が示 したように

,金

融 自由化 によって銀行 の自主性が拡大 した結果

,公

共性 を犠牲

(9)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 47巻 第

1号

(1996) にして

,も

っぱ ら収益性優先 に傾斜 し

,企

業犯罪 をぶ くめた反社会的行動 に走 った事実 を想起すべ きである。 それ にもかかわ らず

,

これ ら金融機関の責任 を不間 にしたまま

,依

然 として金融機関の 自主性 に委ねるか ぎ り

,国

民が望んだ公共性 な ど実現 され るはずのないのは当然 の ことであろう。 で は

,金

融機関が どのようになれば

,そ

の社会的責任 を果 たす ことが可能 となるのであろうか。 その答 え として

,私

は別稿で次のように述べた ことがある。 「今後

,金

融機関 は

,金

融 自由化 の進展 に ともな う金融機関の競争の激化 と資金調達 コス トの上 昇 により

,収

益面での余裕が乏 し くな り大 きな不確実性 の リスクを負 うことによって

,ま

す ます公 共性 を発揮する基盤が弱 まるであろう。 それ を放置 して金融機関の自主性 に任せてお けば

,バ

ブル 経済期 のように

,

リス クは大 きいが収益性 も高い分野への貸出を積極化 させ る危険性 をはらんでい る。 この危険性 を回避 しようと

,

リスクを国民 に転嫁すれば

,今

日のような社会的金融危機 を招 き 国民経済 を弱めて しまう。国民経済の弱 まりは

,金

融機関 自身 の効率性 を低下 させ る。 まさに

,悪

循環である。 この悪循環 を断ち切 る道 は

,ま

ず国民生活 を守 りその福祉 を増進す るための資金配分 の適正化 こ そが

,金

融機関の効率性 よ りも,よ り上位 の公共性 を体現 した理念 として社会的に認知 され ること。 そして この基準 に もとづいて

,現

代 日本 の金融 システムのなかで緩和 したほうが よい規制 と

,そ

う でない規制 とを峻別 し

,関

係業界 の利害調整 とい う観点か らで はな く

,国

民が金融機関 に求 めてい るものは何か

,あ

るいは金融機関が国民経済 の安定的発展のために

,ど

のような公共的役割 を果 た すべ きか という観点か ら

,社

会的に必要 とされ る規制 を行 な うことである。 それ をしないで

,金

融 自由化や規制緩和 とい う名の下で

,こ

れ まで公共性 を保障 して きた規制 を一律 に緩和すれば

,再

び バブルの再現 とな りかねない。規制緩和 による競争原理の導入 は

,金

融機関 に利益 の追求 を認 めて も

,決

して社会 に不利益 をもたらす 自由 は認 めていない ことを忘れてはなるまい。」

0

上記の表現 によって

,私

が主張 したか った ことは

,金

融 自由化や規制緩和 とい うス ローガ ンによ って

,日

本の金融 システムの運用 を容易 に民間金融機関の自主性 に委ね ることへの危瞼性であ り, これ まで国民生活 を金融機関の反社会的行為か ら守 って きた規制 まで もが

,金

融 自由化 とい う名 の 下で

,大

幅な緩和 の対象にすることへの警告であった。 しか し

,だ

か らと言 って

,民

間金融機関の自主性 を全面的 に否定 したわけではない。現状 の まま では

,1970年

代 のオイル・ ショック期お よび1980年代後半のバ ブル経済期 における民間金融機関の 行動 をみれば

,金

融機関の自主性 はとうてい信頼 で きない と述べたまでのことである。で は

,金

融 機関 にその自主性 を期待 しようとすれば

,何

が必要なのか。一方では

,上

記の引用文 において述べ たように

,金

融機関が反社会的行為 をしないよう国民の意志 を反映 した下か らの民主的規制が必要 であるとともに

,他

方で は

,金

融機関の内部 において自己の金融機関の行動 をチェックす るシステ ムがつ くられていなければな らない。このうち

,前

者 に関 して は,すでに別稿(9にて展開 した論点 な ので

,こ

こで は

,以

下で後者の重要性 について述べ ることにしよう。

V

金 融 機 関 の社 会 的責任 と金 融 労働 者 の役害J 現在

,金

融機関の不祥事 と金融危機に直面 して,そ の克服の方策がさまざまな角度か ら提起 され, 「ポス ト護送船団方式」の金融行政が論 じられている。一見

,多

彩な政策提起ではあるが

,そ

の圧 倒的部分 は

,金

融機関の外部活動に関連 した ものばか りで

,金

融機関の内部的活動にかかわる関心 は

,極

めて低いのが実情である。

(10)

藤田安一 :現代金融機関の社会的責任 ここにいう企業 の内部活動 とは何かに関 して は

,先

の企業 の利害関係集団を表 した図1を見てい ただ きたい。 この利害関係集団を2つに大 き く分類 す ると

,企

業 の外部活動 に関連 した集 団 と内部 活動 にかかわ る集団 とに分 けることがで きる。前者 の集団には

,願

客や地域社会 な どが入 るし

,後

者 には従業員が入 る。 この2つの分野の うち

,企

業 の内部すなわち従業員 に対す る企業 の社会的責 任 を

,企

業の自主性 との関連で論 じることが

,

ここでの課題である。 現在

,大

企業が リス トラに名 をか りて

,企

業 の一方的な理由で退職勧奨や退職強要が行 なわれ, 従業員が事実上

,強

制的 に解雇 され る事態が広範 にお きている。金融機関 もその例外で はな く

,不

祥事への反省 を逆手 に とって

,金

融危機か らの脱 出 と金融機関の再建 を名 目に

,大

規模 な人員削減 を実施 中である。 その技術的基盤 は

,1980年

代 の急激 な金融 自由化 の進展 のなかで

,都

市銀行 を中 心 に開発がすすめ られて きた第

3次

オンライ ン・ システムによる合理化 にあることは言 うまで もな ヤゝ。 そのため

,銀

行労働者数 は『全国銀行財務諸表分析』 によると

,こ

の10年間に37万 3481名か ら35 万2487名へ と

2万

人以上 も減少 している。 しか も銀行 は

,従

業員 の残業手当の支給 に関 し「時間外 賃金 の予算化」を進 めたため

,予

算枠 を超 える残業時間があつて も従業員 に残業手当を支払わない, いわゆる「サー ビス残業」が常態化 したのである。 これ は

,明

らかに金融機関による労働基準法違 反であ り

,従

業員 の基本的人権 に対す る侵害であ り

,金

融機関が果たすべ き自己の労働者への社会 的責任 の放棄である。 その結果

,長

時間労働 や過密労働か らくるス トレス と疲労 に銀行労働者がお そわれ

,1980年

代 の銀行 は「過労死」 を代表す る企業 となった。 それだけで はない。重要なことは

,こ

うした銀行労働者 のおかれた職場での苛酷 な状態が

,一

連 の金融不祥事 を引 き起 こす要因 となった ことである。 この点 を

,1992年

1月28日付 けの『読売新聞』 は「残業手当

,都

銀 な ど労働法違反」 とい う見出 しで

,つ

ぎのように述べている。 「現在

,都

銀の男子行員の月平均残業時間 は20∼40時間程度 と言われ る。バ ブル (泡

)の

崩壊で, ひ ところよりはかな り労働密度 は緩和 されて きた とされるが

,今

回の調査結果 は依然 として一部で 長時間残業が恒常化 していた。『案件が次々 と入 り

,書

類作成 な どの処理 に深夜 までかか った』 暗ト 銀幹部

)と

いい

,一

連 の金融不祥事の遠因 となった収益至上主義が過密労働 に拍車 をか けた。 ノル マ達成 を迫 られた余裕 のなさが

,不

祥事 にたいす る自己ブレーキが働かなか った原因のひ とつ

,

と の指摘 もある。」 1980年代後半のバ ブル経済期

,銀

行がその公共性 を投 げ捨てて

,極

端 な効率性重視 の経営 に傾 き, ついに

,不

正融資事件や出資法違反事件 などの社会的犯罪 にまみれていった背景 には

,個

々の金融 機関で働 く労働者が

,競

争促進的な長時間かつ過密労働 を強い られていた こと。 したが って

,こ

う した状態 におかれた金融労働者 は

,日

々 ノルマの達成 に追われ

,自

己の仕事の もつ社会的意義 と責 任 を自覚する余裕 もな くなるばか りか

,自

己の属す る金融機関の行動 とその経営状況 をチ ェックで きる立場か ら

,ま

す ます遠 ざけられていた とい う事情がある。 ここに

,内

部か ら金融機 関の反社会 的行為 を抑止で きなかった根本的原因があった と言 えよう。 したがって

,金

融機関が自ら現在 の金融危機 を克服 し

,安

定 した金融 システムをつ くる主体 とし て再生す るためには

,容

易に現在 の金融機関の自主性 に頼 るので はな く

,外

か らの金融機関 に対 す る国民的 コン トロールを受け入れ ると同時 に

,金

融機関 は金融労働者が自らの労働条件 の改善 を通 じて金融機関の意志決定 に参加で きるような体制 を保証す ること。それによって

,金

融機関の内部 か らその社会的責任 を果 たせ るような制度 をつ くりあげることが必要である。少な くとも

,金

融機 関の自主性が信頼 で きるもの となるためには

,金

融機関の内 と外 の両面で

,国

民 と金融労働者 とに

(11)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第47巻 第

1号 (1996) 11

よる

,こ

う した シス テムが つ くられ る こ とを前提 としな けれ ばな らないで あ ろう。

傾)MOrre■ Heald,The Social Responsibilities of Business 1970.企業制度研究会訳 『企業の社会的責任』(雄松堂 書店,1975年)を参照。

9)さ

しあた り,その成果 として次の文献が挙げられる。

1)COmmittie for Economic Developrnent,Social Responsibility of Business Corporation,1971経 済同友会編 訳『企業の社会的責任』鹿島出版会,1972年 。

2)成

毛収一『企業の社会的責任―利潤優先 を問い直す―』 日本経済新聞社,1972年 。

3)乾

昭三,平井宣雄編『企業責任―企業活動に因る法律的責任 を聞 う一』有斐閣,1973年 。

4)中

村一彦 『企業の社会的責任―法学的考察―』同文館,1974年 。

5)鈴

木治雄・太田 薫・ 岸本重棟 。大野 力 『現代企業の社会的責任 とはなにか』昌平社,1974年 。

6)高

田 馨『経営者の社会的責任』千倉書房,1974年 。 7)日本経済新聞社編 『企業の社会的責任ハ ンドブック』 日本経済新聞社,1974年 。 8)日本経営学会編 『企業の社会的責任』千倉書房,1975年 。

9)櫻

井克彦『現代企業の社会的責任』千倉書房,1976年 。 10)土 屋守章『企業の社会的責任』税務経理協会,1980年 。 11)西 村勝弘編『「企業の社会的貢献」資料集 (1980年版)』 株式会社産研,1980年 。

(3)MiltOn Friedman,Capitalism and Freedom,1971,p133

(4) Richard Eells,The A/1eaning of Modern Business,1960,p71

)経

済同友会大会決議 (1956年11月)。 俗

)金

融制度調査会「一般民間金融機関のあ り方等について」『金融』1970年8月 号,27∼28ページ。 解

)金

融制度調査会「普通銀行のあ り方 と銀行制度の改正 についてJ『金融』1979年7月号,36∼38ページ。 偲

)拙

稿「現代金融機関における効率性 と公共性」『鳥取大学教育学部研究報告』(人文・社会科学)第46巻第 2号, 1995年12月,165ペ ージ。

0)同

上論文。 (1996年4月30日受理)

(12)

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