スイス商人ハンス・シュペリの日本論
︱︱印章にみる日本の文化と社会︱︱
踊
共
二
はじめに
幕末から明治にかけて来日した欧米の外交官、軍人、学識者、文化人による日本論や日本紹介は枚挙にいとまがな い ︵ 1 ︶ 。 本 稿 で と り あ げ る ハ ン ス・ シ ュ ペ リ︵ Hans Spörry, 1859-1925 ︶ は、 ス イ ス、 チ ュ ー リ ヒ 出 身 の 絹 商 人 で あ り、 一八九〇年から一八九六年まで横浜︵関内︶の外国人居留地に住み、スイス系貿易会社に勤めて輸出用の絹を鑑定す る業務に携わった。そのかたわらシュペリは、日本の文化を深く研究し、伝統工芸品・美術品を広く収集していた。 とくに価値が高いとされるのは、芸術品から日用品まで、当時のあらゆる種類の竹製品を集めたコレクションである。 それらは今ではチューリヒ大学の民族学博物館に収蔵されている。一九〇一年にシュペリが刊行した﹃日本竹譜︱︱ 日本における竹の利用法﹄は、当時のヨーロッパ世界でもっとも詳しい竹の文化誌であった。それより先、一八九七 年 に ロ ン ド ン の 王 立 キ ュ ー・ ガ ー デ ン ズ 植 物 標 本 館 に お い て イ ギ リ ス 商 人 チ ャ ー ル ズ・ ホ ー ム︵ Charles Holme,1848-1923 ︶ が 収 集 し た 竹 製 品 が 展 示 さ れ、 カ タ ロ グ も 刊 行 さ れ て い る が、 そ れ は 体 系 的 と は 言えないものであった ︵ 2 ︶ 。 シ ュ ペ リ の 生 涯 と 彼 の 日 本 理 解 に つ い て は、 二 巻 か ら な る 自 伝︵ 一 九 二 五 年 刊 行 ︶ を つ う じ て 詳 し く 知 る こ と が で き る ︵ 3 ︶ 。 シ ュ ペ リ は 同 業 者 で あ る 日 本 の 商 人 お よ び 職 人 の 生 活 世 界 に 常 に 共 感 に 満 ち た 視 線 を 注 い で い た。 シ ュ ペ リ は 絹 と 竹 と 紙 に 日 本 文 化 の 粋 を 見 て い た が、 彼 が と く に 重 視 し た の は、 そ れ ら の 実 用 的 で 美 し い 品 々 と 市 井 の 人 々 の 日 常 生 活、 職 業 生 活 と の 深 い 結 び つ き で あ る。 た と え ば 絹 は ヨ ー ロ ッ パ に お い て は い つ の 時 代 も 贅 沢 品 で あ り、 見 栄 え も 肌ざわりも良い高級な布地だけが好まれてきたが、日本では﹁く ず繭﹂からとれる真綿を使った紬の着物や半纏、布 団などが庶民の生活に根を下ろしている。この国において絹は特権階級の独占物ではなく、働く民衆の身体を包んで 暖めてきた。その点で日本の絹の文化には奥深さがある。シュペリはこのように捉えていた ︵ 4 ︶ 。以下述べるとおり、日 本の印章の文化についてもシュペリは同じ視点で紹介と分析を行っており、その著書は絹の文化論、竹の文化誌に勝 るとも劣らない精彩を放っている。 写真 1:シュペリが住んだ横浜の関内居留地 47 番/ツィーグ ラー・メーリアン商会(Spörry, Mein Lebenslauf, Bd. II, S. 1)
印章
と
伝統文化
シュペリは来日間もないころ、横浜の日本人街の印判師︵ Stempelschneider ︶が店先で無心に仕事をする様子に感 銘を受けた。その後シュペリは日本国内のあちこちを旅するが、行く先々で印房を訪ね、さまざまな作品を観察し、 職人たちに質問を浴びせた。やがて横浜の自宅には収集品とメモが山のようにたまっていった。一八九六年、リュー マチの療養のために滞在した草津の温泉宿で、シュペリは﹃日本の印章﹄の草稿を書くにいたる。シュペリによれば、 日 本 の 印 章 の 文 化 を 初 め て ヨ ー ロ ッ パ 世 界 に 詳 し く 紹 介 し た 書 物 は イ ギ リ ス の 収 集 家 ジ ェ ー ム ズ・ ロ ー ド・ ボ ウ ズ ︵ James Lord Bowes, 1834-1899 ︶ の﹃ 日 本 の 銘 と 印 章 ﹄︵ 一 八 八 二 年 ︶ で あ る。 た だ し こ れ は 美 術 品 の 製 作 者 の 銘 を 中心に扱ったものであった ︵ 5 ︶ 。これに対してシュペリの﹃日本の印章﹄は、あらゆる時代、あらゆる種類の印章に言及 している。出版は一九〇一年、出版地はチューリヒである ︵ 6 ︶ 。古代・中世にさかのぼる日本の印章の歴史について、シ ュペリはケンペル︵ Engelbert Kaempfer, 1651-1716 ︶ やシー ボ ルト︵ Philipp Franz von Siebold, 1796-1866 ︶といっ た 先 人 た ち の 記 述 を 参 照 し つ つ、 ま た 知 己 で あ っ た 東 京 帝 国 大 学 教 授 カ ー ル・ フ ロ ー レ ン ツ︵ karl Florenz, 1865-1939 ︶や坪井九馬三︵ 1858-1936 ︶に学問的な助言を仰ぎながら、徹底的な研究を行っている。さらにシュペリ は、実務に使われる種々の印章に強い関心を抱き、いわゆる﹁実印﹂の法律的役割を論じた英吉利法律学校︵のちの 中央大学︶の校長、増島六一郎の論文も参照している ︵ 7 ︶ 。ヨーロッパ︵ドイツ語圏︶における﹃日本の印章﹄の読者は、 当時の一般的な日本人をはるかに超える知識を得ることができたであろう。この書物は本文六三ページで、多数の図 版資料を含んでいる。構成は以下のとおりである。はしがき 序論 第一章 日本印章史の概観 A 文武天皇と大宝律令 B 伊勢の神宮印 第二章 各種の印章 A 血判︵ Blutstempel ︶、押手︵ Handabdruckstempel ︶、書判︵ Geschriebener Stempel ︶ B 印判︵ Gravierter Stempel ︶ ︵一︶寺院印、護符など ︵二︶遊印、十二支印 ︵三︶実印、認印、店判 ︵四︶公印 C 美術工芸品にみる印章および銘︵ Merkzeichen ︶ 第三章 印判の形状 第四章 印材 第五章 日本の印判師、その道具と仕事場 附論 [中国の印章] 年表/目次/図表
以 下 こ の 書 物 の 内 容 を 紹 介 し な が ら、 シ ュ ペ リ の 日 本 論 の 特 徴 を 検 証 し た い と 思 う︵ た だ し 本 書 の 第 三 章 以 下 は、 印 判 そ れ 自 体 の 形 や 素 材、 製 作 過 程 を 微 細 に 論 じ た部分であるから、本稿では検討しないことにする︶ 。 ま ず シ ュ ペ リ は﹁ は し が き ﹂ に お い て 日 本 の 印 章 と の 出 会 い を 振 り 返 り、 序 論 で は 印 章 研 究 の 意 義 に つ い て 論 じ て い る。 シ ュ ペ リ に よ れ ば、 欧 米 人 の 日 本 文 化 研 究 において印章を対象とするものは ほ とんどない。日本の印章は、 天明四年 ︵一七八四 年 ︶ に 志 賀 島 で 発 見 さ れ た 金 印 か ら わ か る よ う に 中 国 の 影 響 を 受 け て 使 用 が 開 始 さ れ た が、 そ の 後 の 長 い 歴 史 の な か で 独 自 の 発 展 を 遂 げ て お り、 そ の 独 自 性 を 知 る こ と は 日 本 文 化 の 理 解 を 深 め る こ と に つ な が る。 な お、 そ も そ も 印 章 は 中 国 起 源 で は な く、 古 代 の ア ッ シ リ ア や エ ジ プ ト か ら イ ン ド を 経 て 中 国 に 伝 わ っ た も の と 考 え ら れる ︵ 8 ︶ 。 第 一 章 の A で は、 ま ず 古 代 日 本 の﹁ 官 印 ﹂ が 扱 わ れ て い る。 具 体 的 に は、 大 宝 令 ︵ 七 〇 一 年 ︶ の 公 式 令 に 定 め ら れ た 官 印 ︱︱ 天 皇 御 璽、 太 政 官 印、 諸 司 印、 諸 国 印 な ど ︱︱ が 紹 介 さ れ、 古 来 は 天 皇 だ け が 印 章︵ 印 判 ︶ を 所 持 し て い た こ と、 大 宝 令 以 後 は じ め て 国 司︵ Landesfürsten ︶ な ど に も 独 自 の 印 章 が 許 さ れ た こ と、 そ れ か ら さ ら に 三 〇 余 年 を 経 て 特 定 の 神 社 に も 印 章 が 認 め ら れ た こ と、 そ し て 八 世 紀 半 ば に 豪 族、 文 士、 書 家、 神 官、 仏 僧 な ど が 私 印︵ Privatstempel ︶ を 持 つ よ う に な っ た こ と な ど が 確 認 さ れ て い る。 次 い で 第 一 章 の B で は、 天 皇 に よ っ て 与 え ら れ た 伊 図 2:伊勢の大神宮印(Spörry, Stempelwesen, S. 10)
勢神宮の印章すなわち﹁大神宮印﹂ ﹁内宮政印﹂ ﹁宝受宮印﹂のことが詳しく述べられている ︵ 9 ︶ 。 第二章は中近世から明治にいたる印章のあり方を多角的に検討した章であり、本書の中心をなしている。最初にシ ュペリは、日本人が古くから文書の内容を確認するために用いてきた印判以外の﹁しるし﹂を列挙している︵二章の A ︶。 す な わ ち、 血 判、 爪 印、 拇 印、 押 手、 書 判 な ど で あ る。 シ ュ ペ リ に よ れ ば、 血 判 は 強 い 決 意 を 表 明 す る 誓 約 や 重要な契約にさいして用いられ、通例、左手の無名指︵薬指︶を針か小刀で傷つけ、血を出して紙に押しつけ、さら にそこに右手の親指の爪を押し当てる方法がとられたという。シュペリは、侍の敵討ちの連判状や庶民の非合法な夫 婦契り、罪人の口書︵供述調書︶など、血判が用いられてきた具体的なケースを示しながら、明治政府が血判の法的 拘 束 力 を 否 定 し て も そ の 慣 行 は 残 り 続 け て い る と 論 じ て い る。 次 に シ ュ ペ リ は、 爪 印︵ Fingernagelstempel ︶ に つ い て解説している。爪印は古くは印章を持たない貴族の女性や子供が用いたが、徳川時代にはあらゆる階層の人々に利 用された。これは親指の先と爪に墨などをつけて紙に押しつけるものである。用途は罪人の口書や離縁状であった。 拇印は左手の親指の腹を押しつけるもので、これも口書などに使われ、不名誉と結びついていた。ただし明治時代に は拇印はもはや必ずしも犯罪と結びついてはおらず、シュペリの伝えるところによれば、一八九五年に前橋のある医 師は業務上の書類を出しに裁判所に出かけ、印判を忘れたので間に合わせに拇印を押したが、書類は無事に受理され たという。他にもシュペリは、宿屋の客が書留郵便を受け取るさいには、印判を携行していなくても、受領書に本人 の拇印と宿屋の主人の認印を押せば事足りるといった例を挙げている。そもそも印判を持たない人が拇印を使って何 ら か の 証 明 を 行 う 例 も あ り、 こ れ に は ヨ ー ロ ッ パ に お い て 字 の 書 け な い 者 が 用 い る 三 連 の 十 字 印︵ drei Kreuze ︶ と 同じ機能があるとシュペリは述べている。次は押手と書判である。押手︵手形︶は寺院への寄進状などに使われてい たが、厄除けに用いられることもあるとシュペリは記している。書判は花押ともいい、上流の人々が自署をくずして
書 い た も の で、 名 乗 と は 関 係 の な い 別 の 文 字 を 使 う 場 合 も あ っ た。 シ ュ ペ リ は 一 〇 世 紀 か ら 一 七 世 紀 に か け て の 有 名 人︵ 武 将 な ど ︶ の 花 押 を 例 示 し、 同 時 に 刀 鍛 冶、 紀 宗 介︵ 明 珍 ︶ と い っ た 工 芸 師 の 書 判 も 紹 介 し て い る︵ 図 3 ∼ 6 を 参 照 ︶。 シ ュ ペ リ に よ れ ば、 一 七、 一 八 世 紀 に は 武 人、 神 官、 僧 侶、 工 芸 師 な ど 各 界 の 著 名 図 5:武将の花押/豊臣秀 吉。「悉」の字が使われてい る(Spörry, Stempelwesen, S. 22) 図 3:爪印の実例/親指の先と爪の跡が見える (Spörry, Stempelwesen, S. 16) 図 4:押手の実例/子供の手形 (Spörry, Stempelwesen, S. 18) 図 6:工芸師の花押/刀鍛 冶、 明 珍 紀 宗 介(Spörry, Stempelwesen, S. 22)
人の花押を集めた解説書が出回っており、茶人だけの花押集もあったという ︵ 1 0 ︶ 。 第二章の B は、彫られた印章つまり印判にふたたび焦点を当てている。最初に B の︵一︶でとりあげられているの は寺院の印章である。寺院においては、所領の管理や参詣者への対応のために印章が不可欠であった。巡礼地の僧侶 は 寺 の 印 章 を あ し ら っ た 杖 や 手 拭 い、 装 束 な ど を 販 売 し て お り、 ﹁ 観 光 業 ﹂︵ Fremdenindustrie ︶ を 営 ん で い た に 等 しいとシュペリは解説している。日本の巡礼者は、訪れた寺︵札所︶の宝印を巡礼用の白装束︵判衣︶に所狭しと押 し、参詣の証拠ないし記念として自宅に持ち帰るのが常であるとも述べられている。護符に関する記述もある。さら にシュペリは、神社の神札にも言及し、図版資料として上州、草津の白根神社の印章を掲載している︵図 8の右下の 二 つ。 最 後 の も の は﹁ 神 璽 ﹂ と 読 め る ︶。 シ ュ ペ リ の﹃ 日 本 の 印 章 ﹄ は、 宗 教 や 習 俗 に つ い て の 考 察 を 含 ん で お り、 民俗学的関心にも応えることのできる内容である ︵ 1 1 ︶ 。 第 二 章 の B の︵ 二 ︶ は、 書 家 や 絵 師 の 落 款 印 つ ま り 遊 印︵ Spielereistempel ︶ な ど を テ ー マ と し て い る。 徳 川 時 代 に生け花や茶の湯とならんで書画が流行した一因は、権力を奪われた公家たちが非政治的な世界に閉じこめられ、い やおうなく風流人として日々を送ったからだとシュペリは分析している。ともあれシュペリは、掛け物などに使われ る各種の書画印について詳述し、彼らが旅に用いた印笥や文具箱にも触れている。次にシュペリがとりあげているの は、 日 付 印︵ Datumstempel ︶ と 呼 び う る 十 二 支 印 で あ る︵ 十 二 支 は 月 に も 時 刻 に も 用 い ら れ る ︶。 シ ュ ペ リ は ま ず 日本の暦法について述べ、十二支による時刻の表し方を詳しく説明している。一日は深夜零時︵子の刻︶を始まりと す る 一 二 の﹁ 刻 ﹂︵ Doppelstunden ︶ に 分 け ら れ、 ﹁ 刻 ﹂ は そ れ ぞ れ 四 つ の﹁ 時 ﹂ に 細 分 さ れ て い る。 た と え ば﹁ 丑 の 半刻﹂ ︵ ushi no han koku/ die halbe Stunde des Stiers ︶と言えば夜中の三時のことである。十二支印の 鈕 すなわち つまみの部分は、それぞれの動物をかたどっている。十二支は運・不運と結びついており、今でも庶民は午の月︵五
月︶と戌の月︵九月︶に災いが起きると信じ、旅や引越、衣服の新調などを控えるのが慣わしであるとシュペリは伝 えている ︵ 1 2 ︶ 。 以上、第二章の B の︵一︶と︵二︶の内容を紹介した。シュペリの意図は、各種の印章を糸口にして日本の歴史、 芸術、民俗などを描き出すことにあったと考えられる。とくに詳しいのは民衆生活についての記述である。次に第二 章の B の︵三︶の題材である実務用の印章に目を向けたい。しかしこの部分は明治時代に起こった政治的・社会的変 化、西洋世界との接触を前提として書かれており、それに先立つ叙述とはやや性質が異なるため、ここで章を改める ことにしたい。
近代日本の胎動︱︱実印、認印、商家の店判
江戸時代の武士たちは、関所手形に使う印影をあらかじめ関所に届けており、役人はそれによって通行者の手形の 真偽を確かめることができた。この印影は﹁印鑑﹂ないし﹁判鑑﹂と呼ばれた︵本稿で﹁はんこ﹂そのものを言い表 す の に﹁ 印 鑑 ﹂ で は な く﹁ 印 判 ﹂ と い う 語 を 使 う の は、 こ う し た 歴 史 的 背 景 を 考 慮 し て の こ と で あ る ︶。 武 士 と は 違 って庶民は、町村の役人が作成した通行証︵切手︶を使って関所を通っており、印影を届ける必要はなかった。しか し 庶 民 の な か に も 印 判 を 所 持 し、 こ れ を 庄 屋 や 年 寄 に 届 け て﹁ 実 印 ﹂︵ der echte Stempel ︶ と し て 用 い る 者 も い た。 明 治 時 代 に な る と 日 本 国 民 に は 平 等 に 印 判 を 持 つ 権 利 が 与 え ら れ︵ stempelfähig ︶、 シ ュ ペ リ に よ れ ば、 会 社 や 銀 行 だけでなく一般の人々も広く︱︱﹁男も女も、商人も職人も、芸術家も学生も、果ては バ タ屋やクーリーまで﹂︱︱ 実印を持つようになった。近代日本における実印は、言うまでもなく、文書に法律的拘束力を与える役割を果たす。こ れ を 持 つ こ と は、 明 ら か に 実 益 だ け で な く 自 尊 心 と も 結 び つ い て い た。 あ る 意 味 で 実 印 の 所 持 は、 ヨ ー ロ ッ パ 人 が 高 価 な﹁ ブ ロ ー チ や ブ レ ス レ ッ ト や 指 輪 を 所 持 す る の と 変 わ ら な い 流 行 ﹂ で あ る と シ ュ ペ リ は 述 べ て い る。 な お シ ュ ペ リ に よ れ ば、 印 材 は ツ ゲ が 代 表 的 で あ る が、 牛 角、 象 牙、 水 晶 な ど も 好 ま れ て い た と い う︵ 書 体 は 篆 書 が 多 い が、 楷 書 も あ っ た ︶。 こ う し た 明 治 の﹁ は ん こ ブ ー ム ﹂ の な か に シ ュ ペ リ は、 封 建 時 代 の 抑 圧 か ら 解 放 さ れ て い く 農 工 商 の 庶 民 の 逞 し い 姿 を 見 て い た。 彼 ら は、 父 母 の 世 代 に は 禁 じられていた朱色の判を好んで書類に押すようになっていた。シュペリは県庁︵のちに市役所︶で行う印鑑登録の制 度 に つ い て も 詳 し く 紹 介 し、 各 種 の 契 約 書 に 押 さ れ た 実 印 に 疑 い が あ る 場 合 は、 役 所 に﹁ 印 鑑 証 明 ﹂ ︵ Stempelbeglaubigung ︶ を 求 め る こ と が で き る と 述 べ て い る。 ド イ ツ の シ ュ ル ツ ェ 姓 や ミ ュ ラ ー 姓 と 同 じ よ う に 日 本人には小林姓や鈴木姓の人が非常に多いから、印判は混同や偽造の危険が高いのではないかという疑問に対して、 シュペリは次のように答えている。印判の大きさと形は作る人によって違い、印判師が新しい印を仕上げるさいには 目に見えない切れ込みを入れるので偽造は困難である、と。なおシュペリは、自署のない文書は実印が押されていて も無効だと考えるのは誤解であり、実印はそれだけで法律的拘束力をもつと述べ、西洋との違いを強調している ︵ 1 3 ︶ 。 シ ュ ペ リ は 実 印 に つ い て 論 じ た 後、 各 種 の﹁ 認 印 ﹂︵ Anerkennungsstempel ︶ に つ い て 考 察 し て い る。 認 印 は 実 印 を要しない種々の確認、証明、金品の受領などに日常的に使われ、印影を役所に届ける必要はない。認印には所有者 の名前の一部だけを刻むことが多い。女性の場合は平仮名も使う。商人も芸術家も、また一般の人々も、個々の必要 に応じて多くの印判を作って使い分けているが、それらはみな分類上は認印である。シュペリは認印に分類される印 判として次のようなものを例示している。各種の証明書や通知書に使う﹁証文印﹂ 、取引に使う﹁手形判﹂ 、手書きの 図 7:実印(左)と認印(右) /東京の官吏、大橋潤蔵 (Spörry, Stempelwesen, S. 38)
紙 や 札 に 使 う﹁ 書 付 判 ﹂、 贈 答 品 に 使 う﹁ 熨 斗 ﹂ の 判 な ど で あ る。 シ ュ ペ リ に よ れ ば、 日 本 の 認 印 は、 ヨ ー ロ ッ パ の 会 社 や 私 人 が 手 紙 の 差 出 人 を 示 し た り 書 物 や 物 品 の 所 有 者 を 示 す た め に 使 う ス タ ン プ に 似 て い る。 し か し な が ら、 日 本 の 認 印 の 数 と 種 類 は 驚 く ほ ど で、 そ の 理 由 の 一 端 は 日 本 人 の﹁ 筆 ま め Schreibseligkeit ﹂ に あ る。 日 本 人 は 些 細 な こ と で 書 類 を つ く り、 慶 賀 以 外 に も 折 り に ふ れ て ︱︱ 年 に 百 回 も ︱︱ 便 り を し た た め る の で、 印 判 は 欠 か せ な い も の で あ り、 い つ も 同 じ 印 を 使 う の で は 野 暮︵ ungeschickt ︶ で あ る。 こ こ で シ ュ ペ リ は や や 誇 張 を 含 ん だ 議 論 を 展 開 し て い る が、 基 本 的 に は 間 違 っ て い な い で あ ろ う。 ﹁ 些 細 な こ と ﹂ で 日 本 人 が 書 類 を 作 っ て 捺 印 す る 例 と し て シ ュ ペ リ は、 郵 便 の 不 在 配 達 票 を 挙 げ て い る。 彼 自 身 が 自 宅 で 受 け 取 っ た 不 在 票︵ 下 げ 札 ︶ に は、 再 配 達 の た め に 持 ち 帰 っ た 旨 が 記 さ れ、 ﹁ 横 浜 郵 便 電 信 局 第 四 区 集 配 人 ﹂ の 認 印 が し っ か り 押 し て あ っ た と い う。 次 に シ ュ ペ リ は、 各 種 の ﹁ 店 判 ﹂︵ Ladenstempel, Geschäftsstempel ︶ に つ い て 論 じ て い る。 商 家 に あ っ て は、 売 り 物 や 見 本 品、 郵 便 物 が 頻 繁 に 行 き 交 い、 従 業 員 の 数 も 多 く、 分 担 で 業 務 を 行
っているから、多数の印判があっても当然であり、それぞれ厳密 に 用 途 が 決 ま っ て い る。 た だ し 明 ら か に 趣 味︵ Liebhaberei ︶ で 作っている印判もある、とシュペリは書いている ︵ 1 4 ︶ 。 すでに述べ たように、シュペリはリューマチの治療のために草 津 の 温 泉 に 逗 留 し、 ﹃ 日 本 の 印 章 ﹄ の 原 稿 も そ こ で 書 い た。 宿 の 名 は 山 本 館 と い う︵ 現 存 ︶。 彼 は 主 人 に 店 判 の 数 々 を 見 せ て も ら い、それらの印影を持ち帰った︵実印だけは押してく れなかった と い う ︶。 シ ュ ペ リ が 集 め た 山 本 館 の 店 判 は 以 下 の と お り で あ る ︵図 8を参照︶ 。左上から、認印が五つ︵小判印二つ、丸印二つ、 角 印 一 つ ︶、 次 に 仕 切 判 と 呼 ば れ る 住 所 の 入 っ た 店 判 が 五 つ︵ 丸 印 が 四 つ、 角 印 が 一 つ ︶、 経 理 に 用 い る 合 わ せ 印 が 二 つ︵ い ず れ も丸印︶ 、勘定印が一つ︵勘定済と彫られた長方印︶ 、蔵書印が一 つ︵ 長 方 印 ︶ で あ る。 左 下 は、 ま ず 相 済 み 印 が 一 つ︵ 長 方 印 ︶、 次 に 賃 銭 印 が 一 つ︵ ち ん 済 と 彫 ら れ た 長 方 印 ︶、 消 印 が 一 つ︵ 長 方 印 ︶、 荷 物 取 扱 所 名 の 入 っ た 荷 物 印︵ 丸 印 ︶、 封 緘 印 が 三 つ︵ 長 方 印 ︶、 最 後 に 店 主 の 遊 印 が 一 つ︵ 白 文 印 ︶ で あ る。 な お、 そ の 下 の 四 つ の 印 判 は、 左 か ら、 草 津 在 住 の 医 師 が 所 持 し て い た 遊 印 が 二 つ︵ 白 文 印 と 朱 文 印 ︶、 隣 は す で に 述 べ た 白 根 神 社 の 印 章 が 二 つ で あ る。 と こ ろ で シ ュペリは、大都市の商社などでは半分漢字、半分ローマ字の店判を使ったり、漢字の店判とローマ字の店判を作って 使い分けている場合もあると付記している ︵ 1 5 ︶ 。 写真 2:草津村(当時)の風景 (Spörry, Mein Lebenslauf, Bd. II, S. 214)
つづいてシュペリは、酒樽、荷箱、家具、道具、履物など、さ ま ざ ま な 品 物 に 押 さ れ る﹁ 焼 印 ﹂︵ Brennstempel ︶ を 紹 介 し て い る。それらは家業を示す看板などに使われてきたヨーロッパの伝 統 的 な 標 章︵ Hausmarke, Hauszeichen ︶ に 似 て い る と 彼 は 述 べ ている。図 9はシュペリが例として掲載している焼印であるが、 彼 が 分 析 し て い る よ う に、 家 名︵ 屋 号 ︶、 象 徴 的 な 文 字、 純 粋 な 図案の三種類がある。このなかには尾上菊五郎の﹁重ね扇﹂や市 川團十郎の﹁三升﹂の紋も見える。シュペリは﹁三升﹂の焼印が 押された菓子が広告のために町中で売られていると報告している ︵ 1 6 ︶ 。 第二章の B の︵四︶では、官公庁の印章のことが短く 論じられ ている。ここではまた、新生日本において伝統的な印章の文化が 西洋的制度と混じり合う局面が描かれている。シュペリによれば、 日本において印章は七世紀以降まず天皇によって使用され、漸次、 官職者や神官などに捺印の権限が与えられた。近代日本の官公庁 も、そうした古い伝統を受け継いでいる。ただし明治政府は、前時代的な印章の使用方法を廃止しつつあり、ヨーロ ッパ世界の印章を模倣した部分もある。たとえば旅券に押される大型の角印は、中国的、日本的に見えても基本的な 構図はヨーロッパ流である。日本の官公庁は、日本人に対して通知を出す場合、税務署であれ警察署であれ公印を押 すが、欧米人に対して英文で通知を出す場合はこれを省略することがある。ここには、旧習にこだわらない柔軟な姿 図 9:各種の焼印(Spörry, Stempelwesen, S. 41)
勢を見せようとする役人たちの意図が読みとれる。シュペリは新しい時代の動きをこのように分析している。庶民も また、日本文化のルーツである中国の文物に背を向けるようになり、それまでは疎遠であったヨーロッパの文明を盛 んに吸収しようとしている。日本の郵便や電信、鉄道の制度はヨーロッパから移入されたものであり、欧米式の業務 用スタンプの利用方法も採り入れられている。しかしながら、日本固有の慣習も根強く残っているため、業務中に必 要な押印の回数は欧米よりもはるかに多くなっている。シュペリはとくに﹁はんこだらけ﹂の日本の電報に驚いてい る。彼の時代には、電信の文面と封筒の裏表を合わせて十一箇所に日付印、番号印、受付印、公印などが押されてお り、その色は茶、青、赤の三色であった。もちろんシュペリは、複雑だから非合理だと主張しているわけではない。 むしろ逆に、草津の山本館の店判の分析にも見られるように、慎重に仕事を分け、要所要所で確認のために捺印を求 め、精確を期する日本的な手続きに敬意を払っている。ヨーロッパにおける公私の印章や署名の歴史もじっさい複雑 であり、日本人にそれを伝えようと思えば、本書つまり﹃日本の印章﹄よりはるかに多くの紙幅を費やす必要がある とシュペリは述べている ︵ 1 7 ︶ 。ここには、東西の歴史的伝統に等しく共感的な理解を示す姿勢が読みとれるであろう。 第二章の C は、陶磁器や漆器、織物、刀装具、書籍などに見える印章や銘に関する解説である。例として詳しく論 じ ら れ て い る の は、 長 次 郎 茶 碗 の﹁ 楽 ﹂ の 印 で あ る︵ こ の 部 分 は 前 述 の ボ ウ ズ の 著 作 に 依 拠 し て い る ︶。 シ ュ ペ リ に よれば、日本の伝統工芸品の印章や銘は製作者の権威と品質を示すしるしであったが、大量生産時代においてもその 精神は消えておらず、ほ かでもない﹁トレードマーク﹂ ︵ Handelsmarke ︶に受け継がれている。ここにもシュペリは、 伝統と現代の結びつきを見いだしている ︵ 1 8 ︶ 。
おわりに
﹁ 金 印 勅 書 ﹂︵ 一 三 五 六 年 ︶ の 例 に 見 ら れ る よ う に、 ヨ ー ロ ッ パ に お い て も 重 要 文 書 に 印 章 を 使 う 習 慣 は 中 世 か ら 存 在し、捺印には赤や黒の蝋が用いられた︵中世ヨーロッパの印章の文化は、さらにローマ帝国の伝統にさかのぼる︶ 。 なお﹁金印勅書﹂は金の塊に王印を捺したものであった。印章の所持者は、王、貴族、自由都市などであった。その 後、 一 五、 一 六 世 紀 に な る と、 文 書 確 認 の 手 段 と し て 印 章 と 署 名 の 併 用 が み ら れ る よ う に な り、 や が て は 署 名 だ け で よしとされるようになる。そもそも印章は貴金属や宝石で作られることが多く、その使用は王侯貴族の文化と結びつ いていた。近代史の主役である市民たちには、そうした印章を時代遅れと見なす傾向があった。ただし印章が消えて しまったわけではない。たとえば信書の封緘には印章と封蝋が使われつづけた。また一七世紀には新たにイギリスで 政 府 発 行 の﹁ 印 紙 ﹂︵ 捺 印 さ れ た 紙 片 ︶ を 用 い る 制 度 が 始 ま り、 一 九 世 紀 に は 郵 便 切 手 に ス タ ン プ が 押 さ れ る よ う に なる ︵ 1 9 ︶ 。東西の印章には当然のことながら共通点があり、重要文書の真正性の確認、意志の表明、権威や資格の付与、 有効性の証明といった同じ必要から生まれたものなのである。そうである以上、シュペリの著書の内容は、ヨーロッ パ 人 に も 十 分 理 解 で き る も の で あ っ た に 違 い な い。 そ の 序 論 に は、 ﹁ 印 章 は 国 に よ っ て 民 族 に よ っ て、 ま た 文 化 の 段 階によって多種多様ではあるが、驚くほ ど一致していることもある﹂と記されている ︵ 2 0 ︶ 。 日本の印章は、古代・中世以来、政治、宗教、美術工芸、そして経済活動と深く結びついていた。とくにシュペリ が注目したのは民衆世界であり、新時代の到来とともに封建制の桎梏から解き放たれた商工業者の世界である。彼ら は昔日の武士と同じように正式に名字を持ち、実印を所持する権利を得た。日本の印章の文化は、彼らの参画によって裾野を広げ、実業の世界との結びつきをいっそう強めながら、また西洋的なものと融合しながら、独自の展開を見 せている。シュペリはここに近代日本の文化と社会の縮図を見ていた言えるであろう。 一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて日本の文化と社会を論じた欧米人の見解は多種多様であるが、新渡戸稲造 ︵ 1862-1933 ︶の書物、すなわち Inazo Nitobe, Bushido: The Soul of Japan, Philadelphia, 1899 の影響もあって、武士 道こそ日本人の精神的支柱であり近代日本の躍進の原動力であると主張する論者は多い。たとえば、お雇い外国人教 師 と し て 日 本 の 工 業 化 を 支 援 し た イ ギ リ ス 人 ヘ ン リ ー・ ダ イ ア ー︵ Henry Dyer, 1848-1918 ︶ が 典 型 例 で あ る ︵ 2 1 ︶ 。 日 本 の 商 人 に 関 し て は、 ダ イ ア ー を 含 め て、 ﹁ 商 業 道 徳 ﹂ の 低 さ を 指 摘 す る 著 述 家 が 数 多 く い る。 一 七 世 紀 前 半 の オ ラ ン ダ 商 館 長 カ ロ ン︵ François Caron, 1600-1674 ︶ の﹃ 日 本 大 王 国 志 ﹄ の 記 述 が、 ﹁ 虚 言 を 吐 い て 恥 じ る こ と の な い 日 本 商人﹂というステレオタイプの源の一つと推測される。この種の認識は、幕末に来日したプロイセン使節の記録にも スイス使節の記録にも登場する。ただしスイス使節の団長アンベール︵ Aimé Humbert, 1819-1900 ︶は、日本の貿易 商人が商品の品質を偽る例を挙げると同時に、ナンセンスとか ボ ナ バ ンチュールといった偽りの署名をした請求書を 山 ほ ど作っていた外国商社の例も挙げ、一種の﹁相対化﹂を試みている ︵ 2 2 ︶ 。一方、ハンス・シュペリは、日本の商人の 虚 言 に 惑 わ さ れ た 実 体 験 を 自 伝 に 記 し て い る も の の、 商 人︵ Akindo ︶ こ そ 近 代 日 本 の 牽 引 役 で あ る い う 認 識 を 絶 え ずもちつづけていた ︵ 2 3 ︶ 。シュペリが日本の印章を論じるにあたって、貴族や武人や文士だけでなく商人にも目を向け、 彼らの職業文化を子細に観察してヨーロッパの読者に紹介したのも、そうした認識があったからに ほ かならない。シ ュ ペ リ の 日 本 論 の 基 調 を な し て い る は こ の 認 識 で あ る。 シ ュ ペ リ 自 身 が 属 し て い た ヨ ー ロ ッ パ の 商 工 業 者 は 伝 統 的・ 貴族的な印章の文化を ほ とんど捨て去っていたが、日本の同業者たちはそれを新たに吸収し、実印・認印・店判・焼 印・遊印などで構成される豊かな記号の世界を創り出していたのである。
注 ︵ 1 ︶築島謙三﹃日本人論のなかの日本人﹄ ︵講談社現代新書、二〇〇〇年︶の下巻を参照。 ︵ 2 ︶ Vgl. Hans Spörry, Die Verwendung des Bambus in Japan und Katalog der Spörry ’schen Bambus-Sammlung mit einer botanischen Einlei-tung von Dr. C. Schröter, Zürich 1903, S. X. なおシュペリのカタログには一五四六点の竹製品が収録されているが、彼自身が収集した品物の 数はそれよりはるかに多く、二〇〇〇点余りであったという。 Vgl. Martin Brauen, Bambus im alten Japan. Kunst und Kultur an der Schwelle
zur Moderne. Die Sammlung Hans Spörry im Völkerkundemuseum der
Universität Zürich, Stuttgart 2003, S. 25f.
︵
3
︶
Hans Spörry, Mein Lebenslauf, 2 Bde., Zürich 1925.
︵ 4 ︶ シ ュ ペ リ の 経 歴、 絹 を 軸 と し た 日 本 論 に つ い て は 拙 稿﹁ ス イ ス 絹 商 人 ハ ン ス・ シ ュ ペ リ の 見 た 明 治 の 日 本 ﹂、 森 田 安 一 編﹃ 日 本 と ス イ ス の 交 流 ﹄︵ 山 川 出 版 社、 二 〇 〇 五 年 ︶、 一 一 九 ∼ 一 三 五 ペ ー ジ を 参 照。 近 世 日 本 の 絹 の 生 産 地 お よ び 町 人・ 農 民 の 間 で の 需 要 に つ い て は、 山 脇 悌 二 郎 ﹃ 絹 と 木 綿 の 江 戸 時 代 ﹄︵ 吉 川 弘 文 館、 二 〇 〇 二 年 ︶、 三 二、 三 八 ∼ 四 三 ペ ー ジ を 見 よ。 な お シ ュ テ ー フ ァ ン・ ジ ー ゲ リ ス ト は 日 本 を 訪 れ た ス イ ス 人 を﹁ 経 済 ﹂﹁ 外 交 ﹂﹁ 文 化 ﹂﹁ 布 教 ﹂﹁ 人 道 的 活 動 ﹂ な ど に 分 け て 網 羅 的 に 紹 介 し て い る が、 シ ュ ペ リ を﹁ 経 済 ﹂ で は な く﹁ 文 化 ﹂ の 項 に 組 み 入 れて論じている。 Stefan Sigerist, Schweizer in Asien. Präsenz der Schweiz bis 1914, Schaffhausen 2001, S. 244. 日本とスイスの交流の始まりに つ い て は、 中 井 晶 夫﹃ 初 期 日 本 ス イ ス 関 係 史 ︱︱ ス イ ス 連 邦 文 書 館 の 幕 末 日 本 貿 易 史 料 ﹄︵ 風 間 書 房、 一 九 七 一 年 ︶ に 詳 し い。 日 瑞 交 流 史 の 概 観 お よ び 研 究 文 献 に つ い て は、 森 田 安 一﹁ 幕 末・ 明 治 期 の 日 本・ ス イ ス の 交 流 を め ぐ っ て ﹂、 前 掲﹃ 日 本 と ス イ ス の 交 流 ﹄、 三 ∼ 二 三 ペ ー ジ を 見 よ。 同 じ 編 者 に よ る﹃ ス イ ス と 日 本 ︱︱ 日 本 に お け る ス イ ス 受 容 の 諸 相 ﹄︵ 刀 水 書 房、 二 〇 〇 四 年 ︶ の 諸 論 文 も 参 照。 同 書 に は ス イ ス の キ リ ス ト 教 界 と 明 治・ 大 正 期 の 日 本 人 の 接 触 に つ い て 論 じ た 拙 文﹁ 日 本 の 改 革 派 教 会 ︱︱ 歴 史 と 現 代 ﹂ も 収 録 さ れ て い る︵ 第 六 章 ︶。 な お シ ュ ペ リ は 当 時 の 宣 教 師 た ち に は 批 判 的 で あ り、 外 来 の 宗 教 を 慎 重 に 見 極 め よ う と す る 日 本 人 に 対 し て 宣 教 師 た ち は 配 慮 に 欠 け、 布 教 の 成 果 を あ ま り に も 性急に求めている、と述べている。
Spörry, Mein Lebenslauf, Bd. II, S. 198f.
︵
5
︶
Cf. J. M. Bowes, Japanese Marks and Seals, London, 1882.
︵
6
︶
Hans Spörry, Das Stempelwesen in Japan, Zürich 1901.
以下 Spörry, Stempelwesen と略す。 ︵ 7 ︶ Vgl. Spörry, Stempelwesen, Vorwort, S. 6, 8, 17. フローレンツについては佐藤マサ子﹃カール・フローレンツの日本研究﹄ ︵春秋社、一九九五 年 ︶ を 参 照。 坪 井 は 歴 史 研 究 に 西 洋 流 の 古 文 書 学 を 導 入 し た 人 物 で あ る。 坪 井 九 馬 三﹃ 史 学 研 究 法 ﹄︵ 早 稲 田 大 学 出 版 部、 一 九 〇 三 年 ︶ を 見 よ。
Cf. R. Masujima, The Japanese Legal Seal, in: Transaction of th
e Asiatic Society in Japan, vol. XVII
︵ Yokohama, 1888/89 ︶ . ︵ 8 ︶ Spörry, Stempelwesen, S. 3-6. 印章の歴史的起源と伝播については不明な点も多いが、メソポタミアに古くから存在したことは明らかである。 新関欽哉﹃東西印章史﹄ ︵東京堂出版、一九九五年︶ 、第二章を参照。
︵ 9 ︶ Spörry, Stempelwesen, S. 7-12. 古代日本の官印︵公印︶および私印について詳しくは石井良介﹃印判の歴史﹄ ︵明石書店、一九九一年︶ 、三六 ∼六三ページを参照。 ︵ 10︶ Spörry, Stempelwesen, S. 13-23. 石井、前掲﹃印判の歴史﹄ 、七二∼八五、 一五五∼一五八、 一六八∼一七三ページ、木内武男﹃印章﹄ ︵柏書房、 一九八三年︶ 、一〇一ページを参照。 ︵ 11︶ Spörry, Stempelwesen, S. 23-25. ︵ 12︶ Spörry, Stempelwesen, S. 25-32. 書画印については荻野、前掲、 ﹃印章﹄ 、三五五∼三六三ページを参照。 ︵ 13︶ Spörry, Stempelwesen, S. 33-37. ︵ 14︶ Spörry, Stempelwesen, S. 37-39. ︵ 15︶ Spörry, Stempelwesen, S. 41. ︵ 16︶ Spörry, Stempelwesen, S. 41f. ︵ 17︶ Spörry, Stempelwesen, S. 42f. ︵ 18︶ Spörry, Stempelwesen, S. 44-46. ︵ 19︶新関、前掲、 ﹃東西印章史﹄ 、一六六∼一八四ページを見よ。 ︵ 20︶ Spörry, Stempelwesen, S. 5. ︵ 21︶ ヘ ン リ ー・ ダ イ ア ー﹃ 大 日 本 ﹄ 平 野 勇 夫 訳︵ 実 業 之 日 本 社、 一 九 九 九 年 ︶、 六 八 ∼ 七 一 ペ ー ジ を 見 よ。 築 島 謙 三、 前 掲、 ﹃ 日 本 人 論 の な か の 日 本人﹄下、六二ページも参照。 ︵ 22︶ ダ イ ヤ ー、 前 掲、 ﹃ 大 日 本 ﹄、 二 八 三、 二 八 四 ペ ー ジ、 カ ロ ン﹃ 日 本 大 王 国 志 ﹄ 幸 田 成 友 訳︵ 平 凡 社、 一 九 六 七 年 ︶、 一 四 三 ペ ー ジ、 オ イ レ ン ブ ル ク﹃ 日 本 遠 征 記 ﹄ 下、 中 井 晶 夫 訳︵ 雄 松 堂 書 店、 一 九 六 九 年 ︶、 一 一 三 ∼ 一 一 五、 三 三 二 ペ ー ジ、 ア ン ベ ー ル﹃ 幕 末 日 本 図 絵 ﹄ 高 橋 邦 太 郎 訳 ︵雄松堂書店、一九七〇年︶下、三三七、 三四一ページを見よ。 ︵ 23︶