Title
都市観光地の形成と発展の方向−那覇市の事例を中心に
して−
Author(s)
石川, 政秀
Citation
沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 12(1): 1-23
Issue Date
1987-09-30
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6761
都市観光地の形成と発展の方向
 ̄那覇市の事例を中心にして- 石川政秀 1那覇市の地理的位置と生活還境 2戦後那覇市の経済復興 3那覇市の産業形態 4那覇市観光振興計画について 1那覇市の地理的位置と生活還境 那覇市は沖縄本島南部に位置し、北は浦添市、東は西原町、南風原町、南 は豊見城村にはさまれ、西は南支那海に面丁系沖縄県の代表的県都である。 その市域は東西10.3h卯で南北が78h"もあ。台地と平野から成り立っていろ。 昔は首里の城下町と港のある那覇の市街地、小禄、真和志の隣接市村がそれ ぞれ分離構成されていたが、戦後の市町村合併で今日の那覇市が形成される にいたった。 那覇if]「は14世紀まで漁村であり、土地の人々は「なぁ-ふぁ」と呼ん でいたことからすると、那覇港外の漁場から来たものであろう。漁場は古代 日本語で「なば」と呼ばれ、那覇は元来島袋源七、伊波普猷の両研究家が主 張しておられるように漁場を控えた-寒村にすぎなかったが、1429年第一 尚氏の佐敷按司尚巴志が亘山統一に成功し、那覇村を中国、本土、南方諸国 の貿易港に定めてから飛躍的に発展するにいたったと考えられろ。 那覇の古名を「浮島」と呼ばれたことからすると、那覇は安里川、国場川 にはさまれた三角洲から成り、昔は首里の山川付近から見下ろすと、あたか 1も沖に浮かぶ島のごとく緑樹繁り合う島であり、安里川を舟でさかのぼると 首里の寒川まで達し、泊、牧志の人々は戦後まで那覇に行くと言っていた。 おもる草紙に那覇を泊と対稲して、「那覇どまり」、泊は「天久ぐち」と唱 っているが、進貢船が大型化するにともない、泊港では狭すぎるとして那 覇港に移り、首里王府の表玄関として中国の冊封使を迎えたものであろう。 1403年(応永10)親見世(店)、天使館、御物城(公共倉庫)などが 建設され、那覇港には迎賓亭も設けられ、いちだんと港湾施設が整備するに ともない、那覇は東と西の両村落に分かれた。冊封使一行が半ケ年も滞在す るようになると上の倉、若狭町も分立するにいたった。 那覇の1日村は次第に人口の増加につれて東、西、泉崎、久米、若狭町とひ ろがり、島津氏支配以後になると「那覇四町」と呼ばれた。古文書に四町と は西、東、若狭町、泉崎を指すとあり、若狭町は村民への野菜供給の市場が おかれたことから、那覇の東市場と対比して若狭町(市場)と呼ばれていた のが、いつの間にか地名に転化したものであろう。若狭町は戦前まで松尾山 に続いて砂丘が発達し、野菜畑の見られる邸町であった。 那覇市民の悩みは今も昔も飲料水の確保であり、上ノ蔵、辻、久米村の一部に しか井戸はなく、飲料水の供給はもっぱら落平(小禄村)かあるいは泉崎の 樋川に頼っていた。港周辺に停泊する舟はいずれも水を買わねばならず、奥 武山の向かい側にある落平から水を運ぶ給水船で賄なわれた。那覇人はもっ ぱら気候、舟便、生活に話題が集中していたので、いつしか人々は四町を中 心にして四町気質が形成され、周辺から流れ込む寄留民も行政上那覇に住ん でいることを特権意識と考え、那覇方言を話すことを誇りにしていた。 1609年(慶長14)島津氏が琉球王国を支配してから那覇士族はますま す生活が窮迫し、王国の石高制限で王府の役職が少なくなって、旧家の次男、 三男といえども都落ちして農村で開拓するか、あるいは馴れぬ商工業に転ず るしかなかった。1733年(享保18)首里王府は那覇士族の妻たちに市場 参入を認め、商業活動で女性の活動領域を広めた。王府は若狭町の職人層で 漆工芸、下駄造り、筆墨等に従事することを許したのみならず、那覇、泊、 久米村では職人に税を免除したから、商工業は那覇の地に栄えた。組踊「忠 2
孝婦人」の一節に「我身や那覇若狭町から始めて旅の者」とあるように、行 商人もここで商品を仕入れていたと考えられろ。しかし東市場は市場組織が 拡大したので、若狭町はもっぱら職人の町として繁栄するにいたったので あろう。 明治の廃藩置県ごろ、首里は人口が45,000人もあったが、那覇は15,000 人で久米村、久茂地、泊合わせてやっと30,000人足らずであった。しかし 政治の中心が首里から那覇へ移るにつれ、首里は下層士族の都落ちで急激に 人口が減り、反対に那覇は商工業の繁栄で人口は激増した。 1883年(明治18)国立第147銀行那覇支店が東村の県庁向かいに建て られ、その投資で西新町一丁目、二丁目が埋め立てられ、明治の末ごろ尚順 男爵の投資で西新町三丁目が埋立てられ、その中央に大正劇場という琉球芝 居の常設館が建てられた。1918年(大正7)今の旭町から東町5丁目にか けて埋立て工事が始まり、仲島の前の浜から薬師堂にかけて新開地ができ、 軽便鉄道の出発駅が設けられたが、現在のパスターミナルの構内には遊廓跡 として仲島:の大石が残っている。 県経済の発展は那覇港の拡張工事を呼び起こした。1916年(大正5)か ら県の凌喋工事が始まり、通堂町一丁目にある唐船小堀、硫黄城など、壬府 の進貢貿易に使われた施設は次々に拡張工事で姿を消し、1883年(明治16) 遊廓で名高い渡地も垣花と木橋で結ばれ、1902年(明治36)に御物城寄 りに木橋が架けられ、南北二橋となって明治橋と呼ばれた。1941年(昭和 16)北橋は北寄りに移動し、同年8月12日南橋も完成したが、今次大戦 で名物の木橋も滅失するにいたった。ちょうど現在の奥武山運動場になって いる付近である。 1933年(昭和8)12月、飲料水の供給は上水道工事の完成で解消し、貯 水池は上ノ屋台上に設けられた。市は水道工事に-部国庫の補助金を仰ぎ、 天久の敷地4,400坪を買収し、三ヶ年の継続事業で工費85万3,950円を要 したが、これで那覇市民は水を買ったり、水を貯める必要もなくなった。電 気事業は1910年(明治43)から民営で始められ、1916年(大正5)に は業務を拡張し、首里一那覇間を走る電車まで買収したが、バス路線の繁栄 3
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神経を使ったと聞いていよ)沖縄県の場合、全国よりもおくれて1896年
(明治29)に特別区となったが、区長は知事の任命で那覇区長は島尻郡長 の兼任、首里区長は中頭郡長の兼任であったが、いずれも本土から赴任した 官吏であるから、自ら選ぶ権利のない那覇人にとっては大きな不満の種であ った。そのため市民の間に自治権の拡大、一般市制施行の世論がおこったけ れども、沖縄県の市町村制は本土におくれ1909年(明治42)にやっと県 制が施行され、県会が設置されたのであるから、市制町村制は33年、県制 施行は19年もおくれていろ。本土政府は沖縄県の場合、制度文物、風俗習 慣がいちじるしく異なっており、民度も低く、財政力も弱いという理由で、 他府県並の自治制施行はまだ速いと見たのであろう。 1913年(大正2)字名は町名に変更されたが、実際は大正10年の市制 施行で西本町、西新町、通堂町、東町、旭町、上ノ蔵町、辻町、久米町、天 妃町、苫狭町、松山町、松下町、久茂地町、美栄橋町、上泉町、下泉町、高 橋町、祭元寺町、牧志町、垣花町、111下町、住吉町の22ケ町から構成され た。 5これらの町々は1944年(昭和19)の10.10空襲で約90%が失われ、 市内は瓦礫の山と化したが、山形屋百貨店、円山号の鉄筋コンクリートも残 骸をさらし、わずかに若狭町、上泉町の一部と牧志町、壼屋町に民家が残っ た。市民の80%は空襲前後に国頭山地や本土に疎開したが、ある者は焼跡 に仮小屋を建てたり、残存家屋に割込んで住んでいる市民もいた。しかし 1945年(昭和20)4月1日米軍が読谷、嘉手納村に上陸するや、大多数 の市民は散り散りになり、市長も不在のまま市役所は安里八幡宮付近に移転 し、兼島助役も止むなく市長代理を勤めたが、米軍の接近で日本軍と行動を 共にし、市職員の多くが摩文仁海岸で戦死するにいたった。 2戦後那覇市の経済復興 1946年(昭和21)1月、那覇市民の先発隊が壷屋町に入り、市民は既 存の家屋の修理をして住んだり、あるいは草地の上にテント小屋を作って生 活の第一歩を築いた。同年4月戦後初代市長に当間重剛氏が任命され、1947 年(昭和22)1月那覇市役所は壷屋町から牧志公設市場敷地に移転し、那 覇市の復興が始まったが、本土、国頭からの疎開民を壷屋、牧志だけで受け 入れるのは難しく、真和志寄りに人家が拡がっていった.当時米軍は沖縄本 島を日本上陸作戦の根拠地にしようと、数多くの物資集積場を建設したが、 1日那覇市内、泊も米軍物資の集積場と化したものの、日本軍捕虜の引き揚げ で沖縄住民を港湾作業に駆り立てるようになった。1947年(昭和22)1月 沖縄民政府告示18号によって港湾作業隊の宿舎を奥武山、楚辺、壷川、 松尾、旭町、美田(ペリー区)、山下町一帯に割当て、「みなと村」と呼ん だが、初代村長に沖縄民政府は国場幸太郎氏を任命した。 1947年(昭和22)1月、現在の開南から松尾に抜ける浮島通りに闇市 場ができ、米軍人の横流し物質、戦果と禰する販売禁止品が出回った。当時 市民の一日配給量は2,400カロリーと計算され、栄養不足で自然と闇市場に足 が向いた。市は闇市場に露店商人がふえるにつれ、島内産品の販売を目標に 6
して1948年(昭和23)4月那覇公設市場を開設したが、公設市場の位置 が上岡作太郎氏所有の湿地帯であるため生鮮食料品の販売や衛生還境に悪い という理由で、1967年(昭和42)ガーブ川の改修工事をすすめ、鮮魚類、 肉類の販売に適する第二公設市場の建設を二ヶ年がかりで1969年(昭和44) 11月に完成した。 市民の娯楽機関としては映画館が市内のあちらこちらに建てられたが、と くに市民に人気のあったのは高良一氏所有の国際劇場(現在の国際ショッピ ング・プラザ)で、その名前をとっていつしか付近を国際通りと呼ぶように なり、後に県庁前から安里までの全市街通りの名称になった。戦後ジャーナ リズムはこの通りを奇跡の1マイルと賞賛し、やがて那覇市のダウンタウン になるものと考えたのかも知れない。現在国際通りは那覇市のメイン・スト リートとなったため、商店街の近代化計画がすすめられ、ファッションピル が立ち並んでいろ。 1947年(昭和22)沖縄民政府は玉城村親慶原から|日上山国民学校に移 り、翌年那覇市の復興計画は米軍政府の承認を受け、1951年(昭和26) 3月まず若狭町と辻町が開放され、8月東町に区画整理が始められ、50年 から57年にかけて周辺市村との合併交渉が行なわれた。1952年(昭和27) 当時那覇市の面積はわずか44平方キロに約6万2,000人の人口をかかえて いるので、大那覇市建設構想が都市計画の権威石川栄耀博士の下に作成し、二 市二村の合併を計画策定したが、1954年(昭和29)9月首里市、小禄村 と合併し、1957年(昭和32)12月、真和志市と合併して那覇市の人口は 一躍18万6,000人を数え、県都にふさわしい政治、経済、文化の中心地と なった。 首里は昔から王府の置かれた城下町として栄えたが、明治の廃藩置県で職 を失い人口の急激な減少が始まった。しかも今次大戦で米軍の集中砲火を浴 びて文化財の多数を失ったが、国頭、本土へ疎開していた市民も次々に帰 郷し、1946年(昭和21)ごろ汀良町から烏堀、赤平、当ノ蔵、赤田、崎 山町にかけてテント小屋が建てられ、復興が始まった。1950年(昭和25) 5月、米軍政府の援助で琉球大学が廃嘘と化した首里城内に建てられ、具志 7
)11村にあった文教学校を引き継いで、県内の最高学府になった。1947年 (昭和22)豊平良顕氏は焼跡から重要文化財を集めて首里博物館を建設し た。こうして国宝級の文化財は失ったものの、現在との地域は国が県立芸大 を始め、伝統工芸の継承をはかっているので、首里城周辺の史跡、歴史公園
の建設計画がすすめられろと、遠からず王朝文化の再興を促がすものと期待
したい。 戦後いちばん変貌を遂げたところは小禄村であり、1946年(昭和21)2月、軍占領地から解放されたものの、実際に民間人が住める地域は字高良、
宇栄原一帯に限られていたから、同安次嶺、鏡水、大嶺、赤嶺、金城の住民
は字小禄の長田原、字田原所有の不知嶺原の原野に約3万6,000坪の土地を
購入し、約500世帯の土地利用組合員が移動して新部落を建設した。これよ
り国場川の漫湖の一部を埋立て、1970年(昭和45)、約5,000坪の新開
地に多数の村民が現在の鏡原町を築いた。このように小禄村が那覇市と1954
年(昭和29)9月に合併したのも全面積の70%が米軍用地に使用され、
小禄の空軍基地が拡大されるにつれ、村民は居住地を追われ、馴れぬ土地で生活を始めるにいたったのが合併の理由である厚)
1960年(昭和35)に国場川の第一次工事が完成し、本土復帰事業として漫湖公園が建設された。また安謝海岸の埋立て工事で港町、曙町ができ、
安謝新港付近は倉庫や工場、商店が立ち並んで、バースには1万トン級の大
型船も出入りするようになった。しかし反対に港町の活気が薄れたのは那覇
港周辺で、米軍に接収された垣花町、住吉町は時より訪れる米艦船の寄港地
になっており、全体として米軍、民間専用ふ頭と限定ざれ今後大きな経済発
展は望めない地域になった。かって入船出船の賑わいを極めた那鞠港もいま
はわずかに訪れる外国船、国内航路船を待つのみである。 那覇市の戦後は米軍の兵姑基地に接収された地域が余りにも広大であった ために、住民の居住地区は壷屋、牧志から始まり次第に旧那j鯛市街に及んだ。泊、天久の米軍モータープールも返還されたが、銘苅住民、安謝の一部住民
は米軍家族用地として立ち退きを迫られ、那覇市はこれら立ち退き住民の居
住地区として代替地の開発に迫られた。戦後間もなく若狭町、潟原一帯を蝿
8め立てたり、弁ケ嶽一帯、真加比一帯の宅地開発を行った。景勝地として知 られる若狭海岸も埋め立てられ、重民町となり、いまは唯市営住宅の児童公 園内に夫婦岩が残っているだけである。 1972(昭和47)5月、沖縄の本土復帰で本土政府は米軍に代って 県政に財政上の高率補助を行った。復帰特別措置法をもって県民生活 を守ると共に、第一次振興開発計画を策定して日本経済の波及効果を及ぼそ うとした。日本政府は1973年(昭和48)7月の若夏国体、1975年(昭和 50)7月21日から半ケ年国際海洋博覧会を開催し復帰記念事業を行った。 那覇市でも安謝新港建設、下水道建設、不良住宅改良、区画整理事業等の都 市再開発事業をすすめたが、自動車の増加に対応して道路の建設が追いつか ず、高層ピル、病院、学校の建設は進んだけれども、居住空間の規制がなか ったため生活環境は悪化して騒音、悪臭、水質汚濁等の公害は市民生活の重 い負担になっていろ。都市公園の整備、住宅建設、過密枝解消の悩みは地価 高騰のために進展しない。天久の米軍牧港地区の返還は1987年(昭和62) 6月に実現しても、区画整理で地主の減歩率承認はなかなか進展しない状況 である。 那覇市は人口規模30万人の県都に成長するにつれ、壷川、古波蔵などの 工場街を都市計画によって移転させ、樋川のスラム街も整理して市営住宅に するとか、「教育と福祉の町づくり」を目標に都市の再開発事業をすすめて きたが、市財政の膨張によって企業側の負担が重くなり企業の側では事業税 の軽減を図って浦添市、西原町、南風原町、豊見城村等の隣接市町村へ移動 するケースがふえてきた。いつぽう商店街の都心部への集中化は地価の高騰、 駐車場設置の困難さを増し、自家用車がふえるに従って交通渋滞、騒音、悪 臭、水質汚濁等の公害をふやし都市行政の対応をおくらせている。戦前商工 業の町として栄えてきた那覇市は今では第二次産業の製造業が少なくなり、 第三次産業主導型の消費都市に変貌しつつある。1973年(昭和47)の本 土復帰を境に本土企業が約400社進出し、その後更に一部の地元且企業も系列 化し本土企業の支店網に組み込まれたが、苦しい対応を強いられた地元中小 企業は本土系企業との業務提携や異業種間の交流をつうじて技術革新を行い、 9
足腰を強めて経営のノウハウを実践しようとしている現状で,ある。 3那覇市の産業形態 那覇市の産業復興は1945年12月、壷屋町の陶器から始まり、やがて大 城鎌吉氏らの努力で互製造や住宅建築も拡大したが、当初細々と民間企業は 市民の衣食住の基本的な欲求を充す程度であったが、1949年(昭和24) 1月琉球列島貿易庁が現在の県庁所在地に移り、米軍基地からのドル収入で 欠乏していた日用雑貨を本土側から買いつけ、輸入商人は貿易庁で入札して 市場に販売した。このとき、那覇牧志の商店街では早朝から門前市をなす有 様であったから、この時代を「貿易庁ブーム」と呼んだほどであった。やが て市中に物が出回り始めろと、流通組織も整うようになり、開南の闇市場も 活気を失い始めたが、1950年(昭和25)10月、米国軍政府は布令第26 号「琉球列島における外国貿易及び貿易手続き」を公布し民間貿易の再開に
踏みきったP)
1950年ごろから沖縄基地の重要性が認識され、54年のアイゼンハウア ー米大統領の声明で沖縄基地の無期限保有が唱われた。このときから沖縄本 島を中心に軍工事が進められ、沖縄本島の約25%、約4分の1が米軍基地 に接収された。全県下の耕地面積で見れば約8.7%も軍事基地に変ったわけ で、那覇市も小禄の軍港、天久の米軍家族の住宅地をかかえ|日那覇市の一部 が返還されてもなお宅地の不足を来し、安謝海岸の埋め立て工事や若狭海岸 の宅地化などで用地不足の問題解決を図った゜しかし1965年ごろからベト ナム戦争の激化につれ軍労務者の雇用、とくに超勤手当は自動車購入を速め、 市民の消費意欲を高めた。 〆基地に接近する中北部都市では米兵相手の商業サーヴィス業者がふえ、浦 添、宜野湾、沖縄、具志Ⅱ|、石川の基地門前町に風俗営業の赤線地帯が誕生 し、米政府の1950年4月「1ドル=120B円」体制は輸入物資の拡大を産 んで、県内産の生産意欲をいちじるしく阻んだ。県外から安い物資を輸入し -10-たことは米軍の基地建設に大きく貢献したものの、第二次産業、とくに製造 業では本土依存体制を強め今日の生産基盤の弱体化を招いた。1958年(昭 和33)9月、米軍政府はドル通貨への転換を行い、貿易の自由化を図った が輸入販売業がいちじるしく発展するのにともない、第三次産業は拡大した ものの、経済体制はよく「ザル経済」と呼ばれるほど生産■基■盤は未整備のま
ま1972年(昭和47)の本土復帰を迎えた![
第三次産業とは卸・小売業、金融、保険、不動産業、運輸、通信、電気、 ガス供給業、、ホテル、旅行社のサーヴィス業、それに弁護士、公認会計士、 税理士の相談業務、あるいは教員、公務員等の公共サーヴィスに従事する人 も含むので、いわゆる第一次産業(農林水産業)、第二次産業(製造業、建 設業)以外の産業形態を示す用語である。昭和58年の県民総生産額から見 ると、総生産額1兆8,714億円のうち、第一次産業が47%、第二次産業が 21.3%、第三次産業が76.3%を示しているが、産業全体からすると圧倒的 に第三次産業の比重が高い。日本の産業構造のなかでもっとも生産性の高い のは第二次産業、とくに製造業に経済の波及効果が高いけれども、沖縄県で は7%台で、全国平均の30%と比べろといちじるしく低い。 第三次産業の763%という構造比率は全国平均の623%と比べ、余りに も卸・小売業を始めとする商業、サーヴィス面の雇用者をふやし、第三次産 業従事者は県民4人のうち3人という高率である。とくに教員、公務員は全国の48%に比べ、沖縄県は97%と、ほぼ全国平均の二倍の就業率であ弩。
しかし高率は何も悪いことではなく、それに対応する公共サーヴィスを市民 に提供すれば問題は解決するが、最近沖縄経済の非効率性が指摘され、全国 でも所得水準がいちばん低い、日本一の貧乏県と言われるが、経済のソフト 化、サーヴィス化がすすめば、研究開発体制の確立にともない国際化、情報 化、高齢化社会が到来しても将来に期待できるものと思う。 昭和61年7月那覇市の調査では全事業所が22,191ケ所あるのに対し、 従業者は12万7,569人で、圧倒的に卸・小売業、飲食業従事者が多い。卸・ 小売業、飲食店は1万3,203業者で全体の59.5%にあたる。次いでサーヴィ ス業者は5,036ケ所で、全体の227%であり、それに比べて不動産業が -11-図1産業別にみた事業所の割合 運輸・通億乗 製造業 建設業 不動産業 サービス業 ・林業 ・保険業 ・カヌ・熱 ・水道業 図2産業別にみた従業者の割合 建設業 運輸週掘業 7.3%、建設業が3.8%、製造業が3%程度であり、きわめて狭義の商業(卸 小売、飲食業)の従事者が多く、全産業構造のうち観光、サーヴィス関係も 合わせろと、全体の82%を占めていることになる。従業者数で言えば卸。 小売業、飲食店が5万5,896人で、全体の43%ともっとも多く、ついでサ ーヴィス関係が3万2,238人と全体の25.3%であり、運輸、通信業が1万 2,391人で9.7%、建設業が8,869人で6.9の順になっていろ。 本土復帰以降、本士の大手商業資本が沖縄に進出し、那覇市内の目抜き通 りに支社支店を建設したが、1985年(昭和60)那覇市の商業統計調査によ れば全店舗数は8,128店、その従業員数は3万3,750人で、年間の商品販売 -12-
表1商店数、従業者数及び年間商品販売額の推進 増減率 対前回年平均 珀鐘率 対前回年平均
同
Ⅱ(蓬,…蝋…)-(。、/霧霊濤-…。……-箸…-吾
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頚は9,552億1,537万円であるF)これは昭和51年度の調査と比較すると
額は9,552億1,537万円である6.`これは昭和51年度の調査と比較すると商 店数は7.8%の減少となり、従業員数も2.6%減少しているが、反対に年間 の商品販売額は8.9%と僅かながら増加しているが、1975年(昭和50)3 月に策定された「那覇地域商業近代化計画」の実施によるものであろう。こ -13- 竃案分類別 昭和51年5月1日現在 実数 増減率 対前回 年平均 構成比 昭和弘年6月1日現在 実数 増減率 対前回 年平均 構成比 合叶 卸売粟 小売業 商店数 店舟野 a9894.824 1.49333.915.7 7.476050.2 $064 閲烟田 1 店毎$ a530△4.8△1.0 1.302△128△4.5 7,234△32△1.1 $ 037 m過“ 1 合叶 卸売藁 小売藁 従乗者欽 人 31.52313.06.3 13.17820.69.8 】8.3458、I4.0 100.0 418 58.2 人 2a509△0.4△2.2 10.800△18.0△6.7 18.70920 10qO 3a6 合、f 卸売束 小売軍 年間商品販売額 万円 54,18226048.220.9 38.32249140J18.6 15.859.布9 615幻.】 100LO 70.7 29.3 万円 5a83a93910.433 42.681.6391】、4 17.1526300alZ6 1000 713 28.7 画案分類別 昭和師年6月1日現・在 実致 増減率 対舸回 年平均 ■成比 昭和60年5月1日現在 実数 増撞率 対前回 年平均 揖成比 合叶 卸売室 小発案 函店欽 店毎舟 8820331.1 1.50315.44.9 7.3171.10.4 鬼 000 ●●● 的灯囲 1 ・店刃寿 8128△1.8△28 1.455△3.2△1.1 6.673△8.8△32 缶 091 uⅢ2 018 1 合叶 卸売重 小売哀 従戎者政 人 34.63817.45.5 13.43724.47.6 2】,20113.34.3 082 切羽則 1 人 狐150△26△OL9 12.700△5.5△20 21.050△0.7△0.2 064 ●●● 072 036 1 合叶 卸売戎 ト小売室 年間商品阪元額 万円 87,695,3094a813.8 65.859.51154315.6 ’21.835.798Z7.384 100.0 75.1 24.9 万円 ,a521,637a93.0 71.572.1梅8.72.9 23.明9.4919.732 100.0 74.9 25.1の計画書の策定は中小企業庁および日本商工会議所の要請を受け、4つの専 門委員会によってまとめられたが、旧態依然たる那覇の流通組織を合理化す ることによって、商業中心地として牧志市場付近を近代的な歩行者空間に、 アメニティ空間の創造をはかり、アーケードで直射日光老遮ぎることや樹木
や広場をつくることを提案している!)しかし都心部への交通乗り入れは到底
駐車場の設置が追いつけないことから、モノレール線を建設して交通混雑の 解消を図ろうとしているが、パス企業との話し合いがすすまず、県は昭和62 年度の理事会でモノレール運営に疑問の声を投げかけた。 ̄ 大手企業の百貨店、スーパー、飲食業チェーンは那覇市の商業形態を変え てきたが、激烈な販売競争は浦添市、南風原町、豊見城村などの隣接市町村まで巻き込んで、大きな商店街の近代化計画をすすめているd現在個人消費
が伸びているのは東京都だけで、昭和62年6月の全国百貨店売上高では東
京地区が7.4%増と高い伸びを示したのに対し、東京を除く全国平均は27%増と相変らず低い伸び率で、東京地区だIブが突出している感じである。昨年秋
ごろからの現象として九州、北海道、東北などの地方都市では構造不況業種 の鉄鋼、造船、鉱山の第二次産業が次々に落ち込んで地域に多くの失業者を 生み出している。しかし九州地区の沖縄県ではなぜ構造不況が深化しないの か、それは観光産業、建設業の伸びが失業者を救済しているからである。次の図は昭和58年度県統計の受取額を示すもので、県外からの受取総額
1兆4,083億7,000万円のうち、県外から県財政への移転(公共事業費、福 祉費、教育費{その他)は7,669億9,600万円で全体の545%を占めてい る。本±政府の財政援助に加えて次に高いのが観光収入であり、2,042億円 で全体の145%に当る。それに比べろと軍関係の受取りは10%ぐらいで、基幹産業の砂糖およびパイン缶詰類は271億7,800万円でL9%にすぎな
‐Rい い。これらの財政統計を見てもいかに観光産業が県経済jiP支えているか、わ かるであろう。その意味で「観光振興は地域活性化の手段」と言っても、言 いすぎではない。かって観光振興は一部の業者だけの問題であって、地域住 民に馴じみの薄い言葉だった。観光地の清掃にしても業者がやるべきもので、自分の門前を掃き清めれば良いとした。しかし、地域産業が停滞し不況の影
-14-図3県外受取の構成(昭和58年度) (単位:百万円) ① 、 砂鮒及びパインui姑 ③ 運賃・保険料59976 石汕製品114,631(8. 外から財政への移転 7660996(54.5$) ,軍関係受収140,330 (10.0%) IHI光収入204,2619 (14.5%) 表1県外受'取〆の推移; (単位:百万円、%) 県外受取厘光収入砂聴及びパ石油製品軍関係受取その他 イン笛(①+② 比皎胎額比較 nm (注)r実数はいずれも会81年旗である。 2資料は県企画開発部県民所得統計。 県観光振興基本計画より抜粋 -15- 県外受取 比較 観光収、入 '比較 砂穂及びパ イン缶 貼額 比較 石油製品, |比較 車関係受取
陣
そ】の他鰯②Fiii
実 数 昭和50年度 51年度 52年度 53年度 54年度 55年度 56年度 57年度 58年度 皿㈹眼脆弱鯛豹釦加 096562383 D00000●●● 則記砺幻氾ね田四肥 880123444 ▲■▲■00。■▼●▼●▼■ロ0 1111111 000000000 ●●●●●●●●● ”㈹伽㈹㈹㈹、㈹、. 111111111 693413962弱刎.駆卯祀晦調「師団 0.●000.0000 756320694 260488990 1 1111112 876731415 ●●。●■●●●●●● 4.70243344 .1 1111111 043314098 496886667 118825841 00●60,000.● 7.72263527 222222222 123017869 0●●●●●●●● 3322‐21111 162,311 155.747 1700931 1330022 153,958 2240010 2140666 146.378 114,631 830812631 ●●●●.●■●●● 887126408 11111111 560988693お別記刷闘、死闘弧 0》・-00000.」●、一● 皿、皿伽Mn鋼諏㈹ ●■△I●■△■■〈●Ⅱ公,●■(●■△●■&■■凸●■△ 961022270 ●●●●●●■●□ 120988990 111 1 郷螂佃・噸・”《””湖、 。●■■ワ--■〉|■ロ▲P‐.●▽|■や■▼▲▽ 仙船M幻砺・羽妬皿、 446788899 420538035 ●●●。■●●●●● 1.80430145 5.56666666が射し始めろと、いっせいに地域経済の活性化の手段として観光産業が見直 され、観光産業に対し県民の熱い視線がそそがれるようになった。それほど 沖縄県経済では観光産業の占める位置は高くなったのであろう。 4那覇市の観光振興計画について 那覇市は昭和63年に新那覇市総合計画を策定することになっており、昭 和63年から72年までの十年間、市政の方向を平和都市、生活都市、文化都 市を標傍する「あけもどろの都市づくり」に邇進しようとしている。しかし あけもどろの都市像は市民に分かり難いことから海洋都市、劇場都市、観光 文化都市の構想も出始めていろ。市の説明では「ふれあいの心が育つ平和都 市」、「南島の風土が息づく住みよい生活都市」、「快適で活力にあふれた 生活都市」、「個性にあふれた文化都市」と説明しているが、産業政策や財 政政策の裏づけがなされなければ再び抽象化の危険に陥る可能性もある。 昭和62年度市民のアンケート調査によれば、大多数の市民が「観光文化 都市づくり」を望んでいることから、市は昭和61年9月から翌年3月まで 市職員、業界代表、学者で観光振興計画の策定協議会を構成し、具体的作業 を詰め新総合計画の-還として観光振興計画案を62年4月に市長に提出し た。那覇市観光振興計画は県が61年9月に策定した沖縄県観光振興基本計 画を踏まえ21世紀に向けての中長期的な指針を打ち出しているが、その中 心的課題は何と言っても首里地区における王朝文化の再興であり、みなと町 那覇の活性化である。沖縄の人々は古き時代からこの地域を「首里・那覇」 と呼んで親んできた。かってこの地に国宝級の文化財が21件もあったが、 朝鮮鐘、崇元寺石門、園比屋武石門等を除いてほとんどの文化財が今次大戦 で滅失するにいたった。従って市民の願いは一日も早くこれら文化財を復原 し、古き黄金時代を再現してほしいということである。 那覇市は古くから本土、中国、朝鮮、東南アジア諸国と交易しており、と くに浦添按司察度の1373年から第二尚氏の尚元の1570年までの、約二百 -16-
那覇市内観光資源一覧表 守*uザヲ(県指定) 回1t屋武翻蹴石内(県指定) 飽滴鱈(県指定) 天女橋(国指定) 旧円覚寺放生楠(県指定) 崇元零石門と崇元寺下X16鉢(国・県指定) 自然系観光寅源 U澗沼〕 鮒葹及びその周辺(県指定) IⅢ腫池 (河川艮浪〕 安閉川 安璽川 久茂地Ⅲ 湿湖・国喝川(風致地区指定) 上天妃宮の石門,(市指定) 〔近代的建造物〕印 郷Imiii民会館 UIi津HRHH〕 波上の自然海津 -619鎚児之塔〔史跡〕 小桜の塔 首里司令部壕跡 円覚寺跡(国指定) 首里城跡(国指定) 御物城 弁ケ歴(県指定) 末吉宮眺と末吉宮田逝(国・県指定) 玉険と玉餓碑(国・県指定) 倣物〕 首型金城の大アカギ(国指定) 亜麟嬬樹木 亜偽縞花木 人文系観光同源 〔神社・仏閣】 観音堂 波上宮 硬国寺 沖宮 盛固体社 (その他の名所〕 柚外人屋地 弁財天堂 郷朋』、剛 脈港ふ廟 泊』、朗 公殿iiiMI 風連巾璃 憧、周通り 平和通り 職名掴(国指定) (町並み〕 首里金城町石遜とまらなみ(県指定) 遼屋のまちなみと寵元 Ogai週〕 ヒジ川ビラ(市指定) 腿史的座遺物】 ヒジリⅡ橘及び取付泪飽(県指定) 蛮屋荒焼のぼり窮附石闘(県指定) 歓会門 (行・繁叩〕 画型文化祭 産難まつり 民族行巾 -17-
〔行・鱗WU〕 q I】木民芸館NON分館 〔座藁眼光胞股〕 紅、2工脚 ガラスエ塩 邪UWハーリー 尾頚馬 那0N大綱挽 波上県 野外活助施股 〔皿光ih案〕 那覇近海 〔郷士芸随〕 粗師(国指定) 沖縄芝居 空手 琉球古典審楽(-部県指定) 威瞭古典御踊(県指定) 〔公園、 鯏河公胴 城岳公園 輿武山公剛 写nlZAUm 岨ケ丘公園 緑ケ丘公胴 末吉公個 漫in公園 〔伝統工芸技術〕 琉球雄轟 良囲燃(国指定) 首里の織物 BEI*人形 紅型(県指定) 三味棟 民具 〔地域風俗) 御駅・脾所 共同井戸 石敢当 赤瓦とシーザー 墓 〔味覚〕 琉球卿Zn 郷土料理 泡盛 ステーキ
搬
鮒
僻蜘Ⅷ
示恂立 瓜I釦 -18-年間は琉球王国の大航海時代と賞賛されるほどに栄えていた。王府も首里城 内に設置され首里の城下町を形成し、那覇はいわば首里の表玄関に当ってい た。従って沖縄の伝統工芸もこれらの町々に保存継承されており、今日琉球 ガラス工芸を除いて紅型、琉球緋の染織工芸、漆器、陶器の民芸品、琉球音 楽、料理、舞踊などの古き王朝文化をしのばせる伝統工芸、芸能はこの地に 栄えているところが貴重な観光資源である。 観光資源は自然観光資源と人文観光資源に大別されるが、民芸家柳宗悦が 「琉球の富」と絶賛した史跡、建築物、橋、庭園等は人文観光資源に属する ものである。沖縄県はすぐる大戦でこれらの優秀な文化財を失い、いまでは 首里の武家屋敷、竜樋、円覚寺正殿なども見ることはできない。国や県は観 光振興計画の一部として首里城正殿を復原し、付近一帯を城跡公園にすると 位置づけているが、計画内に編入される地域に約50世帯が住居し、現在県 と市に対し計画変更を迫って係争中である。首里城周辺には金城町の石畳道、 日本民芸館の沖縄分室、県立博物館、県立芸大等の文化施設が集中し、今後 陸軍壕の発堀調査、戦災資料館の設置も予定されており、これらの文化遺産が 次々に復興されれば、沖縄観光の目玉になるものと考えられろ。 1987年(昭和62)6月国士庁から発表された第四次全国総合開発計画 (略して四全総)では昭和62年から75年まで長期的な目標を「定住と交流」 と置き多極分散型の国土開発計画を打ち出しているが、四全総は東京一極集 中型の日本経済を改善するため予算1,000兆円を投じても、地方経済を活性 化しなければならないと考え、まず地方の産業と文化を振興することによっ て21世紀の経済危機を乗り越えようというわけである。沖縄県は1972年 (昭和47)10月に策定された第一次沖縄振興開発計画を新全総の一部とし て編入し、「沖縄県はわが国南の交流拠点として東南アジア諸国など、広く海 外諸国との人的、物的交流基地(として)あるいは中継基地としての発展が 期待される地域である」と位置づけているが、政府は沖縄県を北海道が北方 圏交流の中心地としているように南方圏交流の拠点地と考えているようであ る。 国の期待に答えて沖縄県では1982年(昭和57)に策定した第二次振興 -19-
開発計画でも、「沖縄(県)は本土と東南アジア諸国との接点に位置し、経 済・文化等の交流を深めてきた歴史的経験を有するなど、広く国際社会に協
力していく場として、好ましい条件を備えていろ」と把握しているが(9)四全
総の中ではさらに沖縄県を国際交流とリゾート基地の発展する地域として考 えていろ。すなわち国際規模の保養基地を建設することが望ましいと提言し ている。但し民間企業の低い資本蓄積や米軍基地等の阻害要因も多いので、沖縄県の個性を生かし地場産業と地方文化の振興に努めるべきだとし、その目
標を達成するため国際交流拠点として国際空港、港湾を整備すること、第二
に都市の交通渋滞を解決するため那覇市の再開発事業をすすめ、離島をつな ぐ交通ネットワークづくりや水資源を確保するために本島北部にダムを建設 する。第三に国際的規模の海洋性リゾート基地をつくらねばならないが、そ れには地元の農業基盤を整備すること。とくにバイオテクノロジーを利用し、生産性の高い育種資源を開発すること。第四は海洋資源の利用調査、研究を
すすめ、人材育成の教育機関を充実し、離島の医療、教育をはからねばなら ないと提言していろ。 これら国や県の提言を受けて那覇市を沖縄観光の拠点地にするためには次 の施策を展開することが望ましいと、那覇市観光振興計画は訴えていろ。 那覇市を今後とも沖縄観光の中核都市として位置づけるためには国際観光地としての整備、市内の案内板や交通標識をはっきりと提示することも必要
だが、もっとアメニティ空間をふやすこと市民のための都市公園、博物館、 美術館、芸能ホール等の施設をふやすことが望ましい。今後もっとリゾート基地が郊外や遠隔地に建設されることを考えろと、近隣市町村と提携し広域
観光ルートを整備してほしい、と計画書は述べている。利用客の需要が個性
化、多様化、高級化している今日、もっと本土とちがった観光地づくり、一 味も二味もちがった複合サーヴィス商品の開発に努めろととが必要であろう。 ややもすれば大型シティホテルの建設、高級なレジャー施設のみに傾いた観 光関発は地域住民の生活を失なわせ、那覇を東京ファッションの街にする けれども、あくまで那覇らしさを失わない街づくり、あけもどろの都市像に ふさわしい施設、リゾート開発に努めるべきではないか、というのがこの計 -20--施策体系一覧 ⑪化の冒繩Uを-- 古郁首里の整備
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