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アダム・スミスと現代

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Ⅰ.繰り返されるスミス・ルネサンス

 「アダム・スミスと現代」というテーマのもとで, 今までに多くの人が,何回となく,様々に論じてきた。 例えば水田洋は,「景気が悪くなると,アダム・スミ スにお座敷がかかる。石油ショックの時がそうだった し,バブル崩壊の時もそうである」と,「私の新資本 主義論」(『日本経済新聞』1992 年 7 月 13 日「経済教 室」)を書き始めている。1)このシリーズは,20 世紀 のラストディケード,国際的には社会主義体制崩壊後 のグローバリゼーションの席巻,日本ではバブル経済 の崩壊,前代未聞の平成不況の開始という,大きな時 代の転換点に立って,日本経済の進むべき道を「新資 本主義論」として展望する。水田は,経済思想,経済 学説史の研究者としての立場から,スミスに依拠して 議論を展開している。  経済的に見て時代の転換点と叫ばれる時には,この 「アダム・スミスと現代」というテーマで論じること は,常套手段である。時代的な課題に立ち向かう時に, スミスを参照する,スミスに立ち戻って考える,とい う思考方法が甦り,関心が高まることは,繰り返され てきた。最近では,水田の指摘のように,1970 年代 の IMF =ドル支配体制の崩壊と石油ショック,赤字 財政と福祉国家の危機,自然破壊,環境・公害問題の 深刻化の時期である。これらは,第 2 次世界大戦後の 資本主義経済の成長を支えてきた自由裁量主義的な財 政政策の破綻であると認定された。その結果,理論的 な基盤をなしていたケインズ経済学への信頼が揺らぎ, 全面的な批判が高まることによって,スミスが注目を 浴びることとなった。  戦後のケインズ経済学の覇権を導くケインズ革命は, ケインズ『自由放任の終焉』(1926 年)という象徴的 なタイトルを持つパンフレットに由来する。したがっ てケインズ批判の興隆は「『自由放任の終焉』の終焉」 と称される。これはケインズの権威の失墜を象徴する。 1976 年の『国富論』刊行 200 年の記念事業とも相まっ て,こうした事態はスミス・ルネサンス,「現代にお けるスミス復活」と称された。ケインズの権威は,ス ミスの権威によって再否定される。  ケインズ批判は先祖返りとして,彼が批判したスミ スに関心を高めるだけでなく,スミスにもとづいて, スミスに依拠して自らの議論を展開する風潮をマスコ ミや世論において形成した。新自由主義や新保守主義 といわれる思潮が台頭し,1990 年を前後する社会主 義体制の崩壊によって,これらは一挙に力を得て, ジャーナリズムや論壇を支配するようになる。社会主 義=計画経済の崩壊,市場経済体制の導入の企てが進 むにつれて,例えば「スミス,モスクワに行く」のよ うな書名の出版物も現れて,スミス・ルネサンスは第 2 段階に到達したとも言われた。2)  スミス,ケインズそしてマルクスも相対化されるこ とによって,また主流派の経済学への信頼が揺らぎ, 様々な関心からその体系の限界や方法の一面性が指摘 されるに及んで,新しい経済学への模索が開始される。 情報経済学,環境経済学,地域経済学,文化経済学や 行動経済学などの諸潮流が出現し,定着した。これら は,先進国における産業構造の高度化(第 3 次産業部 門就業人口比の 50%突破)とそこで実現される生活 の一定の豊かさと安定を背景に,個人主義,物質的な もの,量的なものを中心とした考え方から,社会的厚 生,心の豊かさや質的なものに関心を高めることに よって,従来の経済学の制約を突破しようとしている。 発展途上国での持続的な経済成長や社会的発展を追求 するうえで,従来の経済学的手法や評価基準に組み込 まれていない諸要素の重要性の確認であるともいえる。 評価も,将来世代の視点も導入するべきことが確認さ れつつある。  1990 年の UNDP(国連開発計画)の提議は,物から 人間,商品から生活へと経済評価の基準を転換した。

アダム・スミスと現代

Economic EducationThe Journal of

No.32, September, 2013

Adam Smith Studies in Modern Economics

Nakatani, Takeo

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人間発達指標(HDI)として平均余命と識字率(教育 指標)に続いて GDP 指標がカウントされるにすぎな くなり,経済成長主義や物的な豊かさ中心の開発政策 の転換を迫った。とくに人間の潜在能力の視点(ケイ パビリティアプローチ)を提議し,1998 年にノーベ ル経済学賞を受賞したアマルティア・センが,現代の 経済学批判の観点からしばしばスミスに言及するに及 んで,スミス回帰は勢いづいた。  時代の転換点に立ってスミスに関心が向くのは,単 に彼が経済学の父であり,現代の経済学や思想の源泉 であり,すべての出発点がそこに位置していると考え られるだけでなく,そうした経済思想に収斂していく 彼の思想体系の総合性や幅の広さ,経済学を生み出す 道徳哲学の体系,さらにはそれをも包み込む人間学, 人間の科学に支えられているからである。センも, ハーバード大学では経済学教授であるとともに哲学教 授であったことも想起されるべきであろう。

Ⅱ.現代経済学の様々なスミス像

 スミス・ルネサンスが繰り返されるということは, 様々なスミス像が並存し,統一的な評価がいまだに確 定していないことを意味する。いわば,自分好みの引 用と好き勝手な解釈による,部分的,一面的なスミス 像が描き出され,結果として多数のスミス像が並存し, 統一的な評価や結論が出ていないといえる。3)水田も, 「200 年ほど前に死んだスミスの亡霊を呼び出してど うするのだ」(同上)という疑問が出るのも承知の上 で,しかし現在においてもスミスに聞くべきことは多 いし,その真意を探る作業はいまだに必要であるし, 継続されているという。  これは,スミスの遺稿集『哲学論文集』(1795 年) も含めると,彼が非常に広範囲な領域に拡散する対象 に考察を及ぼしたこととともに,また結果として残さ れた研究は,彼の意図や自己評価を離れて講義ノート 類さえも含めて,道徳哲学の集大成,経済学の誕生, 新しい法学,修辞学革命,英文学の出現などと称され るように,それぞれの領域で切り口の新しさ故に第 1 級の業績として広く認められ,高い水準にあり,した がって現代の細分化され,専門化された個別のジャン ルからのスミス研究はいわば独自に,個別に存在し, 相互交流・相互批判が長らく軽視されてきたことにも 一因がある。これに対しては,日本ではスミス研究が 経済学中心から隣接,関連分野へ拡大し,欧米では道 徳哲学から経済学や人間学,古典学,人間の科学への 拡張として,克服の試みが開始されている。4)  スミスは広範な領域に及ぶ,総合的な体系を持った 思想家である。多様で,多彩な,異なった,時には矛 盾する言及さえちりばめられている。それ故に彼の思 想全体を総体として,総合的に,統一的に,かつ論理 整合的に把握するという強い姿勢でもって彼を読み込 むことが必要である。全体像の理解は,現代の課題と して残されている。自分流の個別的な引用は避けなけ ればならない。部分的な引用がスミスの全体像を歪め てしまう可能性について,十分な配慮が必要である。  スミスの思索の対象が,古代ギリシャやローマの古 典に始まってニュートンや同時代のルソーにまで及び, また天文学から芸術論にまで拡散していることは,彼 の思想源は人類の思想(史)の豊饒な貯蔵庫であり, その後の思想はスミスに端を発している,すなわち彼 は水源湖であるとさえ言えるならば,5)いわば自己主 張の根拠を彼に求めることは誰にとっても容易な作業 であり,その権威が高ければ正当化にも好都合である。 スミスの引用には細心の注意を払わなければならない。  そのうえスミスの時代はアメリカの独立,フランス 革命,そして産業革命と大きく変化しつつあり,そう した時代の転換に彼は注意を払い,誠実に対応した。 また生前に出版した 2 冊の著作の改訂作業を生涯継続 した。『道徳感情論』(初版,1759 年)の第 6 版の改訂 と補足(1790 年)は,そうしたスミスの思想的営為 の経過を象徴的に表現している。彼の思想遍歴をふま えて,スミスの統一的な全体像を描く作業は至難の業 と言えるのである。  『道徳感情論』の改訂をめぐって,「第 6 版は,徳の 特徴に関する章と,他のところでもいくつかの思い 切った改訂を含んでいる。そのため,[グラーズゴウ 大学版] 新著作集の共編者であった故 A.L. マクフィー 教授はよく,第 6 版は異なる著作であると言っていた。 それは言い過ぎであるが,第 6 版は確かに大きく手直 しされた著作なのである」6)とラフィルは指摘して, 第何版と明記しない TMS の引用は,少なくとも学術 的な研究論文では今後は説得力を欠くことになる,と さえ主張する。  第 6 版にいたる改訂作業の継続は,他方での『国富 論』の準備や推敲と並行している。経済学研究の深化 と進化が与えた影響として考えるとともに,また幻の 著作として完成を見なかった法学研究の展開がどの程 度反映されているかという問題も成立するであろ う。7)その場その時点でのスミスの立ち位置を十分に 留意することが必要である。

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 こうした問題は,スミスが生前に出版した『道徳感 情論』と『国富論』の関係をめぐって,前者の同感や 利他心,後者の自己利益や利己心の強調として,2 つ の異なる体系が内在するアダム・スミス問題として, 19 世紀以来ドイツを中心に論じられてきた。両著作 の専門分野が異なることや,後者の準備期間中にスミ スが渡仏し,「エコノミスト」たちと交わったことな どの影響を根拠とした問題提議ではあるが,その後の 「法学講義ノート」の発見などによって前提条件が崩 れ,これ自体の問題関心は薄れてしまった。  しかし「アダム・スミス問題」は常に繰り返し提議 されてきた。同感と利己心,分業の WN 第 1 編の生産 力の源泉としての称賛と第 5 編の人間の部分化,一面 化,貧困化,不具化などの社会的な弊害をもたらすと いう非難,自由競争における自由の意味・条件,自由 放任や自由競争と市場規制や国家介入,第 2 編での重 税と乱費による資本蓄積の阻害要因という不生産的な 国家や政府と市場メカニズムの維持・防衛という有用, 不可欠な機能,政府経費は可能なかぎり削減されるべ きか社会の発展とともに膨張するものか,などとこれ までも色々な観点から,スミスの統合的な理解の形成 に向けて論じられてきた。8)  スミスの労働論をめぐる,「労働犠牲説(労働は骨 折りと苦労)」と「高賃金の経済論(人間発達の契 機)」の 2 つを例示して,現在の状況の一端としたい。 前者は,大内秀明『ウィリアム・モリスのマルクス主 義:アーツ&クラフツ運動を支えた思想』(平凡社新 書 645,2012 年,34 頁以下)である。スミスの労働論 は労働価値説の根拠であり,イギリス古典派経済学の 基盤をなす先駆的な業績であるが,労働観は,人間労 働は骨折りと苦労(toil and trouble),苦しみ,快楽 を犠牲にする負の効用であり,モノ,生活の手段(正 の効用)の獲得手段でしかない(労働は喜び,がモリ スの労働観である)。9)労働の苦痛を和らげようとする 労働者の利己心が,生産性向上による労働の節約を推 進するが,効用価値説へと導くとする。  さらに労働は自然からモノを購買する本源的な購買 手段であるという主張も,生産過程の流通過程化,す なわち生産的労働の行為を流通過程で貨幣を媒介とす る売買取引の行為に還元するもので,目的意識的な労 働行為を行う人間の主体,労働力の存在が不明確にな り,労働の価値認識が希薄化し,人間の生産主体とし ての労働力が商品化され,それが取引されて資本に雇 用され,資本の管理の下で労働させられるという認識 の欠如のもとで,利己主義にもとづいた(ブルジョア 的)商業主義のイデオロギーである市場経済の個人主 義化を促進してしまう,と否定面からの特徴づけだけ が紹介される。確かにスミスの一面が特徴的に鋭く描 き出されているが,これは 1 部分でしかない。  こうした見解の一面性は,スミス研究の領域では克 服されていると言える。新村聡「労働と貧困:アダ ム・スミスの分業論と高賃金論」(経済学史学会他編 『古典から読み解く経済思想史』ミネルヴァ書房, 2012 年,第 9 章)である。「スミスにとって,労働は 単に賃金を得るための手段ではなく,人間発達の重要 な機会だったのである。/より正確に言えば,スミス は,労働が人間発達に及ぼす影響について,プラスと マイナスの両側面から考えていた。……スミスの賃金 論は,上に述べた 4 つの代表的な高賃金支持論すべて を含んでいた。」(201 頁)  4 つの支持論は,高賃金は,①労働者の生産意欲を 高め,生産効率を高め,長期的には利潤増大に寄与す る,②労働者の消費を増大し,国内市場を拡大し, GDP の安定と成長に寄与する,③生活にふさわしい 賃金であり,基本的人権を保障する,④賃金ファンド は利潤分配の減少や GDP の成長によって拡大は可能 である,という。スミスの賃金論は高成長と高賃金の 好循環の論理を内包していて,重商主義が主張する低 賃金の経済の根拠を経済的,道徳的に批判している。 高賃金と国際競争力の両立を説き,貧困解決に果たす 国家の政策責任をスミスが強調している(自己責任論 批判),と新村は指摘する。10)

Ⅲ.経済学史研究とスミス研究

 一見対立し,矛盾すると見える,労働犠牲説と高賃 金の経済論の両者はともにスミスが有力な源泉である と主張する。スミスの部分的,一面的な引用に対する 批判と総体的な理解の必要は,スミス研究の中では定 着しつつあるが,スミス研究者とそれ以外では温度差 が存在するのも事実である。経済学の分野に応じてス ミス像が異なるように見えるし,経済学史の内部にお いてもそうした理解が並存するように見える。11)スミ ス研究が高揚する中で,スミス像はどう「拡散」する のか。スミス研究にとっても注目すべき,『古典から 読み解く経済思想史』(前出)を素材にして概観して みよう。  本書は経済学史学会 60 周年記念事業の成果である。 店頭で最初に目に入る帯には,「思想家の理論から現 代の処方箋を探り,現代社会を〈診る〉眼を養う」と

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あり,表紙表折込には,「本書は,経済思想家の理論 へのアプローチだけでなく,現代社会のトピックスを, 思想家の理論から読み解いていく。その中で現代への 処方箋を探り,読者に現代社会を〈診る〉眼を養って もらうことを意図している。経済学史学会創立 60 周 年記念出版の入門書」とある。学会が,「入門書」(大 学専門科目講義用教科書の水準?)という前提ではあ れ,研究の目的や課題設定,姿勢や方法において現代 社会との接点,関連を重視し,問題を分析し,課題解 決の糸口を探り,目指すべき新しい社会像を構想する という視角を前面に出していることは,経済学史の分 野だけでなく経済学研究における大きな転換点として 注目に値する。  こうした編集方針が採用される背景は,井上琢智 (経済学史学会 60 周年(2010 年)記念出版事業検討委 員会委員長,関西学院大学長)「あとがき」にある。 すなわち編集意図は,従来の学会記念事業が「経済学 史,経済思想史研究者向け」であったものから,「広 く他の分野の研究者,学生・院生,一般の読者」に拡 大し,「現代の経済社会がもつさまざまな問題点をと りあげ,過去の経済学者の学説や思想を捉え直すこと で,今後目指されるべき新しい経済システムを探るこ とを目指す」(291 頁)とある。経済学史における 「専門知」を経済学における「総合知」へ組み込む必 要性を提議すると考えられる。  この方針が決定的になる契機が 3.11 の東日本大震災 である。本書に所収予定の草稿が提出された後に大震 災が勃発した。編集委員会は,最終原稿で「この震災 がもたらす影響」について言及することを執筆者に依 頼したと明記している。「経済学の古典を再検討する ことによって現代の課題に対する有効な処方箋の糸口 を手に入れるための思索へとつなげていく」(292 頁) という編集意図が浸透した。3.11 の大惨事は経済学史 研究にも大きな影響を及ぼしたのである。しかしこう した問題意識はかなり前からすでに認識され始めてい て,大震災を契機に一気に顕在化し,合意達成へと結 実したとも言えよう。  「経済学史・経済思想史研究が,一方できわめて厳 しいアカデミックな営みであると同時に,社会に何ら かの形で貢献することが,研究と教育に携わるととも に,社会の一員でもある研究者・教育者一人ひとりの 責任でもあり,義務でもあることは確かである。それ を果たしてこそ経済学史・経済思想史研究がアカデ ミックな場においても,社会においても,その存在意 義を示すことができ,この分野での若い研究者の育成 とその職業としての社会的地位を確保できると思うか らである。」(同上)12)  こうした編集方針のもとで,経済学の原点,すなわ ちスミス回帰が決定的となる。まず目次からみても, 序章「古典から読み解く経済思想史」(井上琢智),第 1 章「社会,市場,および政府:アダム・スミスの総 合知」(堂目卓生,編者),第 7 章「イギリス経済思想 史における穀物:スチュアートからオールまで」(服 部正治),第 9 章「労働と貧困:アダム・スミスの分 業論と高賃金論」(新村聡,編者),第 12 章(終章) 「「学問のすすめ」の社会・経済思想:スミス・ミル・ 福沢」(坂本達哉),と続き,スミスとの関連が目につ く。索引でもその名前は多くの章で言及され,その回 数と頻度は断然トップである。次のケインズに圧倒的 に勝るだけでなく,『国富論』も複数章で言及され書 名として 1 番多く,『道徳感情論』もその回数は『一 般原理』を凌ぐ。経済学史学会でのスミス・ルネサン スである。13)  『古典から読み解く経済思想史』でスミス復活が顕 著となる要因は,井上琢智(編集委員長)による序論 「古典から読み解く経済思想史」からもうかがえる。 そこで強調されるのが,経済学における「知の総合 化」,「総合知」の探求と,「人間の復興」,「経済学の 人間学化」である。本書の試みは,「人間学」として の経済学をより豊かにする,経済学における人間(研 究)を復興し,細分化された専門知を総合化し,他分 野の学問との連携も通じて「総合知」を求めること。 経済学史の研究・教育の課題は,総合知の探究と「生 きている人間に寄り添う 「人間学」 としての経済学」 の復興にある,と井上は言う。  スミスを待つまでもなく経済学は人間学から出発し たが,「人間学」としての経済学から「生きた人間」 が捨象され,極大・極小原理に(のみ)もとづき行動 する economic man(経済人)を前提として経済学が 展開されるようになる。しかし日本でも,経済学にお ける「人間の復興」,経済学の人間学化の主張は早く から現れていた。それが関東大震災(1923 年 9 月 1 日)とその復興策をめぐって決定的になったことが重 要である。  それは,福田徳三『復興経済の原理及び若干原理』 (1924 年。復刻版,山中茂樹・井上琢智編,関西学院 大学出版会,2012 年)に結実している。福田は, マーシャル『経済学原理』(1890 年)により,「価格 の経済学」から区別される「厚生の経済学」の大宣言 を発展させるとして,経済学の「人間化」,「厚生の経

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済学」を主張していた。その根拠が,福田がスミスに 「厚生哲学の闘士」を読み取ったという,「すべての人 間活動の目的は生きること」(スミス,2000,第 3 巻, 296)である。14)  関東大震災の勃発とその被害の悲惨さを目の当たり にし,またその復興策をめぐって,経済学の「人間 化」,「厚生の経済学」が福田の確信となり,それにも とづく人間復興が提唱される。井上の福田への言及を 要約すれば,関東大震災の「復興事業の第 1 は,[道 具立てにすぎない道路や建物などのいわゆるインフラ ストラクチャーの整備ではなく] 人間の復興でなけれ ばならぬ。……人間復興とは,生活し,営業し,労働 する,生存機会,営生の機会の復興である。……大震 災前にすでに最絶頂に到達した生活である貨幣経済, 価格経済から厚生の経済へと舵を切らねばならない。」  井上の結論は以下である。「震災からの復興を「人 間の復興」と捉え,「人間学」としての厚生経済学 [を] 構築し,実践性を高めていくべきだという福田 の思想は,現代にも当てはまるものであり,その点で 本書は福田の思想に立ち返る試みだと見ることができ る」(3 頁)とまで言い切って,以下章別の内容要約 に進み,最後に次のように序論を終えている。「この ように「古典」を読み解くことで,思想史研究や歴史 研究には今なお豊かな素材が残されていることにあら ためて気づかされる。その「古典」に眠る豊かな素材 を掘り起こし,そこから現代の課題に対する有効な処 方箋の糸口を手に入れるための思索へとつなげるとい う私たちの経済学史・経済思想史研究は,経済学にお ける「人間の復興」を目指して,今後もなお大きな役 割を果たすことができるであろう。」(8 頁)

Ⅳ.スミスの「総合知」と「人間学」

 『古典から読み解く経済思想史』の第 I 部「市場・ 政府・中間組織」の第 1 章が,堂目卓生「社会,市場, および政府:アダム・スミスの総合知」である。冒頭 章でもあり,編者でもあり,「スミスが構築を目指し た社会,市場,政府に関する総合知……の独創性は, 人間本性に関する幅広い研究のうえに経済学の体系を 確立した点にある」(27 頁)という主旨で,経済学に おける総合知と人間学をキーワードに,本書の前提と 特徴を体現し,スミス復帰を示唆している。  第 1 節「総合知を目指したスミス」で,『道徳感情 論』と『国富論』を中軸とするスミスの思索活動の構 造や思想体系は,イギリス社会が全体として進むべき 道を見出す試みであるとする。「スミスは,「人間とは 何か」という問いからはじめ,「社会とは何か」,「政 治や経済は何のためにあるのか」を論じ,さらには 「今,イギリスがなすべきことは何か」を示そうとし た。/……こうしたスミスの議論が,「同感に支えられ る安定した社会」,「自由で公正な市場」,「経済成長」, 「公平で効率的な政府」からなる総合知として再構築 する」ことが堂目の課題である(14 頁)。  総合知の形成とは,社会,経済,政治の関係全体を 総合的に把握して,社会の課題を理解して,解決を目 指す,「安全で住みやすい社会」を実現する道を明ら かにすることである。第 2 節は,『道徳感情論』が同 感に支えられて安定した社会,すなわち秩序が形成さ れるとともに,繁栄の原動力でもある仕組みを解明す ることが課題であるとし,「人間には,他人に関心を もち,また他人から関心を求めるという本性─社会 的存在としての本性─があるという事実から出発し, 社会の秩序と繁栄が導かれることを説明した。」(18 頁)  第 3 節「『国富論』の主題:自由で公正な市場,経 済成長,公平で効率的な政府」で,富と人口の増大と いう社会の繁栄の一般原理を解明し,第 4 節「社会, 市場,経済成長および政府の関係」で,2 節:TMS と 3 節:WN を併せて解明し,経済:WN の世界の基 盤,底辺に存在する「同感に支えられた安定した社 会」の重要性を前提にして,市場,成長,政府との関 係が明らかにされる(25 頁,図 1−1 も参照)。  第 5 節「スミスの構想の継承と変容」をふまえて, 「人間研究の伝統から離れ,希少性に関する純粋科学」 への道を歩みだすにつれて,「人間本性の多様性に目 をつむるという犠牲」が生じる中で新しい流れが生ま れ,「経済学も,その主流において,スミスが課した 問題─人間本性に関する幅広い研究の上に経済学を 確立するという問題─に再び正面から取り組みつつ あると言える」(31 頁),というのが一応の結論であ る。  堂目の,TMS を基盤に据えて WN:経済の世界を 理解することが必要であるという主張は,同『アダ ム・スミス:『道徳感情論』と『国富論』の世界』(中 公新書 1936,2008 年)に遡る。本書は,功利主義 (最大多数の最大幸福)とは異なる経済学の思想的基 盤を,ロールズの正義論やセンの経済倫理学に依拠し つつ,脳科学(ミラーニューロン,セオリー・オブ・ マインド)や行動経済学などとの連携を求めて探求し た成果である。その結論としてスミスの特徴を,社会

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的存在としての人間,人と人をつなぐ富,自由で公正 な市場経済の構築,なすべきことと,そうでないこと を見分けること,を強調した点に求める。  本書の構成(目次)で重要なのは,第 II 部「『国富 論』の世界」の検討は第 I 部「『道徳感情論』の世界」 の考察にもとづいてなされることである(iii 頁)。そ のことによってスミスの 2 つの著作の全体的な論理関 係について,社会の秩序と繁栄に関する論理一貫した 1 つの思想体系として再構築することが可能となり, あわせて人間に対する彼の理解の深さ,洞察の鋭さ, 現代的意義を考えることができるとした。  本書の評価は大変に高く,15)経済学と人間という テーマは日本経済学会の記念事業に組み込まれるまで に至る。同学会編『日本経済学会 75 年史:回顧と展 望』(有斐閣,2010 年)において,学史的考察から今 後の経済学のあり方を展望するという特集が組まれ, 第 IV 部:展望編 2「経済学の基礎としての人間研究: 学史的考察」が収録された。特集企画の経緯のなかで, 堂目がキーパーソンであることが示されている。彼は 同じテーマで報告し(第 9 章),おおむね賛成の 3 人, 反対の 1 人がコメントを寄せている(第 10 〜 13 章)。  第 1 節「経済学と人間研究の関係」で,経済学は理 論と政策の 2 領域からなる,事実と理論だけで政策目 標を設定することはできない,目標設定には人間研究 が必要で,個人の規範原理とそれに影響され,特定さ れた立法者の規範原理の解明が不可避であるとする。 「経済学は,政策の領域においてはもちろん,理論の 領域においても,人間研究から独立ではありえないの である。」(369 頁)  こうした主張が正しいことを,イギリス古典派経済 学者の人間研究の歴史,人間研究にもとづいた経済学 の構想の歴史として検証する。2 節で人間研究の提唱 者としてヒューム,3 節で人間研究にもとづいた経済 学の樹立者としてスミス,4 節でベンサム,J.S. ミル, マーシャル,ケインズ,ロビンズが取り上げられる。

Ⅴ.新しい経済学へ:

様々なスミス像の「共存」に向けて

 堂目のスミスに依拠する経済学の人間化の試みは, 人間学研究において,経済学における変化として注目 されている。「ヒトは完全情報下で完全に合理的に振 る舞う意思決定者」であるという仮説のもとで覇権を 確立した現代の経済学にあって,人間が意思決定する 基盤を研究する経済学がつくられつつあり,これは, 「1 つの学問が持っていた概念の範囲を越えて他の分 野の手法や成果を取り入れて新たな地平が広がって いった」好例である(長谷川眞理子「人間の統合的理 解の行方」(進化的人間考 15:最終回)東京大学出版 会『UP』479,2012 年 9 月,2 頁)。  スミスの研究関心は,少なくとも出発点は「人間精 神の一般原理」の解明にあり,「人間の科学」,人間本 性の研究(ヒューム)は,時代の関心でもあった。そ の抽象的な性格(TMS VII,iii,2.5. 水田洋訳,岩波文庫, 下 344-345 頁)を克服し,一歩先に進めるべく,彼は 「道徳感情」に焦点を絞り,称賛に値する人間の性格 の基本をなす徳の性質と人間の精神が推奨(ないし抑 制)する行動の原理の解明の 2 つの課題を提示した (TMS VII.i.2. 下 220-221 頁)。  スミスは『道徳感情論』を,人間の道徳的な判断は 芸術の美的な判断と共通に,両方ともに 2 つの評価基 準,理念的基準と実践的基準が併存することを指摘し て始めている(TMS I.i.5.10. 上 67-68 頁)ことに注目 すべきである。16)人間の精神活動と諸芸術の密接な関 係の説明が彼の特徴であるならば,文化経済学におけ るスミス研究は 1 つの要になると思われる。こうした 観点から,スミス研究の継続が重要であると思われる。 各方面からスミスへの関心がさらに高まり,総合的, 調和的にスミス像を彫刻する作業が求められているの であろう。 註 1) これは,後に,「わずかに加筆」して,同『アダム・スミ ス:自由主義とは何か』講談社学術文庫 1280,1997 年に, 「おわりに」として収録された。241 頁,参照。 2) 当時の議論の一端として,中谷武雄「アダム・スミス: 分業の経済学者」経済学教育学会編『経済学ガイドブッ ク』青木書店,1993 年,同「アダム・スミスと現代」山 﨑怜編『現代の財政:新自由主義の帰趨』昭和堂,1996 年,第 2 章他を参照。 3) 「ただ,スミスは知られているようで知られていない面が あること,また,スミスをよく知る人とそうでない人と の間にはかなり大きなギャップがあり,スミス研究が深 まれば深まるほどに大きくなるという逆説に気づかされ たのも事実である。スミス研究を深化させるのみならず, そのようなギャップを埋める努力をすることも課題であ ろう。」中村浩爾「巻頭言:総合的視野の中のアダム・ス ミス」基礎経済科学研究所『経済科学通信』129,2012 年 8 月,58 頁。同誌には,中谷武雄「アダム・スミスにお ける芸術と社会」も収録されている。併せて参照された い。 4) 大島幸治・佐藤有史「海外アダム・スミス研究の動向: 人文諸科学におけるその興隆と「アダム・スミス問題」 の復活を中心に」経済学史学会『経済学史研究』52-1, 2010 年 7 月。経済学史学会は約 10 年の周期でスミス研究 のサーベイを行っている。 5) 中谷武雄「経済学の父はだれか」新日本出版社『経済』 241,1984 年 5 月を参照。

(7)

6) ラフィル『アダム・スミスの道徳哲学:公平な観察者』 生越利昭・松本哲人訳,昭和堂,2009 年(Raphael, David Daiches, The Impartial Spectator: Adam Smith’s Moral Philosophy, Oxford University Press, 2007)5 頁。 7) 山﨑怜『アダム・スミス』イギリス思想叢書 6,研究社, 2005 年,69 頁の,「スミスの研究と業績の特徴は法学研 究にあり,彼は法学研究者として一生を送った」という 指摘には,耳を傾けるべきである。  次も参照。「スミスの処女作『道徳感情論』は,シンパ シー原理に基づく倫理学の確立による法学方法原理の構 築を意図したものであった。『国富論』がその原理に基づ く法学の 1 部として展開され,『道徳感情論』の 6 版の序 文で残された「法学」そのものの展開を意図している旨 を告白していることは周知の事実である。/法学こそが スミスの終生の基本(中心)主題で,……」田中正司『ア ダム・スミスの認識論管見』社会評論社,2013 年,47 頁。 8) 最近の第 3 段階に入ったと言われる新しいスミス問題は, WN で具体的に TMS に 1 度も言及がない,人間行動にお ける仁愛の要素,公平な観察者,人間欲望について同感 を求めるという言及,「正義,仁愛,慎慮,自己規制とい う人間の徳」におけるバランスの重要性など,TMS で人 間の行動原理としてスミスが強調した特徴が WN には顔 を出さず,両者の関連を読み解く言及が薄弱である,と 提議されている。Cf., Otteson, J.R., Adam Smith’s Market︲ place of Life, Cambridge University Press, Cambridge, 2002, pp.156-157. 大島ほか,前出,77 頁での要約による。 9) 大内(191 頁)は,モリスがスミスなどの負の効用として の労働観を批判していると,以下を引用する。「ほとんど すべての近代の経済学者(歴史を研究するものは少ない し,決して芸術は研究しない)は,目の前に何が進行し ているかを判断するだけで,労働は一般的に嫌いなもの として前提されているし,ここから必然的に怠け者の多 数には絶えざる強制が機能しなければならないと前提さ れた」(モリス/バックス『社会主義:その成長および成 果』1893 年)。 10) 新村聡「アダム・スミスの社会的自由主義:金融規制政 策と所得再分配政策を中心にして」『経済科学通信』129, 前出も併せて参照。 11) こうした状況の一端について,以下の書評も参照。「著者 のアダム・スミス解釈には,誤解または不十分な理解と 思われる点が少なくない。とりわけスミスの倫理思想に ついては根本的な誤解がある。著者はスミスの『道徳感 情論』に 1 度も言及していないが,読んでいないかまた は読んでも十分に理解できなかったのではないかと思わ れる。とくに大きな問題は,スミスの利己心論への批判 である」新村聡「書評『アダム・スミスの誤謬:経済神 学への手引き』ダンカン・K・フォーリー著/亀﨑澄夫・ 佐藤滋正・中川栄治訳,ナカニシヤ書店,2011 年」経済 理論学会『経済理論』49-3,2012 年 10 月,103 頁。 12) 経済学における理論離れ,歴史離れのダブルパンチは, 経済学史学会における後継者養成,講座やポストの確保, 継承が危ぶまれているという危機意識をうかがわせる。 13) スミス・ルネサンスは頷けるにしても,「現代社会の問題 点との接点」を探ることを重視する経済理論,学説史研 究において,マルクス関連の章がなく,索引での言及が 少なく,『資本論』が収録されていない状況は,やや奇異 に感じられる。 14) 厚生哲学と自由放任の関係もまた説明が必要であろう。 因みに,井上が引く福田の典拠を示す。「消費はすべての 生産の唯一の目標であり目的であって,生産者の利益は, それが消費者の利益を促進するのに必要である限りでの み留意されるべきである。この命題は完全に自明であり, それを証明しようと試みるのはばかげているだろう。と ころが重商主義では,消費者の利益はほとんど常に生産 者の利益の犠牲にされており,消費でなく生産がすべて の産業や商業の究極的な目標であり,目的だと考えてい るように思われる」(WN IV.viii.49. 水田洋監訳,岩波文 庫,2000 年,Ⅲ-296 頁)。富の生産か消費か,分業か流 通(貿易)か,スミス経済学の基本に関わる問題である。 15) スミス研究ないし経済学史学会では,本書は概説書とい う評価もある。渡辺恵一「アダム・スミス研究の動向: 過去 10 年における内外の『国富論』研究を中心に」(『経 済学史研究』53-1,2011 年 7 月,113 頁,注 23)。これは, 本書は本格的な研究書ではなくてその他として注で扱う, という位置づけである。 16) 中谷武雄「アダム・スミスにおける芸術と社会」前掲, を参照されたい。 付記  小論は,経済教育学会第 28 回大会(2012 年 9 月 30 日,明治 大学)第 1 分科会:経済学と経済教育,での報告にもとづく。 参加者のコメントと議論に感謝します。また小論は,日本学術 振興会アジア研究教育拠点事業「人間の持続的発達に関する経 済学的研究」の支援を受けている。

参照

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