小諸城の歴史的役割と城郭のCG復元
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(2) 図4 小諸城絵図面. 戦と言われる第二次上田合戦では、徳川秀忠率いる徳川主力部 隊が3万8千の軍勢を率いて小諸城に本陣を置いた。歴史の舞台 となった城である。関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、小諸城を 重要視し、歴代城主に徳川譜代の大名を配置した。徳川氏、松 平氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、石川(松平)氏と続き、元禄 15年(1702)牧野康重の入城以来10代166年間牧野氏が治め、 明治維新を迎えた。城郭は戦闘的でなく、大名の居館としての整 備はなされたが、幕府の政策により天守閣は再建されなかった。. 3.小諸城の特徴 浅間の麓に広がる小諸は坂の街である。この斜面から千曲川. 図5 空堀. に向かって形成された田切地形と呼ばれる多くの谷と、千曲川 の浸食による河岸段丘を巧みに利用して築かれた小諸城は、城 の形態は平山城であるが、空堀と呼ばれる水の無い堀を有し、 石垣は自然石を巧みに積み上げた野面積みで、城下町より低い 場所に位置するため、全国唯一と言われる通称「穴城」と呼ば れる城である。 ⑴ 位 置 活火山浅間山の南西の斜面、千曲川の断崖上に位置する平 山城。 ⑵ 穴 城 平山城に類するが、城下町より低い場所に位置し全国的に. 図6 天守閣跡. も珍しいとされている。. このように自然を巧みに利用した城は廃藩後も多くの人々に. ⑶ 空 堀. よって守られ、明治以後の近代化により多くの城郭は失われた. 天然の田切地形を巧みに利用した南北12の谷を擁し(図. が、三の門、大手門などは幸いにして残され、当時を偲ぶこと. 5)、人工の堀切を組み合わせた要害堅固な城である。. が出来る。. ⑷ 野面積みの石垣(図6). 小諸城の縄張りは、北北東から南南西にわたる一直線の中心. 天然の石を加工せず積み上げた石垣で、安土城の石垣を築. 線上に三の丸、二の丸、本丸が配置されている。城内へは大手. いた「穴太衆」と呼ばれる石工の職人が築いたとされる。. 木戸口から浄斎坂を下って大手門(四の門)に入り、鹿島曲輪. 苔むした石垣が醸し出す風情は、小諸城を訪れる多くの人. を右に折れ、さらに西に進むと三の門に達する。三の門から二. たちに感動を与えている。. の丸へは水矢倉を右に回り平子田坂とよばれる急坂を上がると デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.24-3 No.95 2017. 13.
(3) 二の門に到る。さらに二の丸と本丸の間に、南の丸、北の丸を. 歴史的背景となっている上田合戦(第一次、第二次)の重要な. 左右に配置させてある。. 城として登場している。二度にわたる徳川軍の敗退が真田氏の. しかもこの部分は枡形になっているので敵の直進が避けられ. 名を確たるものとなった戦いでもあった。現在存在している文. るように仕組まれている。さらにその間に中仕切門があり、空. 献でも明らかになってきている。そして両合戦とも徳川軍は小. 堀にかけられた取り外し自由の算盤橋(黒門橋)を渡ると黒門. 諸城を本陣とした。. (一の門)。そこから石垣に添って左に曲がり、さらに右に曲が ると本丸となっている。. 第一次上田合戦(天正13年─1585)の徳川方の史料である 「大三川志」によると、徳川軍は真田軍に対して予想以上の苦. 明治6年藩主の内願によって旧城地(三の門以内)は旧藩士. 戦をしたこと、家康は援軍を小諸城に送ったこと、そして重臣. に払い下げられ、同13年公園として「懐古園」と名付け現在. 石川数正が豊臣方に寝返ったことが撤退の原因になったことな. に至っている。本丸跡に懐古神社(図7)を建立し旧藩主・天. どが記述されている。. 神・荒神を合祀した。菅原道真公を祭神としている関係で、多. 第二次上田合戦(慶長5年─1600)は関ヶ原合戦前の最大の. くの受験生が合格祈願に訪れている。城地の主要部分は国宝犬. 局地戦と言われている。徳川秀忠率いる徳川本隊軍が真田仕置. 山城と同様、個人(宗教法人)所有となっている。. きの為とはっきりした目的を以て東山道(中山道)を進み、小諸. 城址公園となった小諸城には多くの文人墨客・芸術家が訪れ. 城に本陣を置いた。小諸城が歴史の舞台となった時である。小. た。島崎藤村(図8)、若山牧水、高濱虚子、伊東深水などで. 諸にはその時の状況を示すものが多く存在している。秀忠公の. ある。その人々の影響が当地の文化的素性のもととなった。. 書状、本陣を置いた小諸城二の丸(図9) 、座ったと伝わる「憩 い石」 (図10) 、そして城下の海應院には秀忠公から下賜された. 4.「真田丸」ゆかりの小諸城と一次・二次上田合戦. 「葵御紋章団扇、高麗焼茶碗、下馬札」などが保存されている。. 小諸城は、平成28年の NHK 大河ドラマ「真田丸」に関して. 14. 図7 懐古神社. 図9 二の丸跡. 図8 島崎藤村詩碑. 図10 徳川秀忠公憩石. デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.24-3 No.95 2017.
(4) 5.小諸城郭絵図 小諸城 CG 復元の史料となった「小諸城郭絵図」は小諸市指 定文化財として保存されている。この城郭絵図は江戸時代宝暦 年間(1751∼1763)甲良門葉大匠棟梁 石倉芳隣が作図し たもので、石倉家より小諸市に寄贈されたものである。 石倉家は4代源七郎穂積重就より13代才次郎まで小諸城の 大工棟梁として建築技術の業を続けた。7代源七郎芳隣は江戸 城作事方甲良氏に学び、徳川直系の棟梁として小諸城にてその 任を果たした。歴代中最も活躍した人物と言われている。 石倉家の菩提寺は小諸市田町の実大寺である。. 6.徳川幕府成立と小諸城 関ヶ原合戦に向かう徳川秀忠軍を苦しめた第二次上田合戦と. 図11 喜内(家光公)様・お福(春日の局)様木像(小諸徴古館所蔵). 大阪冬・夏の陣で真田氏が活躍した戦乱も終わり徳川の時代と なった。徳川政権にとって戦略的にも地理的にも重要とされた 小諸は、徳川譜代(家康の出身地三河以来の家臣達)の城主が 治めた。その為小諸には徳川家との関係をしめす多くのものが 残されている。 元和8年(1622)秀忠の三男徳川駿河大納言忠長が知行高 6万石で城代を置いて治めた。因みに弟の保科正之は高遠城主 で後の会津松平家の祖となった。 寛永元年(1624)美濃大垣より入封した松平因幡守憲良は、 曾祖母にあたる家康生母「お大の方」の菩提寺として光岳寺を建 立し位牌を安置した。山門は小諸城内足柄門が移築されている。 本堂大屋根には徳川・松平・牧野三家の家紋が掲げられてい る。憲良の舎兄忠節は小県禰津に5千石を分地され、小諸城の 屋敷は禰津曲輪として今も地名が残っている。 以後、城主は青山氏・酒井氏・西尾氏・石川(松平)氏そし て牧野氏と続き、領内の新田開発や城下の整備・城郭の改修等 に努め、仙石氏以後の領内及び城郭の整備を行っている。 元禄15年(1702)越後(新潟県)与板より入封した牧野康 重は、5代将軍徳川綱吉と従兄弟の関係にあることから幼い時. 図12 牧野康哉公遺徳碑. から将軍家に出入りを許されていた。綱吉の生母桂昌院は、3 代将軍家光より「綱吉養育の鑑とするように」と贈られた「喜 内様とお福様」 (図11)の木像を、甥である康重が小諸に移封の 折に下賜した。喜内様とは家光の大奥での呼名でお福様とは春 日の局のことで、時の名工左甚五郎作と言われ、牧野家の家宝 として代々引き継がれ、現在徴古館に展示され公開されている。 三の門の「懐古園」の扁額、及び三の門左側花見櫓跡にある 「牧野康哉公遺徳碑」(図12)の篆額は徳川家達(宗家16代) の書である。又、徳川家と共に旗本・御家人(幕臣)との親交 もあり、本丸内にある「懐古園の碑」(図13)及び「佐々木如 水先生碑」は幕末三舟と言われる勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟 の書による石碑で、静かに昔を伝えている。. 図13 懐古園の碑 本丸内. デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.24-3 No.95 2017. 15.
(5) 歴代城主は幕府要職である若年寄・日光祭礼奉行・大阪城. 領民を救いたいと先ず自分の二人の息女に接種してその効果を. 代・奏者番・大阪城御加番などを務め、徳川幕府を支えた。. 示し、続いて家臣とその家族に施し嘉永5年(1852)領内強制 種痘を実施し、領民2万4千人(明治4年迄)に施し天然痘の. 7.種痘を奨励した殿様─2万4千人の領民を天然痘から 救った─. 流行を未然に防止した。当時俳人で教育家でもあった小林. 古. はその著書「きりもぐさ」で城下脇本陣が種痘宿となったこと. 江戸幕府成立後は徳川譜代大名7家が17代247年間小諸を. など記している。. 治めた。しかし江戸時代後期は全国的に異常気象・天変地異. 幕府要職・領内改革など激務のなか文久3年(1863)6月. などで疲弊した世相の中、公儀(幕府)及び諸侯(諸藩)は. 13日江戸上屋敷にて46歳の生涯を閉じた。. その対策の為に種々の政策を講じ、民生安定のために努力を していた。小諸藩においても同様厳しい財政難の中、天保3年. 8.小諸城3DCG 復元への思い. (1832)9月「幕末の名君」と言われた小諸牧野家9代の家. 前述の通り小諸城の歴史は古く、城地内は当時の様子をとど. 督を相続した牧野康哉は翌年の天保4年(1833)6月21日江. めている貴重な城のひとつである。廃藩置県により大半の城郭. 戸上屋敷を立ち、25日小諸に初入部した。16歳の若き城主で. はことごとく廃棄され、建物はほとんどが存在しない状況の中. ある。直ちに御用部屋に重臣たちを呼び、領内の状況をつぶさ. で、小諸城は三の門、大手門及び寺院などに移築された城門等. に報告させ、自らも領内を巡察した。そして深く民力の疲弊の. が現存している。その上、宝暦3年(1753)に当時の城郭を. 兆しがあることを察知し、回復の志を立てた。子育て、養老、. 詳細に作図された城郭絵図か残されていた。作図した石倉芳隣. 産業振興、農地開墾、学問・武術の奨励、そして地域医療な. の子孫の方が小諸市に寄贈され、小諸市の重要文化財として保. どである。同姓笠間(茨城県)城主牧野貞幹の2男として文政. 存されている。所有する小諸市教育委員会の協力を頂き、この. 元年(1818)11月17日、日比谷上屋敷で生まれた。幼名は. 貴重な絵図をもとに当時の建物を3DCG で再現するためのプロ. 修橘。幼児から資性明達といわれ、笠間藩の中興の英主として. ジェクトが進行中です。小諸城を内外に紹介し、子供達が歴史. 「寛政改革」を断行し、藩の再建に取り組んだ祖父貞喜の影響. を学ぶ教材として、又小諸を訪れる観光客などにも役立てるも. を受けて育った。そして小諸8代牧野康命の養子となった。そ. のとしての精度も高めていく方針です。この画期的なプロジェ. の後、日光祭礼奉行・奏者番・若年寄など幕府要職を勤め、安. クトを完成させるため、関係各位のご支援、ご協力を頂きなが. 政年中、大老井伊直弼のもとで幕政に参与し、直弼の「懐刀」. ら進めて参ります。. と言われた。 嘉永2年(1849)シーボルトに師事した伊東玄朴らによっ. 9.おわりに. て日本にもたらされた牛痘による種痘法(図14)を、翌嘉永. 「地域の誇りを取り戻す」「文化財の大切さを未来の子供たち. 3年藩医林甫三・川口自仙・佐野静十郎らを医師桑田立斎のも. に伝える」この思いは長野大学の先生と学生さんたち、一般社. とに派遣しその術を学ばせた。. 団法人小諸フィルムコミッションの共通の思いです。. 当時領民は勿論、身分や知識人を問わず種痘を素直に受け入. この画期的なプロジェクトの成功が地域発展に貢献できるこ. れることはなかった。しかし康哉公は悲惨な天然痘から何とか. とを確信している。 そして産・学・官の協働により地域文化に光り輝くデザイン が求められる時となった。. 図14 種痘奨励額(小諸徴古館所蔵). 16. デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.24-3 No.95 2017.
(6) ─日本の城 100選─. 小諸城址懐古園 桜と紅葉 桜と紅葉の季節には多くの観光客が訪れている。. デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.24-3 No.95 2017. 17.
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