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同 ー ー ガ ン ダ lラに於ける東西文化の融合||
高 橋 発 昭 私はガンダ i ラの仏塔を尋ね歩いている。そして、そこで知ったことは、ガ γ ダ l ラからスワット、そしてアフガ ︽ 1 ︾ ニスタンに、法華経の﹁高さ五百由旬、縦広二百五十由旬﹂の背の高い塔が分布していることである。 ︵ 後 述 分 布 図 参 照 ﹀ 更に叉、法華経の後半に説かれているチャイトヤ堂の如きものが、やはりガ γ ダ l ラから西に多数残っている。チ ャイトヤはスト h y − − ハ ︵後に仏像﹀を中に収めた洞堂である。こうしたものがイ γ ドの西にかたよって分布している のは一体どうしたわけかと常々思いながら歩いている。この小論はその疑問についての考究、否それへの試論とも言 え よ う 。。
仏の寿命の久遠長久と法の常住を示すため、宝塔が大地から涌現する荘大なドラマが法華経の中に展開する。然し 五 分 律 、 律、根本説一切有部毘奈耶、そして叉鼻那耶にも部分的に示されているからである。勿論これらの文章は多少異って て、塔が﹁大地から涌現﹂する同じような表現は、他にもあることがわかった。即ち、 四 分 律 、 摩詞僧紙 はいるが、大よその筋は似ていて、こうした話が共通に流布されていたことを物語っている。 従 地 涌 出 ︵ 高 橋 ﹀従 地 涌 出 ︿ 高 橋 ﹀ そ の 話 の 筋 道 を 略 述 す る と 、
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、 摩 詞 僧 紙 一 律 巻 三 十 二 一 一 ﹁ 釈 尊 が 拘 薩 羅 固 に 遊 行 し て い る と 、 バ ラ モ ン が 畑 を 耕 し て い た 。 世 尊 を 見 て 農 具 を 地 に突き立てて礼拝した。世尊はこれを見て、にっこりほほえまれた。比丘達は何の因縁でほほえまれたのかと不審に 思った。これに答えて世尊は比丘に告げられた。 ﹁彼は二世尊を拝したからだ﹂と。更に﹁二世尊とは﹂という疑問 に 位 回 え 、 ﹁ バ ラ モ γ のつき立てた杖の下には迦薬仏の塔がある。このパラモ γ から土塊をもらって供えよ﹂といわれ た。皆が世噂の言われた通りにすると、世尊は﹁高さ一由旬、面広半由延﹂の迦禁仏の七宝の塔をその大地から現出 さ せ た と あ る 。 即 ち 、 仏住拘薩羅園遊行。時有婆羅門耕地。見世尊行過。持牛杖住地礼仏。世尊見己使発微笑。諸比丘白仏。何因縁笑。 唯願欲問。仏告諸比丘。是婆羅門今礼二世尊。諸比丘白仏言。何等二仏。仏告比丘礼我当共杖下有迦葉仏塔。諸比 丘白仏。願見迦薬仏塔。仏告比丘。汝従此婆羅門。索土塊井是地。諸比丘即便索之。時婆羅門便与之。得己爾時世 尊即現出迦葉仏七宝塔。高一由旬。面広半由延。婆羅門見己即便白仏言。世尊。我姓迦葉。是我迦葉塔。爾時世尊 即於彼処作迦葉仏塔。諸比丘白仏言。世尊。我得授泥不。仏言得授。即時説侮言 真金百千抱 持用行布施 不如一団泥 敬心治仏塔 爾 時 世 尊 自 起 迦 薬 仏 塔 。 下 基 四 方 周 匠 欄 楯 一 円 起 二 重 方 牙 四 出 一 。 上 施 柴 蓋 長 表 輸 相 。 仏 言 。 作 塔 法 応 如 是 。 塔 成 巴 世 尊敬過去仏故。使自作礼。諸比丘白仏言。世尊我等得作礼不。仏言得即説侮言 不如一善心 繭時世人間世尊作帯。持香華来奉世尊。世尊恭敬過去仏故。即受華香持供養塔。諸比丘白仏言。我等得供養不。 人等百千金 持用行布施 恭敬礼仏搭仏言得。即説侮言 百千車真金 持用行布施 不如一善心 華香供養塔 百千閤浮提 繭時大衆雲集。仏告舎利弗。汝為諸人説法。仏即説侮言 不知一法施 随順令修行 満中真金施 百千世界中 繭時坐中有得道者。仏即説侮言 満中真金施 不如一法施 随順見真諦 筆 者 ﹀ 又、なぜ泥のかたまりかと言えば、経文の傍線の如く、百千の黄金より、 ︵ 傍 線 一にぎりの泥を供える方がよほど功徳が あり、又一善心、即ちまごころで仏塔を拝み、華や香を供養し、法を一諦観する方がいいという。 この一にぎりの泥の供養に関しては、
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、四分律第五十二に 設 以 コ 百 千 嬰 瑞 − 設 以 = 金 百 千 摺 − 設 以 = 金 百 千 指 − 設 以 − − 金 百 千 抱 − 設 以 = 金 百 千 壁 − 設 以 − − 金 百 千 巌 − 従 地 涌 出 ハ 高 橋 ﹀ 皆是閥浮檀金 皆是閣浮檀金 皆是閤浮檀金 皆是閤浮檀金 皆是閤浮檀金 皆是閥浮檀金 不 ν如 τ以二樽泥− 不 レ 如 下 以 二 樽 泥 − 不 レ 如 下 以 三 樽 泥 − 不 レ 如 下 以 二 樽 泥 − 不 レ 如 下 以 三 樽 泥 − 不 ν如 下 以 三 縛 泥 − 為 レ 仏 起 ν 塔 勝 よ 為 ν仏 起 レ 塔 勝 主 為 レ 仏 起 レ 塔 勝 h 為 レ 仏 起 レ 塔 勝 よ 為 レ 仏 起 ν 塔 勝 主 為 レ 仏 起 レ 塔 勝 よ従 地 涌 出 ハ 高 橋 ︶ 設 以 = 金 百 千 山 一 皆是閲浮檀金 不 ν如 下 以 三 持 泥 − 為 ν 仏 起 レ 塔 勝 占 ハ 傍 線 筆 者 ﹀
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、 弥 沙 塞 和 随 五 分 律 巻 二 十 占 勺 ︾ 彼迦葉仏般泥垣後。其王為仏起金銀塔。縦広半由旬高一由旬累金銀撃一一相問。今猶在地中。仏即出塔示諸四 衆。迦葉仏全身舎利倣然如本仏因此事取一縛泥。而説侮言 D 説 切 有 昆 奈 耶 薬 百 事 千 巻 金 十 宝 二τ
利 難得閤浮檀 不如一団泥 為仏起塔廟 ハ 傍 線 筆 者 ︶ 不如有人一浄心 是時復有一郎波索迦。持泥置於舎利隠処。世尊為彼。亦説伽他国 仮令百千贈部金 積環奉持施一切 麹勤右遺於仏塔 仮 令 百 千 贈 部 金 恒 以 奉 持 施 一 切 不 如 有 人 一 浄 心 持 泥 置 飾 於 仏 塔 是時有百千人衆。閲此施泥福利。威持泥置。或有将諸徴妙花番。而散其中。仏亦為説煩日 不如有人一浄心 時有諸人。持諸花霊灯明。憧幡傘蓋。供養是処。以清浄心。而来奉施。仏知心己。各為説煩。世尊叉説伽他国 正覚覚猶如大海劫無上導首最為勝 仮令百千贈部金 恒以奉持施一切 香花供養於仏塔 我今所説施福田 如来功徳無辺量 ︵ 傍 線 筆 者 ﹀ とあって、ほぼ同じ考え方がよみとれる。即ち、仏塔が大地から涌現する時には、人々は百千の黄金より、まごこ ろをもって供養することが第一条件で、その方がずっと功徳がある。ましてや花や薫香をもって供養すれば:::と。恰も法華経の受持説読解説書写の﹁信﹂を供養するという立場に通ずる。 従って、このような思想が諸品に共通して存在することは、当時の仏教信仰が、荘大な仏塔を供養する有産階級か ら、仏塔を奉献したくても出来ない庶民に普及浸透していった姿、即ち仏教が庶民化内面化の様相を呈して来たこと を如実に示していると私は考える。シルクロードの通商で巨利を博した国王や商人達が、現在ガ γ ダ l ラの山々に残 っているような巨大な僧院や塔を寄附していた。彼等にとっては、それが社会的ステータスを誇示することであり、 その富の消費の道であった。且つ又、それによってクシヤ γ の社会が活性化した要因でもあった。然し一般の庶民に とっては、たとえ小さな奉献塔一つの建立もままならぬ状況であった。故に、 円 6 V る:::﹂という法華経方便品の表現の如く﹁物から心﹂﹁信施﹂を最大とする社会的要請も生じたのであろう。 然らば、この時代はいつ頃であろうか。摩詞僧紙律巻三十二の前掲経文に続いて、 ﹁童子の戯れに砂を褒めて仏塔を造 爾時婆羅門得不壊信。即於塔前飯仏及僧。時波斯匿王閲世尊造迦葉仏塔。即勅載七百車簿来詣仏所。頭面礼足白仏 言。世尊。我欲広作此塔為得不。仏言得。仏告大王。過去世時。迦葉仏般泥垣時。有玉名古利。欲作七宝塔。時有 臣白王言。未来世当有非法人出。当破此塔得重罪。唯願王当以噂作金銀覆上。若取金銀者塔故在得全。王即如臣言 以簿作。金簿覆上。高一由延。面広半由延。銅作欄楯。経七年七月七日乃成。作成己香華供養及比丘僧。波斯匿王 白仏言。彼王福徳多有珍宝。我今当作不及彼王。即使作経七月七日乃成。成己供養仏比丘僧。作塔法者。下基四方 是 周 名 匝 塔 欄 法 楯 0 0
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﹂ をつけた所が興味をひく。即ち﹁僧院より塔の方が高く﹂なっ た時代がここに示されていると思われるからである。 即ち、もともとは僧は舎利供養にかかずらなかった。大般浬 柴経の釈尊の遺言があるからである。従って僧院に塔はなかっ た。然しながら、プ般大衆の塔への崇敬が隆盛になって来ると いつしか僧院にも仏塔が造立されるに至った。然し下図の如く 僧院の一段下に、然も町から参詣する一般の信者が僧院生活を 妨げないよう、僧院の手前に作られるようになった。この代表 ︽ 8 v 的な例がタキシラのカラワンやギリである。 従 地 涌 出 ハ 高 橋 ﹀ 高 カ ラ ヮ γ従 地 涌 出 ハ 高 橋 ﹀ ジャマールガリ タフト・イーパーヒー僧院観現図〈原図カラチ博〉
大 の 寺 、 やがてこの位置が逆転するに至る。前頁のジャマ l ルガりのように塔が山頂に建てられるに至るし、ガ γ ダ l ラ 最 ︽ g v タフト・イ・バlイのように旧塔院は僧院と同じ高さにあった︿現在の奉献塔の広場︶が、やがてこれより 一段高い所に大塔が建てられ、まわりは大きなチャイトヤでかこまれるようになった。即ち、二十五頁最後の傍線の 塔の水が僧院に流れるということである。 円 m w v ︽ u v ジャマlルガリからは法蔵部、タフト・イ・パlイからは飲光部の碑銘が出土しているから、小乗仏教はこの時代 に﹁仏塔教団﹂として隆盛を誇っていたことになる。従って、現在もガ γ ダ l ラの山々を覆うように作られている仏 教遺跡は小乗に属するものであったことが推量されるから、如何に当時の小乗仏教が、大きな経済力をもった国王商 人達をスポンサーとしていたかが想像できる。これは静谷目録一七四五のカラワン出土鋼板銘文ハ長者﹀静谷目録一 七六二のマトウラ出土獅子柱頭銘文︿王族﹀等多数の銘文がこれを物語っている。 それなるが故に、これに反漉した庶民は、泥団子一つでも、即ち﹁まごころ﹂、 ﹁信﹂を捧げるという信仰を、そ の対極として発展させて行ったであろうことは容易に推測出来る。 この一つが大乗仏教として別派を作って行った が、小乗の中にもこうした庶民信仰への共感が起って行った。これは新興の大乗が小乗の中に影響を与えたかどうか は浅学の私には分らない。然し、こうした話が各部派の伝持していた律の中にあるということは、小乗自体が自己反 省して来た、否自己反省をせざるを得ぬ当時の時代相を示すものだと考える。 律は何か事が起ると、その都度長老達が集まって規律が﹁釈尊の名のもとに﹂つけ加えられ、その因縁・理論付け をしたものなるが故にカユシカ大塔の出来た頃に、法華経等と共に、小乗自体の中に共通な庶民信仰が流布していた ことを示す興味ある資料だと私は思っている。強いて言えば、小乗仏教の中に、最早、大乗的な考え方が現われてい 従 地 漏 出 ハ 高 橋 ﹀
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たと言えよう。この時代がカュシカからフヴィジカの時代、即ち二、三世紀から四世紀であろう。。
十キロ程にあるマンキャラの大塔と、 タキシラ最大の塔ダルマラlジカの大塔は、 サ γ チ l 等のインドの仏塔とガ γ ダ l ラのそれとは、私には本質的に遣うように思える。たしかにタキシラ東方二 サンチl型の塔である。イ γ ド型 ︵然してマンキャラの大壊は同じ土銀頭のインド型ではあるが、本質的に異るものをもって の塔はここ止りである。 いると私は考える。このことは後述する﹀ 然して、前述の如 く、法華経や摩詞僧 祇律・五分律の如き ﹁ 高 さ 五 百 由 旬 縦 横 A現存の塔 二 百 五 十 由 旬 ﹂ 、 ﹁ 高 一 由 延 面 広 半 由 延 ﹂ 、 ﹁ 従 広 半 由 旬 、 高 一 由 旬 ﹂ の 2 対 1 の 細 長いものを列記する とA
、主塔が現存するもの 0 1 、タキシラ パラ l 塔 2 、ガ YFl ラ現存せざるも玄業時代に存在したシヤジキデリ l 大塔 ア ド プ ’ 3 、 ス ワ ッ ト タ l ナの塔・シャンカルダル塔・過部部多の石塔ハ現存﹀ B 、主塔はなくなっているが現存の奉献塔のある所 ー 、 タ キ シ ラ ジ ャ ウ リ ア γ
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、チャイトヤとしては ー、タキシラ 従 地 涌 出 ハ 高 橋 ﹀従 地 涌 出 ︵ 高 橋 ﹀ 品紗考車中献悠図示 1 B-1 ・−ンノレカップ . ?ナ ーラ B-3 ・シ ル カ ッ プ B- 2 ・カラワユノ B-4 ・9フト〆ミイ ・ピツJミラ .ジ十マーノレガリー ・タフト.イ.パーイ ・ローリ十ソタンカ’イ .プトカラ阻 ・ハイターパ . −"£.−ラモラ ドウ B-5 ・ジ 十 ウ リ ア ソ .ハ ツ グ
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ニモグラム 参 考 図 示 2 チャイトヤ堂 従 地 涌 出 ハ 高 橋 ﹀ ス ト ヮ I パ及チャイトヤ分布図その 品 2 ・ ン ヲ。
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ストゥーパ及チャイトヤ 分布図その2 従 地 涌 出 ハ 高 橋 ﹀更にこれらの分布図を示すと前頁のその一とそのこの如くなる、 ︿地図上の名前の次の番号は参考図 1 、 2 の 塔 の 類型を示している﹀ かく、私が長年にわたって調べて来た遺跡から 2 対 1 の背の高い塔はタキシラ以西、ガンダ l ラ 、 ス ワ ッ ト ・ ア フ ガユスタン、即ち広儀のガンダ l ラ、所調クシャンの勢力闘の中であることがわかる。 そこはクシャンのコインでも分るように西方の思想が流入していた所である。例えばカユシカのコインの約三分の こは西アジア・ベルシャの神々であることは、ここに如何に多くの呉邦人が移り住んでいたかがわかる。
。
更に興味あることはタキシラのシルカップから、細長い塔とチャイトヤ堂が発掘されたことである。シルカップは インドグリ l ク・サカ・パルタイ、そしてクシャンのクジュラカドフィ l セ ス 、 ヴ ィ l マ カ ド フ ィ l セスまで住んだ 都である。カユシカに至ってシルスクに移って行った。然して不思議なことにクシャン時代にはギリシャ人が仏教寺 院に奉献した碑銘は残されているが、ギリシャ時代の建造物や遺物には全然仏像はもとより、仏教に関する図柄の彫 刻は見い出されない。ギリシャ人は仏教芸術に大きな影響を与えてはいるが、ギリシャ人自体はその支配時代にはど うやら仏教に関心を持たず、自らの神々に帰依していたことが、その残されたものからわかる。 然し、このシルカップの町で、ギリシャの次のサカ時代の層は全然別の様相を呈する。特に前掲現存奉献塔の B 3 の 加 く ア l カンサスに全面おおわれた倒れた塔が出土していたり、二重の塔 v ︿ 前 掲 奉 献 塔 B11 ﹀ も 出 土 し て い る 。 前者は西紀前三十年頃と推定される地震によって倒れたままである。サカは西紀前九十年から二十五年までだから、 前九十年から前三十年までに作られたことになる。 従 地 涌 出 ハ 高 橋 ﹀従 地 涌 出 ハ 高 橋 ﹀ こ の ア l カ γ サスの彫刻と同じような図柄の然もこの復元 町 ︵ 前 掲 議 官
1
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﹀そのままのオリジナルの野︵前掲奉 献塔のB2
﹀シルカップから二キロ南東のカラワ γ から出土し その塔の底から H サカの一三四年 u 、即ち西紀七七年に比定さ れる年の銘文が出土しているから、 シルカップのサカの塔の影 響 と 言 え よ う 。 然も、更に興味あることは、 シルカップのア l カンサスの倒 れた塔のすぐ横には、アプシダル・テンプルといわれるチャイ ︽ 四 ︾ トヤ堂が作られていることである。勿論ザカ時代である。所調 前方後円の建物である。その後方の門型の建物の部分にストゥ ーパがあって、建物の壁にかこまれた中にストク l パが安置さ れている所が注目されねばならない。 サカはこのガンダ I ラを支配するだけではなく、イ γ ダス河 口やナルマダ l 河口のブローチ等を支配し、西方貿易によって 永く栄えた種族なるが故に、前二世紀頃から、盛んに造立され ていた西南インドの石窟寺院は熟知のことであった。その為そ の窟院の中に塔を入れて把る方式を採用したのではあるまい アプシダル・テγプルか と 私 は 推 測 す る 。 そのサカと窟院との深い関係を示すものに窟院への奉献碑銘が残っている。 例えばナシ白、﹁似合
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勿も、仏陀観が変り、仏身観が深化して行くのは、西 モヘンジョダロ:Asubatta樹聞の樹神 方の影響とばかりは言えない。インドにはインド自体で 仏身観を深化する基盤があったといえよう。 即ち、もともとは仏舎利を収めた釈尊の噴墓は追憶思 慕のものであった。然して、その記り方は古来からあっ た聖樹・夜叉信仰の伝統に従っていた。聖樹信仰とはそ γ ス lyイγドの大地の神、豊穣の神としての﹁大地の 生命力﹂の表現で、それの発現としての巨木や夫々の種 族に関係ある樹をトーテム樹として信仰し、 叉これを 人格化したのがヤクシヤ・ヤクシ l ︿ 夜 叉 ﹀ 信 仰 と な っ た 。古くはモエンジョダロ・ハラッパ l のインダス文明に樹のシ l ルが出土し、又マウリや朝以前の古代打刻コインに 樹の模様が打ち出されていたり、盛満な女性のテラコッタが沢山出土しているのも、この盛穣なる地母神信仰のあっ 展 す る の で あ る 。 た証左といえよう。この女性のテラコッタがやがてパ l ルフットやマトヮ l ラの﹁樹をいだく豊満なヤクシ l ﹂に発 て い る こ と で あ る 。 もとからあった聖樹夜叉信仰の伝統に従って釈尊の舎利を記った。これはジャlタカ五四七話の中で随所に示され 従 地 涌 出 ハ 高 橋 ﹀ ノミーJレフット Cul Iakoka Devata
従 地 涌 出 ︿ 高 橋 ﹀ て 掃 き 清 め 、 五 指 量 の 香 を 供 養 し 、 例えば、ジャ l タ カ 三
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七話のパラ l サ本生に﹁樹の根本を平らかにし、草を抜き、まわりに垣を結び、砂をまい 灯火を点じて樹のまわりを右績﹂四七九話迦陵本生には 花 環 香 薫 香 を 供 養 し 、 ﹁ハ聖樹に﹀諸仏の勝座大地の瞬たる大菩提座を認め、王の n サ リ l サ u ばかりの広さを限って兎の髪程の草も生え て居らず、銀の根のように真白く、輝く砂が一面に撒かれであった。然もその周囲一面には雑草や蔓草や森に生える 大樹などが生い茂っていて、恰も菩提座の方を向いていおとあり、これと同じような表現は五三七話マハスタソ l マ ジ ャ l タ カ に も あ る 。 然もストゥ 1 パの造り方も聖樹と似て いる。即ち、四七九話の﹁長老阿難は大 菩提樹を植える場所に、大きな黄金の麹 を置い混とあり、これと同じことがス ト ク l パを作る時にも行われた。 マ ハ l ハ ン ザ ︵ 二 九 | 五 ・ 七 ﹀ ︵ 三Ol
二 乃 至 一 = 己 に 、 ﹁ ス ト ゥ l パを建てる中央に 水を満した金銀の査が置かれた﹂と番か れているように、菩提樹とストク l パ の 構造がまことに似て居り、否むしろ聖樹 信仰の形式の上にストクパ!信仰が出来 〈デリー博蔵〉 Purma-ghata ナ ガ ル ジ ュ ナ コ ン ダていることがうかがわれる。 型樹は前述の如く、大地の生命力の表現、地母神のシンボルなるが故に、この伝統の上にスト h y − − ハ が 出 来 叉 、 そ の信仰が形成されたとなると、 ス ト ク l パは最初の﹁舎利安置所﹂、追憶思慕のものから、容易に変って行くのはそ の性格上必然である。人間釈尊の舎利安置所から、どんどんその仏身観は変化して、我々をして、かくあらしめる超 越 者 、 ひいて救済者に変容して行く筈である。 か か る が 故 に 、 最初は単なる土鰻頭であったストク l パ が 、 まず基檀がもうけられ、 更にこれも何重にも重ねら れ、塔身自体も最初は泥の伏鉢体であったものが、石で積みあげ、更にその上をシックイで仕上げる等、美しくなっ て行く。それだけではない。パイシャリーやプトカラの発掘からわかるように何重にも同心円的に増巾され拡大され 円 却 ︾ て行った。タキシラのクナ l ラの塔の、こわれた大塔の中から美しい小塔が顔を出している如き、沢山の塔中塔は、 この荘厳化のプロセスを示すものである。こうなって来ると、仏身観もどんどん深化し、逆に又仏身観が深化すれば 塔も荘麗化されよう。かく、塔と思想が相互作用によって、 お互いを深化発展せしめて行く。この最たるものが、 ア フ ガ ニ ス タ ン 、 チャリカル郊外のト l プダラ l 大塔だと思っている。何重もの基檀そして塔身自体にまで仏像や彫刻 におおわれて来ると、これらは舎利塔だけではなく、 一大マンダラの表現と思われて来る。こうなって来ると、大字 宙の生命、我々をしてかくあらしめる縁起の総体、八千煩般若経のいう﹁般若波羅蜜多は仏母である﹂という、仏を ダル守 仏たらしめるその根本、法華経のn法 H というものになって来る。 このように仏塔の荘麗化と規を一にするのが、 チャイトヤの成立である。単なる墓ならばスト h y − − ハ は 野 天 に 置 い てもいい。雨露にさらすに忍びないから、屋内に安置した。だからこそチャイトヤも究極の所、仏舎利を安置する立 従 地 涌 出 ハ 高 橋 ︶
従 地 涌 出 ハ 高 橋 ﹀ 同 U M , F L V 守 場に止らず、法華経の﹁舎利を安ずべからず、所以はいかん、この中には己に如来の全身いませばなりいの﹁法﹂を 収めるもの、否法そのものという立場に昇化する。従って般若経の め、花香を供養:::﹂ということになる。この法こそ何回か述べて来た如く、我々をしてかくあらしめる大宇宙の理 ﹁ 般 若 波 羅 蜜 多 ハ 知 慈 の 完 成 ﹀ を書物にして収 法、それを人格化したものが久遠の本仏であり、阿弥陀の一仏乗である。 故に、仏塔を高く商く、叉荘臨化することと、塔をチャイトヤに収めることとは別なことではなく、共に﹁舎利﹂ から﹁法﹂へのプロセスであると私は考える。 然しここで特筆すべきは、あくまでインドサイドの塔は、 サ γ チーのような荘麗化した塔でも伝統に従って土銀頭 形式を脱していない。勿も、インド側でも背の高い塔はなくはない。プダガヤの大塔や、 ザ ル ナ l ト の ダ メ l ク 塔 の ように。然し、これらは後期のものであるからここで扱うことと関係はないが、前述のピルマやタイで後世あのよう に天にもとどくような、塔を建てて来るのと規を一にして、仏を人間としてではなく、超越者救者と考える考え方が 出 て 来 た 故 で あ ろ う 。
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前 述 の 如 く 、 後 世 は と に か く 、 イ ン ド 側 の 塔 は 土 鰻 頭 形 式 で 、 タキシラ以西は背の高い塔が出来、叉チャイトヤ堂 が出来て来たことは綾々説明して来た。 こ の 背 の 高 く な る 塔 に つ い て 、 一応仏像が作られるようになり、その仏像や彫刻︿仏伝・ジャIタカ﹀を安置すベ く、そのスペースを獲保する為、塔はどんどん長くなって行ったとも考えられる。例えば、無仏像時代のアジャ γ タ 石窟第九・十窟ハ前一世紀﹀の塔に対して、十九窟︵五・六世紀﹀の仏像をもった塔が非常に塔が高くなっているか従 地 漏 出 ︿ 尚 総 ﹀ ら で あ る 。 然 し弘がここで 問 題 に し た い の は 、 ﹁ な ぜ 背 ・ を 向 く せ ざるを 創 刊 な か っ た か 、 又以をその中に収めるチャイトヤ設が出来て来 なければならなかったのか﹂という底にある考え方である。 こ の 品 川 の 向 い w m やチャイトヤの分布闘でもわかるように 、 こ れが西北インド 、 ギリシャやサ カ パルタ イ 、 そしてタシヤ l ン の支配した土地でなぜ起らねばならなかったか、この こ とが注
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されね ばならな い 。 弘はこのヒン ト をマンキャラの大核で考える。即ち、 インド の土飽頭式の絡は 、 このタキシラ東方 二 十 キ ロ の 燃 や 、 タ キ シ ラのダルマラlジカの大 w m が酋践である。然も 、 このマンキャ ラの大椛がとてつもなく大きいことが注 目 されねばならな い 。 小山 を思わせる巨大な塔、 写 真左隅で草をとる人と比べてもら い た い 。 同じ 土飽 顕 式 な が ら 基 附 引 を 入れると前径五 十 メ ー ト ル に も述 しようとするこの勝 、 これこそ広を高くし 、又塔を チ ャ イトヤの内に入れる。 ﹁ 仏を超越者として考える﹂思考の表現 ではなかろうか 。従 地 涌 出 ︿ 高 橋 ﹀ 特 に 前 述 の 如 く 、 シルカップに於ける最初の二重の屋根の細長い塔や、 チャイトヤ堂が、異邦人たるサカ族の支配時代に現れたという事実に注目 せねばならないと考える。 人間釈迦のインド的考え方に対し こ れ こ そ 、 て、超越者としての釈迦を考えた証拠であると思う。彼等はこうした思考 をもった民族であった。これがイ γ ドに入って来たのである。 もともとサカは、中央アジヤのカスピ海から、黒海あたりまでにひろが っていた草原の遊牧民スキタイである。彼等はベルシャ系の民族であり、 ベルシャの文化を十分身につけていた。従って彼等のもつ﹁神観﹂はベル シャのそれであった。即ち、彼等にとって王は神の代理、神の意をうけて 政治を行うもの、否、この世の神とまで考えられていた。だからこそ、彼 等は王の墓を小山のように土をもり上げて巨大な墓を作った。この墓が何 十何百と中央アジヤにひろがってい匂即ち全体の王だけではなく、地方 の王のもこのような墓を作っている。王を超越者と考える考え方をもって いた証明でもある。これは叉クシャンについても考えられる。カニシカ王 が神として考えられたことはスルフコタルの神殿から明白であり、又コイ y に刻されたカユシカ王の肩から火焔がたちのぼっているのを見ればわか る。共にベルシャ的考え方に立っている。これらの種族がギリシャ民族に ソ連黒海東岸
続いて西北イ γ ドに入って来た。そして特にこのサカ民族の住んでいた﹁地層﹂から仏教的な色彩をもっ遺物が発見 されている︵仏像はクシャンに入ってからだが︶。前述の如くそれ以前のギリシャ人の層からは発見されていないか ら サ カ は 仏 教 に 関 心 を も ち 、 仏教に帰依した最初の呉邦人といえる。 この呉邦人の残したものが二重の仏塔であ り、仏塔を家の中に収めたチャイトヤ堂であった。だからこそ、私は釈尊を単なる師、仏教の開祖としてだけではな く、超越者として考える聖樹信仰のイ γ ド在来の地母神的思考を刺戟して、 ﹁仏身観﹂の深化に拍車をかけて行った のだと私は考える。先述のマンキャラのとてつもなく大きい仏塔はインド式仏塔ながらも、こうした外来の刺戟によ ってクシャンの時代に増巾されたものであるう。
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かく私は従地涌出の背の高い塔やチャイトヤがタキシラからアフガユスタンに分布していることを見て来た。 仏教はインドで起り発達して行った。もしこれがインドの中だけで発展して行ったなら、教儀の自己発展、論理の ダル守 自己転回で、それは或る称度の深い論理には達し得ても、果して般若経阿弥陀経、そして法華経等の H 法 u H 一 乗 思 想 u そ し て H 超越者としての仏陀 u 、 H 仏の哲願 u 等の思想が果して起ったろうか。そして又外来の刺戟なしに大乗 の 思 想 が 形 成 さ れ た で あ ろ う か 。 ガ ン ダ l ラ や 西 北 イ γ ドを中心とした地域、異邦人の共住したこの地域で大乗仏教が起ったという事実は注目せね ばならない。そこでは彼等のもって入って来た世界観、神観等が、仏身論をはじめとして仏教に影響とまでは行かな くとも大きな刺戟となって、仏教自体の論理の自己展開を促したものだと私は考える。なぜなら、前述の如く大乗仏 教はインドの内部ではなく西北イ γ ド で 起 っ た か ら 。 従 地 涌 出 ハ 高 橋 ﹀従 地 涌 出 ︵ 高 橋 ﹀ 特に注目さるべきは、 シルクロードによる東西交易を一手に握ったクシャン王国。その財力をもって、塔や僧院を 奉献し、ガ γ ヂ l ラの山野は荘麗な仏寺でうまった。然しその一方で、 ﹁信﹂とう心の重視の傾向を生んだことが、 前述の﹁一団泥﹂の経文の文字が雄弁に物語っている。 然も、このガ γ ダ 1 ラの地で、イ γ ドとペルシヤの文化が融合し、仏教を一層深化せしめて行った。 ﹁ 従 地 涌 出 の 塔﹂こそその一つの表現であろう。 ︹ 註 ︺ ︿ 1 ﹀ 岩 波 文 庫 法 華 経 中 ︸ 六 八 頁 ハ 2 ︶大
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