• 検索結果がありません。

孫冶方の経済学

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "孫冶方の経済学"

Copied!
421
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

中国の理論家群像 目次

原載『日中経済協会会報』(1983∼1991 年) 1. 孫冶方の経済理論と新中国の歩み 1983(昭和 58)年 3 月号『日中経済協会会報』50-59 頁 2. 社会主義商品経済を模索する中国 1985(昭和 60)年 4 月号『日中経済協会会報』20-31 頁 3. ある改革論者の軌跡・李洪林 昭和 61 年4月号 『日中経済協会会報』13-18 頁 4. 企業本位論の執筆者・蒋一葦 昭和 61 年5月号 『日中経済協会会報』4-10 頁 5. 合理的価格体系の提唱者・何建章 昭和 61 年6月号 『日中経済協会会報』29-38 頁 6. 全人民所有制の改革を提唱・厲以寧 昭和 61 年7月号『日中経済協会会報』28-33 頁 7. 政治改革の旗手・厳家其 昭和 61 年8月号 『日中経済協会会報』39-44 頁 8. 社会主義的民主と法制を論ずる・于浩成昭和 61 年9月号『日中経済協会会報』23-29 頁 9. 広東省の経済改革を論ずる・王琢 昭和 61 年 10 月号『日中経済協会会報』6-14 頁 9a 中国語訳・「論広東的経済体制改革──評王琢的改革理論」『特区与港澳経済』 10. 科学技術体制の改革論・温元凱 昭和 61 年 12 月号 『日中経済協会会報』33-39 頁 11. 『資本論』の限界を論ずる・熊映梧 昭和 62 年1月号『日中経済協会会報』30-38 頁 12. 農業生産責任制の推進者・杜潤生 昭和 62 年2月号 『日中経済協会会報』16-22 頁 13. 3人の素描:方励之・劉賓雁・王若望昭和 62 年3月号、『日中経済協会会報』26-44 頁 14. 唯物史観の在り方を問う・黎澍 昭和 62 年4月号 『日中経済協会会報』28-35 頁 15. 中国マルクス主義の再生・蘇紹智 昭和 62 年5月号 『日中経済協会会報』26-35 頁 16. 領域広く発想柔軟な経済学者・于光遠 昭和 62 年6月号『日中経済協会会報』23-29 頁 17. 中国政治改革論の原点・廖盖隆 昭和 62 年7月号 『日中経済協会会報』16-22 頁 18. 社会主義商品経済論を先導する・卓炯 昭和 62 年8月号『日中経済協会会報』28-34 頁 19. 人道主義の核心に迫る・王若水 昭和 62 年9月号 『日中経済協会会報』35-43 頁 20. 経済改革論の先駆者・劉国光 昭和 62 年 10 月号 『日中経済協会会報』53-60 頁 21. 「双百」精神を貫く・呉祖光 昭和 62 年 11 月号 『日中経済協会会報』29-36 頁 22. 中国の改革戦略を追求する呉敬璉 昭和 62 年 12 月号 『日中経済協会会報』44-49 頁 23. 中国財政界を導く・許毅 昭和 63 年1月号 『日中経済協会会報』25-30 頁 24. 公務員制度の確立を主張・譚健 昭和 63 年2月号 『日中経済協会会報』43-48 頁 25. 開放政策の指南役・宦郷 昭和 63 年3月号 『日中経済協会会報』22-27 頁 26. 思想開放の旗手・郭羅基 昭和 63 年4月号 『日中経済協会会報』42-47 頁 27. 中国のシンクタンクを指導する・馬洪昭和 63 年5月号『日中経済協会会報』43-49 頁 28. 言論の自由を主張する・張顕揚 昭和 63 年6月号 『日中経済協会会報』43-48 頁 29. 数量経済学研究の第1人者・烏家培 昭和 63 年7月号 『日中経済協会会報』35-41 頁 30. 中国の人口・就業問題を追求する田雪原昭和 63 年8月号『日中経済協会会報』42-47 頁 31. 体制改革を方向づける鮑彤 昭和 63 年9月号 『日中経済協会会報』37-42 頁 32. 経済行政研究に手腕を発揮する孫尚清昭和 63 年 10 月号『日中経済協会会報』34-38 頁 33. 思想開放を推進する龔育之 昭和 63 年 11 月号 『日中経済協会会報』40-46 頁 34. 所有制改革論提唱の第1人者 董輔礽 昭和 63 年 12 月号『日中経済協会会報』39-47 頁 35. 価格改革論の旗手・張卓元 平成元年1月号 『日中経済協会会報』34-41 頁 36. 体制改革推進の組織者高尚全 平成元年2月号 『日中経済協会会報』45-50 頁

(2)

37. 中国経済改革戦略とインフレ対策 平成元年3月号 『日中経済協会会報』4-17 頁 38. 呉敬璉氏との対談を終えて 平成元年4月号 『日中経済協会会報』12-22 頁 39. 経済研究所の第3世代・華生、何家成 平成元年4月号 『日中経済協会会報』28-35 頁 40. 経済法則の客観性を堅持・王珏 平成元年5月号 『日中経済協会会報』35-43 頁 41. 官庁エコノミストの発展戦略・桂世鏞 平成元年6月号 『日中経済協会会報』32-39 頁 42. 企業活力を追求する・周叔蓮 平成元年 8-9 月号 『日中経済協会会報』47-52 頁 43. 統計分析を反映させた薛暮橋 平成元年 11 月号 『日中経済協会会報』38-46 頁 44. 文革で死に追いやられた・李平心 平成元年 12 月号 『日中経済協会会報』52-57 頁 45. 統計整備に取り組む実務家・李成瑞 平成2年1月号 『日中経済協会会報』42-46 頁 46. 不屈の老経済学者・千家駒 平成2年2月号 『日中経済協会会報』31-37 頁 47. 実証的な人口分析に着手・劉錚 平成2年3月号 『日中経済協会会報』44-50 頁 48. 毛沢東の秘書・田家英 平成2年4月号 『日中経済協会会報』45-54 頁 49. 金融体制改革に取り組む劉鴻儒 平成2年5月号 『日中経済協会会報』42-47 頁 50. 中国環境問題の第一人者・曲格平 平成2年6月号 『日中経済協会会報』38-42 頁 51. 外資導入政策を模索する・季崇威 平成2年7月号 『日中経済協会会報』48-52 頁 52. 文革の実情を書き続ける哲学者・林青山 平成2年8月号『日中経済協会会報』41-47 頁 53. 政策の科学性を探究・呉明瑜 平成2年9月号 『日中経済協会会報』47-52 頁 54. 改革10年の功罪評価と八・五(上)平成2年 10 月号 『日中経済協会会報』34-42 頁 55. 改革10年の功罪評価と八・五(中)平成2年 11 月号 『日中経済協会会報』37-44 頁 56. 改革10年の功罪評価と八・五(下)平成2年 12 月号 『日中経済協会会報』4-9 頁 57. 「統一市場」志向・改革戦略を語る呉敬璉平成3年1月『日中経済協会会報』4-19 頁 58. 消費経済学を模索する・尹世杰 平成3年2月号 『日中経済協会会報』49-55 頁 59. 熊映梧教授インタビュー 平成3年3月号 『日中経済協会会報』7-43 頁 60. 住宅の商品化を提唱・蘇星 平成3年4月号 『日中経済協会会報』44-54 頁 61.市場が企業を誘導するシステムを提起・廖季立 平成3年 5 月号 『日中経済協会会報』 62. インフレなき成長を模索する楊培新 平成3年 6 月号 『日中経済協会会報』 63.柳随年/実権握る官庁エコノミスト主流派 (bt) 64〔補論〕中国における窮乏化論について (bt) 準備中のメモ24 人 ・鄭必堅・周小川・李剣閣・郭樹清・楼継偉・有林・張学軍・陳一諮・ 張学軍・鄧偉志・孫長江・王梦奎・王積業・趙人偉・陳吉元・戴園晨・胡兆論・劉再復・ 万典武・金観濤、劉青峯・胡平・陸南泉・高山[以下、中断]

(3)

孫冶方の経済学(er250-76) 一九八二年一二月一八日午前、北京医院に入院中の孫冶方は中国社会科学院党組第一書記 梅益、第二書記馬洪らの見舞いを受けた。その前々日、中国共産党中国社会科学院機関委 員会全体会議が孫冶方に対して「模範共産党員」の称号を授与することを決定したので、 それを伝えるために彼らが訪れたのであった5。この栄光の日から2 カ月余、 一九八三年 二月二二日午後五時五分、孫冶方は肝臓ガンのため死去した18 注一文中の〔 〕内の数字は「孫冶方の主要論文」の論文番号を、( )内のルビ数 字は「孫冶方について書かれた文章」のそれを表わす。文末を参照。 1 革命期中国の孫冶方 孫冶方は本名薛萼果、 一九〇八年一〇月二四日江蘇省無錫に生まれた5。彼の故郷は無錫 県玉祁公社にある19。薛という姓、そして無錫という地名でわれわれは薛暮橋を想起する。 薛暮橋の本は戦前から邦訳されていて、われわれになじみが深い。実は一九〇四年生まれ の薛暮橋は孫冶方にとって四歳年上の堂いと兄こにあたる。没落地主である薛暮橋家の二人の若 者はともに経済学の道を歩むことになる。ついでながら薛暮橋のプロフィールはかつて『光 明日報』(一九八一年二月一二日)で紹介されたことがある。 さて、孫冶方は一九二三年一五歳のとき中国社会主義青年団に加わり、学生運動と労働運 動を行なった。翌一九二四年初め中国共産党の正規党員となり、無錫党支部の初代書記を つとめた。一九二五年党組織から派遣されてモスクワに行き、中山大学でマルクス主義理 論を学んだ。卒業するやモスクワの中山大学、東方勤労者共産主義大学で政治経済学の講 義通訳〔原文「講課翻訳」〕をつとめた20。中山大学を卒業したのは一九二七年3,15であ るが、卒業した校名を東方大学と書いたものもあるが4、おそらく誤りである。当時、著名 な経済学者であるレオンチェフと一緒に仕事をしたことがあるともいう4。クートベの略称 でわが国にも知られている東方大学の全称は「東方勤労者共産主義大学」であり、一九二 一年モスクワに創立され、三〇年代末に閉鎖された。その目的はソ連の東方各共和国およ び植民地、従属国のために革命幹部を養成することにおかれていた(『周恩来選集』四一三 頁の注釈による)。モスクフ中山大学の全称は「孫中山中国勤労者大学」で、 一九二五年 モスクワに創立され、一九二九年「中国勤労者共産主義大学」と改称され、一九二〇年秋 に閉鎖された(同上、四〇七頁の注釈による)。 孫冶方は中山大学の学生であったとき、「党員大衆が王明の家父長制的統治に反対する動き に積極的に参加したため迫害された5」。 一九三〇年九月上海に帰るまで15、三年間ロシア 語による政治経済学の講義を中国人留学生のために中国語に通訳していたのであるから、 彼がロシア語および政治経済学の理論に強いことが推察できる*。 *一九八三年六月、私はソ連科学アカデミー極東研究所に招かれてモスクワを訪問した。東洋学研究所を 訪れたさいに郭肇唐氏(А.Г.КрЫмов)と会い、孫冶方の思い出を聞いた。孫の当時の名は Фенкер であった(八四年五月記)。 孫冶方が帰国した三〇年代初期の政治状況を劉国光はこうスケッチしている。当時王明グ ループが党中央の指導権を握り、「極左日和見主義路線」を推進していた。すなわち彼らは 「中国社会と革命の性質の認識において資本主義の比重を誇張し、党が武装土地革命を行 なうことに反対していた。トロツキー派は王明と呼応して(?――矢吹)、中国は国際金融

(4)

資本の支配する資本主義社会であり、中国革命は社会主義革命であり、革命の対象は民族 ブルジョアジーである」と主張していた。帰国した孫冶方は上海で労働運動や左翼文化運 動に従事し、「中国農村経済研究会」に参加し、『中国農村』誌の編集陣に加わった。彼ら は理論戦線ではトロツキー派および王明の左翼日和見主義路線と闘争した20。従来中国農村 経済研究会のメンパーとしては、薛暮橋、陳翰笙、銭俊瑞、姜君辰などの名がよく知られ ていたが、わが孫冶方もパリパリのモスクワ帰りとして同人の一員だった。 一九三七年九月、中共江蘇省文化工作委員会書記に任じられ、その後長らくマルクス主義 の理論教育および経済部門の指導的工作に従事する20。「一九四一年、私は華中局党校で教 育科長になった。当時私の用いていた名は宋亮であった。〔劉〕少奇同志は華中局書記兼党 校校長であり、よく党校へ来られ、講義をされた。私は学員がくせいに対する少奇同志の報告はい つも聞き、しかも直接接触する機会を得た」。「党校に来てまもなく、マルクス主義の理論 を扱う正しい態度について講義するはめになって、一九二五年のモスクフを想起した。当 時、中国人留学生の党支部指導者は任卓宣(のちに裏切者となった葉青である)であった が、課外時間にわれわれが理論やロシア語を学ぼうとすると反対し、毎晩生活検討会を開 き、日常生活の些事を”工作匯報かつどうほうこく”の中心内容とし、批判を加えた。課外に講義録やマルクス 主義の原著を読んだりすると学院派し ょ さ い はのレッテルを貼られた。この偏向は任卓宣個人の独創 ではなく、当時の方針の表われだと考えてはみたものの、自信がなかった。そこで少奇同 志に手紙を書き教えを請うた」。「少奇同志はその日のうちに[一九四一年七月一三日〕三千 字近くの長信で返事をくれた。それはのちに『宋亮同志に答える』と題して文集『党を論 ず』に収録された。この手紙は私の意見を肯定するとともに革命運動を指導するうえでの 革命理論の重要性を詳しく説いたものであった」〔30〕。 劉少奇は一八九八年生まれであるから、孫冶方より一〇歳年長である。革命家としてのキ ャリアにおいても大先輩であり、孫は劉を敬慕していた。孫が文化大革命において批判さ れたのは、なによりもまずその理論的主張のためであるが、劉少奇との人脈は罪状にさら に一カ条を付加するものとなった。たとえば彼はこう批判されたのである。「長きにわたっ て孫冶方は 猖 狂きちがいじみて反党・反社会主義・反毛沢東思想をやり、罪悪累累、臭 名しゅうめい昭あき彰らかであった。 けれども彼は党内の一部の実権派の庇護を受けているために、これまで当然受けるべき批 判と闘争を受けてこなかった1」。ここで「一部の実権派」とは劉少奇を暗示している。 2 孫冶方経済学の基本テーマ 一九四九年の建国後は、上海軍事管制委員会重工業処処長、華東軍政委員会工業部副部長 を経て、五四年国家統計局副局長となり、五七年中国科学院経済研究所代理所長になった 20。 一九五六年、スターリン批判で揺れるソ連共産党第二〇回大会直後のソ連を訪れ、ソ 連経済の実情を視察したことは彼にとってきわめて大きな体験となった。スターリン型経 済体制の矛盾、限界をきびしく見つめつつ、彼は改革派経済学者としての苦難の道を歩み 始めることになる。なお、ソ連を再訪した時期を「五〇年代初」と書いたものもある。 一 九五六年に書いた三篇の論文〔1〕〔2〕〔3〕で彼は経済計画が依拠すべき根拠として価値法

(5)

則を論じ、総生産額指標の矛盾をつき、孫冶方経済学の基本テーマを突き出している。五 七年中国科学院(当時)経済研究所に移ったが、国家統計局副局長は依然兼任していた。 研究所は新たに国家計画委員会の指導をも受けることになり、彼は計画委の党組会議に列 席する機会を得た。これによって接触しえた大量の事実は自らの観点の正しさを一層確信 させるものであった3 いくつかのエピソードがある。一九五八年大躍進運動のとき、経済研究所は河北省昌黎県 に農村経済研究のための「実験田」を設けた。ここでの調査をもとに二人の研究者が公共 食堂に批判的な「食堂報告」(『光明日報』一九五九年一〇月五日)を書いた。曰く、農民 の食事を公共食堂でとるやり方は農民の生活習慣と意識の水準からして不適当であり浪費 をもたらしている……。 一九五九年夏の「反右傾うよくへんこう運動はんたい」のとき、この報告が大禍を招いた。 科学院の哲学社会科学部〔現在の社会科学院の前身〕党組会議は、孫冶方の異議にもかか わらず、両名の処分を決定した。孫冶方はその二年後、上級の許可を得て、二人のために 「 平めいよかいふく反 」の措置をとった9 同じく一九五八年、コストを無視して小型高炉を建て鉄を作ることが行なわれていた。「社 会主義が追求するのは使用価値なのであって、価値ではない。鉄ができさえすれば損益は 間わないのが社会主義だ」とする風潮を彼はこう批判した。「社会主義は価値を重んじない というものでは断じてない。価値を軽視するのは、三〇年代のソ連経済学の”自然経済論” の害毒である。それは老本も と でを食いつがすものだ。坐して吃くらわば山のごとき富も空むなし、では ないか?」と。 一九六一年、彼は上海へ調査に行き、上海 機 床こうさくきかい厰でアメリカの一九四四年製の平削盤を 見た。それは効率が悪く、済南機床厰の国産ものの三分の一の生産性しかなかった。とこ ろがその非効率平削盤は償却期限まであと九年あり、以後二回の「大修理」を経てようや く廃棄処分できるという「規定」に縛られていた。彼はこの工場をみて、骨董の複製にも 似た減価償却方式に深い疑問を抱く3,7。のちの論文〔13〕〔24〕は、この体験から技術進 歩を阻む減価償却の低率償却を改めるよう主張したものだ。 3 利潤導入論で批判・逮捕さる 一九六二年八月、孫冶方は陳伯達の起草した、ある「報告(草稿)」に対して書面意見〔10〕 を書いた。「当時、彼〔陳伯達〕は度量が大きいようにふるまい、私を呼んで意見をほめて くれた。ところが私の意見は、この”理論家”の水準の低さを暴露することになったので、彼 は限みをもち、その二年後、経済研究所で”四清”を行なった機会を利用して、私に対して” 中国最大の修正主義者”の帽子をかがせ、私に対する”批判”を組織した」。孫は論文〔10〕の 脚注で事情をこう説明している。彼はいよいよ政治の激動の真只中へまきこまれる。 一九六四年八月、『紅旗』編集部が北京と天津の一部の経済学者を招いて、再生産問題に ついて座談会を開いた。孫冶方は生産価格の問題について「発言提綱」〔15〕を書いた。「こ の座談会は陳伯達が私を中国最大の修正主義者と内定したあと開かれたものである。した がって名義上は座談会とはいえ、実際にはもっぱら私の経済学についての観点、とりわけ

(6)

資金利潤率〔すなわち生産価格〕論を批判する批判会あるいは闘争会なのであった。それ ゆえ”座談”というのは、実際には陳伯達が前もって内定した枠内での発言にすぎない。この 枠に従って発言しない者は誰もが”挨批ひ は ん””挨闘とうそう”される危険があった。ただ、林彪、陳伯達、 四人組は”全面専政”なるものを実行する以前には、”批判会”であれ、”闘争会”であれ、”挨批ひ は ん”” 挨闘 とうそう ”される側の発言を許していた。……批判は経済学の理論問題をめぐるものだったので 私により深く問題を思考させることになり、研究にとってはやはリプラスがあった」〔15〕。 「座談会」という名の「闘争会」の内幕がうかがえる。彼は批判に対して反駁し、あるい は弁明した〔16〕〔17〕。このとき、薛暮橋も孫の批判者の一人として動員されている。 一九六四年の「四清」運動のときには、「張聞天・孫冶方反党聯盟」なるレッテルも登場し た。事のいきさつは、張聞天が廬山会議で解任されたあと、一九六〇年一月、経済研究所 の特邀とくやく研究員に任ぜられたことにはじまる。 一九六一年二月から五月にかけて、孫冶方、 張聞天ら数人は『社会主義経済論』の執筆計画を討論した。あるとき、張聞天が上海へ経 済問題の調査に行き、食事中に知人に会った。知人がたずねる、「今度はどこに調査に行か れますか?」。張聞天が答える、「湖南へ行ってみたい」。知人がいう、「彭老総〔彭徳懐〕 も湖南にいますね。あなたがたは再会できますね」。 この会話が「情況」として書かれ、孫冶方の副学術秘書に届けられた〔一種の密告であろ う〕。その「情況」はまた経済研究所の業務副所長のデスクにも届けられた。そしてこの「情 況」は翼もないのに空を飛び、広まった。折からの「四清」運動のなかで、張聞天が湖南 へ行き、彭徳懐と「反党 串 聯うちあわせ」をたくらんでいる罪証とされたわけだ。かくて「情況」の 「上報」(上級への報告)を怠った副学術秘書(当時三四歳の若い経済学者)は政治的に危 険な立場に立たされた。上司である孫冶方は「”情況”を読んだかどうかおぼえていない。読 んだとしても、私はそれを上報しないよ、食事時のひまつぶしの話さ」と発言して、副学 術秘書を救ったが、それは孫冶方自身の罪状を一カ条増やすことになった9。このエピソー ドは当時の張聞天およびその周囲の人々がいかなる政治的雰囲気のもとにおかれていたか の一端をうかがわせる。 一九六八年四月五日、夕食の最中に数人の大漢が孫冶方宅を訪れ、手錠をかけ、「あなたは 逮捕された」と宣告した。入党歴四〇年の老党員は獄中で腹をきめる。「私は自らの経済学 的観点のゆえに逮捕されたのであるから、自らの経済学的観点のために生きねばならぬ」 と。入獄したあと、「死は惜しむに足らず、名声の毀損もどうということはないが、長らく 研究してきた経済学の観点は失ってはならない。私は私の堅持する真理のために生きつづ け、死のまえに自己の見解を残して大衆に手渡し理解してもらわねばならぬ、と考えた」 と語っている。こうして入獄の翌日から『社会主義経済論』の提テー綱ゼを記憶だけを頼りとし てまとめはじめた。全書は序言を除き、二二章一八三節(二三章二〇六節と書いたものも ある3)からなるが、自由を失っていた七年プラス五日の間、彼は何十回も腹稿を練ってい

(7)

た。このほか監獄当局が彼に対して「交代じきょう材料」を書かせるために用意した紙と筆を用い て、『経済学界の一部の人々と私との論争』数万字(一説に三万字)を書いた。一九七五年 四月上旬、いかなる説明もなしに、孫治方は胡里胡涂地わ け も わ か ら ぬ ま ま釈放された。実はのちに孫冶方の 弟子となる霍俊超らが「南方で孫治方のために翻案」の努力を続けた結果なのであった。 彼らは档案にある「叛徒孫宝山」が孫冶方を指すものではないことを証明した。霍俊超は 皮肉にも孫冶方の「専案工作」に参加して無実を知ったのである14。釈放は一九七六年四 月一〇日であり、肝臓を患っていた彼はよろよろ歩くことしかできなかった。彼は六〇歳 から六七歳まで牢獄で生きたわけである。出獄した彼は一九七八年八月経済研究所顧問に 迎えられ、 一九八〇年五月には社会科学院顧問に選ばれた。さらに一九八二年九月の中共 一二回大会では新設の顧問委員会の委員に選ばれた。「党歴四〇年以上」が顧問委員の資格 であるが、孫冶方の党歴はすでに五八年であった。 4 孫経済学の評価(1) 孫冶方の経済学上の貢献を分析した論文が三篇ある。いずれも弟子筋あるいは彼がかつて 所長を勤めていた経済研究所にかかわりをもつ経済学者たちの書いたものである。 何建章(現国家計画委経済研究所副所長)、張卓元(社会科学院経済研究所)の論文は孫冶 方の理論上の貢献を以下の五カ条に整理している。 (1)最小の費用で最大の効果を得ることを社会主義経済活動の最高準則とみなすこと。 階級 闘争を強調し、政治スローガンをもって経済分析に代え、実際の経済生活においては主観 意志をもって経済法則に代え、経済のソロバンをはじかない極左思潮に抗して、孫冶方は 最小の費用で最大の効果を追求することが社会主義経済活動の最高準則であるとする論点 を提起した。この観点から彼は「コストを犠牲にしても……」を「社会主義建設の気魄」 であるかのごとくみる風潮を批判した。だが経済効率、経済合理性を尊重せよとする主張 は、「政治優先〔「政治挂帥」〕に反対」し、「階級闘争を否定するもの」として批判され、 文化大革命においては「反革命修正主義」の罪名をかぶせられた。 (2)資金を節約し、合理的に使用すること。 資金の使用効率をみるうえで、彼は資金利潤率をもって企業の経営管理効果をはかる総合 的指標とし、生産価格をもって生産物価格決定の基礎にするよう主張した。生産価格論に よる価格決定というこの観点は一九五六年ごろ、重工業製品の価格を引き下げるべきか否 かの論争のなかで提起されたものである。彼は重工業製品の価格引き下げに反対した。な ぜなら、そのコスト利潤率は比較的高いとはいえ、資金利潤率は高くなかったからである。 彼は資金の使用効率を重視する立場から資金利潤率に注目したのであった。 一九六三年の 研究報告「利潤指標」〔14〕において彼はこう指摘している。国家計画に照らして「生産方 向を定め、協業関係を定め、生産販売契約を厳格に執行し、計画価格を道守する条件のも とで、利潤の大小は企業の技術水準と経営管理の良し悪しを反映する最も総合的な指標で ある。社会的平均資金利潤率は各企業が達成すべき水準であり、平均資金利潤率の水準を 上回った企業が先進企業であり、平均水準に達しなかった企業が後れた企業である」〔24〕。 孫冶方のこの観点は「利潤優先」[「利潤挂帥」]の罪名で批判されたが、彼はこの点について

(8)

いささかの検 討じこひはんも行なわなかった。 (3)経済管理体制改革の提唱 一九五六年、孫冶方は計画経済と価値法則の関係を論じ、経済管理体制の改革にふれた〔1〕。 一九六一年六月、中央に提出した「内部研究報告」〔7〕において、体制改革の必要性と一 連の改革案を提起した。その論拠はこうだ。財政経済体制の中核の問題は企業の権限、責 任と国家との関係、すなわち企業の経営管理権の問題である。その他の問題、たとえば中 央と地方の関係、中央各部門の上からの管理系列と各級の地方政府との関係〔原文「条条 与塊塊」〕などは、企業の権限の問題が解決されれば容易に処理しうる。 社会主義のもとで、企業は「独立の経済採算単位」でなければならない。むろん全人民所 有制企業の所有者は国家であり、企業が占有、使用、支配の権限のみをもつという意味で は、社会主義企業の独立性は相対的である。けれども、企業が独立の採算単位であるから には、元来の協業関係、原料供給、製品販売関係の範囲内では、元来の生産方向の範囲内 では、企業は相互に供給販売契約、その数量と種類規格を自主的に決定してよく、国家や 地方政府は介入しないほうがよい。孫冶方はここで企業の自主権の限界を明確に提起した。 それは「資金価値量」の単純再生産の範囲内のことは企業が自己管理すべき「小さな権限」 [「小権」]とし、「資金価値量」の拡大再生産、たとえば新企業への投資、旧企業の拡張投資 を国家が管理すべき「大きな権限」[「大権」]としたことである。 (4)流通の生産発展に及ぼす影響を重視したこと。 孫冶方は社会主義経済には流通過程は存在しないとみる誤った観点、すなわち流通不在論 または流通非存在論〔「無流通論」〕を商品生産と商品交換の発展を妨げるものとして斥け た。「流通不在論」は交換と分配の機能を混同し、分配をもって交換に代えようとする。だ が、交換と流通がなければ、社会化大生産を発展できないはずである。「流通不在論」は企 業内部の技術的分業と社会的分業とを混同し、不当にも全人民所有制経済を一つの大工場 であるかのごとくにみなす。ここでは異なる 車 間ワークショップ、 工ワークショップセクション段 における技術的分業が 存在するのであって、社会的分業は存在しない。だが〔社会主義全人民所有制経済は数十 万の独立採算の企業から成り立っており、各企業間には社会的分業が存在している。各企 業間で生産物の交換を行なわなければ、全社会の再生産は順調に行なえない〔ここで、「全 人民所有制経済を一つの大工場であるかのごとくみなした」元祖はほかならぬレーニンで あったことを想起したい。孫冶方も他の経済学者たちもいまだあえてレーニンの名に言及 することをしていない〕。 孫冶方は実物配給制に一貫して反対し、生産手段の流通を商業の軌道に入れるよう主張し た〔ちなみに中国で商業部門が扱うのは消費財のみであり、生産手段の流通は物資部門が 専一的に分配するという体制になっている。これは五〇年代にソビエト・モデルを模倣し てできたやり方である〕。メーカーとユーザーの間に壁があるため、製品が需要に合わず 〔「貨不対路」〕、過剰在庫滞貨〔「超儲積圧」〕が生ずる。行政区画ごとの封鎖があるため、 一方ではモノがあっても売れず、他方で需要に間に合わず、材料待ちの操業停止〔「停工待 料」〕が生ずる。流通部門の独占体制のためサービスの質的低下が生ずる。これらの流通面 の矛盾は「流通不在論」の帰結であるとする。

(9)

(5)技術革新を重視し、既存企業の技術改造を重視したこと。 孫冶方は生産力と結びつけて生産関係を研究するよう主張し、生産力から離れて孤立的に 生産関係を研究することに一貫して反対してきた。彼はとりわけ技術革新の生産力発展に 対する影響を重視した。社会主義のもとでも機械設備の道徳的磨滅〔「無形損耗」〕がある とみて、技術革新を妨げるような設備管理制度を批判した。そして、企業の技術革新を促 すために、固定資産の減価償却率を現行の三∼四%から一〇%まで引き上げること、償却 引当金は企業レベルに留保し、企業が自主的に設備更新を行なえるようにすることを提案 した。昨年九月の一二回党大会で提起された工農業総生産額四倍増計画に対しては、既存 企業の技術革新を中心とする発展戦略をとり、新企業の建設はむしろ少なく押えるほうが 効率よく、したがって高成長が可能だと主張した〔44〕。これはソ連の数十年の工業成長率、 中国の三〇年の工業成長率においていずれも傾向的に低下傾向がみられる事実から出発し た立論――「基数が大きくなれば、速度は 慢ゆるやかになる」――を鋭く批判したものであった。そ れゆえ陳雲、趙紫陽ら中共中央のリーダーたちから激賞された。 5 孫経済学の評価(2) 劉国光(社会科学院副院長、経済研究所所長)の論文 7は孫冶方の「主要経済観点」とし て、つぎの四カ条をあげている。 (1)最小の労働力消費で最大の経済効果をあげる効率性の追求。 (2)計画工作において価値法則の役割を重視すること。 (3)企業の経営管理権限を拡大し、単純再生産の範囲内のことは企業の自治に委ねるこ と。 (4)平均資金利潤率を用いて企業の業績をはかり、生産価格論に照らして製品の価格 決定を行なうこと。 劉国光のあげた四カ条のうち、(2)を除けば残りは何建章の指摘と一致する。すなわち 劉(1)⇨何(1)、劉(3)⇨何(3)、劉(4)⇨何(2)と対応している。 経済研究所所長として研究所の運営方法に関する孫冶方の功績として、何建章は研究所を 中央宣伝部と国家計画委員会の「二重指導」体制として、周思来、李富春の賛同を得たと 指摘している。この点について劉国光は研究所は孫の提案で国家計画委員会と中国科学院 の「二重指導」となったと書いている。中国科学院を「指導」するのが中央宣伝部である とすれば、両者に矛盾はない。ただ、研究所の運営を実質的に指導するのが(現在の)社 会科学院なのか、中央宣伝部であるのか、研究内容の自由度の問題としてはやはり気にな るところであろう。 6 孫経済学の評価(3) 孫尚清(社会科学院副秘書長)、呉敬璉(社会科学院経済研究所研究員)ほかの論文は、経 済政策論は除き、理論面での孫冶方の貢献を以下の五カ条に整理している。 (1)最小の費用で最大の経済効果をあげることを、政治経済学の一本の赤い糸とした。これ は何(1)、劉(1)に同じ。 (2)計画を価値法則の基礎の上におくこと。劉(2)に同じ。 (3)流通は社会化生産の物質代謝過程であること。何(4)に同じだが、以下のような解説があ る。社会主義政治経済学における「流通不在論」は生産関係に対するスターリンの命題以

(10)

来広く行なわれるようになった。これは、十月革命以後の実物配給制を迫られた現実から 進行した、経済実物化の過程を概括したものであるにすぎない。中国では、解放区におい て供給制を実行し、解放後はソ連のやり方を学んで長らく「実物配給制」を実行してきた ので、流通不在論は当然のごとく受容された。孫冶方は、五〇年末から六〇年代初めにか けて、中国人民大学の講義その他の報告や論文のなかで「流通不在論」に起因する弊害を たびたび指摘し、生産手段の流通を商業の軌道に乗せるよう提案した。 (4)利潤を総合指標として扱うこと。何(2)、劉(4)に同じ。 (5)生産価格をもって計画価格の基礎とすること。何(2)、劉(4)に同じ。 孫尚清らの論文は、経済理論的観点として以上の五カ条を指摘したあと、孫冶方の政治経 済学方法論の特徴として、自然経済論批判および〔上部構造決定論あるいは唯意志論とい う形の〕観念論批判の二点をあげている。とりわけ後者に依拠して、スターリンの『ソ同 盟における社会主義の経済的諸問題』における生産関係の定義の欠陥を批判したのだとい う。 さて、その方法論に基づく成果として、第一に、生産関係の研究においては、生産力と切 り離して孤立的に生産関係を研究してはならないことがあげられる。つまり各種の技術的 経済的措置の経済効率の評価、その評価に基づいて最良の方策を選択することも政治経済 学の視野に収めようとする。さもなければ、政治経済学は「政治学」に変わるか、あるい は現実の生産力から遊離した観念論に堕する、というのが孫の方法的主張の一つである、 とみる。その第二は、生産過程、流通過程、全社会的生産の総過程から社会主義の生産関 係の運動を分析する観点である。従来ともすれば、「法則」の羅列や政策の記述に終わって いた社会主義経済論を、「資本論」にならって、まず生産過程、ついで流通過程、最後に社 会主義社会の全生産過程を分析する順序で、孫冶方は一九六〇年から独自の「社会主義経 済論」執筆に取り組んだ。だが、その後の「運命の転変」と「厳格な推敲ぶり」の故に、 それはついに未完成に終わった、と彼らは惜しんでいる。 7 結びに代えて 孫冶方は、『新入口論』のゆえに北京大学総長を解任された馬寅初について、こう語ってい る。「私には馬老に謝罪すべき責任がある。というのは私自身が馬老を批判する論文を書い たわけではないが、私が代理所長を勤めていた経済研究所の雑誌『経済研究』が、 一〇篇 の批判論文を掲載したからである。これに対して私は「行政上の責任」を負っている」〔28〕。 孫冶方は自らの観点の正しさを確信して死んだが、つぎの二点については自己批判してい る。それは一九六三年の「利潤指標報告」〔14〕において、ひとつは労働者への奨金ボーナスを「物 質刺激」として否定したこと、もうひとつは利潤を企業レベルに留保することを否定し、 全額上納を主張したことである。その自己批判は〔19〕にみえる。 さて、私自身の孫冶方評価を述べよう。孫冶方が学んだ経済学は基本的にスターリン経済 学、すなわちのちに『経済学教科書』に集約されたごとき内容であった。そこでは価値法 則は単に商品経済の法則、資本主義経済の法則とされるのみであった。あらゆる社会の再 生産に不可欠な労働時間の配分を、資本主義のもとでは商品という特殊歴史的な形態を通 じて処理する。そこに商品価格を規制する法則として価値法則が働く。ここで重要なのは、 価値法則という特殊歴史的法則を通じて、あらゆる社会に不可欠な経済原則が貫かれてい

(11)

るという本質である。孫冶方は、 一九五六年に価値法則のもつ経済原則としての側面を発 見し、以後死に至るまで、この側面を経済 計画の根拠とするよう主張しつづけた。この認 識は卓見であり、中ソのマルクス経済学者のなかでは「鶏群に鶴が立つ」ごとく突出して いた。『資本論』を繰り返し読むなかで、彼はそれに気づいたのだが、おそらく彼は中国人 のなかで「最良の読み手」であった。だが、彼の才能をもってしても、「超歴史的な経済原 則」と「特殊歴史的な価値法則」の関係、すなわち価値法則を通 じて経済原則が実現され るという相互関係を十分解明するには至らなかった。そこで彼は、「経 済原則に依拠した計 画経済」を意図しつつも、「価値法則に依拠した計画経済」と表現してしまった。これは「価 値法則の廃棄」こそが社会主義への道だとする通念と矛盾する。それゆえ彼 は、「資本主義 復活をはかるもの」という論難をかわかすことができなかった。ここに孫冶方の 限界があ った。そして孫冶方の正当な問題提起を「修正主義」として斥けてしまった中国社会主 義の悲劇があった。十数年を経て孫冶方の主張は名誉回復した。それは喜ばしい事実では あった が、あまりにも遅すぎた感を否めない。この間に、中国社会主義が失ったものは大 きい。 一九八三年一月一八日、孫冶方は死を目前に控えて『光明日報』編集部および中共中央 宣伝部に宛てつぎのような手紙を書いた。「最近の一時期、貴報および他の紙誌が私につい て多くの報道を行ないました。党の知識分子政策を宣伝し、経済理論にかかわる問題を討 論するために、一定の報道を行なうことはしてよろしい。私は党と人民が私に与えてくれ た莫大な栄誉に、そして貴報と他の紙誌の激励に感謝するとともに、忸怩たるものを痛感 しています。近日来、貴報がコラムを設け、篇を連ねて私個人について報道していること に対して、私は強い不安を感じています。 一人の共産党員として、党のために工作に努力 し、国家と民族の振興のために貢献するのは、当然尺すべき本分であり、過褒すべきもの ではありません。私と同時代に革命に身を投じた多くの同志が、党のため国のため身命を 捧げ、壮烈な犠牲となっています。また多くの中年、青年の同志が孜孜として働きながら、 世に知られていません。これらの同志のことを宣伝するよう私は希望します。私の経済理 論の観点に対しては適当な宣伝と討論を行なうことに賛成であります。ただし、私個人に 対して過度の宣伝を行なってはなりません。これは決して謙譲の辞ではなく、肺腑の言な のであります」。 彼は頌歌のなかに、文革時代の批判の大合唱を想起し、「不安」を感じたのであろうか。二 月一三日付け『人民日報』によると、人民出版社はこのたび『孫冶方文集』の出版を決定 した。未完の『社会主義経済論』はそれに収録される予定である。 孫冶方の主要論文 [1]把計画和統計放在価値規律的基礎上 『経済研究』一九五六年第六期 [2]関於生産資料和消費資料的画分問題 国家統計局の討論会での発言 一九五七年 [3]従”総産値”談起 『統計工作簡報単 一九五六年第二九期 [4]要憧得経済必須学点哲学 北京経済学者座談会での発言記録稿 一九五八年 [5]要用歴史観点来認識社会主義社会的商品生産『経済研究』一九五九年第五期 [6]論価値 『経済研究』一九五九年第九期 [7]関於全民所有制経済内部的財経体制問題 研究報告 一九六一年六月二日 [8]関於等価交換原則和価格政策 討論資料 一九六一年

(12)

[9]対社会主義政治経済学中若千理論問題的感想 南京経済学会での講話記録稿 一九六一年一〇月二一、三 二日 [10]対一個《報告(草稿》的意見 書面意見 一九六二年八月 [11]流通概論 中国人民大学経済系での講義稿 一九六三年四月 [12]関於経済研究工作如何為農業服務的問題 『経済研究』一九六三年第五期 [13]固定資産管理制度和社会主義再生産問題 研究報告 一九六三年九月三日 [14]社会主義計画経済管理体制中的利潤指標 研究報告 一九六三年九月一八日 [15]在社会主義再生産問題座談会上関於生産価格問題的発言提綱 一九六四年八月一〇日 [16]在社会主義再生産問題座談会上関於生産価格問題的発言紀要 一九六四年八月一〇日 [17]要全面体会毛主席関於価値規律的論述 一九六四年一二月一六日執筆 『経済研究』一九七八年第一一 期 [18]関於″資産階級法権” 一九七七年二月二七日 [19]要理直気壮地孤社会主義利潤 『経済研究』一九七八年第九期 一 ・ 一 [20]千規律、万規律、価値規律第一条 『光明日報』一九七八年一〇月二人日 以上[1]∼[20]の 20 篇は『社会主義経済的若千理論問題』(人民出版社 一九七九年五月刊)に収録されて いる。 [21]在南斯社夫和羅馬尼亜考察時対幾個経済学問題的一些個人体会 書面発言 一九七九年四月 [22]在全国経済科学規画会議上的発言 一九七九年三月二日 [23]関於政治経済学和経済管理問題 一九七九年三月九日 [24]従必須改革″複製古董、凍結技術進歩”的設備管理制度談起 「紅旗』一九七九年第六期[25]関於改革我 国経済管理体制的幾点意見 『関於我国経済管理体制改革的探討』一九八〇年所収 [26]論作為政治経済学対象的生産関係 『経済研究』一九七九年第八期 [27]政治経済学也要研究生産力 平心著 「論生産力問題』序 一九七九年一〇月 [28]経済学界対馬寅初同志的一場錯誤囲攻及其教訓 「経済研究』一九七九年第一〇期 [29]甚麼是生産力以及関於生産力定義問題的幾個争論 『経済研究』一九八〇年第一期 [30]重視理論 提唱民主 尊重科学――回憶劉少奇同志的幾次講話 「経済研究』一九八〇年第四期 [31]価値規律的内因論和外因論 「中国社会科学』一九八〇年第四期 [32]談談搞好綜合平衡的幾個前提条件 『経済研究』一九八一年第二期 [33]流通概論 『財貿経済』一九八一年第一期 . [34]加強統計工作、改革統計体制 『経済管理』一九八一年第二期 [35]講経済就是要以最小的耗費取得最大的効果 『国民経済的調整和経済体制的改革』一九八〇年所収 [36]関於生産労働和非生産労働、国民収入和国民生産総値的討論 『経済研究』一九八一年第八期 [37]也談理論聯係実際和百家争鳴問題 『財貿経済叢刊』一九八一年第六期 一部のみ『経済研究』一九八 一年第一〇期 [38]調整、改革与速度 『世界経済導報』一九八一年九月一四日 [39]為甚磨調整? 調整中応該注意的一個重要問題 『経済研究』一九八二年第二期 [40]価値規律和改進計画統計方法問題 一九五六年一〇月 [41]対積累率問題的幾点意見 一九六一年八月二日 以上[21]∼[41]の二一篇は『社会主義経済的若千理論問題(続集)』(人民出版社 一九八二年一〇月刊)に 収録されている。

(13)

[42]対《論作為政治経済学対象的生産関係》一文的批判者的答復 『経済研究』一九八二年 第一〇期 [43]堅持計画経済為主、市場調節為輔 『中国財貿報』一九八二年二月一三日、『人民日報』一九八二年二 月二二日 [44]二〇年翻両番不僅有政治保証而且有技術経済保証 『人民日報』一九八二年一一月一九日 孫冶方について書かれた文章 (1)夢奎 暁林「評孫冶方反動的政治立場和経済綱領」『紅旗』一九六六年第一〇期 (2)伊凡「文革下的中共経済』第六章「大陸経済学界的修正主義」の第一節「赤膊上障」的孫冶方 (香 港友聯出版社 一九六八年) (3)飽光前(新華社記者)、林晰(人民日報記者)「探索真理的人――著名経済学家孫冶方同志的事 述」『人 民日報』一九八〇年七月二八日 (4)柏生(人民日報記者)「憶念――訪孫冶方同志」『人民日報』一九八二年一二月六日 (5)新華社北京電「孫冶方栄獲模範共産党員称号」『人民日報』一九八二年一二月一九日 (6)何建章(国家計画委員会経済研究所副所長)、張卓元(社会科学院経済研究所)「孫冶方同志在経済 理論上的重要貢献」『紅旗』一九八二年第二四期 (7)劉国光(社会科学院副院長、経済研究所長)「学習孫冶方理論与実際相結合的好学風」『人民日 報』 一九八三年一月七日 (8)張天来(光明日報記者)「孫冶方頌――雪山上的蓮花」『光明日報』一九八三年一月一六日 (9)林玉樹(光明日報記者)「孫冶方----鉄肩担正義」『光明日報』1983 年 1 月 17 日 (10)グラビア特集「孫冶方頌」『光明日報』1983 年 1 月 18 日 (11) 張卓元「提唱指名道姓的弁論」『人民日報』1983 年 1 月 25 日(孫冶方と于光遠との公開論争をたたえる) (12)〕孫尚清、呉敬璉、張卓元、林青松、霍俊昭、冒天啓「試論孫冶方的社会主義経済理論体系」『経済研 究』1983 年 1 期 (13)王武(光明日報記者)「孫冶方頌――新松恨不高千尺」『光明日報』一九八三年一月 28 日 (14)張天来(光明日報記者)「孫冶方頌――学術講壇創新風」『光明日報』一九八三年二月二日 (15)陳英茨(光明日報記者)「孫冶方頌――理論的力量従何而来?」『光明日報』一九八三年二月一〇 日 (16)グラビア特集「孫冶方頌」『光明日報』一九八三年二月一九日 以上(8)∼(10)、(13)―(16)に対して (17)「孫冶方就宣伝個人問題致函本報」『光明日報』一九八三年二月一〇日(孫治方の手紙の日付は一 九 八三年一月一八日) (18)「孫冶方同志与世長辞」『人民日報』一九八三年二月二四日(死去は二月二二日、死困は肝臓ガン) (19)本報訊「記念著名経済学家孫冶方同志」『人民日報』1983 年 3 月 5 日 (20)新華社「資料:孫冶方同志的革命経歴和学術貢献」『人民日報』1983 年 3 月 5 日 (21) 本報訊人民出版社将編輯出版《孫冶方文集》『光明日報』一九八三年二月二一日 (22)林玉樹(本報記者)「春風春雨……」『光明日報』一九八三年二月二四日 (23)グラビア特集「悼念孫冶方同志」『光明日報』1983 年 2 月 25 日 (24)王武(本報記者)「為有源頭活水来----孫冶方青年時期的故事」『光明日報』1983 年 2 月 26 日 〔一九三五年五月に日本から帰国と記す〕 (25)李昭「病魔奪不去的……依依哀思寄懐孫爸爸」『光明日報』一九八三年二月二人日〔李昭は孫冶方の 養女。孫冶方には実子はなかった〕

(14)

(26)呉大琨「読者来信」『光明日報』一九八三年二月一日〔日本からの帰国は一九三五年九∼一〇月であ ろう、と王武の記述を訂正〕 (27)鮮金城「革命者的本色――随孫冶方同志転戦南北」『光明日報』一九八三年二月二日〔鮮は一九四七 年当時孫冶方の「警衛員」、なお孫自身は華東財経弁事処秘書長〕 (28)本報訊「紀念馬克思主義経済学家孫冶方同志」『光明日報』一九八三年二月五日 (29)冒天啓「一条発展経済科学的正確道路――悼念孫冶方同志」『光明日報』一九八三年二月六日 (30)沙沙「一盆艶麗的山茶花献給外公孫冶方」『光明日報』一九八三年二月七日〔沙沙にとって孫冶方は 母方の祖父にあたる〕 (31)本刊編輯部「向在経済科学上做出卓越貢献的孫冶方同志学習」『経済研究』一九八三年第二期 (32)孫尚清、呉敬璉、張卓元、林清松、霍俊昭、冒天啓「評孫冶方的経済改革設想和経済政策建議」『経 済研究』一九八三年第二期 (33)董輔礽「孫冶方同志治学精神和治学方法点滴」『経済研究』一九八三年第二期 (34)黄範章「積極唱導経済管理体制改革的経済学家――孫冶方」『経済研究』一九八三年第二期 (35)卓炯「論計画経済与価値規律――重読孫冶方同志《把計画和統計放在価値規律的基礎上》的感受」『経 済研究』一九八三年第二期 (36)梅益「紀念我国著名的馬克思主義経済学家孫冶方同志」『経済研究』一九八三年第二期 (37)項啓源「孫冶方同志是缶様在経済研究所貫徹″双百力方針的」『経済研究』一九八三年第二期 (38)賈春峰、王夢奎「徹底批判孫冶方反対無産階級政治桂帥経済”理論”」『光明日報』1966 年 11 月 7 日 〈39)斉文兵「駁孫冶方”政治注帥不能代替客観経済規律”等謬論」『光明日報』1966 年 12 月 5 日 (40)言文学「絶不容許孫冶方攻撃、簒改党的社会主義建設総路線」『光明日報』1966 年 12 月 12 日 (41)寧経声「粉砕孫冶方対社会主義計画経済的攻撃」『光明日報』1966 年 12 月 19 日 (42)鉄金「駁孫冶方対糧食統銷的汚蔑」『光明日報』1967 年 1 月 9 日 (43)李金玉「不許孫冶方攻撃人民公社」『光明日報』1967 年 1 月 9 日

(15)

社会主義商品経済論の模索(cs-pp.136-144) 百花斉放・百家争鳴の経済問題論争 中共一二期三中全会における決議「経済体制改革についての中共中央の決定」全九八四年 一〇月)が「計画的商品経済」を認めて以後、中国経済学界は「百花斉放」の観を呈して いる。中国経済体制改革研究会と中国政治経済学社会主義部分研究会の共催で八四年一一 月六日∼一一月一三日、安徽省巣湖市で全国経済体制改革理論討論会が行われた。この会 議の模様を『光明日報』(八四年一二月二日付コラム、経済学第二一九期)が伝えている。 (1)「社会主義は計画的商品経済である」。このテーマで論じられたのは、①改革の性質と 理論的基礎、②社会主義経済の本質的特徴、③多種類の経済形態と経営方式、④所有権と 経営権の分離、である。 (2)「計画調節と市場調節の関係」。このテーマで論じられたのは、①指令性計画と指導性 計画の関係、②マクロ経済[「宏観経済」]に対するコントロールをいかに実現するか、で ある。 (3)「価格体系と価格管理制度」。このテーマで論じられたのは、①価格改革の目標モデル、 ②価格形成の基礎と理論価格、である。 (4)「企業の活性化と”政企”分離[行政と企業の権限の分離]」。このテーマで論じられたの は、①企業活力増強の理論的根拠、②企業活力をいかに増強するか、③”政企“権限の分離、 である。 (5)「労働に応じた分配と賃金改革」。このテーマで論じられたのは、①国家による賃金総 額の分配と企業による労働者への分配、②賃金と物価の関係、である。 次いで中国計画学会、国家計画委員会計画経済研究センター、計画経済研究所の共催で福 州において「全国”指導性計画”討論会」が開かれた(『光明日報』八五年二月一七日、経済 学第二三〇期、なお同紙は「最近」とのみ記し、会議の日時は報道していない)。ここで論 じられたのは―― (1)「指導性計画の拡大は計画体制改革の主要環節」。 (2)「経済調節手段の巧みな運用がカギ」。①経済調節手段の範囲、②経済テコ[「経済杠 杆」、価格や利子率などのこと〕の機能と作用、③経済テコと国家計画の結合、④経済テコ の研究と運用。 このような経済問題討論会は省レベルでも行われているが、吉林省の場合について『光明 日報』(八五年二月二日、経済学第二二八期)は、こう報道している。中共吉林省委員会宣 伝部、省社会科学連合会、省経済学団体連合会の共催で、八五年一月五日―九日、長春で「吉 林省”価値法則”理論討論会」が開かれた。 主なテーマは―― (1)「価値法則の社会主義経済法則体系における地位」。①価値法則は従属的地位説、②価 値法則は他の経済法則に「作用を及ぼす」説、③価値法則は他の経済法則に「代替できる」 説。 (2)「経済テコの調節作用の評価」。①経済テコと経済法則の関係、②各種の経済テコ間の 関係。 これらの討論テーマを一瞥するだけでも論点が多岐にわたっていることが知られる。その すべてを包括的に紹介することはできないので、ここでは「商品経済」にしぼって注目す

(16)

べき論文を見ていきたい。 『光明日報』の「経済学」なるコラムの第二二五期(一九八五年一月一三日)が、「社 会主義商品経済と価値法則の問題についての討論」を呼びかけ、馬家駒が「二種類の調節 メカニズムの有機的結合」を書いて問題提起を行った。これに対して一週間後、何偉、韓 志国「計画メカニズムと市場メカニズムはいかに結合すべきか?」、 二週間後、宋養琰「計画メカニズムと市場メカニズムの関係についての管見」がそれぞ れ馬家駒論文を批判し、論点が深まりつつある。三人の主張はやや複雑な議論なので、私 はその主張を図示してみた。この図にそって三者の論旨を概観したい。 馬家駒――「不完全な計画」と「不完全な市場」の「有機的結合」を説く 馬家駒は、『経済研究』(八三年三期)によると社会科学院マルクス・レーニン主義毛沢 東思想研究所に属している(その所長は蘇紹智である)。イデオロギー研究のいわば総本山 である。馬家駒の基本的考え方は図1(略)のごとく、二つの円が少しずれて重なっている。 一つは産品経済に基づく計画メカニズムの領域、もう一つは商品経済に基づく市場メカニ ズムの領域である。二つの円が重なれば、図1 から明らかなように三つの部分ができる。 すなわち、①指令性計画、②指導性計画、③市場調節、である。②の部分は①と③が重 なっているが、この部分を「有機的結合」「板塊現象」と説くのが、馬家駒論文のエッセン スである。 このような理解は、計画経済と商品経済という従来「水と油」のごとくみなされてきた 二つの存在を「水と乳」のごとくとらえ直した代表的な考え方であろう。まさに問題提起 論文にふさわしい。 何偉、韓志国――産品経済を基礎とする計画から商品経済を基礎とする計画への転換を説く 第二論文の筆者、何偉の所属は中国人民大学政治経済学系である。韓志国は国家計画委員 会政策研究室に属している(前者は『経済研究』八三年四期、後者は『経済研究』八五年 一期による)。私の見るところ、この論文の傾向は国家計画委員会の計画官僚の考え方をあ る程度(とりわけ価格問題の項)反映している。 何偉らは馬家駒のいう、「②指導性計画」部分について、その本質は商品経済なのか、それ とも産品経済なのか、と迫る。それは商品経済であるほかない、として、「計画全体の基礎 を産品経済から商品経済に転換する」よう主張している(図2 参照)。つまり産品経済を基 礎とした指令性計画を全否定し、「商品経済に基づく指令性計画」を樹立せよ、という。指 令性計画でさえ、商品経済に基づくのであるから、指導性計画はむろん商品経済に基づく。 ここで「商品経済に基づく指令性計画」は「具体的な実物指標」としてであり、価格は価 値法則に基づくのであるから、せいぜいフロート価格として変動幅に枠をはめることしか できない。これに対して指導性計画は「具体的な実物指標」を課さない、文字通リガイド・ ポスト的なものとなろう。要するに、価格はフロート価格で、実物指標は指令性計画部分 でのみ示す、というのが何偉らのポイントである(ただし、「計画調節とは、価値と使用価 値の矛盾を調節すること」という説明は、よく理解できない)。 宋養琰――指令性計画を全否定、指導性計画と市場調節を説く 第三論文の筆者・宋養琰は中国社会科学院研究生院[大学院]経済学教研室副主任、副教 授である(『中国社会科学』八五年五期による)。何偉らよりもヨリ徹底した産品経済論否 定である。馬家駒が不十分ながら「生産手段の共同占有、共同労働、産品の共同占有」が

(17)

成立している、と説くのに対して宋養琰はこれを全否定する。「現実に存在しているのは、 企業ごとの生産手段の占有、労働、産品の占有」だと主張する。いわゆる全人民所有制と は事実上は集団所有制にすぎない、というのが宋養琰の基本的認識である。この点でまず 全人民所有制の存在を認める馬家駒と異なった認識を示す。馬家駒が企業の相対的独立を 認めているのは、事実上全人民所有制の不完全さを認めていることになる、と自説にひき つけて説く。さてこの企業間の独立から馬家駒は商品経済を説くが、これは論理が逆であ って、商品経済という現実が存在しているからこそ企業の相対的独立は再生産される、と 説く。商品交換が先か、企業の独立が先か、「鶏と卵」といった関係のようだが、ここは社 会主義=商品経済論の定義からして、商品交換のゆえに企業の独立である、と宋養琰は見 ているようである(図3 参照)。 ところで肝心の計画経済と商品経済の関係については、「形式と内容」の関係である、とい う。商品経済=価値法則という「内容」に対して、計画経済という「形式」が存在してい る、と説く。ここで価値法則は客観的、計画は主観的である。したがって計画という主観 は価値法則という客観に合わせなければならない。すなわち価値法則に依拠した経済計画 の策定がまず強調される。総労働の各部門への配分もまた価値法則による。とすれば、も はや価値法則にすべてを委ねて計画をあっさりやめた方がよいと思われるのだが、宋養琰 は価値法則に基づく計画こそ「真の計画経済」という。価値法則の作用をここまで拡大し てくると、当然指令性計画は全面否定されることになる。それは資本主義に限りなく近づ いた経済のイメージであろう。指令性計画は「商品経済の本性」と相容れないから、きっ ぱりやめて指導性計画、せいぜい「拘束性計画」しか用いない、とは大胆な主張である (ただし、宋養琰が末尾で価値法則は唯一の法則ではないとして、「多くの経済法則」「経 済法則体系」を説いているのは、その具体的内容が不明である)。 というわけで、何偉らの産品経済否定からさらにエスカレートし、宋養琰は指令性計画自 体の否定に及んでいる。 ドグマから解放され、現実に目覚めた経済理論 三つの論文を比較して見ると、第一論文は指令性計画と指導性計画の折哀論、第二論文は 指導性計画一本鎗(指令性計画否定)、第二論文は両者のほぼ中間に位置していることがわ かる。 これら三つの考え方は、それぞれに代表的な見解であろう。過去を振り返れば、八二年の 一二回党大会の時点では、「計画を主とし、市場調節を従とする」、すなわち指令性計画を 主とし、市場調節は従にすぎなかった。八四年秋には、「商品経済を主とし、計画経済を従 とする」ところへ逆転したのであった(この表現は行われていないが、分かりやすくいう とこうなる)。この場合両者の位置付けをめぐって、ここに紹介したような三つの考え方が あり、指令性計画を全面否定する宋養琰へ論点を移し、百花斉放の傾向を暗示したのであ った。 なお王彪「調節メカニズムの問題について」(『光明日報』八五年二月一七日、経済学第二 三〇期)は、宋養琰に二つコメントしている。 一つは計画経済と商品経済が「形式と内容」 の関係とするのは適当ではなく、「局部概念と全体概念」と解すべきだという。実体として 商品経済に対応するのは計画経済ではなく、自然経済であり、産品経済である。自然経済↓ 商品経済↓産品経済と発展する過程で後二者について局部的あるいは全体的に計画が加わ

(18)

るという理解である。 もう一つは指令性計画にかかわるもので、マクロ経済に対する統制としてはやはり指令性 計画がありうるはずで、企業に対する指令性計画の否定とは区別しておくべきであるとい う。つまり企業に対しては指令性計画を全否定するが、マクロ経済に対してはその余地を 残しておく、という考え方である。 最後に王琢「産品経済論を突破せよ」(『光明日報』八五年一月六日、経済学第二二四期) は、いま批判すべきは封建社会的「自然経済論」ではなく、商品経済を克服したと称して 登場した「産品経済論」である、と論じて説得的である。 佐牧「商品経済下の企業の分配権をいかに認識するか」(『光明日報』八五年一月六日、経 済学第二二四期)は、企業間では「価値交換」が行われ、企業内では「労働交換」が行わ れる。前者の価値法則に基づく「等価交換」と後者の「等量労働交換」の混同を戒めてい る。この商者を区別せよという主張は林子力「社会主義と商品経済」(『人民日報』八四年 一二月一四日)にも見える。 段若非「社会主義の理論と実践の重大な突破」(『光明日報』八五年一月七日、科学的社会 主義第五五期)は「資本主義の段階を経ずに社会主義に至ることは可能であるが、商品経 済の段階は飛び超え不可能」と論じて、社会主義における商品経済発展の必要性を力説し ている。 中国の経済学はようやくスターリンのドグマから解放され、中国の現実に目を向け始め たようだ。観念論から現実論への偉大な転換と評すべきであろう。 (初出『日中経済協会 会報』八五年四月号、「社会主義商品経済論を模索する中国」一部省略)

(19)

李洪林――イデオロギー戦線の風雲児(bt-pp.66-79) 「作者説明」がユニークな『理論風雲』 現在の鄧小平路線がスタートする契機となったのが、 一九七八年一二月の一二期三中全会 [中共第一二期第三回中央委員会全体会議]であることは、よく知られている。以来九七 年を経て、 いまや八年目の春である。「対内的に経済の活性化、対外的に開放経済」をス ローガンとする鄧小平路線は、かなりの程度まで回まってきたように見受けられる。しか し、依然改革派と保守派の矛盾、抗争が消えてなくなったわけではない。 最近、中国のイデオロギー戦線の風雲を描いた興味津々の書物が日本に届いた。李洪林著 『理論風雲』(三聯書店、 一九八五年六月刊)である。 李洪林の書くものが私の目にとまったのは、 一九七九年二月九日付『人民日報』第二面に 大きく掲載された論文「われわれはいかなる社会主義を堅持するのか?」が最初である。 当時私は香港の日本結領事館の一室で「特別研究員」という一月書きの居候生活を始めた ばかりであった。私は中国勉強のやり直しのつもりで、『人民日報』や『経済研究』などの 論文を丹念に読み始めていたが、そういう生活のなかで、真っ先にぶつかったのがこの文 なのであった。ついで六月二二日付『人民日報』第二面に李洪林の第二論文「われわれは いかなるプロレタリア独裁を堅持するのか」が掲載された。そして彼の第二論文「われわ れはいかなる党の指導を堅持するのか」が掲載されたのは、四カ月後の一〇月五日付『人 民日報』で、第二面全頁にわたる大論文であった。理論家李洪林の名は私の記憶に深く刻 まれた。 その後、 一九八一年初に、李洪林の肩書きが「中央宣伝部理論局副局長」であることを偶 然知った(『党史人物』第一期)。当時中国のマスヨミは筆者の肩書きを紹介することがき わめて少なかった。政治的世界においては特に、論旨よりはその人物のポストが重要であ る場合がある。私は早速、彼を改革派人脈リストに加えた。李洪林の文がないな、と思い 始めた矢先、香港の雑誌が「彼が批判された」というニュースを伝えた。実際、香港人の 早耳には敬服するばかりである。 さて、一九八五年になって私は友人から福建省社会科学院院長李洪林が日本に来る予定が あるという話を聞いて、彼がもはや中央宣伝部から離れたことを知った。そして八六年春、 『理論風雲』を手にして、早速読みふけったわけである。 この本は実に魅力的な本である。なぜか。私がなによりも気にいったのは、扉の「作者説 明」である。そこにこう書いてある。 一 本書の文責は筆者自身が負う。 二 批評を歓迎する。批評意見のうち公開発表しないものは、筆者宛お送り下さい(三聯書 店気付)。 三 本書所収の文章は個々の文字は改めたところがある。しかし、およそ批評を受けた箇所 は、 一律に改めていない。これは「誤りを堅持する」ものではなく、論戦のルールを順守 するためである。 四 書中の人名は、引用文は別として、「同志」の文字を省いた。 この四カ条、とりわけ第一カ条がたいへん新鮮である。西側の社会において常識であるこ とが、中国社会においても通用するとは限らない。扉において、こう宣言した本は最近の ものとしてはたいへん珍しい。「同志」の省略にしても、故人の毛沢東や用恩来ならともか

参照

関連したドキュメント

地方創生を成し遂げるため,人口,経済,地域社会 の課題に一体的に取り組むこと,また,そのために

チ   モ   一   ル 三並 三六・七% 一〇丹ゑヅ蹄合殉一︑=一九一︑三二四入五・二%三五 パ ラ ジ ト 一  〃

経済学の祖アダム ・ スミス (一七二三〜一七九〇年) の学問体系は、 人間の本質 (良心 ・ 幸福 ・ 倫理など)

〔付記〕

  中川翔太 (経済学科 4 年生) ・昼間雅貴 (経済学科 4 年生) ・鈴木友香 (経済 学科 4 年生) ・野口佳純 (経済学科 4 年生)

目について︑一九九四年︱二月二 0

学部混合クラスで基礎的な英語運用能力を養成 対象:神・ 社 会・ 法・ 経 済・ 商・ 理 工・ 理・

同総会は,作業部会はニューヨークにおける経済社会理事会の第一通常会期