戦後地方におけ る後期 中等教育制度改革の展 開 (
2)
― 長 野 県 に お け る 高 等 学 校 の 「 多 様 化 」 施 策 ―
西
山
薫A Study on Educational Reforms in the Upper Secondary
School System in the Local Government after World War II (2)
-The Policy of Prompting Diversity in the Courses
of Upper Secondary Schools in Nagano
Prefecture-Kaoru Nishiyama
本研究は、1960年代 か ら70年代 前半におけ る長野県の高等学校制度の変容 を、県の産業構造 の変化 と学科 の改廃 との関連 よ り分析 し、全 国的 な高校 の 「多様化」の実態 との比較 の 中で、 その特質 を検討 した。は じめに
本稿 は、長野県におけ る戦後の高等学校制 度の展開過程 に関す る報告の第2報 であ る。 本研究全体 のね らい、課題 設定 は既 に前稿(1) に詳述 してい るので割愛 したい。 新制高校発足か ら半世紀、高校教育制度 の 軌跡は、お よそ四つに時期 区分 がで きるであ ろ う。 第一期 は、戦後教育改革 の一翼 を担 い、 高校3原則 を掲 げて発足 した新制高校の成立 まで、第二期 は、高度経済成長 の もとで職業 教育 を中心 に学科 の多様化が急激に押 し進め られた時期、第三期 は、1970年代半ば以降の 多様化 の軌道修正 と学科 の再編、普通科志 向 に拍車がかか った時期、そ して第四期 は、1980 年代半ばか ら今 日に至 る、臨教 審答 申以降の 高校教育の新 たな多様化、総合学科等の特色 あ る学科 ・学校づ くりの時期 であ る。 今 回は、1960年代 か ら70年代前半 までの、 いわゆ る高校教育の 多様化 につ いて長野県の 動向 を分析す る。前稿 で述べ た ように、 旧制 中等学校 の継承 と再編 に よって誕生 した長野 県の新制高校 は、 その成立過程 におけ る県立 外学校 と県立校 との格差、地域別 の学科配置、 普通科- の根強 い志向な ど、 旧制度 の影響 を 強 く受けなが ら出発 した。 また、既存の旧制 中等学校 の存立 を前提 とした再 編 は、戦後の 県内の産業構造 の大 きな変動 を見通 した もの とはな りえなか った。本稿 では、① 高度経済清泉女学院短期大学研 究紀要 (第1453-) 成長下 での高校教育政策の動向 を概括 し、② 長野県の産業構造の変化 と高等学校施策 との 関連や、③ 県の職業学科の 多様化の諸相 を各 高等学校 の事例 を交 えなが ら分析す る。
1.高校教育の 「多様化」政策一 中央 レ
ベ ルの動向
(1)高等学校制度 に対 す る経済界の要請 戦後の教育制度改革 を 「国情 を異にす る外 国の諸制度 を範 とし、徒 に理想 を追 うに急で、 我が国の実情に即 しない」もの とし、「真に教 育効果 をあげ るこ とがで きるよ うな合理的 な 教育制度」 を提 言 したのが、1
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年 の政令改 正諮問委員会 (吉 田茂首相 の私的諮問機関) の 「教育制度の改革 に関す る答 申」 であった。 高校制度 に対 しては、①総合制の分解 と普通 課程 高校 ・職業課程 高校への分経、②学 区制 の原則廃止、③職業教育 に重点 を置 く6年制 の高等学校の創設、④ 中学校、高等学校 にお け る職 業教育の充実 ・強化が提言 され、それ は高校3原則の理 念に対 し疑義 を唱 えた もの であ った。 この提 言は、私的諮問機関に よる 参考意見 であ り、 当時厳 しい批判 を浴びた こ とか ら実現には至 らなか ったが、その後の高 等学校政策に大 きな影響 を与 え、 と くに高度 経済成長 を遂 げ る経済界か らの要請 を直接反 映 してい く転機 となった。 朝鮮戦争 を契機 に、飛躍的 な経済成長 を支 え る基盤 として、職業教育 を充実 させ有用 な 労働 力 を確保す るために、経済界か ら高校制 度 に対す る要望 が相次 いだ。 日経連 は、1
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年 に発表 した 「新 教 育制度 の再検 討」(2)にお いて、「企業におけ る中堅従業員の養成機関 と してその任務重 き実業高等学校本来の面 目を 発揮す るため、学校 の種別 お よび配置 を考慮 す る と共 に教科課程 の内容等につ きその充実 をはか られたい」 と要望 し、1
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年の 「当面 教育制度改善 に関す る要望」において、 「中学 校が義務教育 なる も出来得 れば一部 中学校 と 実業高校 とを一体 とした6年制職業教育の高 校制 を採用す るこ と」 を提言 してい る。 その 後 も、「新時代の要請 に対応す る技術教育 に関 す る意見」(
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年)、「科学技術教育振興 に関 す る意見」(
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年)な ど、経済界の需要 に応 じた人材確保 と職業教育の充実 を目指す高校 制度 と教育 内容への強 い要請 を打 ち出 した。 その後の 「所得倍増計画に ともな う長期教育 計画」 (経済審議会、1
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年)に連 なる もので あ るが、 これ らの要望 は、6
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年代 の高校 の多 様化 を方向づ け る論理 を形成 していった。す なわち、「まだその 『理念』の実質的 な確立が ほ とん どなされ ない うちに、新制高等学校 は、 産業経済の 『復興』や 『振興』、 またその中で の戦後教育、特 に職業教育 の見直 しとい う『社 会か らの要請』に よってその当初 の構 想等 と は異 なる方 向- と転換 を迫 られ始 め た」(3)の であ る。 (2)学科 ・教育課程の多様化 と 「総合制」 の崩壊 新制高校 の 「総合制
」には、上述 した 「外 側」か らの批判だけでな く、 その内実 に も問 題が生 じていた。総合制高校 が 旧制 中等学校 の伝統 を継承 し、統合 ・再編 に よって誕生 し ただけに、 その施設 ・設備、教員の確保 に相 当の無理 が生 じて いたの であ る。(4)また、 多 様 な生徒 の要求や 自由な選択 に応ず る教育課 程 の編成や それ を可能 にす る学校経営 は未だ 緒についたばか りであった。1
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年の 「産業教育振興法」は、国庫補助 に よる職業教育の条件整備 を図 る ものであっ西 山 :戦後地方におけ る後期 中等教育制度改革の展開 (2) たが、その 「補助基準」に適合す るために、 「総合制」 を解体 し、職業高校 の独立や単独 設置が顕著 となった。一方、大学進学-の優 位か ら普通科偏重 に更に拍車がかか りつつ あ った。「総合制」が意図 した普/職 の共存 と生 徒 の 自由な科 目選択は、理念的には進学 ・職 業準備教育 ・職業専 門教育のいずれに も対応 しうる とされて きたが、現実 として、普/職 の分離 と職業教育の 多様化 を押 し止め る論理 にはな りえなか った。
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年の教育課程審議会答 申お よび1
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年 の学習指導要領 では、①選択科 目 ・単位の減 少 と必修科 目 ・単位 の増加、②普通科 におけ るコー ス制 (A ∼E)の導入 な どが図 られ、 続 く1
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年の課程番、学習指導要領 の改訂 に おいて も、①必修科 目 ・単位数 の増加、②普 通科 におけ る基本類型 (A ・B)、③進学/非 進学 による科 目種別 (A ・B)、④職業科 にお け る専 門科 目の増加 な どが図 られた。一方、 学科 の 多様化 も推進 された。1
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年の中教 審 答 申 「後期 中等教育の拡充整備 について」 で は、「生徒 の通性 ・能力 ・進路 に対応す るとと もに、職種 の専 門的分化 と新 しい分野の人材 需要 と即応す るよ う改善 し、教育 内容の 多様 化 を図 る」 とした。 また、1
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年 の理産審答 申 「高等学校 におけ る職業教育 の 多様化につ いて」 では、新 学科 と新 設科 目が 多数示 され た。 学科 の多様化、教育課程 の類型化 ・種別化 は、常 に 「生徒 の適性 ・能力 ・進路 に応ず る」 とい う名 目で推進 され る。しか し、それは「選 択科 目制か らコー ス制への移行 は、教育課程 のあ り方 を、 『個 人の選択』に即 応 させ るこ と か ら、 『社会か らの要請』に即応 させ ることへ と転換 させ る」
(
5)こ とを意 味 してい る。 また、 入学後の 自由選択か ら入学時におけ るコー ス 決定への変 更は、高校進学率 の上昇 に ともな い、 中学校 におけ る進路指導の変質 と受験競 争 の激化 を促進 した といえる。2.
長 野 県 におけ る高等学校 の量的拡 大 (1)産業構造の変化 と高校進学率 長野県の高校進学率 (図1
参照、以下 図表 は資料 として末尾 に示 した) は、全 国平均 と 同様、新制 高校発足後の緩やか な上昇 に始 ま り、1
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年 に5
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を越 えて以降は急激 な上昇 カー ブ を描 いてい る06
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%、7
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を越 えたのか1
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年、1
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年 であ り、1
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年 には8
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を 突破 した。1
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年代 は年平均0.
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の上昇 で あったが、1
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年代 は2.
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%、7
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年代 は1.
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%の上昇 であ り、 多様化 の時期 は高校 進学率 の急上昇の時期 と符合す る。 この背景 の一つ に長野県の産業構造 の変動 があげ られ る。産業別就業者割合 (図1) で は、全 国傾 向 と同 じく、第1次産業の急速 な 比重低下 と、高度経済成長に よる第2 ・3次 産業 の増加がみ られ た。 この こ とは、所得 の 増加 とともに生徒 の職業 ・進路選択 に大 きな 影響 を与 え、進学率 を大 き く押 しあげ るこ と になった。長野県の場合、 その特徴 であ る第 1次産業の比重の高 さ と第3次産業の低 さ、 そ してその変動 は高等学校 の学科配置に影響 を与 えた と思 われ る。 (2)第一次ベ ビーブーム とその対応 高校進学率 を押 しあげた要 因に第一次ベ ビ ーブー ムが あ る。 「団塊の世代」が高校進学 に 到達 したのが1
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年か ら1
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年 にかけてであ った。 県教委 は1
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年度 に次の ような急増対 策 を立ててい る。(6) (7) 県立高等学校 の新設は行 なわず、学級清泉女学院短期大学研 究紀要 (第14号) 増 ・定員増 を行 な う。 (イ) 1学級定員 は原則 として50人 を越 えな い。 (?) 1学校 の募集定員は最 大の場合 で も約 450人 とす る。 (i)学科別生徒 比率 は次の 目標 に よる。 普通科 (61%)農業科 (10%)工業科 (15%)商業科 (10%)家庭科 (4%) (オ)公立全 日制 の志願率 の伸 び率 を54.2% として志願者 を推定す る。 (カ) 公立全 日制 の入学率 は83% として募集 予定定員 を推定す る。 (キ)学校別募集計画は4通学区 ご とに地域 総合制の考 え方で学科別 に行 な う。 しか し、実際には県教委の推定 を上 回る志願 者が押 し寄せ、入学率 を回復す るこ とが困難 とな り、 また超過密学級 (例 えば1963年度の 中野実 業 は
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学 級96人) も多数 出現 した。(7) 第一次ベ ビー ブームは、高校 進学率 を押 しあ げ、募集定員の大幅 な増加 を確保 す るこ とに なったが、 それ以降拡大 した間 口は閉 じられ るこ とな く、その後の志願者 を収容す るこ と になったのであ る。 しか し、 その志願 の志向 が職業科 よ りも普通科-大 き く偏重 しつつ あ るに もかかわ らず、「地域総合制
」の原則の も とで既存の普/職 のバ ランスが維持 されたこ とは、全国的傾 向 と同 じく、 中学校 におけ る 進学指導 を偏差値輪切 り指導- と変質 させ て い く背景 とな り、学科 の 多様化 -入 り口の細 分化 は、いわゆ る学校間格差 を助長す るこ と につ なが った と考 えられ る。 (3)大学進学率 と普/職の格差 図2に よれば、長野県の大学進学率 (短大 等 を含む)は全国に比べ低位 であるが、その 推移 は同様の傾 向 をた どってい る。1963年 と 1965年 に約2%上昇 したほかは、毎年 1%前 後の上昇 であ る。 しか し、普通科 と職業科 と の比較 では、全 国の普通科が1957年か ら1969 年 までに1.45倍 の伸 び を示 しているのに対 し て、長野県は1.69倍 とそれ を上 回 り、職業科 の進学率 も全 国以上 に伸 びてはい るが、普/ 職 の格差 を是正す るほ どの伸 びではない。 ち なみに、1957年度の進学状況では、県立の旧 制 中学 を継承 した普 通科 単 独校 の14校(8)だ けで、全進学者の52.1%、 4年制大学進学者 の70.9%を占めてい る。新制高校発 足当初か ら大学進学の機会は、普通科 と職業科 におい て格差が生 じてお り、高校進学率 の上昇が大 学進学率の上昇 につ なが ってい くけれ ども、 その格 差 の影響 は、職 業学科 の 多様 化 後 の 1970年代 の普通科増 設の背景 となった と思わ れ る。3.
長野県の学科改廃 と多様化
(1)学校数 と生徒 数の動向 新制高校 として発 足 した79校 の うち、県の 財政事情か ら即 時に県立移管がで きなかった 組合 立 高校 は22校 あ ったが、 これ らは漸 次 1955年 までに完全移管 された。 また、1950年 か ら1953年 にかけて、「中等教育の空 自地帯(9) とされた地域 に4校 (阿南 ・阿智 ・蘇南 ・白 局)が新設 された。生徒 急増期 の私 立高校設 立 もあわせ て、 と りあえず高等学校 の配置、 整備が進んだのであ る。 しか し、 旧制 中学 を 継承 した高校 では、総合制理念の もと商業科 を設置 した3校 (屋代東 ・岡谷南 ・大町南) が1960年 までに普通科単独校 へ逆戻 りし(10)、 1965年 までに校名 を戦前に復元 した学校 も5 校 (長野 ・屋代 ・飯 田 ・上 田 ・須坂)あった。 こ うした伝統- の回帰は、一方 で県立移管の西山 .戦後地方におけ る後期 中等教育制度改革の展開 〔2) 遅 れ た、 あ るいは新 設 され た高等学校 (今 日 その 多 くは 「地域 高校」(ll)と通称 され て い る が) との格差 を再 認 させ てい くこ とにな った と思 われ る。 表3に よれば、1950-60年代 は、総合制高 校 が減少 し、普通科単独校 が増加 す る時期 で あ る。公立高校 が増設 され ない ままの こ うし た傾 向は、後述 す る学科 の 多様化 が総合制 を 切 り崩 しなが ら達成 された こ とを意味す る。 す なわ ち学科 の 多様化 は、普/職 の分離 と不 可分 であ った。 また、表1の課程別生徒 数割 合 をみ る と、普/職 の生徒 比 は、65:35をほ ぼ維持 してお り、学科 の 多様化 が職 業科 内部 の変化 と細分化 に よって進行 した こ とが うか が え る。 (2)学科の 多様化 職 業科 の小 学科 の 多様 化 は、先 に触 れ た 1966年 の 中教 審答 申、1967年 の理産審答 申等 を出発点 とす る場合が 多いが、実 際の 多様化 は、1960年代 前半 か ら始 ま り、 これ らの答 申 は この傾 向 を追認 した とい う指摘 が あ る。(12) 高等学校 に設置 されてい る小学科 の種類 をみ る と1964年 で職 業系89種類 であ ったが、1966 年 には218種類 に急増 し、1973年 の257種 類 を ピー クとす るまで増加 し続けて い るo(13) 文部 省は、1948年 の 「高等学校 設置基準 」 において、農 業9学科、工業15学科、商業 1 学科、家庭
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学科 を小学科 として例 示 して い たが、 これ らは戦前の実業学校 に設置 され て いた もの を踏襲 す るものであ った。1960年 の 学 習指導要領 では、農業9学科 、工業17学科 、 商業1学科、家庭 4学科 が例示 され、1970年 の それでは、農 業10学科 、工業21学科、商業 7学科、家庭 5学科が例示 された。各学科 (課 程 ) とも多様化 が図 られ たわけであ るが、実 際 に設置 され た学科種類 ・名称 はそれ をさ ら に上 回 る もの であ った。 学科 の 多様 化 とは、小 学科 の種 類 の拡大 と 学科数 の増加 を意味す る。 しか し、長野県の 場合、 この時期 の小学科 の種 類 の増加 は、工 業科2種、農 業科 3種、商業科 と家庭科 はゼ ロであ り、小 学科 が拡大 した とはいえない。 む しろ小学科数 の増減 に特徴 が あ る。 表 Zの 学科数割合 に よれば、工 業科 の比率 は倍増 し 全 国 を上 回 ってい るが、商業不斗はほぼ横 ば い で全 国比率 を大 き く下 回 って い る。農 業科 も 横 ば いで全 国的傾 向 とは大 き く異 なってい る のであ る。4.
各 学 科 の 動 向 と高 校 の 対 応 (1)県産業教育審議会の動 向 県下 の高等学校 の 多様化 に大 きな役割 を果 したの は、県教育委 員会 の諮 問機 関 であ る「産 業教 育審議会 」 であ る。 これ は 「産 業教育振 興法」 において設置が求め られ た もの であ り、 1952年 に県教 委 は同審議会 を設置 した。委員 は10名 とし、産業経済界2名 、教育 界4名 、 勤労 界2名、行政機 関2名 の構 成 であ った。 審議会 の役割 は、「
『産 業教 育振興法』 に基づ く国庫補助金 の配分や 、文部 省産業教 育研 究 指定校 、 内地留学 その他産 業教 育振興 に関す る諸事 項 を審議 し、 また、 県教 育委月会 の産 業教 育充実等 に関す る諸 問題 の諮 問に対 して、 県下 の実態、県外の状況 等 を専 門的 に調査研 究す る」(14)ものであ った。職 業 学科 の改廃や 職業教育 のあ り方 に関す る具体 的 な検 討機 関 であ ったが、 この時期 の重要 な答 申に1957年 の 「県産 業教 育総合計画」 が あ る。 その概要 を以下 に紹介す る。 ①25校 の農 業高校 を16校 に縮小整備 す る。清泉女学院短期大学研 究紀要 (第14号) 農業就業者の需要 の減少、現行 の農業教 育の水準の改善 ため、農業高校 の大幅 な 縮小 と内容 の充実 を図 る。 a.南佐久実、東部、中野実、長野吉 田、 坂城、北部、 中条、梓川、辰野の9校の 農業課程 の廃止
b.
北佐久農の農産加工科、参科 の林業科、 丸子実の農業土木科の廃止 C.須坂農 の蚕業科の園芸科への転換 ②3校 の工業課程 を廃止 し、 2校の工業高 校 を新設す る。 全 国平均か らみた工業課程生徒数、卒業 生へ の需要の増加 か ら、現行 の工業課程 を 増 し、工業高校 の新設 を考 える。 a. 東信地区-上 田千 曲に工業化学、土木 を新設、佐久地 区に工業高校1校新設b.
北信地区-高水地区に工業高校 1校新 設 C. 中信地区-松本工業に機械工作、電気 通信、土木、建築 を増設d.
南信地区-飯 田工業 を全 日制 とし電気、 土木、建築 の3科 を新 設e
.丸子実、臼田、飯 田良姫の工業課程 を 廃止 ③5校 の商業課程 を増募、 1校 を廃止す る。 商業課程 の整備 は、他 の課程 と併設す る こ とでは不可能 であ り、商業課程 の一本 化 を図 る。 a.上 田千曲、 中野実、穂高、辰野、飯 円 長姫の各校 を増募 とこれに伴 う課程 の改 廃b.
岡谷南の商業課程の廃止 この答 申内容 の全 てが具体化 されたわけでは ないが、1960年代 の学科改廃 を方向づ けた と 考 え られ る。 また、1960年 には 「高等学校 の 産業教育 に関す る学校お よび課程 ・学科 の適 正配置等につ いて」、「長野県高等学校 入学志 願者増減対策に関す る第 1次計画」、1961年に 「同第2次計画」 を答 申 してい る。以下、各 学科 の動 向 を分析 してい くが、紙幅の都合上、 工業、商業、農業の3学科 (課程) に留め、 家庭科 は省略す る。 (2)工業科の動向 ① 「工業立県」の施策 重化学工業 を主軸 とした高度経済成長期 に おいて、県は1952年 に「長野県工場誘致条例」 を制定 し、伝統的な地場産業 (繊維、木材加 工、 食品加工 な ど) に加 え、疎開産業 であっ た精密機械、光学機器、電子工業や電気 ・電 力産業等の発展に重点 を置いた。1960年 まで に111工場、1961年∼1964年 に210工場 が新設 され た(15)。 県内の工業生産 の主力は、戦後の食料 品 ・ 繊維 ・木材の軽工業3業種か ら、1960年代後 半には電機 ・精密 ・機械 の重工業3業種へ と 転換 し、また、第2次産業就業者の割合 も1950 年の15.1%か ら1970年 には32.0%へ倍増 した。 しか し、県内工業科 の生徒数割合 は、1955年 で6% しか な く、全国の 9% を下 回っていた。 こ うした産業構造の変動 に応ず る工業科のあ り方 には、 その量 と質の両面か ら大 きな変革 が加 え られた。 ②学校 ・生徒数 の動 向 と小学科 の改廃 工 業科設置の高校 は1952年 で9校 であった が、1964年 には16校 に急増 した。小学科数 も 18学科か ら37学科 に倍増 し、在籍生徒数 も6 % (1955年)か ら11% (1970年)-増加 した。 この背景 には、先 の 「総合計画」 を受 けての、 工業 高校 の新 設 ・転換があった。新 設校 とし ては、1959年 に飯 田工業 (定時制か ら)、1964 年 に駒 ヶ根工業が新 設 され、北安 曇農業が池西 山 戦後地方におけ る後期 中等教育制度改革の展開 (2) 田工 業 に (農 業科 募集停 止-機 械 科 ・電 気 料)、箕輪が箕輪工業に (普通科 の一部-機械 科 ・電気科)転換 され工業高校 となった。 こ のほか、中野実業 では農業科 を機械科に、岩 村 田高校 は普通科 の一部 を機械科 に転換 した。 「総合計画」にあった北信地区、東信地 区の 工業高校新設は、既設校 の転換 に よって達成 されたのであ るO 工業科 の小学科 は
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年 に7
種類の小学 科 を有 していたが、その後、電子工業科、工 業家庭科 が追加 、紡績科が繊維工業科 に変更 された。小学科種 自体 の大幅 な拡張は見 られ なか ったが、小学科数 は飛躍的に増加 した01
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年∼1
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年 におけ る機械科 の増設 と1
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年∼1
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年 におけ る電気科 をは じめ とす る他 の小学不斗の増加 が 目立つ。後者 は、1
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年 に 始 まる高校生急増対策 によるところが大 き く、 その受 け皿 と学科 の需要 を ともに満 たす意味 を含 んでいた と思 われ る。 また、新設 ・転換 した工業高校や機械科 を新 設 した高校-の追 加 設置であ り、工業科 の地域配分 を考慮 した 設置計画 であ った。 ③学科 設置学校 の事例 ここでは蘇 南 高校 の電気科 の 設置経緯(16) を取 り上 げ る。蘇南高校電気科 は1
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年 に1
学級、商業科 とともに新設 された。 そ もそ も蘇南高校が所在す る木 曽南部地域 は、木 曽北部 も くしくは岐阜県への趨県入学 とい う厳 しい環境 に置かれてお り、「中等教育 の空 白地帯」のひ とつ であった。地元では、 戦後 当初 か ら高等学校 の新 設- の機運が高 ま っていたが、1
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年 に 「蘇南高等学校設立期 成同盟会」が南部6ヶ村に よって結成 された。 その 「設立請願書」では、「教育 と産業 との不 可分 の関係 よ り地方産業の振興 と文化の向上 をEAり、 もって木 曽谷住民の生活の安定 を図 る」(17)とい う言葉 どお り、地域 の発電事 業 と 結 び付 いた電気科 (工芸科 に含 まれ た)が要 望 されていた。 その後、財政事情か ら5ヶ村 に よる組合 立 として発足 し、学科 も普通科 の み として1
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年 に設立認可 され、1
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年 に県 立移管 した。 生徒 急増対策が話題 にな りつつ あ る1
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年 に、工業科 に乏 しい西筑摩郡 において工 業科 を設置すべ きとの動 きが出始め る。南木 曽町 PTA連絡協議会 では、商業科 の独 立 と工業 科 の新 設、普通科 の増募 を県教委 に陳情 して い る。 この中で木 曽南部地域 の入学率 の低迷 を訴 えなが ら、次の よ うに電気科- の需要 を 述べ てい る。 「本郡 はいわゆ る近代科学工業地帯 として の立地条件 は乏 しいか もしれ ませ んが・・・そ の地域 の産業施 設 とい うこ とか らすれば、 本郡 の ご ときは県下最大の発電地帯 であ り ます。む しろその よ うな電気的関心か ら、 蘇南高校創立 当初 よ り地域全般 に電気科 設 置の要望 が非常 に強か ったのであ ります。 (中略)最後に産業教育審議会案 において はなるべ く総合制 を避け る方針 であ りま し て-総合制 を避け るために通学至難の遠隔 地 にそれぞれの施設 を設け ない とい うこ と は、教育の機会 を失わ しめ るこ とになるの であ りま して、本地域 の ご とき僻遠地 に所 在す る学校 においては、総合制 を布 くのは 宿命 とも申すべ きものであ ります。
」
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産業教育審議会の見地か らすれば、工業科 の 配置はで きるだけ単独校 を軸 に行 な うもので あったが、蘇南高校 は 「総合制
」の見地か ら、 また地域 に根 ざした学科 として電気科 設置 を 求めてい る。学科 の 多様化が産 業界主導 で進 め られた とはいえ、 この場合 は異質 の ケー ス といえる。清 泉女学院短期 大学研 究紀要 (第14号) (3)商業科の動 向 商業科 の改廃 の特徴 は、商業科 設置の学校 を拡 大 しなか った こ とと、 多様 な小学科 を設 置 しなか ったこ とであ り、 この点 で商業科 の 多様化 は他学科 とは異 なる。長野県の第3次 産業 は、就業者比、純生産構成比 ともに全 国 平均 を下 回 り、県内にお いて第
1
次産業 を上 回 るのは1960年代後半であった。 この意味で、 それ と連動 した学科 改廃 の動 きは鈍か った と いえ るであろ う。 商業科 を設置 した学校数、在籍生徒 数割合 ともに低下 してお り、顕著 な変草 は見 られ な い。 しか し、 旧制 中学系の3校 (大町 ・屋代 東 ・岡谷南)の商業科 を廃 止す る一 万、1952 年 に須坂商工 の工業科 を廃 止 し、1955年 には 小諸実業の工業科 を廃止 し、 いずれ も商業科 単独校 とした (須坂商業、小諸商業へ 改称) こ と、1969年 には穂 高の普通科 を廃 止 して穂 高商業 としたこ とは、総合制 の解体 に よる商 業科 の分離 と地域 ご との 「適正 配置」 を 目指 した もの といえる。 また、小学科 設置 も多様化 の観点か らは消 極 的 であ った といえ る。 もともと他 学科 に比 して商業科 の小学科種 は少 なか ったが、 それ で も全 国的には1960年代後半か ら20種 近 く誕 生 した。 ちなみに、隣県の岐阜 県では、1970 年度 で8種 類の小学科 が設置 され て い た。(19) 1970年 の学習指導要領 では、商業、経理、事 務 、情報処理、秘 書、営業、貿 易の7小学科 が例示 されたが、長野県の場合 、公立の商業 科 の小学科 は商業1
学不斗だけ であ り、 多様 な 小学科 の設置は一部 の私 立高校 で採用 され た ものの、教育課程 におけ る類型 に よる多様化 が図 られ た(20)の であ る。 (4)農業科の動 向 ①農業 人 口の急減 とその対応 長野 県の第1次産業就業者割合 は、終戦後 62.7% (1950年)と他 を庄倒 し、全 国割合(48.5 %) を大 き く上 回 って いたが、1960年代 に入 る と就 業者数 、生産 比 ともに急速 に低下す る。 また、農 業生産 の構成 も米作 ・養 蚕 中心か ら 野菜 ・畜産 ・果実- と移行 してい く。 こ うし た農業 人 口や農業生産 比の減少 は全 国的傾 向 であ るが、農業 県 であ る長 野県の場合 、農 業 教育-\の比重が高か っただけ農 業科 の変革 も 大 きか った。 この時期 の農業科 の 多様化 とは、 まず学科 ・学校 の縮小 であ り、1980年以降の 特 色あ る学科づ くりへ の移行期 ととらえ るこ とが で きる。 ②学校 ・生徒 数 の動 向 と小学科 の改廃 新制高校発 足時 (1951年) に、農 業科 を設 置 した高校 は29校 であった。 その成立の特徴 は、 旧農学校 と他 の実業学校や 高等女学校 と の統合 ・再編 に よる発 足 であ った こ と、発 足 時の設置主体 は県立外、 と くに組_合立が 多か ったこ と(組合立他18校 、 県立11校 )、普通科 や商業 ・家庭科 を併 置す る 「総合制
」 であ っ たこ と (農 業単独 11校 、:他学科併 置18校)で あ る。組合立 に よる条件 整備 の遅 れや総合制 に よる学校運営 の難 しさは、農業科 自体 の「基 盤の弱 き」 とな り、後 の学科 改廃 の要 因 とな った と考 え られ る。 1970年 までに農業科 (課程) を廃止 した学 校 は10校 であ った。 この うち、 4校 (犀峡 ・ 坂城 ・東部 ・高遠)が普通科単独校 とな り、 4校 (中野実業 ・箕輪工業 ・池 田工 業 ・穂 高) が工業高校 あ るいは商業高校へ と転換 され た。 普通科志望 の高 ま りや 、県産 審答 申(1957年) の方 向にそ った結果 であ ったが、工業高校 の 新 設問題 が県財政 の逼迫 に よ り困難 とな り、西 山 :戦後地方におけ る後期 中等教育制度改革の展開 (2) 既設の農業高校 の転換 に よって解決 され た と い う側面がある。 また、廃止 された10校 の う ち9校 は、組合立か ら発足 してお り、地域 自 治体 の農業科への期待や愛着 とは裏腹に、施 設 ・設備 の充実 ・維持 の困難 さか ら廃止 を余 儀 な くされた面 も見逃せ ない。 こうした廃止 校 以外に、普通科 を新 たに併置 した学校 が5 校 (北部 ・長野吉 田 ・坂城 ・上 田東 ・穂高) あったが、穂 高高校 を除 き、すべ てこの後普 通科単独校へ転換 されてい く。農業科在籍生 徒割合の推移 に も上述の結果が表 われてい る。 全 国比 を大 き く上 回っていた1955年か ら70年 までに6% も減少 し、 その分工業科、普通科 が増加 した面が ある. しか し、1970年 で も全 国比 を5%上 回ってい るこ とは、70年以降 も 農業科 が改廃 の対象 とな り続けてい くこ とが 暗示 されている。 農業科 の小学科数 は、1960年 まで他学科へ の転換 に よって急減 してい く。農業科、林業 科 、農村家庭科 な ど14小学科が廃止 され、わ ずかに園芸科1学科 のみ新設であったO こ う した縮小過程 に変化が見 られ るのは1963年以 降であ る。 その変化 とは、農業科、林業科、 蚕業科 な ど伝統的学科か ら新 しい学科 (園芸 科 ・食品加工 ・造園科 ・農業化学)への移行 や、女子進学者の急増対策 として農村家庭不斗 か ら転換 された生活科 の増設 であった。小学 科 の種類が拡大 し、学科数の減少に歯止めが かか ったこ とは、農業科 の 多様化 といえな く もないが、生徒数の減少か らすれば、それは 学科規模 の縮小化 とい う側面 をもっていたの であ る。 ③学科廃止学校 の事例 ここでは参科 高校 の林 業科 の廃止経過 を と りあげ る。 参科 高校 は、戦前の組合立参科農学校 と同 女千部 (旧参科家政女学校) を継承 して組合 立参科 高等学校 として発足 した。県立移 管運 動 では、同 じ く組合立の望 月高等学校 との統 合 に よる県立川西高等学校 が構想 されたが、 1952年 に普通科 、農業科、林業科 を備 えた県 立高校-移管 された。林業科新 設にあた り、 1946年 の学校組合会 は設置の理 由 を次の よ う に述べ てい る。 「北佐久郡 の森林面積 は30,254町歩であっ て総 面積 の53.1%にあた り、耕地面積 の比 率21.3%に比 し、格段 の差 が あるこ とが認 め られ る。 (中略)農地改革後 の今 日郡下 に おけ る農家の耕作面積一戸 当 り八反歩 であ り、且所有耕地五反歩かた-町 歩の農家が 40% も占め てい るこ とを知 る時、農家 にお け る、二、三 男問題対策 として、 その必要 性 を感 じる。 (中略)生活水準 を向上せ しめ る方策 としては、 どお して も林業面の開発 発展以外 に道が ないこ とであ る。」(21) 林業科発足 当時、参科高校 は 「理想的 な形 の 高校教育がお こなわれ た」(22)とい う。 固定通 学 区制度の指定 に よって、地 元3村 出身の生 徒 が75% を占め、農業後継者 も多 く、林業科 卒業生 の うち林業関係-の就職 も50% を占め る状況 (1952年)であった。 しか し、1955年以降志願者数 は漸減、1960 年 には競争率0.4倍 に低落 し、農業後継者 の入 学 も激減 した。設置当初の見通 しであった森 林 開発 に よる自立 を困錐 とした林業 を取 り巻 く社会情勢の厳 しさや、固定通学 区の解 除に よる進学競争の激化 と地元離れ な どに よって、 林業科 は14年間で廃止 を余儀 な くされた。参 科高校林業科 の事例 は、農業関連学科 を廃 止 した他 の 多 くの高校 に も通底 してい る。す な わち、地元の期待 、要望 とともに誕生 した学 科 が、学区制の変更や普通科志 向の高 ま り、
10 清泉女学院短期大学研究紀要(第14号) そ して何 よ りも地域 自体 の産 業構造 の変化 に よって、 その存 立基盤 を失 った こ とであ る。
むす びにか えて
1960年代 に始 まった長野 県の高校教 育 の 多 様 化施 策 の特徴 は、 まず第一 に、小学科 の種 類 の拡 大 よ りも、職 業学科 内部 の構 成 の変 化 とい う側 面 が強 か った点 で あ る。工 業科 へ の 傾 斜 と農 業科 、 家庭科 の縮 小 が、普/職 の構 成 比 を維持 す る中で行 なわれ たの で あ る。 第 二 に、総 合制 の解体 に よる単独校 化 であ る。 工 業 高校 、商業 高校 ともに極 力新 設校 を抑 え つ つ単独校 化す るには、既 設学科 の改廃 、 と くに農 業科 の廃 止 を もって対処 す るこ ととな った。 第三 に、農業科 、工 業科 ともに小 学科 数 を維持 あ るいは増加 させ た こ とで あ る。工 業科 の場合 、生徒 数 の増加 と比例 して い るが 、 農 業科 は縮 小過程 におけ る現状 維持 であ り、 この こ とが 各学科 の条件整備 とど うむす びつ い て い ったか は今 後 の課題 で あ る。 高等学校 の 多様 化 施策 は、産業構造 の変化 に よって生 じた需要 (産 業 界) と供 給 (高校 教 育 ) の ア ンバ ラ ンス を修 正 す る意 味合 い を もって い た。 それ は また、 各高校 が依 拠 した 地 域 の産 業 、生 活 の激変 を反映 した結 果 で も あ ったo 第1
次ベ ビー ブー ムに よる高校 進学 率 の急上 昇 お よび高校 教育 の量的拡 大 と学科 の 多様 化 とが相 乗効 果 とな って、高校 教 育 の 多様 化 とい うヨコの広 が りを もた ら したが、 同時 に それ は学校 間格 差 とい うタテの広 が り を助 長 す るこ とに もな った。 す でに学 区制 の 変 更や 大 学進学率 の上昇 に よって普通科 志 向 の高 ま りは起 きて いたが、 多様 化 以後、 この 問題 が表 面化 して くるの で あ る。 70年代 以 降 の動 向は次稿 の課 題 としたい。本稿 は、長 野 県の学科 改廃 の動 向 を概 略 す るに留 まったが、 今 回取 り上 げ なか った学 区制 の 問題や 、地域 と高校 との関係 、 と くに学科 改廃 と地域 の産 業 ・生 活構 造 の変 化 との関係 に関す る事例分 析 につ いては、別 の機会 に と りあげ たい と考 えて い る。 注 (1) 拙稿 「戦後地方における後期 中等教育制度改 革の展開 (1)一一長野県におけ る新制高等学校 制度の成立過程-
」
『清泉女学院短期大学紀要 第13号
』1995年。 (2)一連の経済界の意見書 ・要望書につ いては、 横浜国立大学現代教育研究所編 『中教審 と教育 改革一財界の教育要求 と中教審答申 (坐)-』
(三一書房、1971年) を参照 したo (3)飯田浩之 「新制高等学校の理念 と実際」門脇 厚司 ・飯 田浩之編 『高等学校 の社会 史』 東信 堂、1992年、p.210 (4)例 えば長野県では、旧制 中学に商業科 を併置 した大町南 (現大町)高校 では、商業教育に必 須の教材 ・設備が不十分 であったことを、商業 車斗廃止の一 因 としてい る (拙稿、前掲論文、 p.12)0 (5)飯恥 告之、前掲書、p.240 (6)長野県教育委員会 『教育年報1962』、p.54。 (7)長野県教育委員会 『長野県教育委員会三十年 史』長 野 県 教 育 史 刊 行 会、1980年、p.1 47-p.1480 (8) 14校 とは、松本探志、長野北、上 田松尾、飯 田高松、諏訪活陵、大町南、野沢北、飯 山北、 伊那北、松本 県 ヶ丘、屋代 東、須坂西、木 曽 西、岩村 田、の各高校 である。 (9) 長野県教育委員会 『長野県教育委員会三十年 史』、p.145。 (10)旧制 中学系の総合制高校 におけ る商業科廃 止の経緯については、拙稿 (1)を参照 された い。 (ll) 「地域高校」についての公的 な定義 はない が、一般に 「地勢や交通 の面か ら特殊 な地域に ある高校 で、地域がその必要 を認め設立、維持 に関わって きた高校」 といわれているo (12)佐々木享「高校の学科構成の歴史の概要」『名西 山●戦後地方における後期中等教育制度改革の展開 (2) 古屋大学教育学部紀要 第39巻1号』1992年。 (13)佐々木享、前掲論文所収 の表 「高等学校 に設 置 されている学科 の種類の変遷」によるo (14) 『長野県産業教育100年史』長野県産業教育振 興会、1986年、p.1230 (15) 同上書、p.1120 (16) 蘇南高等学校三十年 史編集委月会 『蘇南高校 三十年史』、1983年。 (17)同上書、p.60 (18)
〝
、p.66。 (19) 水野清 「新制高等学校 の制度理念 と多様化政 策」
『岐阜経済大学論集 第15巻 第2号』1981年。 (20)
『長野県産業教育100年史』長野県産業教育振 興会、1986年、p.3500 (21) 長野県参科 高等学校 八十周年 記念誌編集委 員会 『参科高等学校 八十周年記念誌』1981年、 p.187-p.188。 (22)同上書、p.1750 ll清泉女学 院短期 大学 研 究紀 要 (第14号) 、、\\\\、 高校進学率 (長野) 高校進学率 (全国) 第2 ・3次産業就業者串 (全国) 第2 ・3次産業就業者串 (長野) 第1次産業就業者率 (長野) 第1次産業就業者串 (全国) 1950 1955 1960 1965 1970 1975 図 1 高校進学率 と産業別就葉書割合の推移 出所 ) F長野県産業教育 100年史 J 1986年 、長野県教育 委鼻会 q教育年 報 A よ り作成 19571
9
5819601
9611962196319641965196719
681969 図2 課程別進学率 (大学 ・短大他)の推移 (公立全 日制) 出所)長野県教育委見会 『教育年報』、文部省 『学校基本調査』より作成西山 .戦後地 方における後期 中等教育制度改革の展開 (2) 表1 課程別 生徒 割 合 の推 移 (公立 全 日制 ) (㌔) 13 1955年1956 1957 1958 1960 1961 196219631964 1965 1967 1968 19691970 普 通 科 63,0 64.0 64.1 64.0 64.1 64.9 64.5 65.365.8 66.2 66.2 65,9 65.7 65.5 (全国) 59.8 59.4 59.1 58.7 58.3 58.5 58.458.7 59.1 59.5 59.2 58.9 58.6 58.5 工 業 科 6.0 6.2 6.1 6.2 7.1 8.1 9.1 9.1 9.7 9.8 10,2 10.4 10.6 10.8 (全国) 9.2 9.2 9.1 9.3 10.2 10.9 11.7 12.2 12.2 12.312 .5 12.8 13.113.4 商 業 科 10.0 8.7 8.8 8.7 8.5 8.7 8.7 9.0 9.1 9.3 9.5 9.6 9.7 9.8 (全国) 14.3 14.7 15.5 16.0 16.5 16.5 16.5 16 .9 17.0 16.9 16.9 16.8 16.6 16.4 農 業 科 16.O ld.5 15.5 15.2 14.7 13.3 12.A ll.211.2 10.8 10.4 10.3 10.3 10.3 (全国) 7.8 7.6 7.3 7.1 6.9 6.2 5.9 5,4 5.3 5.2 5.3 5.3 5.3 5.3 家 庭 科 6;0 6.6 6.5 5.9 5.6 5.0 5.0 4.6 4.2 3.8 3.7 3.8 3.3 3.2 出所)長野県教育委鼻会 『教育年報』、文部省 『我が国の教育水準』1980年より作成 表2 学科 数 (小 学科 )割合 の推移 (公立 全 日制 ) (㌔) 1955年1956 1957 1958 1960 1961 1962 19631964 1965 1967 1968 1969 1970 普 通 科 38.940.6 40.8 40 . 3 40.1 39.6 39.6 37.3 37.0 37.9 37.7 37.7 37.3 36.8I (全国) 45.0 45.5 45.6 45.0 45.0 45.14 5 .4 45.7 46.8 48.0 48,1 48.4 48.0 48.1 工 業 科 l l.4 11.9 12.0 12.5 15.0 18.118 .1 21.1 21.8 22.4 22.2 22.2 23.0 22 . 7 (全国) 6.2 6.2 6.5 6.7 7.3 8.0 8.8 9.6 10.0 10.7 10.6 10.7 11.0 10.8 商 業 科 8.7 9.0 9.2 9.O 8.2 8.1 8.1 8.1 7.9 8.1 8.0 8.0 8.1 8.0 (全国) 1
2
,
0 12.5 13.0 13.6 14.2 14.5 14.9 15.2 15.5 15.6 16.3 16.3 16.3 16.5 農 業 科 28.2 26.626.8 27.1 25.9 24.824.8 25.5 25.5 25.0 25.3 25.3 25.5 26,4 (全国) 16.2 15.5 15.0 14.814.3 13.9 13.1 12.3 11.5 10.6 10.0 9.6 9.4 8.9 家 庭 科 12.8 11.9 11.3 11.1 10.9 9.4 9.4 8.1 7,9 6.8 6.8 6.8 6.2 6.1 (全国) 19.2 19.1 18.8 18.617.8 17.3 16.6 15.9 15.513.5 12.6 12.111.8 11.6 出所)長野県教育委鼻会 『教育年報』、文部省 『学校基本調査』 ・『日本の教育統計』より作成表3 1950年代∼ 60年代 の 学科 改廃 の展 開 (普 通 科 ・工 業 科 ・商業 科 ・農 業相 ) ○ 設 t ●脆止 ※ 「捻 合 制」 とは甘通 事斗を含 む こ とをい う 普 投 書 学 校 数 過 ○北 部 ○ 蘇 南 ○ 長 野 鼻 ○ 上 田東 ○白馬 ○ 長野 第 二 市 立 ●穂高 料 ○ 阿 智 ○坂城 ●北安A 工 # 料 設 正 学 校 数 9- . .-8- . --..9 14-- -...15..-.16- . ● 小 諸 実 ○ 飯 田工 ○ 岩 村 田 ○ 蘇 南 ○ 駒 ヶ根 工 ○ 中 野 実 ○ 池 田 工 ○ 箕輪○ 赤 穂 小 小
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下工 手 平 めt 子 工 手木 材 工 芸栃 科ー -は策木気a放 18.... -.17.--.. ..l8...-22-- 27... ...-..34-...36- , ...37 -● 小 指 実 ○ 飯 田工 ○ 岩 村 田 ○ 駒 ヶ根 工 ○ 中 野 実 ○ 池 田 工 ○実損○赤津 2...- -...- ..-....31...5.... ...l0.-.-ll.-... ○ 上田 ○ 坂 田工 ○ 岩村 田○ 駒 ヶ根 工 千曲 ○岡谷工 ○ 中野 実 ○ 池 田工 ○ 箕 輪 〇 位 南 ○駒 ヶ根 工 ○ 中 野実 ○ 池 田工 1○ 池 田 I -商 設 t 学 校 数 15.... .l3- . .12- .13.-. 莱 ●大町 ●岡谷南 ○蘇南 ■・.・ー J1 範 ,R ・k 焼 罰 甜 /g j汁 J仰 望 紺 青 姻 (部 )4 % )En lT . 井 宗 旨 jj .(; i,. I+ か 落 選 や 祁 簿 功 撃 掃 tiJL 溝 3 御 璽 ( 2 ) l I.) 1952 1953 1955 J956 1957 1958 1960 1961 1962 1963 1964 ∫ 辛 料 投 al 学 校 放 ●穂高 ●中箕