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朝鮮における植民地幣制の成立(2)

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朝鮮における植民地幣制の成立(2)

羽  鳥  敬  彦

1豆皿

皿V

はじめに 植民地幣制について 貨幣整理 (以上,第2!7号) 植民地金融機構の形成 朝鮮銀行の設立 初期総督府財政と植民地幣制 (以上,本号)       W 植民地金融機構の形成  前節でみてきた貨幣整理の過程は,他方で植民地金融機関の形成・拡充の過        コの 程でもあった。その創設の契機については,既に前掲拙稿で触れたように,目 賀田改革による諸施策と在来の通貨・金融システムとの角逐の結果として,ソ ウルを中心に生じたいわゆる貨幣整理恐慌,そして通貨の収縮・徴税制度改革 による在来金融システムの解体等に基づく金融逼迫にあった。こうした経緯の うちに,いくつかの金融機関がはじめは応急的に,しだいに計画性をもって設 立されたのだが,それを系統的に表示すれば,第7表のようになる。  このうち次節でみる中央銀行を別とすれば,後に整理されているところがら みて,共同倉庫(政府補助の下,朝鮮商人を中心として設立され,倉庫業務の ほか動産担保貸付を行なう),手形組合(朝鮮在来の「於音」と称する約束手形 に代って,いわゆる近代的な手形を普及させるため,政府の補助の下,商人を 組織し,組合員の発行した手形の支払いを組合が保証するもの),および政府 24) 「朝鮮における植民地金融改革」pp 186−188。

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第7表 植民地金融機関の変遷 第一銀行 韓国銀行 1909.10. 糸目承 朝鮮銀行 二二業務 1911.3.改称 東洋拓殖株式会社 19088.法律公布 継承 政府倉庫 農工銀行 1905.10.貸出開始 1906.3 条例公布 1912﹂解散・継承 手形組合 1905,9 条例公布 共同倉庫 1905.12 設立    朝鮮商業銀行 1912. 3 合併 地方金融組合 1907.5,規則発布 倉庫(政府直営で動産担保貸付も行なう)は応急のものとみてよい。そして農 工銀行(はじめ11行のうちに6行に統合。日本のそれを倣って農工業に長期資 金を供給するためのものだが,普通銀行業務を兼営できる),地方金融組合(地 方農民を組織して金融活動その他を行なう),東洋拓殖株式会社(日本人移民 を組織し融資を行なうほか,自ら土地経営を行なったりその他の金融業務も営 25) む)によって,朝鮮の植民地金融機構の骨格が形成されているということがで きる。そして,これらの機関の展開状況を第8表にみると,いずれもそれ相応 の発展を遂げているかのようであるが,他方で,それらが発展の初期段階にあ ることを考えれば,この程度の伸長はむしろ当然なのかもしれない。  そのうち日本の金融市場への太いパイプを持っているのは東洋拓殖である。 その貸出の一定部分は農工債券の引受けにまわされており,しかもそれが農工 25) もちろん,東拓をたんなる金融機関とするわけにはいかないが,朝鮮にとってその  金融活動は無視できないものがある。なお,同社の設立過程については,君島和彦   「東洋拓殖株式会社の設立過程」上・下,『歴史評論』第282,285号,1973年11月,  1974年1月,をみよ。

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        朝鮮における植民地幣制の成立 (2) 75 第8表各金融機関の状況   (暦年未,単位,千円) lpmt7 lgos kgog lglo l lgll.lig12

手形組合保証残高 1,027

sg3 1 so4 i g43 1 1, 170 1 農工銀行 貸      出     預      金

    債券発行残高

    政府貸下金

    借  入  金 2, 203  511  450 ユ,003  !30 2, 682  752  750 !, 144 地方金融 貸      出

組合  政府下付基金

161 213 100 1 430 東洋拓殖 貸      出     うち農工債券引受 4. 116 1, 650 1, 050 1,!34  140 6, 344 3, 205 1, OIO 1,!34  432 8, 509 4, 100 1, 970 1, 134  764 489 970 779 ] 1,182 1. 20g 1 1, s43 10, 456 4, 469 1, 780 1, 479 1,228 202 ユ.702 1, 928 379 !, 769 f 3, 080 1, OOO [ 1, OOO  出所・『韓国財政整理報告』第6回.『韓国財務経過報告』第2回,『昭和4年調 朝鮮    金融事項参考書』,より作成。  注)共同倉庫は重要でないので省略した。 債券発行残高の半分以.とを占めていることに注意しておこう。というのは,資 金導入ルートに難点がある農工銀行の姿を象徴的に示しているからである。手 形組合は農工銀行においてまとめて論ずるとして,次に地方金融組合をみるな らば,まず気のつくことは,貸出増加の大部分というよりほとんど全部が政府 下付金によってまかなわれていることである。このことは政府の財政的援助に よってのみ運営が可能であることを示しており,その意味でいまだ創成の域を 出ていないことがうかがわれる。しかも貸出金額および組合員数(12年末にお いて約8万人)をみても,とうてい地方農民層に大きな:影響力を行使するほど 浸透しているとはいいがたい。したがって,貨幣整理において一定の役割を果 したことに留意する必要はあるとしても,この地方金融組合は,十分な資金源        ラ を確保しない限り急速な発展は望めなかったであろう。  最後に,政府倉庫と手形組合の残務を継承し,最大の貸出額を誇る農工銀行 26)金融組合については,静田均「朝鮮に於ける金融組合の発達」京城帝国大学法学会   『朝鮮経済の研究』第三,1938年,波形昭一「朝鮮金融組合の構造と展開」『金融経  済』第170号,1978年6月,をみよ。

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をみることによって,この期の植民地金融機構の実情をうかがうことにしよ う。まず第8表からは,総貸出額の増大に,預金と債券発行が追いつけず,は じめは政府貸下金が,続いて借入金がこれらを補うものとして無視できない位 置にあること,そのうえ債券発行高の少なさから,所期の農工業への長期資金 の供給を中心とした活動はほぼ無理であることは,ただちに了解されるだろ う。しかも,その貸出金の使途の大部分は商業資金だったし(12年末では総貸 出額の7割程度),さらに注意すべきは,相当部分の不良貸付のあったことで   り ある。その原因をみると,まず政府倉庫の貸出を引き継いだところ「回収不能 ノ貸付少カラス」そして「三二明治四十五年各地手形組合……中略……業務ノ 承継二三ク損失及当時政治上及経済上ノ改革二依リ自然金融界二変調ヲ来タシ 商人ノ三組鉱業二又ハ土木請負業者ノ失敗続出シ或ハ土地投機熱二帰因スル 等二三リ益固定貸ヲ増加セシメタリ猶行員ノ不正行為又ハ其ノ怠慢二二ク不良         28) 貸付ノ額モ少カラス」というぐあいとなっている。後段の行員の不正・怠慢は ともかくとして,農工銀行の大部分の貸出が商業資金であることを考えれば, 日本の慢性的不況が一定反映されているとみることは容易であろう。  次に資金獲得面をみると,債券発行額の低さからもわかるように,長期i生の 資金導入は困難をきわめた。ちなみに,12年末の178万円の債券発行高のうち 大部分は東洋拓殖株式会社と日本興業銀行の引受けによるものであって,一般 の応募はわずか6万円というありさまである。当時日本では不況であったた め,併合されたぽかりのこの「新領土」へ投資するのはかなり危険なものとみ られたであろうし,しかも6行に分立しており,その実態を警戒的にみられて         いたのでは,資金導入は思うようにいかなかったに違いない。  このように,慢性不況と金融市場への連絡の欠如とによって,「農工銀行は 一面資金獲得難に苦しむと同時に,他面貸出金の固滞に資金運用の機能を減 27)!917年7月にはこれらの不良貸付は総貸出高の26パーセントを占め,その半分以上  が欠損と見込まれた。詳細は拙稿「朝鮮における植民地金融改革」p.192。 28) 『朝鮮殖産銀行設立理由』p.14。 29)たとえば,岡崎長光『朝鮮金融及産業政策』同文館,1911年.pp.137−139,『実  業之世界 臨時増刊 大日本帝国新領土発展号』1915年11月,pp.251−253。

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       朝鮮における植民地幣調の成立 (2) 77       じ,年々預金の漸増を見つつも新規貸出進展せず,金融能力次第に微弱とな」 らざるをえなかった。皮肉なことに,貨幣整理をほぼ完成させた不況が,今度 は新たに創出された金融機関の存立を危くする原因の1つとなっているわけで ある。それは遠からず植民地金融機構の再編を予想させるものであったが,第 1次世界大戦による未曽有の好況局面に日本が推転ずるのをまたざるをえなか った(1918年朝鮮殖産銀行設立)。  もちろん,もし日本が当時好況であったならば,事情は大きく変ったものと なったであろう。けれども,このような不況期においてこそ,植民地の本国に たいする金融面での従属を体現したものとしての植民地金融機構の特徴が鮮明 に浮かび上ってくるものである。そして,こうしたいまだ脆弱な機構の上に, 植民地幣制の直接の担い手としての朝鮮銀行が立っているのである。 V 朝鮮銀行の設立  併合に至るまでの近代朝鮮における中央銀行の問題は,幣欄改革の動きと絡       う んできわめて複雑な道を歩んでいる。ここではそれらを詳述することは避け, 1905年以降の経過だけについて簡単に触れておくと,05年1月第一銀行韓国支 店では,それ以前既に発行していた無記名式一覧払約束手形(銀行券)が無制 限法貨として公認され,また国庫業務を担当することになり,中央銀行の地位 を確保するに至った。しかし,初代統監伊藤博文は「いやしくも一国の中央銀 行業務をたんなる一普通銀行の一支店に委任するのは適当な在り方ではないと    ヨ   いう見地」をもっており,中央銀行の改組については日本政府・統監府内でい ろいろな検討が比較的早くからなされていた(顕在化するのは1907年の夏頃)。 そして,けっきょく09年10月朝鮮人ばかりか日本人をも株主とし,重役はすべ て日本人という,朝鮮の中央銀行一韓国銀行一が設立され,第一銀行の中 30) 『朝鮮殖産銀行二十年志』1938年,p31。 3!)詳しくは,波形,前掲「朝鮮銀行法の制定と幣制改革」,高嶋,前掲書,をみられ  たい。 32)明石照久・鈴木憲久『日本金融史』第1巻,東洋経済新報社,1957年,p.268。

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央銀行業務を継承したのであるが,さらに併合後の11年3月朝鮮銀行法の公布 によって,韓国銀行は朝鮮銀行と改称し,ここに植民地銀行としての法制的な 整備が完了した。  そこで,これらの銀行の発券システムをみると,いずれもいわゆる保証準備 屈進制限法であって,たんに保証準備発行限度額が拡大していったにすぎない (第一銀行;1000万円一→韓国銀行;2000万円一→朝鮮銀行;3000万円)。ま た,その正貨準備においては,金貨・地金銀のほかに日本銀行券が加えられて おり,しかもそれが常に2分の1以上を占めている点に(たとえぽ13年末では 67.4パーセント),この発行制度の本質が端的に現われているといってよい。 しかし,ここで問題となるのは,1905年以降公式にも日本通貨の無碍通用権が 確定していたにもかかわらず,なぜ日銀券による幣制統一が併合後も行なわれ       おう なかったのか,ということである。  はじめに,第一銀行の中央銀行化については,同行が既に銀行券を発行して おり,かつ日本の銀行のなかでもっとも朝鮮に大きな地盤を築いていたことに よるものだろうし,また戦時下であったため,とても新しい機関の創設はでき なかったのかもしれない。しかし,韓国銀行の設立計画にたいしては,「いろ いろの異論が生じ,或いはそうした新銀行を設立する必要を認めないとするも の,或いは第一銀行の韓国支店を改組して,同国の中央銀行たらしめるがよい とするもの,或いは日本銀行をして京城支店を開設させるべきであるとするも        のなど,諸説が入りまじって一時は紛争を生じ」るまでの状況であった。ここ で提出された具体的なプランのいくつかは既に知られているし,その過程の解 33)小島仁氏は,植民地幣制を日本幣制の護持のためのものとして位置づけ,その手段  として植民地通貨が金免換ではなく実質的に日銀券見換であること,また植民地産金  の吸収,植民地銀行による外貨の供給などがあったが,しかしいわゆる「党換券問題」  による正貨流出が惹き起こされたため,その効果はかなり減殺された,論じておられ  る(前掲書,p。178以下)。以下私の述べることは基本的にはこの正貨護持という範  囲内のものであるが,氏の観点とは少し異なるものがあるように思われる。あえてい  えば,そうした否定的側面にもかかわらず.植民地通貨を発行する効用とは何か,と  いうことになるだろう。 34)明石・鈴木,前掲書,p.267。

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       朝鮮における植民地幣制の成立 ②  79        35) 明もある程度なされている。しかし,けっきょく韓国銀行が設立され,併合後 も朝鮮銀行が植民地通貨として朝鮮銀行券を発行し,ついに日本銀行券による 幣制統一はなされなかったのである。  まず,保証準備屈伸制限法によって発行された日銀券を正貨準備として,同 じ方法で朝銀券を発行するのであるから,その限りにおいて信用拡張的効果を 持っているといえよう。けれども,これは日銀券の保証準備発行を拡大するこ とによって同じ効果を生み出すことができるはずである(関連法規の改正は必 要だろうが)。いずれにしても,そのために,多少なりとも日本銀行の正貨に 一定のリスクが加わることは否定できない。だが,前者の場合が朝鮮銀行とい うクッションを持っているのにたいして,後者ではリスクは直接的とならざる をえないだろう。  また,金融機関の発展が不十分であるため,この植民地においては,中央銀 行が普通銀行業務をも兼営する必要があったことも,日銀支店方式をとること に消極的とならざるをえなかった理由かもしれない。というのは,そうするこ とによって「銀行の銀行」であるはずの日本銀行が,朝鮮では銀行以外の対民 間取引に大きく手を染めることになるからである。  以上の議論から,先の問題に関してある程度の推測は可能だろうが,重要な のは当時の当局者の認識である。その意味で,1911年3月帝国議会衆議院朝鮮 銀行法案委員会における朝鮮総督府度支部長官荒井賢太郎(彼は度支部次官と して韓国銀行の設立に深く関わっており,併合後は度支部長官となった)の次 の朝鮮銀行券の存在意義についての答弁は,とくに興味深いものがある。  荒井政府委員(朝鮮では中央銀行が普通銀行業務をも行なわなくてはならないので,  特殊な銀行,韓国銀行が必要だった,と述べたあと)「又今ノ免換券ヲ共通シテハ如何  ト云フ御議論ガアリマスガ……中略……日本銀行ハ日本内地ノ金融機関ノ中枢デァッ 35) たとえば,「日韓紙幣統一二関スル実行方法如何」『水町家文書』第36冊31(国立  国会図書館憲政資料室所蔵マイクロフィルム),「韓国中央銀行設立二関スル方法」  『阪谷芳郎文書』(国立国会図書館憲政資料室所蔵)など。これらについては,注31)  の論稿をみよ。

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 80 彦根論叢第218号  テ,党換券ノ基礎ヲ余程翠固目ツナケレバナラヌ……中略……然ルニ経済状態ガマダ決  定シナイデ,常二動揺ヲ免レナイ,殊二朝鮮ト申セバ国境デアルカラ有事ノ日ニアッテ  モ常二経済状態ノ動揺ヲ免レナイ所デアル,此処へ日本銀行ノ見換券ヲ流通サセルト云  フコトハ,恐ラクハ日本銀行ノ見換券ノ基礎二動揺ヲ与ヘヤシナイカト云フ日本銀行ノ  側カラ論ヲ立テ・,日本内地ノ中央機関ノ点カラ立論致シマシテモ,兎二角朝鮮ニハ特  殊ノ銀行ヲ置イテ,日本銀行ノ免換券以外二見換券ヲ発行サセテ置クト云フコトハ,全       マ  マ  体二取ッテ安全デアラウ,斯ウ理由モ加ワッテ特二鮮碧國銀行ヲ其当時設立セラレタ次     36)  第デアル」  要するに,「有事ノ日」などに朝鮮で起こるであろう経済的動揺が日銀券の 党換の基礎一正貨に動揺を与えないようにする,すなわち,日銀券を媒介と して朝鮮の動揺が本国に波及し,:免換の維持が困難となることがないようにし ておくために,朝鮮銀行券を流通させておいたほうが「全体中取ッテ安全デァ ロウ」というわけである。つまり,いざというときのためのいわば一種目安全 弁として位置づけられているといってよいだろう(おそらく,そうした事態に なれば,朝銀券と日銀券との結合を切断することも考えられていたように思わ れる)。しかも,朝鮮銀行券の正貨準備に日銀券があることによって,日本に おける経済的変動がそのまま朝鮮へ伝播することも,そこには含まれているの であって(実際,日露戦後の慢性的不況は朝鮮に多大な影響力を及ぼしてい る),その意味で,これほど端的に植民地通貨としての朝鮮銀行券の性格が明 言されたこともあまりないであろう。そして,この論理こそ,その後ときどき       37) 生じた朝鮮銀行券廃止論に対抗するためのベースとなったのであり,とりわけ 36) 『第27回帝国議会 衆議院朝鮮銀行法案委員会議録』第1回,191!年3月10日。な  お,1913年3月4日衆議院予算委員第7分科会においても,荒井は同趣旨の質問を受  けたが,このときは速記中止を要求したため,正確な答弁内容を知ることができな  い。しかし,朝鮮総督府『朝鮮関係帝国議会議事経過摘録』第!輯,!915年,にその  要約が掲げられており,それによると,朝鮮銀行法案委員会のときとほぼ同じ答弁を  行ない,さらに,現在のままとしておく「其ノ必要今尚変化ナキヲ認ム」と付け加え  ていることがわかる(pp.111−!12)。 37)たとえば「朝鮮銀行券存廃問題二関スル調査」1921年,『勝田家文書』第57冊28   (国立国会図書館憲政資料室所蔵マイクロフィルム)。

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      朝鮮における植民地幣制の成立 ②  81 第2次世界大戦という大日本帝国最大の「有事」において,その意議をもっと        も有効に実証したといわなくてはならない。  そこで続いて,このような一般的性格を付与されて成立した,朝鮮の植民地 幣制の初期段階における特質を,為替決済の観点からみておくことにしよう。 なぜならば,この期の朝鮮は継続的な入超国であったため,その決済をいかな る資金によってまかなわれているか,ということが問題となるからである。第 9表は併合までの状況を示    第9表韓国銀行の為替決済状況 (単位,千円) したものだが,これによれ ば連年の貿易入超にたいし て,国庫回金およびその他 の流入(これは資本の流入 等を中心とするであろう) によって,だいたいの決済 がなされていることが明ら かとなる。このうち,その 規模からいっても,

厩収支1国腐金嚇轍幽晦出入

1906年  7  8  9  !0 一17, 160 −21, 003 −25, 241 −18, 710 −13, 932 10, 530 13, 778 22, 832 9, 939 10, 963   7, 265   7, 221 一 4, 837 ’ 11,0!6   5, 638   635 −    4 一 7, 246  2, 245  2, 669        出所;「朝鮮銀行券発行方法二関スル調査」『勝田家       文書』第57冊23(国立国会図書館憲政資料室        所蔵マイクロ・フィルム)。        注) 貿易収支には地金銀,貨幣収支も含む。          また「その他の流出入」が不規則な動きをするのは比し七 安定的であるという点からみても,国庫回金のほうがはるかに重要であるとい えよう。つまりここにおいても,植民地幣制と財政との不可分の関係を看取で きるのだが,しかしそのいわば頼みの綱ともいうべき財政は,次に論じるよう に,日本の財政危機の問題と絡んで,むしろ朝鮮銀行の信用創造力に依拠せざ         るをえないほどの状況だったのである。 VI 初期総督府財政と植民地幣制  日露戦争後日本の財政は,いちだんと軍事色を強くしたいわゆる「戦後経 営」によってますます膨張したが,1907年の恐慌を契機として一転して緊縮財 38)拙稿「戦時下(1937∼1945年)朝鮮における通貨とインフレーション」飯沼二郎・  姜在彦編『植民地期朝鮮の社会と抵抗』未来社,1982年、 39) なお韓国銀行の活動全般については,高嶋,前掲書,第4章,をみられたい。

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 82 彦根論叢第218号 政の方向をとらなくてはならなかった。こうして,08年に成立した桂内閣以降 の財政整理が開始されるのであるが,まさにそれは慢性的不況と表裏をなすも       タの のといってよいQ  もともと日本への依存度が大きく,「借金財政(即臨時歳入)を以て僅かに 歳出入の均衡を保つの外なき点に至りては毫も併合前と異なる所無き不具の状    4D 態を継続」している朝鮮植民地財政にとって,その影響は主として2つの方面 から現われるであろう。!つは直接的な財政的補充の減額である。第10表のよ    第10表 一般会計支出朝鮮経営費      第11表 韓国政府,朝鮮総督府各年        (単位,千円)     度公債金借入金,租税収入

     韓行瑚合計 鋏譜千需)

11907年酬   8

jg

I iO i

 /1  !2

 13

10, 627 15, 229 10, 358 10, !94 9, 653 8, 9B4 8, 234 16, 702 15, 680 !0, 849 15,643 !2, 350 17.., 350 10, OOO 27, 328 30, 909 21, 207 25, 837 22, 003 2!, 334 18, 223 出所;『昭和4年調朝鮮金融事項参考書』p.110。 注1)19!1年度以降の行政費は一般会計補充金で  ある。 2)決算。 1907年度

 8

 9  10  1!  12  ユ3 6, 542 3, 903 8, 438 6, 590 10, OOO 14, 900 11, 103 9, 733 10, 518 11, 335 1!, 566 12, 441 13, 362 13, 904 うに,軍事費を含んだ日本の一般会計支出朝 鮮経営費は,1908年を頂点に漸次減少の道を たどっている。さらにもう1つは,不況期 であると同時に,財政整理においていわゆる 「非募債主義」を掲げたことによって,公債 の新規発行がなかなか困難となったことであ る。しかし,第11表にみるように,むしろ併 出所;第10表に同じ。ただし,10年   度のみ『朝鮮総督府施政年報   明治43年』P.13!。 注1)1907・一一10年度は予算,あとは   決算。  2) 10年度は併合による複雑な緊   急財政処分がなされたため,正   確とはいいがたい。  3) 1907∼10年度では日本政府か   らの借入金を含まない。という   のは,むしろそれは併合後の一   般会計補充金に継続するものだ   からである。  4)韓国政府の会計年度は暦年と   同じ。 40) さしあたり,鈴木武雄『財政史』東洋経済新報社,!962年.第4章(吉田震太郎執  筆)などをみられたい。 41) 山口豊正『朝鮮之研究』巌松堂書店.1914年,p.609。

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       朝鮮における植民地幣鰯の成立 (2) 83 合以降公債金借入金収入が急増していることに注目しなくてはならないだろ う。  この一見奇異に思える現象も,財政需要の立場からすれば,当然のことかも しれない。というのは,併合直後のことであるから,さまざまな子壷機構の整 備を進めなくてぱならないし,治安維持のための経費も不可欠であろう。さら に,鉄道・道路・港湾整備といったインフラストラクチュア建設も,たんに資 本を誘致するためだけでなく,地方へ支配力を浸透させる意味からも急がれる だろう。すなわち,この「道路港湾,鉄道,通信と云ふが如き産業開発のた        るカ めの基礎的施設並に原始産業育成の段階」にあっては,そう簡単に財政支出を 減額できるものではないといえる(併合以後総督府財政の歳出は1911年度の 4600万円から16年度5700万円まで膨張しつづけた)。  これらの財政露要に応ずる財源のうち,第1!表にみられる税収の増大はもち ろん朝鮮内における収奪の拡大にほかならないが,急速に増大している公債 金・借入金はどのようにして調達したのかが問題となるだろう。日本での発行 や外債募集が困難であるならぽ,朝鮮内でまかなうしかないが,そこにはまっ たく金融市場などは存在しないといってよい。そこで,発券能力という巨大な 信用創造力を有するようにみえる朝鮮銀行に目が向けられたのも無理からぬこ とである。こうして成立したばかりの植民地幣制は,拡大する財政の一翼を担 うという,はなはだ荷の重い活動に従事しなくてはならなかったわけである。  第12表は1913年までの財政に関連した国債を示したものだが,併合の年を含 めて3年間は大部分朝鮮銀行に依存していることがわかる。これらは朝鮮銀行 にとって保証準備発行の要件を満たすのかもしれないが,それだけ通貨が膨張 することは否定できない。しかも,朝鮮銀行による対政府信用の拡大は,これ だけにとどまらなかった。同行の朝鮮関係国債所有および政府貸上金を示した 42)鈴木武雄『朝鮮の経済』日本評論社,1942年,P・83。なお,この頃の朝鮮の財政  については,いずれも概説的なものであるが,小田忠夫「併合初期に於ける朝鮮総督  府財政の発達」京城帝国大学法学会『朝鮮経済の研究』第3,!938年,堀和生「朝鮮  における植民地財政の展開」飯沼・姜編,前掲『植民地期朝鮮の社会と抵抗』などを  みよ。

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第12表 朝鮮財政関係国債(韓国政府,朝鮮総督府) 発行,借入年月 名 称 起 債 額 借  入  先 1905年6月  5. 12  6. 3  8, 12  8. 12  8. 5−10 9  10. 6 11. 3 11. 9 12. 2 12, 3 12. 8 13 3 13. 3 13. 4

圏 庫 証 台

金 融 資 金 債

第1起業資金債

第2起業資金債

起 業 公 債

日本政府借入金

一回賜金公債

特別会計一時借入金

事業費借入金

    /1     ク     //     //     // 朝鮮事業費国庫債券 2,000千円 1, 500 5, OOO !2, 964 1, OOO 14, 283  117 2, 095 2, 500 3, OOO 4, 500 2, 500 6, OOO 12, 400 30, OOO 公     六 日 本 政 府 日本興業銀行    // 大蔵省預金二 日 本 政 翌 朝 鮮 銀 行    ・ク    //    //    //    //    // 大蔵省預金部 公    募 出所;『昭1¢ 4年調 朝鮮金融事項参考書』p.191。 注1) 1910年8月以前は韓国政府の発行,借入。  2) そのほかに,貨幣整理関係のものがあるが省略。 第!3表 朝鮮銀行政府貸上金・所有国債 (単位,千円) 年月末 1910. 6   12  11. 6   12  12, 6   12  !3. 6   12  付の金

鰭出

⑧別以貸 ④ 府金  上 政貸 2, 095 4, 595 12, 095 10, 095 10, 500 7, 500 3, 707 5, 359 7, 400 13, 738 21, 235 24, 009 24, 385 25, 846 @/@ (crO) 28,3 33.4 57.0 42. 0 43.1 29,0 国

夢讐醐公債

  1 117 1 117 1!7 117 117 117  180 3, 776 5, 158 5, 307 5, 326 5, 501 5, 574    債 朝鮮事業 費国庫債 券 @ 小  計 合 計 @+@ 1, 841 !. 841  117 297 ] 3, 893 5, 275 5, 423 0r, 443 7, 342 7, 415  117  297 5, 989 9, 870 17, 518 15, 538 17, 842 14, 915 出所;『糸満経済十年史』p.209−2!0,『昭和4年調朝鮮金融事項参考書』p.100−   101,『朝鮮銀行五年掛』p.42−43.より作成。 注1)貨幣整理資金貸越を含まない。というのはそれが引上げられた旧貨の対価であ   る限り,通貨の増大をもたらすものではないからである。  2)別途貸付とはJ第一銀行券継承による同行にたいする長期債権を主とする。

(13)

      朝鮮における植民地幣制の成立 (2) 85        お  第13表では,第12表の導掌賜金公債と朝鮮事業費国庫債券以外のものは政府貸 上金となっている。まず,その政府貸上金をみると,1912年6月末を頂点と し,このときには別途貸出金以外の全貸出額の57パーセントを占めるまでにな っている。そして一般会計所属の恩賜公債であるが,これは併合にあたって,       44) いわゆる緊急財政処分により「永く聖恩を子々孫々にまで伝へしむる為」3000 万円が発行交付されたものである。このうち,朝鮮貴族・旧官吏等に交付され た679万円を中心とする個人所有となった部分のかなりが,数年もたたないう ちに朝鮮銀行に持ち込まれた。これにたいして総督府の指示もあって同行は, 公債相場の下落にもかかわらず額面価格で買入れざるをえなかったが,それが        べの ここに現われているわけである。したがって,利子支払い・元金償還というか たちで事後的にしか日銀券を得ることができないわけであるから(もちろん公 債相場が上昇すれば売却も可能だが),その急激な増大は政府貸上げと同様な 性質の通貨の膨張をもたらすであろう。そして,第13表の合計欄にみるよう に,対政府信用は1911年から大きく拡大し,12年から13年にかけて1700万円台 に達している。まさに,朝鮮銀行のいうように「銀行券ノ発行ニヨリテ得タル 資金ノ全部ヲ政府二掌上ゲ猶幾何ノ不足ヲ告クルモノアルヲ見ル亦以テ当行力        46) 如何二全力ヲ尽シテ政府財政ノ為メニ尽捧セントシタリシヤ」というような状 態だったわけである。 43)導掌を一言で説明するのは困難であるが,簡単にいえば,宮室の収租地(二毛土)  にあって,直接生産者と宮室との問に介在するほとんど地主のようなものであった。  この宮壁土を国有化する際,日本は導掌を投託導掌と一般導管とに区分し,前者には  土地を,後者には収益の3力年分を交付してその地位を消滅させたわけだが,この資  金源として導掌賜金公債を発行し朝鮮銀行(当時は韓国銀行)に引受けさせたのであ  る。さしあたり,鈴木武雄「李朝末期に於ける朝鮮の財政」京城帝国大学法文学会   『朝鮮経済の研究』第一,1929年,pp.637−641,をみよ。 44)朝鮮総督府『施政三十年史』1940年(復刻版,名著出版会,1972年),p.10。 45) 『第3!回帝国議会 衆議院予算委員第2分科会議録』第5回,1914年2月4日,第  7回,2月6日,における質疑を参照されたい。そこでは,この点について荒井賢太郎  政府委員もいちおう「朝鮮銀行ノ為ニハ気ノ罪状当局モ感ジテ居ル」と述べている。 46) 「朝鮮銀行ノ過去及将来」1912年,『勝田家:文書』第52冊7,p.3。

(14)

 これらに相応して,朝鮮銀行券も増大して いったのも当然のことだった。第14表にみる ように,半年ごとの平均発行残高は,!1年か        ベア  ら12年にかけて急速に上昇している。このこ とは,朝鮮内にそれだけの購買力が散布され たことを意味しているのであって,もしこの 短い期間のうちに,朝鮮での生産がそれに応 じて増大するのでなければ,輸入へこの購買 力は向かうこととなろう(農業中心の朝鮮で は供給の弾力性はそれほど大きくないとみら れる)。もともと朝鮮は入超国なので,これ は入超幅の拡大というかたちをとらざるをえ ない。事実,第15表のように,入超額は11年 から大きく膨らみ,12年にピークに達してい る。  こうして,因果関係は再び朝鮮銀行の為替 決済資金の払底へと帰結することになるであ ろう。いうまでもなく,理論的には,通貨の 第14表 朝鮮銀行券平均発行高 期 間 金 額 !910年1−6月    7 一12  !L 1−6    7 一12  12. 1−6    7 一12  13. 1−6    7−12 「13,255千円 16, 257 20. 187 24, 753 24, 278 26, 136 20, 872 21, 287 出所;『朝鮮銀行五年志』p. 25−26。   第15表 朝鮮貿易入超額       (金銀も含む)        入 超 額 1909年  10  1!  12  13  14 一14,362千円 一15, 545 −27, 113 −37, 478 −29, 959 −18, 322        出所;『鮮満経済十年史』p.182−       183e 膨張が資金流入によるものであったとしても,それが国際収支の不均衡をもた らすことは,一定の条件下では想定できないことではない。しかし,為替管理 のない状態で,為替決済資金の裏づけのない信用拡大に由来する不均衡のほう がはるかに深刻なものとなろう。まさにこの事態が発生したわけである。すな わち,この政府貸上げ等によって,財政需要に応じたけれども,それが日本か らの資金流入をベースとしたものではないため,「非常二正貨維持二困難ヲ感 ジタ次第デアリマス,是が公債デ入ッテ来レバ結局朝鮮銀行ノ正貨ニハ困難ヲ 47) このときの銀行券の膨張について,『朝鮮銀行五年志』19!7年.も「是レ明治44年  下半季ヨリ大正元年下半季二互リ本行力屡政府貸上金ヲ取扱ヒタルノ結果」(p26)  と述べている。

(15)

      朝鮮における植民地幣制の成立 (2) 87        ベヨ  感ジナクッタノデアリマス」ということになった。  では,どのようにしてこの困難をのりきることができたのだろうか。「朝鮮 銀行資金調達二関スル調書」(1912年,『勝田家文書』第57冊4)によれば, 1911年にはもはや「国庫回金ノミヲ以テ決済スル能・・ス」という状況となって おり,「為替決済ノタメ二二」800万円を調達しなくてはならなかった。その内 訳をみると,(1)準備金350万円,(2)当行払込金250万円,(3)日本銀行借入金200 万円,というぐあいになっている。ここで早くも日銀からの借入金(期間10カ 月)が登場してくるのは興味深いけれども,それだけ事態の切迫性を物語るも のであろう。しかも翌年は入超額がさらに増大したため,ますます深刻さの度 合いを高め,同「調書」も新たに770万円の借入れが必要だと述べているありさ まだった。そこで今度は大蔵省預金部に資金融通を依頼することにした(1912 年1月)。これにたいして,預金部も「朝鮮に於ける郵便貯金還元の趣旨を以 て」応ずることとし,日本興業銀行を経由して(興銀債券の引受),同年1月,       49) 3月,10月の3回にわたって800万円を融資したのだった。こうしてなんとか しのぐことができた朝鮮銀行も,翌13年には政府貸上金の償還もあってようや       らの く一息つくことができたのである(なお,12年にも為替資金の調達のために, 250万円の株式払込みが再びなされたことも付け加えておこう)。  以上の事態は,朝鮮の植民地金融史全体からみれぽ,一種のエピソードであ 48) 『第35回帝国議会 衆議院予算委員第2分科会議録』第2回,1914年12月19日,に  おける荒井政府委員の答弁。 49) 大蔵省『明治大正誤政史』第13巻,1939年,p.949。なお,この資金を朝鮮銀行は  農工銀行・金融組合等に貸付けたことになっているが,為替決済資金の調達の意味を  もっていたことは,「朝鮮銀行が政府二対シテ資金融通ヲ求メル件」『勝田家文書』第  57冊 6 ,から知ることができる。また,この貸付の回収は思わしくなかったという。 50) この政府貸上金の償還は,13年発行の朝鮮事業費国庫債券(3,000万円)で調達し  た資金によってなされたが,このとき「〔総督府は〕更に大正2年度に重て事業費と  して若干の借入を要するものありたり。然るに当時の朝鮮銀行は手許金甚だ手簿にし  て却て右朝鮮事業費として貸付たる資金の全部又は一部の償還すら切望」する状況だ  つた,というから.もはや同行は限界に近つたのだろう(大蔵省『明治大正財政史』  第11巻,1936年,p.960)。

(16)

つたかもしれないけれども,本国経済から自立して行動することのできない植 民地幣制の性格を端的に表現したものとして,看過できないものがあるように 思われる。しかも,状況は何らかの対策を早急に要請していた。すなわち,1914 年度から開始された,いわゆる「財政独立計画」である。これは19年度まで に,総督府特別会計への一般会計からの補充金(第11表の1911年度以降の行政 費)を全廃し,公債を除く本国の財政負担を軍事費のみに限定しようとしたも のであるが,もちろんそのための主要施策は朝鮮内における急激な租税増徴と          ならざるをえない。ただ,ここで重視したいのは,返済する必要のない本国か らの財政資金の移転が減少することを意味するこの計画では,これまでの経 緯からみて,どうしても正貨問題にたいする対策を含まざるをえないことであ る。なるほど本国における公債の募集によって,当座の正貨の維持は可能かも しれないが,しかし公債発行はその時々の景況に大きく影響されるし,その累 積は財政の硬直化と利子支払い・元金償還の増大を招き,ついには正貨維持に 役立たなくなるだろう。したがって次のような質問が出たとしても,もっとも      ら   なことである。   長島隆二議員「朝鮮ノ財政計画二付テー番心配ノ点ハ正貨維持ノ問題デアル」 「即チ  朝鮮ノ財政ヲ独立シ経済ノ独立ヲ図ルタメニハ,正貨問題ヲ解決シナケレバナラヌ」  「之が朝鮮経営ノ根本ニナル大問題ト思ヒマス」  これにたいして,荒井賢太郎は「極メテ朝鮮二関シテ有益ナ御質問卜思ヒマ ス」と賞賛しつつ,以下のように答えている。   「朝鮮総督府二二テハ此〔輸出入の一引用者〕平均ヲ維持スルタメニ唯今デハ極力 今ノ朝鮮ノ産業ノ奨励ヲ致シテ居りマス」「海外二輸出スルト云フコトニ付テハ,成ル ベク輸出ノ便利ニナルヤウニカヲ与ヘル」「今年ノ貿易モ時局ノタメニ輸入ハ減ジマッ  タヶレドモ,輸出ハ昨年二比ベルト余程増加致シテ居りマス」したがって「此方針デ行  ッタナラバ必ズ相当ナ効果ヲ挙ゲルコトが出来ルダラウト云フ考ヲ有ッテ居りマス,結 局産業ヲ奨励シテ行クヨリ途ハナイ」 51) さしあたり,小川郷太郎「朝鮮の財政独立に就いて」『経済論叢』第10巻第1号,  !920年1月,をみよ。 52) 『第35回帝国議会 衆議院予算委員第2分科会議録』第2回,1914年2月19日。

(17)

      朝鮮における民植地幣制の成立 (2) 89  要するに,正貨維持のために産業開発,そして輸出の振興を計らなくてはな らないというわけであるが,そこに豆節で私が述べた論理を愁い出すのは容易 なことであろう。すなわち,これらのことを「財政独立」と並行して行なおう というのだから,増税によって得た財源をこのような産業開発の促進に使用す る,すなわち国内諸資源の配分の変更によって経済構造を編成替することまで 含んでいるといってよいからであり,それゆえ,植民地従属経済の促進要因と しての植民地幣制が,ここにその姿を現わしているとみることができるからで ある。  しかし,こうした変革には時間がかかるため,当面の施策もまた必要である。 そこで,朝鮮銀行が出超地域である「満州」へ積極的な進出を計ることになる。 周知のように「満州」への同行の進出の原因として,いわゆる「鮮満一体化」 工作のためおよび為替決済資金獲得(すなわち輸出為替の買取り)のため,と       うの いうようにしばしば論じられている。後者についてだけ’いうならば,むしろ問 題は国庫回金のみによって決済ができなくなった事態が生じ(それはもともと 自ら招いたものではあったが),しかも今後とも継続すると考えられていたと ころにあったように思われる。前掲「朝鮮銀行ノ過去及将来」によれば,「政 府財政二対スル援助二関シテハ」「素ト為替資金ノ充実ト相関連スル所」であ るが,これは株式の払込み・増資のほか「更二進テ輸出超過ノ地二其店舗ヲ拡 張シ」あるいはその他の操作を行なえば,それほど困難ではない,「従テ当行 ハ今後政府二対シテ従来ノ貸上金ヲ相当程度二於テ供給シ又ハ時ニヨリ増加ス        らの ルノ方針ヲ維持スルコトヲ得ヘシ」(pp.12−13)となっているからである。 53)たとえば,松野周治「1910年代東北アジアの経済関係と日本の対満州通貨金融政  策」『経済論叢』第121巻第1・2号,1978年1・2月,大谷正「満州金融機関問題と  朝鮮総督府」『日本史研究』第186号,!978年2月,金子文夫「第一次大戦期における  植民地銀行体系の再編成」『土地制度史学』第86号,!979年1月,などをみられたい。 54)以上は朝鮮の立場からみたものであって,それによってすべてが説明できるもので  はない。ただ,こういつた理由が.「満州」幣制統一において,たんに金券か銀券か  という問題だけでなく,同じ金券を出していた横浜正金銀行を押しのけていく朝鮮銀  行の起動因の!つとなったのではないだろうか。そしてその背後に寺内内閣の「鮮満  一体化」構想があったように思われる。

(18)

 しかしながら,以上のような関連を一因とする朝鮮銀行の対「満州」進出       らうラ も,他方でいわゆる「海外銀行」の立場からすれば,次のような重大な意味を もっていた。まず,輸出為替の買取りは朝鮮銀行券によって行なわれるため, それだけ同銀行券が散布されることにほかならない。そして,これがさらに進 んで「南満ノ経済界カー般二我銀行券ヲ使用スルニ至ランカ之レ我力経済的勢 力ノ南満征服ヲ意味スルモノ即チ我朝鮮力経済的二満州ヲ併合シタルモノト云 フヘシ」(「朝鮮銀行ノ過去及将来」p.17)ここに,日本帝国主義の「鮮満一体 化」工作の尖兵としての朝鮮銀行の姿がある。ただ,常にこういつた活動が成 功するとは限らないが(実際,朝鮮銀行のこの積極策は同行の歴史に一大汚点 を刻みつける結果となる)。  いずれにせよ,このようにして朝鮮における植民地幣制は成立した。それは たんに形式的な観点からだけではなく,今後それに沿って行動すべき論理をも 顕在化させている意味においても,位置づけられるべきであろう。 55) ここでいう「海外銀行」とは「植民地ノ経済発展ヲ計り並本国ト植民地及外国間若  ハ植民地ト外国間ノ貿易ヲ援助シ以テ本国ノ経済的勢力ヲ海外二扶植進展セシムルヲ  以テ任務トナスー種ノ銀行」のことである(美濃部俊吉〔朝鮮銀行総裁〕『海外銀行  ノ活動ト朝鮮銀行』1918年,p.6)。

参照

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