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日本ファシズム体育思想の研究 (II)

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(1)

保健体育科教育教室 入 己 は じ心ウに 前稿

(I)に

おいては(1川召和20年代におけるファシズム批判 とその論理 )大正 自由体育の思想 的限界 は)日本 ファシズム体育思想の一般的特質 とその発展段階 を明 らか にす るとともに

,昭

和初 年か ら昭和

6年

の満州事変 までをファシズム体育思想への移行期 として規定 し,(4)こ の移行期 にお け る体育思想の変容の過程 について触れた(D。 本稿では満州事変か ら昭和12年の 日中戦争 までを移行期の第

2段

階 として とらえ

,

この段階 にお けるファシズム体育思想への模索の過程 を明 らかに したい。 一般 にこの第

2段

階 は

,な

お 自由体育の余波が残 り

,自

由体育 の方法理念である自動

,自

,個

,創

,興

味等 といった観点か ら従来の体育 は形式主義

,画

―主義

,ま

た束縛主義的であるとし て批判 されていった。 しか しなが ら

,こ

れ らの教授法批判 は

,原

理的批判 を欠 くことによって篠原 助市の意志的体育論の提起やナチス・ ドイツの国家社会主義体育論の移入 を契機 に唱導 されていっ た国家主義的

,民

族主義的体育論 など

,総

体 としての日本精神主義体育思想に包含 されてい くこと になる。

2.満

州事変 とファシズム体育思想への模索

1.満

州事変 と体育の ファシズム化過程

(1)満

州事変 と軍部の台頭 昭和

6年

9月

,中

国軍 は奉天北方の柳条濤で満鉄線 を破壊 し

,日

本軍守備隊 を攻撃 した。 いわゆ る満州事変の勃発である。 この事変 は

,昭

和初期 における資本主義の全般的な危機が深 まるなかで 既成ブルジョア政党

,地

主政党

,な

かで も国内の階級的矛盾 を中国大陸への武力的進出によって解 決 しようとしていた軍部 に絶好の回実を与 えることになった。折か ら満州問題 は

,重

大な転換期 に あった。 もともと満州問題 は

,日

,日

露戦争以後絶 えず 日本 の運命 と結 びつけられてきたのであ る。満州 は,「十万の英霊

,二

十億の国需」の浸み こんだ「聖地Jとい うイメー ジを国民の脳裡 に浸 透 させ

,か

つ また軍閥の割拠する中国の近代的な統一国家形成の遅れ という条件 も加わることによ って

,満

州が本来中国主権下 に属する領土であることを忘れさせ るほどの ものであった。そして「大 満州の広茫千里互寒の野

?に

熱血 を躍 らす というようなロマ ンテ ィシズムは

,絶

えずアジア主義の 底 に流れていた ものであった。 克 江

(2)

こうした危機的な状況の下で軍部青年将校たちは

,独

自に天皇親政下にお ける国家社会主義の断 行をめざ して思想運動 を展開 し

,そ

れを地盤 にしなが ら次第 に政治への介入 を画策 していったが, その思想的原理 は

,ほ

かで もない北一輝 の「 日本改造法案大綱」(大正12年)による国家社会主義で あった。 こうして軍部

,な

かで も陸軍の中央上層部 は

,昭

6年

の 3月 事件

,満

州事変後の10月事件 な ど 一連のクーデター事件 をて ことして対満州侵略の具体的な構想 を練 り

,昭

6年

6月 には「対満方 策」 を決定する一方

,満

州 における作戦開始の時期 を昭和

7年

とすることを想定 した「満州問題解 決方策の大綱

Jを

決定 した。 その結果

,同

年 6月 の中村大尉事件 や同年 7月 の万宝山事件 は

,満

州 侵攻 に利用され

,こ

うして満州における軍事行動への布石が準備 されたのである。 この侵攻計画 と 並行 して軍部上層部 は

,行

動へのテンポをはやめ

,既

成政党 に対 する攻撃

,国

内政治への干渉 によ って国防国家建設への転換 を図ろうとした。 満州事変以後

,民

政党の安達内相 は政友会 と軍部 による協力内閣 を提起 し

,若

槻内閣にゆさぶ り をかけた。その結果若槻内閣は

,昭

6年

12月総辞職 し

,

ここに民政党内閣 は亙解 した。 この若槻 内閣にかわって登場 したのが犬養政友会内閣であ り,文相 に鳩 山一郎,陸相に荒木貞夫が就任 した°ち ところで政友会 は

,す

でに昭和

6年

4月 に「10大政綱」 を発表 し

,そ

の第9項に「教育制度の根本 的改善及思想問題対策」 をかかげていた。 また同年12月 には政務調査総会 を開催 し

,安

藤文部政務 次官 を長 とした特別委員会の成案である「教育の根本的施設の改善要綱」が同総会に報告された。 この要綱 は,「精神教育 の徹底」で買かれてお り,(1)国家の理想 を基調 とした人物の陶冶,(2)教授時 間 と自由時間の適切 な調節 と自治訓練の精神の涵養,●)修身

,国

,歴

史における国民精神

,自

治 精神の陶冶,は)東洋文化の振興 とそれによる思想善導対策が唱われ るとともに

,教

育の実際化

,大

衆教育制度の確立

,労

働者教育の普及 と拡充が指摘 され

,教

育 に対するある一定の合理化 を推 し進 めようとした。 しか し

,こ

れに対 して軍部は

,満

州権益の擁護

,満

州八帝国の生命線等 といったス ローガ ンを背景に国内における不景気

,失

,食

,人

,農

村問題等の解決 を陰蔽 し

,

この改革 案 も軍部の支持 するところではな く

,実

現することな く終 った。

(2)鳩

山文相 による思想善導政策 昭和

8年

3月 の国際連盟か らの脱退以後,軍部 は政治

,教

育への介入 をよ リー層強化 していった。 特 にロン ドン軍縮会議 (昭和

5年

)に

おける兵力削減の決定 によって軍部 は

,そ

の兵力削減 とい う問題 を即戦力に対応 した軍事的能力の陶冶を教育 において実現することで解決することを図ると 同時に

,文

相鳩 山一郎 は

,天

皇親政下の国家社会主義 イデオ ロギーによる思想対策 を実施 していっ た。それ は具体的には教員の思想弾圧 となってあ らわれていったのである。昭和

7年

8月 の東京 に おける教員検挙以後

,10月

富山,11月埼玉

,新

,山

梨,12月沖縄

,大

,昭

8年

1月 に名古屋, 秋田, 2月長野等 と全国的な規模 による教員の検挙が行われていった。そして昭和

8年

4月 には斎 藤首相 を長 とする思想対策協議会が内閣に設置 され

,同

年 4月 に開催 された地方長官会議で鳩 山文 相 は

,思

想悪化 は国民教育上寒心すべ きことであると述べるとともに同年 5月 の全国学務部長会議 において も同様 の演説 を行 った。 また思想対策協議会 は

,同

年7月 には不穏思想 をもつ教職員 を徹底的に撲滅すること

,と

いう中 間報告を発表する とともに

,内

務省警保局 の原案 をもとに「教育 。宗教 に関する具体的方策」 を明 らかにした。それは第一 に国家的指導原理 として 日本精神を聞明 し,こ れを普及徹底せ しめること。 第二 に不穏思想の人的

,物

的取締 を厳 にして

,不

穏思想 に対 す る防禦および鎮圧 を完 くすべ き思

(3)

想 取 締 方 策 。 そ して第 二 は社 会 政 策 に よ って 不 穏 思 想 の基 盤 をな くす とい う もの で あ った。

(3)日

本精神主義の作興 と体育の結合 この結果,「国体明徴」を理念 とす る高度国防国家建設のための思想善導があ らゆる教育政策の中 枢 におかれ るようにな り

,そ

れに封応 して日本精神の陶冶

,軍

事能力の向上 とい う観点か ら学校体 育

,ス

ポーツならびに地方体育運動のファシズム的再編が進行 していった。体育運動審議会の答申 にもとずいた「野球 ノ統制並施行二関スル件」(昭和

7年

3月 )は

,基

本的には思想問題 を背景 に学 生 スポーッの隆盛 による思想的な拡散現象 を阻止す るという思想対策 としての意味 を もつ ものであ った“ちまた昭和8年 5月 1日 か ら 3日 間にわたって全国体育運動主事会議が開かれ,「現状二鑑 ミ 民衆体育 ノ普及向上二関 シ留意 スベ キ事項如何」が諮問 されたが

,席

上鳩 山文相 は,「目下我国は内 外共 に多事である。此の際体育の振興 は一層重要である。独逸の興隆

,チ

ェコスロバ キア国の国民 運動の原動力が体操 にあることは思 い中ばに過 ぎるものがある6もと拶挨 し

,山

川体育課長 も労働者 体育 の振興が国家的力 にとって大なることを力説 した°ちこうした思想的傾 向のなかで同主事会議 は, その答申において「近時我ガ国民体育 ノ興隆見ルベ キモノア リ ト雖 モ其 ノ分野ハ学校体育二傾 キ民 衆体育エ ア リテハ未ダ不振 ノ状態ニアル ヲ免 レズ而 シテ現下挙国振張 ノ時局二当 り特二建国精神 ト 相結 ンデ民衆体育 ノ振興 ヲ期 スルハ尤モ時宜二適 ス ト云 フベ シPもと民衆体育 と日本精神の結合 を強 調 したのである。 そ してさらに昭和

9年

4月25日か ら28日の 3日 間 にわたって

,や

は り全国体育運 動主事会議が開催 され

,同

主事会議 に対 して「体育運動 ノ精神的効果 ヲー層増大 ナラシムル具体的 方策如何

Jが

諮問 されたが

,栗

屋文部次官 も国難の打開に とって体育運動の振興が基本的な条件で あることを力説 している。 「顧 うに国民の気力 を増進 し

,体

力の向上 を図 らん とする体育運動の振興 は

,何

時如何 なる時代 に在 りまして も決 してこれ を等閑視 すべ きではないことは申す まで もないのであ りますが

,現

下の 如 く国情 の一般的事態が極 めて非常重大なる時機 に船 きましては

,一

層その必要を痛感せざるを得 ないのであ ります。 これ

,国

難 を打開 し

,時

局 を善導 し

,国

力の充実向上 を図 るべき根本的要素 は実に思想堅固に し て気力に満ち

,体

力旺盛 なる国民の一致団結せる奉公的活動に存するものであ りまして

,体

育運動 は実に斯 くの如 き国民活動能力の基本的力量 を培養するに必要欠 くべか らざるものであ り

,ま

た最 も効果ある教育的施設の一 つであると考 えられ るか らであ ります。 また体育運動の指導眼 目は

,

こ れを斯 くの如 き点に置 くことに依 ってその重要性が最 も明瞭に考 え得 ると信 ずるのであ ります①。」 この意 をうけて同主事会議 は,「我国現下 ノ状勢ハ協カー致以 テ此 ノ難局打開二努ムベキナ リコノ 時局■鑑 ミ体育運動 ノ精神的効果 ヲ著大 ナラシムルハ極 めて肝要 ノ事」であるとの方針の もとに「体 育運動 ノ指導二際 シテハ従来 ノ身体的技術的偏重 ノ弊 ヲ矯 メー層精神的方面 ヲ重視 シ徳性 ノ涵養人 格 ノ完成二努ムル ト同時二 日本精神 ノ拡充 ヲ図ル事」 を答申 し

,具

体的には「祝祭 日国家記念 日等 二船 テハ特に全国的地方的体育祭 ヲ挙行 シ国民的意識 ヲ宣揚スルコ ト0」によって体育のファシズム 化 を意図 したのである。

(4)岡

田啓介内閣の成立 と学校体操教授要 目の改正 斎藤内閣による思想弾圧 の結果

,抵

抗運動が弱体化 しつつあった昭和

9年

7月

,斎

藤 内閣 は帝国 人絹の疑獄事件の責任 をとって総辞職 し

,か

わって岡田啓介内閣が登場 した。 そ して文相 にはひ き 続 き鳩 山一郎が就任 した。岡田は政権 を担 当するにあたって10大政綱 を発表 し

,特

に体育 について

(4)

「 日本精神 ヲ涵養 シ人格 ヲ陶冶 シ国民体育 ノ向上 卜時勢二適応スル知能ノ啓発 トニ意 ヲ注ギ文運ノ 進展 ヲ図ル為 ノ教育 ノ制度 卜実際 トノ両面二互 り深甚 ノ考慮 ヲ加ヘン トス(り 」 ることを明 らかに し た。 そして昭和10年 3月 に貴族院 において「政教刷新二関スル決議」ならびに「国体明徴二関スル決 議」が採択 され

,同

年10月には再度国体 明徴 の声明 を発表 し

,国

体明徴運動が強化 されていった。 また同年11月 には国体明徴理念 にもとづいた恒久的な対策 を確立する目的をもって文部省内に「教 学刷新評議会」が設置 された。同評議会 は昭和10年12月に57名の委員 をもって第

1回

の総会 を開 き, 諮問事項である「我ガ国教育 ノ現状二鑑 ミ其ノ刷新振興 ヲ図ルノ方策

Jが

討議 され

,そ

の後9回の 審議 を行 い

,昭

和11年10月 に「教学刷新二関スル答申」 をまとめたのである。 同答申は「大 日本ハ万世一系 ノ天皇天祖 ノ神勅 ヲ奉 ジテ永遠ニ コンヲ統治シ給 フ。 コレ我ガ万古 不易 ノ国体 ナ リ。而 シテコノ大義ニー大家族国家 トシテ億兆一心聖旨ヲ奉体 シ克 ク忠孝ノ美徳 ヲ発 揮ス」べ きことを明 らかにし

,そ

のために(1)「教学刷新 ノ中心機関 ノ設置」,(動「祭〒E卜政治 卜教学」 の一体不可分の関係,(3)共産主義,社会主義 はい うまで もな く,「西洋近代思想ノ基本 タル個人主義, 自由主義

,権

力主義

,主

知主義

,観

念論及 ビ唯物論等ノ本質 ヲ引瞭ニ シ

J,か

つ批判 すべ きであると 述べている。 また体育 については,「教学刷新上必要ナル事項」として「武道

,芸

,作

法並二我 ガ 国芸術二関スル教養ハ弥々 コレヲ重視 シ

,以

テ精神的情操的陶冶二努ムルコ ト肝要ナ リ」 と指摘す るとともに,「体育運動二関スル事項」のなかで次のようにいっている。「我ガ国古来 ノ武道二則 り , 敬虔

,剛

毅 ノ気風 ヲ盛ニシ

,公

明正大 ノ気風 ヲ重 ンジ

,殊

二選手制度二併 ヒ易キ各種 ノ弊害 ヲ除去

,又

ソノ研究ハ単ナル運動 ノ機械的

,生

理的及至心理的法則 ノ如 キモ ノノミナラズシテ心身一体 ノ具体的法則 ノ研究 ヲ盛ナラシ

,ナ

ホ指導者 ノ養成 ヲ重視 シ

,コ

ノ方針 ノ下二体育研究機関ノ内容 ノ刷新 卜拡充 トヲ図ル必要ア リ(11ち J これ らの答申に示 された方針 は

,昭

和11年6月 に改正 された「学校体操教授要 目」 に反映 され る とともに

,日

本精神主義的体育論な らびにファシズム体育の擬装的科学論 を胎胚 させ る客観的条件 をつ くりあげていった。 この改正 された教授要 目は

,明

らかに学校体育 を全般的な ファシズム体制 に向けて再編することをね らい としていたが

,体

,遊

戯及 び競技

,剣

道及び柔道等の各教材の統 合主義教授

,心

身の発達段階 に即 した方法原則

,運

動習慣や環境

,施

設等に応 じた指導な ど自由体 育 の成果 を部分的にではあれ吸収 しようとしている。

(5)地

方体育運動のファシズム的再編 学校体育 における全般的なファシズム化の浸透 と同時に

,地

方における民衆体育運動 に対 するフ ァシズム的再編が進行 していった。一般 にわが国において近代の大衆支配 を可能に したイデオロギ ーは

,家

族国家主義 と農本主義思想

,

とりわ け報徳主義精ネ申であった とされているが

,

この報徳主 義 は,「官治主義の限界 をカヴァー しなが ら

,大

衆の体制への自発的服従 を喚起 す る武器°動Jと して ますます矛盾 を深めつつあった天皇制社会の支配的地盤 を温存 し

,か

つ強化 していった。そしてこ の天皇制国家 と地方 を和合 させる中間項 として地主層が組織され

,そ

の地主機構 を媒体 とした さま ざまな教化団体 (報徳会

,青

年団

,処

女会

,婦

人会

,在

郷軍大会等

)の

縦割 り機構 のなかで村民の 支配が進行 するとともに

,こ

の機構 をて こにして大衆的体育 のファシズム化が推 し進 め られ

,大

衆 支配の補完的機能 を果 していったのである。 「各府県各市町付におてその土地

,そ

の職業

,そ

の年令

,性

に応 じた適切 なる体育運動 を創作実 行 し

,春

秋二期 のお祭 りには

,神

社 を中心 に体育祭 を行 っていただ き度 い。 そうすれば今更改って

(5)

日本精神等 とむづか しい事 は云わな くて も

,民

族意識の覚醒

,民

族 の団結 は

,郷

土 を中心 として, 自か らその中 に養成 されてゆ くものである。・3七 とぃ ぅのが一般的な論理であった。 教学刷新評議会の設置 とその答申をきっかけ として国家独 占資本主義体制によるファシズムのイ デオロギー的支柱が呈示 され るとともに

,日

本精神主義思想 と武道が直結 したかたちで総体 的なフ ァシズム体育政策が展開 されていった。

2.自

由体育の限界 とその方法的継承

(1)自

由教育 の変貌 と日本的児童中心義 明治30年代 に「活人物」 とそのための「自学輔導

J主

義教育 を主唱 し

,明

治教育の画―主義

,形

式主義 を批判 した谷本富 は

,昭

7年

にいたって皇室中心主義の国家社会主義 を原理 とした民族主 義に立つ ことを明 らかにした。 また「大正 自由教育の総決算であ り

,ブ

ルジョア・ りベ ラ リズム教 育の頂点(1つ 」 に立 ち

,徹

底 した自由教育 と自然主義体育 を実践 した「児童の村」刀ヽ学校 の野村芳兵 衛 も

,国

体精神 と「日本民族性 に立脚 した皇室中心の協働 自治的国民統制 としての日本的精神(15ち に立 った日本主義教育 を高唱 した。 さらに昭和

5年

池袋児童の本寸を本部 として野 口援太郎

,上

沼久之丞

,入

沢宗寿

,小

林澄兄等が設 立 した「新教育協会」は

,昭

9年

に「 日本精神 と新教育」 と題 す る論文集を発刊 しているが

,野

口援太郎 は

,そ

の序文のなかで新教育 は

,自

由教育 ではな く

,日

本精神 に即応 した ものであ り

,児

童生活

,個

性 の尊重等は決 して日本精神主義教育 と矛盾 した ものではな く

,明

らかにその教育理念 と一致すると説 いたのである(1° 。 こうしてか っての自由教育 は

,見

事 に変貌をとげ

,個

,自

律, 自由

,自

,児

童生活の尊重等 といった方法原則 は

,日

本 ファシズム教育 を支える方法論 として変 容 していった。 その変質の内的契機 については既 に触れた ところであるが

,大

正期に標傍 された児 童中心主義的体育思想は明 らかに日本的のそれであった。例 えば

,高

島平二郎

,尼

子止

,吉

原藤助, 真行寺吉太郎等は,自 らの児童中心主義の思想 をこう規定 した。 「体操科の教授 は大体か ら見て規律 的の ものである。従って動 もすれば主体 を忘れて教授本位 にな った り

,或

は学校本位 になった りす る場合が少な くない。尤 も体操科の教授要 旨中には,『規 律 を 守 り

,同

を尚ぶ』 というような社会 の要求 に基いた もの もあ るが故に

,体

操科の教授が規律的であ ることは少 しも差支 えないばか りで な く

,大

に努めなければならない所であるが

,往

々教師一個 の 私情か ら割 り出 した要求 をした り

,

或 は学校 の都合 か ら打算 した規律の服従 を強いた りす ることの あるのは

,大

に警戒せねばな らない 事である。 其の他教材 の選標

,配

当等 も生徒の為 めを思 ってなすべ きことは勿論

,器

具器械 の設備等 に至 る まで

,総

て生徒の事情 を基礎 として之 に応ずるようにしなければならぬ。斯様に体操科教授の主体 は生徒其の物 であるが故 に

,一

般に此の事 を目して児童本位主義であると言われているが

,言

う迄 もな く蒐 に謂 う所の児童本位主義の主張は,彼の極端 なる個人主義教育説 として喧伝せ られている, エ レンケイー派の主義,主張 と全 く立脚地 を異 に しているものであることを序ながら述べて置 く。(り 」 満州事変以後において もなお従来の伝統的な画―主義

,形

式主義的体育が批判 され続 けたの は,

一つにはボーデ

(Rudolph Bode)の

表現体操やブック (Nieに

Bukh)の

基本体操などヨーロッパ の新体操 の影響 をうけたことがあげられ るが

,基

本 的には満州事変以後の高度国防国家体制 に即 し た人的資源の計画的陶冶 と配置 という要求の もとで

,教

材の系統化

,自

然主義体操の導入

,ダ

ンス の教材化な ど内容の部分的な近代化は避けることので きない基本的な条件であったことによる。 そ してさらには日本精神

,国

体精神 といった日本民族主義精神の育成 とその強化において も子 どもの 生活意識や心理的過程 を無視することはで きず

,大

正 自由体育の成果 を吸収せ ざるをえなかったの

(6)

である。 自由体育の遺産 ともいえる個性

,興

,自

,自

,自

由等 といった方法理念がファシズム段階 において も登場 し

,か

つスエーデン体操中心の学校体操教授要 目が批判 され

,そ

の改造が主張 され たのはまさにその理由によるものであった。 ファシズム期 に特に叫ばれた「鍛錬」,「錬成

Jと

いっ た理念 をただちに機械的

,抑

圧的方法 をもって実践することは現実に不可能であ り

,ま

た子 どもの 発育 。発達 とい う論理に したが って実践 されることな くしては

,国

民 をファシズム理念に向けて主 体 的に動員す ることはおばつかない との認識 は十分 なされていた。 こうした認誠 は大谷武―の こと ばに伺 うことがで きる。 「以前 は

,命

令 に応ずる服従の精神が強調 されていたが

,今

では

,命

令 を待 っ て行 うのでな く, 凡て運動 な り

,行

為 を自主的に起すべ き訓練が重視 され るに至 った。か くて訓練 の内容が被動的か ら能動的に

,他

律的か ら自律的に進んで来たのである。 命令 にすなおに月艮従するとい うことは今 日に船 て もなお必要な徳 目に違いない。然 し

,今

日の社 会で もっと必要なのは

,命

令 をまつ まで もな く

,良

いと信 ずることは主動的に進 んで行 うことであ る。 社会のため

,国

家のために有益 なことは自主的に行 うということは更 に一歩進 んだ道徳である。 協同の如 きも

,高

い没我の精神 を根抵 とせ る高い程度の協同働作 を要求するようになった。また, これ迄は

,体

操で も

,遊

戯 で も

,教

えられた形式 を忠実に守 りさえすればそれで良かったのであっ たが

,今

ではこれ に種々 と

,現

在の要求に応ずるように工夫 を加 え

,創

,創

造の精神 を発揮すべ き方面に重点が向けられて来た。 され ば

,新

時代体の育 としては

,指

導者がプランを作製 して号令 を通 してこれを忠実に実行 させ るだけでは十分でない。指導 を与 えるほか

,児

童が独 りで働 くべ き 機会を与 えなければな らぬ。 遊競技の如 きも

,伝

統的な規則 をただ、忠実 に守 ることに主力 をおいた結果

,命

令の無い場合の 訓練

,規

約の不備 に応ずる修練が欠乏 していたために

,命

令の来 ない時

,規

約の不備 な時 には正 し い行動が出来なかったのである。 されば児童は監視の届 く範囲では順良であって も

,監

視外 に立つ と急 に規律

,節

制 なき別個の人格 に変 るのを常 とした。斯かる形式的な訓練 は

,砂

上の楼閣の如 く 信頼 し難 きものであることを悟 り

,今

では

,常

に もっと自由で

,然

か も深い精神訓練 を目指す こと になったのである。(18」 こうして「「絶縁的運動 を課 した り

,機

械的緊張努力 を強いぬ こと」,「遊戯性

,歌

謡性 を利用 して 指導すること」

,吐

模倣性

,想

像性 を利 用 して指導す るが便利である」,「活気 を添 えるような運動 を 挿入する こと」,「児童心 に立脚 した指導をなす こと(興味本位)」,「イ固別的取扱 をなす こと」,「自律 的態度の馴致 をなす こと」等 といった原則が何 らの矛盾や異和感 もな く鍛練的取扱

,教

練の重視, あるいは「誤れ る享楽主義

,自

然主義 に陥ってはならぬ(19も という論理 と並置 され るのである。

(2)現

場 における形式

,画

―主義体育批判 昭和

7年

5月20日か ら24日にわたって第38回全国訓導 (体育

)協

議会が東京高等師範学校で開催 された。 この協議会で さまざまに議論 されたテーマな らびにその内容 は

,

この段階の教育現場 にお ける体育実践の一つの傾向をあ らわ している。例 えば

,同

協議会で報告 されたテーマは次のような ものであった。

1.体

育 を中心 とせ る教育の体験 を語 る 浜松市南尋常小学校 三輪孫治郎

2.児

童生活 を基 調 とせ る学校体操の再吟味 秋田市保戸野尋常小学校 佐藤信

3,学

校体操の正道 山口師範附

(7)

小 藤屋利胤

4.小

学校体育 の再吟味 函館師範附小 岡田源作

5.学

校体操 と其の訓練 宮 城師範附小 山内猛

6.体

操科指導の規範 青森師範附小 木村定吉

7.児

童心理 よ り見たる 体育 の内容 京都女子師範附小 松本晴雄

8.小

学校体操指導の反省 山形師範附小 石垣建作

10.要

目の活用 と新体操 との交渉 福岡師範附小 永野俊光

11.新

体操 の意味 と私の態度 宮崎 師範附小 恒吉了

12.要

目体操 に リズムを織 り込むことの試案 大分師範附小 大江醇

13.小

学校体操の生活化 新潟師範附小 町田正義

14.体

育の共同社会的訓練 静岡女子師範附小 森 井倉吉

15.体

育 の一般化 に対 する私見 千葉女子師範附小 竹田金兵衛 16。 体育合理化への研 究 岐阜師範附小 辰己時雄

17.体

験 か ら見た体育 岐阜市明徳小学校 時松雄

18.体

操科指 導 にお ける能率化 姫路師範附小 新田定治

19,体

育指導にお ける形態的指導の一考察 福島師 範附小 苅宿敏夫

20.体

操科指導の革新 長崎市長崎小学校 湯川長之助

21.低

学年指導の一 考察 静岡県青島小学校 渋谷敏夫

22.児

童の生活 と体操 横浜市戸部小学校 渡辺未雄 23. 児童生活に立脚せる我国の体育 長 岡市千手小学校 松 田安之

24.農

村小学校 にお ける児童の遊 び と其 の指導 について 栃 木師範附小 石井 晃

25.郷

土遊戯 神奈川 県上濤小学校 植村 未広 26。 自由遊戯の指導 について 富山市愛宕小学校 圧司松右衛門

27.郷

土 に即 したる体育の指導 を如何 にすべ きか 山形女子師範附小 小野寺稔 それ らの主張は

,興

,個

性 の尊重

,児

童生活の重視

,自

然化等 といった観点か ら従来の画―, 形式主義的体育 を批判 している。例 えば

,秋

田県保戸野尋常小学校の佐藤信 は,「新教育 におては小 学校 は,児 童のための楽 しき場所

,愉

快 な生活場所

,第

二の家庭 た らしむべ しとされ,生活化の声が 教育全般 に亘 って叫ばれている。斯 うした時に吾が学校体操 を見 るに非常 に物足 りなさを感ず るの で

,平

,月

並的な ことに属するが今一度吟味す る必要ある鬱0もと述べ

,革

新 すべ き事項 として「児 童生活重視の体操」,「環境の重視」,「女児の指導」,「個性尊重の体操」 を掲 げ

,児

童生活重視 の観 点か ら形式主義的な体操 を批判 している。 「形式それは大事 な一面 に違 いない。然 しそれのみにては満足が出来 ない。 して或 はそれ以上大 事 なのは児童の生活の方面 である。児童の生々 した活動

,心

身一如の没我状態

,生

命の躍動

,即

ち 児童精神が充分緊張 し,湊測 たる元気 を以 て自活動 をつづけ,広い体操場 に童心の充 ち満 ちて こそ, 本当によい授業であ り

,体

操であると思 う。(中略)技術のみに流れ る体操 は必ず行 きづ まりを感ず る。吾々は

,常

に児童生活の中に身 を投 じて共 に学校生活

,学

級生活 を営み

,本

当に児童 を知 り, 生活 を知 って指導 しなけれ ばな らぬ。今 までよい体操だ と称 えられた ものには見せ るが為 に行 って いる

,名

誉のために行 っていると言 うものが多 くなかったか。活動性 に富 む

,子

供等の喜ぶべ き筈 の体操が往々 にして きらわれ ることのあ るは余 りに童心 を無視 して形式のみに流れ るか らと思 う。 吾々 は

,常

に独 り体操科のみならず

,児

童の生活のために行 うという意図が明瞭 に教授の流れに 入 っていなければならぬ。(中略)つまり児童生活 を無視 した,精神が弛緩 した他律的な活動 を強い, 凌測さを失われん とす る体操 よ り脱 して

,心

理学的な興味主義の体操へ と進 まねばならぬ∫91ち また佐藤は,「個性尊重の体操Jと いう立場か ら従来の体操 は「 どちらと言 うと

,他

動的で一挙一 動頭 よ り爪先 きに至 るまで

,児

童の個性 を無視 して教師の意志 により号令一下

,厳

格 に動作 させて いたような気がする。無論斯 うしたこともその一面か も知れぬが,も っと児童各々の個性 に立脚 し, 個性 を発揮するよう努力 しなければならぬ と思 う。 つ まり教育的な体操 は

,人

,個

性 を土台 とし

,且

それ等を表現す る体操 であると考 える。画一 的な

,ロ

ボッ ト式な体操で誰 が

,ど

こで

,い

,ど

んな子供 を指導 して も同 じような体操 であるな らば

,個

性味 もな く真 に教育 的 な体操 と言 うことが出来ないのである・ 動」 と主張 している。

(8)

また山口師範附小の藤屋利胤 は,「我が国の体操 は解剖学の原則 か ら割出 された瑞典体操 を主 とし た ものであるが故 に

,科

学的な体育法である点 に長所 を有 しているものの

,如

何 に も直線的であ り, 束縛的であ り

,局

部的である点 に欠点 をも有 している。心理的に見て児童 に縁遠 い点が多いだけに 興味 も少 いのである。(中略)大なる原因 は

,や

は り要 目の教材 その ものが興味の少 い もの

,児

童心 理 にかけはたれな点を多分 に持 っているためである様 に思われる°3ち と

,ぃ

ゎゅる教授要 目体操 を 批判 し

,そ

の批判か ら「学校体操 の改革すべ き点」 として(1)興味化 (リ ズム化

,自

然化

,競

技化), 鬱)経済化 (能率化)(3)熟練の三点 をあげている。 一方山形師範附小の石垣健作 は,「最近体育 に関する種々の研究

,体

育の新思潮

,新

体操の出現等 に刺激せ られて

,今

や要 目に対す る不満

,改

正の論

,体

操指導 に対する革新 の叫 びがにわかに喧 し くなった?。 」が

,一

般 にスエーデン体操 は興味 に欠 け

,運

動量 も少な く

,か

つ子 どもの自然性 に反 してお り

,そ

の指導 において も「

1.形

式的

,技

術的指導に流れ

,唯

努力が重ん じられたため

,児

童の 自然性

,興

味が軽ん じられた こと。

2.分

析的 にな り

,部

分的効果 を収得す ることに力 を注 い だため

,全

身的に

,綜

合的に教授時間全体 を通 じての好影響 ある指導 とい う点 に欠 けた こと。3. 訓練的

,教

練的調子濃厚 にして

,圧

伏的

,機

械的動作 の指導に陥 り

,児

童の 自発性 が重ん じられな かった°

9Jと

批半Jしている。 こうした体育改造論 は

,

この協議会 に一貫 して流れていたが

,そ

の討議の過程 で主張 された もの には次の ようなものがみ られる。「教育 とい う広 い立場か ら体操 をやって貰いたい。」「児童 を凝視 し, 児童の発達 に応 じてや って買いたい。」「不況時代の学校体操だ ということを考 えてほしい。 これは 文部省 に望 むことだ。」「文部省へ要 目を改正 してほ しい。 ィ

`遊

,競

技が少ない。 口

.体

操が多 す ぎる。J「

5年

では1年に授業時数150時間位 しかないのに71種目の体操 をや らねばならぬ。これでは 能率の上 りようがない。」「知育遍重の弊 を除け。」「体操 をむつかしくするな。20万の小学校教師 は 誰で もやれるものであ り度 い。全身的運動種 目を採用せよ。号令を明示 し

,そ

れ はただ標準である ことを注意 してほしい。連続運動には特別 な意義がある。故に其の長所を認 めよ°6ち 」またこの協議 会の席上佐々木等

,宮

田覚造

,斎

藤薫雄等 も従来の体育方法 を批判する講演 を行 っている。佐々木 は,「今後の小学校体育Jと題 して こう述べている。すなわち従来体育思潮 は

,ス

エーデン体操

,デ

ンマーク体操

,

ドイッ体操

,そ

してブ ック体操 と変転 きわ まりないが

,そ

の体育 的価値 を決定する 指標 として「体育 を必要 とする子 どもの研究が第一に考慮 されなければならない問題である。其虎 か らスター トして立て られたる指導なれば

,如

何 なる体育思潮が襲い来 ようと決 して心配 はない。 少 しも引招 られることも

,恐

れ ることも必要 としない。要 は内に確固たる力 を蔵 して置 くことが, 種々なる思想に対する態度 を決定 する上 に大切 なる ものである°わ」 と教材価値 を決定する基準の中 心に子 どもを据 えるべ きことを力説するとともに

,従

来の体育 を厳 しく批判 したの である。 「従来の体育の指導法は余 りに画一的ではなかったか

/之

れに対 して振 り返 って見 る必要 はない か。余 りに号令によってのみ動か して居 る傾向はないか

,彼

等子供達 は先生の道具?学校香枝 長の 道具 Pの 如 く動 いて居たことはないか! 只讃辞や奨励の為めにのみ動いている傾向はないか !彼 等が本当に自分 自らの観念の支配 によっ てどれ丈活動 しているか !単 なる技術の練磨 に止 まって居や しないが !小 学校 の体育 は選手養成 を 主眼 として居 りはしないか !真 に子供達の健康 とい うことに立脚 した体育の指導法をやっているか どうか を考 えた とき

,そ

の真 目的 に向って居 るものが果 して全国に幾人居 るであろうか!?°」 こうした批判 を通 して佐々木は,「体育の指導中殊 に体操 は

,従

来の矯正的 (Verbessttung)の 意 味か ら一歩進めて発育的 (Entwicklulag)の 色彩 を濃厚 にしたイデイ (Idee)を 持た しめることが緊

(9)

要であると思 う。此の一事 に想倒 す る丈 けで も体育 の指導法に大変革が起 って来 る もの と思われる。 か くして従来の体育指導法の改善 をはか られたな らば

,子

供達 は勿論幸福 なるか を思 うのである。 吾人 は

,―

に子供達の幸福 の為 めの指導法であることを希望す るものである。徒 らに教師や学校の 為 めの体育た らん とす るカモ的指導でないことを希 う次第である。°9」 また宮田 も「小学校体育 の要諦

Jに

ついて述べ

,そ

のなかで従来の体育教授は官僚的

,命

令的教 授であるとして次の ように批判 した。 「我国にお ける体育運動の指導に就 いて

,根

本的な改善 を要す る点 は

,官

僚的指導

,教

師本位の 指導。命令

,画

一的な指導 を止 め

,教

育思想 に順応 し

,一

般諸学科の指導傾向 と同一方向に向って 進 ましむることである。 この教師本位指導

,官

僚的な指導が体育運動の指導の型 とな り

,長

い間そ の ままの姿 となって居 ることは実に寒心 に堪 えぬ ことである。(中略)二十有余年の久 しき間の教育 思想の変化 も

,我

国の教育実際家にはこれ を吸収 し

,消

化せん として眼 を円 くす るほど忙 しくあつ たことを思わせるのである。 その思想を実際化せ しむることに

,如

何 に苦 しんだことであったかを 知 るのであるが

,体

育運動指導には何等反影 として現 る事 もな く

,依

然 として変化 を見ず取 り残 さ れ

,そ

の ままの主義の殿堂 を堅 く守 っていたのである。(中略

)然

るにこの官僚的な指導

,画

一的, 命令的な源 を体操の精神 に発 し

,更

に発展 し

,遊

戯材料の指導にまで この精神 を発揮 し

,遂

に総て の運動材料指導の上 に影響 を及 ぼ し

,遂

に定 まった指導形式 を生 んだのである。(中略)今後 にお け る体育の指導 は真 にめざめ

,団

体 としての個人 と個人 としての指導の完全 を期 し

,

しか も各個人の 人格 を尊重 し

,自

由を認 め

,環

境 に即 し

,形

式 ともに納得出来 る程度 にまで根本的な改善

,進

歩 を 計 らね ばな らぬ ものである°°。J 同様 に斎藤 も「毎 日の体操時間 は児童 に とって愉快であ り

,活

々 としていなければならない。 な ぜな らば

,生

々 として居 り

,愉

快であるという事 は

,児

童の精神が活躍 していることを意味 し

,体

育運動の効果 は

,単

に肉体 が運動 しているだけでは駄 目で

,肉

体の背後 に精神があってはじめて十 分に可能であるか らである。然 るに従来の大抵の体操 の授業 は全 く其の反対である。児童の運動 に は何等精神の活躍が な く

,た

だ強い られ るるままに操 り人形の如 く動 いているに過 ぎず

,彼

等の顔 貌には生気 もな く

,喜

びのかげもない というような授業が多かった°D」 と批判 し

,そ

の原因が指導 方法の拙劣 さもさることなが ら

,教

材選択の基準の中心 に子 どもをおかず,「多少程度 を引 き下 げて 児童 に強制 していたに過 ぎない」ことによるものであ り,「産 に児童の不満があ り

,指

導の行 き詰 り があったのである(3o」 と指摘 している。 協議会におけるこれ らの体育改造論 は

,大

正 自由体育 の余波 をなお受 けていた ことを示唆 してい るが

,同

時 にその改造論 は

,純

粋 なまでに方法論 に限定 されている。

(3)三

橋喜久雄の生命体操論 と宮原義見の自由体育論 大正14年に「体育即生活論」のなかで心身一如 を「生 の本義」 として とらえ

,生

命発揚 の中心的 契機 として体育 をえが くとともにその生命の発揚

lb身

一如

)を

人格的発展

,文

化的発展 の根源に 位置づ け

,そ

こに自由

,自

,自

治が存在するとす る

,い

わゆる生命体育論 を唱導 した三橋 は

,昭

7年

に「小学校 にお ける新 (生命

)体

操 の学習

Jを

著 し

,児

童中心主義による学習論 を主張 して いる。 三橋 は

,

まずその「前語

Jに

おいて「今迄の我が国の体操 は

,真

の人間 を陶冶することに

,真

の 児童 を陶冶することに船て失敗 した と批判せ ざるを得ない程 に遺憾 な点が甚だ多い と思 います。 そ の檬って来 るところの原因を

,一

二で以て算 え蓋す ことは出来 ませんが

,併

し其の最大 の根本 因は,

(10)

人間の本質の究明 を為 さず

,児

童の本位 を誤認 し

,浅

薄 な人生観

,誤

った児童観 に立脚 していた こ とに存 するのではないで しょうか。浅薄な人生観

,誤

った児童観 とは

,人

間の本質

,児

童の純粋性 を把握 しないで

,非

本質′陛

,機

械性 を捕 えて

,こ

の非本質性

,機

械性 を以て

,本

質性

,純

粋性 かの

如くに取 り為して来たことに存すると思います°

3ち

と児童観の不在を批判するとともに

,体

育の存

在を子どもの感性の世界に求め

,教

師――教材―一子 どもの関係における相互の交感の過程にみい

だしたのである。

「体操 と云 えば只材料のみに就いて考 えることであって

,之

が児童の主観性 として作用す る働 き 等にお ては考 えねばな らぬ

,と

云 うことさえ考 えなか ったのが事実だ と思います。 教師の仕事が

,教

師 と教材 と児童 との三位一体境 にお ける人格体験の作用である限 り

,教

材が児

,教

師の作用性 と交渉 して働 く其の作用 を考 えないで

,如

何 して体操教育が成 り立 つので しょう。 我が国の体操 は一 日も速 に正道に引 き戻 さねばな りません。。勺

この立場から三橋は

,学

習の基本原則を

(1)自

力的

,似)経

験の再構成

,(3)価

値の観念

(よ

りよき

)

におき

,妹

藻学書と

,&,象

請あ泳藻浩導た寿患じ宅

,党

豊かようよ善俺入あ意志

(顕

在的に或は潜

在的に

)を

政らそ

,自

先島

tと

真あ潅験を漆為浅じ宅各蕉浩動を書う。

5も

と学習の概念を規定したが

, この学習論 には明 らかにデューィの影響が うかがえる。そして三橋 は,「従来一般 に児童 は

,単

に教 育の客体である と考 え られていた。児童 は単 に教育の対象であって

,児

童 は『学ぶ奴隷』であ り, 陶冶材の前 に障 まっているものかのように思われていた ものが

,近

来一転 して

,児

童 は教育 の理想 とならねばな らぬ。児童 は

,自

己特有の価値 と存在権利 とを有する人間生活の表現であって

,疑

わ しき未来への単 なる準備の時代 ではない との児童観か ら

,児

童 は教育の主体 であると見ねばな らぬ ように

,教

師の児童に対 する態度の根本的変革 を促 して来た°°

Jと

いい

,子

どもを教育主体 とし, 子 どもの生活 とその自由を承認することによってはじめて自由な人格への発展が可能になると力説 したのである

,そ

のためには「学習指導の原理」 として(1)学校長の自覚,(2)教師 も学習者であ る。 0)教師の協 同

,は

)教師の 自由,(5)種々の教師

,(0学

校長の偉大 と手腕,(7)教師 もまた文化創造者 で ある

,偲

)教師が児童 に対する態度二― 教師 自身が「発展態」であ り,教権の乱用 を慎 しむ一―,(9)教 師は一方に偏 してはならぬ

,10児

童の活動 を発揚す る教師

,11真

に自分の体操学習 を愛する教師, 1)愛は凡 ての困難 を解決する

,Q)主

義・規範 を超越す る教師,Qり人生の全方面に豊富

,深

遠なる体 験 を有する教師,住 9教師の鋭 い洞察力

,強

い直観力 を持つ教師

,10指

導法 を創作す る教師,住D新時 代の教師な どの条件 をあげるとともに

,次

のような諸原則 を掲 げたのである。 すなわち

1.徹

底 したる学習生活一― 自律 と協同 を重視 した生活創造 としての体操指導。

2.行

為原理――「全心身 を積極的

,有

目的的に活動 させて全 自己の発展 を図 る」こと。

3.接

触原理―一 環境 に対 して直観 。想像・ 思惟・ 感応・情操・ 意志・ 行為等の作用 をもって交渉する。

4.興

味原 理 ――

(1.興

味は仕事の原動力である。

2.興

味 は自己活動の指導者である。

3.興

味は全人的 活動 をさせる。

4.興

味は疲労 を防止する。

5.興

味 は学習 を生活化する。

6.興

味 は人め若々 し さを持続 させる。)5。 創作原理―― 自己経験の改造

(1.創

作 には他律的拘束の脱却 と自律 の必要。

2.創

作 には精神統一 を必要 とす る。創作 には生理作用の促進 を必要 とする。

)6.発

展原理一一 自 己発展の学習である°D。 最後 に三橋 はこう結 んでいる。「新体操 の学習 は,全心身 を積極的に活動 させ る霊肉交渉の具体的, 有 目的的の作為原理 に依 って『我 は行 う』の立場 に出発 して

,環

境 を体育的 に純真なるもの として 摂取 して接触原理 に発展 し

,興

味原理によって強い

,活

発 なる学習態度 を持続 し

,最

も新鮮 に して 全我的の創造生活へ と無限に発展原理 によって生活 を全一的に発展 させる所 に学習生活が成 り立つ

(11)

のである°9。 」 また宮原 は,「体育教授法原論J(日召和

7年 )に

おいて「教授法の理想」として「自発活動 と体育J の結合を強調 し,(1)巧利的見解 と自発心,(動求知的欲求 と自発活動,(3)活動 の満足 と自発活動,(4)環 境 の整理 と体育,(5)自由 と体育,俯)興味 と体育,(7)本能 と体育

,俗

)創作 と自発活動等 について触れ る一方,「ヘルバル ト以来 は

,教

授上興味 と言 うことを尊重 して来た ものであるが

,最

近 に至 って学 習動機の尊重すべ きものであるとか

,或

は創作教育

,創

造教育

,自

学 自習等の唱導 され る様 になっ たその ものは

,被

教育者の自発活動 を要求することが

,教

授上 に船て最 も大切 でなければならぬ と 言 うことを認めている もの と言 ってよい°9」 と述べ

,さ

らに「従来体育の実際に見 る様 に

,何

等体 育 その ものに自覚することな く

,そ

の活動が受動的であっては到底体育 の目的 を達す ることは不可 能“0も であ り,「現今体育教授の欠陥は只 肉の合理的訓練 に没頭 して

,一

定不変の興味なき

,自

由な き教法を用い

,以

て児童の心理 に合致する教法 を用いなかったがためであるにD」 と批半 Jした。 そし て教授

=学

習の過程 における個性 と自由の意義 について次の ように主張 している。 「 この個性 は

,彼

等の自由活動の中にて最 も観察 し易い ものである。 この 自由のない ところに人 間の自発的活動の存在 することはない。拘束的な ところに自発活動 な きは明 らかなことである。従 来体操教授 と言 えば

,意

志的

,拘

束的運動がその過半 を占め

,彼

等の自由的な運動 を尊重すること が至 って少ない。 自由な遊戯教材の様な ものは

,時

間の終 りに単 なる附加物 として課せ られていた 観がある。斯様な教法のみ をとることは

,余

程体育 その ものに自覚 あるものに適用すべ き教法であ って

,発

達の中途 にある児童 に採用すべ き教法ではない。律2也

3.学

校体操教授要 目論争 全国訓導協議会 において主張 された形式主義的

,画

一主義的体育批判 や個性尊重

,子

どもの生活 の重視

,自

律的体育 の高唱 あるいは佐々木

,宮

,宮

,三

橋等の旧体育批判 と個性

,自

由体育の 唱導など

,昭

7年

の こうした思想的傾向が確かに昭和10年頃 まで にかけての学校体操教授要 目論 争 ももいえる思想状況 を形成 し

,部

分的 には教授要 目の国家主義的性格 に対する厳 しくと激 しい批 判一― なかで も二橋 のそれ一― を準備 したことは否定 しえない。 しか しなが ら

,そ

れ らの体育改造 論 ならびに教授要 日批判 には満州事変前後の全般的なファシズム化 に対す る危機意識の片鱗 さえも 見 られず

,主

観的には どうであれ

,客

観的にはさまざまな方法論批半!も昭和11年に改正 された教授 要 目に吸収 されていつたのである。 ところで この学校体操教授要 目論争 は

,中

島海 によれば既述の全国訓導協議会 に対 して文部省が 「現況二鑑 ミ小学校二船 ケル体育運動実施二関 シ特二留意スヘキ事項如何」 を諮問 し

,

この諮間に 対 して同協議会がその答 申案の第3頂に「学校体操教授要 目を改正せ られ度 きこと」 をあげた こと が端緒になった というに9。 いずれにして もこの論争 は

,一

つには教授要 目に対す る批判や不満が鬱 積 していたこと

,二

つには政策 レベルにおける教授要 目改正への動 きに触発 された ことによるとい えよう。 そして昭和11年の教授要 目の改正 は

,下

か らの要 目改正への要求 と教学刷新評議会の答 申 にもとづいた国体主義

,日

本精神主義的体育への軌道修正 という上か らの要求 との統一 を政策的意 図 としていたのであ る。

(1)三

橋喜久雄の教授要 目批判 教援要目批判の急先鋒 は三橋 であった。三橋 は,「学校体操教授要 目改正の機運如何“勺 (昭和5 年

)の

なかで大正15年の改正教授要 目を厳 しく批判 していった。三橋 は

,ま

ず教授要 目は改正以前

(12)

にすでにその「生命」 を失 っていたとする。 「現要 目の命 は何故 に今 日もう果ててな くなって しまったのか

,私

は言 う。現要 目の命は今 日に なって

,無

くなったのではない。 もう遠 くか ら無いのだ。いや大正15年5月27日文部省訓令第22号 で発表 された其 の日か ら

,

もう既 に命 は無か ったのである。いや実は其 日に生れて

,其

の日に死 ん だのではない。始めか ら命 を持たないで出て来た ものであった。命 を持たない ものが生れ出る所以 がない。命があったか ら生れたのだ と言 うか も知れない。 それなら

,本

当は生れたのではない。生 れたかのように

,出

たかのように世 の多 くの体操界 に関係 している人々が幻覚的に迷い

,認

めてい たのだ。」 教授要 目が本来か ら生命 をもちえなかったその根本的な理由は何 にあるのか。三橋 は

,教

授要 目 が国家権力 をもって体育実践 の絶対的な月艮従 を要求することにあると批判 した。 「私 は大正15年 5月 27日

,即

ち現要 目が発布せ られた其の 日全国の体育主事緒君 と一諸 に文部省 体育研究所 におて

,其

の公布の官報 を一部貰 い受 け

,研

究所長 よ り『質問 は多少許すが

,意

見の開 陳は許 さぬ。』その仰せ を聞 き

,其

より要 目を一通 り見て

,直

ちに貰い受 けたる官報の上 に大書 した。 『改正要 目の根本的大改正』 と。私 には此の時既に現要目の命 を何庭に も認めることが出来なかっ たか らである。 この日全国の体育主事

,体

育指導員の多数 を集 めなが ら

,当

局 は進 んで之 を説明せ ず

,僅

に質問に応 じて其の一端 を述べたるに過 ぎず

,枝

葉の運動方法や種 目名称 の未 なる説明 に止 まり

,敢

えて改正の精神綱領 に関 して説明せ ざるのみならず

,会

員の希望

,懇

願並び至 りしも

,遂

いに其の公明なる説明 も与えず して終 った。」 また当局 は,「『前要 目 (大正

2年

公布の もの

)は

調査委員の手にな りしものを参考 として出 した ものであるが

,改

正要 目は準稼すべ しとして出 した ものである。故に前要 目は何 をしても不間に附 して置かれたが

,改

正要 目には絶対 に服従 しなければならぬ。改正要 日以外の ものを工夫 し

,実

するが如 きは法令違反であるか ら

,適

宜庇置する云々』。一体

,訓

令 はいずれ に して も訓令 で

,其

の 尊重 は勿論大切であるが

,決

して法律の如 き絶対服従的の ものではない。参考 というも

,準

檬 とい うも

,訓

令の性質から見れ ば文章の相違 に過 ぎない。要 目は何時で も要 目であって

,参

考 にし

,準

檬すべ きものである。学校 は則 ち準檬 にして形式の盲従 を強 うべ きものではない。」 そ して三橋 は

,研

究の自由を擁護 し

,研

究の自由に対する干渉 は学校体育 の死 を意味す ると批判 したのである。 「惟 えば研究は,何所迄 も自由であ り

,討

究 は勢に満ちていな くてはな らぬ。自由討究 の無い とこ ろには只化石があ り

,沈

滞があ り

,腐

敗が あ り

,死

滅がある。我が学校体育

,殊

に学校体操 に船て は此所数 ケ年の間

,自

由討究 を蛇蝿の如 く恐れ

,た

またま之あれば

,直

ちに之 を異端者 とし

,謀

反 人 として之を体育教育界の外 に憤斥 して

,せ

めてそれによって体育界の狐塁 を守って行 うとしてい るのである。 しか し

,既

に一葉落 ちて天下 は秋だ。掃いても

,掃

いて も

,後

か ら

,後

か らと葉 は落 ちて来 る。 それ を掃 き基 そうとす るのは全 く希望のない努力 といわねばならない。その時はすでに 冬だ。万物の生気が悉 く冷たい土の中に蔵せ られ る時だ。即 ち体操界が墓石になる時だ。 大正15年5月27日現要 目の発布せ られた当日,文部省体育研究所 にお て

,而

か も所長の日か ら『此 の要 目か ら一歩 も出てはならぬ。若 し出た場合には云々』等 と云った事 を聞かせ られた自分は

,其

時 ワナ ワナ と慄った。其 は我が体操界のためにあ まりに暴戻的であ り

,死

滅的で もある態度

,言

葉 であったか ら。其の後 も相変 らず何 という恐 ろしき無理解な

,頑

迷 な態度 であったろう。私 は其の 時 に既 に現要目が発布 と同時 に沈滞であ り

,腐

敗であ り

,死

滅である事 を見出 した。」 三橋 の教授要 目に対するこうした批判 は

,あ

たか もその後 の学校体育の崩壊 を予見 していたかの

(13)

ような感さえあたえるが

,三

橋 は,「体操教授要 目なんて言った ものは全 く必要ない。之 は実際教育 の任 に当面 している教育者の立場 に船て私 は斯 く言 うのである。要 目が無 けれ ば

,体

操 の教授指導 が出来ない。体操の教授指導は

,要

目さえあれば之に依 って行 う事が出来 る。体操の教材 は

,要

目 その ままを児童 に持 ち運べば体操教授 は出来 る ものであると。斯 う言った教育者があるな らば

,そ

んな教育者 は教員を止めろと云 うよ り他 ない。少 くとも体操教授 を受 け持つ資格 はない」 と述べ る とともに

,体

操教材 は

,文

部省の委員な どが決めるべ きものではな く

,教

師 と子 どもの生 きた関係 のなかで創造 され るべ きであ り

,そ

のために こそ教師の 自由が保障 され るべきであると主張 したの である。 「要 目は一つは不必要

,一

つは必要。之実 は両立場の一体融合する所 に真に我が学校体操の運用 が生れ出るものである。即 ち教育者の立場 にあっては

,自

己自らに教材 を構成 するだけの其の実力 と熱意 とを持 ちなが ら

,始

終尚普遍的

,一

般的価値の権威 に只管敬意 を払 う向上

,真

摯 と

,文

部 当 局 にあっては

,其

の 日々の革進

,改

正の自信 を持 ちなが ら

,普

く我が教育者 に全 く自由討究凡 てを 委するの寛容 さを持 ってする時

,即

ち之である。J

(2)斎

藤薫雄の教授要 目とスエーデン体操批判 三橋 とともに要 目批判 を展開 したのは斎藤であった。斎藤 は,「体操界の最近傾 向 と実際家の使命 ∼新精神 に基づ く要 目活用の提唱∼」(昭和

6年

),「小学校体育現下の問題」(昭和

7年

)の

なかで 教授要 目ならびにスエーデン体操の画―主義

,形

式主義的傾 向を批半」していった。 斎藤 は

,大

正15年に教授要 目な改正 された当時 か ら

,す

でにさまざまな批判 のあ った ことを次の ように指摘 している。 「現要 目が其の当時

,時

代の要求 によって組織 された ことは言 うまで もない。要 目の全体 を貫 く 精神 は勿論のこと

,部

分的方面 について見 るも

,此

の意味 は随所 に覗 うことが出来 る。其 の後数年, 時代 は刻々に変 りつつあるが

,今

日と雖 も要 目の組織 と全体 を貫 く精神 とは

,決

して現代の時勢 に 遅 れているとは思えない。のみな らず要 目の精神 は

,体

育の真義 に立脚 して

,我

が学校体育の永遠 の大方針 を具現 した もの と信ずるが故 に

,た

とえ時勢が如何様 に変転 しようとも

,之

が根本的に変 革 され ような どとは

,吾

人の到底信 じ難 い ところである。 しか るに も拘 らず

,今

や要 目に対す る不 満の声 は中々に高いのである。 しか し此の不満の声 は最近始 った ものではない。或 る一部の人達か らではあったが

,要

目制定当時 に船 て

,既

に可な り大 きく叫 ばれたのである。 それは吾人の公平 な 観察 によれ ば

,た

しかに一面の真理 を含んでいた と思 うが

,時

期が時期であったため

,何

等為 にす る ものの如 く思われ

,多

数の人々か らは

,む

しろ白眼視 されたようであった。 しか し

,其

の後誰 というとなしに

,同

じようなことが言われ るようにな り

,今

日漸 く一般 して来 た訳である。吾人は

,無

暗 に過激な言辞 を弄 して

,強

いて平地 に波瀾 を起す ことを好 まないのであ るが

,現

時の体操界の危機――吾人 は何 とな くそう感ずる一― に際 しては

,最

早沈黙 を守 るの時機 でな いことを信ずるが故に

,卒

直に意見 を開陳 し

,大

方の叱正 を仰 ぎ度い と思 う。 “9J 斎藤の要 目に対する批判は

,要

目が興味 と運動量に乏 しいスエーデン体操 を中心的な教材 として いること

,要

目実施 に伴 う財政的基盤の脆弱 さ

,

さらにはその画―主義的性格 に向け られた。斎藤 は

,ス

エーデン体操 における興味の問題 についてこう指摘 している。 「学校体操 に対する根本的な不満 は

,興

味 に乏 しい とい う点 にある。 この点については遺憾 なが ら私 も同感である。体操 は

,あ

らゆる体育運動中の米の飯食 に も相当すべ きものであるか ら

,非

常 に美味 である必要 はないが

,

しか し食 べて も

,食

べて も食べ飽 きないだけの味いを有つべ きだ と思

(14)

う。 けれ ども要 目の体操 は

,一

般 に言われ る如 く

,果

してそれほど興味がないものであろうか。思 うに真 に体育の必要 を自覚 し

,自

ら進 んで行 うものに とっては

,必

ず しも興味がないとは言われな い。(中略)しか し真 に体育の必要 を自覚することに困難な

,或

は不可能 な時代 にあ る児童 に とって

,た

しかに要 目の体操 は興味的ではない。 それは指導法がまずいか らだ とも言われている。勿論 之 も真である。或は体操其の ものの罪 よりも

,指

導法の罪の方が大 きいか も知 らない。(中略)しか し現要 目の体操が一― 主 として瑞典式―― 興味 に乏 しい といフことは我々の経験か らいって も

,又

童児心理の上 か ら考 えて も

,又

贔気 目に見 て も否定 し難 い ところである°。」 また斎藤 は,「要 目の第二の不人気 は

,多

くの時間を費 して努力す る割 に

,運

動量が少いか ら

,従

って効果 も薄 いだろうと疑われる点である(47ち とぃぃ

,

さらに要 目実施 に伴 う財政上の困難 を次の ように指摘 した。 「忌憚 な く言 えば

,現

在の要 目は我が国の貧弱なる経済状態 を殆 ど無視 した

,可

成 り贅沢な もの であるといって宜かろう。此の要 目を忠実に実施するためには

,設

備の点にお て莫大な経費 を要す るのである。取敢 えず主要な器械器具のみ数 えて見て も

,鉄

,助

,跳

,バ

ック

,横

,腰

掛 等が あって

,之

を授業 に役立 てるだけ設備するには

,数

千金 を必要 とし

,而

も我が国の如 く之等 を 屋外 に設備 して風雨 に晒 して置 くとすれ ば

,数

年にして腐敗す ることとな り

,到

底其の維持費の負 担 に堪 えな くなる ことは

,火

を見るよ りも明 らかである。現在我が国の市町村にして教育費の負担 過重 に苦 しまぬ所 は殆 どない といってよい現状 にお て

,体

育が如何 に重要な りと雖 も更 に其の為 に 莫大 な金を支出する ことは何 と言 って も不可である。」 そ して斎藤 は,「それ程金 をかけな くとも十分 に効果 ある体育法あ りとすれば,貧乏に苦 しむ我が 国 としては

,取

敢 えず之 を採用すべ き “ 0」 で あ り

,そ

の方法 を検討すべ きであるとした。 この ように教授要 目を批判 した斎藤 は

,さ

らに興味 を体育指導の基本原則 とし

,そ

のためには自 然体操の精神 を導入すべ きであると主張す る一方

,い

わゆる「努力主義」の体育 を次のように批判 したのである。 「従来 の体育 にお て も勿論興味 と言 うことを無視 した訳ではない。然 し従来の体育指導は

,興

味 と云 うよ り

,む

しろ努力 ということが第一の原理 であった。然 し真の努力は

,興

味であって こそ初 めて可能 な問題 であって

,全

然興味 なき事柄 に対 して努力するとい うことは

,心

理学生非常 に困難 なことであることが證明 されているのである。仮 りに一歩 を譲 って努力 を第一原理 とする体育が必 要な りとして も

,少

くともそれは児童 には適用 されないことである。(中略)或は又国家の危急存亡 といったような非常時 にお ては

,例

えば軍事教練 の如 き努力主義の体育 も大 いに必要であろう。 し かし常時 の体育

,合

理的体育 としては

,

どうして も興味主義 によらねばならぬ と私は信ずる。 “ 9七 最後に斎藤 は

,教

授要 目の画―主義的傾向を批判 し

,こ

の画一主義 によって「土地の事情 による 最 も適切 なる指導を望 むことが出来ない。即 ち体育が形式に流れ

,実

際の児童の要求 に合致せず, 或いは経済的 に疲弊せ る町村 に対 して徒 らに過重なる負指 を懸 けるような結果 となるのである。例 えば助木 による運動 を是非実施せねばな らぬ とい う態度 を要 目が とるならば

,如

何 なる山間僻地 と 雖 も助木 を設備せねばな らず

,其

の経済的負措 に苦 しまねばならぬ6ω

Jと

指摘 し

,要

目はあ くまで も教師の自由を保障すべ きであると主張 した。 「若 し今後要 目が改正 され るとするならば

,理

想 として吾人 は

,(中

略)従来の要 目よ りは もっ と 自由選択 の余地 を十分 にす る必要があると思 う。 最早我が小学校体育指導者 は

,昔

日のそれではないのである。若 し当局 に船 て未だ此の点 に疑問 あ りとすれば

,少

くとも各府県の体育 は

,各

府県の体育主事の方々に任 し

,彼

等の 自由選択の余地

参照

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