〈資料紹介〉
粉河寺御池坊蔵
﹃粉河寺御池海岸院本尊縁起絵巻﹄翻刻
と
解題
大
橋
直
義
はじめに 小稿 は 、粉河寺御池坊蔵 ﹃ 粉河寺御池海岸院本尊縁起絵巻 ﹄ 二巻二軸 を 翻刻 し 、 解題 を 付 す も の で あ る 。 な お 、 本 絵巻 に つ い て は 、和歌山県立博物館企画展 ﹁ き の く に 縁起絵巻 の 世界︱
開 か れ る 秘密 の 物語︱
﹂ ︵ 二〇一八年三月一〇 日∼四月一五日︶ に 出陳 され 、同展 の 図録 に 全文 の 画 ・ 詞書 のカラー 図版 が 掲載 されている 。 あわせて 参照 されたい 。 解題 [略書誌] 粉河寺御池坊蔵。 ︹十八世紀︺写、紙本著色 ︵淡彩色︶ 、二巻二軸。後補 ︹ 明治 ︺ 唐綾工字繋伽羅色布表紙。外題 ︵ 貼題簽 ︶ ﹁ 御池本尊縁起 乾︵ 坤 ︶﹂ 。天地 、 二七 ・ 三糎 ︵ 上巻 ︶ 、 二七 ・ 四 糎 ︵下巻︶ 。 内 題﹁粉 河 寺 御 池 海 岸 院 本 尊 縁 起 巻 上﹂ ﹁粉 河 寺 御 池 海 岸 院 童 男 行 者 縁 起 巻 下﹂ 。寸 法、上 巻二 七 ・ 三 × 二 〇 一 四 ・ 八糎 、 下巻 二七 ・ 四×二五四九 ・ 七糎。料紙 は 薄手 の 楮紙 ︵ 画 ・ 詞書共紙 ︶ 。一紙長 は お よ そ 四〇糎 な る も 、 そ の 長 さは 一定 せず 、極端 に 短 い 料紙 も 継 がれる 。前記﹃図録﹄ の 指摘 に 拠 れば ﹁画中 の 人物 に 貼 り 紙 を 施 して 修正 する 部分 も 見 ら れ ︵ 上巻第二一紙 、 下巻第一九紙 ︶ 、 本画 で は な く 下絵 で あ る 可能性 が 高 い ﹂。本文 、 漢字平仮名交 じ り ︵ 一筆 ︶ 。 奥書、無。 [概要] 観音 が 補陀落浄土 として 開 いた 紀伊国那賀郡風市里 には 補陀落山粉河寺 と 称 する 天下無双 の 霊場 がある 。 宝 ( 七 七 〇 ) 亀元 年十一月八日 、 御池 の 中 か ら 忽然 と 現 れ た 十四五歳 の 童男行者 は 本願大伴孔子古 の も と に 行 き 、 観音 と し て 現 ず る 。 しかし 、観音 が 秘仏 となったことで 常 は 補陀落浄土 へ 戻 っているという がたち 、参詣者 が 途絶 えたところ 、観音 は 自身 の 垂迹 した 姿 である 童男行者 の 姿 をみずから 製作 し 、御池 の 中島 の 厨子 に 安置 し 、毎年十一月十八日 に 開帳 されることとなった 。拝観 することが 叶 わない 遠来 の 参詣者 のために 、童男行者像 の 模像、千手観音像 が 鋳 られて 御 池 の 中 島 に 安 置 さ れ た 。河 内 国 長 者 娘 ︵国 宝 絵 巻 等︶ ・在 原 業 平 北 方 ︵仮 名 本﹃粉 河 寺 縁 起﹄三︶ ・禅 意 阿 闍 梨 ︵同 廿 四︶ ・ 仁 範 上 人 ︵同 九︶ ・錦 織 僧 正 ︵同 十 一︶ ・石 崇 上 人 ︵同 廿 五︶ と い っ た 様 々 な 霊 験・逸 話 が 示 し て い る よ う に 、童 男 行 者 と 観音 は 不二 の 同体 であるのだから 、 まず 御池 に 詣 でてから 本堂本尊 に 向 かうのが 本来 である ︵以上、上巻︶ 。 仁 ( 一 一 五 三 ) 平三 年頃、他院家 の 衆徒 との 紛争 に 嫌気 のさした 御池坊 の 住持 は 、観音製作 の 童男行者像 の 模像 をひそかに 製 作 し 、 本物 を 由良湊長郷里 の 岡 の 堂 に 安置 し て 、 自身 も そ の 周辺 に 隠棲 す る 。 そ の 後 、 由良長郷里 に 住 す る 衛門 が 、
西国順礼者 である 孫九郎 に 、岡 の 堂 の 本尊 は 粉河寺御池坊 の 本尊 であり 、粉河 に 帰 りたがっているという 夢 を 見 た と 話 すと 、孫九郎 は 岡 の 堂 の 尊像 を 拝 する 。孫九郎 は 粉河寺奥 の 河原里 に 住 む 定清 にそのことを 話 すが 、定清 によ っ て 言下 に 否定 さ れ る 。三年後 の 文 ( 一 四 八 六 ) 明十八 年正月二十三日 、 御池坊童男堂 よ り 出火 、 御池坊住持 の 頼舜 を 中心 に 坊 ・ 本尊 を 再興 し よ う と し た と こ ろ 、 頼舜 と 十穀坊覚音 と が 、 本尊 の 再建 は 思 い と ど ま る べ き だ と い う 同 じ 霊夢 を 蒙 る 。 順礼孫九郎 に 再会 し 、岡 の 堂 の 本尊 のことを 詳 しく 聞 いた 定清 はすぐに 粉河 に 向 かい 、長老頼舜 と 十穀坊聖覚音 に そのことを 告 げる 。霊夢 を 蒙 り 、粉河寺衆徒 の 評定 をも 得 た 頼舜・覚音・定清 の 三人 は 由良 に 向 かう 。本尊 を 持 ち 帰 りたいという 突然 の 申 し 出 に 困惑 した 衛門 と 共 に 岡 の 堂 に 向 かうと 、衛門 は ﹁由良 の 寺﹂ に 是非 を 尋 ねるために 堂 を 後 にする 。籤 によって 観音 の 真意 を 推 し 量 った 三人 は 、衛門 の 家 に 本尊 を 移 す 。 そこに 由良 の 寺 の 学侶 たちが やってきて 、三人 を 責 めるが 、定清 の 弁舌 を 聞 き 、籤 の 結果 をも 知 らされた 学侶 たちは 反論 をやめ 、粉河寺 に 移送 することが 決 まる 。同年二月一日、途上 で 定清 が 霊夢 を 蒙 るなどしつつ 、粉河 に 到着 し 、安置 される 。 長 ( 一 四 八 七 ) 享元 年 に 御池坊 は 再建 された ︵以上、下巻︶ 。 [解題] 粉河寺頭坊・御池坊 の 本尊 である 童男行者像 の 縁起 について 、初 めて 言及 したのは 河原由 雄 ( 1 ) であった 。日本絵巻 大成﹃粉河寺縁起﹄ の 解題 において 、河原 は 、国宝絵巻 に 関連 する 粉河寺蔵典籍・絵像類 に 言及 した 後 に ﹁以上 の 他 に 正暦二年︿九九一﹀ の 太政官符写 や 寺史 にかかわる 寺領文書、誓度院関係文書、 また 天英入寺以後 の 御池坊関 係文書 や ﹃ 御池坊海岸寺縁起 ﹄ な ど 多数 あ る ﹂ と す る も の の 、 こ の ﹃ 縁起 ﹄ に つ い て は 詳細 に 言及 さ れ て は い な い 。 しかしながら 、 その 書名 から 、本絵巻 そのもの 、 ないしはこれに 類 する 書物 であったと 推定 される 。 原田行 造 )( ( が 翻刻紹介 した ﹃粉河寺縁起霊験記﹄ に 、﹁ 御 み 池 いけ 海 かい 岸 がん 院 いん 童 どう 男 なん 行 あん 者 じや 畧 りやく 縁 ゑん 起 ぎ ﹂ として 、本絵巻二軸 に 類 した
縁起 が 記 さ れ て い る 点 は 注目 に 値 す る 。本書 は 、 原田論考 が 紹介 し た 金沢市立図書館金陽文庫蔵 ・ 元 ( 一 七 〇 〇 ) 禄十三 年刊 ﹃ 粉 河寺縁起霊験記 ﹄ の 他 、 日本古典籍総合目録 デ ー タ ベ ー ス に 拠 れ ば 、﹁ 雲泉文庫 ﹂ 蔵元禄六年版 、 東京大学附属図書 館 南 葵 文 庫 旧 蔵 元 禄 十 三 年 版、岩 瀬 文 庫 蔵 無 刊 記 製 版﹃粉 河 寺 畧 縁 起 霊 験 記﹄ ︵扉 題﹁粉 河 寺 縁 起 霊 験 記﹂ ︶ が あ り 、 その 他、天理図書館 にも 所蔵 があるとされ る )( ( 。 なお 、元禄六年版 は 所在不詳、同十三年版 には 原題簽 が 欠 けている ものの 、岩瀬文庫蔵本 は 原装 と 見 られることから 、本書 は ﹃粉河寺略縁起霊験記﹄ とするべきかもしれない 。 いま 注意 を 払 っておきたいのは 本書 の 扉 に 示 される 版元﹁当山書林/大坂屋長三郎﹂ である 。大坂屋 は 紀州粉川 南町 を 本拠 とする 版元 で 、同 じく 粉河寺門前 を 本拠 とする ﹁ かなごや 善兵衛﹂ と 共 に 西国順礼関連 の 書籍・絵図 を 相次 いで 刊行 した 本屋 として 知 られ る )( ( 。本書 の 一丁裏 から 三丁表 にかけ 、見開 き 二面 を 以 て 描 かれる 挿画﹁紀州粉 河寺四至伽藍之図 ﹂ は 、 粉河寺 に 現蔵 さ れ る ﹁ 南紀補陀洛山粉河寺四至伽藍之図 ﹂ ︵︹ 室町時代 ︺、 紙本著色 、 一幅。一三 四 ・ 三 × 五 九 ・ 一 糎。 ﹃粉 河 町 史﹄三 巻 に 図 版 有︶ と 同 一 の 構 図 で あ る こ と が 明 ら か で あ り 、 し た が っ て 同 書 所 載﹁御 池 海 岸 院童男行者畧縁起﹂ の 本文 も 、中世 から 近世前期 にかけて 粉河寺内 で 行 なわれた 縁起再編 の 動 きと 重 なるものであ る と 考 え ら れ る 。殊 に 、﹁ 元禄本 ﹂ と し て 知 ら れ る 元禄十六年写 ﹃ 粉河寺縁起 ﹄ 二帖 が 国宝絵巻 の 欠 を 補 う 形 で こ の 時期 に 製作 されたことを 考 えあわせるなら 、十七世紀後期 から 十八世紀初頭 の 粉河寺 をめぐる 事情︱︱紀伊藩 の 宗 教政策 および 西国順礼 の 隆盛︱︱ なども 視野 に 収 めつつ 、再考 する 必要 があろう 。 ﹃ 粉河寺縁起霊験記 ﹄ 全二四丁 の 内 、 十丁表 か ら 十三丁裏 に か け 、﹁ 御池海岸院童男行者畧縁起 ﹂ が 漢字平仮名交 じりで 記 される 。後掲 の 絵巻二軸 に 示 される 縁起本文 からすれば 、 その 分量 という 点 で 大 きく 異 なることは 一見 し て 明 らかであるものの 、 その 文言 には 明 らかな 共通点 を 複数確認 することができ 、両者 の 関係 は 疑 いようがない 。 小稿 がまず 取 り 組 むのは 、 その 書誌学的様態 から 十八世紀 に 制作 されたと 思 しい 絵巻二軸 と 、元禄年間 に 成立 して いたことが 明 らかな ﹁畧縁起﹂ のいずれが 本来 の 形 であるのか 、 という 点 についての 考察 である 。 なお ﹃霊験記﹄
十二丁裏・十三丁表 の 一面 は 粉河寺御池坊 と 周辺 の 伽藍、 そして 中島 の ﹁大卒都婆﹂ の 左方 に 錫 を 携 えた 童男行 者 が 影向 し )( ( 、池 の 水面 には 千手観音 の 姿 が 描 かれている 。 この 挿絵 と 絵巻二軸 における 画像 にもやはり 多 くの 共通 点 が 見 えることは 指摘 しておく 必要 がある 。 この ﹁御池海岸院童男行者畧縁起﹂以後、簡略 なかたちで 縁起本文 を 示 す 書物 としては 、 明 ( 一 九 一 二 ) 治四十五 年一月刊、 逸木盛照編 ﹃ 西国 第三番 粉河霊刹 の 栞 )( ( ﹄ で あ る 。多色刷 の 表紙 を 有 す る 銅活字版 の 本書序文 に は ﹁ 片 々 な る 小冊子 な れ ど も 、以 て 粉河寺 の 大略 を 窺 ふに 足 らん 歟。若 し 夫 れ 詳細 に 至 りては 縁起霊験記 に 就 て 見 られんことを 望 む ﹂ とあ り 、 こ れ が ﹁縁 起 霊 験 記﹂ に よ っ て 補 完 さ れ う る ︵ お そ ら く は 無 償 頒 布 の ︶ 小 冊 子 で あ っ た こ と が う か が わ れ る 。 な お 、 こ の ﹁ 縁起霊験記 ﹂ は 、﹁ 本云 、 応 ( 一 四 一 二 ) 永十九 年十一月十三日 、 依法水院僧都長筭所望 、 於三条坊門室町扇屋書写 之 、 本 者 勘 解 由 小 路 三 位 行 俊 手 跡 也 、 明 ( 一 三 九 三 ) 徳 四 年 依 願 主 勘 解 由 小 路 入 道 義将 道将 御誂云 々 、 長 ( 一 四 五 八 ) 禄二 年 戊 寅 八月三日書之 、 文 ( 一 四 七 〇 ) 明二 年 庚 寅 七 月 廿 二 日 書 之﹂ と 奥 書 に 示 す 粉 河 寺 蔵 文 明 二 年 写﹃粉 河 寺 縁 起 霊 験 記﹄ を 指 す か と も 思 わ れ る )( ( 。以 下、 こ の 小冊子 に 示 される 略縁起 を 引用 する 。旧字体等 は 通行字体 に 改 め 、振仮名 は 略 した 。 御池海岸院縁起 宝亀元年十一月十八日大士童男行者 の 姿 となりて 、池 の 中 より 出現 ましませ 給 へるに 依 て 生身観音最初出現池 と 名付 くる 也。忝 なくも 大聖 みづから 宣 ひけるに 、此所 に 遊 びて 広 く 悪業 の 衆生 を 救 ふ 、則 ち 海岸孤絶 の 宝窟 なりと 。依 て 海岸 の 名 を 得 たり 。洵 に 穢土 の 中 に 浄土 を 移 して 例 なき 霊場 と 云 ふべし 。 されば 権聖碑文 を 記 る し 御池中島 に 建 てゝ 勝跡 を 讃 め 給 へり 。本尊 は 童男形 の 観音 にて 大士親 ら 御製作 あらせ 給 へるものなり 。之 れ 実 に 當山根本 の 霊跡 なれば 、賽者先 づ 御池童男堂 に 詣 で 、次 に 金堂 を 拝 し 奉 る 事、寔 に 所以 なきに 非 ず 。元 よ り 月 の 水 に 映 れるも 決 して 二 つなきが 如 く 、観音即 ち 童男 と 化 し 童男 また 観音 に 復 り 、観音 また 童男 を 作 りて 本迹不思議一如 の 妙 を 示 し 給 へる 也。観世音 は 十方 に 身 を 現 じ 一乗 を 広 め 給 ふ 其姿様々 なる 中 に 、末 の 世 に 応
じ 我国 の 機 に 適 ふ 童男 の 姿 なれば 、此身 を 以 て 多 くの 利生 を 現 はし 給 へり 。応以童男身得度者即現童男身而為 説法 といへる 妙経 の 金文実 に 空 しからずと 謂 ふべきなり 。 かの 本願伴氏 が 闇路 を 出 でゝ 大悲 の 月 を 眺 め 、長者 の 娘 は 五障 の 雲晴 れて 九品 の 台 に 上 り 、又在中将 の 北 の 方 へは 珍 らかなる 果物 を 授 けて 紅袴 のしるしを 天 に 耀 やかし 給 ひ 、或 は 禅意阿闍梨 が 邪見 を 翻 へして 正道 に 誘 へるが 如 き 、其他童男 の 御利生数 ふるに 遑 あらず 。其 後海岸院 の 住持所以有 て 件 の 童男 の 尊像 を 日高郡由良里岡 の 堂 に 置 え 奉 り 、粉河 には 寸分 も 違 はず 尊像 を 写 し 似 せ 、竊 かに 入置 きたりしに 更 に 知 る 者 なし 。 文明十八年二月二十三日 の 夜、図 らざるに 童男大士 の 龕 の 内 よ り 火起 りて 似 せたりし 像 は 焼失 せたり 。住持 を 初 め 一山 の 大衆悲 しみ 角 と 沙汰 せし 程 に 、様々 の 不思議霊夢 などあり 、頓 て 由良 の 里 より 尊像 を 迎 へ 来 りて 再 びみ 堂 に 安置 し 奉 りぬ 。乃 ち 今 の 本尊是 なり 。 三百三十三年 の 数 を 経 て 重 ねて 本土 に 還 り 給 ふこと 又不思議 ならずや 。盛衰 は 世 の 常 なりと 雖 も 尊像勝跡永 へにあらたまら ず 。僧俗男女一度此霊地 をふみ 縁 を 結 ぶものは 現當二世 の 利益空 しからず 。本尊出現 の 日 なればとて 今 に 年 ご と の 十一月十八日 ︵ 今改 め て 十二月十八日 ︶御帳 を 褰 げ て 利物絶 ゆ る こ と な し 。因 に 云 ふ 、 嘗 て 花山法皇西国三 十三所順礼御開闢 の 時御池坊 に 暫 らく 車駕 を 留 めさせられ 給 ひ 、其後白河院、鳥羽院、後白河院 の 三上皇御順 礼 の 節 も 御池坊 に 御駐輦遊 ばされたり 。故 に 當院 より 本堂 へ 御幸 の 道筋今 に 至 り 御幸道 と 称 へらる 。就中鳥羽 法皇本尊池中 より 出現 の 因縁 を 深 く 叡感 あらせられ 御池坊 の 勅号 を 賜 はりたる 也。 傍線 を 付 した 御池坊回禄 の 日付 を ﹁ 文 ( 一 四 八 六 ) 明十八 年二月二十三日﹂ とするが 、絵巻二軸 では 同年 の 正月二十三日 のこ と と す る 。一 方 で 、先 に 言 及 し た ﹃粉 河 寺 縁 起 霊 験 記﹄ で は 、絵 巻 二 軸・ ﹃ 西国 第三番 粉 河 霊 刹 の 栞﹄ と 多 く の 表 現 は 重 なりながらも 、元禄十二年版・無刊記版 のいずれにおいても 、御池坊回禄 の 日付 を ﹁文明廿三年正月廿三日﹂ とす る の で あ る ︵ 文明 は 十九年七月二十日 で 長享 に 改元 ︶ 。御池坊回禄 を 経 て 、 御池海岸院 の か つ て の 住持 が 日高郡由良里 の 岡 の 堂 に 童男行者 の 真像 を 安置 し て か ら ﹁ 三百三十三年 ﹂ の 後 に 再建 な っ た 御池坊 に 再 び 安置 さ れ た と す る が 、﹃ 縁起
霊 験 記﹄ ﹃霊 刹 の 栞﹄ で は い ず れ も 御 池 坊 再 建 の 日 付 を 記 さ ず ︵絵 巻﹁ 長 ( 一 四 八 七 ) 享 元 年 十 一 月 初 の 八 日﹂ ︶ 、 し た が っ て 絵 巻 の よ うに ﹁岡 の 堂﹂ に 安置 した 日付 を ﹁三百三十三年﹂前 の ﹁仁平三癸酉 の 年九月十五日﹂ と 具体化 することもない 。 具体性 ということに 関 しては 、絵巻下巻 では 、西国順礼 の ﹁筑前国安 の 郡﹂ の ﹁孫九郎﹂ 、﹁ ゆらのみなと 長郷 の 衛門﹂ 、﹁河原 といへる 山里 に 北田三郎太夫定清﹂ 、﹁御池 の 長老﹂ である ﹁頼舜﹂ 、﹁大門 の 十穀坊﹂ に 住 する 聖﹁覚 音﹂ らが 色鮮 やかに 描 かれる 。一方、 ﹃縁起霊験記﹄ ﹃霊刹 の 栞﹄ ではこれらの 人物 に 言及 されることはない 。 ﹁河原﹂ の ﹁北田三郎大夫﹂ として 、真先 に 想起 されるのは 、由良法燈国師覚心 と 関 わり 深 い 誓度院 を 永 ( 一 四 三 〇 ) 享二 年 に 粉河寺 か ら 猪垣村 に 移 し た 至一上人 ︵ 志一。覚心資 ︶ の 母 の 父 で あ ろ う 。﹃ 紀伊続風土記 ﹄ 那賀郡猪垣村 ﹁ 廃誓度寺 ﹂ 項 に 、﹁至一 は 、 昔鎌垣 ノ 荘西河原村 に 北田三郎大夫 と い ふ 者 の 女 あ り 。常 に 粉河寺 の 観音 を 信 じ け る が 、 或時 、 男 子 を 産 む 。三郎大夫曰、嫁 せずして 子 を 産 むこと 不義 なりとて 、其子 を 粉河寺大鳥居 の 辺 に 棄 て 、誓度院 の 主、其 子 を 拾 ひ 取 て 養育 を 、 法燈国師粉河寺大門供養 の 時 、 此児 を 所望 し て 弟子 と な す 。 薙髪 の 後 、 至一 と い ふ ﹂ と あ る 。 加 え て 、﹃ 続風土記 ﹄ 那賀郡粉河荘下 ・ 西河原村 ﹁ 釈尊寺 ﹂ 項 に は 、 至一上人 の 真影 お よ び 上人 の 筆 に よ る と さ れ る 釈迦弁財天像二幅 が 蔵 さ れ る と し た 上 で 、﹁ 粉河御池坊童男佛 の 縁起 あ り 。巻尾 に ﹁ 文 ( 一 四 八 七 ) 明十九 年 、 河原北田定清 ﹂ と 書 す 。書法善 し 。定清 は 至一上人 の 母家北田三郎大夫 の 後 といふ ﹂ と 記 される 。 この ﹁縁起﹂ については 未審 であ る が 、法 燈 派・誓 度 派・至 一 ︵志 一︶ の 連 環 の 内 部 に こ の 縁 起 が 捉 え ら れ て い る こ と は 、本 縁 起 が 興 国 寺 と の 関 わ り について 言及 する 点 との 関 わりからも 興味深 い 。 ﹁頼舜﹂ については 、御池坊文書﹃粉河寺御池坊旧記﹄ 文 ( 一 四 八 二 ) 明十四 年六月十四日条 に 、中門 に 多聞天・持国天像 を 安置 し た 際 、 供養法会 の 導師 と な っ た の が ﹁ 海岸院長老頼舜 ﹂ で あ っ た と す る )( ( 。御池坊文書 ・ 天英本 ﹃ 粉河寺旧記 ﹄ 同日条 に も ﹁ 御池頼舜 ﹂ が 導師 を 勤 め た と す る 記事 が 見 え て い る )( ( 。 ま た 、﹁ 大門 の 十穀坊 ﹂ に つ い て は 、 天 ( 一 五 八 五 ) 正十三 年 の 紀州征伐 の 前後 で 退転・焼失・復興 した 堂舎 を 列記 した 粉河寺文書・ 文 ( 一 八 一 〇 ) 化七 年写﹃粉河寺旧記 控 )(1 ( ﹄ には 示 され
ないものの 、室町期 の 粉河寺伽藍 の 状況 を 伝 えるとされる ﹁南紀補陀洛山粉河寺四至伽藍之図﹂ および ︹近世︺制 作 の ﹁粉 河 寺 参 詣 曼 荼 羅﹂ に は 、大 門 の 外 ︵門 に 向 か っ て 右 方︶ に 描 か れ る 建 造 物 に ﹁十 穀 坊﹂ と 墨 書 さ れ て い る の が 確認 される 。 とりわけ 、注目 に 値 するのが 天英本﹃粉河寺旧記﹄ に 見 える 次 の 記事 である 。 一、文明十八 丙 午 年正月廿三日亥剋、御池海岸院炎焼。同二月 ニ 庫司柱立。 一、 同 二 月 廿 七 日 ニ 、御 池 本 尊 観 音 を (ママ) 御 製 作 之 童 男 三 百 卅 三 年 以 前 ■ 仁 乍 平 三 癸 酉 年 九 月 十 五 日 ニ 失 セ ラ ル 。 ■ 御 霊 夢 ニ 仍 テ 御池住持覚音、川原 ノ 定清二人、由良湊長郷之里 ヨリ 迎来 ル 也。委細有縁起。 天 英 本﹃粉 河 寺 旧 記﹄ は 、寛永 年 間 ︵一 六 二 四 ∼ 四四︶ に 御 池 坊 住 持 を 務 め 、天 正 十 三 年 の 兵 火 か ら の 復 興 に 尽 力 し た 天 英 ︵天 海 資︶ が 撰 述 し た 寺 史 の 草 稿 本 と さ れ 、粉 河 寺 に 伝 存 す る 同 種 の 書 物 と し て は 最 古 の も の で あ る 。 さ て 、本 書 では 、文明十八年正月二十三日 の 御池坊回禄 に 言及 した 後 に 、観音 が 制作 した 御池坊本尊 である 童男行者像 は 三 百三十三年前 の 仁平三年九月十五日 に 失 わ れ た の だ が 、 霊夢 に よ っ て ﹁ 御池住持覚音 ﹂﹁ 川原 ノ 定清﹂ の 二人 が ﹁由 良湊長郷之里 ﹂ よ り ﹁ 二月廿七日 ﹂ に 迎 え 入 れ た と す る 。仁平三年 の 日付 、﹁ 覚音 ﹂﹁ 定清 ﹂ と い っ た 人名 、﹁ 長郷之 里﹂ と い っ た 地 名 は 先 に 見 た ﹃縁 起 霊 験 記﹄ ﹃霊 刹 の 栞﹄ に は 見 え ず 、絵 巻 下 巻 だ け に 見 ら れ る も の で あ る 。 し か し 、﹁ 覚音 ﹂ を 十穀坊聖 で は な く ﹁ 御池住持 ﹂ と す る 点 、 真像 が 粉河寺 に 移管 さ れ た 日付 を ﹁ 二月廿七日 ﹂ と す る 点 については 絵巻下巻 の 内容 と 齟齬 を 来 している 。 文 明 十 四 年 の 段 階 で 頼 舜 が 御 池 坊 ︵海 岸 院︶ の 長 老 を 務 め て い た こ と は 先 述 の 通 り で あ る が 、火 災 が 起 こ っ た と さ れ る 文 明 十 八 年 の 段 階 で も 同 様 で あ っ た か ど う か は 不 明 確 で あ る 。一 方、 ﹁覚 音﹂ の 名 は 他 に 管 見 に 入 ら な い が 、 ﹃ 粉河寺御池坊旧記 ﹄﹃ 粉河寺旧記 控 ﹄ に 拠 れ ば 、 天正年間 に 根来寺 と の 間 で 起 こ っ た 一連 の 争乱 の 際 に そ れ ぞ れ 御 池 坊 の 住 持 で あ っ た 覚 翁・覚 順 が 武 勲 を あ げ た と し て い る 。 こ の 二 人 と ﹁覚 音﹂ が 関 わ る か は 分 か ら な い が 、 ﹁覚﹂字 が 通 ず る 僧 名 が 御 池 坊 住 持 を 務 め て い た こ と に は 注 意 し て お き た い 。 た だ 、 む し ろ 、絵 巻 が ﹁覚 音﹂ を
﹁聖﹂ としている 点 に 留意 するなら 、天英本﹃粉河寺旧記﹄文明十一年三月十一日条、同年五月条 に 名 の 見 える 行 人方 の 覚信上人 が 想起 されるべきであろうか 。中世粉河寺 の 寺院組織 について 論 じた 高木徳 郎 )(( ( は 、南北朝期 から 応 永 期 頃 ま で 、粉 河 寺 の 衆 徒 ︵学 侶︶ と 方 衆 ︵軍 事・堂 舎 造 営・勧 進 活 動︶ の 寺 内 勢 力 に 行 人 ︵寺 外 活 動・軍 事︶ を 加 え た 三 勢 力 で 紛争状態 にあったこと 、応仁元年 の 粉河寺回禄 を 経 て 、 その 復興期 の 文明年間以後 には 、勧進聖・覚信派 を 中心 とする 行人 を 取 り 込 んだことで 惣寺体制 が 構築 されたことを 明 らかにした 。 この ﹁覚音﹂ が 実在 の 人物 であったの かどうかは 分 からないが 、 その 僧名 からは 、勧進聖覚信 とその 一流 の 存在 が 連想 されるとは 言 えようか 。 絵巻下巻 に 示 される 一連 の 出来事 の 日付 は 次 の 通 りである 。 仁 ( 一 一 五 三 ) 平三 年九月十五日 本尊、岡 の 堂 に 安置 される 文 ( 一 四 八 六 ) 明十八 年正月二十三日 御池坊出火 同 年正月二十四日 頼舜・覚音、同 じ 霊夢 を 見 る 同 年正月二十五日 定清、孫九郎 と 再会 同 年正月二十八日 定清、覚音 に 報告、次 いで 頼舜 に 報告 同 年正月二十九日 三人、粉河 を 出立 して 由良 の 衛門邸 に 到着 同 年二月一日 本尊 を 粉河寺 に 移管 長 ( 一 四 八 七 ) 享元 年十一月八日 御池坊再建 まず 、長享元年十一月八日 の 御池坊再建 について 、天英本﹃粉河寺旧記﹄ に ﹁同年 ︵長享元年︶ 十一月八日午剋 ニ 、御 池 海 岸 院 堂 柱 立﹂ 、﹃粉 河 寺 御 池 坊 旧 記﹄ ﹁長 享 元 年 丁 未 十 一 月 八 日、建 ツ 二円 通 殿 ヲ 一。御 池 童 男 堂 也﹂ と あ り 、 こ の 時 に 再建 さ れ た の は 確 か で あ る 。 ま た 、 御池坊 の 出火 の 日付 に つ い て も 、 絵巻 と 先 に 引用 し た 天英本 の 他 、﹃ 粉河寺御 池坊旧記﹄ で 確認 できる 。 ところが 、童男行者像 を 由良 から 粉河寺 に 移管 した 日付 についてだけは 、絵巻 が 二月一
日 とするところを 天英本 では ﹁二月廿七日﹂ とするのである 。 これが 誤記 であるかどうかについては 、 もちろん 分 からない 。今、確 かなことは 、天英本 が 撰述 された 寛永年間 の 段階 で ﹁委細有縁起﹂ と 記 しうる 詳細 な 御池坊本尊 縁起 が 存在 したこと 、 それが 現存絵巻二軸 と 類似 しつつも 一部異 なる 本文内容 を 持 つものであった 可能性 があるこ とである 。 そ の ﹁ 縁起 ﹂ に つ い て 、 御池坊回禄 を 伝 え る ﹃ 粉河寺御池坊旧記 ﹄ 文明十八年正月二十三日条 に も ﹁ 大 ニ 有 リ 二霊 験 一 。 委 ク 見 ユ 二縁 起 ノ 記 ニ 一﹂ と 見 え る 。 こ の ﹁縁 起 ノ 記﹂ と い う 表 現 か ら 、少 な く と も 江 戸 前 期 の 段 階 に お い て は 、絵 を 伴 わ ない 書物 として 伝存 していたと 見 うけられる 。 その 後、十八世紀頃 に 現存 の 絵巻 が 制作 されたと 推定 されるが 、 その 時期 の 状況 について 貴重 な 情報 を 提供 する 資 料 が あ る 。東 京 大 学 史 料 編 纂 所 蔵 謄 写 本﹃粉 河 寺 旧 記﹄五 冊 ︵二 〇 一 五 ︱ 四 九 七︶ が そ れ で あ る 。 こ れ は 天 英 本 や 文 ( 一 八 一 一 ) 化七 年写﹃粉河寺旧記 控﹄ とは 異 なるもので 、 その 第五冊奥書 には 次 のように 記 されている 。 右粉河寺旧記 紀伊国那賀郡粉河村粉河寺蔵本明治廿一年七月編修長 重野安繹採訪明年四月謄写了 修史局 が 帝国大学 に 移管 され 、臨時編年史編纂掛 が 設置 された 明 ( 一 八 八 八 ) 治二十一 年、修史事業 の 中心的役割 を 担 った 重野 安 繹 ︵一 八 二 七 ∼ 一 九 一 〇︶ は 粉 河 寺 を 訪 れ ︱ ︱ 幾 度 か 紀 州 を 訪 れ た の か 、 そ れ と も 借 用 し た の か は 分 か ら な い が ︱ ︱ 翌年四月 に 謄写 を 終 えている 。 その 第一冊 の 冒頭 に ﹁旧記条目﹂ として 次 のように 掲 げられている 。 一 綸旨院宣等 一 大政官符宣 一 古代寺領宣旨 ︵以上、第一冊。括弧内引用者注︶
一 粉河寺縁起 ︵第二冊︶ 一 絵縁起 一 御池坊旧記抜書写 一 御池海岸院本尊縁起 ︵以上、第三冊︶ 第一冊 に は ﹃ 粉河町史 ﹄ 第三巻 に ﹁ 粉河寺文書 ﹂﹁ 御池坊文書 ﹂ と し て 収録 さ れ て い る 正 ( 九 九 一 ) 暦二 年 ﹁ 太政官符写 ﹂ 以 後 の 文書類 が 謄写 される 。第二冊 には 先 に 言及 した 粉河寺蔵文明二年写﹃粉河寺縁起霊験記﹄ を 謄写 したものと 思 われるが 、本奥書・書写奥書 は 謄写 されておらず 、 その 経緯 は 詳 らかではない 。字配 りや 用字 などの 分析 が 必要 で あ ろ う 。第三冊 に お い て は 、 ま ず 国宝本絵巻 の 詞書 を 謄写 し た 後 、﹁ 御池坊旧記抜書写 ﹂ と し て ﹃ 粉河寺御池坊旧 記 ﹄ に 類 し た 資料 を 謄写 す る 。 た だ し 、﹃ 粉河寺御池坊旧記 ﹄ に 見 え な い 条目 も 記 さ れ て お り 、 両者 の 関係 は 明 ら か で は な く 、﹁ 御池坊旧記抜書写 ﹂ と す る 資料 が 寺内 に 伝存 す る か も 不詳 で あ る 。第三冊 の 末尾 に 四八丁 を 要 し て 謄写 されるのが ﹁御池海岸院本尊縁起﹂ で 、 これが 絵巻二軸 と 極 めて 深 い 関 わりを 有 するのである 。 第四冊・第五冊 の 内容 は 右 の ﹁旧記条目﹂ には 言及 されない 。第四冊 には ﹁粉河寺発基以来記﹂全一一八丁 が 謄 写 される 。六十一条 からなる 粉河寺 の 寺史説話集 で 、 その 本文 は 、大伴孔子古 による 発願 から 仮名縁起 に 記 される 様々 な 霊験、 その 後 の 栗栖荘 をめぐる 相論・騒動 や 、畠山 および 室町将軍 の 関与 など 、伝存文書 でも 確認 しうる 出 来事 が 物語 られる 。 そして 御池坊 の 回禄 と 本尊移管 に 関 する 縁起 も 記 され 、天正 の 兵火 とその 復興、天英 の 入寂、 粉河祭礼 の 始 まり 、近来 の 状況 まで 記 されるに 至 る 。豊 かな 内容 を 有 するものであったことが 窺 われるが 、寺内 に 伝存 す る か 否 か に つ い て は 調査中 で あ る 。原本 を 閲覧 し え た 後 に 翻刻紹介 を 行 な い た い 。第五冊 に は 文化七年写 ﹃ 粉 河寺旧記 控﹄ が 謄写 されるのだが 、寺内 に 蔵 される 別本﹃粉河寺旧記 控﹄ の 奥書 に 次 のように 見 える 点、注意 しておきたい 。
覚 一、 去文化四卯年、 当山発起已来古記 差出候様被 仰付、則大帳二通指出候処、又今度旧記之 □ (類) 不残出 し 可申 旨、社 レ 寺奉行申来 ニ 付、右之通相 しらへ 書写差上候、 文化七年午六月 日 文 ( 一 八 〇 七 ) 化四 年 に ﹁発起已来古記﹂大帳二冊 を 寺社奉行 に 提出 したところ 、同七年 に ﹁旧記﹂ を 新 たに 制作・提出 するよ う に 求 め ら れ た と い う の で あ る 。事 実、謄 写 本﹃旧 記﹄第 四 冊 の ﹁粉 河 寺 発 基 以 来 記﹂ に は 序 に ﹁于 時 文 化 四 丁 卯 年 仲夏吉日/奉納 南紀城北曝渓住/田中峯雲源貞成﹂ とあり 、奥書 に ﹁文化丁卯年夏吉日/主計之佐貞成書﹂ と 見 える 。和歌山城下、紀 ノ 川筋 に 住 する 田中貞成 については 未審。 さ て 、第 三 冊 に 謄 写 さ れ る ﹁御 池 海 岸 院 本 尊 縁 起﹂ に つ い て 。本 書 に つ い て ま ず 注 目 さ れ る の が ﹁ 天 ( 一 七 八 七 ) 明 七 丁 未 歳 秋 八月彼岸日﹂ との 奥書 を 有 する 点 である 。 その 本文 については 、 まず 絵巻 と ﹃粉河寺旧記﹄所引本 では 字配 りや 字 母 が 異 な り 、 特 に 絵巻 に お い て は 絵 に よ っ て 本文 が 別 の 段 に 分 か た れ る 箇所 で あ っ て も 、﹃ 旧記 ﹄ 所引本 で は 絵 が 挿 入 される 指示 もなく 、行 すら 改 められることもない 。従 って 、当時、絵巻 とは 別 に 天明七年奥書本 が 存在 したこと が 明 ら か で あ る が )(1 ( 、難 読 文 字 に つ い て は ほ ぼ 同 形 の 文 字 を 記 す こ と ︵下 巻 第 七 段 一 八 行 目﹁ に ﹂等︶ 、 そ れ で い て 本 文 異 同 の 観点 から 両者 は 親子関係 にないことから 、両本 に 共通 する 親本 が 存在 したと 推定 される 。 なお 、後掲 の 翻刻 に は 天明七年奥書本 との 校異 を 付 した 。 絵 巻 二 軸 が 寺 内 に 存 在 す る こ と に つ い て 初 め て 言 及 し た の が 、先 に 紹 介 し た 明 ( 一 九 一 二 ) 治 四 十 五 年 一 月 刊、逸 木 盛 照 編 ﹃ 西国 第三番 粉 河 霊 刹 の 栞﹄ で あ る 。﹁御 池 坊 宝 物﹂ と し て 、 そ の 筆 頭 に ﹁一、御 池 海 岸 院 絵 縁 起 書 画 共 筆 者 不 詳﹂ と 示 している 。同様 の 什宝目録 としては 文 ( 一 八 一 〇 ) 化七 年写﹃粉河寺旧記 控﹄ が 管見 の 限 り 最 も 古 いものだが 、 その ﹁御池 坊什物類﹂目録 はこの 縁起絵巻 に 言及 していない 。文化七年以後 にこの 絵巻二軸 が 制作 された 可能性 もあろうが 、
現存絵巻 が ﹁本画 ではなく 下絵﹂ であると 見 られることから 、天明七年以後、同年奥書本 の 親本 と 目 される 一本 を もとに 試作品 として 絵巻二軸 が 制作 されたものの 、浄書 されるには 至 らず 、従 って 文化七年 の 寺社奉行 への 報告 に は 言及 されなかったと 今 は 考 えておきたい 。 小稿 の 最後 にこの 縁起 の 成立期 について 言及 しておきたい 。縁起 の 全体像 が 成立 しうるのは 、 もちろん 文 ( 一 四 八 六 ) 明十八 年 から 翌年長享元年以後 のことであるが 、由良 の ﹁寺﹂ に 言及 されている 点 が 重要 であろう 。衛門 の 館 までやって きた 僧 たちの ﹁寺﹂ とは 心地覚心 の 開 いた 興国寺 と 理解 するべきである 。覚心 は 正 ( 一 二 九 二 ) 応五 年 に ﹁誓度院条々規式﹂ を 定 め 、 その 後、粉河寺寺内 の 別院 であった 誓度院 は 覚心門流 の 禅院 となってゆく 。大石雅章 に 拠 れば 、 永 ( 一 四 三 〇 ) 享二 年頃 に 粉河寺寺外 に 移 った 誓度院 であったが 、粉河寺 との 関係 は 続 き 、 応 ( 一 四 六 七 ) 仁元 年 の 粉河寺回禄 の 復興段階 において 、粉 河寺 から 誓度院 に 協力 が 要請 されてい る )(1 ( 。 その 後、復興期 の 文明年間 において 、誓度院 と 粉河寺 との 関係 がいかな るものであったのか 詳 らかではないが 、関 わりが 継続 していたとすれば 、誓度院 の 本寺 である 由良興国寺 と 粉河寺 との 関係 も 充分 に 想定 されるものであろう 。 したがって 、 この 縁起 が 成立 しえたのは 、 長 ( 一 四 八 七 ) 享元 年 からさほど 隔 たら ぬ 頃 であったと 推定 する 。 ただし 、絵巻上巻、詞書第四段 に 示 される 次 の 文言 は 重要 である ︵句読点・濁点 を 補 った ︶ 。 げ に 御池 は 粉河 の こ と の 起 り の 源 な り と か や 。世 の 人 い ひ つ た へ 、 近 き わ た り の も の は 、 か な ら ず し も ま づ こ ゝ にまうで 、次 に 金堂 にあゆみならはし 侍 りけり 。其 いはれあり 。 か つ て 簡略 に 言及 し た こ と が あ る が )(1 ( 、 延慶本 ﹃ 平家物語 ﹄ 第五末 ︵ 巻十 ︶ 十五 ﹁ 惟盛粉河 ヘ 詣給事 ﹂ に 見 ら れ る 平維盛 の 架空 の 寺内巡礼次第 が 御池坊 を 拝 した 後 に 本堂 へ 向 かうという 順序 となっていることに 注意 しておきたい 。 たし かに 粉河寺参詣時 の 動線 はこの 通 りであるが 、延慶本 が 参照 したことが 間違 いない 仁範﹃大率都婆建立縁起﹄ にお ける 仁範 の 寺内巡礼 はこれと 異 なった 順序 で 記 されているのである 。 この 延慶本 における 独自説話 が 延慶書写 の 段
階 から 存在 していたのか 、 あるいは 応 ( 一 四 一 九 ~ 二 〇 ) 永二十六∼七 年 の 現存本書写時 に 補 われたものであるか 、 にわかに 結論 は 出 せ な い 。 た だ 、︹室 町︺制 作﹁南 紀 補 陀 洛 山 粉 河 寺 四 至 伽 藍 之 図﹂ に は 御 池 坊 の 隣 に 描 か れ る ﹁無 量 寿 院﹂ に ﹁学 頭 ﹂ と 墨書 さ れ て い る こ と は 見逃 せ な い 。﹁ 四至伽藍之図 ﹂ の 御池坊 に は 応 ( 一 四 二 三 ) 永三十 年 に 建立 さ れ た 多宝塔 が 描 か れ て いるから 、 この 時 より 後 に 描 かれたものであることは 間違 いない 。 しかし 、御池坊 が ﹁学頭﹂ であるとされる 初例 は 永 ( 一 三 七 七 ) 和三 年 ﹁ 粉河寺行人方着座記録 ﹂ ︵ 御池坊文書 ︶ で あ り 、 し た が っ て 、 安定的 に 寺家執行 ・ 学頭 を 独占 し 始 め る 時 期 よ り も 遡 る 、 御池坊 に よ る 一山支配 が 不確定 で あ っ た 頃 の 状況 を 描 い て い る こ と に な る 。現存延慶本 ﹃ 平家物語 ﹄ が 書写 された 応永年間 は 、粉河寺内 では 方衆・行人間 で 相論 が 続 き 、御池坊 が 頭坊 として 固定 される 直前期 であっ たと 言 える 。 この 時代、御池坊 の 優位性 を 証明 するための 言説 ︱ ︱﹁ げに 御池 は 粉河 のことの 起 りの 源 なり ﹂ が 生 じ 始 めたのではないか 。 すなわち 、絵巻下巻 に 見 られる 物語 は 長享元年 をさほど 隔 たらぬ 十五世紀末頃 に 生 まれたと 考 えられる 一方、上 巻 の 縁起言説 は 応永年間以前 の 御池坊 の 優位性 を 確立 してゆこうとする 時期 を 淵源 とするものと 考 えられる 。 この こ と は 、 上下巻 の 巻頭 に 示 さ れ る 内題 が そ れ ぞ れ ﹁ 粉河寺御池海岸院本尊縁起巻上 ﹂﹁ 粉河寺御池海岸院童男行者縁 起巻下﹂ と 異 なる 点 に 関 わるのかもしれない 。 [注] ︵1︶ 河原由雄﹁ ﹁粉河寺縁起﹂ の 成立 とその 解釈 をめぐる 諸問題﹂ ︵日本絵巻大成﹃粉河寺縁起﹄中央公論社、一九七七 ・ 六︶ 。 ︵ 2 ︶原田行造 ﹁ 金沢市立図書館蔵本 ﹃ 粉河寺縁起霊験記 ﹄
│
翻刻 と 解説及 び ﹁ 仮名縁起 ﹂ と の 関連 に つ い て ﹂︵ ﹃ 金沢大学教育学部紀要 人文科学社会科学編﹄三二号、一九八三 ・ 二︶ 。 ︵ 3 ︶同 デ ー タ ベ ー ス に 記載 の あ る 内閣文庫蔵 ︹ 近世 ︺ 刊 ﹃ 西国第三番粉河略縁起 ﹄︵ 一九二︱〇二二七 ︶は 別本。 な お 、 岩瀬文庫蔵本 ︵ 一一〇︱一三一︶ は 新日本古典籍総合 データベースでマイクロ 画像 が 公開 されている 。 ︵ 4 ︶山崎淳 ﹁﹁ 西国三十三所順礼道中図 ﹂ の 多様性
│
大坂屋長三郎版 を 中心 に ﹂︵ 和歌山大学紀州経済史文化史研究所編二〇一七年度特 別展図録﹃紀州地域 と 西国順礼﹄二〇一七 ・ 一一︶ 。 ︵ 5 ︶山本陽子 ﹁ 粉河寺童男行者信仰小考│
フ リ ア 美術館蔵伝聖徳太子修業像 を 中心 に ﹂︵ 早稲田大学 ﹃ 美術史研究 ﹄ 二八号 、 一九八九 ・ 一二︶ は ﹁粉河寺参詣曼荼羅﹂左方中段 に 描 かれる ﹁童男行者﹂ の 形姿 に 着目 する 。 ︵6︶ 架蔵本。 ︵7︶ 前掲注 ︵1︶ 河原論文 に 拠 る 。本書 が 応 ( 一 四 六 七 ) 仁元 年 の 粉河寺回禄 の 直後 に 書写 されたことも 重要 だが 、小稿 が 扱 う 絵巻下巻 に 示 される 具 体的 な 年記 ともかなり 近 い 時期 にあることは 重要 であろう 。 ︵8︶ 近世初期写。 ﹃粉河町史﹄三巻所収。 ︵9︶ ﹃粉河町史﹄三巻所収。 ︵ 10︶﹃粉河町史﹄三巻所収。 ︵ 11︶高木徳郎 ﹁ 中世粉河寺 の 寺内組織 と そ の 再編│
天英本 ﹃ 粉河寺旧記 ﹄ の 検討 を 通 じ て ﹂︵ ﹃ 早稲田大学大学院文学研究科紀要 ﹄ 四三 号︵第四分冊︶ 、一九九八 ・ 二︶ 、同﹁中世粉河寺 の 成立 と 展開﹂ ︵﹃日本中世地域環境史 の 研究﹄校倉書房、二〇〇八 ・ 一〇︶ 。 ︵ 12︶天明七年奥書本 が 明治二十一∼二年 に 寺内 に 伝存 していたことは 間違 いないが 、現在 では 所在 が 不明瞭 であるため 、原本 の 閲覧調 査 には 至 っていない 。 ︵ 13︶大 石 雅 章﹁天 台 聖 護 院 末 粉 河 寺 と 聖 の 別 院 誓 度 院﹂ ︵河 音 能 平・福 田 榮 次 郎 編﹃延 暦 寺 と 中 世 社 会﹄法 蔵 館、二 〇 〇 四 ・ 六︶ 。 そ の 他、熱田公﹁誓度院 について ﹂︵安藤精一先生退官記念会編﹃和歌山地方史 の 研究﹄宇治書店、一九八七 ・ 六︶ がある 。 ︵ 14︶大橋直義﹁紀州地域学 というパースペクティヴ│
根来寺 と 延慶本、平維盛粉河寺巡礼記事 について ﹂︵大橋直義編﹃根来寺 と 延慶 本﹃平家物語﹄│
紀州地域 の 寺院空間 と 書物・言説﹄勉誠出版、二〇一七 ・ 七︶ 。[付記] 閲覧 ・ 調査 に 際 し 、 粉河寺管長 逸木盛俊師 、 和歌山県立博物館 に 多大 な る 便宜 を は か っ て い た だ い た 。記 し て 深謝申 し 上 げ た い 。 な お 、 本稿 は 二〇一八年度科学研究費補助金 ︵ 基盤C 、 一八K〇〇三一八。研究代表者 大橋直義 ︶に よ る 研究成果 の 一部 で あ る 。 ま た 、 翻刻 および 校異 の 作成 に 際 し 、稲本早紀・太田裕美子 ︵和歌山大学教育学部四年生︶ の 協力 を 得 た 。 [翻刻凡例] ・ 粉河寺御池坊蔵﹃粉河寺御池海岸院本尊縁起絵巻﹄二巻二軸 の 詞書 を 翻刻 する 。画 については 和歌山県立博物館編﹃ きのくに 縁起絵 巻 の 世界
│
開 かれる 秘密 の 物語│
﹄︵企画展図録、二〇一八 ・ 三︶ 所収 の 全編画像 を 参照 されたい 。 ・字配 りは 原本 のままとした 。 ・異体字 の 類 は 通行字体 に 改 めた 。 ・□ は 判読困難 の 文字。丸括弧 に 推定 される 文字 を 示 した 。 ・ 東京大学史料編纂所蔵謄写本﹃粉河寺旧記﹄ ︵二〇一五︱四九七︶ 第三冊 を 元 に 天 ( 一 七 八 七 ) 明七 年奥書本 を 復元 し 、絵巻二軸 と 対校 した 。 ・ 校異欄 には 天明七年奥書本 との 異同 を 示 した ︵但 し 、漢字 を 仮名 に 開 くか 否 か 、送 り 仮名・仮名遣 いの 相違 には 言及 していない ︶。 ・翻刻注 も 併 せて 記載 した 。 なお 、各項冒頭 の 数字 は ﹁段番号︱行﹂ を 意味 する 。[翻刻] ︻上巻第一段︼ 粉河寺御池海岸院本尊縁起巻上 弘誓 の 海 の ふかきにはいつれの 衆生 か 赴 さらん 妙法 を 弘 め 苦 をぬき 楽 をあたへ たまへる 薩埵多 き 中 に 殊 に 因縁深 く 仏 の 御教 へいやねんころなるはたゝ 観自 在 ほさつか 名 をきゝ 身 をみるもなにか 空 しき 樹王 のかけにあそふに 譬 ふされは 玉 敷 の 宮古 のうち 嶮 しきひなの 山 の 奥 まてもいらかをならへ 尊像 をあかむ 応物 現形 の 月 はいたらぬ 里 もなく 霊跡 と きこゆるところ 浜 の 真砂 のかす 〳〵 はよみもつくさし ︻上巻第二段︼ 中 にも 山 の 名四方 に 高 く 殊 にすくれて きこゆるは 紀南 なかのこほり 風市 の 里 補陀落山粉河寺 になん 侍 るをのつ からなる 所 のけはひも 世 に 超 てそ 覚 ゆうしろは 足曳 の 山 ふかくそひへて 葛城 や 高 まにつゝく 峯 の 白雲 は たえすさかへ 花 かとうたかはれまへは よしのゝ 川瑠璃 の 水漲 り 落花 の 波 まを 漕船 のほの 〳〵 とみえなを 名 にし おふ 粉河 のなかれなのめに 長 うして かのふたさんの 二十 めくりの 瀧 の 白糸 にもたくひなまし 左 の 方 は 丘 しけく 溪 かさなり 金峯 の 頂 きかすかに はれて 日 の 光 うらゝかにして 日照 光明 の 名 をやかぬらん 右 は 野地 目 をきはむるにきはもなく 民 の かまとに 思 ひの 煙立 のほりくるしき 海 によするなみ 下化 のすかたいとしるし また 西方 に 通 しておもひを 送 るに たよりあり 長 き 尾上 の ◦ 草 村 に 尾花 くつ 華 のさきみたれそよふくかせに 匂 ひ えならす 谷 の 小玉木 みとりふかきに
蝉 なき 鳥 の るや 笙歌 の 声 にほの かよひ 蔓艸白華 の 粧 ひ 余所 なら す 山 なかく 峨々 とめくりし 其 うちの 空曠 にいと 清 らなるこゝをし もふたらく 浄土 なりとて 大士 みつからひらきあとをたれたまへりと なんいひ 伝 へたり 堂塔 いらかをな らへ 三解脱 の 門 より 入 て 大般涅 槃 の 金堂 にいたる 六角 の 帳台 は 六趣 の 孤子 を 覆 ひ 白毫光 を 伝 へし 三五 の 燈 は 五々 の 暗 を 照 し 九 の 井 は 大士自 らつくらせ 給 ふとそ いへる 九水 の 水 をむすひて 樒 つみ 閼伽 の 水 をたてまつりては 諸仏無垢 の 身 を 浴 し 九界自性清浄 の 心 をや 洗 ふらん 一 つ 御神 の 三所 におはします 宮居 さひたる 森 の 古枝 に 蔦 かつら のはひまつはれしもさなから 護法 のひさしきを 示 かとそしらる 五百 あまり 六十 はかり 檐 をならへし 寂 莫 の 窓 のうちには 数百 の 浄侶玉 の 泉 に 口 すゝき 三千 の 妙境 を 観 して 止観 の 水 をすまし 龍門 より 吐 出 す 玉 の 光 を 招 ては 是名持戒 の 圓文 を 誦 て 正覚 の 花 さやかならん 事 をねかひ 或 は 遮那三密 の 鈴 の 声 は 法界宮 に 響 て 三十七尊 をや 驚 すらんけに 三宝久住 し 効験 のいちしるくおはしますにそ 六 十余州 よりまうてき 一心 に 御名 を 称 る 声々 は 風猛山 の 嵐 に 和 し 皆得解脱 のみそらには 三毒七難 の 塵 もなし 一天 に 二 なき 霊場 とも いひつへし ︻上巻第三段︼ わきて 此山 の 霊跡 ときこゆるは 生身観音最初出現 の 砌御池海 岸院 といへる 別院 にてそ 侍 る
本尊 は 即 ち 真身観音 の 御製 作 にて 童男応化 の 尊像也 濫觴 をくはしく 尋 るに 正法明 の 本高 く 常寂光 の 空 にあそひ たまふといへと 迹下 の 月 は 影 を 三土 の 水 にうつして 名 を 三十 あ まりみつにわかてりたのもしな 苦 き 海 に 引網 も 深 き 江 に 沈 をこそ 猶 哀 とやみそなはし 西方 より 南 の 海 に 土 をしめ 猶 また 此寺 には 迹 を 垂給 るならし 此三 の 浄土本 より 衆生 のために 荘厳 し 給 ふめれと 末世濁悪 の 衆生 のために 近 く 頼 あるは 粉河 の 浄土 ならんかし 抑 千手観音浄土 ふたらくせかいのあり さまを 尋 に 衆宝荘厳 の 道場光 をましへ 玉 の 林蓮 の 池 それ 廓 にして 美 を 極 めしあたり 極楽世界 のことくとかや 直 に 此西南 にあたり 海 の 中 に 有 となんいへり 其山 のすか た 上 は 広 く 下 は 狭 く 峻孤 として ひとりそはたてりよりて 海岸孤絶山 とは いふなめり 神通 を 得 るにあらされは ゆきかふ 事 かたしとそこゝに 大悲 やむ 事 を 得 すして 善功方便 をめ くらし 穢土 の 中 に 浄土 をうつし 普 く 罪深 き 男女 をみちひき 給 はんとて 青蓮 のまなしりを し 広 く 我 秋津洲 をみそなはし 此地 をえらひ しめたまへるに 先無謀 の 神月 を はこひ 池 をうかちて 南海 をかた とり 島 をまうけてふた 山 を 移 し 霊木 をのつからおひて 宝樹 の 風 をつたふさてしもいみしき 瑞光 を 放 て 伴氏 か 過 しよの 善種 を 起 さしめ 宝亀 に 改 りし 始 の 年 十一月中 の 八日 にて 侍 りしとか 十 あまり 四 つ 五 つはかりなるさもうる
はしき 男童 のすかたとなりて 御身 に 法衣 をまとひ 手 には 摩 尼 をつらぬきたる 百八 の 念珠 を とり 六度圓満 の 錫 をたつさへ 件 の 御池 の 中 より 忽然 とあらはれ 出 給 へりとなん 是 そ 三十二応 にいへる 所 の 応以童男身 の 形 ち 成 へし 応以童男童女身得度者即現 童男童女身而為説法 とかや 宣 たまひし 一実 の 金文 いつはら さるをやまた 大 □ (檉) の 水中 より 現 れ たまひし 御事 も 例 しすくなから す とそ 承 るかくて 童男行者 は 伴氏 か 家 にゆき 願 ふ 所 の 佛 を 造 り えさせんと 契 りやかて 光明 の 御 堂 に 引 こもりゐて 八日 になれるあし た 千眼 の 光鮮 に 観自在尊 と 成 て 立 せ 給 へり 本願孔子古 か 一家 を 始 め 近辺 の 男女 はせあつまり 面 り 慈容 を 拝 み 奉 りぬるよしこれ 加被力 によらすはいかてしからん 此 真身観音即是浄土 の 教主 また これこのてらの 本尊 なり 思 ふへし 〳〵本 より 迹 を 垂 れは 迹 は 必本有 といふ 事 を 観音 の 本 より 童男 の 迹 を 垂給 へは 童男 はまた 垂跡 の 姿 をして 即本地 の 観音 に 復 りおはしませり 実 に 本迹雖殊不思議一 の 理 を 正 しく 示 し 體用不二 の 姿 をみせ 給 ふなめりかゝる 不二 の 妙體 を 両 所 にあかめ 奉 りて 生身観音 とはよひ 奉 るなり 童男 といひ 観音 とわかつも 水 と 波 とのわく 方 も なきかことし 嗚呼仰 ひても 猶 あまりあるをや ︻上巻第四段︼ 常在霊山 の 月 は 人 の 心 の 浮雲 にそら かくれして 光 をおさめたまふとはいへと
宇王 のために 毘首羯磨 かきさみし 栴檀 の 像 は 世 にとゝまりなへて 濁悪 の 衆 生 をすくひたまへり 此寺 の 真身観音 伴氏 らかためにしはしおかまれおはし ませと 永 く 真容 を 瞻奉 るへきならす よつて 伴船主六角 の 龕 を 作 りおほひ 光仁 天皇 に 奏 し 七重 の 錦 の 御帳 をかけさせ たまひしよりたゝ 光明異香 のしるし をうるものはかりおかみ 奉 れりとそ 往昔 よろつの 人 の 諺 にいへらく 粉河寺 の 本尊 はふたらく 浄土 の 教主生身観音 にて 常 は 浄土 にかへりましませはようかうなる いとめつらかならんさうなり 寺 にまし まさゝらん 折 しも 歩 みをはこひ 礼 拝恭敬 なとし 侍 りぬともさらに 〳〵 其益 なかるへしなといふ 言 の 葉 いひ ちらしてまうてくる 人 かれ 〳〵 也 こゝに 大士御慈 みのふかくして 人 を 済 せ たまふの 巧 に 富 たまへれは 低頭合掌 の 結縁 むなしからせしとふたゝひ 妙 色身 をあらはし 親 くみつから 童男行者 の 尊像 を 彫 みかゝせ 給 ひて これ わか 自在 の 身真 のすかたなりと 忝 も 示 し 聞 えさせ 給 ひかのふたらくを 移 して 初 めて 現 れ 出 させ 給 ひにし 所 なれは 御池 の 中島 にすへをかせ 給 ふとなんいへり まよへる 人 の 情 にしたかひてかく 曲 さに 利生 の 縁 をほとこしたまふ 御事 悉檀 随 機 の 御 めくみあらたならすや いふかりし 人々 やかてうたかひの 雲晴 し かはまたまうて 来 るものいやまさりに まさりけりさてかゝる 不思議 の 本尊 を 臭穢 の 凡身 ちかくよりて 御躯 に 触 また 塵 にけかし 奉 んはおそりありなと 沙 汰 しあひやかて 御池 のかたはらに 精舎 を 絺 ひ 金玉 をましへ 龕 をかさりて 彼尊像 を 移 し 奉 り 戸 さしこめぬ 本尊出現 の 日 なれはとてたゝ 年 ことの
十一月中 の 八日 にのみ 御帳 をかゝけ 広 く よろつの 人 にはおかませ 侍 りけりさて 遠 つ 国 よりまうてくるもの 聞伝 えてかゝ るいみしき 霊像 をおかみ 奉 らさる 事 なかき 恨 なりなと き 聞 えけれはわ りなき 事 におもひ 赤銅 をとろかし 童男 の 尊像 をかたのことくうつしにせ 中島 にすへはへりまたちなみに 千手千眼 の 尊 像 をも 鋳奉 り 池 の 中 なる 巌 の 上 には 安 し 奉 りてけりこれしかし 本迹 不思議一 の 妙體 を 表 しけるものならし 千 とせのけふまてなをさかんに 一天 の 男 女帰依 しおほくの 巨益 をかふる 事 ひと へに 此霊像 の 因縁 によれるもの なり とそ けに 御池 は 粉河 のことの 起 りの 源 なりと かや 世 の 人 いひつたへ 近 きわたりのものは かならすしもまつこゝにまうて 次 に 金堂 にあゆみならはし 侍 りけり 其 いは れあり 世下 りわれと 心 の 水 をかきにこし けるにやさいつころよりたえて 真身 も また 童男 の 御 かたちをも 共 に 拝 み 奉 る ものなしいたましくかなしむへし されと 本 より 末代 の 衆生 のために 彫残 させ おはしける 行者 の 尊像 はなへて 凡愚 の 眼 をへたてたまはすこれそ 生身観音 利生方便 のつきせさる 御 すかたなれは わきて 貴 み 信 すへきはたゝ 此霊像 か ︻上巻第五段︼ 応化 のすかたまち 〳〵 なる 中 に 末 の 世 の 心 に 応 しわか 神国 の 機 にかなふらんとそ しらるゝはわきて 童男行者 のうるはしく 柔順 なる 御 すかた よりこえたるはあらし 両宝 の 面影 にほのかよひまた 儒履釈袈 裟 の 風情 にも 似 たるとそ 覚 ゆさうなり 此身 を 以 てかす 〳〵 の 利生 を 施 しおはし ませし 事 いかてかいひつくさん 中 にも 童男 の 身 をけんし 信濃国 にかよひ 日 ことに 本師 の 尊像 を 拝 したまひつ
ゐに 如来 の 詔 をうけ 一光三聖 の 尊容 を みつからうつし 此寺 に 安 して 念佛三昧 のこみちをひらき 此土 の 衆生 と 彼国 の 佛 と 偏 に 因縁浅 からさる 事 ををしへ 給 へり ︻上巻第六段︼ 或時 は 童男 の 身 を 化 し 河内国 にさすら ひて 長者 かひとりのむすめのおもき 病 に ふしてすてにしぬへかりしをいのりいけ させ たまひ 粉河 といふところにすみ 侍 る なりとかきけしうせ 給 ひぬかくて 河 には 甘露 の 乳 をなかして 粉河 と 告 し 言 の 葉 をさとさしめ 自然 の 燈 をかゝけ 後 のし るしにとてとりて 帰 りし 紅 の 帯 に さやつきたるをははたして 御手 に 捧 たまひかす 〳〵 の 神変 を 現 しいよ 〳〵 不二 の 妙體 をあらはせり 粉河寺 といへ るも 童男 のみつからよひそめたまひし 名 にてこれよりそいひならはしける ︻上巻第七段︼ 或時 は 童男 のすかたとなり 在中将 の 北方 にまみえ 世 にめつらかなるくた 物 を さつくよろこひの 身 にあまりてあたりに みえし 紅 の 袴 をわらは 部 の 肩 にかけま いらせしに 後 まうて 来 て 業平 と 北方 も ともに 真容 をおかみ 奉 られしに 件 の はかまを 左肩 にかけおはしませしかは 紅 の 袴 のかゝるしるししるくも 世 にか かやきなへて 人 あふき 貴 みにけり ︻上巻第八段︼ 一日 はまた 童男 の 身 をもて 禅意阿闍梨 か ために 我国 の 三十一文字 の 言 の 葉 をつら ねいましめ 給 ひしかはやかて 十善帝位 の 邪 望 をひるかへし 十号 の 聖果 をもとめ 侍 り けりこれみな 三千果成 して 本有 のすかた をもてむかしの 願 をみてたまふ 無為 のすかた なれは 更 に 別 の 神変奇特 といふへからす よつて 邪見 の 空 に 沈 み 因果 をなみし
あるはあさくさとりぬるも 性具性悪 の 妙理 をまなひ 心 をこゝにとゝめてかゝる 自在 の 妙用 を 信 しよろしく 十双五隻 の 普門 にあそひ 九界 を 度 せん 事 を 願 ふ へし 事 くはしくは 別 の 巻 に 載 はへれ はこゝにはいひもらし ぬ ︻上巻第九段︼ 寛徳 の 比 かとよ 仁範上人 とていみしき 聖 いまそかりけり 行基菩薩 の 再誕 に て 文殊 の 化 し 給 へるなりとそ 申伝 え 侍 る 上人 ふかく 此寺 の 効験 を 信 しまし 當山 にあとゝめて 四所 の 霊地 をえらひたまへり 中 にも 出現地 をいたう 貴 ひ 給 ひ 御池 の 中 嶋 に 大率兜婆 を 立 てみつから 縁起 の 文 をしるしたまへり 其文 のすゑに 當院 の 景色 わきて 四神 に 応 し 率土 の 外 に 超 たりとて 後 へに 高 きみとりは 霊山 の 旧 き 風 をうつし 霊沼 の 清 る 水 には 補陀 の 新 なる 月 を 迎 へたりなとつらね て 称嘆 したまへりけり ︻上巻第一〇段︼ 中比小一條院 の 皇子 かさりおろさせたま ひて 錦織 の 僧正行観 とそ 申奉 りける はしめて 此寺 の 貫首 とはならせ 給 ひて けり 古今 の 文 を 探 り 索 め 冥応 のいと あらたなる 事 ともを 感 したまひしか 霊跡 おほき 中 にもわきて 御池中島 は 生身観音最初出現 の 地 なりとて 仁範 上人 の 碑文 にも 根本精舎西南去二町許有 一勝地此大悲観音最初出現之地 なりとかや しるされたりかやうの 霊場 にこもりて まのあたりしるしを 見奉 らはやなと 小賢 しくおもひこめたまひてふた こゝろなくいのらせおはしけるに 夢 にも あらすうつゝにもあらす 頻伽 の 妙 なる 声 にもなをまさりたる 御 こゑのして 此所 は 大聖游化霊地此砌 は 海岸孤絶宝崛 なりと いとさやかにきこえにけりとそまことに
此所 をさして 南海補陀 の 宝刹 なり 常 に 遊戯 すと 観音 みつから 告 させ たまへはつゝしみて 信 したてまつる へきをや ︻上巻第一一段︼ 又山王十禅師権現 も 粉河寺 は 我朝 のふた らく 浄土 なりこゝにゆきて 往生 の 素 懐 をとくへしなと 石崇上人 には 神勅 ありしとなん 記 しはへるかう やうの 告 こゝかしこの 霊佛霊神 あま たおはせし 事 ともおほく 異文 にのせ 侍 りもし 浄土 を 移 したまへりといふ をきゝて 猶予 せんものは 梵王 と 身子 か 見 しところの 異 なるに 同 しからんかし たつねてしりぬへし ︻下巻第一段︼ 粉河寺御池海岸院童男行者縁起巻下 そのかみ 御池 の 住持 と 大衆 とあらそふ 事 ありけりうき 世 のさかのうとましく 世 をのかれしつかによはひを 過 しなん と 思 ひこめしか 生身観音御製作 の 童男大士 こそよにためしまれなる 霊像 ことにとしころつかへ 奉 りてはなれ まいらせん 事 のおしくもなとつら 〳〵思 ひ めくらすにそすゝろに 涙 のこほれぬ 所 身 にしたかへ 奉 りてなかきよの 引摂 をも たのみ 奉 らんとひたすらに 思 ひとりひそ かに 佛工 をかたらひ 尊像 をみまかふは かりににつかはしくうつさせてこれを 御厨 子 のうちにうつしかへ 御製作 の 尊像 をは 人 しれすもり 奉 り 仁平三癸酉 の 年九月 十五日當国海士郡由良 の 湊長郷 のさとゝ いふ 人目 かれたる 谷 の 奥 にとゝまりぬさて 此里 の 東 にあたり 一宇 の 精舎 をいとなみ 岡 の 堂 と 名 つけてくたんの 尊像 を 安置 し 其身 もそのかたはらに 草 の 廬 むすひ
行 ひすましておはしけりちかきわたり のものともゝなのめならすよろこひ 朝 な 夕 なにまうて 侍 りけるとそ ︻下巻第二段︼ 筑前国安 の 郡 と 聞 えしなんめり 孫九郎 とて 三十 にかたふき 四十 にたらぬ 年 ひしたる もの 有 けり 西国三十三所 の 霊区 を 信 して 三十 あまり 三 たひおかみめくらんといへる 誓 ことをし 一向 ら 拝 みめくりけり またなき 信者 にてそ 有 けるある 時 ゆら のみなと 長郷 の 衛門 といへるものゝ 所 にや とりあるしと 対 ひ 居 て 夜一 よこゝかしこ の 貴 き 事 とも 拾 ひあつめかたり 明 し ける 衛門順礼 にきこえけるは 此里 の 東 に 岡 の 堂 といふ 精舎 あり 此本尊 はもと 粉河 寺 の 別院御池海岸院 の 中尊 にておはし ませりかたしけなくも 観音神変 の 御製 作前代未聞 の 尊像 なり 不思議 のえにし ありて 此所 にわたらせたまひはや 三百三 十年 はかりの 春秋 をへたりいかなるゆへ やらん 此比寡人 か 夢 に 童男大士来 らせ たまひ 我 は 粉河寺 に 帰 りなん 今 は 粉河 に 還 るへしと 打 つゝき 三夜 まて 告給 ふと さたかに 見 はへりぬあやしさよとこまやかに かたりける 巡礼 つく 〳〵打聞 てあなうれし や 此年 ころかゝる 事 のはへりとゆめ 〳〵 しらて 幾度 かむなしくすきつらん 時 し ありてこよひ 聞 つる 事 の 有 かたさよこ れも 歴劫不思議 の 御誓 を 年来 あふき て 三十三度 を 期 してまうて 奉 る 其御 利生 ならめと 覚 れはいとゝ 結縁 もあら まほし 明 なはとく 〳〵拝 み 奉 りたくこそ なといふほとにあるしきゝて 世 にまれ なる 尊像 にて 重 きか 上 に 重 くし 奉 れ はおほろけの 事 にてはひらきまいらせねと 遠 つ 国 のまらう 人 といひいみしき 信 者 にておはせはゆるしてそと 拝 せ 申 へしとてまたの 日 やかて 岡 の 堂 にくし
てゆき □ (重) 々 をひらけは 順礼 ひれふし 貴 み 奉 りけりさてそれよりも 順礼 は すくに 粉河寺 に まうてにけり ︻下巻第三段︼ 粉河寺 のおく 本山 のふもとなる 河原 といへる 山里 に 北田 三郎太夫定清 といふものありけり 順礼孫九郎 はいつもこゝに 一夜 をあかして 通 りけるかこのたひもまたやすらひにけり 順礼定清 にいひけらく 世 にめつらしき 事 こそあんな れ きのふ 由良 の 里 にて かゝるやん 事 なき 尊像 をこそ 拝 み 奉 り ぬれといとこまやかに 語 りけれは 定清 眉 をひそめさこそあらめされといま 粉河寺 の 御池霊験日 に 新 におはしまし 高 き 賤 きあふきまうて 奉 る 事 めを おとろかしぬ 中 にも 国守尾張守 畠山 代々 わきて 信仰 あつく 物 なと 多 く 寄 たまひ ちかきころも 燈明料 の 田地 をまいらせ たりしなりこの 折 しもかうやうあやし けなる 事 なのたまひそかへりて 世 のわ らひくさともなりなんとそ 覚 ゆとにかみ いひけれは 順礼 けにもとや 思 ひけんう ちうなつきて 出 にけり ︻下巻第四段︼ 後三 とせをすくして 文明十八年丙午 にあた れるはしめの 春 後 の 三日 の 夜亥刻 はかり いたうくらきに 童男大士 の 龕宝 の 中 より 自然 の 火 をこり 出 けりつゆはかり おもひもかけぬ 事 なれはとよめきあはて けるうちに 本尊 よりはしめ 堂舎 もやかて 煙 りとなりうせぬ 時 の 住持頼舜 はいふ もさらなり 大衆 つとひあつまり 此事 を のみ きかなしみてまつ 堂 をや 建 まし 本尊 をやつくらましとり 〳〵沙汰 し あひしか 先本尊 を 造 りまいらすへきに 事 さたまり 其 くはたてしぬへしとて ふしにける 其夜 廿四日 御池 の 長老 の 夢 に 童男大士 みえさせ 給 ひて 我 ひさしく
異方 にあそひ 利益 をほとこし 侍 りぬと いへといまは 此所 にかへるへし 我像 を 作 る へしとの 用意 はとく 〳〵 とまれよとさや かにさとし 給 ひぬとみてさめぬ 又大門 の 十穀坊 に 覚音 といふ 乗門 ありむらな き 信者 にてそありける 同夜 の 時 も たか へす 長老 の 見給 ひし 夢 にわり 符 を 合 たることく 此聖 にも 告給 ひにけり ︻下巻第五段︼ 北田定清 は 御池 の 堂舎回禄 のよしを 聞 し より 三年 まへかとよ 筑紫 の 順礼 か 語 りし 御池 の 本尊 の 御事 こそいふかしけれ 此折 しもまた 順礼 の 来 られよかしな 詳 かに 尋 てこそみまほしけれと 心 の 中 に 祈 りひとりことしてゐたりしか 佛 の 御 はからひにやあくる 廿五日 の 未刻 はかりに 彼順礼 まかりて 扉 をたゝきぬ 定清大 に 打 ゑみさても 思 ひしにかなふ 不思議 さよと 心 の 底 に ◦ こめ ふかく 感 して 様々 にもて なしけりさて 順礼 にかたらく 聞 もし 見 もし 給 ふらん 粉河 の 御池 こそあやしき 火 いてゝ 一 へんのけふりとなりぬいにし 年 の たまひ 聞 えし 由良 の 本尊 の 御事 こそ 今更 きかまほしけれいかに 〳〵 といへは 順礼 されはとよさりしとしたしかにおかみ 奉 りしかといまはしらすわたらせたまふや 尋 てこそまいらせめとてしのゝめの ほから 〳〵 とあくるやをそしとやかてゆら のさとにまかりしか 本尊 はもとのことく にそおはしましける 悦 ていそきはせ かへりしか 〳〵 とつくれは 定清 なのめな らす 歓 ふ 事 二 に なしされと 此事 ひろ 〳〵 と さたし 侍 りなんもいとわつらはしさはい へとこのまゝすてをきなんも 無下 にはかな きわさに 覚 ゆれは 粉河 へしらせまいらせん とてやかて 廿八日 の 寅刻 はかり 先大門 の 覚音 か 菴 にゆきてしか 〳〵 とさゝやけは 覚音 は 打 うなつきいらへもせて 定清 を
くしすくに 御池 にはせむかひ 長老 に かくと 告 るよりはやく 三人 うちなみた くみ 手 を 打 てこれひとへに 本尊此 たひ 本土 に 還 り おはしまさんする 時 の 正 に 至 れるならまし 殊更三 とせまへあらかしめ 衛門 かみし 夢 といひ 此般 われ 〳〵二 人 か 同 し 夜 の 同 し 時 に 見 し 同 し 夢 の 御告 のいちしるき 御事 よと 感 にふして すゝろに 袖 をそしほりけるさて 大衆 に もかくとかたれはよしや 伽藍 はやけぬ ともあらためつくりなん 霊像 のうせ たまはてわたらせたまふとの 御事 こそひとへに 此山 のさかへて 末久 しかる へしとの 瑞兆 ならめ 三 たりの 見給 ひし ゆめこそあらたなれをの 〳〵 かしこ にまかりていそきむかへ 奉 ら れ よかしと 大衆一同 にそ 申 されける ︻下巻第六段︼ 定清 は 順礼 にあないさせ 長老 をはしめ 覚 音 これかれともなひつれ 廿九日 のあかつ きの 鐘 とともにいさましく 粉河 をいて 由良 をさしてまかりけるさて 衛門 か 館 に 案内 こはせ 尊像 を 粉河 へかへしまいら すへきよしをいひ 入 けれは 主 しけし からすかほあしく 代々此所 に 伝 えてやす くは 人 におかませたにもしはへらすまして 外 に 移 しまいらせんやふつ 〳〵望 みには えこそまかせしとあらゝかなるこゑして 聞 えしかなを 由良 の 寺 にこそ 殊 に 秘 蔵 して 何事 も 寺 よりはからひたまへは しり 侍 らすとそ 答 へけるみな 〳〵 をのゝき あきれさてはいかゝすへきやらんとおもひ わつらひ 居 たりしかまつ 〳〵其本尊 を 拝 み 奉 らまほしくこそと 衛門 をとかく すかしなくさめやう 〳〵岡 の 堂 にともなひ まかりて 拝 し 奉 りけるに 御池 の 尊像 に いさゝかもたかふとみゆる 所 はなくてたゝ 威 霊 に 気高 くて 神仙 にむかふかとはかり
身 しまりてそ 覚 へけるをの 〳〵 いとゝ 信仰肝 にとほり 覚 へす 五體 を 地 になけ 守 り 居 て 法施 いと 念比 にしさてあなかちに こひけれは 衛門 もいなむにことはなくて 由良 の 寺 へ 尋申 さんといひすてゝまかり けりとかくして 時移 りはやたそかれに なりぬかうやうなる 一大事 の 望 み 申出 し あれたる 御堂 のもる 人 もなきに 徒 に 帰 りなん 事 こそ 不覚 ならめ 今宵 はつ とめてまもりをるかはた 衛門 かやとに くし ゆかなん なといへはまたかたへより 押 てくし 奉 ん 事佛 の 御意 もはかりか たし 御 をうかゝへといふになりやかて とりてけれは 三 たひまて 望 む 所 の 下 りぬをの 〳〵 よろこひきそひていそき 龕 をかき 衛門 かやとのおくのまに 入奉 り 尊像 の 御 まへに 僧侶 かしらをましへ 座 をならへて 通夜 し 奉 り 還御 を ひたいのりにこそいのりけれ ︻下巻第七段︼ 寺 より 僧達 あまたいとあはたゝしく まいりつとひてまつに 断 る 事 もせてなと かく 本尊 をはむかへ 下 しまいらせけるにや いそき 寺 へかき 入奉 らんといきほひ 猛 に 気 あしくこそ 聞 えけれ 定清打 むかひ つゆ 臆 すともみえす 僧達 に 心 をしつめて はしめ 終 りを 聞 しめし 候 へかしな われ 〳〵心 のまゝにしけるわさならす しか 〳〵 との 仏 の 御告 をうけし 上 なをも 御 を 取 てかくはくし 奉 りしなりと 智弁滞 らす 泉 をなかしていひのへ けりさて はたゝ 凡夫 のこゝろにまかせ とかくさたし 申 さん 事 おそりあるに 似 たり 僧達 も 角 をおり をうかゝひ 見 たまひ 佛意 のまゝにこそはからひたまふ へけれといへはさすかの 僧衆 も 此理 りに さしていはんやうなくいまは を 卜 ふへし とてぬかつき 手 を □ (に) へてうかかはれしかと
佛意 いかてたかふへきなれはたゝいく たひも 粉河 に 帰 りおはしまさんとの 御 にてそありける 此上 は 異議 にや 及 ふとく 〳〵 とはかりいひひそまりてまかり けり 衛門 も 見 しゆめのふしきなと 思 ひ 合 せかつ 悦 ひ 且泣 ておしくはまとひ 思 へといつこも 同 し 衆生済度 の 御 ため なれはこそえにしやまた 粉河 に 起 り けるならめ 其夕 への 御迎 へこそな をもたのみ 奉 るかならすすてさせ 給 ふ なとかきくときてあめしつくとなき けり ︻下巻第八段︼ さてをの 〳〵二月朔日 のあさまたきにいと まを 衛門 にこひ 本尊 をかき 奉 りて 帰 り 来 る 玉鉾 のみちすから 定清人々 にきこ ゆるは 此明方 になん 一 の 霊夢 をこそ 見侍 りぬれ 夜部 いもねす 本尊 の 御前 に 念誦 し 侍 りけるうちつく 〳〵 とおもひめくらし けるはかくはかり 辛 ふして 還御 をこ ひねかひ 奉 るになとあはれとみそなはし 夢 の 告 をたにもなしたまはさるにやと ひそかにうらみに 恨 みまいらせいのり 程 へ て 卯 のはしめにもやあらんみやひやかに たうときよそほひしたる 童子 の 来 らせ たまひわかまことのすかたおかませ 申 へし 東方 にむかへよといといみしき 御声 にて 聞 ゆ 身 に 徹 りありかたくおほへやかて 彼方 に 面 をむけ 侍 りしかはたゝ 春 の 日 の 山 の 端 より 立 上 り 給 ふかとまかふまて 光明 かくやくとひらめきわたりこれ 真 の かたちなり 能見 つるやと 告 させたまふと みてさめけりとかたりけれは 人々 いとゝ 感信 いやましさかしき 山路 のいた はりをもわすれてそたゝすゝみにすゝみ ける ︻下巻第九段︼ 其日 やかて 粉河 にかきつけ 御池 にすへ