海外交通事情
ベトナム ハノイにおけるバスの
現状と課題
渡
わた邉
なべ亮
りょう*はじめに
新興国では経済成長に伴い,移動需要が急増し ている。ベトナムでも増加する需要に対応するた め,現在ハノイとホーチミンで地下鉄の建設計画 が進められているが,実際の建設工事は始まった ばかりの段階であり,公共交通の中で中心的な役 割を果たすまでには,まだ時間を要する。そのよ うな中で,現在,公共交通の中心的役割を担って いるのが路線バスである。本稿では,2013年3月 に現地を訪問した際の様子を交え,その現状を紹 介するとともに,交通運輸大学と運輸交通開発戦 略研究所へのヒヤリングを通じて明らかになった ハノイのバスが抱える今日的,そして将来的な課 題について考察する。1
.ハノイの現状と交通事情
ハノイはベトナム北部に位置する同国の首都で ある。2012年12月現在の人口は692万人で,ここ 4年で1割ほど増加した。人口は今後も増加する 見通しであり,同市のマスタープランによれば, 2020年に730 ~790万人,2030年に900 ~920万人, 2050年には1,080万人に達すると予測されている。 人口の増加に合わせ,移動需要も急速に増大し ている。「ベトナム国 ハノイ市総合都市開発計画 調査」(以下,「HAIDEP」)(2007)によれば,2005年 のトリップ数は1995年の1.4倍に増加した。モー ド別のトリップ数では,自転車が3割減少した一 方,自動車/タクシーは32.4倍,バスは20.3倍, オートバイは6.4倍と大きく増加した。これらの 結果,2005年における都市交通の総トリップの実 *(一財)運輸調査局調査研究センター副主任研究員 ベトナム・ハノイでは,経済成長や人口増加に伴い路線バスが成長を続けている。しかし,輸送サービスの 質は低く,また,運営制度や規制緩和の不備から,その持続可能性には疑問を感じる点が多い。急速に進むモ ータリゼーションを抑制し,公共交通としての役割を十分に果たしていくためには,運営スキームの持続可能 性の確保,民間ノウハウの積極的な活用,利用者サービスの拡充が必要である。また,輸送サービスの改善だ けでなく,異モード間の連携や利用者マナーの改善を図っていくことも重要であり,これらに対しては日本に おける路線バスの運営ノウハウが活用できる余地が大きい。に63.8%をオートバイが占めており,アジアの主 要都市の中でも極めて特徴的な状況になっている。 また近年では,所得の改善に伴い自家用車の需要 も大きく伸びており,その結果,都市部ではラッ シュ時に限らず慢性的に道路が飽和状態となって いる箇所が多い。HAIDEP によれば,乗用車の 世帯保有率は2005年の1 . 6%が2020年には20% に達すると予測され,今後ますます増加すると見 込まれている。 このような中,公共交通の整備・改善が急がれ ている。現在,ハノイでは8路線の地下鉄の建設 計画が進められており,将来的にハノイの公共交 通の基幹的役割を担うと期待されている。これら の計画については,独立行政法人 国際協力機構 (以下,「JICA」)や日本企業が多く関与しているこ ともあり,日本語での情報収集も比較的容易であ る。その一方で,路線バスについては,1980年代 末にトラムが廃止されて以降,長年にわたりハノ イにおける唯一の公共交通であるにもかかわらず, その実態が日本で詳しく紹介される機会は少ない。
2
.ハノイにおける路線バスの概要
(1
)現状 ハノイの路線バスは,1980年代まで年間利用者 が4,000万人程度で推移していたが,モータリゼ ーションによる速度低下や,サービス改善がほと んど行われなかったため,その後大きく落ち込み, 90年代を通じて利用者は約1,000万人/年と低迷 した。しかし,2002年に「モデルバス政策」によ る路線バスのてこ入れが開始され,ネットワーク の拡大と近代化が進められた結果,利用者は大幅 に増加している。2000年に31路線,運行台数334台, 年間利用者約1億人だったバスネットワークは, 2012年には78路線,運行台数約1,200台,年間利 用者約5億人に達しており,その規模の拡大が急 速に進んでいる。 (2
)路線バスネットワークの特徴 ハノイ市の路線バスは現在,民間事業者を含め, 複数の事業者により運営されている。ただし,事 業者が自由に路線やダイヤを設定することは認め られておらず,これらは一括してハノイ市人民委 員会が管理している。 路線はおおむね,都心から郊外に向かって放射 状に展開されている。ネットワークには地域的な ばらつきが大きく,全路線の約90%が中心部の 8つの区に集中している。中心部の最も過密なと ころでは,15系統のバスが集中する区間があるほ か,道路整備が十分ではないため,河川を横断す る区間でも多数の系統が重複している箇所がある。 バス停間隔は平均約500m であるが,中心部では 200 ~400m ごとにバス停が設置されており,こ れらがバスの表定速度低下の一因となっている。 各系統の走行距離もばらつきが大きく,もっと も短い系統は10.7km であるのに対し,もっとも 長い系統では42.6km に達する。これは,ハノイ 市が2008年8月に,周辺の4村を吸収合併し,面 積が大幅に拡大(従来の約3.6倍)した際,これら の地域との間を結ぶ系統が新設されたことに起因 図1 路線バスの利用者数と運行台数の推移 出典:運輸交通開発戦略研究所資料 500 450 400 300 250 200 150 100 50 0 350 1,200 1,000 800 600 400 200 0 2011 2010 2009 2008 2007 2006 2005 (年) (台) (百万人) 利用者数 運行台数 出典:運輸交通開発戦略研究所資料している。ほとんどの系統は大型車両で運行され ており,前後どちらのドアからも乗り降りができ るが,一部の系統では30人乗り程度の中型車両も 投入されている。 交通渋滞が頻発し,運行管理も十分に行われて いないため,定時性は低く,また運行頻度もばら つきが大きいものの,ほとんどの系統で毎時4本 程度以上/片道が確保されているため,フリーク エンシーは比較的高い。 (
3
)運賃制度 運賃も,路線やダイヤと同様に,運行事業者が 自由に設定することはできず,ハノイ市人民委員 会が決定している。運賃は,社会政策的な観点か ら,日本との比較においてだけでなく,現地の物 価水準との比較においても低廉に設定されている ため,バス事業は慢性的な赤字であり,行政から の補助金が不可欠な状態である。 運賃は,路線ごとの運行距離に応じた均一運賃 になっている。2012年10月に運賃が改定され, 25キロ未満の系統は5,000ベトナムドン(約25円), 25キロ以上30キロ未満の系統は6,000ベトナムド ン(約30円),30キロ以上の路線は7,000ベトナム ドン(約35円)である。運賃は乗車後,車内で車掌 に支払い,乗車券を受け取る。 定期券も設定されており,これは系統の距離に かかわらず一律に価格が設定されている。券種別 の価格は表のとおりである。定期券は,バスター ミナルなどに設けられた定期券発売所で発売され ており,通学定期券を購入する場合には学生証を 提示する必要がある。特に通学定期券は,発売額 が月3~5往復にしか相当しないため,人気が高い。 都市交通管制センター(以下,「TRAMOC」)がバス 利用者を対象に実施した調査における利用者属性 によれば,利用者の過半数を学生が占め,会社員 やパート・アルバイトの割合は3割弱に過ぎない。 (4
)バスターミナル・バス停 市内には,主要箇所にバスターミナルが設置さ れている。主に街の中心部や入口に当たる場所に 位置しており,操車場(待機場)としての役割も担 っている。 中心部のバスターミナルは全般的に手狭で,敷 地の端に小さな詰所や定期券発売所,売店がある 程度の簡易な設備のものが多い。また一部のバス ターミナルでは,ターミ ナル内に歩行者用の通路 が確保されていなかった り,ターミナルへの歩道 橋からのアプローチが階 段のみであるなど,バリ アフリーには程遠い状況 図2 ハノイのバス車内の一例 最前列右側の座席で新聞を読んでいるのが車掌 (2013年3月 筆者撮影) 表 ハノイのバス定期券運賃表 (一カ月あたり) 通勤 通学 系統別定期券 90,000ベトナムドン(約450円) 45,000ベトナムドン(約225円) 全線定期券 140,000ベトナムドン(約700円) 90,000ベトナムドン(約450円) 現地停留所の掲示を元に作成である。さらに,時間帯によっては,ベンチ等に 若者がたむろしており,利用者が安心かつ快適に 使える状況が十分に整っているとは言いがたい。 このほかに特記すべき点としては,専用の設備は 設けられていないものの,バスターミナルの至近 にタクシーやバイクタクシーが待機し,自然発生 的にアクセス・イグレス手段が確保されているこ とが挙げられる。 一方で,中心部から外れると,十分な敷地と設 備を有するバスターミナルがある。ターミナル内 に自転車やバイクの駐輪場(有人管理)があり,ア クセス・イグレスのための設備が整備されている。 また,郊外のターミナルは,都市内バスと都市間 バスの乗り換え拠点として機能も有しており,タ ーミナル内には会社別の切符売り場や待合室,都 市間バス発着用の駐車場が確保されている。こう いったバスターミナルの周辺は,まだ開発が進ん でおらず,更地が広がっている状況である。 バス停は,現在市内に1,812カ所設置されており, このうち約2割にあたる350カ所にシェルター設 備が備わっている。シェルターには椅子が設置さ れているほか,路線図や停車する系統番号,各系 統の始発・終発時刻が掲示されている。また,中 心部の一部のバス停では,バスロケーションシス テムが採用されている(接近案内は,日本で採用さ れている到着予想時刻や接近している停留所数では 図3 市内中心部にあるバスターミナル 2013年3月 筆者撮影 図5 郊外のバスターミナルは十分な余裕がある 2013年3月 筆者撮影 図4 利用者が集中し,混雑するバスターミナル 2013年3月 筆者撮影 図6 中心部の一部のバス停で導入されている バスロケーションシステム 2013年3月 筆者撮影
なく,停留所からの距離で表示されている)。 バス停の課題としては,シェルターのある歩道 と車道の間に大きな段差があったり,バスベイが 確保されていない,(大規模な破壊等はされていな いものの)落書き等が目立つことなどが挙げられ る。また,市内に63カ所ある終着点のうち,折り 返しのために必要な設備が備わっているのは,10カ 所に留まっており,残りの場所では道路脇や空き 地を停留所として活用し,折り返しているのが現 状である。
3
.ハノイのバスを巡る課題
前述の通り,ハノイの路線バスは,ネットワー クの拡大とともに,安価な運賃や高いフリークエ ンシーによって,近年利用者数が急増している。 その一方で,急速な成長に現在の運営スキームが 適していなかったり,サービスの改善が追いつい ていないという課題がある。さらに,都市の拡大 や経済成長によるモータリゼーションの更なる進 展といった外的な要因も,路線バスの利便性向上 を阻害する要因になっている。本稿では,ハノイ の路線バスが抱える課題の中から,5つを紹介する。 (1
)年々規模を増す補助金 ハノイの路線バスの運賃は,社会政策的な観点 から低廉に設定されている。そのため,ほとんど の系統で運賃収入により経費を確保できる状況に なっておらず,全78系統のうち,60系統で市から 補助金が支給されている。補助金の支給額は,ネ ットワークの拡大と利用者の増加により年々増加 傾向にあったが,とりわけ近年はそのペースが加 速しており,2012年の補助金は1兆2,240億ベト ナムドン(約61億円),乗客一人当たりでは2,093 ベトナムドンに達している(前述の通り,運賃は 5,000 ~7000ベトナムドン)。近年の補助金の増加 ペースは,利用者の増加ペースを大きく上回って おり,ハノイ市の路線バス事業の費用に占める補 助金の割合は実に67.2%に達し,慢性的な赤字が 発生している。 このように補助金が急増した背景には,燃料費 の増加と乗務員の待遇改善に対する費用の増加が 挙げられる。乗務員の給与は,従来定時性と運行 回数に応じて支給されてきた(支給要件を満たさな いと支給額が減額されていた)。しかし,道路事情 が年々悪化する中で,定められた基準を満たすの が難しくなってきたにもかかわらず,補助金の支 給基準は従来のものが踏襲された。その結果,少 しでも定時性や運行回数を確保しようと無謀な運 転が相次ぎ,路線バスの事故も発生する事態とな った。この反省から,近年支給基準が見直され, 待遇の改善が図られた一方,補助金の額が急激に 増加する結果となっているとのことである。 (2
)競争原理が働かない規制緩和 ハノイの路線バス事業は,規制緩和の流れを受 け,2004年から民間企業の参入が認められている。 これにより,現在では国営のハノイ運輸総公社 (TRANSERCO:トランセスコ)やその傘下のグル ープ企業だけでなく,BAC-HA(バクハ) ,DONG-図7 ハノイ市の路線バスに対する補助金の推移 出典:運輸交通開発戦略研究所資料 1,200 1,400 1,000 800 600 400 200 0 2012 2011 2010 2009 2008 2007 (年) (10億ベトナムドン) 補助金額 出典:運輸交通開発戦略研究所資料ANH(ノンアィ),BAO-YEN(バウイン)の民間企 業3社も路線バスの運行を行っている。 運行事業者は,入札により決定される。ただし, 入札の対象は,2004年以降新たに運行が開始され た系統のみであり,既存系統についてはこれまで どおり,TRANSERCO が運行を行っている。そ のため,民間企業が都市部のいわゆる「ドル箱路 線」へ参入することは認められていない。これに 加えて,路線の改廃を含め,すべての路線の運行 ルートや運行頻度,運賃などはハノイ市人民委員 会が決定するため,たとえ需要が見込める区間で あっても,事業者は自らの判断では運行すること ができない。また,落札者は入札価格のみで決定 される(最低価格を提示した事業者が落札者となる) ため,安全性の向上やサービス改善のインセンティ ブが機能しない状態となっている。 さらに問題なのは,入札の契約期間が5年とさ れており,初期の契約(2004年開始)はすでにその 契約期間を満了しているにもかかわらず,現在に 至るまで新たな入札は行われず,従来の契約が継 続されている点である。このように,ハノイの路 線バス事業を巡る規制緩和は,制度そのものやそ の運用方法に多くの課題が存在し,きわめて不透 明性が高い。この大きな要因としては,規制者と (最大の)事業者が一体であることが考えられる。 (
3
)ほとんど行われていない運行管理 ハノイ市内は,朝晩を中心として終日,道路混 雑が激しい。これに加えて,後述の理由から,バ スの運転士の技量にも差があるため,同一の系統 であっても所要時間のバラツキが大きくなりがち である。また,運行距離が最長では40km を超え, 平均でも30km 弱(参考:東京都交通局の平均は 8.5km)と非常に長いため,経路上の様々な要因 で遅延が発生しやすく,しばしば続行運転になる。 しかし,現状では,これに対応するための運行 管理システムの整備が十分ではなく,運行状況に 応じた柔軟な管理ができていない。また,系統ご とに運行会社が決められており,使用車両も系統 ごとに完全に区別されているため,遅延や運休が 発生した場合に,他の系統のバスを臨時に振り分 けるといった柔軟な対応も行われていない。 各系統とも運行頻度が比較的高く,バス停に 各路線の到着時刻が掲出されていないため, TRAMOC によるバス利用者を対象にしたアンケ ート調査の結果でも,この点に関して利用者の不 満はそれほど高いとは言えない。しかし,安定的 な輸送サービスの提供は,サービス改善だけでな く,運行の効率化にも繋がるため,今後改善を図 ることが望ましいといえる。 (4
)十分とはいえない車内の快適性や治安 TRAMOC によるアンケート調査結果でバス利 用者の評価がもっとも低いのは,「混雑を含めた 乗り心地」であり,これに「バス車内の治安」,「清 潔さ」が続いている。これらから,バス車内の快 適性は利用者のニーズを十分に満たしていない様 子が窺える。 例えば,ハノイではバリアフリーへの対応がほ とんど行われていない。ほぼ全てのバスに2・3 段のステップが存在するが,リフト付きのバスは 投入されていない。これは,バス車両の規格につ いても,ハノイ市人民委員会が決定しているため である。これにより車椅子利用者や障害者の乗降 が困難になっているばかりでなく,一般の利用者 の乗降の際にも危険が伴う状態となっている。ハ ノイでは,バス停で乗客の乗降が完全に終わって いないにもかかわらず,発車してしまったり,歩 道がない場所(場合によっては,道路中央やセンタ ーライン寄りの車線)で乗降を行うことが頻繁にあ るためである。これらの問題は運転士のマナーや モラルに依存するところも大きいが,乗降がしやすいバスを投入すれば,乗降時の安全確保だけで なく,混雑時の乗降時間を短縮する効果も期待で きる。今後は,ハード面からも積極的に安全性を 高める施策を実施していく必要があるだろう。 また,車内の治安確保も大きな課題である。車 内ではスリが頻発しており,過去にスリに遭った 経験から,バスに対してネガティブな印象を持つ 人も多い。また,前述の通り,バスターミナル周 辺の治安も決してよいとはいえず,安心して路線 バスを利用できる環境はまだ不十分である。警備 員による巡回,監視カメラや非常通報装置の設置 といった対策が望まれる。 (
5
)運転手の確保も課題 安全な運行を実現するためには,運転手の安定 的な確保も重要である。しかし,ネットワークの 急速な拡大や待遇面の不満などから,必要な技能 を持った運転士を十分に確保するのが難しいのが 現状である。ベトナムでは,バス車両を運転する ために E ランク(30席以上の自動車が運転可能)の 免許取得と専門の訓練,毎年の講習が義務付けら れている。自動車運転免許は,運転できる車種に 応じて10種類に分けられており,その中で E ラ ンクは上から2番目の種別にあたり,取得者がき わめて少ない。また,待遇面の不満から,別の会 社へ転職する者も多く,なかなか定着が図れてい ない。 このため,ある大手のバス事業者では,車掌の 採用条件が「18歳以上40歳未満,高校卒業以上, 前科なし,ハノイ市に戸籍を有するものが優先」 というように厳しく定められているのに対し,運 転士は「20歳以上56歳未満,2年以上の運転経験 を有する」といった相対的に非常に緩やかな条件 しか定められていない。 今後,ネットワークが拡大すれば,必要な技量 を持った運転士をいかに確保するかという課題は, より深刻化するものと考えられる。今後は,日本 でも導入事例が増えつつあるバス会社が免許取得 費用を負担するような仕組みも検討する必要が出 てくるものと思われる。まとめに替えて
̶課題解決のための考察
̶ ここまで紹介してきたように,ハノイの路線バ スは,都市圏やそれに伴うネットワークの拡大, 低廉な運賃などに支えられ順調に利用者を増加さ せている。しかし,公共交通として,安全に利用 できる水準を満たしているとは言いがたい。実際 に乗車してみても,運転士や車掌の対応,バス車 内の清潔さ,乗降時の整列など,事業者・利用者 を問わず,公共交通を利用する上でのマナーが浸 透しているとは言いがたかった。また,車内でス リが多発しているような状況では,利用者が安心 して利用することはできないだろう。今後は,現 在抱えている課題の解決を通じ,「安かろう,悪 かろう」から脱却し,「利用したい」と思われる 環境づくりが求められる。そのためには,「運営 スキームの持続可能性の確保」,「民間ノウハウの 積極的な活用」,「利用者サービスの拡充」といっ た対応が必要であると筆者は考えている。 まず,運営スキームは,その持続的運営が困難 であるのは明らかであり,早急に見直す必要があ る。現在のスキームのまま,ネットワークがさら に拡大すれば,補助金の増加ペースもさらに加速 してしまう。社会政策的な観点から,学生や高齢 者には一定の配慮は必要であろうが,サービスの 改善を通じ,適正な運賃設定により収入の最大化 を図っていく必要がある。 事業の効率化による支出の削減も欠かせない。 ワンマン運転や重複する路線の整理・統合などに よる合理化の余地は大きい。現地では現在,道路整備が速いペースで進められているほか,BRT の建設も進められている。今後は,後述の地下鉄 ネットワークも考慮しながら,これらを有機的に 結合させた運行体系を整備していくことが必要で ある(例:急行バスや郊外の環状道路を運行する系統 の整備など)。 その際,系統ごとに事業者を決定するのではな く,複数の系統をグループ化し,グループ内での 車両の相互利用を認める仕組みができれば,より 柔軟な運行管理が期待できる。その一方で,ワン マン化は余剰となる人員(車掌)の受け皿の確保や 運行事業者との運行契約を見直す必要があり,整 理すべき課題が多い。そのため,教育体制や登用 体制を整え,ネットワークの拡大に応じ,車掌か ら運転手への効率的な配置換えを行うといった工 夫が求められる。 次に,民間ノウハウを積極的に活用する視点も 不可欠である。ベトナムは,社会主義国家であり ながら,1986年にドイモイ政策を導入して以降, 規制緩和や競争原理の導入など,経済面で資本主 義的な政策を相次いで導入してきた。しかし,今 回紹介した路線バスの事例からも明らかな通り, 民間ノウハウを引き出すために必要な環境整備が, 十分にされているとはいいがたい。 ハノイの路線バス事業は,これを管理する公的 機関が最大の事業者を兼ねている。このような状 況では,自らに有利なように恣意的な運用・規制 を行う可能性が否定できない。公的機関の役割は, 無秩序な拡大による過当競争や公共交通全般の利 便性低下を防ぐことに専念すべきである。 また,落札価格だけで事業者を選定するような 仕組みも,安全や旅客サービスへの投資に対する インセンティブが働きにくい。利用者へのサービ スやそれに対する評価,ダイヤの工夫,安全性向 上のための取り組みや,運休・遅延の頻度とその 要因(整備不良などの内部要因か,渋滞などの外部要 因か)などを補助金の支給額に反映させる仕組み を通じて,単に参入を認めるだけでなく,民間事 業者の創意工夫を引き出していく仕組みが望まれ る。 最後に,利用者へのサービスの充実も重要であ る。ハノイの路線バスは,停留所に時刻表が掲示 されていないなど,基本的な情報すら十分に提供 されていない。その一方で,今回のハノイ訪問の 際には,市の中心部で Google maps の地図情報 を利用したタッチパネル式の案内端末が設置され ているのを見かけた。また,現地では営業所等で 頒布されている路線図を個人がアプリケーション 化し,スマートフォンやタブレットで見られるよ うにしたものが利用者に重宝されていた。 このように ICT(情報通信技術)を利用し,既存 サービスや利用者が保有する端末機器を有効に活 用できれば,より安価かつスピーディに利用者が 望む情報を提供できる。また,リアルタイムの情 報提供は,利用者の利便性が増すだけでなく,運 行・利用実績に基づく運行頻度や時間帯,路線の 検討にも役立つため,整備する意義は大きいとい える。 これらの点の中には,日本がこれまで蓄積して きたノウハウが活用できるものも多いだろう。実 際に,ハノイでは現在,2011年7月から3カ年の 計画で,「ハノイ公共交通改善プロジェクト」が 進められている。このプロジェクトでは,JICA を中心に日本の専門家(コンサルタントやバス事業 者など)が参画し,ハノイの路線バス事業が抱え る課題を解決する取り組みが行われている。将来 的にはこの取り組みをさらに発展させ,首都にふ さわしい交通体系を実現していくことが期待され る。 長期的な視点では,現在建設が進められている 地下鉄といかに連携していくかという点で,日本 のノウハウが活用できるだろう。ハノイでは2020年
までに公共交通分担率を,現在の倍の20%まで高 める計画である。この計画実現のためには,地下 鉄のネットワーク拡充に応じ,バスもその役割を 変えていくことが求められるであろう。すなわち, これまでのように幹線輸送だけでなく,フィーダ ー輸送の役割も担うことが求められる。フィーダ ー輸送では,路線やダイヤ設定,乗継箇所におけ る乗換距離や時間,運賃体系や収受体制など,ハ ード・ソフトの両面において,これまでベトナム が経験したことがない,異なる交通機関との連携 を行いながら,利便性の向上と利用者の増加を目 指していく必要がある。 また,教育や啓蒙活動を通じ,利用者マナーを 改善させていく取り組みも日本が得意とするとこ ろであろう。ハノイの路線バスは,事業者に多く の課題があるだけでなく,利用者にも整列乗車や 車内マナーなど改善すべき点は多い。より快適で 利便性の高い交通システムを実現していくために は,こういった取り組みも重要だと考えられる。 その一方で,日本のノウハウを提供していく際 に注意しなくてはならないのは,高い技術が必ず しも受け入れられるとは限らないという点である。 例えば,ベトナムでは日本のバスメーカー等が 参入する余地は(少なくとも短期的には)乏しいと 考えられる。これは単に,走行車線が左右逆であ るという理由だけでなく,現地ではたとえ事業者 や利用者が最新鋭のノンステップバスや CNG バ スを望んでも,バス車両の規格は公的機関により 決定されるためである。 日本のノウハウを提供する際には,単にその技 術の高さを売り込むのではなく,現地のニーズや 課題を十分に把握すると共に,各国特有の制度や 規制も十分に認識し,必要に応じ公的機関に対し てそれらの制約自体を見直す働きかけを行ってい く必要もあるだろう。 紙面の都合上,今回紹介するのはハノイの事例 のみであるが,路線バスを取り巻く環境や抱えて いる課題(補助金の急増,渋滞悪化に伴う表定速度 の低下,柔軟性に乏しい運行管理など)は,その他 のベトナムの都市(ホーチミンなど)にも共通する ものである。 なお,ベトナムでは交通事故による死者が年間 1万人を超える。公共交通の整備と利用が進めば, 自家用車の急増を抑制するだけでなく,交通事故 の減少にも資すると考えられることから,社会福 祉の観点からも,利便性の高い交通システムの早 期整備が望まれる。 [謝辞] 2013年 3 月12日 に は 交 通 運 輸 大 学(UTC)の Tu Sy Sua 教授をはじめとする関係者の皆さまと ベトナムの都市におけるバスの現状と課題等につ いて意見交換をさせていただきました。また,同 月14日には運輸交通開発戦略研究所(TDSI)に対 してヒヤリングをさせていただくとともに,ハノ イの路線バスに関する詳細なデータを提供いただ きました。ここに記して感謝の意を表します。 [参考文献] [1] JICA,「ハノイ公共交通改善プロジェクト プロ ジェクト活動」 http://www.jica.go.jp/project/vietnam/016/ activities/ [2] 独立行政法人 国際協力機構(JICA)・ハノイ市人 民委員会(2007),「ベトナム国 ハノイ市総合都 市開発計画調査」(HAIDEP)
[3] ベ ト ナ ム 建 設 省(2010),「The Hanoi Master Plan until 2030 with Vision to 2050」