北海道の開発体制の形成と変容に関する考察(2)
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(2) . 北海道教育大学紀要 (人文科学・社会科学編) 第49巻 第1号. 平成10年8月. lo fHokka i do Un i iW o fEduca直on (Human i imSc i ) Vo l besandsoc I Jo贈na ences vers .49 . ,No. Au像l st l998. 北海道の開発体制の形成と変容に関する考察 ( 2 ). 清水 敏行 北海道教育大学函館校政治学研究室. Cons iderat ion on FormLadon and Change o fthe DeveloP]ばLent頭. R ido (2) egimein Hokka ‐. ToshiyukiSHIMIZU Hakoda t eCa i mpus , Hokka i do Un i i t ver s yofEduca観on ,. ②計画行政の転換 中央直結による開発一辺倒は1971年に始まる堂垣内道政から, 少しずつではあるが変化し始める. 堂垣内 尚弘は開発局長を経て開発庁事務次官 ( 1965年7月~67年11月) になっ ている. もともとは道庁の土木部出 身であるが, 開発局・開発庁の官僚として北海道の開発にかかわってきた. 町村金五が道知事であった時期 に上記の要職に就いており, それは第二期開発計画推進の時期 でもあり, また第三期開発計画作成の準備開 始の時点でもあった. 第三期開発計画は, 堂垣内が開発庁事務次官の在任中に土台作りをしたものと言われ 4 ) 堂垣 内の知 事就任 と 同時に 第三期 開 発計画 はス ター トし 見 直 し論議が なさ れるよう にな っ た 0 ている( . , , .. このような状況のもと, 開発官僚が知事になったことは皮肉なことである. しかも, その時期 ( 19 74年当時) の開発庁長官には, 知事職を堂垣内にバトンタッチした町村金五が在任していたのである. あらためて言うまでもなく, 197 0年代前半は高度経済成長が終幕した時期である. 当時は自治体の政策課 題として, 公害等の環境問題, 都市の過密, 高齢者医療などが大きく浮上し, 都府県の総合計画作りも工業 化一辺倒ではなくシビルミニマムなどを掲 げ住民福祉の拡充を目玉にする方向に変わってきた. 中央政府レ ベルでも高度経済成長指向の新全総が7 1年から総点検されるという状況となった. 北海道だけがその例外ではありえない. 特に北海道では, オイルショックなどを背景とした経済不況によ っ て苫東を始め大型プロジェクトが不振の様相を呈し, 第三期開発計画の見直しは必至となっ ていた. この 見直しの過程の中で北海道庁は独自の 「北海道発展計画」 を作成することになる. この過程を少し記述して おく こ と に した い.. 堂垣内が知事に就任した最初の議会において第三期 開発計画の改定が迫られ, その3年後の197 4年9月には, 堂垣内知事の諮問機関である北海道総合開発委員会が第三期 開発計画を総点検した中間報告を提出してい る.. その報告内容につ いて見るならば, ①住民福祉の充実, 環境保全に積極的に取り組むこと ②環境アセス , メントをおこなうこと, ③道民の意見を聞き集約し 「地域計画を作成」 して, より上位の総合開発計画に積 ) 4 1 み上げていくことを提言している( . これに続き, 同年11月に北海道開発審議会が開発庁長官に第三期開発 計画の見直しを建議している. このような提言等を受けて, それまで見直しに消極的だった堂垣内道知事, 109.
(3) . 清水 敏行. 町村開発庁長官が新たな計画の作成に取り組むことになる. 堂垣内知事は先の中間報告を受け取り, 10月に 町村開発庁長官を訪ね, 「三期計画の運用にあたっ ては, 環境, 福祉, エネルギー, 食糧等多くの今日的課 題に対処して思い切った幅広い運用をはかり, より長期にわたる新計画の策定が必要である」 との要望をお 4 2 } こ れらの提 言 を受 けて 第三期 開発 計画の 見直 しが始まる. こ な っ ている( , .. 中間報告に沿って, 北海道庁がある種独自性をもった地域計画作りを始めることは, 開発庁との摩擦の原 因となる. このような摩擦を開発官僚の堂垣内知事が抱えこむことになる背景には, 高度経済成長の歪みが 現われていたという社会経済的な要因だけではなく, 政治的要因もまた絡んでいたことを指摘できる. 74年 その政治的要因とは, 見直しの動きが議会レベルの論争から行政レベルの取組みへと広がり始めた19 の翌年4月には知事選挙が予 定されていたことである. 前回の知事選で, 堂垣内は社会党の候補を1万票3千 票という僅差でもっ て破り, かろうじて当選した. このため, 「大きく現状とずれ始めている三期計画では ) 4 3 選挙を戦えない」 という危機感が道内の保守陣営の中にはあった( . 彼らが危機感を抱いた背景には, 省資 源・環境保護‐福祉の必要性に対する認識の広がりとともに, 既存の大型プロジェクトに対する道民の意識 変化 があ っ た. ) 4 4 北 海 道 庁 は独 自 計 画 作 成 の た め に住 民 ア ンケ ー トを1975年 に実 施 して い る. そ の調 査 結 果 に よ れ ば( ,. 2%で圧 2%, 「自然の保護保存」 が6 「北海道の発展方向」(複数選択) の設問において, 「食料供給の場」 が7 倒的に高い比率となっており, 「新しい工業発展の場」 はわずか33%に過ぎなかった. 「教育研究の場」がそ しかる べ き であ っ たろう.」 れ に続く24 . 3% と な っ ている. 「工 業化 に関 して はも っ とち がっ た 反応 があ っ て. ( 4 5 )これは北海道の重工業化 を推進しようとする学者の落胆とも道民批判ともとれる反応である. まさに )と { 4 6 「こ の事態 は, 計画作成 担 当者 たち にと っ て, 石 油 シ ョッ ク にもお と らない 大き な シ ョ ッ ク であ っ た.」. の指摘がある. 北海道が新計画の名称に 「開発計画」 という言葉を使わず 「発展計画」 としたのも, このよ 4 7 ) う な道 民の 意識 変化 を背景 に しての こと である{ .. しかし開発庁にせよ道庁にせよ, 双方が共有する開発至上主義の思考枠組みの中での摩擦でしかなかった 5期計画とも皮肉的に言われて ということは付記しておかなければならない. 開発庁の第四期開発計画は第3 ‐ おり, 道が197 7年に作成した北海道発展計画もまた第三期開発計画の大型プロ ジェクトを引き継ぐ高度成長 2%とされており, 三全総が全国の成長率を6%と見込んでいることから, 全国= 指向 (北海道の成長率は7 ‐ 三全総よりも高めに設定している1) のものであった. 第三期開発計画の見直しの間に政府は苫東着工を決 定するなど大規模開発事業は相変わらずであった. 8兆円であり, 第三期開発計 しかも開発庁, 道庁それぞれが作成した計画に盛り込まれた政府投資額は約1 4 8 } 画の政府投資額を物価スライ ドした額を3兆円も上回る額であっ た( . 道庁の発展計画案の17兆7千億円に ) 9 4 「高度成長時代の色彩が濃すぎる」 と開発庁 が戸惑いを見せてはいたが( , 当の開発庁もまた政府投資額を 18兆1千億円としているのであるから, 道庁と同様に惰性の行政から抜け出てはいなかったことになる. 0年代前半の急激な社会経済的変化に対応するための動き が起きつつも, いまだ開発体制の行政は惰性の 7 68年 中にあったということである. 惰性の中にある以上, 開発庁と道庁の摩擦は本質的なものではない. 19 にあった経済企画庁と開発庁の対立と似たタテマエ上のものであったと言えようか. 要するに, 北海道が他の都府県並みに目前の総合計画をもつことへの開発庁の不満なのである. 国土総合 開発法では都府県のみが総合開発計画を作成することになっている (地方自治法第2条第6項では都道府県の 事務として規定されており若干の食い違いが起きている) . 既述したが, 開発庁 は開発庁の開発計画が 「同 時に北海道の行政計画としての側面も有している」 と解釈していた. そのために次のようなやりとりが起き ) 5 0 る( .. 110.
(4) . 2 ) 北海道の開発体制の形成と変容に関する考察 (. 北海道: 「つくった新計画は, 従来通り道開発法三条に基づく道の意見として内閣に提出, 国が三期計画に 代わり策定する新しい道総合開発計画の中に反映してもらうが, 同時に, 今回は, この計画を今 後 の道政 の指 針 と しても残 した い.」. 開発庁: 「なぜ従来通りではまずいのか. どうして道独自の計画が必要なのか.」 北海道: 「道の行政には最近ますます, 開発計画の範囲を越えた幅広いものが要求されている.」 このやりとりの中に, これまでの開発体制の中央集権的性格と 「土木的公共事業=北海道開発=道の主要 行政」 という発想を読み取ることができよう. 道庁が目前の計画作りを開発庁に懇願したとしても, 道庁の 独自計画の作成は従来の北海道開発法=開発庁=開発計画の体系を崩す可能性を秘めているだけに開発庁は 渋っ たのである. 開発計画は中央における予算獲得のための開発事業一覧表として役立つということはある が, 道民にとっては開発庁の開発計画の意味は薄れるものになるのは必至である. 道庁が道民の総意として の自分の計画を盾にして開発庁の国策事業に異議を唱えることもありうるのである. 従来の中央集権的な開発体制の中に, これまでとは異なる要素, 地方的であり政治的な要素を柔軟に取り 込んでいくのか, それとも開発体制を揺るがし始めるのか. これは堂垣内道政の当時においては潜在的な問 題に過ぎなかった. 安定成長の時代になっても, 開発至上主義的な発想を道庁内 (堂垣内知事は戦後の開発 官僚の頂点ともいえる人物だった) から払拭できなかっただけに, 開発体制を変えることは容易なものでは な か っ たの であろう.. ③地方の異議 7 0年代前半に始まった開発体制の変化は, これまで見てきたように計画行政の面でもあった. 道庁はもと もと北海道総合開発計画の作成に関与してきたが, 北海道発展計画という目前の自治体計画を作成するに至 っ た. こ れは確 か に変 化 で はある が, 変化 は表層 的なも の にと どま っ てい たと 言える.. 横路孝弘道政の時期に第四期北海道総合開発計画は終わり, 第五期が始まっている. 第五期開発計画は 1988年6月に閣議決定されており, 1 988年度から97年度までを計画期間としている. 1987年には横路知事が 二選を果たし, 同年11月には戦略プロジェクトを盛り込んだ 「北海道新長期総合計画」 を作成している. 第 四期開発計画にせよ, 道の北海道発展計画 ( 197 7年) にせよ, いずれも高度経済成長の惰性の中で作成され た計画であり, 現実の経済成長率は北海道1 8% ( 1980年~84年度) にとどまり, 平均成長率7%の計画値に . 1 ) 5 はまったく 及ぶものではなかった( . このような北海道経済の不振状況は苫東に代表される重工業化戦略の 踏襲を難しいもにしていた. また80年代に入り, 国は歳出抑制の行財政改革を進めたことから, 大規模プロ ジェ ク トの 事 業計画のカ タロ グと しての 計画作 り が難 しいも の にな っ て いた.1982年 に は土光 臨調 が国土庁 ,. 北海道開発庁, 沖縄開発庁の三庁の統合を答申している. 北海道の開発を取り巻く環境は, 経済的にも, 行 政 的 にも, 政 治 的にも 厳 しいも の があ っ た.. ( } 第五期開発計画には政府投資額の明示はもはやない. あるのは 「官民合わせて, おおむね60兆円程度」 5 2 という記述だけである. 北海道開発を象徴する人物・黒樫酉蔵は 「資金計画のある開発計画は北海道だけな のです. 北海道総合開発計画には予算の裏付けがあるから権威があるといわれるのです.」 と語っているが { ) そ の意 味 では 第五期 開 発 計画 に は も はや権威 がないの である 他 の都 府 県 並 み にま で レベ ル‐ ダウ ン 5 3 , , .. した. そうであれば, なおさら開発庁の開発計画と道庁が作成する発展計画と一体何が違うのか問題になら ざる をえない.. 第五期開発計画においては第四期に盛り込まれていた, 新酪農村建設は消え, 苫東については先端産業の 誘致が強調され, 新幹線についても道内の地名記述は消え, リニアの技術開発が付け加えられている. 第三 111.
(5) . 清水 敏行 期 開発 計画 か ら受 け継い できた 大規模 プロ ジェ ク トの影 は薄いもの にな っ た.. この第五期の総合開発計画で留意する点は, 一つに千歳川放水路計画が盛り込まれたことであり, もう一 つが幌延の放射性廃棄物貯蔵・研究施設について記述が盛り込まれたことである. この二つはいずれも横路 知事のリーダーシッ プによっ て政治的争点 として中央政府と北海道の間に紛争が引き起こされた問題であ る. 戦後の北海道開発史においても, このような紛争は横路知事のもとで初めて起きたものであり, 北海道 の開発体制が揺らぎ始めたことを示す変化であったと評価することができる. 以下では, 幌延問題と千歳川 放水路問題について, 地方の異議を見ることにする.. 幌延問題 第五期開発計画の中で幌延について, どのように記述するのか, それををめぐる開発庁と道庁の交渉と妥 結 につ いて は, 次のよう に整理 できる.. 第一に, 四全総が1987年6月に閣議決定され, 同年11月に北海道では北海道新長期総合計画 (以下, 新長 計と略す) が決定されているが、 両者の間で幌延の記述に違いが見られることである. 四全総では幌延につ ) こ れに対 し いて は, 具 体的 な地名 を示 して はいない も のの 「核 燃 料サイ ク ルが必 要 である」 と して いる鰻 .. て, 北海道の新長計には幌延の記述が一切ない. 後述するが, 千歳川放水路には言及があるのにもかかわら ず である.. 第二に, 開発庁は幌延に関し四全総の記述に対応した第五期開発計画を作成しようとするが, 北海道はあ くまでも幌延には反対であり, 開発計画に幌延に関連する記述を盛り込まないことを強く望んだことである. 最終的には, 第五期開発計画には 「原子力関連の研究施設等の建設については, 調査結果を踏まえ, 地元及 )という記述で決着 した. 地元に加え 「北海道」(これ 5 5 び北海道の理解と協力を得て, その推進を図る.」{ に自ずと庁が付き, 知事の理解と協力になる) が加えられている. 幌延に絶対反対の横路が知事である 限り, 幌延推進は実際には不可能になった. 第三に, 以上の過程において開発庁がとったスタンスは中央政府 (具体的には科学技術庁・動燃) と北海 道庁との間での妥協点を模索することであったということである. 開発庁は中央政府の一員としての役割を 果たそうとはするが, 最終的な段階では北海道庁の代弁者として調停者の行動を選択しせざるをえなかった. 幌延問題に関しては, 開発庁は開発計画を国の全総と一致させるよりも, 実質的には北海道の新長計と一致 させる方向を選んだということである. これは開発庁のもとに北海道庁があるという従来の開発体制の枠組みでは到底理解できないことである. 開発庁の開発計画 がすべてであった過去の時代ではなく, 北海道という政治主体を考慮しなくては総合開発 計画の文面さえままならない状況になってきたということである. 従来は予算獲得という点で利害の共通がある以上, たとえ意見の不一致があってもその調整は, 今回の幌 延問題のように 「胃の痛む思い」(開発庁計画担当者) を開発庁が道庁によっ て強いられるな どということ はなかった◎. 財政上の共通利害だけでは括ることができない, 開発庁と北海道庁の政治的な関係が顕在化 し始めてきたと言える. 第五期開発計画と新長計における幌延の記述上の不一致をもって, 道庁幹部が 「歴 ) 5 7 史的な計画案」 であると第五期開発計画を評したのは無理もないことである( . 千歳川放水路問題 千歳川放水路の洪水対策は核廃棄物貯蔵施設の幌延問題とは性質が違う. 第一に, 放水路をめぐり住民の 中で, 労組 (連合) ・社会党の中で, 市町村の中で、 それぞれ賛成と反対に分かれ厳しく対立している状況 がある. 第二に, 千歳川放水路は国の直轄事業であることに加え, 治水という北海道開発庁本来の事業であ 112.
(6) . ) 北海道の開発体制の形成と変容に関する考察 ( 2. ることである. 幌延は開発庁にとっ ては科技庁というヨソの事業であり, 北海道の開発を妨げる迷惑施設と も見られなくもない. 開発局職員の全開発労組は幌延を 「これまでの開発行政とまっ たく相いれないもの」 ) 彼 らにと っ て 原 発 の ゴミ と 開発 は相 い れな いもの であ る しか し千歳川 放水 路 で 5 8 と して 反対 している( . ‐ ,. は, 全開発労組は積極的な推進派である. 千歳川放水路事業は開発局, さらに開発庁にとって, 自分たちの 存在理由にかかわってくる事業なのである. このよう な幌延 問 題と の違 い は, 知 事のリ ー ダー シ ッ プに対 して制約要 因となる. こ のよう な状況の 中で,. 知事はどのように放水路問題を取り扱ったのか. 第一に, 幌延とは違い, 千歳川放水路は開発庁の本来的な事業であるため道知事としては異議を唱えにく いという面がある. 千歳川不水路は稲村左近四郎長官就任後の1984年7月以後, 翌年度予算の目玉事業とし て急浮上したという経緯があるが, 8 2年に土光臨調が答申した北海道開発庁の国土庁との統合を牽制するた ) 5 9 め開発庁が自己の存在価値を誇示するため押し出した面もあるとの指摘がある( 10 0 . 計画発表時で事業費2 億円, 事業期間は20年とされる. 1997年現在では総事業費が48 00億円とも言われている‐ 事業内容も, 巨大 な放水路で千歳川の流れを逆流させ太平洋に流し込むという世界でも例を見ない国家的スケールの治水事業 である. 開発庁の存在価値を証明するためにも, 開発庁・開発局が放水路事業に固執するのは無理もないこ と であ ろう.. 知事が開発庁の放水路事業に異議を唱えにくいのは, 国の直轄事業であるため権限が国にあるという事情 のためだけではなく, 第一に, 開発庁に異議を唱えることで北海道が予算面で報復を受ける恐れがあるため であり, 次に, これと関連しているが, 幌延問題で道が開発庁に無理を強いている立場上, 本命の放水路問 の 1991年7月 に 谷洋 一 題 でま で開 発庁 と の 関係 を こ じらせ たく な い と いう判 断が道 に はあ っ た か らである節 .. 開発庁長官が予算陳情で上京した横路知事に 「空港と千歳川放水路は一体の問題だ」 と述べ, 新千歳空港整 } 6 1 備の予算要求で開発庁は道に協力しない意向を伝えたとされている( . これは開発庁の報復の脅しであり, それが単なるブラフに過ぎずとも, 開発庁の開発体制に道が組み込まれていることを示すエピソードではあ る.. 第二に, 道としては放水路事業に異議を唱えることが難しい以上, 基本的には推進の立場を取ることには なるが, 住民の理解と協力を開発庁に求め, 開発庁ペースで一方的に放水路事業が進められることを牽制し た. 1987年作成の新長計では 「地元の理解と協力を得たうえで, 環境保存などに留意してすすめる 」( )と 2 .6 記述されている. 横路知事が放水路を基本的に推進するとしているから新長計に記載されるのは当然である . この点で, 幌延が新長計で無視されたことと違う. 新長計の記述を見るならば, 「地元の理解と協力を得た うえで」 という言葉を挿入した点で, 第五期総合開発の幌延に関するに記述と類似している つまり幌延で . は開発庁が国 (科技庁) と道の板挟みで苦しんだが, 放水路では道が開発庁と反対運動との板挟みで苦しむ という 格 好 にな っ て いる.. 板挟みということでは類似していても, 苦しみでは, 計画の記述問題では済まず, 道民に直接責任を負わ ざるをえない道のほうが強いということになる. 放水路問題で横路知事は推進の姿勢を示しつつも 消極的 , な態度を一貫して取り続けた. このようなスタンスは反対運動から見るならば玉虫色であり また妥協的と , も見られるものである. 1992年6月に知事が開発庁に提出した意見書で, 知事は放水路のルート変更を公式 的に求めた. この意見書では従来の 「地元の理解と協力を得たうえで」 という記述に加え 漁業問題につい , ) て 「事前に漁業関係者の同意を得て」 という記述が盛り込まれるなど( 6 3 総じて 開発庁の事業推進を牽制す , る内容のものになっている. しかし放水路事業の推進という前提のもとでの道の開発庁に対する要望である 以上, 事業そのものが中止になる展望が切り開かれたというのではない. 第三に, 地元住民の反対に加え, 市民レベルの広範な運動が形成され, 知事の政策選択に影響を及ぼした . 113.
(7) . 潜水 敏行. 横路は知事就任後に日高横断道路建設にゴーサイ ンを出すな ど, 知事選で彼を支持 した自然保護グループを 相当に失望させるといっ た事態がたびたびあった. 知事が世論を動かすこともあるが, 世論が知事を動かす こともある. 反対運動の世論は広がりと厚みをもたなくては知事を動かすだけの世論にはならない. この点 で, 千歳川放水路に対する反対運動は, 地元苫小牧市・早来町の労組・農協だけではなく, 漁協 (北海道指 た 自然保護グループが市民レ 導漁連など) , 苫小牧市・早来町の首長・議会を巻き込む形で広 がっ ていっ . ベルの反対運動の中核を担っていたが, それに一層の厚みを与えたのが, これらの労組・業界団体・自治体 である. 知事が再三述べる 「地元の理解と協力を得たう えで」 の事業着工は条件付承認とまで言えるのかは ) 実際には反対運動の広 がりによって地元の理解と協力のない状況での事業着工が開発庁 判然としないが脳 , にと っ て負 担 とな っ てき たと見る こ とができる.. これまで見てきたように, 横路知事は基本的には事業推進の立場に立ちながら, 対立する各種利害の調整 と妥協を開発庁に求め, 事業の一方的な推進を牽制 してきた. この結果, 放水路事業の着工は遅れに遅れ, いまもっ て着工の見込みはなく, それどころか事業の見直 し論議が高まりつつある. 堀達也知事が進める 「時のアセス」(時代の変化を踏まえた施策の再評価) において, 道の幹部は, 時のアセスの対象は道の実施 事業としながらも, 「国の事業でも道が負担金を出している事業については今後, 検討していくことになる」 } この よう な発 言 は, 6 5 と し, 千 歳川 放 水 路 を対 象 事 業 とす る の か どう か につ い て 今 後 検討す る と して いる( .. 0年代 19 60年代と70年代の開発庁と北海道の関係を考えるならば想像さえできないことである. 80年代から9 にかけて, この関係が変化してきたこと, その過程において北海道自身が変わり, この関係を変えてきたこ と, その中で横路知事と道民が果たした役割に留意しておく必要がある. 6 . 開発体制の財政 ここでは政府・自治体の北海道開発にかかわる財政支出について検討する. ここまでは, 北海道の独自の 計画作成と中央に対する異議申し立てを概観してきたが, これらが自治の側面における変化であるならば, 0年代から徐々に削 財政面は中央に対する北海道の従属を示すものであり, その従属性が国の主導によって6 ぎ落とされてきたと言える. ( 1) 開発予算の規模の推移 ここで言うところの開発予算とは, 開発事業費, 北海道災害復旧事業工事諸費, 北海道開発計画費, 北海 道開発計画費, 北海道開発事業指導監督費, 一般行政費を合算したものである. これらは開発庁の一般会計 に一括計上される予算であり, その内の開発事業費は一括計上された後, 関係各省の一般会計・特別会計に 移替え・繰入れされる. この財政資金の流れのほかに, 道路整備特別会計・空港整備特別会計のように, 開 発庁の開発予算を経ずに運輸省の特別会計に直接繰入れされる資金もある. 開発事業費が一般公共事業費と いう ことになるが, 開発事業費は国の直轄事業と補助事業からなり, いずれの事業においても北海道と道内 市町村の負担分があるため, これらを合算したものが道内における開発庁絡みの一般公共事業費の総額とい うことになる. 開発予算の総事業費と呼ばれるものは, 特別会計に直入された事業費及び地元負担分に開発 予算を加えた総額のことである. 公共事業の全貌を知るためには, これらの開発庁絡みの事業額だけではな く, 地元自治体の単独事業もまた把握する必要がある. 開発予算ということであるが, ここでは一般公共事業費に該当する開発事業費 (国費分のみであり地方負 担分を除く) の推移を見ることにしたい. 図2は, 1951年度から90年度までの開発事業費 が全国の一般公共 4% とな っ 事 業費 にお い て 占める比 率 の推 移 を示 した も の であ る. 1958年 度 が比 率 上 昇 の ピーク であ り, 16 ‐ 3% と な っ て い 447億 円 で, 対 全 国比 は10 6% であ り, ち な み に95年 度の 開発 事 業 費 は9 て いる. 90年 度は10 ‐ , . 114.
(8) . ) 北海道の開発体制の形成と変容に関する考察 ( 2. る. 趨勢を見るならば, 5 0年代後半が北海道開発のピーク期であり, その後は減少傾向となり, 顕著な減少 傾向は70年代半ば頃まで続き, 7 0年代後半から90年までは1 1%前後で低迷している. 5 0年代の戦後復興期には国家的な観点から北海道開発の必要性が政府レベルで強く認識されていたが, そ 0年 の後の高度経済成長期には地域開発が各地で取り組まれ, 北海道の比重が減少するようになった。 特に7 代前半のオイルショック直後には、 第三期総合開発計画が見直されるなど、 北海道開発の財政的条件は苦し いものになり、 対全国比率は1 1%程度で固定化されるようになっ た。 要するに、 北海道の特殊な地位が戦後 復興の一時期を除き、 次第に削り取られてきた過程であると言える。 8 0年代から対全国比率が横ばいになるのは、 開発庁が11%前後の予算シェア確保に懸命に努めた結果と見 ることができる。 例えば、 19 88年度の開発事業の予算編成では、 農業基盤整備事業について農家の需要を上 ( ) この不手際は、 開発 6 6 回る予算額を開発庁が要求し、 結果的に消化不能となり他県に振り向けられている。 庁が予算配分のシェアをセクショナリズム的に維持しようとする硬直した姿勢の現われとも言える。 1 1%前後で低迷しているが、 それでも北海道の公共事業費が全国的にはいまだ優遇されていることそのも のに変わりはない。 表2は、 公共事業着工額ということで、 補助事業・単独事業を合算した公共事業の着工 額を住民1人当りの金額を算出し、 都道府県を順位別に並べたものである。 北海道は21万6千円で1位になっ ている。. 対全国比率で見ることができた開発事業費の硬直化は、 開発事業費の構成比においても見出すことができ る。 開発事業費の構成項目は、 治山治水対策、 道路整備、 港湾漁業空港整備、 住宅対策、 生活環境施設整備、 農業基盤整備 (もともとは食糧増産対策費という名称)、 林道等整備、 調整費等である。 微少の額である調 査費等を除いた、 各項目の構成比率の推移 ( 1951年度~90年度) を示したのが図3である。 構成比率を見る ならば、 1950年代半ばまでは農業基盤整備費が大きく、 19 56年に道路整備費が農業基盤整備を上回り、 その ‐公園整備のための生 後は道路整備費が第1位のシェアを占め続けている。 70年代になり、 ようやく下水道・ 活環境施設整備費がわずかであるが、 漸増するようになってきた。 その後8 0年代頃より、 構成比は一定の比 率で推移するようになっている。 開発事業費の硬直化が際立ち始めたのである。. 図2 .開発事業費の一般公共事業費 (全国) に占める比率の推移 30%. 25%. 比 率 20%. 15%. ー ー ー. ▼.. ー. ・ ー. lo%. 5%. 0%. ョ【 r.J 1 11ヒ. r トヒ‘ . 1 上. 51. 53. 55. 57 59. 61. 63. 65. 67. キ. 69. 71. ー 73. 75. 77. …. ・十L‘i. L1 1 ・1. 79. 81. 87. 83. 85. 89. 年 度. (出典) 『北海道開発庁40年史』 、 北海道開発庁、 1970年、 32頁より作成。 115.
(9) . 清水 敏行. この開発事業は北海道の社会経済的な環境の変化に, どのように対応してきたのか. 50年代は国民的な食 糧難という緊急課題に北海道がこたえるために食糧増産対策事業に重点がおかれ, 60年代にはモータリゼー ショ ン時代に対応するため道路網の整備が重点政策となったと見ることができる. 70年代には高度成長の歪 みを是正するために, 下水道整備などの生活環境改善の事業費がごくわずかではあるが, 増えるようになっ た. しかし80年代以後は事業費の どの項目にも変化はなく, 安定した推移を示しており, 開発事業の重点項 目が消失した時代になったと見ることができよう. 硬直化した開発事業費は, 北海道庁の予算, 道内市町村 の予算と組み合わせられて執行される. それだけに開発事業費の硬直化は道庁, 市町村の予算運営の硬直化 にもつ な がる. 表2 990年度の住民1人当たりの公共工事着工額 .1 位 I 2 3 4 5. 6 7. 8 9 10 11 12. 13 14. 15 16 17 18. 19 20 21 22. 23 24. 都道府県名 北海道 島 根 高 .知 秋 田 新 潟 富 山 沖 縄 岩 手. 大 分 山 愛 福 宮 青 鳥 佐 長. 形 媛 島 崎 森 取 賀 野. 鹿児島 徳 茨 群 岐 長 宮. 島 城 馬 阜 崎 城. 千. 円. 216 202 202 180 180 178 176 171 170. 169 9 16 165. 159 154 153 153 149 147 136 132 131 130 130. 順. 位. 6 0 2 6 8 3 1 8 5 2%刀 2器 綿3鎚3 塾綿 3幻 3纏 4虹4嬬 鯉蛎4好. 順. 都道府県名 福 山 東 熊 滋 石 栃 広 山. 井 梨 京 本 賀 川 木 島 ロ. 和歌山 岡 三 静 兵 千 香. 山 重 岡 庫 葉 川. 神奈川 埼 大 愛 奈 福 京. 玉 阪 知 良 岡 都. 千. 円. 126 124 123. 120 119 118 117 116 116 111 110 105 104 104. 98 97 87. 81 78 77 76 62 61. 127. 2 』 9 9 (出典)『週刊 東洋経済 地域経済総覧1 、 東洋経済新報社、 14 8~149頁より作成。 ここでの公共事業の把握率は約90%とされている。. 北海道が全国的な課題にこたえられたのは食糧事情が切 迫していた50年代までのことであり, 60年代には 全国的な地域開発ブームの時代となり, 北海道は道内の開発の必要性を中央に, また国民に説得しなければ ならなくなった. なぜ北海道の内向きの開発まで国民の税金で優遇する必要があるのか, この疑問にこたえ 6 0年に町村道知事は, 北海道はすでに所得では後進県ではなく中進県になっているが, なくてはならない.19 ) 6 7 いま だ 「未開発地」 であるため, 補助金優遇措置をもって国策として開発する必要があるのだと論じた( . 北海道開発審議会の会長・黒淫酉蔵はこのような町村知事の主張を支援して, 「権利関係が単純で, しかも 入手価格がずば抜けて安い土地と水を大いに使ってもらおうという考え方です. これで国家も助かるし, 北 ) 6 8 海道がよくなるという発想です.」 と語っ ている{ . 北海道は 「未開発地」 ゆえに安価である ため, 国は思 い通りにできるから開発しても損はしないという主張である. 国家的事業として北海道開発に取り組まなけ ればならない理由としては, これ以外に残された理由はもはやないというラインまで後退したと言えよう. 116.
(10) . . 北海道の開発体制の形成と変容に関する考察 ( 2 ). 図3 .北海道開発事業費の構成比の推移. 7 1 6 3 8 5 6 5 57 59 6 1 5 3 5. 6 9 7 1 年度. 73 7 5 77. (出典) 図2と同じ、 398~401頁より作成。. 最後に, 開発予算による公共事業が道内の社会経済的側面とどのように関連しているのか, 見ておくこと にしたい. 建設業の就業者は公共事業と関連性がある. 公共事業依存の地域経済であれば, それだけ建設業 の就業者の比率は高くなる. 1995年の全国レベルの就業構造においては, 建設業の就業者が占める比率は ) 6 9 4% と な っ て い る( 10 ‐ .. 表3に見られるように、 北海道は第5位の高さになっ ている. だが北海道の人口数は上位4県のそれよりは るかに多く, 建設業の就業者数は上位各4県の3倍から4倍ほどにもなる. この就業者数と公共事業の関係を 確認するため, 道内レベルの状況を見ることにする. 表4は道内における建設業の就業者数の比率を示した ものであるが, 14支庁の中で最も高い比率の支庁は桧山支庁の17%である. 桧山支庁に続くのは, 留萌支庁 の14 7%, 胆 振 支庁 の13 9% である. ‐ ‐. 表3 1995年度) .建設業の就業者数の比率 ( 単位%. 順 位. 表4 .道内支庁の建設業就業者数の比率 単位%. T i り”“ { Uj A Tr oハ h V. 都道府県名. 比率. 支. 庁. 沖縄県 青森県. 13 8 . 12 8 . 12 7 ‐ 12 7 . 12 5 . 12 4 .. 石 渡 桧 後 空 上 留. 狩 島 山 志 知 川 萌. 秋田県. 大分県 北海道 新潟県. (出典) 『日本統計年鑑』 9 6年、 、 19 88頁より作成。. ‘六. 谷. 網. 走. 胆 振 日 十 釧. 高 勝 路. 根 室. 比. 率. 13 12 17 11 4 ‐ I 11 . 11 3 . 14 7 ‐ 12 9 . 112 13 9 . 12 7 ‐ 12 2 , 11 5 ‐ 9 6 .. (出典) 桧山地域人口定住化対策懇話会、 『地域社会崩壊の危機を乗り越えて』 、 199 3年、 12頁より作成。. 117.
(11) . 清水 敏行. 次に表5であるが, これは支庁の人口と公共事業請負額について道内のシェアを示したものである. 桧山 2%になっている. いずれも他の支庁に比べ規模がきわめて小 は人口比が1 1%, 公共事業請負額の比率が3 . . さい. 公共事業請負額の比率を人口比で割った数値は, この二つの比率の釣り合いを見たものである. この 9で一番高く, 留萌支 数値が高いほ ど, 人口に比べ公共事業請負額が大きいということになる. 桧山支庁は2 . 6が続 い て いる. こ の 数値 が高 い という こと は, 地 域 経 済 にお いて 公 共 事業 の比 重 が 庁 の2 8 ‐ . , 宗 谷 支庁 の2. 大きいということと無関係ではない. 実際に桧山支庁は, 先ほど見たように建設業の就業者数の比率が道内 で一番高く, 留萌支庁が第2位となっ ている. 関連性が確認できる. 要するに, 桧山支庁・留萌支庁につい ては, 地域経済における建設業の比重が大きく, 公共事業絡みの建設業に従事することで家計を成り立たせ る住民が多いと言える. この桧山支庁・留萌支庁に共通する他の特徴は, 人口の減少率と高齢化率において 2%で第1位であり, 高齢 19 85年~90年) では10 も上位にあるということである. 桧山支庁は人口の減少率 ( . 2年) でも18 5%で第1位となっている. 桧山支庁・留萌支庁では, 過疎化と高齢化が著しく進行し 化率 ( 199 . ている. 過疎化と高齢化が進む中で, 地域経済がますます公共事業依存にのめり込んでいかざるをえない状 況を見ることができよう. 北海道開発には千歳川放水路, 苫東のように目玉になる大規模公共事業が掲げら れてきたが, 疲弊した地域経済であればあるほ どに開発事業に依存するというように開発事業の裾野は広い. 990年) 1 表5 .道内支庁の人口と公共工事請負額の比率 (. 支 庁. ,. 石 狩 渡 島 桧 山 後 志 空 知 上 川 留 萌 宗 谷 網 走 胆 振 日高 十 勝 釧 路 根 室 全 体. 人. 口. 35 9 . 6 8 . 1 I ‐ 5. I 4 7 . 10 4 1 . 6 1 ‐ 63 9 7 . 17 6 3 . 2 5.. 公共工事請負額 公共工事請負額/人口 20 6 ‐ 5 2 3. 5‐ 9 11 5 . 9 3‐ 9 4 2 . 8 3 . I 7. 6 3.. 1 6 ‐. 10 4 3 . 2 9 .. 100%. 100%. 0 6 . 0 6 . 2 9 ‐ 1 2 ‐ 1 6 ‐ 0 9 . 2 8 . 2 6 . 1 3 . 9 0 ‐ 2 I . 1 6 . 0 8 . 1. 8 1 O .. (出典) 表6と同じ、 1 3頁より作成。. ( ) 北海道の財政的優遇 2 北海道開発には, 北海道特例と言われる国庫補助・負担の特例が設けられている. 財政的に他の地域より 50年制定の北海道開発法により北海道開発を国家的な事業として位置づけ 優遇されてきた理由は, 第一に19 たこと, 第二に都府県並みの財政負担では北海道の自治体が財政的に困難になること, 第三に歴史的にも国 7 0 ) す で に述 べ たよう に 全 国の一 般公 共事業 費 の11% が開発 を費用 負 担 してき た こ とである とさ れて いる( , .. を北海道の開発事業費が占めるということは, やはり北海道特例による補助金の嵩上げ (嵩上げのほかにも, 都府県では補助事業なのに道では直轄事業にするなどという特例もある) , さらに直轄事業における負担率 の低率化 (全額国庫負担のように) とは無関係ではない. このほかにも, 例えば開発道路と呼ばれる特例措 置がある. 一般国道, 道道, 市町村道で主務大臣が開発のために特に必要と認めて指定した開発道路の事業 施行の費用は特例扱いされ, 全額国庫負担とされていた (その後地元負担金が課せられるようになったが) . 北海道開発もまた公共事業であるように, 補助事業と直轄事業がある. 補助事業であれば補助裏として地 118.
(12) . 2 ) 北海道の開発体制の形成と変容に関する考察 (. 元負担がある. また直轄事業であっ ても地元負担があることもある. 道や市町村にしてみれば, 補助事業に 比べ地元負担が少ない直轄事業のほうが望ましい. 開発予算の編成において地元は補助率・負担率の増減だ けではなく, 直轄と補助の比率にもまた一喜一憂する. 直轄の減少は補助の増大であり, 補助裏をしなくて 60年のときで はならない道・市町村にとっ ては財政圧迫になるからである. 開発事業費が上げ潮であった19 さえ, 開発事業実施のために道の負担が年々7 , 8億円ほど増え続け 「道の財政の運営を制約する」 だけでは ) 7 1 なく, 市町村にもまた 「大きな負担」 をかけていると道庁幹部が財政的な苦しさを吐露している( . 負担は 市町村だけではなく, さらに住民が直接負うこともある. 例えば, 1988年度予算では市町村や農家の負担が 大きい農業基盤整備事業を一部, 補助事業から直轄事業に振り替えることで, 「地元負担増による事業の消 化不能を心配しなくてもよいのではないか」 と開発庁予算課が期待していたが, 現実には農家の消極的な反 ) 2 7 応により消化不能分が前年度に引き続き出るという事態となった( . 地元は負担増を嫌うから, 当然に開発 庁は補助率・負担率とともに直轄・補助事業の構成比にも神経質にならざるをえない. 図4は開発事業費における直轄・補助の構成比の推移を示したものであるが, 直轄事業は1960年度, 61年 度の75% を ピー ク に してそ の後漸 減傾 向にあ り, 80年代 以後 は50%前後 で安定 した趨 勢 を見 せ ている. こ の. ような曲線は, 全国の一般公共事業費に開発事業費が占める比率の推移を示した図2の曲線とほぼ重なっ て いる. つ まり ピー ク はほ ぼ60年前 後 にあり, そ の後 は漸 減傾 向 にな っ ている. この こ と は, こ れか ら取り 上. げる北海道特例の動きとも関連性がある. 図4 .開発事業費における直轄・補助別構成比の推移. 100% 90% 80%. 、 、、 ・; ・. 70%. 補 助. . 40% 30% 20% 10% 0% 51. 54 57 60 63 66 69 72 75. 78. 81 84 87 90 93. 年度 (出典) 図2と同じ、 35頁より作成。. 北海道特例は開発事業の道内自治体の負担を特に軽減するものであるが, その根拠は法律・施行令と予算 措置にあるとされている. 地方財政法第35条・北海道に関する特例は, 補助事業に関する特例の総則的な規 定である. 各論的に様々な法令が直轄事業も含め特例措置を規定している. 例えば, 河川法・同施行令, 漁 ) 7 3 港法・同施行令, 空港整備法・同施行令, 道路法・同施行令, 土地改良法施行令などがある( . 具体 的 に, どの よう な特例 がある の か. 例 え ば, 1968年 度 で は一 般 国道 の直轄 事 業 につ いて は (道 路法 ・. 同施行令の規定) 0年度まで一次改築が全額国庫負担であった. 他府県の負担は3/ , 69年度まで二次改築, 7 4であり, 北海道が優遇されていた. 二次改築が7 0年度からは9/10 1年度から9 5/10 , 一次改築が7 . , さらに ) 7 4 2年度からは9/10に変更された( 7 0 . 1992年の資料によれば, 一般国道の改築直轄事業は北海道が8/1 ,他 ( ) 7 5 府 県 は2/3 . 5/10 , 沖 縄 特例 が9 , そ の他 の 特 例8/10 (離 島) と な っ て いる . 60年代 ま で は特 例 がまさ 119.
(13) . 清水 敏行. に特例であったが, その後は削ぎ落とされ続け, 北海道と他府県との開きが2 3%にまで縮まってい 5%から1 る. 沖縄特例よりも国の負担分が削られ, その他の特例 (離島) と同じ率になっている. 北海道特例については19 60年前後から再検討が始まっている. 60年代が問題提起の時期であるとするなら ば, 70年代は措置の見直し開始の時期である. 70年度から3ヵ年間の見直しにより, 特例の典型であった全 額国庫負担事業が解消されている. この背景は, 北海道が他の地域の開発と競合しており, 北海道がみずか らを 「未開発地」 として特例措置を正当化しようにも説得力を失ってきたことがある. すでに前篇で論じた が, 第三期総合開発計画と新全総の相互の関連付けで, 開発庁と経済企画庁が対立したことも, 特例措置の 見直しと無関係ではない. その後8 0年代にも行政改革により特例措置が削減されている. 開発体制の財政運営ということでは, 北海道の優遇措置が骨格になっており, 開発事業は経済力のない地 域 経済 にと っ て 欠かせ ないも の にな っ て いる. 国の保 護 は国 にと っ て は取り 上 げる だ けの こと である. だが. 保護に依存してきた道内自治体の財政運営は, 事業項目のシェアに変化のない硬直化した開発予算によっ て 制約を受けている. 優遇措置が切りつめられれば切りつめられるほ どに, 道内の自治体は一層の負担を強い られ, 自主的な財政運営に制約を受けることになる. 補助金の問題は北海道特殊のことな どではないが, 全 国の一般公共事業費における開発事業費のシェアが示すように北海道の開発事業は国家的事業として取り組 まれてきただけに, 問題は一層 深刻にならざるをえない. 中央政府と北海道における, このような保護と従 属の関係が開発体制のもとで作り出され, 財政的には北海道特例として, いまもって維持されている. 7 . むすび. これまで北海道の開発体制について計画 (中央政府内部の次元と中央・地方関係の次元) , 地方の異議, 財政移転の三つの観点から考察してきた. 19 50年代初頭に形成された開発体制は, 開発庁・開発局の組織体 制, 北海道総合開発計画, 開発予算の三つからなる. この開発体制はその後, 内部的に何ら変化なく持続し 0年代には組識防衛的な局面が現われ始めな 0年代は上げ潮の時期であっ たが, 6 てきたというのではない. 5 がらも拡大局面が続き, 7 0年代に至り守勢よりも後退的局な面に入り, 80年代以後は鯵着状態が続いている と言えよう. このような中央政府レベルの変化が北海道に及ぶなかで, 北海道が自治体として自己の存在を いか に確立 しよう と してきたの か. そ れは ジレンマ そのも のである.. 北海道特例で優遇される開発予算に依存しながら, 北海道が自立に進もうとするには難しいものがある. 80年代頃より開発事業費は硬直化の傾向を強め始め, 中央政府によって道と市町村に課せられる大規模開発 が道民の反対運動を引き起こすという局面が目立ち始めるようになる.80年代以後の自然環境保護の争点は, かつて 「未開発地」 として中央政府の開発に北海道を差し出してきたことに対する道民自身の反省 と異議の 申し立てであり, 北海道の自立への前進であったと見ることができる. 開発体制と自立が調和することが難 しくなれば, 一方で中央政府と北海道の関係を再設定することが必要となり, 他方で道内の対立する利害を 調整し新たに統合することも必要になる. 開発庁へと収徴する総合開発計画と開発予算の枠組みの中に様々 な利害が積み上げられ調整されることが難しい状況では, 北海道知事を始めとする自治体の首長が開発体制 の枠組みを越え, 政治的な判断と働きかけによって新たな構図を設計し道民に示さなければならない. 開発 体制の揺らぎの中で, そのような政治的リーダーシップが道知事に望まれ, か細いものであるが発揮されて きたこと, そしてその制約条件となる開発体制の行政的・財政的な枠組みを論じるのが本稿の目的であった.. 120.
(14) . ) 2 北海道の開発体制の形成と変容に関する考察 (. 引用文献 9 7 4頁. 5年, 3 ( ) 黒浄酉蔵, 『北海道開発回顧録』 4 0 , 北海タイムス社, 1 9 8 2 5頁. 7年, 1 ( )『北海道議会史 第8巻』 4 1 , 北海道議会, 1 ( ) 第三期 開発計画の見直 しにつ いては, 前掲 『戦後の北海道 道政編』 42 , 316~319頁‐ ( ) 同上, 348頁‐ 43. 0年, 1 6 7頁. 9 8 ( ) 北海道未来総合研究所編, 『自立経済への挑戦 北海道開発への新視点』 4 4 , 日本経済新聞社, 1 ( ) 同上, 144頁‐ 45. 5 4頁‐ ( ) 蓮池稔, 前掲論文, 1 4 6 ( ) 同上. 47 ( ) 「北海道新聞」 48 , 1976年12月23日‐ ) 同上. ( 49. 0頁. ) 前掲 『戦後の北海道 道政編』 5 ( 5 0 ,3 9 8 7年, 4頁. ( )『北海道新長期総合計画 基本計画編』(以下, 新長計と略す) 5 1 , 北海道, 1 ) 『40年史』 ( 52 , 321頁. ) 黒洋, 前掲書, 52~53頁‐ ( 53. ( )「北海道新聞」 8 8年2月9日. 9 5 4 ,1 ( )「第五期北海道総合開発計画」 4 0年史』 3 1頁‐ 5 5 ,3 ,『 ( ) 「北海道新聞」 56 , 1988年5月25日‐ ( ) 同上. 57 ( ) 「北海道新 聞」 58 , 1988年2月19日.. )「北海道新聞」 4日‐ 千歳川放水路問題については, 自治労苫小牧市職員労働組合自治研究推進委員会, 『千 ( 9 8 4年1 0月2 5 9 ,1 歳川放水路を検証する (改訂版)』 9 9 4年7月, (財) 日本野鳥の会保護・調査センター, 『最近の千歳川放水路計画をめ ,1 ぐる動き 1996‐1997年 を 中心 に』 , 『週刊 金曜日』 , , 1997年7月, 小 野有 五, 「『ム ダな ダム』 は今 こ そ止 める べ き だ」 1997年3月14日, 30~33頁, な どを参考に した.. ( )1 0 98 4年1 0月に道議会で横路知事が千歳川放水路推進を表明したことの背景について, 知事の苫東破綻発言や幌延誘致反 6 対発言で開発庁と道の間で対立が表面化しており, 「道開発庁の激しい ”突き上むr を受け, 同庁の目玉事業となろうと している放水路計画に手を貸すことで政治的な妥協を図ろうとしたとみられるからだ‐」 と道新記事は説明している. 「北海道新 聞」 , 1984年10月16日‐ ) 「北海道新聞」 ( 61 , 1991年7月31日. ( ) 『新長計』 62 , 152頁. ( ) 「北海道新聞」 63 , 1992年6月10日.. ( )1 6 4 9 8 7年夏に来年度の予算に放水路の事業着工費を要求するという開発庁に, 知事は住民の合意を得るようにと開発庁に 述べるにとどまり, 開発庁では知事が事実上, 事業着手を了承したものと受け止めたとの指摘がある. 「北海道新聞」 , 1987年8月21日‐ ( ) 「北海道新聞」 65 , 1997年1月9日. 時のアセス につ いては, 函館・松倉川を考える 会編, 『清流 松倉j= -私たちの川, いまダ ム問題を考える』 , 幻 洋社, 1997年, 特 に第6章, 参照. ) 「北海道新聞」 ( 66 , 1998年8月12日‐ ( ) 前掲 『北海道開発回顧録』 67 , 515~516頁‐ ( 68 ) 同上, 532頁. その後のことであるが, 例え ば日高横 断道路 について は, 過疎の対応 と してではなく, ただ道路密 度に隙. 「朝日新聞」1 間があるから道路を造るという開発庁の論理が指摘されるている ( 9 8 4年1 0月2 7日夕刊) ‐ 開発庁の生き残 りのためという側面もあるが, 長い眼で見れば, 町村知事や黒洋が提起した 「未開発地」 という発想が北海道の自然環 境を中央省庁の省 益に従属 させたことの結果とも見ることができる. ( ) 『日本統計年鑑』 69 , 1996年, 88頁‐ ( )『 70 30年史』 , 223頁.. ( )「座談会 北海道の行政と総合開発」 1月号, 5 9 6 0年1 0~5 7 1 1頁‐ , 『北海評論』 ,1 ( 72 ) 「北海道新聞」 , 1988年1月9日, 8月12日.. ( ) 詳しくは, 『北海道と他府県との補助率等の比較調 -開発公共事業について-』 9 9年7月, 参 5 7 3 , 北海道総務部地方課, 1 . 121.
(15) . 清水 敏行. ( )『北海道開発局2 7 4 5年史』 9 7 7年, 6 8頁. , 北海道開発局, 1 ( ) 武藤博己, 「公共事業」 7 5 9 9 4年, 2 6 5頁‐ , 西尾勝・村松岐夫編集, 『講座行政学 第3巻』 , 有斐閣, 1. 122.
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