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はじめに(pdf)

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はじめに

美術家の村上慧氏の自著,『家をせおって歩いた』(2017)には, 369日にわたる「移動を生活する」日々が記されている。この本を 読むと,美術家がどのようにしてものを見て考え,制作を行ってい るのかに触れることができる。 村上氏は,本物の屋根瓦を載せた重さ15 kgほどもある家を担 ぎ,徒歩で一般道を移動する。運送トラックがばんばん走る道路の 路肩を歩きながら,車の暴力的なスピードに腹を立てたり,車にひ かれた蛇が思いの外たくさんいることに驚いたり,歩く速さがもた らす時間の価値についてあらためて気づかされたりする。道の駅で は,見知らぬ子どもに夏休みの自由研究で家を作りたいからと請わ れ,作り方をレクチャーする。夜は許可をもらって神社や民家の駐 車場などに家を置き,そこで寝る。重たい家から解放されてホッと すると同時に,家があることに安心する。このように移動を生活し なければ,絶対に感じないこと,考えないことが丁寧に記されてい る。 移動を生活することは,肉体的にも精神的にもかなりしんどい行 為であったに違いない。自らを鼓舞したり,移動生活の意味を繰り 返し確認しようとしたりする様子が日記の随所に記されている。個 人的な感覚や思考の過程が克明に書かれており,移動を生活する中 で村上氏が大切な何かに気づいた瞬間の切実さや驚きの感覚が,読 者である筆者にもありありと伝わってくる。 移動中,目に留まった家をスケッチしたりもするが,作品は移動 を生活することそのものである。その生活で感じ考えたことを記

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vi はじめに 録し,振り返り,解釈し続けることが作品であり,それは決して自 分探しやアイデンティティの模索ではない。定住することに対する 疑問と,じっとしていられなかった自分の特性や指向性を見つめつ つ,人との出会いや会話から得たものを手掛かりに,制作(移動) の意味に留まらず,人間の営み,暮らし,社会について考えを深め ていく。そうした活動の全てが,作品になっている。 ちなみに,村上氏の家は,彼のウェブページ1)Twitterのハッ シュタグ(

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村上慧)で見ることができる。筆者も写真でしか見て はいないが,何とも滋味のある姿をしている。ぜひ本物を見てみた いという気持ちにさせる,いい佇まいの家である。 移動を生活することそのものは,誰にも真似できるものではな い。また,移動生活の中で感じることは,全ての人に共通するもの でもないだろう。そもそも,なぜそのような行為を選んだのか,な ぜそうせざるを得なかったのか。たとえ村上氏と類似の活動をして いる別の美術家がいたとしても,作品を思いついたきっかけや経緯 にはその人ならではのものが関わっているだろう。発想の原点でも ある視点や着眼点は,芸術家ならではのものなのか,それとも芸術 家自身も制作経験を通じてものを見る目を徐々に育てていくものな のか。発想の原点がどうやって育っていくのかということは,今ま であまり研究の俎上には乗っていなかったようだ。 1970年代,ゲッツェルスとチクセントミハイは,芸術家を対象

とした研究を実施し,その成果をまとめた書籍『The Creative Vi-sion』(Getzels & Csikszentmihalyi, 1976)を出版している。チク

1) http://satoshimurakami.net/  

   

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セントミハイは,フロー理論(第5章4.3節参照)の提唱者として よく知られているが,創造性研究の第一人者でもあり,創造性は個 人とフィールド(学会などの専門分野の人々の集まり)とドメイン (領域に蓄積された文化)の三つが相互に関与し合って初めて成立 するとのシステムズ・モデルの提唱者としても知られている。 もう一つ,ゲッツェルスと共にチクセントミハイが提唱した重要 な 観 点 が あ る。そ れ は,芸 術 的 創 造 は“問 題 解 決( problem-solving)”(Simon, 1973)ではなく,“問題発見(problem-finding)” であると主張したことである。芸術的創造を問題の発見であるとす る考えは,パトリック(Patrick, 1937)が行った芸術家の創作活 動についての先駆的な心理学実験に端を発している。芸術家が作品 制作のための芸術的なテーマを見つけること,すなわち芸術表現に おいてふさわしい問いや問題を発見することが芸術的創造には不可 欠であり,その問題発見は芸術家の“creative vision”,つまり「芸 術家のものを見る目・創造的なビジョン」であると,書籍の最後で 触れている(Getzels & Csikszentmihalyi, 1976, p.251)。

筆者は共同研究者の岡田猛氏や高木紀久子氏らと共に,現代美術 家に協力を得つつ研究を進めてきた。その過程で,芸術家の目は, その人の仕事の経験やそれによって形成された価値観,創作に対 する信念,そして何よりも創作の中核となる大きなテーマによっ て形作られていることにあらためて気づかされた。特にこの,創作 の中核となる大きなテーマを,私たちはパトリック,そしてゲッツ ェルスとチクセントミハイの研究に対する敬意も込めて“創作ビジ ョン(creative vision)”と呼んでいる。その意味は,芸術家の“も のの見方”や“創造的なビジョン”に留まらない。創作ビジョンは, 創作のテーマや目的,指向性,興味関心,感覚,イメージ,信念, 自己概念などの複合的な要素から構成されていると考えられるから

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viii はじめに である。 本書で扱う問いは,次の二つに集約される。「人はどのように芸 術家になるのか?」と「創造的に熟達するとはどういったことなの か?」である。これらの問いを考える上で鍵となるのが,創作の過 程で美術家の創作ビジョンがどのように形成されるのかを解明する ことではないかと考えている。同時にそれが,美術家たちの熟達と 創造の秘密を解く手掛かりの一つになるのではないだろうか。 本書の中では,創作ビジョンの役割やそれがどのような要素で構 成されているのか,また創作ビジョンがどのような段階を経て形成 されていくのかを中心に,若手の美術家や熟達した美術家の協力を 得て進められた,横断・縦断のフィールド・ワークを通じて見えて きたことを紹介していく。 少し話が変わるが,チクセントミハイのシステムズ・モデルに照 らすと,芸術家を対象とした私たちの研究は,それを受け入れてく れている認知科学というフィールドの懐の深さに助けられている。 認知科学は,欧米では人工知能やシミュレーション,脳科学に重点 を置いた研究として急速な発展を見せた一方で,日本では独自の 発達を遂げているのではないかと思う。特に,研究の面白さやユニ ークさを尊重する学際的な雰囲気の中で,芸術家の研究を進めるこ とができたのはとても幸運なことであると感じている。この研究に ついて本を著す機会を与えられたことが,何よりの証拠である。一 風変わった研究を面白がってくれる日本認知科学会というフィー ルドがあったこと,科学的発見の研究から舵を切り,芸術的創造の 研究を新しく進めようとした岡田猛研究室の最初の研究(岡田ら, 2004; Yokochi & Okada, 2005)に関わることができたことが,今 のこの研究活動を支えてくれている。

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様な芸術ジャンルを対象とした研究を進める仲間を徐々に増やし ている。研究仲間が増えるということは,研究に必要な情報や資料 が蓄積され,理論的な観点の整理と精緻化が進むということでもあ る。この先も,それぞれが研究テーマを温めつつ,芸術的創造の心 理学を展開していくことを心から望んでいる。また,そうした研究 活動を支えるフィールドが,認知科学に限らず他の領域にも広がっ ていって欲しい。 芸術の世界にも同様のシステムズ・モデルが当てはまるが,学術 よりも芸術の方が厳しい世界である。美術家の活動が文化(ドメイ ン)に蓄積されていく過程においては,様々な試練がある。制作し た作品をどのような画廊で発表できるかから始まり,定期的な発 表の場を確保できるか,展評に書いてもらえるか,少しでも多くの 人々の目に触れる機会を得られるかなど,制作活動とはまた別の問 題が横たわる。事実,芸術系大学卒業後に美術家として活動を続け られる人は,1学年で1人程度,10年後にはさらに減少するとい う過酷な現実がある。これまでの私たちの研究に協力してくださっ た美術家の人たちは,そうしたシステムを生き残ってこられた美術 家たちであり,これから生き抜いていこうとする人たちでもある。 機会があれば,ぜひ彼らの作品を観ていただきたい。 本当は,研究成果を早く発表して美術家のみなさんから得たご恩 に報いなくてはいけなかったのにもかかわらず,ゆっくりとした歩 みしかできず,なかなか成果を発表できずにいた。最近ようやく形 にして示すことができる段階になってきたが,それでもまだまだ不 十分であり,この本の中で説明する内容は,実証的・理論的なもの というよりも,記述的で未解明な部分が多い。これから紹介する美 術家の創造的な熟達の姿は,作品を見れば一目で分かってしまうよ うなことなのかもしれない。それでも本書が,作品がどのような発

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x はじめに 想やきっかけで生まれたものなのか,美術家が何を考えて方法や素 材,色,形,構成を工夫し,展示方法にどんな仕掛けをしているの かを理解する時の一助になることを願っている。 研究を通じて,じっくりと詳しくお話を伺える機会がなければ, 美術作品が生まれる舞台裏,そしてどのようにして芸術家になっ ていくのかを知ることは叶わなかっただろう。この本の中では,今 まで教えていただいたことを十分には活かしきれていない。それで も,本書を通じて少しでも美術のこと,芸術家のことが分かり,そ の活動に秘められた重要な意味に目を向けてもらえれば幸いであ る。 本書の構成 本書は全6章で構成している。まず第1章では,美術家の研究 がどのような視点から捉えることができるのかを,心理学や認知科 学の研究のメインストリームとの関わりの中で捉え直す。次の第2 章では,美術家が何に熟達していくのかを捉える視点を提供するた めに,美術家の特徴でもある創造性やその活動の変化(すなわち熟 達)について,創造性の諸理論と熟達理論とを組み合わせた創造的 熟達過程の枠組を紹介する。そして,第2章の枠組を具体的に理 解するために,第3章から第4章にかけて,美術家を対象に行っ ている私たちの研究から分析の結果や実例を紹介しながら,美術家 の創造活動についてみていく。第3章では若手の美術家へのイン タビューを参考に熟達の初期相の特徴を,第4章では熟達した美 術家へのインタビューを参考に,活動を始めて10年ほど経ったあ たりを中心に,創作にどのような変化や特徴が表れるのかをみてい く。第5章では,美術家としての活動開始から10年を過ぎたあた りに見いだされる“創作ビジョン”について,その役割や関連する 諸概念(例えば,心理社会的発達やキャリア発達,動機づけなど)

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との関係をみていく。最後の第6章では,あらためてどのように 芸術家になるのかについて現時点での筆者の答えを示すとともに, “作品を介した他者との新たなコミュニケーション活動”(第1章 1.5.2節参照)としての芸術の側面,すなわち美術家にとっての鑑 賞者の役割や,鑑賞者と共に美術家が育っていく社会の実現に向け た取り組みの一部についても紹介しようと思う。 この本は,創造性の認知について,心理学や認知科学の観点から 研究を行おうとしている学生や大学院生に向けて,研究の足がかり となるような書籍も紹介しつつ執筆することを心がけた。また,美 術に馴染みが薄い読者に対しても,その歴史や美術家たちについ てできるだけ分かりやすく書くことを心がけたつもりである。もう 一つ心がけたことは,美術を学んでいる学生たちにも読んで欲しい と考え,心理学の専門的な用語を少し嚙み砕いて説明することであ る。こうしたことから,心理学徒にとっては説明が冗長であったり 簡略化しすぎであったりする箇所もあるだろう。一方で,美術の専 門家からすれば多元的な美術のことを簡便に説明しすぎの箇所もあ るだろう。丁寧かつ過不足なくそれぞれの領域を説明できるほどの 知識をまだ十分に形成できていないことが悔やまれるが,不十分な 点は筆者の現在の力量の限界としてご容赦いただきたい。 本書における用語の表記について ここで,この本で用いる芸術,美術に関する言葉の示す範囲を整 理しておきたい。 芸術という用語は,明治期に西洋のartを翻訳するために当てら れたことはよく知られている(佐々木,1995)。その後,芸術は文 学,音楽,演劇など様々な表現の領域を包括する概念として利用 され,その中で絵画や彫刻などの造形表現が美術(もしくは造形美 術)を意味する言葉として使い分けられている。

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xii はじめに さらに,現在日常的によく用いられるアートという言葉は,art の単なる表音文字として芸術や美術と等価な意味を有するもので はなくなりつつある。椹木(2015)が指摘するように,英語のart の音韻表記のアートは,和製英語と化して独自の意味を含意するよ うになり,サブカルチャーやネイルアート,フラワーアートなどの 様々なジャンルを包括した言葉として多用されている。最近では, アイドル的な歌手たちもアーティストと呼ばれるようになってい る。 本書の中で紹介するのは,主に現代の造形表現の領域で,作品を 作り発表している人たちであるため,現代の美術家と呼ぶのが妥当 であろうと考えた。そこで特に断りのない限りは,美術は造形表現 を,芸術はより広い範囲の表現領域を示す言葉として用いる。 また,現代の造形表現全般を現代美術と表記し,コンセプチュア ル・アート,バイオアート,ポップ・アートなどのように,アート の表記が一般的に定着しているものに関しては通常の表記を用い る。なお,コンセプトやテーマ性を意識した造形やパフォーマンス などの表現については,現代アートと表記することにした。現代美 術と現代アートを厳密に区別することは難しいが,現代美術の中で もコンセプト重視の表現をするものを現代アートと呼んでいる現状 を踏まえた書き分けを踏襲することを心がけた。

参照

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