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外套と聖盒 : ボードレール 《或るまどんなに》 富永太郎訳をめぐって

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Academic year: 2021

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︽或るまどんなに︾富永太郎訳をめぐって||

大正期の詩人富永太郎は、その二十四年の生涯に数十篇の詩とボ ド レ l ルとランボ l の翻訳を遺し、日本へのフランス象徴主義の l ド レ l ル﹃悪の華﹄中の一篇︽﹀ z 肘 富 ﹀ U C Z H 凶 開 凶 ’ ︿ C400

ω E C C 、 ﹃ ま ま の ZCC 翻訳︵︽或る 。 ﹃富永太郎詩集﹄の構成について ﹃富永太郎詩集﹄は昭和二年刊行の家蔵版︵村井康夫編︶から、

る一一。これは二十四歳で天折した詩人が遺した作品のうち、発表さ れたものは少なく、多くは未発表のまま僅底に秘められたままにな っていたことによる。小林秀雄の誘いに応じてくわわった同人誌 ﹃山繭﹄に掲載された詩篇が発表作品のすべてで、それも大正十三 年末から没する大正十四年秋までのわずか一年のあいだのことにす ぎない。﹃山繭﹄に発表された詩篇は掲載順に挙げれば、︽橋の上 の自画像︾、︽秋の悲歎︾、︽鳥獣剥製所︾、︽四行詩︵青鈍たお まへの・・・︶︾、︽頒歌︾、︽恥の歌︾、︽無題︵富倉次郎に︶︾、 ︽ 断 片 ︾ の 八 篇

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ただし、創刊号から第六号まで、第二号と第五 号を除いて毎号発表された︵第五号は翻訳のみ掲載︶。作品の発表 は病気と死により中断されることになったが、もし早すぎる死をま ぬがれることができていたなら、さらに作品が発表されつづけたで あろうことをうかがわせるような精励ぶりである。じっさい、曙血 に見舞われ、病床に臥しながらも、詩作と翻訳は進められ、多くは 未定稿として未発表のまま遺されることになる。 没後二年を経た昭和二年に刊行された家蔵版﹃富永太郎詩集﹄の 編者はそうした事情を勘案したのであろう、上述したような構成を

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134 とって﹃詩集﹄を編纂している。そののち刊行された﹃富永太郎詩 集﹄においても、最初の﹃詩集﹄に倣って、やはりおなじく発表作 品・未発表作品・翻訳作品という構成を踏襲している三。 ﹃富永太郎詩集﹄がこのような構成によって編集されるにあたっ ては、まずは故人の文業︵さらには画業四︶を偲ぶための﹁遺稿詩 集﹂という趣旨の刊行であったということが大きかったのであろう。 そのことは、家蔵版巻末の﹁後記﹂表題、﹁富永太郎遺稿詩集後記﹂ にもうかがえるし、その事情はつぎのように記されている。﹁此の 詩集は、遺憾なことに、彼自らの手で編まれてゐたものではなく、 彼の死後、富永家の方や四五の友人等が集って彼の遺作を世に公に することをはかり、主として私が、彼の遺稿から編纂したものであ る。そのことに際して、編者は、日夏歌之介先生の御懇篤な御指導 と、佐藤春夫先生の親身な御助言とを受けた。﹂ ﹁遺作を世に公にすること﹂という意義をあたえられた﹁遺稿詩 集﹂である以上、この天折した詩人が、みずから詩を書くかたわら フランス詩翻訳もおこない、また画家でもあったということを示そ うとする編集上の意図が、﹃詩集﹄の構成に大きくかかわっている のは当然であろう。発表された詩作品がわずか八篇のため、これに 初期からの未発表詩篇を合わせ、さらに未定稿ながらまとまった翻 訳作品を幾篇かくわえ、油彩画、版画、素描画を数葉、表紙や口絵 に配して、以て一巻をなしているのである。 このうち、﹃詩集﹄中第二部未発表作品とほぼ同等の比重をもっ て収められた翻訳作品について、家蔵版編者は﹁後記﹂にこう書い ている。﹁第三部には識調揮を収めた。謙譲の定稿としては、ボオド レエルの﹃人工天園︵ハシ l シュの詩の部︶﹄がある。融課中故人 が最も力を蓋したものであるが、貰数の都合で収録出来ないので、 何れ他の機会を待つことにした。いまこ﹀には、ボオドレエル十篇 ︵一九二二より二三年頃の課︶ランボオ一篇︵一九二四、二一︶を 第 7号 (2010) 鳥取大学大学教育支援機構教育センタ一紀要 収 む る に と ゾ め た 。 ﹂ この﹃人工天園﹄訳は翻訳作品中唯一発表されたもので、﹃山繭﹄ 第四号と第五号に掲載されたが︵第四号は誌面全てが富永太郎の詩 篇と翻訳で埋められ、﹃人工天園﹄は全三十三頁中二十八頁を占め ている︶、これはかねてより﹃人工天国﹄翻訳を進めていた詩人が 友人に﹁﹃人工天園﹄は出版したい欲望が大へん出て来た。さうし て 冨 岱 昌 弘 守 2 2 2 E C D K F g g 包 ロ ⑦ な る 国 ・ ∞ ・ に デ デ ィ フ ィ エ す る ん だ﹂五と書きおくつていたように、発表意欲をつよくもっていたも のである。編者村井康夫が﹁識謬中故人が最も力を蚤したもの﹂と 記したのはそうした経緯による。しかしこれは﹁頁数の都合﹂で収 録は見合わされることになり、それに代えて未発表のボ l ド レ 1 ル 訳詩十篇、ランボ

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訳詩一篇が第三部に収められることになったの で あ る 。 II 翻訳作品について そもそも富永太郎の文学的出発はボ 1 ドレール散文詩の翻訳にあ った。フランス詩の翻訳が詩作に先立ってはじめられたのである。 大正十年四月、二十歳の年、二高在学中の太郎は友人と仙台でボー ド レ l ル生誕百年を祝った一週間後、ボードレールの散文詩集﹃パ リの憂欝﹄中の一篇︽道化とギナス︾を訳し、ついでその五日後お なじく散文詩︽射的場と墓地︾を翻訳している六。最初の詩作︽深 夜の道士︾が同年八月のことであったというから、それに先立つこ と三月である。﹃富永太郎詩集﹄﹁第三部﹂に収められたのは、こ の二篇を含むボ 1 ド レ l ル十篇、そしてランボ 1 一 篇 で あ る 。 ただし、この最初の翻訳は、フランス語の原詩から翻訳されたも のではなかったようである。﹁当時富永はフランス語を知らなかっ

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たはずで、ドイツ語か英語からの重訳である﹂七、﹁富永はこの時 はやっとフランス語の初歩を独学ではじめたところで、むしろスタ ーム英訳によったらしい。カナを振った一本が富永の蔵書の中にあ る﹂八と大岡昇平は註している。二高理乙に在籍してドイツ語を学 んでいた富永がボ

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ルを読みはじめたころからフランス語を 独習しだしたことがうかがわれるが、この若きボードレ

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ル翻訳者 は、さまざまな経緯ののち二高を中退して東京外国語学校に入学す るにいたる。大正十一年四月のことである。この﹁本科仏語部文科﹂ 在学時のことを調査した報告によれば、当時、外語でおこなわれて いた週二十三時間のフランス語授業のうち、その﹁フランス語

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E までのどれもがきわめて優秀で、それをさらに合計したところ最 優秀であることが確認できた﹂という九。外語もまもなく休学のの ち退学するにいたるが、その語学力の秀でていたことは半ば伝説化 し て い た と い ﹀ つ 一 0 0 ボードレ l ル翻訳は大正十年から断続的におこなわれたが、九篇 のうち散文詩五篇の翻訳が集中している大正十一年四月から七月に かけては、富永が外語に通いはじめた頃にあたる。四月、友人に宛 てて﹁体操や国語にはまゐるがフランス語の時間の多いのは難有い﹂ と書き送っていたように、フランス語学習の進展とともにボ 1 ド レ ール散文詩の翻訳が進められたのである。まだ邦訳のなかったボー ド レ l ル﹃人工天園﹄の翻訳が始められるのは翌大正十二年初夏の 頃からである。﹁﹃人工天園﹄を一枚訳すこと﹂を﹁日課﹂にして いることが友人宛に手紙で告げられ一二﹃人工天園﹄のうち﹁ハシ ッシュの詩﹂の部の全訳がやがて﹃山繭﹄に掲載されることになる の で あ る 。 これにたいして、ランボ l の翻訳は早すぎる最晩年、とりわけ世 を去る半年前に集中しておこなわれる。そのそもそものきっかけは、 上海から帰国後、京都へ﹁遁走﹂していた大正十三年九月、小林秀 雄から同人誌への誘いを受けて跨踏の返事をしたのにたいし、小林 からランボ

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﹃地獄の季節﹄最終部の︽別れ︾の一節が送られてき た こ と で あ っ た 。 ﹁当時、ボオドレエルの﹃悪の華﹄が、僕の心を一杯にしていた。 と言うよりも、この比類なく精巧に仕上げられた球体のなかに、僕 は虫の様に閉じ込められていた、と言った方がいい。その頃、詩を 発表し始めていた富永太郎から、カルマンレヴィイ版のテキストを、 貰ったのであるが、それをぼろぼろにする事が、当時の僕の読書の 一切であった﹂と二十三年後に回想する小林の大正十三年春の神田 でのランボーとの伝説的な遭遇は、自身が語るところだが、そのお なじ文章のなかで、﹁僕は﹃地獄の季節﹄の最後の章を、その頃京 都にいた富永に写して送った﹂と書いているのがそれである一一一。 ランボ l ︽別れ︾を受けとった﹁富永にもこれはショックで、大 きな紙に書いて下宿の壁に貼り、毎日眺めている、と書いて来た、 と小林はいっている。﹂大岡昇平はそう註している一一一一。その後、年 末に病気で京都から引き揚げてきた富永太郎は、ランボ l の作品集 を入手する。湘南に転地して療養生活をおくる富永を見舞った小林 秀雄は、病床にそれを発見する。小林秀雄によれば﹁富永がランボ ーを一番真剣に読んでいたのは、この時期だ﹂という一四。それは遣 された﹁フランス詩ノ 1 ト﹂に書き写された詩篇のリストからもう かがえる。死の年、二冊のノ

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トに﹁雄一勤なペン書きで記された﹂、 ﹁豊富にして多彩なフランス語の詩文の抜き書き﹂のうち、そのか なりの頁がランボ l の詩で埋め尽くされているからである一五 O この早すぎた最晩年、おそらく富永の最大の関心はランボ

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の 詩 にあったのであろう。﹃山繭﹄に詩を発表しつつ、療養をつづけな がらランボ l の散文詩を五篇翻訳している。しかし、﹃詩集﹄に収 録されたのはそのうち最も早い時期︵とはいえ、死の前年の大正十 三年末︶に翻訳された韻文詩一篇︽錦繍餓の饗宴︾のみで、ほかの翻

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136 訳作品は収められることにはならなかった。これについて、大岡昇 平は、︽機餓の饗宴︾は﹁卓れた訳﹂だが、ほかの翻訳は﹁あまり よい出来ではない。奇妙にせかせかした訳文で、主題を十分に理解 していない。恐らく片瀬に療養中に出来たもので、病気と共に、優 秀だった語学力も衰えたのである﹂と見ている一三 最初の家蔵版編者もおなじような判断をしたのか、すでに見たよ うにランボ

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の翻訳作品は︽機餓の饗宴︾一篇を除いて﹁翻訳作品﹂ の部に入れられていない。その後の版の二人の編者もそれを踏襲し ており、翻訳作品の選択という点において、三人の編者は一致して いる。ボードレ

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ル翻訳には推敵の跡が見られ、発表へといたる定 稿に近い草稿とみなされたのにたいし、ランボ l 翻訳は死の直前に おこなわれたためまだ推敵を経ていない未定稿と考えられたという こともあるだろう。いずれにせよ、この大正末年に夫折してしまう 詩人は、その遺した﹁詩帖﹂や﹁ノ l ト﹂から、実にさまざまなフ ランス詩を読み、かつ筆写したことがわかるが、翻訳した作品はボ ードレ!ルとランボ 1 の二人にとどまった。このことは発表できた 自作詩篇の少なさと釣り合っているような印象をあたえる。しかし、 その数少ない翻訳作品だけでも、翻訳者のフランス詩理解のほどが 十分にうかがえる。大岡昇平は﹁詩の選択とリズムにおける富永の 翻訳の優秀さ﹂を語って、最初のボ l ド レ

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ル散文詩翻訳にふれて、 ﹁訳文のスタイルにおいて、この最初の試作からその詩篇とおなじ く 高 度 の 完 成 度 に 達 し て い る ﹂ と 書 い て い る 一 七 。 第 7号(2010) 鳥取大学大学教育支援機構教育センタ一紀要 田 ﹃富永太郎詩集﹄における翻訳作品の排列について 翻訳作品は、上述したようにいずれの刊本においても、詩人自身 の詩篇の発表作品と未発表作品につづけて、第三の部にまとめられ ているが、その排列は戦前の刊本と戦後の刊本で異なり、おおよそ つ ぎ の よ う に 二 分 さ れ る 。 ー昭和初期に刊行された家蔵版と筑摩版では排列はつぎのよう になっている。︽或るまどんなに︾︵ボ

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ド レ l ル︶、︽萎術家の 告白祈祷︾︵同︶、︽道化とギナス︾︵同︶、︽午前一時に︾ ︵同︶、︽計童︾︵同︶、︽醇ヘ!︾︵同︶、︽窓︾︵同︶、 ︽港︾︵同︶、︽射的場と墓地︾︵同︶、︽ k F Z J ベ 垣 間 何 回 一 開 。 旬 、 H 4 0 ヲ 吋 岡 山 何 者 。

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︾︵同︶、︽鱗餓の饗宴︾︵ランボ l ︶ 。 H これにたいして、戦後すぐの昭和二十年代に出版された創元 版では、排列は、︽道化と、ヰナス︾、︽射的場と墓地︾、︽醇 ヘ!︾、会 Z J ベ 到 、 出 何 回 一 開 。 旬 、 可 。 明 言 問 一 何 者 。 同 F U ︾、︽嚢術家の 告白祈祷︾、︽港︾、︽計童︾、︽窓︾、︽或るまどんなに︾、 ︽午前一時に︾、︽機餓の饗宴︾となり、さらにそれからおよそ二 十年後の定本版・思潮版では、︽道化と、ヰナス︾、︽射的場と墓 地︾、︽醇ヘ!︾、︽ k r z J ベ 垣 間 一 何 回 開 。 司 円 。 司 斗 岡 山 一 何 者 。

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−H N に ︾ ︵ ボ l ド レ 1 ル ︶ と な っ て い る 。 ー と H の相違点は二点ある。第一に、 H は翻訳順、つまり翻訳が おこなわれた年代順に作品が排列されているのにたいして︵創元版 と定本版・思潮版では︽襲術家の告白祈祷︾の位置に異同があるが、 これは編集時点での年代推定の相違によるものである︶、ーは翻訳 年代順の排列は採られていないこと、第二に、 H には︵創元版を除 いて︶最後にボ

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ル﹃人工天園﹄の﹁献辞﹂︵︽﹀﹄・。・ 同 ︾ ︶ が ︽ 人 工 天 圏 ﹄ ・ 。 ・ 司 ・ に ︾ と し て 追 補 さ れ て い る こ と 、 で あ る 。 ︵この作品は翻訳年代順ではなく、追補として最後の位置におかれ た 。 ︶ この第二点については、家蔵版編者が﹁頁数の都合で収録﹂を見

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合わせたとする﹃山繭﹄発表の﹃人工天園﹄翻訳の、その最初の部 分を定本版・思潮版編者が﹃詩集﹄に収めているのである。定本版 編者も家蔵版編者とおなじく、﹃人工天国﹄翻訳について﹁これは 富永が最も力を入れた翻訳である﹂としているが、すべてを捨てる には忍びがたく思えたのであろう、﹁あまり長いので、献辞ご・。・問 に﹄だけ収録した﹂として、翻訳作品の部の末尾に置いているので ある。ただ、おなじ編者がそのおよそ二十年前に﹃詩集﹄を編んだ ときには、この選択はなされず、創元版では I とおなじ翻訳作品で 構 成 さ れ て い た 。 第一点については、 H が翻訳年代順にしたがって排列されている のであるとすれば、ーはどのような方針に従って排列されているの か。この翻訳作品十一篇はボ 1 ド レ l ル十篇、ランボ 1 一 篇 か ら な るが、まずはボ l ド レ

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ル、ついでランボ!と排列されていること がわかる。さらにボ

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ド レ l ル作品の中での排列は、十篇ともおな じく散文詩形式の作品なので一見わかりにくくなっているが、原詩 の出典をたどればあきらかになるように、冒頭の︽或るまどんな に︾は﹃悪の華﹄中の一篇、ほかの十篇は﹃パリの憂欝﹄中の作品 である。つまり、最初に﹃悪の華﹄からの一篇、それから﹃パリの 憂欝﹄からの九篇と、出典によって排列が決定されているのである。 そして﹃パリの憂欝﹄から翻訳された九篇は、さらにその原典での 排列順にしたがって並べられているということになる。つまり、一 見怒意的に見えかねない、この家蔵版・筑摩版﹁第三部﹂翻訳作品 の排列は、まずは詩人順、ついで出典順、さらに原典での排列順と いうようになっているのである。 このことから、戦前の版と戦後の版とでは、﹃詩集﹄における翻 訳作品の位置づけが微妙に異なることがうかがわれる。つまり、各 版編者それぞれが翻訳作品をどのように見ているか、﹃詩集﹄のな かでどのような意義をあたえようとしているか、その差異がこの排 列法の違いに表われているように思われる。 H の諸版のような翻訳年代順での排列法では、それがボ

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ドレー ルであれ、ランボーであれ、フランス詩人の作品の翻訳にほかなら ないことは紛れもない事実であるという一方でーーというよりも、 にもかかわらず||、それが何よりもこの翻訳者の手になる作品で あるという面がとりわけ強調されることになる。つまり、翻訳作品 をそれが翻訳された年代順に排列して提示するということは、翻訳 された原詩そのものによりも、その翻訳自体を何よりも一個の作品 として示すということにより大きな意味をあたえることになるだろ う。それは翻訳作品が翻訳者自身の作品と等価とみなされていると いうことを示唆するものといってもよい。 これにたいして、ーのような詩人順・出典順・原典内排列順とい う排列法はどのような意義をもちうるだろうか。多くの訳詩集、と りわけそれが詞華集であれば、詩人順・出典順・原典内排列順とい う形式をとるのが通例であろう。︵もっとも、上田敏﹃海潮音﹄や 永井荷風﹃珊瑚集﹄のような詞華集にあっては、依拠原典や排列構 成はかなり複雑になっている一八。︶それは﹁訳詩集﹂が、その性格 上、翻訳される原詩の作者である詩人、そして原詩の出典、その出 典内での排列・構成などに全的に依拠することによって成立してい るものであるからだ。そうしてみると、家蔵版・筑摩版﹃富永太郎 詩集﹄における翻訳作品の構成・排列法は、いわゆる﹁訳詩集﹂と しての趣をただよわせることになるだろう。 つまり、友人・近親者の手になる家蔵版・筑摩版﹃詩集﹄は、こ の﹁第三部﹂翻訳作品の部に﹁訳詩集﹂としての性格をあたえるこ とによって、この﹃詩集﹄をもって追悼顕彰される者が、みずから 詩を書く詩人であると同時にフランス詩を翻訳する翻訳者でもある ということを示すことになっているといえよう。 他方、創元版・定本版・思潮版編者は、もはや﹃詩集﹄にそのよ

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δmortelle Madone, Je saurai te tailler un Manteau, de fa<;on Barbare, roide et lourd, et double de soup<;on, Qui, comme une guerite, enfermera tes charmes; Non de Perl es bro de ヲ mais de toutes mes Larmes ! 1 2 3 4 11 10 9 8 7 6 5 12 13 Ta Robe, ce sera mon Desir, fremissant, Onduleux, mon Desir qui monte et qui descend ラ Aux pointes se balance, aux vallons se repose, Et revet d'un baiser tout ton corps blanc et rose. Je te ferai demon Respectde beaux Souliers De satin, par tes pieds divins humilies, Qui, les emprisonnant dans une molle etreinte, Comme un moule fid ら le en garderont l'empreinte. Si je ne puis, malgre tout mon art diligent, 14 16 17 OOQunu −− 2 15 21 22 23 {A UNE MADONE I EX-VOTO DANS LE GO む T ESPAGNOL 》 ti~ 寺 ~~ムー弐『鵬@鵬』 (

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中、 N 山 、 山 、 仏 w フランス語の原詩は、このように十二音節詩句四十四行からなる 韻文詩で、三十六行目と三十七行目の間に空白一行をはさんで︵初 出誌発表時にはこの空白はない︶、三十六行の詩句と八行の詩句で 構成されている。脚韻は平韻で、男性韻と女性韻が交替する。 富永太郎はこの作品をつぎのように翻訳している一一一。これも便宜 上ローマ数字を付して示すことにする。 或るまどんなに︵ボオドレエル︶ 西班牙風の奉納物 わたくしのつかへまつる聖母さま、おんみの矯に、わたくしの こ ん り ふ 悲しみの奥深く、地下の神壇を建立したい心願にござります。 b H わたくしの心のいと黒い片隅に、俗世の願ひ、また噸りの限の みすがた 及ばぬあたり、おんみのおごそかな御像の立たせまするやう、紺と 金との七賓の聖金をしつらへたい心願にござります。 L ’ め ・ 沼 田懇ろに賓石の韻沈ちりばめた、満治属の格子細工のやうに、琢 きあげたわたくしの詩で、おんみの御頭の矯に、大賓冠を造るでご ざ り ま せ う 。 き れ ぢ と こ し へ W またわたくしの嫉妬の布地で、永遠ならぬ聖母さま、おんみの まんとお 矯に、外套を裁つでござりませう。仕立ては品あしく∼家ごちなく、 カ く す 古 不恰好で、なほまた裏地は疑ひの心でありまする減、穏慮のやうに おんみのあでやかさを包み隠すでござりませう。縁も員珠ではござ ふ ち りませぬ、ぁ刊詰めるわたくしの涙の玉で縁どり暗げる。 V おんみ伊理衣は打標へて波を M I M J わたくしの鉄運で造り拾する。 わたくしの欲望は高くまた低く、簸襲の高一少々は打揺ぎいち諸問では 鎮まりまするが、白と蓄額色のおんみの御韓を一様に接吻で被ひ ま す る 。 お ん う や ま m u わたくしは一神々しいへりくだった御足の矯に、わたくしの敬 お ん 古 た ひの心で美しか繕子の御瑞を造りまする、善い鋳型が形を守る如く、 しっくりと、御足を抱き裏みまするやう。 カ ひ し ろ 古 お き み あ し m m 丹精こめた穀もなく、銀の月を鎮って御足の蓋とすることが

(8)

140 は ら わ た く ち な は み か な ひ ま せ ぬ な ら ば 、 わ た く し の 腸 を 噛 む 蛇 を 御 ゆ か と の 下 に置くでござりませう、いとさはに罪を購ひたまう、祭光ある女王 さま、憎悪と唾液とに脹れあがったこの妖怪をおんみの踏み弄びま す る や う 。 き み 咽慮女たちの女王のゐます、花飾りした紳壇の前の大蝋燭のやう に、立ち列ぶわたくしのもろもろの想念が、星のやうに空色の天井 うちまも に照り:映えて、燃ゆる自で飽かずおんみを凝蹴るをみそなはすでご ざ り ま せ う 。 政わたくしの内なるものは、なべておんみを慈しみ、讃めた﹀へ まする故、なべでは安息香となり、沈香となり、乳香、浸薬となる で ご ざ り ま 吋 ﹀ 門 。 し X また、暴風雨のやうに立ち灘ぐわたくしの精霊は、霧となって、 まつしろな雪の峯なるおんみの方ヘ、絶え間なくたち騰るでござり ま せ う 。 第 7号(2010) 鳥取大学大学教育支援機構教育センタ一紀要 刃けら定ておんみが璃利亜の役を完うし、かつはまた、おんみかぐろ い快楽よ、七戒を破る種気をいとしさ市線ぜ合はさうとて、悔恨に 満ちたわたくし死刑識行人は、七本の刃必研ぎすまし、い主深い おんみの愛をとって柄となし、びくびくと鼓つおんみの心の臓に、 畷り泣くおんみの心の臓に、血を噴き上ぐるおんみの心の臓に、奇 術師の無感覚もて七本ながら立て﹀しまふでござりませう。 原詩一行から三十六行までが訳詩ーから X に、三十七行から四十 四行までが氾に対応する。原詩とおなじく空白一行もとられている。 一見してすぐわかるように、原詩が韻文詩すなわち定型詩で行分 けになっているのにたいして、訳詩ではこの原詩に対応して行分け の形式が採られるというようにはなっていない。いわゆる散文形式 によって訳されている。すなわち、原詩が韻文詩でありながら、翻 訳された詩は散文詩の形式になっているのである。本来、韻文詩の 形式で書かれた詩が翻訳されるばあい、行分け形式で訳出されるの が通例のこととされてきた。そもそも明治十五年、新しい時代に新 しい詩を創始しようとして外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎によ って﹃新瞳詩抄﹄が刊行されたとき、それに収められた翻訳詩十四 篇、創作詩五篇が七五律の文語定型詩としていわゆる行分け詩の形 式で構成されたのも、﹁西洋ノ詩歌﹂に倣つてのことであったし、 フランス詩紹介の鼻祖にあたる上回敏﹃海潮音﹄︵明治三十八年︶ も そ の 例 外 で は な か っ た 一 一 一 一 。 ボ ー ド レ

1

ル﹃悪の華﹄もまた、現在 までに多くの邦訳がおこなわれているが、いずれも行分け形式で−訳 出されている点では一致している。 当時ボ l ド レ

1

ルの翻訳として刊行されていたのは、馬場睦夫訳 ﹃ボオドレエル詩集悪の華附散文詩﹄︵洛陽堂、大正八年︶で ある。この訳詩集は、﹁﹃悪の華﹄よりは七十八篇、﹃散文詩﹄よ りは二十五篇を選んで語出した﹂と訳者が﹁序文﹂に記すように一一三、 全訳ではなく抄訳であったが、︽

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開︾はやはり行分 け形式で訳出されている。冒頭の九行、だけ引用すれば、つぎのよう に な っ て い る 。 聖母に ささげもの | | 西 班 牙 風 の 奉 献 物 ー ー ー 私の奥様、聖母様、私は貴方のために 私の悲哀の奥深くかた滞れた祭壇を漣計ませう、 私の胸の一潜精い片隅に浮世の慾求と 酬明けり笑ふ眼差から遠くはなれて

(9)

こ ん じ き へ き が ん 浅 緑 色 と 金 色 の エ ナ メ ル づ く め の 壁 禽 を す 古 た あ な た 驚異の﹃御姿﹄として貴方が其慮に立たれるやうに 水晶のやうな韻を巧みに星とちりばめた メ タ ル た く ま 純な金属の細工物、私の琢磨した﹃詩﹄の花で お お か む り あ な た つ む り 巨きな王冠を貴方のお頭のために作りませう。 ︵ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ︶ 作 り ま せ う 、 富永太郎がボ l ドレールを読みはじめる二年前に刊行されたこの 訳詩集が、︽或るまどんなに︾翻訳時に参照されたかどうかについ ては詳らかにしないが、表題から冒頭の数行までを見るだけでも、 富永訳と馬場訳との違いは訳語の選択からしてすでにかなり大きい。 富永太郎の︽或るまどんなに︾散文訳について、大岡昇平は、 ﹁詩の散文訳はこの時代はあまりなかった例だが、富永はマラルメ の ポ l 散文訳を知っていたから、それにならったものか﹂と註して いるこ図。註釈者がこのように﹁富永はマラルメのポ 1 散文訳を知っ ていた﹂と断言するのは、フランス語詩が多数筆写された﹁ノ 1 ト ﹂ には、﹁ポ

1

︽アナベル・リ l ︾のマラルメの散文訳を、原詩通り 行分けして﹂書かれた頁があり、研究の意図がうかがわれるからで あ る 一 一 五 。 ここで言及されているのは、マラルメがポ l の韻文詩から三十六 篇を散文形式によって仏訳し、それに註解をくわえ、巻頭に自作の ソネ︽エドガ l ・ ポ

1

の墓︾をおいて、エドゥア

1

ル・マネの挿画 つきで一八八八年に刊行した﹃エドガ l ・ ポ l 詩 集 ﹄ 一 一 六 に 収 め ら れた︽アナベル・リ l ︾の訳詩である。マラルメはポ l の詩を翻訳 するにあたって、行分けになっている原詩をそのままの形式ではフ ランス語に訳さず、英詩一詩節を散文訳して一詩節としている。す なわち、詩節ごとに対応させて散文訳しているのである一一七。したが って、一詩節からなる原詩にたいしてはそのまま一節の散文がおき か え ら れ る こ と に な る 二 八 。 このような詩の散文訳はボードレ l ルにもあり、マラルメに先行 してポ 1 の 詩 ︽ 同 45E

2

ロ︾を︽ピ凸。

5

2

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︾として散文形式によ って訳出している。ボードレ l ルはポ 1 のさまざまな小説や詩論の 数々を翻訳して発表・刊行するとともに、ポ

1

論をいくたびも書い ているが、ポ l の詩についてはこの︽大鵜︾訳を含めて翻訳四篇が あるのみで、しかもそれらは雑誌掲載後、ポ

1

翻訳作品集の巻頭に おかれたり、ポ l の短篇や詩論中に引用された詩の翻訳として収め られているだけで、訳詩集としてまとめられることはなかった二九。 小説・詩論など散文の翻訳の豊穣さには比すべくもない寡少きであ るが、ボードレ l ル自身、ポ!詩篇のような﹁かほど意図的で、か くも凝集された詩の数々を翻訳することは、心をそそる夢ではあり 得ても、夢でしかあり得ない﹂のだと書いている。なぜなら﹁それ は何かしら、夢のように深く、きらめくもの、水晶のように不可思 議で完壁なものだ﹂からなのだという三 O o おなじポ

1

論でポ l の 詩 における脚韻の重要性をとくに強調するボ l ド レ l ルは、詩の翻訳 の不可能性を認めざるをえないと述べているかのようだ。マラルメ はこれを指してであろう、それはボ 1 ド レ l ルが﹁耐えている聖務 禁止令﹂と呼んでいるが、ボードレ l ルのポ

1

詩翻訳を﹁以て範と すべき見事な翻訳﹂と讃え、﹁このフランス詩人が執れいつかはこ の夢を試みて、︿散文﹀の翻訳と彼自身の著書﹃悪の華﹄との聞に 位置を占めることになる一巻の選集をわが国の文学に供したかもし れぬということは全く疑う余地がない﹂三一と未完に終わったボ 1 ド レ l ル訳﹃ポ l 詩集﹄への夢を語っている。 これにたいして、ポ!詩翻訳について﹁ボ

1

ド レ

1

ルの衣鉢を継 ぐ ﹂ 一 一 一 二 こ と を み ず か ら に 課 し た マ ラ ル メ は 、 自 身 の 翻 訳 ﹃ ポ

1

詩 集 ﹄ への﹁注釈﹂の冒頭で、上に引いたボ

I

ドレ 1 ルのことば︵﹁それ

(10)

142 は何かしら、夢のように深く、きらめくもの、水晶のように不可思 議で完壁なものだ﹂︶を引用しつつ、﹁かの﹃異常な物語集﹄の訳 者がいみじくも述べたその総体が、たしかにここに初めて、それ自 体に還元されたという形で提示された﹂と記し、﹁ここでは一つの 透写が気取り抜きで敢行されている。すなわち、原音楽が持つ異常 な音響の諸効果を幾つかなりと伝えようというのである。更に、お そ ら く そ こ か し こ に は 、 ︹ 原 詩 の ] 情 感 そ の も の も あ ろ う ﹂ 一 一 一 一 ニ と 自 身のポ

1

詩翻訳を説明している。フランス詩において久しくその専 制的な地位をたもってきた韻文詩に代わって自由詩や散文詩が登場 してきた十九世紀後半、マラルメはなお韻文詩の特権性||いわば 聖性

ii

を 認 め て ソ ネ を 書 き つ づ け る 一 方 、 ︽ 詩 の 危 機 ︾ 一 二 回 を 書 い て鋭敏な状況認識を示しつつ、散文詩を書きつづけ、さらに晩年に は散文詩や自由詩をいわば超えた詩形式の創出を実践しているので あ る 三 五 。 マ ラ ル メ の ポ i 詩散文訳にはそうしたマラルメ自身の詩形 式への認識が刻まれているといえよう。 大岡昇平が指摘するように、富永太郎がつとにこのようなマラル メ の ポ

1

詩散文訳に着目していたとすれば、ボードレ l ル ﹃ 悪 の 華 ﹄ から唯一翻訳を試みた︽或るまどんなに︾散文訳もまた、その﹁研 究﹂のあらわれの一端と見ることができよう。 ただし富永の散文訳は、その形式においてマラルメの散文訳とは 異なっている。通例の行分け形式で訳出されない散文訳である点で はマラルメのポ 1 詩訳とおなじであるが、先に見たようにマラルメ が詩節ごとに対応させて原詩一詩節に訳詩の散文一節をおきかえる 方法をとっているのにたいし、富永の散文訳ではそうなってはいな い。︽或るまどんなに︾原詩は、上に引用したように、第一詩節三 十六行と第二詩節八行の二詩節四十四行から構成されているが、富 永訳ではこれが十一節に再構成されているのである。すなわち、原 詩第一行を戸戸のように示すと、その対応関係は以下のようになる。 第 7号 (2010) 鳥取大学大学教育支援機構教育センタ一紀要 ︿ − Ha ︿ − NHI 、 ︿ ・ ω 占 ・ 0HE 、 ︿ − J 下 ︿ ・ CH 皿 、 戸 田 ︵ ︶ B︿ ・ − h ? H W 、 ︿ ・

5

占 ・ − ∞ H V 、 ︿ − H ∞ 占 − N N H W U 、 ︿ − N ω 占 − N ∞ H W ︿ − N ∞ 占 ・ ω N H 、 ︿ ・ ω ω 占 ・ ω 目 訳 、 ︿ ・ ω ω ・ ︿ ・ ω ∞ u X 、 ︿ ・ ω J 下 ︿ − h ? ? ” 刃 この再構成は、基本的には原詩の句点︵・︶もしくはそれに準ずる 記号︵一\一︶による区切りに対応しているが、必ずしもこの原則は 守られてはいない。たとえば I と医では読点︵しがおかれた行で区 切られ、後続の行と切り離されて一節とされている。おなじ訳者に よるボードレ

1

ル散文詩翻訳ではこうした再構成はおこなわれてお らず、原詩の節構成はそのまま訳詩の構成にうつされている。それ ゆえ、この︽或るまどんなに︾における詩節再構成に訳者の何らか の作意を見ることができよう。 たとえば、︽或るまどんなに︾訳の詩節末の表現を抽出してみる と こ ん り ふ 建立したい心願にござります。 しつらへたい心願にござります。 皿造るでござりませう。 ふ ち W 涙の玉で縁どりまする。 くちづ付 V 接 吻 っ そ 被 ひ ま す る 。 w u 抱き裏みまするやう o

w

踏 み 弄 び ま す る や う 。 理みそなはすでござりませう。 医なるでござりませう。 X たち騰るでござりませう。 泡立ててしまふでござりませう。 と い う よ う に な り 、 I と H 、 W と V 、羽と四、彊から刃と、それぞ れおなじ文末になっている。これを韻を踏んでいるように見ること もあるいはできよう︵フランス詩法ふうにいえば、平韻といえよう II

(11)

か ︶ 。 こ の う ち 、 W は詩節中に句点が二箇所あり、複数の文が含ま れている唯一の詩節であるが、この内部の文末二箇所を抜き出すと、

w

a

裁 つ で ご ざ り ま せ う 。 w b 包み隠すでござりませう。 となり、皿の﹁造るでござりませう﹂と文末が共通することになる。 すなわち、この︽或るまどんなに︾翻訳では、助動詞﹁ます﹂を軸 に、原詩の詩句のもつニュアンスを測りながら、変化を織り交ぜて 文末構成に工夫がこらされているといえよう。韻文詩の散文訳とい う形式を選びながら、原詩とはちがう独自の詩節構成によってもと の韻文詩の脚韻を念頭にある種の押韻の試みをおこなおうとしたと も見ることができるかもしれない一一一六。マラルメふうにいうならば ﹁音響の諸効果を幾つかなりと伝えようというのである﹂。 また、このような詩節構成をおこなうことによって、﹁わたくし﹂ が﹁まどんな﹂にたいして次々とおこなう種々の﹁奉納﹂を律動を 沸怜ように示すことができるようになっている。﹁地下の一紳壇を 建立﹂して﹁聖盆﹂をしつらえることから始まって、﹁大賓冠﹂を と お み こ ろ も 造り、﹁外套﹂を載ち、﹁聖衣﹂を仕立て、﹁靴﹂を造り、自己 の内なるものをすが吋﹁香料﹂となって立ち騰らせ、ついには﹁心 の臓﹂に﹁七本の兎﹂を突きたてるにいたる、その漸次高まって ゆく過程が訳詩の詩節構成に反映させられているのである。つまり そこには翻訳対象である詩の解釈を構成に明確に表わそうという意 図 が う か が え る だ ろ う 。 原詩のこの劇的な構成の反映は翻訳の語糞や文体の水準でも見る こ と が で き る 。 ︽ ﹂ rdz − 凶 冨 ﹀ ロ C Z H 凶︾は先に見たようにほかの男と 旅立った恋人にたいする﹁嫉妬﹂から書かれた詩であるが、恋人マ リ l と﹁聖母マリア﹂とが重ね合わせられて、﹁聖母さま﹂と呼び かけられ、終始二人称の代名詞︽言︾とその変化形が用いられてい る。ふつう家族や友人、恋人など親密な関係の相手にたいして用い られるこの代名詞も、詩的文体においては神や王などに対する崇拝 を表わすことがあり、︽或るまどんなに︾ではこの両義性を意識し てであろう、この代名詞形にたいして﹁おんみ﹂という訳語があて られている三七。これによってまずは呼びかけられる対象への敬意が 強調されることになり、敬慶さが訳詩の基調となる。そこで冒頭の 一 行 後 半 の ﹁ マ リ ! 日 マ リ ア ﹂ へ の 呼 び か け で は 、 ︽

5

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円 胃

22

︾の﹁恋人﹂という意味が前面から後退し、﹁支配者、 主人﹂の意味に力点がおかれることになる。こうして﹁わが恋人よ﹂ という呼びかけは、一転して﹁わたくしのつかへまつる﹂という連 体 修 飾 語 と し て 訳 さ れ 、 ︽ 宮 内 三 − C 口。︾﹁聖母さま﹂の限定辞となっ て、﹁わたくし﹂の﹁聖母さま﹂への被支配 H 従属関係を明示する。 ︵もちろんここには恋愛関係における被支配 H 従属関係も暗示され ているだろう。︶この冒頭句の訳は訳詩全体の調性を決定する。こ のため訳語として雅語や古語がちりばめられ三八、ルピの多用三九とと もに全体として荘重な趣を醸しだすことになる。 こうしてーから固において捧げられる神妙一評議慶きが、その津調 は崩されないまま、しかし、 W で の ﹁ 嫉 妬 の 布 地 ﹂ 、 V で の ﹁ 欲 望 ﹂ 勺 り く ち な は と ﹁ 接 吻 ﹂ 、 F W での﹁蛇﹂と﹁憎悪と唾液﹂と﹁妖怪﹂と、聖 なる場にふさわしくない語黛の出現によっけ日均衡が破られたような 異化作用がおこり、最終節沼にいたって﹁快喋託、﹁七戒﹂、﹁蟹 気﹂、﹁悔恨﹂、﹁死刑執行人﹂、﹁七本の刃﹂、﹁血﹂といっ た、いかにも忌まわしい語葉の噴出によって詩は閉じられる。冒頭 の敬慶さとの大きな落差は、その反語的効果をいっそう高めること になる。愛情と嫉妬、崇敬と復讐といった相反する複雑な感情の屈 折を巧みに織りこんだ原詩のはらむ劇的な構成はたしかに日本語に 移しかえられているといえよう。 富永訳︽或るまどんなに︾は、このようにきわめて正確に原詩を 把握し、適切な訳語が選択され、表現も入念に彫琢されている。

(12)

144 ﹁ 彼 の 残 し た ボ

1

ド レ l ルやランボ!の訳詩は、訳語が整っている だけではなく、当時としては誤訳が少ないので珍重される。とにか くこれは常に正しく推理する精神であった﹂と大岡昇平は書いてい る 四 0 0 第 7号 (2010) この︽或るまどんなに︾についても﹁誤訳が少ない﹂というより、 むしろ大きな過ちはないといってもよい訳しぶりである。少し問題 になるとすれば、おそらくつぎの二点だろう。 んまず第一に、訳詩第羽詩節の﹁わたくしは神々しいへりくだった う や ま お ん 御足の矯に、わたくしの敬ひの心で美しい嬬子の御靴を造ります おん る﹂の﹁神々しいへりくだった御足﹂のくだりである。ここは原詩 で は ︽ 旬 常 吉 ∞ 立 。 ︵

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ロ ∞ ﹃ 沼 市

52

︾ ︵ 4 ・MC ︶ で 、 ︽

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∞ 目 ︶ 芯 ︵ 同 ∞ ︵ 同 − ︿ − ロ ∞ ︾ ﹁ 紳 々 し い 御 足 に よ つ て 踏 み に じ ら れ る ﹂ の 倒 置 に な つ て お り 、 前 行 の ︽ ︵ 目 。 ゲ

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∞ ︾ を 限 定 す る 表 現 で ある伊、訳者はここで︽︸

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∞ ︾ ﹁ 神 々 しい御足﹂のもうひとつの修飾語とみなして﹁へりくだった﹂と訳 しているのである。そのため、︽同︶号︾は目的・対象を表わす ︽ 唱 。 己 吋 ︾ の ま う に 解 さ れ て ﹁ の 矯 に ﹂ と な っ て い る 。 ︵ も っ と も 、 同様の倒置表現である第 H 詩 節 ︽ 間 口

02

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T 芯︾は﹁紺と金との七賓の聖金﹂と正確に訳出されている。︶ 私九︾串ム﹄ しかし、先にもあげた馬場陸夫訳も﹁貴方の卑しめられた、聖い お足のために﹂としているし、おそらく富永太郎が参照したと思わ れるスタームによる英訳も︽

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乙 と なっており四一、いずれも富永訳とおなじように︽

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主 主 ∞ ︵

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乙 の 限 定 辞 と み な し て い る の け 花 も る 。 第二に、最終部第氾詩節、﹁おんみかぐろい快楽よ、七戒を破る 種気をいとしさ詳細哨ぜ合はさうとて、悔恨に満ちたわたくし死刑湖 行人は、七本の刃を研ぎすまし、いと深いおんみの愛をとって柄 となし﹂というくだりである︵原詩対話・ ω ∞︶。ここは﹁七戒を破る 鳥取大学大学教育支援機構教育センタ一紀要 鐙気﹂というように本来結びつかない﹁七戒﹂と﹁盤気﹂とをつな ゃ い ば げたため、自分の手で﹁七本の刃﹂をこの﹁七戒﹂からつくると か吋照応関係が抜け落ちている。そのため、﹁七戒﹂から﹁七本の 刃﹂がつくられるというイマ l ジュの喚起力が弱められてしまう ことになり、また﹁七﹂という数を媒介にして﹁聖母の七つの喜 び﹂、﹁聖母の七つの悲しみ﹂といった古来より描かれてきた聖母 マリアの伝統的図像と結びつく湾関性が認めにくくもなるだ A M っ 。 さらに、トおんみの愛﹂を﹁柄﹂となすという箇所は、﹁柄﹂で はなく、﹁的﹂となす、となるところであろう。つまり、﹁わたく ゃ い ば し﹂は﹁七戒﹂から﹁七本の刃﹂を自分の手でつくりだし、それ らを﹁研ぎすまし﹂て、﹁いと深いおんみの愛を﹂︿的﹀﹁とな し﹂、﹁おんみの心の臓に﹂、﹁七本ながら立ててしまふ﹂、とい う初である。﹁おんみの愛﹂は﹁わたくし﹂の手によって握吟ぬる ﹁柄﹂ではなく、むしろ逆に、﹁わたくし﹂のふりかざす﹁刃﹂ によって狙いすまされる﹁標的﹂なのである。 では、ここは単純な訳語選択の過失なのか、はたして単なる誤解 による﹁誤訳﹂なのか||ことはさほど単純ではなさそうである。 と い う の も 、 先 ほ ど 見 た 第 一 点 の ︽ ︸ 戸 戸 凶 同 同時代の馬場睦夫訳も、スターム訳も、いずれもここは﹁的﹂とし て獄祖しているのである︵馬場訳﹁貴方の愛のうち最も深いもの を 目 標 と し て : ・ ﹂ 、 ス タ ー ム 訳 ︽ ﹀ ロ 色 町 一

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弓 円 ︵ : ・ ︶ ︾ 四 一 一 、 強 調 は 引 用 者 ︶ 。 原 詩 で は こ こ は ︽ 司 窓 口 昌 品 目 。

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︵ : ・ ︶ ︾ ︵ 対 応 ︶ で 、 問 題 の 語 は ︽ 己

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︾であるが、富永太郎が使用したと見られる辞書四三を参照 してみても、これは誤訳しようのない語であることがわかる。とい うのも、﹃模範併和大辞典﹄はこの語に﹁的[マト]、標的﹂とい う 訳 語 を あ た え 、 ﹁ 同 可

2PF

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標的に向って射撃する﹂という

(13)

例文を添えているし、また﹃プティ・ラル l ス仏語辞典﹄は

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︾︵銃砲 射撃用の的に用いられる板︶という語義を示し、やはりおなじ例文 を載せているからである。構文上も誤解の余地のない文章であり、 しかも多義的な語でもないから、このような﹁誤訳﹂は訳者である 詩人の語学力からいつでもありえないことだろう。 では、これは単なる誤訳ではなく、意図しての誤訳、故意による 誤 訳 な の だ ろ う か 。

v

︽ マ リ ア ︾ と ︽ ま ど ん な ︾ ︽或るまどんなに︾を翻訳するおよそ一年半まえ、富永太郎は ﹁ありがたい静かなこの夕べ﹂に始まる七行の無題の短詩を書いて い る 。 無題 ありがたい静かなこの夕べ、 何とて我が心は波うつ。 ひとよ いざ今宵一夜は われととり出でたこの心の臓を 窓ぎはの白き皿に載せ、 心静かに眺めあかさう。 月も間もなく出るだらう。 ギュスタ 1 ヴ・モロ!描く洗礼者ヨハネの首をまえにしたサロメ の絵を想起させるような詩である。月夜に﹁心の臓﹂をそっととり だして﹁心静かに眺めあかさう﹂と書く詩人。おそらくそれはみず からの﹁心の臓﹂ではあるのだろうが、あるいはだれかのそれであ るのかもしれない。大正十年十二月の詩である。詩人はこのときす でにボードレ

I

ルを読みはじめている。おそらく英訳からの重訳に せよ、先に見たように散文詩二篇を訳してもいる。﹃悪の華﹄もす でに愛読の書となっている。︽或るまどんなに︾も読んでいたにち がいない。みずからもこの年の夏に詩を書きはじめていた。︽深夜 の道土︾、︽夜の讃歌︾につづく三作目である。日夏歌之介の詩を 思わせる語葉と語法にみちた形而上的な先行の二作ののちに書かれ たこの詩は、一転して静論な野情的作品となっている。 大同昇平の註によれば、これは母に宛てて﹁医師の妻との恋愛﹂ について﹁決定的な手紙﹂を書きおえた夜に書かれた詩であるとい う四四。結局この恋愛は実を結ばず、作品を書きはじめたばかりの二 十歳の詩人はこの詩を書いた二週間後、二高を中退して仙台を離れ る。この不幸な恋愛事件はその後もながく詩人を苦しめ、﹁裏切っ た﹂女性のイマ l ジュはその後、あるいは﹁立ち去ったマリア﹂と し て 、 あ る い は ﹁ 冨 包 ー 。

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2

として、たえず作品や書簡にその姿を あらわすことになる。 ||﹁俺の中には、やっぱり

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⑦ 吟

2

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F が 生 き て い る ﹂ 四 五 、 ﹁ 富 山 冨 足 。 ロ ぬ が 夜 な 夜 な ﹃ 覚 め て い よ ! ﹄ と 俺 を よ ぶ の だ ﹂ 四 六 、 ﹁﹃人工天園﹄は出版したい欲望が大へん出て来た。さうして岩山 富 包 胃

282

目 。 ロ ﹀ 話 器 包 ロ ⑦ な る 国 ・ ∞ ・ に デ デ ィ フ ィ エ す る ん だ ﹂ 四 七 、 ﹁みじめな俺を実に冷酷に自己

2

窓口与

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︵ 暗 き 御 母 ︶ が 駆 り 立 て る ﹂ 四 八 。 かくして﹁事件﹂からおよそ一年半後、 ︽k p 四 Z H 凶 冨 ﹀ 口 。 Z ︼ 凶 ︾ を

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146 ︽或るまどんなに︾として翻訳することによって、詩人はボードレ ールの声をかりてみずからの﹁立ち去ったマリア﹂を聖別すること になる。悲しみの奥深く、一騨壇を建立しいこぬの黒い片隅に、紺と金 との七賓の聖盆をしつらえ、そうして﹁永遠のまどんな﹂、﹁わが まどんな﹂として自己の内奥深くに聖別しつつ、その身をすべて徹 頭徹尾みずからに発するものによって包みこむ。 1 1 宝石のような 韻を津必て琢きあげた詩でわぷら机決大宝冠、涙の玉付﹄縁取った嫉 妬の布地から仕立てられた外套、欲望からつくられた聖衣、御檀 ︿ ち づ り を一様におおう接沸、ま噸いの心で縫いあげられた繕子の靴、さらに 燃ゆる目で飽かず凝視る想念、内なるものから発する薫香。こうし て﹁わたくし﹂は﹁まどんな﹂を完全に己がものとするにいたる。 時吟況憧れの思いがきわまるあまり、魂は生ある身体をはなれ、 暴風雨のように立ち騒ぎ、霧となって、﹁おんみ﹂の方へ、絶え間 な く た ち 騰 り さ え す る 。 しかし同時に、その背信にたいする処罰願望黙しがたく、その春 在を完膚無きまでに破壊しようとしないではいられない。﹁ひくひ くと鼓つおんみの心の織に、畷り泣くおんみの心の臓に、血を噴き ル ア ラ ン 上ぐるおんみの心の臓に﹂と三度畳句がくりかえされる。みずか らの心奥に鎮座する﹁まどんな﹂、その﹁心の臓﹂に研ぎすました 刃を突き立てる

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それはまた、そのままみずからの﹁心の臓﹂に 刃を突き立てることにほかならない。こうして﹁まどんな﹂への過 剰な愛は、対象への一途な没入によって、占有願望成就の幻想のは てに対象との一体化にいたり、ついには対象への処罰願望が自己処 罰 の 欲 求 に 転 化 す る 。 そうしてみれば、︽或るまどんなに︾最終節での奇妙な﹁誤訳﹂ は、調帯どおりに﹁おんみの愛﹂を﹁的﹂にして﹁心の臓﹂に﹁七 本の延を研ぎすまし﹂突きたてるという噌虐を怒にすることが ねがひ ﹁わたくし﹂の﹁欲望﹂だ、というように訳出することを訳者があ 第 7号(2010) 鳥取大学大学教育支援機構教育センタ一紀要 えて選ばなかったことを示すのではないだろ行ゆ。訳者拡むしろ原 詩どおりではなく、﹁おんみの愛﹂こそを﹁兎﹂の﹁柄﹂として、 それを掴んで﹁心の臓﹂に

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詩人みずからのものでもある﹁心の ね が ひ ︷ 臓﹂に

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突きたてることが﹁わたくし﹂の﹁欲望﹂なのだと解釈 する方に、この散文訳の結末を品川だしたのである。 こうして﹁おんみの愛﹂を寸柄﹂となすことによって、刃を突 きたてるべき標的が逆に手段となり、対象となるべきものがむしろ 主体に転化してしまうことになる。﹁わが恋人﹂なる﹁まどんな﹂ がほかならぬ﹁ワレトワガ身ヲ罰スル者﹂︵﹃悪の華﹄第八十三詩 篇︶になるのである。そして﹁わたくしの悲しみの奥深く﹂、﹁わ たくしの心砂川叩と黒い片隅﹂に鎮座する﹁わが恋人﹂、﹁まどんな﹂ に﹁七本の刃﹂を突きたてる以上、その刃は﹁わたくしの悲しみ﹂ を、﹁わたくしの心﹂を、つまりはみずからの﹁心の臓﹂を、おな じくつらぬくことになるだろう。詩人自身もまた、やはり﹁ワレト ワガ身ヲ罰スル者﹂にならざるをえないのである。 そして﹁われととり出でたこの心の臓を/窓ぎはの白き皿に載せ、 /心静かに眺めあかさう。//月も間もなく出るだらう﹂と書いた とき、詩人はその﹁白き皿﹂をまえにして﹁ワレトワガ身ヲ罰スル 者﹂である自己を見いだしていたにちがいない。 この三作目の詩篇︽無題︾は、最初の詩集、家蔵販の﹃富永太郎 詩集﹄にも、そして次の筑摩販の﹃詩集﹄にも収録されなかった。 理由はさだかではない。﹁第二部には、未護表の蓄稿未定稿二十三 篇の中から十三篇を収めた。収録しなかったものに、﹃無題﹄︵一 九二一、十二︶︵・・・︶等がある﹂と家蔵版﹁後記﹂には記されて い る だ け で あ る 。 おなじく収録されなかった作品に︽司﹀ Z ↓ 。 冨 同 室 開 ︾ が あ る 。 こ れは、︽或るまどんなに︾翻訳よりおよそ一年以上のちの創作と推 定されている作品で、﹁うす暗い橡側の端で、/琉泊色した女の憧

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が/光った

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夫に叛いた﹂の三行で始まる十四行の短詩であるが、 あきらかに仙台での不幸な恋愛を想起させる詩篇である。こうした 詩篇がおなじ未定稿の作品群のなかから収録詩篇として選ばれなか ったのには、ひとつには詩人の運命を決定づけた恋愛事件をより直 接的に喚起するような詩篇が意図的に避けられたということがあっ たのではないかと推測される四九 O これは、没後まもない時期に近親 者によって編輯刊行された﹁遺稿詩集﹂の性格をもあたえられた刊 本としてはやむをえないことであったにちがいない。しかし、その おなじ家蔵版・筑摩版で、翻訳である︽或るまどんなに︾が﹁第三 部﹂翻訳作品の冒頭に置かれることによって、詩人自身の作品では なく、ボードレ

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ルの詩篇によって、隠された主題の一つが暗示さ れることになったと見ることができよう。もちろん︽或るまどんな に︾が翻訳作品としてみごとな出来映えであることはいうまでもな いが、そうした﹁翻訳作品﹂として﹃詩集﹄に収録されるという意 味のほかに、創作詩篇群においては隠蔽された主題を、ボードレー ル詩の翻訳という形式をとることによって間接的にいわば緩和され たかたちで表わすことで、遣されたさまざまな詩篇をより深い理解 の地平へと開いていく契機が示されることになったのである。 これが戦後、詩人の弟の親友ではあったが詩人とは面識のない編 者によって小伝が書かれ、﹃詩集﹄が||﹁遺稿詩集﹂としてでは な く 1 1 日本近代詩の一時期を画する詩集との認識のもとに編集さ れるようになったとき、この翻訳作品がまずはその任を解かれて本 来の位置に

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編者によって選択された方針である﹁制作年順﹂と いう排列のうちに!

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戻されることになったのも至当なことであっ た と い え よ う 。 VI ︽或るまどんなに︾から︽秋の悲歎︾へ

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散文詩の方ヘ ︿或るまどんなに﹀が翻訳されたと推定される大正十二年春から この年の初夏にかけては、創作においても多作の時期にあたり、詩 篇十篇が書かれている。このうち、五篇が散文詩であることが目を ひく。それ以前に書かれた詩篇はすべて行分け形式による詩篇であ ったから、この時期、詩人は散文詩の創作を試みはじめたことにな る。それは、この五篇のうち、最も早い時期の︽ゆふベみた夢︾と いう作品の表題に﹁習作﹂を意味するフランス語の合言号︾が括 弧 に 入 れ ら れ て ﹁ ︵ 間 宮 乱 立 ﹂ と 添 え ら れ て い る こ と か ら も 推 測 で き る 。 この最初の散文詩︽ゆふべみた夢︾は、︽或るまどんなに︾翻訳 とほぼおなじ頃に書かれたと推定されている。つまり、詩人はボー ド レ 1 ルの韻文詩を散文訳しながら︵あるいは推敵しながら︶、こ の最初の散文詩︽ゆふべみた夢︾を書いたのである。その後、行分 け形式による詩篇も書くかたわら、残りの四篇の散文詩が集中して 書かれることになるが、︽或るまどんなに︾散文訳がこうした自身 の散文詩創作をうながしたと見ることができるだろう。 ﹁小散文詩は、狭い枠組のなかに、ある色彩の統一が存在するこ とを認めてこそ規定されうるのだ。︵・・・︶それゆえ、外国語で書 かれた定型詩の逐語訳が、散文詩のすぐれた見本となることにも、 納得がいくであろう。原詩の形式から生じるポエジーは、訳文では さまざまの強勢点が変えられ︿北まうため、跡かたもなくなってい る。しかし全体を蔽っていた光量、抑揚、とくに支配的ト l ン 、 つ まりテクストというこの二つの無の聞の距離をむすぶ感情の粋が残 される。︵・・・︶それはひとつの統一体であり、それ自体で充足し て い る ﹂ 五 0 0

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148 ボードレ l ル研究の泰斗ジョルジュ・プランの﹁散文詩について﹂ と題する論考のなかの一節である。散文詩というジャンルの起源に ついてはさまざまな議論があるが、外国詩の散文訳に散文詩のひと つの雛型を見る観点である。富永太郎が散文詩創作の方へと歩みだ してゆくにあたっては、ボードレ l ルやランボ

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の散文詩の影響が あるのはもちろんであるが、プランのいうように、こうした韻文詩 の散文訳という経験がひとつの契機となりえたと見ることができる だろう。ボードレ

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ル韻文詩の散文訳をいわば跳躍台として散文詩 へ の 道 が 聞 か れ た の で あ る 。 それと同時に、やがて詩人はみずからの声で||そして韻文詩の 散文訳という試みによって始められた散文詩形での詩作の習熟のう ちに||、自己の﹁マリア﹂を書くにいたる。はじめて﹃山繭﹄誌 に発表した一篇、︽秋の悲歎︾である五一。マラルメの同表題の散文 詩篇に寄り添うようにして書かれたこの散文詩のなかで、詩人は ﹁立ち去ったかの女﹂、不在の女性への追憶を慈しみつつも、ラン ボ!の︽地獄の季節︾最終部︽別れ︾五一一の響きに強く共振して、確 固たる訣別の意志と出発への予感に貫かれた一節でこの散文詩をし めくくる。﹁今は降り行くべき時だ||金属や蜘妹の巣や瞳孔の祭 b ち える、あらゆる悲惨の市にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光 るあの枯芝生の堅い斜面に身を委せよう。それといつも嬰らぬ角度 を 保 つ 、 錫 箔 の や う な 池 の 水 面 を 愛 し よ う ・ ・ ・ ・ ・ ・ 私 は 私 自 身 を 救 助 しよう。﹂ここにいたって、﹁マリア﹂はもはや︽或るまどんな に︾から遠ざかっている。詩人は詩篇冒頭に書く、﹁戦傑は去った。 道路のあらゆる直線が匙る。あれらのこんもりとした貧姿な樹々さ へも閣を招いてはゐない。﹂詩人もまた︽或るまどんなに︾の﹁わ たくし﹂から離れている。﹁私はたゾ微かに煙を翠げる私のパイプ によってのみ生きる。あの、ほっそりとした白陶土製の γゆめ款の頚 に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色の空 第 7号(2010) 鳥取大学大学教育支援機構教育センタ一紀要 を蓋ふ公孫樹の葉の、光津のない非道な存在をも赦さう。﹂それゆ え、︽或るまどんなに︾では﹁わたくし﹂が﹁霧﹂となって立ちの ぼる存在であったのに、ここでは﹁マリア﹂が立ちのぼる。﹁天の ひ だ 方に立ち騰るかの女の胸の襲を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襲 を私は昔のやうにいとほしむ。﹂かくして︽或るまどんなに︾での 激しさは静けさへと転じている。﹁夕暮、私は立ち去ったかの女の 残像と友である。﹂もはや二人は気化したかのようだ。そこで﹁私﹂ は問わずにはいられない

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﹁私たちは煙になってしまったのだら うかつ・私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空気を憎まうかつ・﹂ ︽或るまどんなに︾から一年半、詩人は遠くへ歩みだしている。 そのかんには上海行きがあり、京都への遁走があった。︽秋の悲 歎︾ののち、︽鳥獣剥製所︾、︽断片︾と散文詩が書きつがれ、 ﹃山繭﹄に発表される。ボードレ

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ルの韻文詩︽或るまどんなに︾ の散文訳を契機として散文詩を試みはじめることになった詩人は、 その早すぎる死の直前、︽遺産分配書︾を書く。その年の夏、富永 太郎を見舞ったことを二十二年後に回想する小林秀雄が﹁僕は、富 永 が 既 に ラ ン ボ オ の = ∞ 。

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。=︵見切物︶に倣って、美しい﹁遺産分配 書 ﹂ を 書 い て ゐ 、 た 事 を 知 ら な か っ た ﹂ と 書 き つ け た 五 一 一 一 最 後 の 散 文 詩 篇 で あ る 。 遺産分配書 わが女王ヘ。決して穣れなかった私の魂よりも、更に清津な私の 両眼の員珠を。おんみの不思議な夜宴の鰭に投げ入れられようため 善意ある港の朝の微風ヘ。昨夜の酒に濡れた柔かい私の髪を。

参照

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