Author(s)
組原, 洋
Citation
沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL
OF LAW & ECONOMICS(12): 13-34
Issue Date
2009-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5994
組 原 洋
沖縄に出会った旅
【研究 ノー ト】 まえがき 本稿は、2008年に筆者が娘の憤子 とともにハ ワイ及び南米 ・ロサ ンジェルス (以下LA と略記) を旅行 した時の記録 と、それ をもとに して行 った考察等 をまとめた ものであるO いずれの旅 も、結果的 にウチナー ンチ ュを訪ね る旅 になった。 これ まで海外でウチナー ンチ ュに あった ことは しば しばあるが、 こんな にもま とめて出会 った のは初 めてで ある。そ して、 これ に よって、現 に住んでいる沖縄 自体 のイ メー ジも様 々な意味で変化があったO いずれ もっ と詳 しくま とめたいと思 っているが、今後の行動方向を決めて い くための1つの礎石 として、記憶が新 しいう ちに概略をまとめてみた。 [1] ハ ワイ (1) 旅の概略 2008年3月10日、成 田か らノースウエス ト22便でホノルル に向かい、9時頃ホ ノルルに着 いた (日 本時間よ り19時間遅い)。バスでワイキキの DFSの建物内にあるツアー会社の説明を受けた。 3泊 分ホテルパ ックになっていた関係でである。筆者は娘 と、その前 にあるシ ョッピングセ ンター地下 にある旅行社でハ ワイ島の旅行 をセ ッ トした。 ここでセ ッ トしているとき、 日本人のスタ ッフがオ アフ島にある沖縄県人会の ことと、沖縄料理店 を教えて くれた。12時にホテルに行 ってか ら出て、 まず、ザ ・バスの1ケ月定期 (3月中有効) を買った。《)ドルで乗 り放題である。 まず アラモアナ に行 って、そ こでそ うめんの弁 当を買って食べた。 日本で食べるの と全 く変わ らない味である。そ れか ら、55番のバス に乗ってポ リネシア文化セ ンター まで行 くo予想外 に時間がかか り、着 いてみ た らもうじき閉まる時間になっていた。 ほんのち ょっとだけで引きあげてホ ノルル に戻 って きた。 11日は昼 までゆっくりした。それか ら昨 日教えて もらった沖縄料理店 「サ ンライズ」 まで歩 いて 行 った。経営者の玉寄朝勝 さんはいたが、営業時間ではなかったo しか し、 いろいろ話 を して くれ て、明 日沖縄県人会 に行 く予定だ といった ら、奥 さんが ラジオのアナウンサーで、その奥 さんに行 き方を聞いてみると。 いったん引き上げて、 アラモアナに行 って、本屋で地 図を買った。ホテル に 戻ってきて休んでか ら、 7時過ぎにサ ンライズに行 く。そ こで食べなが ら、玉寄 さんやその親戚、 友人 と話 した。色んな話 を開けた楽 しか った。玉寄 さんは 1世だが、結婚 して1ケ月になるところ だそ うで、仕事 を終えた奥 さん も手伝 いに来ていた。彼女が沖縄県人会への行 き方 を番組 の中で取 り上げたようで、 あ とか らその番組 を聞いた という話 を聞いた。 日本語放送である。なお、サ ンラ イズは とて も有名な店 のよ うで、イ ンターネ ッ トで検索するとた くさん ヒッ トする。 12日、午前中出て、バス82番で 1時間半ほどの所 にあるワイパ フというところに行 く。そ こにハ ワイ沖縄セ ンターがある。ホ ノルルか らゆるい上 り坂でだいぶ高い ところまで来た感 じである。教-
13-え られていた 1つ手前のバス停で降 りて しまったので結構歩 いたが,おかげで周辺の様子がよ く分 かった。ハ ワイ沖縄セ ンターは大きい、立派な ものだった。沖縄県人の移住SX)周年を記念 して199) 年6月に完成 した.総工費11億2(X氾万円のうち、沖縄側の募金運動で3億4∝X)万円が集め られたと のことである。吾平正さん、宮城 (みや しろ)バーニ直美 さんの話を聞いた。特 に宮城さんが詳 し く話 して くれた。印象に残ったのは、出身地 にこだわることである。出身地 を知 らないと話にな ら ないといって,データベースづ くり等 をしている。 また、 1世に感謝する気持ちをいろいろな形で 表 していた。ハ ワイ も場所が広 く分散 して住んでいたので、字、村人会、同志会等様々な小さな集 ま りが基礎になって、 この連合会もできた ということである。 3時頃引き上げて、バスでホノルル に帰ってきたoアラモアナで買い物 してか ら、 ワイキキ ビーチを散歩 して帰った0 13日 (木曜 日)、7時 にホテルをチ ェックアウ トして リムジンで空港にいき、8時50発のアロハ航 空246便で ヒロに行 くO ア ラモ レンタカーでキ ラウエアに向か うO-回 り見てか ら3時 にヒロに 戻ってきてホテル にチェックイ ン。 ちょっと休んでか らヒロの町を散策する。ちょうどヒロは市長 選挙 をや っていて、その候補者の 1人であるヒガ という人のポスターがあちこちに貼 られていた。 オール ドタウンに行 くと、本 当に寂れた感 じである。食堂でアヒ (マグロ)井を食べた。 14日、朝はゆっくり休んでか ら、まず シ ョッピングセ ンターに行 く。 日本料理屋で食事 してか ら、 ショッピングセ ンターの旅行社で、沖縄のコミュニテ ィについて調べたいと聞いてみると、カウン ティセ ンターに行 くのがいいだろうといわれた。す ぐ近 くである。 ここのインフォメーシ ョンに日 本人の顔 をしたおば さん2人が座っていて、聞いた ら、一方がウチナー ンチュではないがウチナー ンチュのクラブに入っているとの ことである。電話 して くれて、ウチナーンチュのおばさんがす ぐ に来て くれることになった。電話 して くれたフジモ トさんというおばさんは沖縄のクラブに入って もう15年だそ うで、ウチナー ンチュと思われているそ うだ.やがて、ナカイマさんというおばさん がやってきた。戦前 日本に行って勉強 したということである。戦争になって こちらに戻 り、戦後は バーをやっていたそ うであるが、今は引退。ナカイマさんもイ ンフォメーシ ョンのボランティア。 結婚 してタカエス という名前が加わ ってナ ンシー ・チヨ ・ナカイマ ・タカエスという名前になって いる。 5人の子 どもたちは大きくなってホ ノルル に行 って帰って こないそ うである。ちょっと前、 沖縄 にも行 ったそ うである。国場幸太郎氏の親戚 になるそ うで、辺土名にある国場家の元の家で今 は博物館になっている所の ことを話 していた。一通 り話 を聞いてか らハ ワイ島の北側の道を ドライ ブした。夕方はホテル周辺を散歩する。ホテル前で市長選挙に立候補 している前述のステイシー ・ ヒガ氏の集 ま りをやっていたので顔 を出した。 ここに、91歳になるキヨコ ・ミヤシロさんがいた。 息子 さん と一緒。それか ら海岸 を散歩 していた ら、車の座席に座って三線 を弾いているお じさんに あったo三線で ピンと来て、話 しかけてみた ら長嶺将孝氏だった。ハワイ大学 ヒロ校で仕事をして いるそ うで、沖縄か ら生徒たちが3人や ってきて ワイ メアの方で農業研修 を受 けているそ うであ る。 コザ出身で、1S61年 にお じさんの養子になってハ ワイに来たそ うだった。 15日、 6時過 ぎに起きて、マウナ ・ケアを写 した。朝のうちでないと見えないと、昨 日長嶺氏か ら教わった。車で朝市を見てか ら、ハ ワイ大学 ヒロ校 にも行ってみた011時頃ホテルをチェックア ウ トして.ナ ンシーさん宅 に行 くOボブさん というフィ リピン人 と一緒に暮 らしている。 2時まで 話 してか ら空港 に行 き、レンタカーを返 してか ら、15:33発のアロハ航空237便でホノルルに戻った. タクシーで,予約 したホテル にチェックイ ンした。 - 14
-16日、ホ ノルル動物園に行 って くる。 2時過 ぎにホテル に戻ってきてちょっと休んでか ら、ホテ ルか らす ぐ近 くのホ ノルルフェスティバルの集合場所 に行 く。娘はウチナー ンチュの行列 に混 じっ
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の臓 を持 って歩 いた。筆者は横か ら撮影 しなが らついて行 った。市町村や字 の名前を書いた臓を持って歩 く行列はインパク トを感 じたoWUB (WorldwideUchinanchuBusiness Association)の知念ダニエル弘貴氏 ちと知 り合 いになれた。ハ ンバーガー をもらって食べてか ら解 散 して、残 りの行列を見なが らホテルに戻って くる。 17日、11時頃出て、 4番のバスでハ ワイ大学 に行 く。着いてか ら大学内の食堂で弁当を食べる0 2時か らキャンパスツアーに参加。 1時間ほど。 これか らハ ワイ大学 に入学するか もしれない本人 とその父母。ハ ンガ リーか ら来た という女性 もいた。後半、イース ト・ウエス トセ ンター、 ロース クールをまわった。のんび りした感 じの大学だった。一緒に参加 した年輩のお じさんが言 うには、 カリフォルニアの方がた くさんコースがあるし、スピー ドもここよ り速 くていいとのことだった。 解散後、4番のバスか ら途中カビオラニ通 りで3番のバスに乗 り換えて、知念ダニエルさんの名刺 にあるWUBに行った ら、そ こはダニエルさんの自宅で、看板 も出ていな くて、お母 さんがいた。 お母さんは佐敷の人で、昭和女子大で英文学をや ったのだそ うである。オ リンピックの頃にアメリ カに来た らしい。夫は 3年前に亡 くなったが、 2世だそ うである。その間に 2男 2女の 4人の子 ど もがいて、長男がダニエル さん というわけである。 5時過ぎまで話 してか ら、歩 いてサ ンライズに 行った。途中ダニエルさん本人がやってきた。食後8番のバスで戻ってきた。 18日、10時頃出て、バスでアラモアナに行 く。Cのカン トリーエ クスプレス というのに乗って、 マカハ ビーチまで行 く。ちょっといてか ら又バスで引き上げて、チ ャイナタウンで降 りる.食事 を してか ら、散歩。雨が降ってきたので適当に切 り上げてバスでアラモアナ。本屋に行 く。 日系人の 自伝小説であるが
、VOLCANO
という探 していた本が見つかった。 19日、11時にホテル をチェックアウ トして リム ジンで空港。チ ェ ックイ ンしてか ら中に入 り、 14:40発NW22便で成田に向かい、20日午後 6時半頃成田に着 いた。 3月23日に沖縄に戻った当日、ナ ンシーさんの親戚の仲井間宗謙氏宅 を訪問 した。写真 とビデオ のダビング した ものを持 っていった。筆者の 自宅は那覇市の松尾1丁 目であるが、歩 いて1∝)メー トルほどのところにこういう人が住んでいるのを知 って全 くビック リした。同 じ町内に国場氏の親 族 も住んでいる。(
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)
つくられた伝統文化 2∝格年度前期の地域国際化論は、意識的に沖縄 と関連づけた授業内容 とした。 ちょうど、 白水繁彦編 「移動する人びと、変容する文化 グローバ リゼーシ ョンとアイデンティ テ ィ」(文献①)が出版 されたので、この本のハ ワイ関係の部分を紹介 した。読んでみると、ハ ワイ で見た沖縄の伝統文化が意識的につ くられた ものであることが明瞭 に分かる。以下に、講義の際に 使ったまとめを掲げる。1
. 変容エージェン トによる文化の創出 (白水) *ハワイのオキナ ワン ・フェスティバル 「オキナワン・フー ド」 を全 くのボランテ ィアの人び とが作 り売っている。おいしい。 しか し、ハ - 1 5-ワイ風にアレンジした ものもある。特 にアンダーギーは味も柔 らかさも ドーナツに近い。 ブースに よっては2日間で50万円以上売るところもある。 このフェステ ィバルは1982年に 3世 を中心 に始め られた。 「伝統の創造」だった。 中心にオキナワ ン ・プライ ドとか、ウチナー ンチュ ・ス ピリッ トといった 「エスニシティ覚醒用語」 を口にする人 がいる。沖縄食についてはオキナ ワン・コミュニティの女性団体 フイ ・オ・ラウリマ (clubofmany hands)が調理の本 まで出 している。上部組織ハ ワイオキナワ連合会 も機関紙Uchinanchuで沖縄 食を大々的に宣伝 している。 「ソウル ・フー ド
」
「コンフォー ト・フー ド」だ といっている。沖縄食 は単なる栄養補給の消費物ではない。 *第2次大戦後、「故郷」沖縄が 日米戦で荒廃 した との報 に接 したハ ワイの沖縄系の人びとは一致団 結,膨大な救援物資を 「故郷」沖縄 に送 った。 終戦か ら35年後の1980年はハ ワイへの沖縄移民80周年にあたっていた.第 1回沖縄研修ツアーが 行われたO至 るところでVIP並の大歓迎を受けた.第10回那覇祭 をみて、このようなみんなが集ま る機会がほしいと.実行力に富んだ若者が この旅行団には多かった。 オキナ ワン・フェスティバルの主たる構成要素は、①食べ物、②ステージの演芸、③ カルチュア・ テン ト (多彩な文化の展示)、(彰ボランティア。 ④ の協働 によって人間関係が広がっていく。それ までなかなか出身市町村の/トコミュニテ ィの枠 を超えることができなかった。沖縄系社会全体 (大 コミュニティ)づ くり。 リーダーたちは、活動 目標 を 「社交」か ら 「文化」へ と変化 させた。 ボランティアによるのは、純益の7割が市町村入会、残 り3割が本部 (ハ ワイ沖縄県人会HUOA) に入るか らで もある。 *沖縄食のメイジャーデ ビュー :伝統的家庭料理か ら郷土料理へ オーセ ンテ ィックな食べ物であるか らには食べ物の質がよいということは重要。 数ある沖縄料理の中で も基本的で、作 るのが簡単で、 しか も一般 に受け入れ られやすいものを選 んだ。 沖縄の原型 を維持 しているものもあるが、 アメ リカ食 との混交が強 くみ られるもの、アメ リカ的 もしくはハ ワイ的な ものもある。 なぜ沖縄食及び沖縄風混交 フー ドにこだわったのか ?1つの鍵 は、
「1世が どう思 うか気になっ ていた」 という証言。 もう1つは市町村入会の資金調達の要請。 1度切 りの客な らともか く毎年来 て もらわなければな らないo従 って、 この祭特有 というユニークさ (付加価値) としっか りした味 (実質)の両方 を備えている必要がある。 *郷土料理か らエスニ ックフー ドへ 「心か ら-兵 の」 ウチナー ンチュになるためにはたんに生まれただけでは足 りない。 「心」がだい じであるということは、敷術 していくと、た とえ血統的にウチナー ンチュに生まれな くて も、沖縄文化 を賞美 し、オキナワン ・フー ドを食べた り作った りする行為 を通 してウチナ-ン チュになれる (少な くとも近づける) ということになる。 ハワイのクックブックベス トセ ラーEthnicF(xjdsofHawaiiの改訂版(
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∝沿年)(著者はナイチ 系3世)でオキナワ料理が 日本料理 とは別にして取 り上げ られた。オキナ ワンの人口が増えたとい うわけではな く心理的なプレゼ ンス拡大の結果であるo変容エー ジェン トの活動があった。 ー 1 6-3.ハ ワイのオキナワ料理の創造 (佐藤万里子=)
*フイ ・オ ・ラウリマは1975年 と20CX)年に
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(第1作) とOki
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(第2
作) を出版 した。2
冊の出版で、沖縄で食 される料理に必ず しも準拠 しな い 「ハ ワイのオキナワ料理」 をつ くりあげ、ハ ワイの1つのエスニ ック集団 としての 「ハ ワイのオ キナワン」 というエスニ ック ・アイデンテ ィテ ィ形成 に貢献 した。 ハ ワイには1852年中国か らの契約労働者導入以来、日本、 ドイツ、ノルウェー、スコッ トラン ド、 ポル トガル、 プエル トリコ、沖縄、朝鮮半島、 フィリピンな どか ら様々な文化的背景を持つ人び と が移民 してきた.沖縄か らの人び とは、 プランテーシ ョンでの過酷な労働 に加え、 白人社会だけで なくナイチか らも差別 された。第2次大戦終了後 まで 1世や 2世がオキナワンであることを顕示す ることはまれだった。 70年代、米本土やハ ワイで人種やエスニシティにもとづ くアイデンティテ ィの価値が重視 される ようになった。 3世 もその流れ に加わるようになった。 フイ ・オ ・ラウリマは1S68年 2世のオキナワン女性 によって設立された。す ぐに食文化研究 に取 り組み始 めたOハ ワイでは70年代初期 まで公 の場でオキナ ワ料理が出され る ことはきわめて少な く、 また、家庭でも沖縄 に由来する料理を継承 して こなかった人が多い。 クックブックでオキナワ 料理方法を学んだ という3世 も多い。第 2作制作者は第 1作の読者で もあった。 *第1作は 1/5をフイ ・オ ・ラウリマや沖縄の歴史、文化の説明にあて られている。 制作にあたって、両親のつ くっていた料理の中で好 きな レシピを持ち寄 り、すべてを試食 して掲 載。同じ種類の料理でも複数のレシピが開催 されている例がある。 ラフテ-は6種類、サータ一 ・ アンダギーに至っては12種類.地域差 には触れずすべて 「オキナ ワ」料理 として掲載0 213レシピのうち180レシピには提供者名が記載 されている。 レシピ提供者総数は67人。 *第2作は、第 1作か ら25年後。 文化面寄稿者は3人か ら21人に増えた。 中心的制作者は 3世に移 る。 1つの料理に基本的に 1つの レシピに統一。例外はラフテ- とサータ一 ・アンダギー、 (それぞれ 3つ)、卯の花の妙め物。 「ハ ワイ ・スタイル」 という第1作にはなかった料理スタイルが含 まれているOサーター ・アンダ ギーには、ネイテ ィブ ・ハ ワイアン料理の1つであるポイ (ハ ワイ人の主食であったカロ (タロイ モ)のペース ト) を使った 「ポイ ・アンダギー」が含 まれるO ハワイ ・スタイルのサータ一 ・アンダギーの場合、エバ ・ミルク、バニ ラ、・エ ッセ ンス、そ して 水などオキナワでは使われない材料が入っている。卵や ミルクを多めに入れる。 「オキナ ワン・ドー ナツ」 とも呼ばれる。オキナ ワの甘藷 (紫芋) を使用 した トウマイ クル料理
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と、電子 レ ンジを使用 してつ くる電子 レンジ料理 という新 しいオキナワ料理 をつ くり出 している。 トウマイク ル を使用 したオキナ ワ料理は17種類の レシピを掲載 して いる。電子 レンジを使用 した ものは 8種 類。 新 しい料理が加わった一方で、第1作か ら受け継がれなかった料理は95種類にも及ぶ.ナカミ ・ ヌ ・シムン (豚の臓物の吸い物)な ど、材料の手間がかかるものやイ ラブ-な ど材料がハ ワイでは 手に入 らないものは掲載 されずOチ ャンプルーは第1作では 7レシピあったが、第 2作ではゴー - 17-ヤ ・チ ャンプルー と トー フ ・チャンプルーの2種類になった。
第2作の題名にあるMixedPlateはプレー トランチ とも呼ばれ、ご飯 とマカロニサ ラダとともに ハ ワイの様 々なエスニ ック集 団の料理のい くつかを選んで1枚の皿 にのせたハ ワイの代表的な昼 食。 プランテーシ ョンで、労働者たちの間でそれぞれの昼食を共有 し合った ことか ら発展 したとい われる。
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作が出版 された2
(X沿年頃は、ハ ワイ社会全体 を志向す るイベ ン トがHUOA(HawaiiUnited OkinawaAssociation)ではひんぽんに開催 されていた。 「ローカル ・アイデンティティ」は1%0年 頃か ら重要性が増 し、 日系社会では特 に反 ジャパニーズ感情の高 ま りの中で、 ジャパニーズよ り ローカル というアイデ ンティティを強調す ることで他の集団 との関係 を保 とうとする3世や4世が 増えてきていた。 「伝統」的な沖縄文化よ りもハ ワイ という多文化社会で他のエスニ ック文化に影響 を受けた り、与えた りしなが らハ ワイ独 自のローカル文化 を創ることへの関心が高まってきた。 *大幅改訂の理由 第1作の使いにくさ。オキナ ワ料理を食べた こと、作 った こと、そ してそれぞれの料理の材料の ウチナーグチあるいは 日本語の名前を知 らなければ実際に使用す ることが難 しい。 料理の説明 もよ りていね いになっている。 しいたけの戻 し方、肉の下ゆで、灰汁抜きのような基 本的の手順の説明が加わ った。 制作者が3世に移 ったというだけでな く、 ノン ・オキナワンに主導 された。 フイ ・オ ・ラウリマ は68年の設立の時か ら加入条件を 「オキナワン」 に限 らずオキナ ワ文化 に関心をもつ女性 としてい た。80年代以降 ノン ・オキナワンの活躍は著 しく、その存在は第 2作の利用者層をさらに広げる役 割 を担 った。第2作の編集 に携わった中心的人物の数人もオキナ ワンではな くナイチである。 フイ ・オ ・ラウリマのクックブックの読者層は広 く、世界の沖縄出身者 とその子孫たちのネ ッ ト ワークを介 して米本土や沖縄などにも移動 してお り、その受け手はハワイの人びとにとどまらない。 [2] 南米 ・LA (1) 旅の概略 8月15日か ら9月20日まで、娘 と一緒に南米 とLAに行 った。 旅行の主 目的は、沖縄移民百年記念集会がブラジルのサ ンパウロとアルゼ ンチンのブエ ノスアイ レスで開かれるので、その関係の集ま りに参加するとともに、ボ リビアのコロニア ・オキナワや、 LAでウチナー ンチュが どんなふ うにやっているのか、実際に見て くることだったoたまたま、筆 者の娘が、ウテナー ・ネ ッ トワークをテーマにして大学院で勉強 しているので、娘の研究旅行につ いていく形になった。 筆者がは じめて南米 を旅行 したのは78年か ら79年にか けてである。その直後沖縄 に来たのであ る。沖縄大学に就職後、85年度に 1年間、無給休職 してブラジルに滞在 した。以後91年頃まで毎年 のように行っていた。 ブラジル にはその後97年に行 ってか ら10年 ぐらいごぷさた していた。 この10年で どういう変化があったのか。人々が共通に言 っていたのは車が増えた ことである。サ ンパウロは慢性的にひ どい渋滞に陥っていた。地下鉄が拡張 していっているが、 とて も追いつかない。
もう 1つ、旅行者 として特 に痛切 に感 じたのは物価が高い国になった ことである。米 ドルが弱 く-
18-なった ことが基本的にあるが、政策的に高値が維持されているものもあって、例えば国内線の航空 運賃は多分 日本よ り高い。 長い旅だったので、まず、概略を以下に示す。 15日 (金)成田-仁川- LA-サ ンパウロに向か う。 16日 (土)サ ンパウロ着。 17日 (目)飛行機でヴィ トリアへ。 21日 (木)飛行機でサ ンパウロに戻る。 22日 (金)知念明先生夫妻 と日程調整。奥間邑盟 さん見舞。ハ ッカ会館で沖縄か らの方々の歓迎夕 食会 。
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日 (土)午前中は沖縄県人会大サ ロンで開拓先亡者慰霊法要、午後は ビラカロン地区アロウ ド広 場で前夜祭のパ レー ド。 24日 (目)ディアデマの沖縄文化セ ンターで百周年記念式典O夕方田村三千代 さん宅。2
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日 (月)マクス- ド ・プラザホテルで講演会 とフォーラム. 26日 (火)イ ビテンガに行 く. 27日 (水)イ ビチンガか ら戻る。 28日 (木) 田村 さん と美術館.2
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日 (金)アルゼ ンチンのブエ ノスアイ レスへ。夕方沖縄県人会館でウェルカムパーティ。30日 (土)カミニー トに行 く.午後Av.deMayoで行列。その後 プラサ近 くのMuseoEtnografico JuanB.Ambrosettiに行 く。7時か ら9時過ぎまで沖縄県人会館で琉球大学の移民フォー
ラム。 31日 (目)夕方か ら沖縄県人会館。表彰式のあと歓迎会。 01日 (月)チ リのサ ンチャゴに行 く。
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日 (火)パルパ ライソに行 く。サ ンチ ャゴに戻ってか ら、サ ンクリス ト-パルの丘 と新市街 に行 く。 03日 (水)サ ンチャゴか らサ ンパウロに戻る。 (旭日 (木)奥間さんの見舞O田村 さん宅で夕食0
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日 (金)カンビーナスに行って、東願麟見学。 ジヤガ リウナの小原哲夫さん宅 に2
泊0 07日 (目)サ ンパウロに戻る。 08日 (月)知念先生 と話 したあと、ボ リビアのサ ンタクルスに行 く0
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日 (火)沖縄県人会に行った と、 コロニア ・オキナ ワに行 って くる。 10日 (水)中央 日本人会に行ったあと沖縄県人会。午後、チ ョビー旅行社で状況 を聞いてか ら沖縄 県人会。 11日 (木)サ ンパウロに戻る。 12日 (金) プレッセールの移民博物館、文協のブラジル 日本移民資料館。 13日 (土) 日帰 りでカンポグランジに行 って くる。 14日 (日)知念先生宅で昼食。 15日 (月) 田村 さん とサ ン トス、サ ンビセ ンテ。奥間さんの見舞。 田村 さん宅で夕食。 - 19-16日 (火)サ ンパ ウロか らLA へ。 17日 (水)北米沖縄県人会。その後 リ トル東京。 18日 (木)
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に行 ったあ とリ ドン ドビーチ。 19日 (金)LA か ら成 田に向か う。2
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日 (土)成 田着。(
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日本の教育 ・ブラジルの教育 8月16日にサ ンパ ウロのガル- リョス空港 に着いた とき、知人の田村三千代 さんの他 に、知念明 先生が迎えに来て くだ さったのには非常 に驚 いた。 知念先生は、1988年 にサ ンパウロのマ ッケンジー大学で開かれた 日伯商法セ ミナーの企画者であ る. 当時、筆者は毎年 のよ うにブラジル に行 って いたので、 このセ ミナー も聴講 した。以来、知念 先生は ブラジル ・沖縄間の交流 に努力され、 ウチナ-民間大使で もある。 しか し、最近は、たまた ま、2
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光年 に宜野湾 のコンベ ンシ ョンセ ンターで開催 された第4
回世界のウチナー ンチ ュ大会の際 に顔 を合わせた他は ご無沙汰 していた. 聞けば、現在 はすでにマ ッケ ンジー大学 を退職 し、イ ビチ ンガ という田舎町にあるFACEP(
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という大学の学長 をし ているのだ という。そ して、今 回ブラジル にいる間にFACEP
で 日本の教育 について話 をしてはし い とい うのである。そ ういわれて も、筆者は 日本の教育の専門家で も何で もないので,即答は避け たが、過去 に知念先生 とブラジルで会 った ときは必ず、 同氏の関係 している大学で講演ない し講義 をさせ られて きたので、覚悟は決めた。 サ ンパ ウロに着 いた翌 日、サ ンパ ウロか らエス ピリ トウ ・サ ン ト州のヴィ トリアに飛行機で行 っ て、タ一二アさん宅 に4泊 した.タ一二アさんは、筆者の亡 くなった妻の弟の奥さんである。現在、 妻の弟は東京でタクシー運転手 を して いる.80年代初めに農業関係でブラジルに行ってタ一二アさ ん と結婚 したのだが、仕事が安定せず、 ブラジル と日本 の間 を行 った り来た りの生活が長かった。 しか し、 この7年間は、家族の生活の本拠地はブラジル と決め、妻の弟だけが東京で出稼ぎしてい るわ けである。 タ一二アさんの実家はバイア州 のティ シェイ ラ ・デ ・プレイ タス という町にあるが、 現在、子 どもの亀吉、花江 と同居す るため、学校 のあるヴィ トリアに住んでいる。亀吉は現在 ヴィ トリアにある国立大学で建築 を学び、花江 は、昨年医学部 を受験 し、私立 には受か ったが、国立は 落ちたので、学費が高い私立は敬遠 して、予備校 に通 っている。 2人 とも、 ブラジル と日本の間を 行 った り来 た りしたおか げで両 国語がで きる。 しか し、それ は大変な経験で あった ろうと思われ る。 知念 先生か ら日本 の教育 につ いて話 して くれ と頼 まれたので、 ヴィ トリア滞在 中に この2人 と タ一二アか ら両国の教育 について、 いろいろ話 を聞いた.その結果 を、娘 と一緒 に次のよ うにまと めた。 < 日本の教育、 ブラジルの教育> 花 ちゃん も亀吉 も小学校か ら中学校 にかけての時期 に両国間を行 った り来た りした。大変だった で しょう。花 ちゃんは言葉 も一時おか しくな ったが、 タ一二アが意識的に家庭で教育 して補正 した 結果、 どち らの言葉 も話せ る し読める。-
20-花ちゃんは今大学受験のための予備校生。医学部が希望。心臓外科医にな りたいと。昨年、私立 には合格 したが学費が高すぎる。国立はもうちょっとだったので 1浪 して今年 また受ける。だが、 国立はマイ ノリテ ィ等に優先枠 を設定 して広げた結果、一般枠の倍率は非常 に高 くなって40倍 ぐら いらしい。でも大学 レベルで急 にこういうことをして もダメで、 もっと基礎教育段階か ら教育の機 会均等、平等化が必要であると花ちゃんは言 っている。それか ら、学校の役割が勉強に限 られてい て、 しつけは家庭で という感 じがブラジルでは強 いとも花ちゃんは言っている。 日本の場合、教育の機会均等は形式的には非常 に進んで、何 を学びたいか も分か らない人まで大 学に入学 している状況であるd将来の希望の仕事 とか非常に暖味である。基礎教育 レベルでは、落 第 もな くみんなが進級するという建前がむ しろ悪 い方向に作用 して、不登校が増えているo保健室 登校な ども当た り前に見 られる。何でそんなにまで して学校 に行かなければな らないのかoそ うい う疑問がふ くらんでいる。高度成長期 と違って現在は社会全体の方向性 もわか りにくくな り、そん な中で家庭の力も非常に落ちていて、最近では勉強 しろとうるさい父親を娘が刃物で殺すな どの事 件が起きている。 この事件は 日本中で注 目を集めている。その分学校への期待が過大 にな りがちで ある。 将来の課題は両国間で違 う。 ブラジルでは先生の待遇 も含めて基礎教育の拡充が必要。 日本で は、 もっと個人を尊重 した教育が必要。 8月訪 日に知念先生 とイ ビテ ンガに行 った。サ ンパ ウロか ら350キ ロだそ うで、車で4時間はか かる。サ ンパウロJJllのど真ん中にあることが この町の売 りなのだそ うである.FACEPは予想以上 に小さな大学だった。 日本でいえば短大の感 じで、英語、ビジネス、保育士養成等のコースがある。 当日夜のスピーチは娘がやったが、聴講の学生を見ると、ほとん どが社会人のようだった. 知念先生は、希望 してこの大学に来 られたのだそ うである。地方、 といって も、 ブラジルは何 し ろ大きな国なので半端ではないが、そ こでの教育のあ り方 を考え、実践するためにやってきたのだ という。距離的なハ ンディキ ャップを克服するために、サ ンパウロで行われ る講義 をイ ンターネ ッ トで中継 し、質問もできるような双方向授業 を実践 しているのだ という。そのための大きなアンテ ナもあった. 知念先生の夢は、イ ビチ ンガの若者 と沖縄の若者が交流す ることである。そのためにこそ筆者 を イ ビチンガに連れて行 き、 どんな町なのか、 どんな大学なのかを見せたのだろう。確かに離島県の 沖縄 と類似 した問題 もある。 しか し、沖縄は 日本の一部 としてやってきたので、 ブラジルの人たち の関心 とうまくあうか どうかは、ちょっと難 しい面があるOサ ッカー交流だけです ますわけにもい かないだろう。何かいい交流のや り方はないか と考えているところである。 1つ、 ヒン トにな りそ うなのは、イ ビチ ンガは刺繍で有名な町だそ うである。実際、町の中には刺繍屋 さんが並んでいた。 こういった特産物を手がか りに何か交流はできないだろうか。技術関係の専門家に意見 を聞いてみ たいと思っている。 帰ってか ら調べた ら、 ブラジルでは現在初等教育 の地方分権化が進んで いっている (文献(参参 照)。格差が極端なブラジルのような国では、 どんな人材 を育てるかはきわめて大きな問題である。 ー
21-(3) 移民百年祭
8
月2
2
日に沖縄か らの一行がサ ンパ ウロに着 いた。歓迎夕食会 に出る と、金武の吉田勝贋県議会 議員 に再会で きた。伊波洋一宜野湾市長 とも挨拶 で きた。ハ ワイか ら知念 ダニエル さん も来てい た。 翌2
3
日、午前中は沖縄県人会大サ ロンで開拓先亡者慰霊法要があった。午後は ビラカロン地 区ア ロウ ド広場で前夜祭 のパ レー ドということだったが、 ビラカロン地区の場所が分か らない。 ほとん ど団体で来て いるので、個人参加の人にも分かるよ うな案内が皆無なのである。 ところが、ホテル で朝食 に行 った ら、パ ラナ州 のク リチ-バか ら来た人たちがまとまっていて、彼 らは貸 し切 りバス で来たそ うで、一緒 に連れて行 って くれ る ことになった。会長は じめ皆 さん非常 に親切だった。法 要の後バスで ビラカ ロンに着 いた ら会館で まず昼食だったが、 ク リチ-バの人たちは入場券を持 っ ていな くて、別 になった。食べた後外 に出た らた くさん出店がでていた。 しか し、朝方は雨だった し、風が強 く、ち ょっ と寒か った。会場は、ち ょうど世界のウチナー ンチュ大会みたいな感 じだっ た。短 い通 りでパ レー ドがあった。 ブラジル人のエイサーは うまかった。間の取 り方が上手に出来 ていた。 ミル クの神様 の行列 もあった。行列の後、ダ ンス とか を座 ってみていたが、寒 くなって、 このままでは風邪 を引きそ うで、先 に帰る ことにした。大会ボ ランテ ィアの若 いお兄さんがバス停 まで連れて行 って くれて、 メ トロのカホ ン駅行 きに乗せて くれた。 メ トロに乗 り継 いで、ホテルに 戻 った。 24日、今朝 もク リチ-バの人び とと一緒 にバスでデ ィアデマの沖縄文化セ ンター に行 く。ディア デマ というのがサ ンパ ウロの南方 にある町の名前だ ということが分か った。 8時半に出発 して 1時 間近 くで着 いた。10時過 ぎか ら百周年記念式典。那覇市か らなん と親戚 の上原 さん夫妻が来ていた のにはびっ くりした。沖縄 ツー リス トのツアー に加わっていて、明 日か らリオ とイ グアスの滝だそ うである。記念式典が まだ終わ らない うちか らハ ワイの人たちは抜 けて、昼食会入 り口で列 を作っ て いた。実際、表彰 とか に関係ない人には退屈な式典だったか もしれない。昼食会はや っぱ り入場 券 を持 って いる人だ けで、 ブラジル の人々は別 の ところで非常 に長 い列 を作 って順番 を待 ってい た。我 々は、相 当遠 くまで来た し、夜は田村 さん との約束があったので、午後 の催 しはでないで帰 る ことに した。大会関係の人に聞 くと、バス乗 り場は歩 いて行 くには違 いが、 さ りとてタクシーは ここまでは来ない というのである。で も、会場か ら左手 に10分 ぐらい歩 けばタクシーを拾えるとい うので歩 いて いった。交差点で聞いた らバスの停車場 を教えて くれたので、歩いていくと確か に出 た。 ち ょうど、 メ トロのジャバカ ラ駅行 きのバスが来たが、切符 を持 ってないと乗れないという。 お じさん と女 の人 も待 って いたが、やは り切符 を持 って いな くて、次 に来たバスに切符売 り場があ るところまで乗せて もらった。 このお じさんがなん と、百周年記念式典で表彰 を受けるために出て きた リンス支部の方で、女の人はその奥 さんだった。お じさんは手 に表彰状 を持 っていた。 ジャバ カ ラか らメ トロに乗 って リベルダー ジまで来て、2
人 もここで降 りた。お じさんは 日本語は少 しし か分か らなか ったが、 これか らリンスにバスで帰 るそ うで、 4時間 ぐらいかかるらしい。昨 日サ ン パ ウロに出て きて1泊 したそ うだ0 3時過ぎにはホテル に戻れた.2
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日と24日に出てみて、 ウチナー ンチ ュの多 さには ビック リしたが、 ウチナー ンチ ュが集住 して いる地 区でや ったために、一般 のブラジル人 と混 じってや る感 じが薄かった。そ して、 にもかかわ らず治安はよ くないよ うで、 ク リチ-バか ら一緒 に行 った人たちか ら、カメラや ビデオに気 をつけ-
22-るよう何度 も注意 された。 この地区は、そんなにいい地区ではないということなのかもしれない。 25日、 メ トロでマクス- ド・プラザホテル に行 く。受付でボ リビア県人会会長比嘉次雄氏、及び、 一緒にいた土木技師長嶺勉氏 と名刺交換 した。たまたま泊まっているホテルが同 じで、顔は見かけ ていた。サ ンタクルスに行った ら面倒 を見て くれるそ うである。よかった.石川友紀先生にも再会 した。午前中は全体の講演会。 ク レイグ ・ウイル コックス氏がウチナー ンチュの長寿問題 について 1時間 ぐらい講演 したが、 いい食べ物を食べて長生きす るのがよ く生きることみたいな感 じの内容 で、それを具体的なデータで論証するのだが、沖縄的な特徴 というのはそ ういう合理主義を超えた ところにあるのではないかと思 う。やっぱ り西洋人で、だか らこち ら側の ことが見 えていないなあ と思った。 知念先生と弁当を食べてか ら、午後のフォー ラムは5つに分かれていたので、筆者は前半、知念 先生主催の 「教育、家庭、および司法」 に出た。 ソールナセ ンテ人材銀行社長赤嶺尚由氏の講演以 外はみんなポル トガル語だった。後半で、琉球人形を南米に送る会の座間味末子 さんが琉球人形 を 持ってきていて、その贈呈があ り、小さな人形は くじ引きで、筆者 も当たった。 これで終わ りのよ うだったので、後はWUBで知念ダニエルさんがやっているところをち ょっと見てか ら、琉球大学 の先生方のフォーラムに出た。その第3部 「沖縄移民 と21世紀 に向けたネッ トワーク」 を大体全部 聴けた。宮内久光、野人直美、金城宏幸氏の順だった。宮内氏は季節労働 と移民の比較。野人氏は 中南米移民の特徴、最後の金城氏は今後のネ ッ トワー ク形成 についてだった。宮内氏の発表は興味 深い視点で、現在、不況の深刻化 とともにこの間題があぶ り出されたように浮かび上がってきてい る。金城氏の発表は結論の急 ぎすぎで、説得力を感 じなかった。質疑応答で、WUB東京の重 田辰 弥氏が、かな り批判的な内容 (沖縄の人は東京ではマージナル といわれているらしい)の意見 を述 べ られ、それでフォー ラムは打ち切 りにな りそ うな ところで筆者 も質問 し、南米 に移民社会が残 っ たのも帰 りた くても帰れない遠いところだったか らで、いわば取 り残 された化石のよ うな ものでは ないか、ネッ トワークというな ら近 いところか ら広がっていくのが 自然だ と思われるのに本土 しか 出て こない、 どう考えるか、 と金城氏に質問 した。その返事 を聞いていろいろ質問が次々飛び出 し て続き、琉大の先生方の基本的立場にかな り疑問を感 じさせ るような内容になった。 フォー ラムが 終わってか ら重田氏 と挨拶 したが、愉快だった。 重田氏か らは沖縄に帰ってか らも頻繁にブログが届いている。 このフォー ラムについての重田氏 のブログを以下に掲げる。 室田辰弥氏のブログ 「ブラジル紀行⑧」 http://bfog.goo.ne.jp/shigeta-nas/m/2∝溶〔沿/l このフォーラム、アカデミックな所為か大会5つのフォー ラムの中では、参加聴衆が少なかった が、私 には最 も興味深いプログラムで した。 一つには これまで南米での調査研究実績のある石川所長以下 「琉球大移民研究セ ンター」教授10 名近 くが大挙来訪参加 してお り、その中には町田、金城両教授等知己がいた ことにもよ ります。 3 部構成で したが前半はWUBビジネスプレジェンテ-シ ョン参加のため、私は最後の部、宮内、野 人、金城3教授のパネル発表 しか開けませんで した。 宮内教授は本土出稼ぎ ・季節労働者、野人准教授はウチナ ンチュ大会 に参加 した南米各国二世の -
23-ウチナ ンチュ意識の実証的調査分析発表で興味深かった。 往時の移民は …いざ行かん,五大州 !M等の海外飛躍への勇 ましいス ローガンに隠れがちだが、 何だかんだ言って も り生活、稼 ぎのため" という基本動機 という点では今時の本土 ・出稼ぎ季節工 と時空を越えた共通の要素があるのではないか。 「南米移民は …季節=ぁ らぬ …Life出稼ぎ労務… の要素があったのでは ?
」
「本土季節工のUター ンは月・年単位だけど南米移民は世代Uターンでは ないか」。 もう一つ、南米沖縄移民の調査 ・分析には他府県移民 との比較考査がいま少 し欲 しい。 この点で は福井 日大教授の先行研究がある。 さ らに、最初の南米移民1908年の 「笠戸丸」乗船791名中325名 となぜ過半数近い沖縄出身か ?そ の理 由背景は ?渡航 した多 くの県出身移住民が "話が違 う、編 されたM というが H編 した主体は誰 が '``他府県者 との意識、行動の差"等の比較実証分析 も欲 しいところで した。 また、野人教授の行 った過年沖縄で行われた 「世界ウチナ ンチュ大会」 に参加 した南米他国県系 人 と比較 した県系ブラジル人の "沖縄意識Mの強さの調査結果 を聞きなが ら、その意識の理由や背 景、 さらには この大会 に参加 した人々は移住民の何割 ぐらいか。経済的に恵まれた特定の階層では ないか等々の疑問が湧いてきました。 29日、TAMのJJ8010で、 ブエ ノスアイ レスに1時過ぎに着いた。空港バスで レティロに行き、 そ こか ら歩 いて近 くのホテルにチ ェックイ ン。 5
時に出て、メ トロの レティロ駅か らインディペン ディシア乗 り換えでフフイに行 く。沖縄県人会館は駅か らす ぐの場所だったOツアーバスが続 々到 着 し始めた ところだった。6時か ら国外客 ウェルカムパーティが行われたが、8時前に引き上げた。 30日は朝食後ポカのカミニー トに行 った.近 くのサ ッカー場 にも行 く。昼食後、メ トロでAv.de Mayoまで行 き、そ こか らPlazadeMayo方向に歩いていると、交通規制されて車が止まっていて、 パ レー ドの人びとが待機 していた。 2時過 ぎか ら行列が動き始めた。 4時過ぎに終わってか らプラ サ近 くのMuseoEtnograficoJuanB.Ambrosettiに行 く。 メ トロでホテルに戻る。ちょっと休ん で、 6時 に出て沖縄県 人会館 に行 く。 7時か ら 9時過ぎまで琉大の移民フォー ラム。 コメンテー ターのラプラタ報知崎原朝一氏の話が面白かったO フォー ラム後、沖縄タイムスの又吉健次記者、 新垣玲央記者に挨拶 してか ら帰った。 アルゼ ンチ ンはブラジルの付録程度か と思 った ら、 こっちの方がむ しろ盛大だった。パ レー ド も、堂 々、議会前の、町のど真ん中でやって、現地の人もた くさん来ていて、 ブラジルよ りずっと よかったo受け入れ側の社会のあ り方を反映 していると思 った。 31日、午後 4時まで,疲れがたまっていたので、買い物 した りしてゆっくりした。やっと元気が 戻ってきて、沖縄県人会館に行 くと、駅の出 口のところでアラカキ・マ リアさんと一緒になった。78 歳でよ くも1人で ここまで来れた ものだ と思ったが、アラカキさんは娘の手を握って、たまってい た話を し始め、それがずっと続 いて、孫みたいだった。娘はその話をノー トに記録 していた。会館 内は満員で人があふれていて、 しば らく会館前にいたが、 2階か ら入って見ると表彰式が終わ りか けだった。式典終了後、上の階で歓迎会で、海外か らの人 と現地の人 とに階がわかれるようになっ ていたが、我々はアラカキさん と一緒 に現地の人の所 に行った。料理が豊富でおいしかった。アラ カキさんは前夜のフォー ラムで隣にいた座吾味アルベル トさん と親戚で、彼が ラプラタ報知の高木-24--臣氏 らを紹介 して くれた。 アラカキさんとレティロまで一緒 に戻 り、アラカキさんが レテ ィロか ら近郊電車で帰るのを見送った。ム ンロというところに住んでいるそ うである。 9時前にホテルに 戻ってきた。 アルゼ ンチンまで来てよかった と思ったo疲れて しまって、最終 日はゆっくりしたけど、アラカ キさんに会えた りして、ちょっと偶然以上のものを感 じた。 ブエノスアイ レスの治安はよいように 思われたが、アラカキ さんの話ではひった くりな どもある ことはある らしい。 しか し、大体 ヨー ロッパ風だなと思 った。人びとの顔は様々で、 白人一色 というのではなかった。 慎子 :アラカキさんメモ (抄録) 「偶然の出会い」 在亜沖縄連合協会のある、Jujuy(フフイ)駅 に降 りるとプラッ トホームで沖縄 のおばさん らし い姿が見えた。私たちの声がホームに響いたのか、こち らを振 り返 られたので、「こんにちは」と声 をかけてみた。 この方が沖縄県系の2世のアラカキ ・マ リアさんだった。 アラカキさんとは、結局 最後の帰 りまで一緒 にいて、移動中、腕組み した り手を握 った りしなが ら歩 いてまわった
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8
歳で、 かわいらしいおばあちゃんという印象である。会館 に着いてみると、人があふれ返るほど大勢来て お り、入 り口で入れるか様子 を伺 いなが ら新垣 さんと話 した。 アラカキさんは 日本語の勉強 にもな ると次か ら次に話 しが出てきた。話 している間、 アラカキ さんは、知 り合 いを見かけるたびに久 し ぶ りといった感 じではおを くっつけて挨拶 して いた (ブラジルで も挨拶 の ときにはよ く、ほお を くっつけて、キスをしたかのように音だけ鳴 らす)。その中に、前 日の移民フォー ラムでお会いした 座吾味アルベル トさん (在亜沖縄県人連合会の理事) と奥様 もい らっしゃった。 また、 アルゼ ンチ ンの 日本語新聞 として ラプラタ報知の編集長の高木- 臣さん もよ くご存 じのよ うで挨拶 されてい た。高木 さんは沖縄出身者ではないが、県人会関係の方 とは非常に親 しいようだった。 しか し、沖 縄県人会に入っていた として もアルゼ ンチンは広大で、遠隔地な ど様々な ところか ら集 まって来て お り、今回の催 しを知 らない人は多いのだそ うだ。 「アラカキさんの歩み」 アラカキさんは1930年にアルゼ ンチンで生まれた。 5人の兄弟姉妹のうちのひ とり。そ して1939 年、 9歳 の時 に家族みんなで 日本 に引き上げた らしい。 日本への船 は ブラジルか ら70日間かけて 乗ってきたが、船内では麻疹が蔓延 し、乗船 していた人のうち2人が亡 くなって、仕方な く海 に投 げ捨てていたそ うだ。 日本に関 しては、「日本の学校はとってもよかった」「(戦後の)沖縄は悲惨な 状態だった」「とって も貧 しくてね」 と思 い出 しなが ら、 「あのころは裸足で歩 いていたんだよ」 と 照れ笑いした。1946年、ある 日突然、消息がわか らな くなっていたアラカキさんのお父さんか ら電 報が届 いたそ うだ。 内容は 「Estoybien,Vengapront. (私 は元気ですO (アルゼ ンチ ンに)す ぐ に来なさい)」というような簡単なものだった。それか ら21歳の時、アルゼ ンチ ンに再び戻 り、アル ゼンチ ンで紹介された10歳 ぐらい年上の現地の方 と結婚 したのだそ うだ。 あの ころは必ず 日本人 と 結婚することが好 まれ、今のように恋愛 して結婚 というのもなかなかなかったようだ。なぜかアラ カキさんは 「こっちの人」(アルゼ ンチ ン人か と思われるが、日系人か どうか定かではない)と結婚 したと言っていた。昔は自分の意思 というよ りも、仕方なかったんだ と何度 も言っていた。 アラカ -25-キさんの仕事はアルゼ ンチ ンの移民には多い、クリーニ ング屋だった。そ こで長年働いてきてお客 さん とよ く話をしたそ うだ。町の中のク リーニング屋を覗いてみると、やっているのは 日本人では な く中国人がやっていると思われたO アラカキさんは、「中国人はお金があるよ」と商売が うまいよ うな ことを言っていた。 現在、旦那 さんはすでに亡 くな られて、 3人の娘 さん とた くさんのお孫 さんたちがいるようだ。 「3つの言葉を話すアラカキさん」 ア ラカキ さんの話す 日本語 はす ぼ らしか ったが、スペイ ン語 を話す方が楽 だ と言 って いた。 時々、 「ペロー (だけど)」 とか 「クラー ロ (そ う)」という言葉が混 ざって出てきて、単語がす ぐに 出て こないという感 じだった。 日本語 に劣 らず、方言 もよく話 し、同世代の人には大体方言で話さ れていた。方言 についてアラカキさんがいうには、乱暴な言い方 をする (に聞こえる ?)か らあま り好 きではなかった、話 した くなかったそ うだ。 アラカキさんは小学校6年生まで しか出ていない が、勉強が好 きで、「日本語の本を読む ときに分か らないものは全部、帳面に書き写すの」と言って いた。友達か らちょっとした通訳やわか らないことを聞かれることもあるそ うだ。確かに、百年祭 で受け取った友達の表彰状 を口に出 して読みなが ら、わか らない漢字の読み方を私に聞いていた。 「アラカキさんについていく」 記念式典では、次々に表彰式が続 いていた。途中か らアラカキさんと会場の2階へ上がって終わ るまで見ていた。スペイ ン語で話 されているス ピーチは 日本語 に訳 して説明 して くれた。アルゼ ン チ ンの関係者が出て くると誰なのか というのも解説 して くれた。その後、祝賀会では 日本食、沖縄 の料理 も振る舞われ、は じめはアルゼ ンチ ン在住の人 と海外か ら来た人が階 ごとに分かれて食べて いたが、後 になって行 った り来た りしているよ うだった。私たちはアラカキさん と一緒だったの で、は じめか らアルゼ ンチ ン在住の人の階で食べていた。帰 り際、アラカキさんのいとこのお兄さ ん という鎌)歳の方 も紹介 して くれたDアラカキさんの妹 さんもいたが、 「彼女は話 し出す と止まら ないか ら」 と話 しかけず に会館 を出た。 アルゼ ンチ ン生まれのアラカキさんだったが、外国人 という感 じはほとんど最後 まで見 られず、 沖縄のおばあちゃんと話 した という印象が残 った。 帰 りは、アラカキさんを見送ることにしたOバスターミナルな どがあるレティー ロ駅 まで行き、 ム ンロへ向か う列車のホームまで歩いて行 ったO ここまで手で捕 まえて放 さない感 じだったが、お 別れのときはハ グをして、 さっそ うと列車の方 に向かっていった。 「アルゼ ンチ ンの沖縄県系人、 日系人」 アルゼ ンチ ンの県人会で出会った県人会や ラプラタ報知の方を見ていると、物静かで威張 らない 人が多い印象である。そ して、お話 しすると非常に面白い方が多かった。 前 日の移民フォー ラムでお話されていたラプラタ報知編集部の崎原朝一記者がアルゼ ンチ ンの移 民についてお話 されていた ことを一部、紹介 したいと思 う。 沖縄か ら南米への移民 というと、植民地への集団契約移住 という面が強いが、アルゼ ンチンの場 合、特 にペルーや ブラジルで契約を終えた人、あるいは破棄 して来た人が多い。個人渡航のみが可 -
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-能だとされた時期 もあったことか ら、 自由意思で移住 してきた人が多いのかもしれない。 また、崎 原氏は植物学の視点か ら、移民の横づき方 を植物 にた とえていた。 アルゼ ンチ ンは冬が不安定だ と。寒いときは非常に寒いが、暖かいこともあ り、いい加減だ と。沖縄や 日本 にある植物が、アル ゼ ンチンでよく育っているそ うだCその土地 に合わせて人も根づいている、生活 していると表現 さ れた。 アルゼ ンチ ンといえば、タンゴの他に、精神分析の隠れたメッカということで、精神科でお世話 になっている人 も少な くないようだ。崎原 さんは生活史、精神史か らアルゼ ンチ ンを伝えることも 必要ではないかと述べていた。 9月 1日、空港バスで空港へ行 って、LA1446にチェックイ ン。12:30発13:50着 (チ リはブラジ ル、アルゼ ンチ ンよ り1時間遅れ)の予定で、実際には 2時過ぎにサ ンチャゴに着 いた。 ミニバス でホテル・ニ ッポンに行ってチ ェックイ ン。受付は 日本語、英語 ともダメだったが、親切な感 じだっ た。 「地球を歩 く」を見ると今 日は祭 日のよう
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月の第1
月曜 日は国民解放の 日)である。 旧市街 のセン トロは暗 くなると治安がよ くないということなので、明るいうちに歩 いていった。途 中, 日 本食の貼 り紙 を見つけたのでその店に入って、寿司とサ ラダ、野菜 ジュースを食べて満腹 になった。 市場まで歩いて大体 どんな風か分かった。ちょっと前の時代の感 じ。 日本人は非常 に珍 しいようで ジロジロ見つめ られた。バナナを買ったが、形が細長 く大きい。味 も普段食べているのとはちょっ と違 う。暗 くなってきてか ら市場そばのPa
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駅か ら地下鉄で戻 ってきた0 2日、は朝食後、バスでパルパ ライソに行 ってきた。今 にも降 りそ うな天気で、空気が冷た く寒 かった。パルパ ライソは港町だが、周囲が山に囲まれ、そのてっぺんまで家々で埋 まっている。世 界遺産だそ うだ。店な ど見 るとや っぱ りち ょっ と昔の感 じ。港近 くまで歩 いてか ら戻 ってきて、 アッセ ンソール (エ レベーター)で上ってか ら歩 いて下に降 りてバスター ミナルに戻って くる。サ ンチャゴに戻ってか らまずモネダ宮殿 を見る。一方通行でパスポー ト提示が必要だったが写真撮影 は自由だった。それか らパケダノか らケーブルカー乗 り場まで歩き、サ ン ・ク リス ト-パルの丘 に のぼる。いい眺めだった。パケダノか らメ トロで新市街 に行 ってみる。きれいな ビル街 になってい て しゃれた感 じで、人通 りは多かった。銀行 の ATでク レジッ トカー ドか ら現金 を引き出せたO スーパーで、紙の袋入 りワイ ンを買った。非常に安い。 「面」という寿司のチェー ンで食べる。みそ 汁が、巨大な どんぶ り一杯 に入っていてびっくりしたが、おいしかった。体が温 まった。寿司もお いしかった。 アボガ ド巻 もあった。 サンチ ャゴは旧市街 と新市街がはっき りとわかれている。 旧市街は寂れていて、暗 くなると治安 が悪い。 これに対 して新市街は本当にハイカラである。つまりこれが格差社会なんだな ということ を目に見える形で示 している。われわれが泊まったホテル ・ニ ッポンはちょうどその中間にあって、 最寄 りの駅がパケダノ駅である。 3日、朝食後、ホテルでメールをチ ェックした時、福田首相が辞任 を表明 したと知 ってびっくり した。意味が分か らなかった。 ミニバスで空港 に行 く。LAN754にチ ェックイ ン。ホテルニ ッポ ン にいた 日系人 とその奥 さんにあったが、 これか らパ ラグアイのアス ンシ ョンに行 ってカンボグラン ジ付近の家に帰るということだった。 3世だそ うだ。 7時過ぎにサ ンパウロに着 いた。 9月5日∼ 7日、サ ンパウロか らバスで1時間半ほどのカンビーナスに行 って、東麟麟 (あずまー27-き りん) を見学 した。そ して、東麟鱗で働 いて いる小原哲夫 さん宅 に2泊 した。東麟麟は、 日本酒 や醤油な どを製造 しているメーカーであるO 小原 さんは埼玉県浦和市出身で、 日本大学農獣医学部 卒。80年 に農業技術者 ということでブラジル に来て、そのまま移住 した。その後バイア州の専門学 校でカカオの勉強 を3年間や った。 3年間山にこもって 日本語 も忘れて しまうほどの経験 もした。 奥 さんはバイアで一緒 に勉強 した方である。 ブラジレイ ラと結婚 した ことには、 日本の親戚か ら大 変な反対があったよ うである。筆者 もそれは、妻の弟の場合 と比較 して、 よ く理解できた。 日本へ の出稼 ぎブームが始 まった頃、小原 さんは頑張 って出稼 ぎ しなかった.それがよかった という。そ してその後農業 をやめて東麟麟 に入 ったのである。 小原 さんの 自宅は、 ジヤガ リウナ という、カ ンビーナスに隣接 した町 にある.所得水準の高い人 たちが住 んで いる らしく、落 ち着 いた町だった。昔移民 も利用 した鉄道 の博物館がある。
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ボ リビアとカ ンポグランジ 9月8日、 アエ ロス-ル の5L301便で、夕方 の6時頃 (ブラジルよ り1時間遅れ)ボ リビアの サ ンタクルス に着 いた。着 いて、入国手続 きの後100ドル両替 した らなぜか5ドル戻って、95ドル両 替。650ポ リバールBs.ぐらい。 タクシー (50Bs.)でホテル ラスアメ リカス に行 って もらった ら満 員だ ったO タクシーの運転手がす ぐそばのホテル ア レナ-ル に連れて行 って くれた ら空室があっ た。最低水は必要なので、 出てみた ら、人通 りは少な くなっていて、道路で寝ている人 もいた。 プ ラサ に出てみたが適 当な レス トランとか見 あた らないので、スーパーの場所 を聞いて行 った。水、 ジュース、パ ン、チーズ等 を買って30Bs.ほ どだ った。 ポ リバール はなかなか減 らない。ホテル に 戻 って、ホテルのビジネスルームで ノー トパ ソコンを持 ってきて、直接つないだ らOK
だった. 9日、朝食後、 9時過 ぎに出る。昨 日、ホテル にチ ェックイ ンの際にもらった地図で沖縄県人会 の通 りを探 し出 したので、歩 いてい くとす ぐに見つかった。 「地球 を歩 く」に載 っている地図に三浦 商店 とある所 に沖縄 スーパーマーケ ッ トもあった。奥 の方 に沖縄そば を売 って いる店 も入って い た。そ の2階に沖縄県人会事務所が入っていて、そ こで井上悦子 さん と儀間いつ子 さんにあった。 どち らも親切だった。儀 間 さんはキ リ短 に2年間 JICAか ら留学 していたそ うである。 1世みたい に見 えたが2世だそ うだ。 コロニア ・サ ンフアンの方 と結婚 した ということだった。それでついで に聞いた ら、今、 コロニア ・サ ンフアンに行 く道 は政治的な理 由で封鎖 されていて行 けな くなって いる との ことである。 また、 アルゼ ンチ ンとの国境 も封鎖 されているそ うである。比嘉次雄会長は コロニ ア ・オキナ ワにいるそ うで、オキナ ワへの行 き方 を教えて もらった。 トウル フイー という乗 り合 いミニバスに乗 って、途 中モ ンテ ロで乗 り換 えるO トウル フイー乗 り場 まで儀間さんがバスで 連れて行 って くれた。環状1号線 を走 っている18番 のバス。 どこで降 りるのかわか りにくく、儀間 さんにつ いて きて も らわなけれ ば分か らなか った に違 いな い。市内バスは1.5Bs.、 トウル フイーは サ ンタクルス ーモ ンテ ロとモ ンテ ローオキナ ワがそれぞれ7Bs.である。モ ンテ ロには1時間ほど。 そ こか らオキナ ワまで40分 ぐらい。モ ンテ ロではオキナ ワに行 くお客 さんが他 にいな くて、我々2 人だけで35Bs.で行 って もらった。 5ドル ぐらいだか ら安 い。大農場風景が続 く。終点で降 りて、 歩 いて文化協会 に行 く。途 中、病院等 もあった。文化協会 に行 くと、比嘉 さんは ここではないそ う で、電話 して くれたが、 ち ょっとで車でや ってきた。そばに役場があ り、比嘉 さんは村長の次の助 役 をや って いるんだそ うである。村長はボ リビア人である。午後 は時間が空 け られたそ うで、 まず-
28-昼食を一緒 に食べるo守頑の門のよ うな入 り口の食堂で食べ る.私 はシ ョウガ焼 き、娘は野菜妙 め、比嘉さんはカツ井。おいしかった。途中村長 ら3人が来た。我々は学校 に行 く。比嘉 さんの娘 (中2)もいた。 1時半か ら午後の授業で午後は 日本語の時間になっているとの ことである。職員 室に行 くと7人の先生がいて、 うち 2人は沖縄県か ら来ているそ うだった。ち ょっとで授業の時間 にな り、それを少 し見てか ら沖縄県か ら来てちょっとの男の先生 と話 した。比嘉 さん も熱心 に聞い ていた。それか ら文化協会 に行 って、同 じ敷地内の博物館 を見学。比嘉 さんは初代の館長だったそ うである。入って正面に世界地図があ り、移民が沖縄か らボ リビアまで来た経路が描かれていた。 入植の経緯 を示す文書や、歴史、沖縄か ら持ってきた物品、 当初の家屋や学校。携帯が入 って、比 嘉さんは行かないといけな くなったそ うでお別れ した。我々2人だけで続きを見た。見終わった と ころへ文協の職員の女性が来た。 この方 もサ ンフアンの方 と結婚 したそ うである。高校はサ ンタク ルスに出て、一緒の学校 に通 うので交流が出来 るらしい。オキナワとサ ンフアンは仲が悪いと一般 にいわれるが、若い世代はそ うでもない らしい。ボ リビアの政治 については、 この方は、今の大統 領では話にな らないとはっき りと言った.別れてか ら トゥル フィー乗 り場に行 くとすでに1人乗っ て待っていて、我々が来た らす ぐに出発 した。途中2カ所によって届け物 を預かってか らモ ンテ ロ に行 く。続いてサ ンタクルス行きもす ぐに出た。 サ ンタクルスに着いて、環状1号線に入った ところで降ろして もらって、歩いて帰った。昨 日と 比べて人通 りが 目だって少なかった。 プラサ に向かっていく人がマスクをしていた。お祭 りのよう な空気ではない.店 も閉まっていっている。 シ ョーウイ ン ドウをおお う作業 をして いる ところも あったoホテルに戻ってテ レビを見るとプラサが映っていて集会が開かれているoだんだん反政府 集会だとわかってきた。後で聞いた ら、我々がオキナ ワに出発 した頃サ ンタクルスで暴動が勃発 し た らしい.スーパーもシャッターを大部分閉めて、いつで も閉め られるようにしなが ら営業 してい たので、 レス トラン探 しはやめて、スーパーで十分な食べ物 を買ってホテル に戻 りテ レビを見てい た。時々爆竹が空に上がるのが見えた。テ レビでは放火の場面 も映っていた。我々は、 ともか くオ キナワに行 って これた ことで満足 した気分だった。 10日、 9時半頃出て中央 日本人会まで歩いていった。立派な建物だった。 日本語関係の所 に行 く と、 日本か ら来て1年半 ぐらいという女性がいて、昨 日の暴動で空港 も封鎖 されたかもしれないと いう。閉じこめ られた ら、 どこへ逃げようか というような話 をしている らしい。深刻な事態だ と感 じられた。そ こで、施設見学 とかはやめにして、歩いて沖縄県人会 に行 った。儀間さん、井上さん も飛行機が飛ぶか どうか分か らないという。 当分ボ リビアか ら出 られな くなるか もしれない。そ う なった ら、 どうしようもないと腹 をくくる。11時半頃まで話 してか ら、下で沖縄 ソバを食べた。お いしいのだが、スープがちょっと薄い感 じOそれか ら、いったんホテルに戻った.昼寝 してか ら、 4時頃娘 と出て、沖縄県人会前のチ ョビー旅行社 に行 った。 日本語が しゃべれる方がいて、飛行機 は飛ぶけど、空港の50メー トル手前 ぐらいまで しか車が入れないので、歩かないといけないという ことだったO暴動の影響はないのか というと、飛行機は関係ないみたいな感 じだった。 また県人会 に顔 を出す と儀間 さんだけいた。あれか ら爆竹が鳴って、県 人会の下の店 も一時閉めたそ うであ る。儀間さんは郵便物の受け取 り整理が仕事だそ うである。夜は 日本語 を教えに行 っているが、昨 夜は6人のうち 2人 しか来なかったそ うで、今夜はどうなるかな ということだった。 プラサの方 に は近づかない方がいいといって、環状1号線近 くのスーパーを教えて くれたO環状 1号線の一番北