夏目漱石『文学論』と<同感(sympathy)>の原理(上
)-「(F+f)」と「間隔論」を中心に
著者
木戸浦 豊和
雑誌名
日本文芸論叢
巻
21
ページ
13-33
発行年
2012-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/55038
夏目漱石『文学論』と(同感(syヨpatざy)) の原理 (上)
- 「(F+I)」 と 「間隔論」 を中心に
はじめに - 「(「+{)」をめぐって 本稿の課題は、夏目漱石が明治四〇年(一九〇七) 五月に刊行 した『文学論』 (大倉書店) を主題的に取り上げ、文学理論として の『文学論』 に内在する原理と論理とを明らかにすることである。 『文学論』 は現在に至るまで両義的な評価に曝されてきた文学 テクストであると言える。『文学論』の評価をめぐって、たとえば、 「学術研究書でもなければ、文芸評論のジャンルにも属さない世に (1) も奇怪な奇形児」、「漱石の創作理論・創作活動との重大な関連点 があり、論自体の独立的な価値もあるが、いずれにしても、最後 的には、それは人未完) の作物であり、中途半端の存在であるこ (2) とは争えない」といった、否定的な見解が根強-存在する一方で\ 他方では、「是ほどまでに客観的に、科学的に、文芸を - 殊に文 芸の力学を研究しようとしたものは、日本では無論の事へ 西洋で (3) もその比を見ない」、「漱石は、(F+I)を設定し、それらを形成す るさまざまな要素を分析的に考究したことによって、文学の言語木戸浦 豊 和
構造考察の先駆者となったと申せましょう。部分的には何十年も Bi8 先どりしているのであります」 といったように、『文学論』 の先駆 件を高-評価する見解もまた存在する。 『文学論』を否定する見解の前提にあるのは、『文学論』 に対 する漱石の自己評価であるだろう。漱石は『文学論』 「序」 や晩 年の講演「私の個人主義」 (『輔仁会雑誌』第九五号、大正四年三 局) のなかで『文学論』を指して、「末成品」 や「未完品」 (一四・ 12)、あるいは 「失敗の亡骸」 「崎形児の亡骸」 「立派に建設され ないうちに地震で倒された末成市街の廃墟」(一六・596)として、 『文学論』 の抱える末完結性・不完全性を強-主張していた。この ように『文学論』を批判する論は、自己の作品に否定的に言及する 漱石自身の発言に多分に影響されていると言ってよいだろう。 さらに、漱石の否定的な自己認識とあわせて、現行の『文学論』 を批判する際の根拠の一つとされてきたのは、漱石の文学研究の 三草稿として残された、あり得べき『文学論』としての「原『文学 -、1-論』」 の構想である。可能態としての「原『文学論』」や「ウル『文 (6) 学論』」を仮定する限りへ 現在の『文学論』はその理念・理想との 偏差や轟離によって批判されざるを得ない。しかし、漱石自身の 発言や『文学論』 の未発の可能性を過大に評価することは、現実 の『文学論』の軽視へと繋がる。したがって、『文学論』の研究に あたってまず重要なことは'『文学論』の記述自体にあらためて立 ち戻り、その内実を見極めることであろう。 他方で、『文学論』 の先駆性を過度に評価することもまた、『文 学論』の実態を歪めることになりかねない。確かに、『文学論』に 向けられてきた多-の批判に対する反論として「現代のポスト構 (7) 造主義や、文化批評の成果を踏まえた上で再評価すること」 の意 義を、本稿もまた認める。しかし、『文学論』を過当に現在へと引 き寄せて解釈することは、『文学論』の依拠する歴史性を見喪わせ、 結果として、『文学論』の特殊化・特権化を招き寄せかねないだろう。 したがって、本稿は以上の認識に立ち、『文学論』を内在的・分 析的に検討することによって『文学論』 に備わる論班と原理とを 明らかにすることを試みる。その際、本稿がまず着日するのは『文 学論』において漱石が定義する文学概念である。周知のように、『文 学論』の文学概念は次の命題として提示される。 凡そ文学的内容の形式は(F+I)なることを要す。Fは焦 点的印象又は観念を意味し、Iはこれに附着する情緒を意味 す。されば上述の公式は印象又は観念の二万両即ち認識的要 一四 素(F)と情緒的要素(I)との結合を示したるものと云ひ 得べし。 (一四・27) この命題は『文学論』全体の議論の前提を構成する。しかし、文 学の定義を数式のように記述する漱石の主張は唐突であり、また、 奇異な印象を与えることも確かであろう。そのため従来から『文 学論』 の研究では'「(F+I)」 の解明が研究の焦点の一つとなって きた。 「(F+I)」 の命題を検証するためにこれまで積極的に試みられ てきたのはへ 比較文学的な方法・発想にもとづ-源泉研究である。 しかし、従来の比較文学的な研究では極めて単一的・直接的な影 (8) 響関係のなかに 「(『+i)」 の命題を解消することに終始しておりへ このような発想のもとでは『文学論』 の固有性を十分に捉え切る ことはできないように思われる。 また、従来の比較文学的な研究では特に西洋近代の心理学や社 (9) 会学の理論が『文学論』に与えた影響を解明することに議論が集中 する傾向にある点も、問題の一つと言ってよいだろう。なぜなら、 心理学や社会学の影響の大きさを強調するあまり文学理論として 『文学論』を捉える視点が稀薄であるように思われるからである。 重要なのは、心理学や社会学の理論との表層的な類似を指摘する ことではな-'それらの概念をあらためて『文学論』 の文脈のな かに差し戻し、それらの概念が『文学論』 の内部において占める 意義や機能を明らかにすることである。 したがって、本稿がまず試みるのは、『文学論』自体の記述に拠っ
て「(F+I)」 の命題を検証することである。そのため、本稿は『文 学論』 で繰り返し言及される科学と文学との対照性と差異性とに 注目することによって、『文学論』 における文学概念を明らかにす ることからはじめることとしたい。
一科学と文学の羞異性
科学と文学との差異性や対照性は、『文学論』 において繰り返し 説かれる主要な論点であると言える。たとえば、漱石は、『文学論』 「第一編 第三章 文学的内容の分類及びその価値的等級」のなか で'科学と文学との対照性について次のように指摘する。 んと試みるの類なるべし。 (一四・128-129) 文学は上述の如-感情を主脳として立つものなれば、如何に 倖理の伏在することもありとも、感興の之に伴ふことなくは 文学上全-の死文字にして三文の価値だになきこと明かなり。 (中略) 而して詩歌文章の価値は其合理なると不合理なるとよ りは寧ろ其情緒を起すに足るべき事物若くは境遇を揃へ得る か、得ざるかに帰着す。合理なるが故に感興を引き、感興を 生ずるが故に文学的材料たるの資格ありとするは可なり。さ れど不合理なり故に感興を引-ことなしと云ふに至りてはへ これ誠に事実を謹ふるの甚しきものと云ふべし。割リオ叫潮目 以上の引用のなかで、漱石は、科学は「理性」 にもとづ-のに 対し、文学とは 「感情」や「情緒」 「感興」をあらわすとしてへ 両 者の対照性を簡潔に指摘している。このような両者の差異性と対 照性は、『文学論』 「第三編 文学的内容の特質」 のなかで、三つ の観点からより詳細に検討されている。すなわち、科学と文学と の差異とは、第一に科学と文学との 「目的」 の差異であり'第二 に科学と文学との研究「態度」 の差異であり、第三に科学と文学 が使用する 「言語」 の差異である。 まず、科学と文学の 「目的」 に関する差異について、漱石は次 のように主張する。凡才細事凶署男
とは科学者の自白により明なり。語を換へて云へば軸紫蘭 感興あれども不合理なるを以て開明の今日文学の一要素たる 値なしと云ふは、これ科学と文学と両者を混同したるものな り。吾人が文学の待つ要素は理性にあらずして感情にありと 云ふ義を忘却せるものにして、例へは尺度を以て液体を量ら 孟ow"の疑問を解けども二葦y=に応ずる能はず、否これに応判別樹利別u討千割引。即ち一つの与へられたる
現象は如何にして生じたるものなるかを説き得れば科学者の 権能こゝに一段落を告ぐるものなり。さて此"How。なる質 問に応ぜんとすれば、必ず此与へられたる現象の拠って生じ たる経路をたどらざるべからず。故に科学者の研究には動ひ 「時」なる観念を脱却すること能はず。 文学も亦此毒ow"の分子なきにはあらず。只だ共科学と異 るところは文学にありては其あらゆる方面に孟ow=なる問題 一五を提起するの必要あらざることなり。 (一四・224) 漱石は'「凡そ科学の目的とするところは叙述にして説明にあら ず」と指摘する。「科学の目的とする」「叙述」とは、「与へられた る現象の拠って生じたる経路をたど」ること、つまり、「「時」なる 観念」にしたがって「現象」が生起し、展開・発展する過程を記す ことである。一方、科学の「叙述」性と対比されるのは、文学の「説 明」的な性格である。漱石によれば、文学の「説明」的な性格とは、 「無限無窮の発展に支配せらるる人事自然の局部を随意に切り放ち て「時」に関係なき断面を描き出す」点に特徴があるとされる。 そして、このような科学と文学の目的に関する差異は、さらに 『文学評論』(春陽蛍へ明治四一年三月)では‥国ow--と一-Why--の 差異として、『文学論』とは異なる観点から説明される。 メ 普通の習慣として吾人は文学と科学とを対立相反の言語 (opposite〔eヨS)として用ひる。そして之を吾人の心的活動力 の二大流派の如-考へて居る。即ち吾人の怨的活動と情的活
聾者と思ふ。(中略)劃圃
矧仙骨寸月割矧矧引割判や。
嘗「剣劇町側十回州甘利矧甘
いふのである。仮令は穀に花が落ちて実を結ぶといぶ現象が プロセス あるとすると、科学は此間題に対して、如何なる過程で花が 落ちて又如何なる過程で実を結ぶかといふ手続を一々に記述 して行く。然し何故(wJy) に花が落ちて実を結ぶかといふ、 一六 (然かならざるべからずといふ)問題は棄てゝ顧みないのであ る。一度び何故にといふ問題に接すると神の御恩召であると か、樹木が左様したかったのだとかへ人間がしかせしめたの だとか所謂Wiニ即ち一種の意志といふ者を持て来なければ説 明がつかぬ。科学者の見た自然の法則は只其儀の法則である。 之を支配するに神があって此神の御恩召通りに天地が進行す るとか何とかいふ何故問題は科学者の関係せぬ所である。だ から至って淡泊な考で研究に取りか、ると云つても宜しい。 (一五・22) (傍点原文) まずへ科学と文学とは「対立相反の言語(opposite〔e雪S)」であり、 科学は「智的活動」と関わり、文学は「情的活動」と関わると指摘 される。そして、科学とは吉owといふことを研究する者で」あ るのに対し、文学とは「何故といふこと即ちWhyといふ」問いに 答えることを目的とする。言い換えれば'科学の目的とは、「一つ の与へられたる現象は如何にして生じたるものなるかを説」くこ と、つまり、「現象」が生じる過程や機構を解明することであるの に対し、文学の目的とは、「現象」を生じさせる「W圭即ち一種の 意志」を説明すること、つまり、ある「現象」が人間に対して持 っ意味や意義を明らかにすることである。逆に言えば、科学とは 現象や事象が人間に対して持つ意味や意義を解明するものでは必 ずしもな-'文学とは現象の生起する過樺や機構を忠実に再現す ることを第一の目的とするものではないということである。 続いて、漱石が科学と文学の差異として挙げるのは、科学と文学が対象に接する際の 「態度」 の差異である。まず漱石は次のよ うに、科学とは「解剖的」「分解」的な「態度」によって、対象の「悼 質を究め」 ようとする点に特徴があると指摘する。
測曲射引詞J割引
者が事物に対する態度は解剖的なり。由来吾人は常に通俗な る見解を以て、大下の事物は悉-全形に於て存在するものな りと信ず。即ち人は人にしてへ 馬は馬なりと思ふ。然るに科 学者は決して此人或は馬の全形を見て其健に満足するものに あらず、必ずや其成分を分解し'其各性質を究めざれは白ま ず。即ち一物に対する科学者の態度は破壊的にして、自然界 に於て完全形に存在するものを、細に切り離ちて'典究極に 垂らざれば止まず。 (一四・227-228) 漱石は小説においても、「性格」 や「物象」 などを「解剖的」 な 「態度」 によって詳細に描写することの必要性を認めている。しか し、文学における 「解剖」 とは 「全局の印象」 (一四・231) へ と収赦しなければならない。たとえば、漱石は、ジョージ・エリ オット(OeorgeEmio〔L∞-?十∞g)やジョージ・メレディス(George Meredith,]828・]909) の細蟹で 「解剖」的な人物や性格の描写が、 必ずしもその人物の全体として鮮明な像を緒はないことを批判し、 その梢細さ・細緻さのゆえに却って 「組織的に吾人の注意に訴へ」 (一四・231)ず、「一時に電光の如-明かに脳裏に映じ」 (一四 ・233)ないことの弊害を指摘する。つまり、漱石が文学的な表 現の特徴として重視するのは、次の引用のようにへ 飽-までも「解 剖」的な観察を前提としたうえでの「綜合」的な「態度」なのである0 此故に文学者の解剖は解剖を方便として綜合を目的す。結 合の目的を達せざる時は細巧なる解剖も殆ど無効に帰す。 (一四・238) ただし、漱石は文学の 「綜合」的な「態度」 の重要性を強調する ことによって、「単純なる記述の有力なるを唱道」するわけではな いと附言する。現代の文学者は'「解剖的観察力を有するが故に解 剖せる点に於て成功せざる可からず。出来得る限り全部を引きは ごしたる士、ほござれたる各部を結合して読者の網膜に映ぜしめ」 なければならないとして、「解剖」的「態度」を前提とした 「綜合」 的 「態度」 の必要性を強調するのである。 そして、文学の 「綜合」 的態度が最終的に目指すのは、「物の午 令と心持ち」 「物の本性」 を表象することである。漱石は次のよう に主張する。 同じく物の全局を写さむとする場合に於ても、副営利工国劇刑 念を伝へむとし、文学者は画を描かむとす。換言すれば前者 は物の形と機械的組立を掟へ、後者は物の生命と心持ちを本 領とす。尚科学者の定義は分類の具に供せらるれど、文学者 の叙述は物を活かさむが為めの用に過ぎず。科学者は類似を たどりて系統を立てむと欲し、個々の物体に左したる興味を 〝"亡有するにあらず、文学者に至りては其目指すところ物の秩序 的配置にあらずして其本質にあり、されば物の本性が遺憾な く発揮せられて一種の情緒を含むに至る時は即ち文学者の成 功せる時なりとす。従って文学者があらはさんと力むる所は 物の幻惑にして、躍如として生あるが如く之を写し出すを以 て手腕とす。 (一四・241-242) 以上の引用のなかで、漱石は、科学者の「態度」とは'「概念を 伝へ」ること、「物の形と機会的組立を掟へ」ること、そして、「個々 の物体に左したる興味を」持たず、飽-までも「物の秩序的配置」 を明らかにすることにあると指摘する。-方、文学者の「態度」と は、「画を描」くことへ「物の生命と心持ちを本領とす」ること、「個々 の物体」 の「本質」を明らかにすることである。このような文学者 の「態度」 によって、「物の本性が遺憾な-発揮せられて一種の情 緒を含むに至」り、「物」が「幻惑」的に、「躍如として生あるが如-」 「写し出」されるのである。 最後に、漱石が科学と文学との差異として挙げるのは、それぞ れが使用する「言語」 の差異である。漱石は「科学者殊に物理学 者が物質界の現象を時間、空間の関係に引き商さむとすることに して、其の方便として」使用する言語の典型を「所謂数字と称す る記号」 (一四・245) に見出している。「数字」が代表する科 学言語とは第一に「無色無臭」であることを特徴とする‥言い換 えれば、科学言語とは客観的・中立的で、明示的であることを特 色とする。当然、"文学者も「所謂数字と称する記号」を使用する。 一八 しかし、漱石は、文学者が使用する「数字」とは、科学者が用いる 「数字」と同じ「記号」であっても、その「使用の目的」が異なる と指摘する。文学者が使用する「数字」とは、「無色無臭」の「記号」 では板-、「諸物の性質を更に明瞭ならしめんが為めに使用せられ たる道具」なのである。 さらに、漱石は、文学者が使用する言語のなかでも、もっとも 特徴的な言語を「象徴」言語に求めている。漱石は「余自身の嗜 好を明らさまに述ぶれば余は象徴なることを好」まないと言うが、 「されど世の文学に此主義が一種の労力として存在しうるの有理な るを認む」 (一四・246)と指摘し、文学における象徴一一一孟調の意 義を認めている。ただしへ漱石は'「其説明を待って始めて真意を さとる」 (一四・246) ような、説明がなければ理解の困難な 象徴言語のあり方には批判的である。漱石は'象徴言語の特質を、 読者が「英記号が代表する意義」を「感情的に聯想」 できる点に 認めているのである。 (前略)凡そ文学に於ける象徴法は英記号が代表する意義を 思索の結果、読者に案じ出だきしむるにあらずして、之を苦 労もなく自然と誘ひ出すにあり、理屈詰めに之を推論せしむ るにあらずして感情的に聯想せしむるにあり。 (一四・251) 以上の考察から漱石は、科学言語と文学言語との差異を、次の ように、「文学者は感覚或は情緒をあらはさんが為めに象徴法を用
ゐる。科学者は感覚又は情緒と仝-無縁なる英独特の記号により 事物を記述せんとす」と指摘する。 文学者は香なき者に香を添へ、形なきものに形を賦す。之に 反して、科学者は形ある者の形を奪ひ、味あるものゝ味を除 く。此点に於て文芸家と科学者とは仝-反対の方向に事物を 翻訳するものにして右と左に分れて各其分担の義務を果すと 云ふも不可なきが如し。従って文学者は感覚或は情緒をあら はさんが為めに象徴法を用ゐ、科学者は感覚又は情緒と仝-/
矧観測引蟄引。
(一四・25-) このように'漱石によれば、科学言語とは「事物を記述」する言 語であるのに対し、一方、文字言語とは 「感覚或は情緒をあらは」 す言語なのである。 以上、漱石は科学と文学との差異性について、「目的」 「態度」 「言 語」 の三点から考察する。しかし、両者の差異性は、最終的には、 「言語」 の差異性に包摂されると考えることができる。なぜなら漱 石の言語観のなかには'「言語」 の特質や限界が、「認識的要素(F)」 (「焦点的意識」) の内容や性質を規定・決定するという発想が見ら れるからである。 たとえば、漱石は、「第三編 文学的内容の特質」 の冒頭におい て、「個人意識のうち、大半はただ漠然たる自覚に止まるか、また は新陳交謝の際主人公たる当人にすら着通されてそのままに消え 去ること多きが故に、言語に化し相互の意志を通ずるの具に供せ らるる焦点的意識の量は比較的僅少なるものなり」として、人間の 「意識の内容」 の一切を言語化することの不可能性に言及したうえ で'次のように指摘する。 此故に言語の能力(狭く云へば文章の力) は此無限の意識 連鎖のうちを此所彼所と意識的に、或は無意識的にたどり歩 きて吾人思想の伝導器となるにあり。即ち吾人の心の曲線の 絶えざる流波をこれに相当する記号にて書き改むるにあらず してへ 此長さ波の一部分を断片的に縫ひ拾ふものと云ふが適 当なるべし。 (一四・221) 以上の引用のなかで指摘されているのは、殆ど「無限」と言える 「焦点的意識」 (「認識的要素(F)」) の内容に対し'それを表現す る「吾人思想の伝導器」としての「言語の能力」の「断片」性である。 言い換えれば、「思想の伝導器」としての「言語の能力」には限界(「断 片」) 性があるため、言語の持つ限界性が表現する内容の性質をも 焼定するということである。つまりへ 言語の性質と、その言語に よって表象される内容とは不可分の関係にあるということである。 したがってへ 科学と文学との差異性とは最終的には'それぞれが 使用する言語の性質に帰着すると考えられるのである。 そのため、科学と文学との羞異性を両者の言語の差異性を中心 に敷術すれば'科学言語とは、客観的に「事物を記述」することを 目的とする点で、明示的(denoS〔i<e)・指示的(refereつ〔ia-)・事 一九実確認的(8nStaぎe)な言語であるのに対し、一方、文学言語と は、象徴的竺孟岬を使用することによって「聯想」的に「感覚或は 情緒をあらはL L、読者に「幻惑」的効果を発揮することを目的と している点で、暗示的(8雪○〔aきe)・行為遂行的(perfo雪aぎe)・ 感情喚起的(eヨOti<e)な言語であると言えるのである。 二 「科学上の真」と「文芸上の頁」 漱石は、以上のような科学と文学との差異性・対照性にもとづ き、両者が体現する「真」のあり方を「科学士の真」「文芸上の真」 と呼び、両者の「真」の相違を次のように指摘する。 四囲匪臨語臨園囲困圏関謡函胴囲聞置膿函闘語間閉園障困 創刊、かるが故に必要の場合に臨みて文学者が科学上の真に 背馳するは雷も怪むに足らざるなり。 而して文芸上の真とは
描写せられたる事物の感が真ならざるを得ざ別封囲
喚起さるゝ場合を云ふに過ぎず。 (一四・257) MiltonのSatan・SwiftのYah8或は沙翁のAMdsunmelNight-s Dreaヨe中のOber〔on"■i〔aつia.■eヨpeStのCa-iban等、凡て是 等は此世に於て求めて得べきものにあらざれは科学的立脚地 より験して不合理なるは無論のことなれど、劃NJ糾樹矧封引日割剛篤胤当山圏矧町制矧割印引例引測割判即す田町割当周到粛
園麗園腫四国困国語諸因圏朔閉園圏囲四囲関醒弱国語間矧息日割綱川工細菌当、同町図日劉諷司矧尉古訓
二〇 四腫田圃田圃潤圏醒田園圏園隠語嗣掘園醒掴醒菌麹菌閏 聞耳廿日。 (一四・259)約言すれば副嘗判別i国訓副
書矧呵討馴廿日4割風脚
にせんとす。科学者は法廷の裁判を司るか細く、冷静なる宣 告を与ふ。文学者は慈母の取計ひの如-理香の境を脱却し て、知らぬ間に吾人の心を動かし来る。其方法は表向きなら ず'公沙汰ならずして其取捌は裏面の消息と内部の生活なり。 (一四・262) 漱石は「科学上の真」のあり方を「理性に訴へて黒白を争」う点、 つまり'記述の真理性に見出している。 それに対し「文芸上の真」 のあり方は、記述の真偽性に求める ことはできない。「文芸上の真とは描写せられたる事物の感が真な らざるを得ざるが如-直接に喚起さるゝ」と指摘されるように、「描 写」が「喚起」する「事物」 の真実性の有無に関わる問題である とされる。そして、その「描写」 の真実性は、「由来文芸の要素は 感じを以て最とするものなるが故に、此感じを読者に伝えんとし て伝へ得たる時」 にはじめて実現すると主張される。つまり、「「文 芸上の真」なるものゝ効力は作物が読者の情緒を動かす」(一四・ 263)点にあるとされるのである。 このような「科学上の真」と「文芸上の真」との相違は、すで に第一節で指摘したようにへ科学と文学との「言語」の差異性から導き出されていると一一亭える。繰り返し確認すれば、科学言語と は'客観的に 「事物を記述」 することを日的とし、明示的・指示 的・事実確認的な言語であるのに対し'文学言語とは、「感覚或は 情緒をあらは」 すことを目的としている点で'暗示的・行為遂行 的・感情喚起的な言語として捉え得るからである。 そして、このような「科学上の真」 と 「文学上の真」 との差輿 性、あるいは、科学言語と文学言語との差異性は、「(F+I)」 の命 題と正確に対応していると考えられる。なぜなら、両度の繰り返 しとなるが、科学とは 「Fありて-なき場合即ち知的要素を存し / 情的要素を欠-」一一一票叩、すなわち、「認識的要素(F)」 のみによっ て客観的に 「事物を記述」する言語であるのに対し、文学とは「F に伴ふて-を生ずる」言語、すなわちへ 「認識的要素(F)」が 「情 緒的要素(I)」を伴うことによって 「感覚或は情緒をあらは」す 言語であるからである。つまりへ 「(F+I)」 の命題とは'「文芸の 要素は感じを以て最とするものなるが故にへ 此感じを読者に伝え んとして伝へ得たる時吾人はこれに文芸上の真を附与するを鵠躇 せず」(一四・259)として、言い換えることができるのである。 この定義についてさらに注意したいのは、「此感じを読者に伝え んとして伝へ得たる時」 という規定である。この定義では、文学 とは、「此感じを読者に伝え」 ること、そして、その 「感じ」が確 かに読者に 「伝へ」 られることという'二つの行為・現象として 捉えられている点である。つまりへ 漱石の文学概念において、文 学とは、作者と読者とのあいだに生成する、「此感じ」 の伝達と受 (_o) 容とに関わる行為・現象と言えるのである。 このような文学の定義は、『文学評論』 において、次のように、 より明確に言い換えられていると言える。 議麹慢買〇 科学が斯んなものである以上は、吾人の感情の発顕と見傲 されてゐる文学、又吾人の感情を動かす為の道具と考へられ てゐる文学が科学と大体の上に於て趣を異にして居るのは勿 論の事である。 (一五・24) 文学と云ふ定義は兎も角もへ 文学とは何だと云ほれた時は即 ち文学上の制作物、作品実物を指すに連ひなからう。そこで プロセス 成程作品を作り上げる手続から云へば前云ふ通り科学とは別 物(大体の上でいぶ) に相違ない。然し文学上の作物英自身と 其作物の歴史又は批評といふ事とは無論同一ではない。歴史 とか批評とかなると此作品(既に出来上った) に就ての吾人 の態度を意味するので、今迄の様に自分が製造する見地、即 ち詩歌文章を組織するといふ点から論ずるのではな-なって、 之を客観的に研究の材料として取扱ふのである。斯うなると 吾人の態度は恰かも科学者が自然の現象を前にして置て実れ を材料として研究し始めると同じ事になる。即ち文学上の作 品は一種の現象として見らるゝのだから自ら作るときとは態 度に於て主客の差が無論ある。(中略) そこで今吾人が文学上の作物を読むと仮定する。すると珂間引 汽-m宅義団田望室 といふものは制作上から去ふと、自己の情感の発現であって トランスファー 読者から云へば著者の情感を伝へられ又は読者一流の感情を 一二
起させる者であるからして此点から云ふと吾人が詩歌文章に 対する態度はア、面白かつたとか、ア、詰らなかったとか云 ふ感じを起して仕舞へは夫れで済む訳である。従て此態度は
鑑営的になる。此点からいへば論判包別間丁則坤同盟胴
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(一五・25-26) / 以上の『文学評論』の記述では、「(『+I)」の命題における「情 緒的要素(I)」が、「吾人の感情の発顕と見徹されてゐる文学へ又 吾人の感情を動かす為の道具と考へられてゐる文学、「文学といふ ものは制作上から云ふと、自己の情感の発現であって読者から云 へば著者の情感を伝へられ又は読者一流の感情を起させるもので ある」、「読者と作者との間の心の状態」、「読者の態度と作者の態度」 として、作者と読者との両者に関わる概念として、明確に規定さ れていると言える。 そして、このように捉え返されることによって、漱石の文学概 念(「(F+I)」)とは、一方では、作者による文学の「制作」や「吾 人の感情の発頭」として、他方では、読者における文学の受容や 「吾人の感情を動かす為の道具」として'つまり、作者の創作の行 為と読者の受容の体験との、両面に関わる「現象」として理解す 二二 ることができるだろう。 三 (¶+{) の意義と(文学現象) ここで前節までの議論を整理したうえで、漱石の文学概念をさ らに明確に規定しておきたい。 まず、本稿がここまで考察してきたのは、漱石の文学概念 (「(F+I)」)は、科学と文学との差異性をもとに構想されていると いうことであった。そして、両者の差異性は、最終的には科学言 語と文学言語との差異性に帰着しており、文学言語の特質から導 き出された漱石の文学概念は、「文芸の要素は感じを以て最とする ものなるが故に、此感じを読者に伝えんとして伝へ得たる時吾人 はこれに文芸上の真を附与するを罵躇せず」ということ、あるい は、「吾人の感情の発顕と見徹されてゐる文学、又吾人の感情を動 かす為の道具と考へられてゐる文学」、さらには、「文学といふもの は制作上から云ふとへ自己の情感の発現であって読者から云へば 著者の情感を伝へられ又は読者一流の感情を起させるものである」 として、言い換えられていた。つまりへ漱石の文学概念とは、文 学言語を媒介とした、作者の創作の行為と、読者の受容の体験の、 両者の総体から成る「現象」として捉え返すことができる。 以上の考察から、漱石の文学概念(「(F+I)」)とは、文学言語 を介して「読者と作者との間の心の状態」や「読者の態度と作者の 態度」とが照応・一致する「現象」を指すと言うことができるだろう。 このように、「読者と作者との間の心の状態」「読者の態度と作者 の態度」が照応∴致する「現象」として文学を規定する漱石の文学概念を、本稿では以後、(文学現象)と呼ぶことにする。 それでは、このような(文学現象) の意義とはいったい何処に あると言えるだろうか。 この(文学現象) のもっとも大きな意義は、繰り返しとなるが' 「情緒的要素(I)」 の主体が、作者と読者との両面から捉えられ ている点にこそある。なぜなら、このことによって、個々の読者 の、個別的な体験にもとづ-文学テクストの受容が、(文学現象) の一局面として位置付けられ、正当な根拠を与えられるからであ る。言い換えれば'この文学概念によって、読者は自己の受容の 体験を、文学テクストを批評する際の 「立脚地」 「出立点」と見な し得るということである。 しかし同時に、読者の受容体験を(文学現象) の一方の要件と することによって、漱石の文学概念には不可避的に、ある問題が 隼まれることになる。その間題とは、まさに、(読者と作者との間 の心の状態)の関係性の問題、言い換えれば、作者と読者との 「情 緒的要素(I)」が、照応し一致するための根拠と原理の問題であ る。 このような(読者と作者との間の心の状態)(読者の態度と作者 の態度)を照応・一致させるための根拠・原理は'漱石の文学概 念の核心に、謂わは理論的な前提要件として位置するように思わ れる。そして、この間題をさらに検討するためには'漱石の文学 言語観をより明確に規定する必要があるだろう。なぜなら、繰り 返し確認すれば、漱石は文学の本質を文学言語の特質から導き出 しているからである。 『文学論』 の文学言語観は「第四編 文学的内容の相互関係」 に おいて、修辞の分析を通じて表明されていると言える。端的に言 (〓) えば、そこでは文学言語の本質が、修辞性にもとづく「幻惑の二 手」という観点から「浪漫派」的な「詩的の語」と「写実派」的な「自 然の語」との二類型として構想されている。敷衛すれば'『文学論』 における「詩的の語」 の特徴は、読者の「日常」を異化する「幻惑」 性に求められているのに対し、他方、「自然の語」 の特徴は、「日 常」を読者の現前に再現的に表象する「幻惑」性に求められている。 言い換えれば、『文学論』 では、「詩的の語」 と「自然の語」 とを ともに 「文芸上の真」 という観点から捉えることによって、文学 言語の本質は読者に 「幻惑」 的な効果を発揮する修辞性によって 規定されていると言えるのである。 このように文学言語の本質を「幻惑」 という修辞性に求める言 語観は、漱石の文学概念の核心と密接に関連しているように思わ れる。なぜなら、「幻惑」とは、(読者と作者との間の心の状態)へ読 者の態度と作者の態度)を照応・一致させるための、-一一一基調の「技巧」 的な使用法であると考えられるからである。したがって、次に検 討しなければならないのは、文学言語が修辞的な「幻惑」性を発 揮するための原理であろう。この間題を考察するために注目した いのは、文学テクストの語りの 「形式」 がもたらす「幻惑」性に ついて論じる、『文学論』 「第四編 第八章 間隔論」 である。 四 「同情」としての 「間隔諭」 『文学論』 「第四編 第八章 間隔論」 では、「篇中の人物の読 二三
者に対する位置の遠近」(・四・393)が論じられる。 作中人物と読者とのあいだには「時空両間」の「隔たり」が存在 するため、この「距離」を「接近」させることが「幻惑を生ずるの 捷径」(一四・394)となる。したがって、「間隔論」は、時間 的な「間隔」を「矯縮」し「幻惑」を生起する方法と、空間的な「間 隔」を「短縮」し「幻惑」を生起する方法とに一一分されることになる。 漱石はまず読者と作中人物との時間的な「間隔」を短縮する技 法として「歴史的現在」(一四・394)にもとづく方法を挙げる。 漱石はこの「歴史的現在」について「典常套の慣手段なるは坊間 行はるる所の修辞学を読んで知るべLL(一四・394)として詳 しい説明は省略する。 一 このような「坊間行はるる所の修辞学」書の一つとして想定す ることのできる島村抱月の『新美辞学』は、「歴史的現在」を次の ように説明する。「現在法とは現在に写し出すの義なり、即ち過去 に起こりし事物、将来に起こらんとする事物、眼前にあらざる事 物仝-想像架空にして実際存せざる事物等を、今現に日のあたり に在るが如-描写するの話法なり。(中略)現在法は分かちて三と なすを得べし、歴史的、想像的、預言的足れなり。歴史的現在法 とは、凡て過去に属せる事柄を現前にあるが知-書きあらはすの ー上l 謂なり」。 以上のように、、抱月の指摘によれば、「歴史的現在」とは「過去」 の出来事を読者の「現前にあるが如-書きあらはす」「詞法」とし て理解することができる。 このような、作中人物と読者とのあいだに介在する時間的な「間 二四 隔」を「短縮」する「歴史的現在」に対し、漱石が「歴史的現在 と併し立して吾人の注意を要求すべきは空間妊縮法にして、しかも 彼が如-一般の顧肺に伸せざる観あるは、歴史的現在に匹敵すべ き便法のこの方面に発見せられざるに因るか」(一四・395)ど して、自己の「発見」の独自性を強調するのは「空間姪縮法」に おいてである。 漱石によれば、読者は「普通の作物に在つては、著者の紹介を待 って始めて、篇中の事物、人物を知る」ことになるため、「吾人と 篇中の人物との間には一重の距離」が存在することになる。した がって、「空間短縮法」の意義とは,このように読者と作中人物と の「中間に介在する著者の影を隠して、読者と篇中の人物とをし て当面に対坐せしむる」(一四・395)点にある。そして,漱石 は'「読者と篇中の人物とをして当面に対坐せしむる」「空間矯締法」 をさらに、「批評的作物」と「同情的作物」とに大別する。 まず「批評的作物」とは、「読者を著者の傍に引きつけて、両者 を同立脚地に置-」方法である。この方法によって「読者の日は 著者の目と合し、その耳また著者の耳と化L L,読者と作中人物 とのあいだに介在する「一重の間隔は短縮してその半ばを減ずる に至る」(一四・395)ことになる。 他方、「同情的作物」とは、「著者白から動いて簾中の人物と融 化し、蒙も其介在して独存するの痕跡を留めざるが如き」(一四・ 395)感を与える方法である∵」の方法によって作者は作中人 物と「融化L L、結果として「読者は第三者なる作家の指揮干渉 を受けずして、作物と直接に感触する」(一四・396)ことがで
きるのである。 さらに、漱石は次のように主張する。 批評的作物とは作家篇中の人物と一定の間隔を保って批判的 眼光を以て彼等の行動を叙述して成るを云ふ。此方法により て成功せんとせば作家自からに偉大なる強烈なる人格ありて 其見識と判断と観察とを読者の上に放射し、彼等をして二言 の不平なく作家の前に叩頭せしめざるべからず。わが千里眼 を以て彼等の明を奪ひ、あが順風耳を以て彼等の聡を殺し、 わが金剛力を以て彼等の平凡なる人格を擢粉して、一字一句 の末に至る迄悉くわが意に賛同せしめて始めて能-する事を 得べし。同情的作物とは作者の自我を主張せざるの作物を云 ふ。たとひ自我を主張するも篇中の人物を離れて、主張すべ き自我なきを言ふ。換言すれば両者の間に間隔の認むべきな =uJu。1馴劇劇団樹制約HHuで、工ヨ別当潮伸せ副詞中耳耳。此方法 によりて成功せん為めには作家必ずしも篇車人物の行為動作 を批判し好悪するの見識と趣味とを要せず、第三者の位置に 超然として公平なる判官の態度を嗜好の上に維持するを須ひ ず。只篇中の人物と盲動すれば足る。筒中の人物の如何に愚 昧なるも、如何に浅薄なるも、如何に狭隆なるも作家の間ふ 所にあらず。愚昧なるものは愚昧なる所に向つて徹底に同情 し、浅薄なるものは浅薄なる所に向つて専念に同情し、狭隆 なるものは狭隆なる所に向つて満腔に同情し得て、其矧 真面目なる奉書に同情するが如-甚しぎに至って始めて著者 の自我を没し得て読者の心を動かす。
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か逆行して作家の態度となり、心的状況となり、主義となり、 人生観となり、発して小説の二大区別となる。(中略) 案ずるに第一法は読者と作家(篇中の人物と独立せる) との 間隔を打破するにあるを以て、形式の上より見て'之に叶へ るものを発見する事難しとす。然れども第一一法に至っては篇 中人物の位霞に開通し来るが故に、比等の位地を変更して、 作家との間隔を短縮するを得べく、短縮の結果としてoの答 を得る時、作家は変じて篇中の人物と化するが故に読者と篇 中人物とは作家を離れて対坐するに至るべきなり。要するに 交渉する所は読者、作家、筒中人物の三織素にして、形式に あらはるゝは、此三織素のうちへ 篇中の人物のみなるが故に、 もし動かし得る者ありとすれば、之を措いて他に何等の動-べきものゝあるべき理由なければなり。 398) (一四・396-以上の引用のなかで漱石は 「間隔論」 について二点の重要な指 摘を行なっている。 まず一点日は、「批評的作物」を実現することの困難性である。「批 評的作物」 とは、「作家篇中の人物と一定の間隔を保って批判的眼 光を以て彼らの行動を叙述」する点に特徴がある。しかし'「批評 的作物」 は、「読者を著者の傍に引きつけて、両者を同立脚地に置 -」方法であるため、「形式の上より見て、これに叶へるものを発 二五見する事難しとす」と指摘される。 この指摘は、作者と読者との「立脚地」の根本的な差異性を示 唆するものとして捉え得るだろう。敷術すれば'作者と読者の価 値観(「立脚地」)は相互に多様的・独立的であるため、作者が操 作的に読者の価値観を「著者の傍に引き」付けることは極めて困 難であるということである。 二点目の重要な指摘は、「著者白から動いて篇中の人物と融化」 する「同情的作物」を実現する原理が、作者の'作中人物に対す る「同情」に求められていることである。作者が作中人物に「同情」 することによって、「作家は変じて篇中の人物と化するが故に読者 と篇中人物とは作家を離れて対坐する」ことになり'作者=作中 人物と読者との「対坐」が「読者の心を動かす」条件となると指 摘されるのである。 一 以上の指摘から、「間隔論」の理論構成を次のようにまとめるこ とができる。 まず、「間隔論」とは、「読者、作家、篇中人物の三織案」のうち、 「中間に介在する著者の影を隠して、読者と篇中の人物とをして当 面に対坐せしむる」ための方法として定義される。 しかし、同時に、漱石は、作者と読者との「立脚地」の根本的 な差異性を前提としているため、「著者白から動いて篇中の人物と 融化」することが求められる。この「融化」のために要求される のか、作者の'作中人物に対する「同情」である÷」の感情によっ て作者が作中人物に「融化」し、そのことによって、作者=作中 人物と読者とが直接的に「対坐する」という関係が成立する。 二六 このように漱石は、「間隔論」の本質を「同情」という感情を媒 介として「融化」した作者=作中人物が、読者と直接的に「対坐」 することを可能とする「同情的作物」に認めている。 そして、漱石は、「同情的作物」を実現するためのもっとも典型 的な手段を人称代名詞の転換に求めている。漱石は次のように指 摘する。 圏薩固園圏闇圏麗し霊-掴四囲臨圃閉園園園薩園四隅捌堕閉園
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田矧甘矧訂q到川副」灯油執事ii抑揚血判剣田圃矧刑引当工射れ
幽囚学歴関配閣醒函圏圏薩圏函間隔狽開園諸国闇回り四国間 し能はざるの事実なりとす。彼とは呼ばれたる人物の現場に 存在せざるを示すの語なり。彼を以て日せられたる人物の、 呼ぶ人より速さは言語の約束土然るなり。此故に彼を変じて 汝となすとき、現場に存生せざる人物は忽然として眼前に出 頭し来る。然れども汝とは我に対するの語なり。呼ぶに汝を 以てするとき彼是の間に猶一定の距離あるを免かれず。彼に 比すれば親密の度を加ふる事一級なるも遂に個々対立の姿を 維持するに過ぎず。只汝の我に変化するときへ従来認めて以 て他とせるものは俄然として、一体となって些の籠蒲に隔てらるゝ事なし。此故に笥川副図割回国
-圏頭韻囚閣関田困随開園掴閲歴副因掘園圏圏閣障関西謡脚矧割引制割引千則矧矧仙工斜自覚イ忠勤甘利甲州
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(一四・398) (傍点原文) 以上の引用のなかで、漱石は、作中人物の「呼称」を「変更する」 ことによって作者と作中人物との 「間隔」、および作中人物と読者 との 「間隔」が「縮小する」と指摘する。つまり、「余」という一 人称が使用されることによって、言わば「言語上の約束」として、 「作家と篇中人物は全く同化するが故に読者への距離は尤も短縮せ (は) る」 と指摘されるのである。 このような人称代名詞の 「言語上の約束」 に関連して極めて示 唆的なのは、フランスの言語学者エミール・バンヴェニストの主 張である。バンヴェニストは、「わたし」と「あなた」という言葉 に内包される関係が、人間の 「交信(8毒舌uつica〔ion)」 を支える 「基本的条件」を示していると指摘する。バンヴェニストによれば、 大間の「交信」の「基本的条件」とは、「わたしがあなたと言いかけへ わたしにあなたと言う」 (傍線原文)関係である。つまりへ敷術す れば、言語の発信者としての 「わたし」とは、「言語上の約束」と して'常に受信者としての 「あなた」を前提として構成される'「対 (〓) 話」的な存在者であるということである。 このようなバンヴェニストの指摘を参照すれば、作者が作中人 物に「融化」 「同化」し'「わたし」として文学テクストにあらわ れるとき'潜在的に'読者は「あなた」として「対話」を呼びか けられていると考えられる。つまり、言い換えれば、読者は、作 者=作中人物としての「わたし」 から「対話」を呼びかけられる ことによって、文学テクストのなかに巻き込まれていると言える のである。 以上のバンヴェニストの人称代名詞の分析は'言語の本管的な 対話性・相互性を示唆していると言える。そして、言語が本質的 に対話的・相互的なものならは、言語表現としての修辞もまた本 来的に言語の対話性・相互性を反映すると考えられる。 哲学者の三木清もまたへ 修辞に本来的に備わる対話性・相互性 を強調する。三木は、「言葉は私に属し或は汝に属するといふより も私と汝との「問に」於げろ出来事として、汝と私とを関係附け る一般者と考へられる社会の表現である」、「私は汝に対して語り、 汝に対して自己を表現するのであり、汝は私に対して表現的なも のである。すべて表現的なものは表現的なものに対して表現を行 ふといふのが表現の根本的構造である」と指摘し、言語に本来的 に含まれる社会性や対話性・相互性を指摘するのである。 ざらにへ 三木は、修辞的な言語表現を、本来的に 「社会の表現」 である言語のなかでも、もっとも自覚的・意識的に対話性や相互性 を「実践」する「技術」として捉えている。しかもへ 三木の言語 観・修辞観が極めて示唆に富むのは、対話的・相互的な「レトリッ (_5) クの精神」 の根底に、「同情あるいは共感」を認める点である。 三木は、「パトスを共にする(シュムパティア)ところの、この 意味での同情或ひは共感にもとづ-思考である点に、レトリック 的思考のひとつの重要な性質がある」、「レトリック的思考は我と 物との関係ではなく我と汝との関係において成立し、かかるもの として本来最も具体的な意味においてディアレクティッシュなも のである」と主張する。 一一七
作品に含まれる思想はただその作家とパトスを共にするこ とによってのみ真に理解されることができる。かくの如く川 -園園閏歴函閉園田園四囲iE園藍図四日閣同園函駆厘
胤却訓嘗川中、烈日附則割
のひとつの重要な性質がある。直感と呼ばれるものはこの意 味における同情的思考であらう。(中略)同情といふのは、単 に対象と一つになるといふことではな-、もと人と人との関 係である。パトスの対象となるのは何よりも人間である。レ トリック的思考の根槙にはつねに人と人との関係がある。そ れは論理的であるよりも倫理的である。 レトリック的思考は 我と物との関係ではな-我と汝との関係において成立し、か かるものとし においてティアレク ティッシュなものである。一 以上のようにバンヴェニストと三木の言語観に共通するのは、 言語表現の本質を、常に「あなた」という対話者の存在を前提と した、社会性や対話性・相互性に求めている点である。 そしてへこのような言語観や修辞観にしたがえば、「同情」の原 理にもとづいて作者と作中人物とを「融化」「同化」させ、そのこ とによって、作者=作中人物と読者との「距離」の「短縮」と、両 者の「対坐する」関係の成立を論じる「間隔論」の試みは'「同情 或ひは共感にもとづ-」「レトリックの精神」の反映として捉える ことができるだろーう。 二八 したがって、以上の考察から指摘できるのは、作者=作中人物 と読者との「距離」の「短縮」を論じる「間隔論」は'漱石の文学 概念から必然的に要請される理論であるということである。なぜ なら、文学を、(読者と作者との間の心の状態)が一致する(文学 現象)として定義する漱石において'作者と読者との「距離」の「短 縮」や照応性の問題は、理論的な課題として要請されるはずだか らである。つまり、「間隔論」とは、作者-作中人物と読者とを「対 坐」・照応させるための「技巧」の一環として漱石の文学概念の核 心に関わると言えるのである。 しかし、「間隔論」を'このように、作者-作中人物と読者とを 「対坐」・照応させるための理論の一部として捉え得るとしても、 本来的に異なる価値観(「立脚地」)に拠る作者と読者とが、(文学 現象)を通じて(心の状態)を照応させるための原理と根拠とが 未だ十分に明らかではない。 そのため、次に課題となるのは、作者-作中人物と読者とが(心 の状態)を照応させるための前提的な要件である。この要件として 第一に想定され得るのはへ本筋において確認したように、作者が 作中人物に「融化」「同化」するための「同情」という感情へまたは、 「レトリックの精神」の根底を形成する「同情或ひは共感」であろう0 五 文学理論としての(同惑)の原理 漱石の文学概念と「同情或ひは同感」との関係を確認するために、 (口) まず、『文学論』の講義の「イントロダクションのようなもの」と される『英文学形式論』(岩波書店、大正一三年九月)を参照したい。この講義の冒頭において漱石は、西洋で提出された多-の文学 や芸術の定義を紹介し、その定義の妥当性について検討する。漱 石は、『英文学形式論』 で言及する多-の定義のなかでも、特にイ ギリスの評論家ド・クィンシー(ThomasDeQuincey,)785・1859) や、ロシアの小説家トルストイ (LevNikolaevichTolstoi.1828-)9)0)、およびイギリスの詩人シェリー(PercyByssheSheLly,]792・ 1822) の文学の定義におけるsympathyの働きに注目する。 たとえば漱石は、ド・クィンシーがイギリスの詩人アレクサン ダー・ポープについて論じた文章のなかで、文学をー一literatureof kつOW】edge一-(「知識の文学」)とー吉e邑ureofpower一-(「力の文学」) とに大別していることを紹介する。漱石が注目するのは、「力の文 学」 における。syヨpa言y--の働きである。ド・クィンシーの定義に ょれば、「知識の文学」とは一一〔○〔each一-(「教えること」)、-一speaks 〔○手eヨemのdiscursi<e…ders〔aEiコg--(「単に推理分析する悟性に 訴えるもの」) であるのに対し'「力の文学」 とはーー〔○ヨ○<e--(「感 動させること」)、--speaksu-tiBa〔e-y∴〔ヨayhappenLO吉ehigher uっders〔andi品OrreaSOつ)b己a】ways舌rougha幕ctionsofp】easure a己syヨpa舌y一-(「究極的に、そうあり得べきことだが、最高の悟性 ないしは理性に訴えるもので、必ず喜びと共感の感情を通じて訴 えかげろものである」) (一二・197--98。以上、引用文の 和訳は『漱石全集』 の山内久明に拠る。以下も同様) である9こ のようにド・クィンシーの定義のなかでは、--syヨpatJy-一が「力の 文学」 の根底において機能する要因の.つとして位置付けられて いるのである。 また漱石は、トルストイの『芸術とは何か?(WhatZJsAt・t)』(煤 著一八九七、英訳一八九八) からトルストイの芸術の定義として、 "ToevokeinonesetEaEeelingonehasonceexperienced,andhaving e<okedi二noコeSe】f…so〔○〔raつSヨi=ha〔fee一iつg手a〔○手ersBay experie暮e手esaヨefee-iつg--(「かつて経験したことのある感情を みずからの心の中に喚起し'(中略) 他人も同じ感情を経験するよ うにその感情を伝えること」) (一三・199) という一節を紹介 する。漱石はこのようなトルストイによる芸術の定義を「感応主義 (8m[a00ionthgmy)」と呼び、トルストイの「感応主義」と、シェリー の『詩の弁護(ADefemeofPoe雷y)』の主張との類似性を指摘する。 さらに、漱石はトルストイの芸術の定義をイギリスの哲学・文学研 究者ウィリアム・ナイトによる『美の哲学(memJ JJosophyofthe BeautL JfuJ)』(一八九一) に拠って、「心理学に云ふ交感(sympathy) を根横とした定義である」 (一三・200) と概括するのである。 このようにド・クィンシー、トルストイ、シェリーによる文学 や芸術の定義は'文学・芸術テクストを媒介として'作者と読者 とのあいだで感情や情緒、情動の共有が成立することを重視する 点で、共通の特徴を持つと言えるだろう。そして、これらの定義 においては、作者と読者とのあいだに感情の共有が成立する原理 として一一sympa手y--の働きが求められているのである。 以上のように漱石は『英文学形式論』 において芸術や文学にお いて働-ーーsyヨpa手y一一の機能を極めて重要視していると言える。そ して、漱石のー一syヨpa手y一一への注目は、『文学論』では次のような定 義としてあらわれている。 二九
(≡) 同感。Ribo青は次に同感及び優しき情を挙げたり。尤 もこゝに所謂syヨpa〔hyの意は吾人が日常用ゐる意義にあら
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-fee-i品、即ち他人と感情を共にするの義なり。人怒れば怒
四 膿聞け隙間圏副因聞開聞開園障膿園 閉園閣圏囲田園 圏醒隅閣圏 園閉園関壁画閣議四囲四囲醒国語圏弼圃困醒 芸の理論を説-に当り必要なるは云ふ迄もなきことにしてへ 由来吾人が文芸を面白しと感ずるは模擬(内部的) 又は感染 (○○-S〔oiの説) の為めなりとも云ひ得べ-、従って此本能は文 芸の賞翫に方り寸時も欠く能はざるものとす。此意味におけ る同感は第一期にして、更に進みて第二期に入る時は最早単 に心理的結合にあらずして、心理的結合+優しき情緒となる矧引。i骨刷甲田盟矧ヨ馴
にあるを要す。即ち人を気の毒に思ひ、可愛相なりと歎ずる は'すべて此情に塞くと知るべし。 葱に注意すべきは此本能が恋の根底なる両性的本能と全く 絶縁して存在することにしてへ また其因って来るところは同 類相隣むの天性にあること心理学者の一般に是認する定説な るが如し。 (一四・60) 以上の引用において漱石は、二つの一-syヨpa手y--の意味竺一一回 及している。一つは「吾人が日常用ゐる意義」としての狭義の ーーsyヨpa手y--である。これは、「人を気の毒に思ひ、可愛相なりと歎 ずる」「情緒」、つまり、他者に対する憐欄という意味での「同情 三〇 (syヨpa手y)」である。この「同情」は、「文学の内容として用ゐ得 べき」ものとされる。 もう一つは、「他人と感情を共にするの意」とされた広義・原義 の「同感(syヨpa手y)」である。「同感」としての一一sy雪pa言y一一は「文 芸の理論を説-に当たり必要なるがいふまでもな」いと語られ、「文 芸の理論」 の根幹を成すことが示される。 以上の漱石の指摘にしたがえば、「同情」と「同感」の差異とは'「内 容」と「理論」 の差異である。つまりへ 「同情」とは、作品の主題 や作中人物の抱-感情など、「文学の内容」を構成する要素である のに対し'「同感」とは、「文芸の理論」を構成する概念・原理である。 このような文学理論を構成する原理としての「同感」を以下、(同感) と表記することとしたい。 したがって、「文芸の理論」としての(同感)は、『文学論』 の なかで分析される「恐怖」や「怒」「恋」、あるいは狭義の「同情」 などの他の「情緒的要素(I)」と同じ位相で論じることはできない。 なぜなら、(同感)とは、「恐怖」や「怒」「恋」などの「情緒的要素(I)」 を生み出し'(他人と感情を共にする)ための心的機構であり、(同 感)自体は具体的な「情緒的要素(I)」としての内実を伴わない からである。したがって、(同感)は実体的な「情緒的要素(I)」 そのものではな-、むしろ、狭義の 「同情」をも含めて人間のあ らゆる感情を包摂し、自己と他者との相互的な感情の交流を基底 において支える心的構造と言ってよいだろう。 そしてへ このように(同感)を他者と「情緒的要素(I)」を共 有するための心的構造と見なすならば、(同感)の原理とは'漱石の文学概念のもっとも根底において働-機構であると考えられる。 なぜなら、(他人と感情を共にする)機構としての(同感) の原 理を前提とすることによってこそ、(文学現象) において、作者= 作中人物と読者とが 「情緒的要素(I)」 を照応することが可能と なると考えられるからである。つまり、言い換えれば、「(F+i)」 の命題には、直接的には明示されない前提的な要件として、(同感) の原理が存在していると考えられるのである。このように(同感) とは、漱石の文学概念の根本を支える原理・機構であると言える だろう。 / そして'上記の引用においてさらに注目したいのは'syヨpa手y とともにトルストイの「感染(8n〔agion)」説があらためて言及され、 さらに、(同感)とは 「此意義において或る時は模擬、または感染 と同字義となる」 ことが指摘されている点である。つまり、漱石の 文学理論においてはへ (同感)と「感染」とは相関的・共約的な原 理であることが示唆されていると言える。このような(同感)と「感 (同) 染」との関係について、稿を改めて論じる予定である。 おわりに - (同感) の原理から「趣味」の概念と 「還元的感化」 へ 本稿が課題としたのは、『文学論』を内在約・分析的に検討する ことを通じて、『文学論』に備わる原理と論理とを明らかにするこ とであった。 そのため、本稿ではまず「(F+I)」という命題に焦点をあて、『文 学論』 の文学概念について検討した。その検討から明らかとなった のは、「(F+i)」の命題は、科学言語との対照性・差異性にもとづく、 漱石の文学言語に対する認識から導き出されていることであった。 また'「(F+I)」という命題の 「情緒的要素(I)」 の主体とは、『文 学評論』 において、文学テクストを創作する主体としての作者と、 文学テクストを受容する主体としての読者として、再定義されて いることを指摘した。以上の検討から、本稿では漱石の文学概念 を、文学言語を介して(読者と作者との問の心の状態)や(読者の 態度と作者の態度)が照応・一致する(文学現象)として捉え直した。 しかし、このような漱石の文学概念においては、読者と作者の (心の状態)や(態度)を照応・一致させるための原理が問題とな る。そのため、次に、作者や作中人物と読者との「距離」の「鰻縮」 を論じる 「間隔論」 を検討することによって指摘したのは、「間隔 論」とは、言語の本来的な対話性・相互性を前提に構想されており、 しかも、言語の対話性・相互性とは、もっとも端的には、修辞に もとづ-言語表現のなかに見出すことができるという点であった。 そして、このような対話的・相互的な「レトリックの精神」 の根 底にあるのか、「同情或ひは共感」 の原理なのである。 以上の考察から、文学言語の本質を修辞的表現に認める漱石の 文学理論においても、(読者と作者との間の心の状態)へ読者の態 度と作者の態度)を照応させる前提として、(他人と感情を共にす る)という(同感(syヨpa手y))の原理が機能していると考えるこ とができる。さらに、漱石の文学理論においては、(同感)と「感染」 とが相関的・共約的な概念であることを合わせて指摘した。 このように本稿の検討を通じて明らかにしたのは、漱石の文学 三一
概念の核心に位置するのは'(読者と作者との間の心の状態)を照 応・一致させるための、(他人と感情を共にする)(同感) の原理 であるということである。漱石の文学概念・文学理論における(同 感)の原理の機構をさらに具体的に検討するために、別稿では「趣 味」の概念と「還元的感化」を中心に、改めて論じることとしたい。 付記 夏日漱石に関する引用は、『漱石全集』 (全二八巻別巻一、岩波 書店'一九九三∼一九九九) に拠る。引用にあたっては適宜へ ル ビ等を省略し、引用の末尾に (巻数・頁数) を付記した。引用文 中の傍線は、特に断りのない限り引用者に拠る。 なお、本稿は、日本文芸研究会・第六三回研究発表大会(二〇 .年六月一二日、於東北大学)での口頭発表および、二〇二年 一一月に東北大学に提出した修士課程学位論文「夏目漱石『文学論』 の研究」のうち、「第一章 言語論」「第二章 修辞論」をもとに, 修正を施したものである。研究発表に開通してご教示を賜った先 生方に心より御礼申し上げます。 江藤淳「神経衰弱と文学論」 (『決定版 夏日漱石』新潮文 庫、一九七九・七、四七頁) 重松泰雄「『文学論』の位置 - その未完成の問題に即して」 (『国文学 解釈と鑑常』三三(一三)、至文堂、一九六八・ i 星 雪害 (3) 小宮豊隆「文学論」 (『漱石の襲術』岩波膏店、一九四一一・ 一二、三七二頁) (4)三宅雅明「漱石『文学論』の現代的意義 - 記号学の視座か ら」 (『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』三四、一九八六 ・三) (5) 前掲注 (一一) (6)吉川豊子「漱石のウル『文学論』 - 英文学者から創作家へ の転向について」 (『山梨県立女子大学紀要』一三へ一九八〇 ・三) (7)佐藤裕子『漱石のセオリー ー 『文学論』解読』おうふう、 二〇〇五・一二、一七頁)。ほかに、『文学論』と現代的な批 評理論との関連性を考察するものに、中山昭彦「沈黙の力 学閣 - 理論-反理論としての『文学論≒ (『批評空間』九、 一九九二二四) などがある。 (8) たとえば、「令+I)」 の命題に、フランスの心理学者テオ デュール・リボ-(TheoduleArmandRibot.1839.1916) 『情緒の心理学(LaPsychoJogIJedesSet7t,JmeJ7tS)』(原著 一八九六、英訳一八九七) の影響を見る論として、太田三 郎「漱石の「文学論」 とリボーの心理学IF+Iの解 明」 (『明治大正文学研究』七'一九五一∴六)、小倉傭三 「Mono8nSCious■h8「yと『文学論』 - リボ-『感情の心 理学』 の影響(五)」 (『国文学ノート』三四、一九九七・三)、 藤尾健剛・永野宏志「夏目漱石「リボ-『感情』ノート -翻刻と解題」 (『文芸と批評』八 (八)、.九九八・二)な
Eioii 9 i墨書2 iioiさ tioii 13 12 iさ〇〇 〇〇〇 どが挙げられる。 漱石における「イギリス系社会学」 の受容について、マイ ケル・ボーダッシュ 「贈与としての洋杖 - 夏日漱石『彼岸 過迄』 の社会学 (『日本文芸論叢』一五、二〇〇一・三) が 整理している。 『文学論』 に対する整理された同時代評として、ほぼ唯一と 言ってよい登張竹風の 「漱石君の文学論を評す」 は、「今の ままにては、系統上にいろいろの欠陥があって、読者の地 位より観る文学 (感紬的) と作家の地位より観る文学 (製 / 作的) とが、互に混同錯綜しているのなぞ、最も遺憾であ る」 (『新小説』明治四〇・七) と指摘する。仮に 『文学論』 が「混同錯綜」している印象を与えるとしたら、その一因は、 竹風が指摘するように、作者の 「情緒的要素(I)」 と読者 の 「情緒的要素(I)」 との関係性が必ずしも明確ではない 点にあると考えられる。 拙稿「夏目漱石『文学論』 の修辞学 - Associa〔ionisヨ(連 合主義) を視座として」 (『日本文芸論叢』 二〇、東北大学 文学部国文学研究室、二〇.・三) を参照。 島村瀧太郎『新美辞学』 (早稲田大学出版部、.九〇二・五、 三八〇∼二八一員)。 本稿では、指摘のみに止まるが、このような人称代名詞の 変換を活用した文学技法として「所謂書翰文体(epis〔0-ary forヨ)」を挙げ、その典型をサミュエル・リチャードソンに 求めている点は、文学テクストと(同感(syヨpa手y))との 問題を考えるうえで興味深い。 (I 4)エミール・バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』 (河村正 夫ほか訳、みすず書房、一九八三・二二一四四頁) (1 5) 三木滞「解釈学と修辞学」 (『三木清全集』 五、岩波書店、 一九六七・二。初出『哲学及び宗教と其歴史』岩波書店、 一九三八・九) (1 6) 三木溝「レトリックの精神」 (『三木清全集』一二、岩波書 店、一九六七・九。初出『行動』 二 (一)、紀伊国屋出版部へ 一九三四・一) (I 7) 小宮豊隆『漱石の塾術』 (岩波書店へ一九四二・二一へ五八九 頁) (I 8) 『日本文芸論稿』三四(東北大学文芸談話会、二〇一二・三) に、「夏目漱石『文学論』と(同感(syヨpa手y))の原理(下) - 「趣味」 の概念と「還元的感化」を中心に」として、掲 載予定。 (東北大学大学院文学研究科前期課程在籍)