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日本女性科学者の会(SJWS)との出会いと活動の想い出

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日本女性科学者の会(

SJWS)との出会いと活動の想い出

大島 範子

要旨:私は小学校の5 年生の時に日本婦人科学者の会設立に関する新聞記事を目にし、女性研究者を志すよ うになった。このたびの2020 年度日本女性科学者の会功労賞受賞に際して、お茶の水女子大学理学部入学か らSJWS 会員になるまでの自身の道のりをたどってみた。また第2~5代会長の下での活動の想い出、なら びに私が第 6 代会長として行った活動の中から印象に残っている事柄を書かせていただく。SJWS の今後の 活動の展開にお役に立てれば幸いである。 KEYWORDS: 女性研究者、SJWS 会員、SJWS での活動

1.日本女性科学者の会に入会するまで

1958 年、当時、女性国際民主連合副会長であった 平塚らいてう女史、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博 士をはじめとする世界平和アピール七人委員会か ら多大な支援を得て、その頃は非常に少なかった自 然科学系女性研究者の友好を深め、地位向上を目指 し、世界の平和に貢献することを目的として「日本 婦人科学者の会」が設立されたことは、会員ならば 誰もが知っていることである。当時、富山県の片田 舎の小学5 年生だった私は設立に関する新聞記事を 目にし、研究の分野では女性が極めて少数であるこ と、その現実を変えようと立ち上がった女性研究者 たちがいることを知り、そういう先輩たちが多くい る都会に出ていきたいという思いを強くした。周囲 には女性の教師は結構いたし、女医さんも多少はい たが、「できることなら未知のことについて研究し てみたい」という漠然とした憧れを抱き、最終的に は理学部進学という道を選択した。初めは臨床医に なることを勧めていた父もついには認めて、東京に 送り出してくれた。なぜかははっきりしないが、私 は物心ついたころから周囲の男性中心の風習や考 え方に反発していたので、何事にも封建的な田舎か ら脱出してようやく開放感を味わうことができた。 しかし、その都会においても、ことに理系の分野 では女性が少数であり、採用や昇進に男女差別があ る現実を認識するのに、そう時間はかからなかっ た。進学した国立女子大では当時、教授のほとんど が東大出身の男性であり、助手は全て女性であっ た。理学部で極めて少ない女性教授のお一人が化学 科の阿武喜美子先生で、日本婦人科学者の会の初代 会長であったことは本会に入会するまでは知らな かったが、生化学の授業を受けながら憧れに似た感 情を抱いたものである。 3 年生までのいろいろな実験において実際の指導 は助手さんから受けたし、4 年生の卒業研究におい ても身近な相談相手として、助手さんには相当お世 話になった。修士課程(当時のお茶大には博士課程 はなかった)の大学院生になってからはマンション のお部屋を訪問してご馳走になったり、研究にまつ わるいろいろな経験や、研究の世界で女性が生きて いく際の困難な側面を聞かせてもらった。そういう 中で一旦は、当時としては女性の地位が比較的確立 していた都立高校の理科教員を目指すのが無難か と考え、採用試験を受けて合格したが、やはり研究 の道を諦めきれず、最終的には私立大学(東邦大学) 理学部生物学科の助手の公募をみつけて思い切っ て応募した。採用された理学部でも女性の教授は不 在であったが、化学科に帝国女子理専、東邦大学あ るいは東大出身の女性教員が複数在籍されており、 多くの方が結婚して子供を育てられていることが 分かって多少ホッとした。今まで私が影響を受けて

随想

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― Corresponding: Noriko Oshima, Center for Diversity and Inclusion, Toho University, 5-21-16, Omori-Nishi Ota-ku, Tokyo 143-8540, Japan.

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きた大学の女性研究者の方々はほとんど独身で、大 学院在籍中に結婚していた私には、やっていけるか どうか一抹の不安があったからである。化学科の女 性教員、あるいは子育て中の薬学部の女性教員の 方々から保育園情報などを教わって、大変ではあっ たが孤立感を持たずに研究と子育てを両立するこ とができた。それ以降、日々「孤立感」を持たない で生活できることこそが、仕事の継続に必須である と考えるようになった。 研究面では、「自由に研究してよい」という恵まれ た職場環境を与えていただいたものの、どこまで成 果が出せるのか全く自信が持てなかった一方、隣の 研究室の男性助教授が「薬学部には助手のまま定年 を迎えられる女性教員がかなりおられるが、ああい うのはよくないと僕は思うんだ」と話された時に は、暗に、昇進を考えて早く良い研究成果をあげな さいと叱咤激励されているように思え、男性教員の 励ましがうれしかった。しかし実際には、就職後間 もなく子供二人を出産し、その子育てと学生実験の 指導に追われる毎日で、研究論文をまとめる時間も なく、ただただ眠い日々が続いた。京都大学に博士 論文を提出して学位を得るのに 10 年もかかってし まったのである。今振り返れば、がむしゃらに「仕 事を継続する事」だけを考えて走った 10 年であっ た。大学4年生の時に、「院生の時の彼女を見てい て、将来研究者になれるとはちっとも思わなかった けど、10 年たったら今じゃ一端の研究者になってる よ。10 年頑張れば大概の人は研究者になれるもんだ ね」という会話を、指導教員と助手さんが交わして いたのを耳にしたが、私は時折この会話を思い起こ し、自分もまず 10 年頑張ろう、と自身を勇気づけ てきた。子供たちにも大分手がかからなくなってき た時期であり、学位取得を契機に研究テーマも変え て私は研究に没頭、日夜論文を書いた。順調に成果 が出てきて、まもなく講師、そして助教授に昇任し た。 私が講師になる少し前、理学部に物理学科が新設 され、帝国女子理専出身の女性教授が2 名着任され た。お一人は、それまで東邦大学の一般教養科物理 学教室に在籍されていたが、理学部物理学科新設と 時を同じくして一般教養科が廃止されたため、物理 学科に配置換えとなられた教授である。もう1 名は、 本会の3代目会長として忘れてはならない数野美 つ子先生で、同窓会の推薦を受けて母校の教授(素 粒子の研究)として着任された。海外生活が長かっ たため初めは日本語が怪しかった先生も次第に母 国に馴染まれたようで、会えば親しく言葉をかけて くださった。私が助教授に昇任することが教授会で 決まった直後、廊下で声をかけられ、女性科学者の 会に入会して、その活動に参加することを要請され た。 その頃は自身の研究が面白くて、日々夢中で仕事 に向き合っていたので、女性研究者を取り巻く諸問 題解決のために時間を割くことには抵抗がなかっ たと言えば嘘になる。しかし 10 代のころから男女 差別には敏感で、女性研究者の諸先輩が歩まねばな らなかった苦難の道を、社会の不合理な差別の結果 と許せない気持ちを抱いていた私には、断る理由が 見つからなかった。こうして、私も本会会員として 具体的に活動を始めることになった。新聞で婦人科 学者の会設立の記事を目にしてから、すでに 30 年 近い年月が経過していた。

2.活動を振り返って

2.1 幾瀬会長のもとで 当時の本会の会長(第2 代)が、同じキャンパス にある薬学部の名誉教授で、初めての女性薬学部長 も務められた幾瀬マサ先生であり、非常勤講師とし て頻繁に大学に来られていた。それまで、同じく薬 学部の佐渡昌子先生、理学部の数野美つ子先生がな されていた本会の業務遂行に私もすぐに参加し、会 員へのニュースや行事案内状の発送等に協力した。 その頃はほとんどの作業が手作業で、夕方から開始 して夜8 時ごろまで、それなりの時間がかかった。 女性研究者の研究環境改善とすぐに直結するもの ではなかったが、そうした下支えがあってこそ組織 の存続が可能であると分かっており、また、女性研 究者の先輩方が身近に感じられて、楽しく作業に打 ち込むことができた。 入会からしばらくして理事になり、理事会へも出 席するようになった。食事をすれば会議室使用料が 安くなるからという理由で、学士会館で平日の夜間 に食事(代金は勿論個人負担)しながらということ が多かったが、毎回白熱した議論がたたかわされ、 時にはまるで喧嘩のように感じられて、食事が喉を 通らないような日もあった。男性中心の時代に女性 研究者として生き抜いてきた女性たちは強いと 悟ったが、自分は絶対にそうはなれないし、また、 特段に強靭な精神力の持ち主でなくても研究を続 けられる時代になればよいと思った。 理事になりたての頃の活動で今でも思い出すの は、新しい会員名簿作成のために、大学の夏休み期

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間一人で汗をかきながら、家のパソコンに向かって 約350 名の会員情報の入力を行ったことである。記 録媒体はフロッピーディスクだった。その当時、(よ く覚えていないが)研究室に私専用のパソコンがな かったためか、家で長時間作業していたことはよく 覚えており、娘が「一体、何をしているの?」と頻 繁に覗きにきた記憶が残っている。おかげでどんな 方々が会員なのかが把握でき、その後大いに役立っ た。会長は幾瀬マサ先生で、ニュース等の発送は会 長の下で行っていたものの、正式な会の事務局は猿 橋勝子理事の所におかれていた期間が長く、ようや く東邦大学薬学部内(佐渡理事の研究室)に事務局 が移ってきて、まずは名簿の新規作成をということ になったわけである。それまでどのようにして名簿 が作成されていたかが私には不明であったが、旧事 務局で作成されたらしい古い会員名簿が1 冊渡され た。開いてみると、佐渡理事によって新規入会者が 書き込まれ、退会者は二重線で削除されていた。「会 員情報の入力までも印刷所に頼んでいては財政が もたない。これからは自力のパソコン入力でいきま しょう」という新事務局の方針の下、会員データが 初めて理事によってパソコン入力され、印刷所には 印刷・製本のみを依頼する方式となった。一度入力 してしまえば次の改訂の際は手間が省けて、最初に かいた汗は決して無駄ではなかった。 今では、どんな組織からも以前のような名簿は消 え失せ、私のような古い人間には会員像が見えてこ ないという一抹の寂しさが感じられる。 2.2 数野会長のもとで 幾瀬会長から数野会長へと体制が変わってから、 同じ理学部の人間として事務局を引き受けるよう になった。数野会長は国際感覚に優れた実務派会長 だったので、ご自身でも積極的に対外的な業務をこ なされた。それでも本会宛毎日届く郵便物の整理、 理事会議事録の整理保存、年数回のニュースの発 送、イベントの会員への案内状作成・発送等、やる べき仕事は多々あった。 鈴木益子東北支部長(当時)の助言もあり、「日本 婦人(当時)科学者の会奨励賞・功労賞」が設けら れたのも数野会長の時である(図1)。しばらくは事 務局の責任の下で選考等を進めるほうがいいだろ うという理事会の意向を受けて、私はさらに忙しく なった。当時は郵送されてきた応募者全員の書類を 外部評価委員に見てもらっていたので、送付用のコ ピーが大変であった。提出された別刷りも応募者全 員分をコピーしていたので、齋尾恭子理事(当時) にそのコピーを手伝っていただけることになった 時は本当に有難かった。贈呈者を決める理事会当日 は全員の応募書類を持参し、理事全員が理事会会場 で全ての書類に目を通す必要があった。外部評価委 員による評価結果はすでに手元にあるとはいえ、全 理事が必死で書類と格闘した後に議論をしたので、 当然のことながらいつもより長時間に亘る会議と なった。しかし、この時の理事会が年間を通して最 も出席率が高かったのも事実である。贈呈者が決定 すると、略歴や受賞理由を記載し、本人からいただ いた写真を焼増しして貼った文書を、贈呈式の案内 状と共に新聞社等に郵送した(プレスリリースのつ もり)。そう多くはなかったが、プレスから電話で問 い合わせがあった時は嬉しかったし、記事にしても らえた時はもっと嬉しかった。 その後、新たに設けられた賞担当理事がそれらの 仕事を引き継ぐことになり、今や情報技術の急速な 進歩によって、やり方も全く様変わりした。メール に添付して送られてくる応募書類や外部委員によ る評価結果を、各理事が事前に時間をかけて十分検 討できるようになり、隔世の感がする。 女性科学者の会賞が設けられた時には私は職場 で教授になっていたので、所属学科の教務主任等も 引き受けており、研究以外でも学会の理事、その他 諸々で多忙を極めるようになっていた。それに加え て本会の活動にも時間をとられ、時々数野先生に 「私も忙しんだからそんなにやれませんよ」とつい つい声を荒げたことが幾度かあった。現在でも本会 の会員・役員としての活動は、職場が多忙で余裕が ない状況下では負担に感じられることがあると思 う。「なぜこんな活動をする必要があるのだろう。や めれば本務にだけ専念できるのに」と。しかし実際 図 1. 第 1 回日本婦人科学者の会賞(現 日本女性科学者 の会賞)贈呈式にて。数野美つ子会長(中央)と筆者。

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は、本会の活動をやめたとしてもそれほど精神的に 楽にはならないような気がする。常時「忙しい、忙 しい」と多忙を極めていると、あれこれと余計なこ とを考える暇がないからである。研究者として成果 を挙げることと、人間としての社会的な活動とを両 立させる訓練の中で、今やるべき事に集中して時間 を効率よく使う術を身につけ、それが指導的役割を 担える人間への成長に繋がるのではないだろうか。 時間さえあれば必ず成果を出せるとは限らない。幾 瀬元会長が「いろいろな仕事は結局、能力のある人 のところに集中するのよ。だって、他の人に頼んで も進まないことが多いから」とおっしゃっていた。 幾瀬先生自身も、研究と多くの仕事の両立をはかっ て努力してこられたのだと思う。本会の会長をされ ていた時、学会出張の折にはその地方の支部長に連 絡して、支部長や都合のつく会員たちと交流の時間 を持たれたそうである。 1996 年、数野会長の提案で本会の名称が「日本婦 人科学者の会」から「日本女性科学者の会」に代わ り、賞の名称も「日本女性科学者の会奨励賞、功労 賞」となった。また1999 年 7 月、「第 11 回国際女 性技術者科学者会議」が幕張メッセで開催されたこ とも特筆すべき本会の活動であるが、国際会議の事 務局が別に設けられ、共催の他組織からも参加して の実行委員会中心に実施されたので、私は会議の準 備・運営に深くコミットすることはなかった。会長 が多忙を極めている中、本会の事務局業務を粛々と こなしていた。 理事会では予め決められた議題で議論するのが 基本であるが、時々、別の話題で大いに盛り上がる ことがあった。私がよく記憶しているのが、税金の 「配偶者控除」についてである。女性科学者の会の会 員の多くは既婚、未婚にかかわらず経済的に自立し ている、あるいは自立して生きてきたので、女性の 経済的自立を重視する考えが強い傾向にあった。あ る日の理事会で、専業主婦の家事労働を評価すると いう税金の「配偶者控除」に批判的な意見が出され た。この制度が女性の社会進出を妨げている一因で あるから、本会として(否定的な)見解を公表して は如何か、という意見であり、賛同者も多かった。 しかし、本会は独自活動以外に他の民間女性団体と 連携しての活動も行っており、女性団体といえども 価値観は多様であるため突出した見解の公表は望 ましくない、という慎重な意見が出されて、結果と して公表は見送ることになった。私自身も、経済的 な自立があってこそ人は自由に羽ばたける、と思い 続けてきたので、少し残念な気がした。「家事労働」 は専業主婦だけが行っているわけではなく、働く女 性(当時、男性の参加は少なかった)の多くが睡眠 時間を削って家事労働もこなしてきた。私は職場で も、学位を有する能力ある女性が「配偶者控除」を 受けるために非常勤講師の勤務時間数を制限して 働く実態を見てきたので、この控除の弊害を強く感 じている。現在もなおこの制度は存続するが、昨今、 制度廃止の見解を公然と表明する組織・団体が現れ てきたことは心強い。 2.3 鈴木会長のもとで 長らく会長を務められた数野会長は、1999 年 7 月 の第 11 回国際女性技術者科学者会議が済んでから 退任される予定となっていた。秋も深まってから数 野会長から第 4 代会長の任を引き継がれることに なったのは、地方にお住まいの鈴木益子会員(東北 支部)であったが、私が引き続き事務局を担当して 新会長を全面的にサポートする体制となった。鈴木 会長はそれまで東北支部長をされていて、日本女性 科学者の会賞の新設を助言してくださった経緯が あり、また、関東でなくても会長に相応しい会員に はぜひとも会長の任に当たっていただきたいとい う理事たちの思いがあったからである。会長が地方 在住で、事務局だけが首都圏に置かれている、とい う方式は従来なかったことであったが、私はきっと 出来るはずだと確信していた。会長に相談すべきこ とはすぐに電話やファックス、あるいはe-mail で連 絡を取り合い、大きな支障なく進めることができ た。 鈴木会長は、女性科学者の会が文字通り学術的な 色彩の濃い研究者集団として広く認知されること を願っておられた。ご自身の提案で始まった「日本 女性科学者の会奨励賞」贈呈も順調に進んでいた し、「今後は学術会議にも参画して活動の輪を広げ ていきたい」という考えをお持ちになり、その方面 に詳しい方に相談もされたようだ。その結果、いわ ゆる学会誌に相当するものの出版と、学会大会の開 催が必要であることが判明した。早速に私は「学会 誌のようなもの、本会の場合は学術誌という名称に すればいいと思うが、それを刊行するための強力な 助っ人はいないものだろうか」という相談を受け た。当時私は、動物学会や動物生理学会で顔なじみ だった菅原美子先生(当時帝京大学医学部)と、日 本学術会議動物科学研究連絡会委員としても時々 お会いする機会があった(ちなみに、鈴木会長も薬 学関連の研連委員をされていた)。菅原先生は日本

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生理学会の生理学女性研究者の会ニュース発行の 中心人物で、文章表現がとても上手な方だった。私 は彼女を口説くしかないと思った。動物研連の会議 が終わってから喫茶店に入り、鈴木会長の熱い思い を伝えて「ぜひ会員になって、学術誌創刊に力を貸 してほしい」と頼み込んだ。その日は「少し考えさ せて」ということで別れたが、数日後、快い返事を もらった。こうして菅原会員には入会後すぐに学術 誌担当理事として、創刊(2001 年 3 月)という大き な仕事を成し遂げていただいた。もう一つの課題で ある学会大会に相当するものとしては、2002 年 11 月、鈴木会長が自ら実行委員長として第1 回「学術 大会」を企画された。 鈴木会長はまた、会長任期を定めて多くの会員が 会長を経験することがよいだろうと、会長は2 年任 期で2 期までとすることを規約に盛り込まれ、自身 は2003 年 6 月総会で退任された。ただ、会長とし てのスタートが 1999 年末にずれ込んでいたので、 実質は3 年半程度の在任期間であったのを少し残念 に感じておられたと思う。 2002 年、応用物理学会、日本化学会等が中心にな り、男女共同参画学協会連絡会を立ち上げようとい う機運が高まっていた。日本動物学会も呼び掛け学 会に加わることになったので、学会の理事をしてい た私も会長の命を受けて準備会に参加した。その年 の 10 月、男女共同参画学協会連絡会設立集会が開 催され、14 の参加学会がそれぞれ活動報告を行っ た。日本女性科学者の会(当初から参加)からは鈴 木会長が、日本動物学会からは私が報告した。集会 後に行われた懇親会においては本会の吉祥瑞枝理 事(当時)が司会の重責を担われた。その後の連絡 会の会議にも鈴木会長が任期中はわざわざ仙台か ら上京して参加されたので、その折には本会の活動 について相談する時間を確保するよう心がけた。 鈴木会長が学術誌刊行・学術大会開催という条件 をクリア―して、学術会議登録団体となる道筋をつ けてくださったので、佐々木政子会長にバトンタッ チ後の 2004 年、本会は日本学術会議 19 期第 4 部 (科学教育)登録団体として認められた。 2.4 佐々木会長就任以降の活動 2003 年 6 月の総会で佐々木政子理事が第 5 代会 長に就任された。私が本会に入会したのは日本婦人 科学者の会創立 30 周年記念行事の直後だったらし く、初めて会の集まりに行った時、佐々木先生をは じめとする数名の方々が 30 周年記念誌について話 し合いをされている場面に出くわした。その時が 佐々木先生との初対面だったが、元気すぎるくらい 溌剌とされている方だなという印象を受けた。そし て、今なおずっとその印象通りの女性研究者であり 続ける佐々木先生が、会長就任後いつも口にされて いたのは「202030 って何のことか知っています か?」という言葉だった。会長就任とほぼ同時期、 小泉内閣の下で内閣府男女共同参画推進本部が決 定した「2020 年までに日本の指導的地位における女 性の割合を30%にする」という目標のことで、女性 科学者の会もその目標達成に向けて活動を展開し ようという決意表明でもあったのだと思う。しかし 2020 年になって、安倍政権は残念にもこの目標達成 を断念した。特に政治・経済分野の遅れが著しいが、 日本の研究者全体や大学教授の割合にしても 20% に達していない(図2 参照)1)。したがって、30%達 成を目指して本会の活動もまだまだ継続の必要が 求められている。 佐々木会長の時に事務局は東海大学に移ってお り、山口陽子・石原良美両理事(当時)がサポート されていたので、私は菅原理事から学術誌編集を引 き継いだ。原稿を集める苦労をお聞きしていたが、 担当して実感できた。そんな中で、藤田礼子会員(当 時東北薬科大学)が毎年原著論文を投稿してくだ さって随分助けられたし、しかも多額の寄付も頂戴 して本当に有り難かった。学術誌を冊子体で出版 し、それを会員に届けるためには結構お金が必要だ が、会員からの寄付に加えて、濱中すみ子理事(当 時)の努力による広告収入があったため、冊子体で の出版を何とか維持できていた。 図 2. 各分野における主な「指導的地位」に女性が占 める割合。出典:内閣府。男女共同参画局「男女共 同参画白書 令和元年版」 (http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/ze ntai/html/zuhyo/zuhyo01-01-14.html)

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会の活性化のため理事会の発案で将来計画委員 会が設置され、全会員を対象に、日本女性科学者の 会が今後行うべき活動についてのアンケート調査 が行われた。1 位は「科学政策への提言」であった。 佐々木会長は和光市の理研との共催シンポジウム の折など、必ず国の施策への提言を盛り込んでア ピールされた。菅原理事はこのシンポジウム等を担 当して大活躍であった。 しかし後日、菅原理事が急逝された。日本動物学 会大会の始まる前夜、準備中の会場に突然もたらさ れた訃報に、私を含め、そこに居合わせた者が皆茫 然としたのを覚えている。 2007 年 6 月、佐々木会長からバトンタッチされ、 私は第 6 代会長になった。再び事務局が東邦大学に 戻り、薬学部の石川稚佳子理事の所に置かせても らった。さらに理学部の大冨美智子・谷本さとみの 両理事(当時)にも発送業務等を手助けしてもらう ことが出来た。この 3 名の協力がなかったら、日本 動物学会理事(庶務担当)、東邦大学理学部長・男 女共同参画委員長等を兼務することは出来なかっ たであろう。日本女性科学者の会としては「科学政 策への提言」を継続したいと考えていたので、早稲 田大学、お茶の水女子大学、内閣府・男女共同参画 推進連携会議との共催シンポジムその他の場面で、 できるだけ政策に訴えるアピールを心掛けてきた。 また科学政策への要望書提出も何回か行った。2009 年には当時の総合科学技術会議の有識者議員の幾 人かを訪問、「最先端・次世代研究開発支援プログラ ムに関する意見および要望書」を手渡して、採択者 全体の3 割程度の女性研究者枠を確保し、女性研究 者については応募要件としての年齢制限を外す等 の措置を講じてほしい旨、申し入れた。当時の公開 会議録によれば、本会からの要望が一部議員から紹 介されていた。結果として、3 割程度の女性の採択 を目指す(「3 割枠」は設定されなかった)こと、女 性研究者の年齢制限を外す(男性は 45 歳以下)こ 図 3. 研究者に占める女性の割合の国際比較。出典:内閣府男女共同参画局「男女共同参画白書 令和元年版」 (http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-00-25.html)

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とが決まった。実際の応募状況がどうだったかと言 えば、年齢制限を外したものの女性応募者数は全体 の27.7%2)、採択数は全体の24.9%3)だった。私も審 査委員として関わっていたので、審査は常に女性研 究者の採択30%程度を目標としながら、極めて公平 に行われたと断言できる。私はこの審査を通して、 「これが我が国の女性研究者の現状として精一杯の 数値なのだ」と少々落胆すると同時に、女性研究者 の母集団を増やすことが不可欠で、そのためには理 系に学ぶ女子学生を増加させることはもとより、大 学、公的研究機関、企業の研究所等において女性を 積極的に採用し、さらに男女共に自立した研究者に 育てる地道な努力が併せてなされなければならな いという、ごく当たり前の事の重要性を再認識した のである。 あれからすでに 10 年以上経過したが、202030 達 成を諦めた日本において、あの当時の課題は未だ課 題のままではないだろうか。近頃、大学での女性採 用枠が増えているのは大いに喜ばしいことであり、 そこでの女性教員数は確実に増加しているものの 30%達成には至らなかった(27.5%;総務省「科学 技術研究調査報告」令和元年版)4)。企業・非営利団 体の女性研究者比率は 10.1%(「科学技術研究調査 報告」令和元年版)とさらに少なく、我が国全体で の女性研究者比率は16%台と、国際的には依然とし て低い水準にとどまっている(図 3 参照)5)。日本 女性科学者の会会員は確かに大学関係者が多いが、 今後は日本全体での女性研究者比率増加に寄与で きる方策を何か考えられないものだろうか。 人間にとって、やがてやってくる親の介護は避け られないライフイベントである。佐々木会長の時、 私にもその時がやってきた。高齢の父が脳梗塞で倒 れ半身不随になったのである。私は一人っ子なの で、連絡を受けてすぐに富山に駆けつけたが、介護 用ベッドや訪問看護の手配など、やることが山ほど あった。しばらく自宅療養してから父は亡くなり、 母だけが残されたが、それからがもっと大変だっ た。母の認知症が徐々に進み、私が本会の会長だっ たころは、用が無い限り毎週富山に通っていた。理 学部長になってからは同窓会の行事で日曜日にも 予定が入ることが多く、そういう時は土曜日に日帰 りした。ともかく無我夢中で日々を過ごしたが、そ ういう時でも、責任ある任務があるという状況は、 逆に人間を強くしてくれるような気がする。 私は会長を2011 年の総会で退任し、その後、大倉 多美子会長、功刀由紀子会長、そして現在の近藤科 江会長へと引き継がれてきている。大倉会長の時に 一般社団法人となり、本会のあり様も変わってき た。私より後の2 名の会長経験者は現在も監事、理 事としてご活躍中であり、近藤現会長と共にこれか らの(一社)日本女性科学者の会を導いていただけ るものと確信している。

3.おわりに

以上、私より前の会長と共に活動してきた想い出の 一端を取りとめもなく書き綴ったが、以前のことを知 る会員が次第に少なくなる中で、現在も続いている本 会の活動がどのような経緯で行われるようになったか を、多少でも知っていただくことができれば幸いであ る。時代と共に活動のスタイルが違ってくるのは当然 のことであり、従来から行ってきた活動をそのまま継 続すればよいとは限らない。これまでの経緯を知った 上で、その時点で最善の活動を模索していただきたい。 今後の日本では、女性研究者が担うべき役割がます ます大きくなってくるのは間違いない。現在の会員の ニーズをしっかり把握してその期待に応えながら、し かも日本の科学技術の持続的な発展のために貢献でき る会として、何よりも世界の平和を希求する会として、 日本女性科学者の会の歴史を刻んでいってほしいと願 うものである。

参考文献

1) http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r0 1/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-01-14.html(最終アク セス2020 年 7 月 30 日) 2) https://www.jsps.go.jp/j-jisedai/oubo_j.html(最終ア クセス2020 年 7 月 30 日) 3) 研究者・研究課題の内訳(PDF) https://www8.cao.go.jp/cstp/sentan/jisedai_kettei.html (最終アクセス2020 年 7 月 30 日) 4) https://www.stat.go.jp/data/kagaku/index.html(最終 アクセス2020 年 7 月 30 日) 5) http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/z entai/html/zuhyo/zuhyo01-00-25.html(最終アクセス 2020 年 7 月 30 日)

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大島 範子 Noriko OSHIMA 所属 東邦大学 [学歴] お茶の水女子大学理学部生物学科 卒、同大学院理学研究科修士課程修了、 東邦大学助手時に理学博士(京都大学) の学位取得 [職歴]1972 年東邦大学理学部生物学科助 手。1984 年東邦大学理学部生物学科講 師、1988 年助教授。1989 年生物分子科学 科(新設)に移籍後、1993 年教授。2009 ~2011 年度東邦大学理学部長、男女共同 参画委員長・男女共同参画推進室長。 2013 年定年退職(東邦大学名誉教授)。こ の間、日本女性科学者の会理事・会長、 公益社団法人日本動物学会や日本色素細 胞学会等の学会および学校法人東邦大学 の理事・評議員等を歴任。現在、学校法 人東邦大学理事・評議員、ダイバーシ ティ推進センター顧問。

My encounter with The Society of Japanese Women Scientists (SJWS)

and memories of activities at the Society

Noriko Oshima

Center for Diversity and Inclusion, Toho University

Abstract: When I was in fifth grade, I saw the newspaper article about the establishment of the Society of Japanese Women Scientists (SJWS). Since then, I came to aspire to be a female researcher. Upon receiving the 2020 Distinguished Service Award of SJWS, I tried to follow my path from the entrance into Faculty of Science, Ochanomizu University to becoming a SJWS member. Further, in this essay, my memories of activities at SJWS under the 2nd ~ 5th Presidents and the impressive activities performed while I served as the 6th President are described. I hope this article helps develop future activities of SJWS.

KEYWORDS: Female researcher, SJWS member, Activities at SJWS

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「PTA聖書を学ぶ会」の通常例会の出席者数の平均は 2011 年度は 43 名だったのに対して、2012 年度は 61 名となり約 1.5