中世東国における熊野先達の存在形態
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(2) 論文目次. はじめに :一::−−::一−:−−−−−−−:一−−:::−−::一::::::一﹂:−−−−−−. 序章 熊野修験組織の成立;:::::::−一:::::ーー::::2 第一節 山岳宗教と修験道 −−−−−−::一:−−−:−−:一:−−−−−:−−:2 第二節 宗派修験の成立 −一:−−−−::−−:−:−:−:−−:−−−:−−::5. 第一章 鎌倉末南北朝期の東国における先達 −−−:−:::−−−−−::10 第一節 先達の登場 ::−−−::−−−−:−−:−−−:::::−−:−:一:−10. 師 ・ 先 達 ・ 檀 那 の関 −−:::−−:−:−−:−−−:−:−−−5 第 二 節 御 係 1 第三節 先達職の形成と安堵 :−:一−:−−::一1:−−::−一−−−−27. 南陸奥における先達 ⋮−:. 一⋮⋮⋮⋮⋮⋮−一⋮⋮⋮−一−38. ⋮⋮⋮:⋮⋮⋮−−⋮:⋮⋮:38. 第二章 室町期の東国における先達 ::−−::−−:−−−:−−−:::−−:38. 第一節. 1 聖護院の登場 2 先達間の相論 ⋮: −⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮⋮⋮43 関東における先達 :一⋮⋮−⋮⋮−−⋮⋮⋮⋮訂 1 ﹁下中衆会﹂ ⋮⋮ :⋮−⋮⋮:⋮⋮::⋮⋮−⋮57. 2 関東八か国先達組織 ⋮−⋮⋮−⋮⋮、−⋮⋮−−61. 戦下期関東における年行事の存在形態 ⋮:::−−−−:一−−76 年行事職の成立 ⋮−:::−::−:−−−:−:−−:⋮:−−−−:76. 2 年行事間の相論 :−:一−:−:−−−:−:−−−−−−::−−−−−−−05. 1 先達組織の変化 −−−−:−:−−:−−:−::一:−::−:−−:97. 聖護院支配の展開 ::−−:−−:−−:一−:::−:−−−::−−−7 9. 3 年行事職の成立 :−−⋮−−−:::−−−⋮:−−−:::−−:93. 2 年行事職と檀那職 :−:−−−:−:−:−:−:−:−:、−:−:的. 1 年行事職と﹁先達職﹂ ⋮−−⋮:−−:⋮−−::⋮−−−76. 節. 第二節. 第二上. 七章. 51 :−−:−−::一:−−:−:−−:−:−:,::−:−:−−:−−:−:一−−−:−・9臼 1. 2 先達に対する軍役 :−:−::−−−−−:−−−−−:−−−::−:−π. 1 毛三節 後北条氏と領国内先達 :−:−:−−:−−:−−−:一−−−−:−:B 1 1 年行事支配の形態 :一−−:::−−−:−:−−−:−−−−::一13 1 結 論. 第.
(3) 挿表目次. 挿図目次. 第1表 第2表. 第3表 第4表 第5表 第6表 第7表. 第1上 下2図 工3図 上4図. ﹂1 − . l I I I I I ﹁ 1 1 1 1 1 1 1 . 一 . I I . 2. ⋮:一:⋮:︸一⋮:−﹂−⋮:﹁⋮⋮−:−⋮9. 1 1 1 − l I I 一 一 ー. : : − :− −⋮ :: :: [ ⋮ : ⋮ − : ⋮−− : − : 82. lIIIF1111−I⋮ I一 !ト :ー −− :l 一I:−:−−:−:−−⋮:、⋮:−−−−−0. 3 1. ー I I I I 一 一 一 1 − l I I I 一 一 I . 圏F I I l I I − − . l I − 1 一 一 I I I I 一 一 I I l − I . −:−−⋮:−⋮::−−−⋮:⋮⋮⋮⋮⋮6 − 6 :⋮ ⋮− ト⋮ E﹁ −: :: に⋮ :﹁ : : : ⋮ − : −, 73. 1 一 一 1 1 1 1 1 1 1 1 一 一 1 1 1 − . EF ﹂ l I I I I E ﹁ I I I l I I I −. ー .I I I 一 一 l I I I I I 一 一 − I l . ⋮:⋮⋮:⋮⋮:ト⋮⋮−﹁⋮⋮⋮−−−6 5 −−:::﹁:−−−−:﹁:−::−::−:−:−−−:8 5 −−:−−:−−−:﹁:−::﹁:−::[−一−−:::−8 − 7. l l I I 一 一 I I − I I I I − I I 一 ー. l I I I 一 一 1 1 − I I I I 一 . i − I l − I l I 一 一 − 1 − I I I I −. トー . 一−−−−:−−:−−−:ト:一−−:一:−−:::−−−−−9臼 1 −−−:−−:−::−:﹁−−:−::−−i::ト:−:ーヴ8 1 :−::−:−−−:−−−:−:一:−::−−−:−−−:6 2. E. l. I. 1. I. I.
(4) 1. 2. はじめに. 従来の宗教研究は、その宗派の教義を出発点として捉え、受容者側の信仰形態は教説に即した形 で考えられてきた。しかし、信仰の問題は、それを支える社会的・経済的・政治的条件と複雑に絡 み合った形で存在しており、宗教史研究はむしろ信仰を支える諸条件にも視点を当てていく必要が ある。. 仏教や神道については、その研究史は長いが、それらの中間ともいうべき位置にあった修験道史 については、それほどメスが入れられていない。総合的に修験道史を扱ったものでは、和歌森太郎 氏の﹃修験道史研究﹄ ︵河出書房、昭和一八年︶・﹃山伏﹄ ︵中央公論社、昭和三九年︶や村山修. 一氏の﹃山伏の歴史﹄ ︵塙書房、昭和四五年︶等があり、地域的な修験道史を扱ったものでは、宮 地直一氏の﹃熊野三山の史的研究﹄ ︵国民信仰研究所、昭和二九年︶や戸川受章氏の﹃出羽三山修 験道の研究﹄ ︵佼成出版社、昭和四八年︶等がある。しかし、最も代表的な和歌森太郎氏の﹃修験. 道史研究﹄においても、中世以前の先達組織や諸権力との関係、聖護院による支配組織については ほとんど明らかにされていない。これらの未解明の部分を宗教史から離れて、歴史的に解明を試み たい。中世の修験道史を担ったのが先達であるが、その存在形態についてはいまだ不十分な解明に とどまっている。そこで本稿では、熊野先達の存在形態を明らかにしたい。考察の対象を東国にお くのは、比較的に関係史料が豊富であることと、中世を通じで先達の動きをたどることができるか らである。. 序章 熊野修験組織の成立 第一節 山岳宗教と修験道. 山岳信仰を基盤にして山岳宗教としての修験道が成立したことについては、既にいくつかの研究 がなされている。ここでは、和歌森太郎氏の研究を中心にして、これまでの研究の成果を整理して ハれ . おきたい。. 日本において、いくつかの固有信仰が古来より存在したが、その一つの山岳信仰は各地に存在し た。代表的なものとして東北では出羽三山、関東では日光二荒山、相模の大山、伊豆の走湯・箱根、. 中部では富士山や越中の立山、加賀の白山、中国地方では伯書の大山、四国では伊予の石槌、九州 では英彦山等が知られている。とりわけ、近畿地方の大峰を中心にした吉野から熊野にかけての一 帯は、後に修験道の根本道場となる所である。これらの山の他にも山岳信仰の山はあり、それぞれ の地域において人々は信仰の山を有していた。それらの信仰を支えたのは、祖霊信仰や山中他界信 仰等であるといわれている。. 外来の諸宗教が伝来すると、固有の諸信仰との間で習合が行われるが、とりわけ体系化された仏 教は他の諸信仰に様々な影響を与えた。 一方、国家は諸宗教の管理統制を図ろうとするが、律令体. 制下においても、僧尼令の規定に反して禁圧の対象となったものの中には固有信仰に関わると思わ.
(5) 3. 4. ハユけ れるものがみられた。. ⋮奈良時代の役小角は修験道の開祖とされるが、文武天皇の代に、怪しげな予言めいたことを言い ハつつッ. 伝えて世間を惑わしたとして処罰された人物である。大和の葛城山に住み呪術をもって評判だった といわれでいるから彼の性格はシャーマンとみなすことができるが、そのような山岳修行者は各地 の山にいくらでもいたことと思われる。. 奈良時代も半ばを過ぎると、それまで並行していた山岳信仰と仏教とば接近し始める。すなわち、. それまでは津南学派の仏教としての南都仏教が山岳信仰に注目し始め、遊行僧や山岳修行僧は数を 増していった。もともと鎮護国家のための呪力を国家から期待されていた南都仏教であった加湿㌧ 呪力を体得するための山林修行は当然視されたのである。. 平安初期に成立した天台・真言両点はこうした流れの中で成立した。これらの密教系宗派の修行 僧にとっては厳しい修行によって術法は錬磨され、加持祈禧は効験を現すものと考えられた。それ らの修行の場として脚光を浴びたのが、以前から山岳信仰のあった山々である。効験を修めたもの を修験者といい、以前からの山岳修行者や仏教徒の中から現れてきた。こうして、固有の山岳信仰 と天台・真言両宗の密教系信仰が融合して、独自の宗教形態としての修験道が起こってきた。. ところで、地方.民間においては白鳳期以降次第に観音菩薩に現世利益を求める観音信仰が普及 してくるが、続いて十世紀頃に隆盛をみせた浄土信仰とあいまって観音の浄土である補陀落の下定 ハヨ . 地が求められ始めた。近畿地方では熊野が擬定されたが、東国下野においては二荒山が擬定地とさ ハるソ れた。フタラサンという名は補陀落から起こったものである。このことからも、熊野と二荒、すな. わち、中央と地方の山岳に対する固有信仰は元来、それぞれ独自に存在したことが知られる。さら にこのことは、同時に、元来個別的に存在した山岳信仰を越える一定の普遍性を持った山岳宗教と しての修験道が成立していたこともうかがわせるものである。. 修験道の本尊は、金剛蔵王菩薩、いわゆる蔵王菩薩である。このような本来の仏典に現れない蔵 王権現が修験道の本尊になった事情については、役小角の伝説の中で説明されてし靭価すなわち、. 役小角が大峰で修行中、煩悩にさいなまれ禅定の境地に至ることができず、験力を強める修法にも 集中できなかった。偉大な菩薩が現れてくれることを願ったものの、出現した諸仏には満足できな いでいたが、遂に蔵王権現が現れて悟りを得ることができたという。. この伝説は、修験道が仏教的な体系を整えながらも、それとは全く同一ではなく、独自の位置を 占めることを示すものとざれている。また、修験の山々が、たとえば、下野二荒山が勝道上人、加 賀白山が泰澄というようにそれぞれに異なる祖師を持つことは、補陀落信仰という共通基盤を持ち ながらも、それぞれの地域の修行単位をもとにして独自の組織化が進んだことを物語っている。. このように、修行の場として同一の山、同一の修行形態、同一の祖師を持つ修験者達は、次第に 結集し、集団化した。このような動きは中央の山岳に限られたものではなく、時期の差はあれ、各 地においてみられたと考えてよいだろう。. このように、山岳信仰を基盤とした山岳宗教としての修験道は、仏教の展開に伴って、それに対 応しながら成立した。山に臥して修行する山伏という山岳宗教の担い手である修験者は、その修行 形態の特異性から、仏教徒とは一線を画し、効験を現す験者、参詣者を導く先達、参詣者のために.
(6) 5. 6. 祈濤を行い宿坊を持つ御師と、その機能を細分化していくことになる。 第二節 宗派修験の成立 きレ 修験道には本山派、当山派の二大宗派とその他若干の宗派がある。ここでは、本論に関係する本 山派と当山派の両派について概観してみたい。. 本山派は京都聖護院を組織の頂点とする修験の一派である、寛治四︵一〇九〇︶年正月二二日、 ハリノね. 白河上皇の熊野参詣の際、 ﹁熊野三山検校﹂が置かれ、先達として引導した三井寺の僧増量が補任. された。この﹁熊野三山検校﹂は、実態は不明であるが熊野三山を統括する役職であり、増誉以後 ︹10い も原則として代々寺門派の僧が任じられたらしい。また、増誉は﹁聖体護持﹂の一寺として白河上 りい 皇より聖護院を与えられたと伝える。 ︵尼︶ 後白河天皇の皇子静恵法親王が第四代の聖護院長吏になり、聖護院は宮門跡としてその権威を高 めることになった。なお、この静恵法親王が熊野方面に所領を持っていた関係で、聖護院と熊野と ︵β︶ ︵4︶. の関係がにわかに強まったとされているが、この所論には少なからず疑問がある。ともあれ、正和 ︵β︶ 二︵一三=二︶年七月一一日、三井寺の長吏覚助法親王が大峰に入って以来、聖護院門跡が熊野に 入峯すれば、聖護院に属する高僧達も必ず峰入り修行をする慣行が成立した。こうして鎌倉時代末 期に聖護院は台密に依存する山伏達の象徴となり、本山派がほぼ組織づけられたことになる。. これに対し当山派は、醍醐寺の三宝院を頂点とする修験の一派で、真言密教系の山伏の組織であ. る。醍醐寺の開祖聖宝︵電源大師︶は、 ﹁修験中興の祖﹂ともいわれ、当山派の開祖とされた。. さて、熊野と聖護院との関係については後述することにして、宗派としての組織化がいつ頃見ら ︵16︶. れたかについて述べてみよう。この点に関して、和歌森太郎氏が早くから注目されている事例があ る.”すなわち、大和国石走村は、貞応年間︵一二二二∼一二二四︶、 ﹁号靹淵之堺境内、自八幡相. 語当国守護代、無故﹂く打ち取られたまま数十年経って、正嘉年中︵一二五七∼一二五九︶村内天 野社に属した﹁長床衆﹂と称する山伏は、藤原盗心を戴き、これを訴えようとした。ところが、そ ︵隙︶ の時、 ﹁聡慧神人等伺陳乱入野村﹂し、数輩の山伏を刃傷し、残りを追いやった。これに対し、. 誓心等相具山伏、入部石走村、追出神人鎮狼籍 めたという。この問題が落着しないうちに、また山伏殺害のことがあったので、. 大和国三ヶ暖和泉国四ヶ寺乃至仁和寺檀林房等両山王達廿余人同心雪天、熊野金峯之山伏等仁 相触天、於武家致其沙汰、山伏之墓所ト志州知行之、簑為諸掛御使長息山伏下向 という。この事例について和歌森太郎氏は次のように解釈されている。すなわち、 ﹁当時の山臥. 社会はそれ自体として独自な統一観念を持ちながらも、さらにそれは熊野山臥星群、金型山臥衆群 とに分れ、諸々の山臥衆はそのいずれかに包摂されていたこと、しかし両者はまだ対抗的にはなら ず、むしろ山臥社会全般としての結束をなす可能性が強かったけれど、よく注意すると、次第に各 山臥衆がそれぞれの衆群いずれかに片寄って、はっきり熊野山臥結合体、金貸山臥結合体に分割さ ︵η︶ れようとする状態にかかっていた﹂とされる。 このような解釈に対し、筆者は、和歌森氏も着目されている﹁壮重拾葉集﹂巻六の﹁金上側を金.
(7) ﹁f. 8. 剛三昧耶形、熊野側を胎蔵三昧耶形﹂という差別観を重視したい。この記録は、光宗が一三一一﹁ 四七︵応長元−貞和三︶年間に筆録した天台宗の仏教思想書である。この差別観について和歌森氏 は﹁差別観を縁故として、それぞれ共通の同類意識に基く二大山伏衆群に分かたれていた以上に、. さらに積極的結束性をもつ二大結合体と化していた。少なくも結合体化し得るとの自信が各衆群に あったことを認め得る﹂と極めて慎重な言い回しをしておられるが、この差別観に加え、先に示し. ︵β︶. た事例で﹁両山先達﹂とか﹁熊野金峯之山臥等﹂とみえることをもって、熊野と高峯を中心とする 二大宗派に分立していたとみなしてもよいのではなかろうか。. し炬がって、和歌森氏は、修験道の宗派組織の確立期を室町時代の初期から戦国時代とされてい るが、遅くとも鎌倉時代末期から南北朝期には二大宗派の組織化が完了していたと考えたい。. ︵れ︶前掲﹁寺門伝記補録﹂. ことは確実である﹂と述べられている。. ︵m︶同素。なお、前掲﹃修験道史研究﹄一九五頁で、 ﹁承久頃にはこの補任が慣例視されていた. ︵9> ﹁熊野山検校次第﹂ ︵増補改訂日本大蔵経︶・﹁寺門伝記補録﹂ ︵大日本仏教全書︶. ︵8︶出羽三山の羽黒派等、独自性の強い宗派が.ある。. ︵7︶.﹃沙石集﹄ ︵岩波古典文学大系︶. ︵6︶前掲﹃山伏﹄四ニー四三頁. ︵5︶速水侑﹃観音信仰﹄塙書房、昭和四五年、九八・一一三頁. ︵4︶井上光貞﹃日本の古代国家と仏教﹄岩波書店、昭和四六年、前編第二章、三三頁. 汲水採薪、若不用命即以四几縛之﹂とある。. 術称、外従五位下韓国連広足師焉、後害認諾議以妖惑、幕軍置処、世相伝言、小角能役使鬼神、. ︵3︶ ﹃続日本紀﹄文武天皇三年五月二四日条に﹁役君小角流玉伊豆島、初小角住於葛木山、以開几. 用占術也﹂とある。. ︵2︶ ﹃続日本紀﹄和銅七年五月十一日条に﹁沙門義法還俗、姓大津連、辞意砒登、授従五位下為. 和歌森太郎﹃山岳宗教の成立と展開﹄名著出版、昭和五〇年. 和歌森太郎﹃山伏﹄中公新書、昭和三九年. ︵1︶和歌森太郎﹃修験道史研究﹄平凡社、昭和四七年. 注.
(8) 9. 10. ︵12︶ ﹃吉記﹄ ︵増補史料大成︶元暦二年正月七日条、 ﹃玉葉﹄建久三年正月二〇三条、 ﹃明月記﹄. 建久三年四月二六日条 ︵31︶泌剛掲 ﹃山伏﹄ 一〇六頁. ︵14︶ ﹃明月記﹄建仁元年一〇月十日条の﹁萩薄遙靡 眺望与力、此辺高家云々、聖護院井民部卿. 領云々﹂の記事を根拠とされているが、 ﹁高家﹂は現在の和歌山市︵日高川河口付近︶に近い 場所であり、熊野に所領を持っていたわけではない。 ︵15︶ ﹃花園天皇震記﹄ ︵増補史料大成︶正和二年七月一一カ条に﹁今日曉聖護院長吏宮入大峯﹂. とあるゆ ︵16︶前掲﹃修験道史研究﹄一九ニー一九四頁 ︵17︶同右一九三頁 ︵18︶同右一九三頁. 第一章 鎌倉末南北朝期の東国における先達 第↓節 先達の登場. 地方の檀那を熊野まで引導する先達の初見史料は、全国的な視野でみると﹁熊野本宮大社文書﹂ ノレ の弘安元︵一二七八︶年二月二六日伊予国井上郷禅乗曲玉檀那願文である。それは、. 蒔諺ぐにいのか占隊ロ隊⊃ぴ臼 帆努町温泉郡内井上郷弘長寺住人先達交名事 禅乗御房 一檀那分. 道後余戸御庄之住人賀多寺 院主長門公御房 二道胤︵花押︶. 弘 安 元 年 二 月 廿 六 日 というものである。願文とは、後に述べるように、地方の先達もしくは檀那が熊野の御師に対して ハクこ 捧げる一種の誓約状で、排他的な面素関係を取り結ぶものである。右の文書は、本文中には﹁願文﹂ の文言はないが、後の例からみて、形式・内容共に願文というべきである。この願文は、伊予国の 道後余戸賀多望の通道胤が熊野の某御師に捧げた願文で、道者の先達が禅乗坊であったことが知ら.
(9) れる。. こ一れによって、 =二世紀後半には先達が登場していたことが知られる。それでは、いかなる歴史. 的背景のもとに先達が登場するに至ったかについて検討してみよう。 熊野三山関係文書に地方の檀那が登場するのは参詣を前提とするものである。 ﹁檀那﹂の初見は、 ハヨレ 承久元︵一二一九︶年一〇月一八日瀧本執行長寝譲状案においてであり、この譲状では、土地と檀 ︵4む 那とが譲渡の対象となっている。次に、宝治元︵一二四七︶年一一月一一日豪慶檀那譲状写が古く、. この譲状では檀那のみが譲渡の対象となっている。このような熊野三山関係文書に現れる檀那の譲 状・売券・願文を十年間を単位として年代順に整理したものが第1表である。 この表によれば、檀那譲状は中世を通じて散見され、際だった特徴は見えないが、あえていうな らば、 一三世紀末から一六世紀初頭にかけて比較的均等にみられることである。檀那売券は、十四 世紀初頭から見え始め、 一四世紀末から二桁の数になり、この傾向は一六世紀初頭まで続く。ピー. クを示すのは一五世紀後半から一六世紀初頭にかけてである。檀那願文は=二世紀中葉から十六世 紀中葉にかけて散見され、二桁の数が比較的連続してみられるのは、 一四世紀後半から十五世紀中 葉にかけてである。. これらの出現の状況から、 一三世紀の末になって、檀那と御師との契約が結ばれ、檀那の譲渡や. 売買が恒常的なものとなってきたことが知られる。このような譲渡や売買が恒常化することは、そ ヨ の前提として檀那に関わる収入が固定化したことを意味しており、参詣者である檀那がいわば物権. 第1表 熊野三山関係文書における檀那譲状・檀那売券・借銭状・檀那願文. 檀那. 隻. 備考 (1) r熊野那智大社文書』 (史料纂集)によった。 (2)檀那願文には、.r和歌山県史』中世史料二所収「熊野本宮大社文書」による ものを含む。. 化したことを物語っているのである。このことを裏返していえば、 一三世紀になって、地方の檀那. 阨カ. 檀那. 檀那 ъ. 借銭. 1200災120ヂ. 0. 0. 0. 0. 1410∼1419. 1. 17. 9. lI. 1210∼1219. 1. 0. 0. 0. 1420∼1429. 6. 26. 7. 10. 1220∼1229. 0. 0 0. 0. 1430∼1439. 2. 21. 6. 12. 1230∼1239. 0. 0 0. 0. 1440∼1449. 1. 25. 5. 8. 1240∼1249. 1. 0. 0. 0. 1450∼1459. 0. 60. 6. 15. 1250∼1259. 0. 0. 0. 1. 1460∼1469. 2. 106. 14. 3. 1260∼1269. 0. 0. 0. 0. 1470∼1479. 2. 64. 4. 6. 1270∼1279. 0. 0. 0. 1. 1480∼1489. 0. 90. 6. 2. 1280∼1289. 1. 0. 0. 0. 1490∼1499. 0. 57. 3. 5. 1290∼1299. 2. 0. 0. 1. 1500∼1509. 0. 75. 4. 9. 1300∼1309. 3. 4. 0. 4. 1510∼1519. 2. 20. 7. 8. 1310∼1319. 1. 2. 0. 3. 1520∼1529. 1. 8. 4. 2. 1320∼1329. 0. 0. 0. 7. 1530∼1539. 0. 11. 0. 1. 1330∼1339. 5. 2. 0. 2. 1540∼1549. 0. 5. 2. 5. 1340∼1249. 0. 1. 0 2. 1550∼1559. 0. 5. 1. 4. 1350∼1259. 2. 3. 0 3. 1560∼1569. 0. 3. 0. 2. 1360∼1269. 1. 2. 0 10. 1570∼1579. 2. 1. 3. 1370∼1279. 2. 3. 1. 13. 1580∼1589. 0. 0. 0. 0. 1380∼1289. 2. 3. 1. 8. 1590∼1599. 0. 1. 0. 0. 1390∼1399. 3. 13. 2. 10. 1600∼. 0. 21. 0. 0. 1400∼1409. 1. 37. 5. 11. 44. 686. 90. 1go. 合 計. 借銭 檀那. 檀那 ъ. 阨カ. 期 間 檀那 期 間. 11. 12.
(10) 13. 14. による熊野参詣が活発化し、 一五世紀後半にピークを迎え、参詣が活況を呈してきたことになる。. その意味で、上皇による熊野参詣が、亀山上皇の弘安四︵一二八一︶年二月一六日の参詣を最後と ハ け して終わることは象徴的である。 以上の分析から、 一三世紀後半になって、熊野参詣がおそらく武士を中心に大衆化・一般化し、. あるいは、地方化したことが知られる。このように参詣者の層が拡大すると、以前には必要でなか った参詣の案内者が必要となってくるが、これが先達と呼ばれるものである。多くの参詣の未経験 の檀那を熊野まで引導するために、熊野参詣に関する専門的知識や経験に長じた先達が要請されて くる。こうして、十三世紀後半の頃に、職業的な先達が登場してくることになるのである。 ハダい さて、東国における先達の初見は、正応二︵一二八九︶年七月九日関東下知状である。それには、 ︵弘安九年︶. ︵前略︶菱為熊野参詣、十一月十三日青立金成村、十二月三日入洛、同盟[出京、同十八日 詣本宮、同十九日詣新宮、同廿日詣那智□、□二箇所宿坊現在高上、先達者二半舎兄三郎左衛 門尉隆時□白鳥寺住僧道一一、守吉被相語隆綱、携不実之[H]之由、資親類之虞、如守吉重 陳状者、閏十二月中旬事也云々、□十二月中旬之比者、自熊野山下向之、次正先達之縁、壼箇 □逗留遠江国河村庄東方、同廿七日下着金成村之由、資親書□之内、 ︵下略︶. とある。この文書は、陸奥国岩崎郡金成村︵現いわき市︶の名田をめぐる相論に関するものであ る。右の引用部分は、訴人岡本資親が、弘安九︵一二八六︶年一二月中旬に御教書を地塊に届けた のに受け取らなかったとの論人岩崎葛綱側の証人守吉の主張に反論した部分である。. これによれば、資親は一一月=二日に熊野参詣に出発して、閏一二月二七日に金成村に帰着する. まで二か月半の参詣の旅をしたが、途中、京都での滞在、本宮、新宮、那智の順での熊野三山への ハおね. 参詣、遠江国河村庄︵現静岡県小笠郡菊川町︶を経てきたことが知られる。檀那の岡本氏は、金成 村の地頭で先達は白鳥寺住僧道徳、論人の隆綱はその縁者である。このように、この文書は図らず も熊野参詣の実態を知ることができる史料であり、同類の史料は他には見られないであろう。この 文書によって、 一三世紀後半に東国からの熊野参詣が行われたことを確認することができるのであ. る。同じ頃、東国に関わる檀那譲状の事例として、次の弘安一〇︵↓二八七︶年一〇月二九日寂円 ︵9︶ 檀那譲状がある。 ︵端書︺. ﹁道賢かおほちのゆつり状なり﹂. ながくゆつりわたすたんなの事 在所とうたうミのくに騙し山寺俘勢阿闊梨門弟引たんな むさしのくにち、ふのセんだち近江阿閣法門弟引たんな てわのくに太まちのたとう太郎・とうへい太郎ひきたんな 件痘んな憂世円かわたくしの物名、しかるをせうたうはうにゆつるところ実也、た、しごけ一 一・ごハしんだいすへし、こほうし候ヘハ、たかまつよりのゆつりのたんな、ひたちのさたけの一. 門、かいのたけたの一門をゆつりわたす、そのほかをさあい物ともをは、セうたうハうのハか らひ二はく﹄むへきなり、回状如件 弘安十年十月廿九日 三三︵花押︶ ごの譲状は、熊野の御師寂円が、 ﹁わたくしの物﹂として相伝してきた檀那を﹁セうたうハう﹂.
(11) 15 16. に譲ったものである。この中で、 ﹁某引︵ひき︶﹂と表記ざれている某が先達に当り、御師と檀那. の間に介在している、この文書は熊野三山関係文書の中で、東国に関わるものとしては最初のもの であるが、三か所の先達の表記には微妙な違いがみられる。すなわち、まず近江阿閣梨のみに﹁先 達﹂が冠せられているのに、他にはないという点が注目される。先達という語がないからといって、. 先達という役名を持たないともいえないし、あったとしても﹁某引﹂の語が表すように引導者とい う意味かもしれないので、いずれにしても速断はできない。この点については、後でもその変化に ついて触れるが、この譲状については、近江阿閣梨のみに﹁先達﹂が冠せられていることを役職と してのものであると考えておきたい、. 次に注目されるのは、 ﹁てわのくに太まちのたとう太郎、とうへい太郎﹂と前二者との違いであ る。すなわち、一方が僧名であり、一方が俗名のままになっている点である。このことと、先にあ. げた陸奥国白鳥寺男尊の例とを合わせ考えると、東国においては、鎌倉後期に僧俗を問わず、職業. 的な先達が存在したことが考えられる・後に俗名の先達が見られなくなること加担東国において は鎌倉後期が俗人の中からも先達になる者がいたという過渡的な時期であったことが知られる。. 以上のことから、先達が登場するのは、全国的にも東国においても=二世紀後半であり、先達が 檀那を引導して熊野参詣を行うことが一般的になった。また、東国においては、 =二世紀後半は、. 俗人の中からも先達になるものが存在したという過渡的な時期であったとずることができる。. 第二節 御師・先達・檀那の関係. 前節において先達がいつ頃登場したかについてみたが、さらにその位置づけを明らかにするため に、先達をとりまく御師・檀那の三者の関係を検討してみよう。ただ、先達と檀那との関係につい ては、先達職との関わりで考えたいので恥辱に譲ることにする.. 熊野の御師と地方の檀那とは、前述したように、多くの場合、先達を仲介として関係を取り結ん でいる。しかし、詳しくみると、先達を仲介しない御師と檀那との関係も存在している。そこで、. 御師と先達、御師と檀那との関係を熊野三山関係文書を中心にして検討してみることにする。これ らの文書では、御師の立場から地方の先達や檀那を記述しているため、御師の視点でどのような表 記の違いがあるかを分析することによって、御師と先達や檀那との関係をつかむことができるので ある。. 第2表は、熊野三山関係文書において、先達・檀那がどのように表記されるかを抽出してまとめ たものである。表の分析に入る前に、願文・売券・借銭状・譲状のそれぞれの例を一つずつ示して みよう。. [檀那願文]. 熊野参詣交名事 高山殿御子息彦三郎平儀重︵花押︶ ︵此︺ 井御母儀平民女 ︵花押︶. 比丘尼性阿弥陥仏︵花押︶是ハ高山殿御母儀.
(12) 17 18. 詞一互日日 票,封土 ⋮、 ニ2.一. 到 ︵∠. .−. 旨 −ら∠. ⋮2.. へ∠砺∠. 1 一 隔. ﹂,. ら ∠ 4 1 5 へ ∠ 1 ∠ 7. 1 砧. 32・2. 5.. −2刻訓⊥i 3 ヨ つ一. 一3. 歪. 互乏. ︻﹂−ρ0つ一−. ︽∠. .つヨ. へ∠ら∠、 .−. T22ユユ. ・ ︸. −ら∠n∠. ︷∠ら∠. 壷 10 2・. 7 L9 i 34. 19. 0. 1. =士. 1﹂−一⋮51132 1−辻⊥−. .2. ﹄−一3. へ ∠ 令4 ∠ へ ∠ 6 . 1. 二円::R. LLIr セ =ー. . .二. 1. 1孝︶. る。また、 ﹁少先達﹂の称号を持ったものが記されているのが特徴である。この例のように、多く の願文は檀那の名が連なっているもので、参詣者名簿のようなものであるが、前にも触れたように、 いわは専属師檀契約状ともいうべきものである。 [檀那売券]. 永売渡檀那事. 秩父一門内、上野国高山小林一門井畠山尼御前・高めい御前舶静之修理介殿 右件檀那者、土盛重代相伝檀那也、而依有要用、教学坊法眼弟子若狭殿仁、現銭拾伍貢伍百文 仁、願文相阿仁、限永代所売渡実正也、全不可有孫子、但、面骨檀那一門、難令何等住可被尋 取候、若又、向後致逡乱有相逡欝欝者、以件用途一倍若狭殿方へ表沙汰博物也、尚若壼倍之用 途を不弁候者、長実知行分檀那にても候へ、所帯にても、壼倍仁相当達子被押取候、谷下後日 沙汰謹文如件、. 嘉元参年肛二月十四日 藤原長実︵花押︶. 表 記されたものである。. 司 ら∠−1. 3 7 5 1480一一一1489. 1. 少先達伊賀公乗重︵花押︶. 表題の熊野三山関係文書とはr熊野那智大社文書』とr熊野本宮大社文書』である。 Aは檀那・先達とも、Bは檀那のみ、 Cは先達のみ、 Dは地名のみ、 Eは混合して (2). 1. I」r. 1470一一1479.. 一 「. 那 智 山 御 師 六 角 院 ︵11︶ 康応元年九月六日. 1440一一1449 1450一一1459 1460一一1469. 一. この願文は、檀那.先達.御師の三者を含む典型的な願文である。檀那は高山殿御子息彦三郎平 儀重以下計三人であり、先達は伯書国山河寺民部阿閣梨乗悉である。御師は那智山御師六角院であ. 14 3. 0 一一 1 4 3 9. 9∂−. 1420一一1429. 壷轟. .”一一Lt. 18 14 13 10 1 1. 19 5 1. 4 17. 23 23 37 妬 22 32 47 35 23 2昼 38 32. 2. 3. 1410−v1409. δ 8 0 0 ρ 0 0 0 8 ρ O Q∂ りQ り ﹁ り25−25311﹂3 . 1390−k一 1 399. 1. つ一 一−. 3・3. 1400一一1409. 14F. 1370−v1379 1380・v1389. .2?. 53. 曙. 1. 18 12 13 5 4 4 4 5 1. 蛋 卵窮 1360一一1369. @ 」 一 一. 1 1350 一N・ 1 359. 一穂一下「譲一耳犬. 先達伯州山河寺民部阿閣梨 乗悉︵花押︶. 1340一一1349. 一 2. 2一. ヰ 1320A−1329 1330−v1339. 冒 冒. 一払 「 一 冒 } 一 F −. 2 1310・一一1319. 一. 1260∼1269 1270∼1279 P280∼1289 1290∼1299 1300∼1309. 文券. 「 F. 期翫・ P20. ・ 昌 一. 1210∼1219 1220∼1229 1230∼1239 1240∼1249. 」,N一一1 B一’ 1”’c一.. ’ib一 i. Q⊆!.. B.. .〈=△. a. 準文書における先達・檀那の所見. 第2表熊野こ山. 借銭状 7N⊥正ま]工=[D 一一__檀那売券一一 h那願文 一. A一 一. rミ種別. 』一.
(13) 19 20. ︵に︺ 母藤原氏︵花押︶ この売券は、藤原長駆という御師が武蔵国秩父↓円・上野国高山小林一門・畠山尼御前・畠山め い御前という檀那の所有権を御師の教学坊法眼弟子若狭に馬銭拾五貫五百文で永代売渡すというも のである。この際、 ﹁願文相共仁﹂とあることから、檀那の所有権は願文が基本的な支証となって 保持されていることが知られるのである。 [借銭状]. 申うくる利銭事、 合壷貫文者、. 右用途者、百文二五文つ、の耳鼻をそへて、来十月中二けたいなくさた申へく候、御しち物二 八、備中国かうつへの智仙房かひきたんな地頭井在家の檀那ともに入申候、やくそくの月を過 ︵議︶ ︷儀︶ 候者、此檀那をとられ申へく候、其時一儀あるましく候、猶々無沙汰之議候者、此状をうりけ んとして永とられ申へく候、傍為後日謹文之状本件、 ハぢレ 永徳三年三月三日 十円三乗有︵花押︶ この借銭状は基本的には売券と似たものであり、 一貫文を百文につき五文ずつの利率で借り受け、. 担保として備中国﹁かうつへ﹂の﹁智頭房かひきたんな地頭井在家の檀那とも﹂を当て、来る十月 中を過ぎれば、担保を差し押さえられることを借主の十円房細身が約束したものである。また、万 一返却されない場合には、この借銭状を売券として取り扱う旨が記されている。 [譲状]. ︵端書︶. ﹁道印房のおちのゆつり状、乗慶房の事なり、道印房ハ道賢かおちなり、﹂ 永譲渡檀那事. ム、美乃国護齢難鑑貌黎 右件檀那者、定昭之相伝也、然間所譲渡豊田県主実也、傍為後日謹文之状如件、 ︵停︸ 徳治弐年二月十日 定昭︵花押︶. この譲状は、定昭が道面房に対して、美濃国の檀那を譲るというものである。その檀那は寛宝房 ︵15︶ ︵定昭のことカ︶が相伝した﹁しらかし﹂の三河阿闊梨土佐公とその﹁引檀那﹂ということである。 この三河阿閣梨土佐公は先達とみられるが、美濃国という枠組みは美濃国内に広域的に檀那が存在 しているという意味にも解釈できなくはないが、ここではむしろ美濃国内の特定の地域を指す指標 的な呼称であろう。. 以上、願文・売券・借銭状・譲状について、書式を概観したが、例外的な書き方もある。先の第 1表では、先達と檀那との表記上の現れ方を見ようとしたのであるが、明確な違いはみられない。 そこで、檀那・先達・御師の三者の関係を基本的に取り結ぶ願文に絞って先達の出現の仕方を見て みることにする。. 第1表によれば、願文に現れる入名は、先達と檀那の両方が書かれているものが、檀那のみの数 に比べて約二倍の数になっている。それに対して、先達のみが書かれているものは二件しかない。. これは、願文が先達を単位として書かれたものではなく、檀那を単位としたものであるということ によるものであろうが、売券等においては先達のみの表記の数も決して少なくない。.
(14) 2唾. 22. そこで、願文のA、B、Cの書式の例を上げ、 検討してみたい。 A︵先達・檀那とも︶ 上野国高山修理亮重行︵花押︶. 応安五年三月四日 道先達金峯山別当民部律師 ︹16︶ 那智山御師六角堂弁法眼 B︵檀那のみ︶ ︵追筆︶. ﹁武蔵国願文﹂. 武蔵国多東郡中野郷 二度. 大宮住僧初度丹波曉尊︵花押︶ 若狭阿閣梨 初度式部良尊︵花押︶ 頼尊︵花押︶初度伯書頼算︵花押︶. 同国豊島郡江戸郷 山王宮住僧 初.度三河阿閨梨朝禅︵花押︶. 初度兵部祐順︵花押︶ ︵従︶ 初度侍徒道秀︵花押︶. 貞治元年十二月十七日. 那智山御師 ︵17︶ 村松盛甚大弐阿閨梨御房 C︵先達のみ︶. 丹州氷上郡井原之石屋寺同庄内之事 本宮御師きし殿に定申処、如斯 永享十年三月廿一日 丹州井原石屋寺先達西芳院 ︵洛︶. 光賢僧都︵花押︶ 本宮御師. Aの願文は、檀那が上野国高山修理重重行で、先達が道先達金兜山別当民部律師である。 ﹁道先 達﹂については不明であるが先達の一種には違いあるまい。. Bの願文は、檀那が武蔵国華東郡中野郷大宮の住僧丹波曉尊以下五人と同国豊島郡江戸岬山王宮 の住僧三河野老背骨禅以下三人との合計八人である。 ﹁初度﹂等の参詣回数が付記されており、参. 詣の経験が何等かの理由で問題視されていることがうかがわれる。この檀那と御師との間に先達が 介在していたかどうかが問題であるが、明記されていないところがら、ここでは先達が介在してい ないケースと考えておきたい。. Cの願文は、檀那の名が表記されず、先達の丹州井原石屋西芳院が井原庄内の檀那を本宮御師き し殿に定めるという内容のものである。ここでは檀那の内容は不明であるが、特定の限られた檀那.
(15) 23 24. を指すものか、あるいは、西芳院が井原庄内の檀那を全て掌握しているものかの二通りの読み方が できる。また、先達が個人名ではなく、 ﹁西芳院﹂という寺院名が用いられていることも檀那の特 定に関連があると思われる。. 以上、A、B、Cの願文の中で、先達・檀那の双方を記したAの願文が全体の約三分の二を占め、 檀那のみのBの願文が願文全体の約三分の一を占めている。それに対して、先達のみのCの願文は 二点しかないことからも、願文の基本的な形式は先達・檀那ともに記したAのタイプの願文と見な すこともできるが、Bのタイプの願文もAのタイプの願文と並存していた形のものであるといえな いこともない。すなわち、御師にとっては、檀那であれ、先達であれ、質的量的に高い収入が得ら れればよいのであるから、先達が介在しなくても構わないのである。明らかに先達が介在しない例 を次にあげてみよう。 ︵旧き. 武蔵国少玉郡之甘しをのやの住人ひご五郎入道行印、又ハなかくきとも申候、いまた熊野参詣 せす候間、はしめて京都にて師檀那のけいやく申候うヘハ、末代まてちかいめなく御坊中へま いり候へく候、のちのために願文如件、. 延文四年十二月八日 行印︵花押︶ ︵盛甚︶ 那智山御師村松大弐阿閣梨御房 ハー9︶ 是ハ畠山殿紀伊国せめの御時、 この願文は、 ﹁武蔵国少玉郡︵児玉郡︶しをのやの住人ひご五こ入道行印﹂が、まだ熊野参詣を したことがないので、初めて直接に那智山御師村松大弐田部梨と御師−檀那の契約を結び、末代ま. で間違いなくこの御師の所へ行くことを約束したものである。このような一個人の檀那の場合には、. 集団の檀那に比べて直接御師と契約を結ぶ可能性が高いと考えられるが、この檀那の種別について は後述する.. この例のような願文の存在から、願文は. A、檀那・先達とも記されたもの. B、檀那のみ記されたもの の二つのタイプが並存してあったと考えることが妥当ではなかろうか。ただし、Bのタイプの願文 については、先達の記載が省略された場合もあり得ると考えられるので、厳密な区分はむずかしい ことになる。. では、なぜ売券等において、先達のみの表記のものが少なくないかという問題が残るが、この点 については次のように解釈できる。すなわち、檀那の売買等においては、願文の移動を伴った取引 が行われたのであるから、それらの願文に記されている檀那名は改めて特記する必要がないため先 達名をもって表記したものと考えることができる。. さて、次節で述べる先達職にも関わることであるが、A・B両タイプの願文の違いは何による一も のかを明らかにするために願文に現れる檀那の内訳を検討しておきたい。第3表は、願文に現れた 檀那名をまず一族単位と、個人単位とに分け、さらに後者を一人と複数とに分け、それぞれ僧俗の 違いで分類したものである。童名、俗名の区別はざらに吟味を要するものではあるが、俗名の方が 多いという傾向は指摘し得る。.
(16) 1. 1. 2. 1(1). 2. 54 1(1). 1. 2. 11. 21. 2. 11. 1. 1. 2. 11. 2(1). 2. 2. 5(1. 1. 2. 2. 5(1). 61. 32 4(1) 2(⊥. 102. 3. 1. 11. 2 3. 4(1). 31. 32 1. 1 1. 3 1. 1. 11. 42. 1. 1. 4. 2(2). 10. 1. 52 2. 2(2). 1 1. 1. 1 1. 1 1. 3(1). 33. 1. 22 33 4. 53 5(4). 1 1 1. 1. 2. 2920. 7014. 4813. 1. 14. 22 7 7 4 備考 (1)表題の熊野三山文書とはr熊野那智大社文書』とr熊野本宮大社文書』 である。. (2)( )内の数は檀那のみの願文の数である。. 第3表から読み取れることは、南北朝期末から戦国期半ばにかけて、複数で俗名の檀那による願. 22). 31. 文が比較的多くみられるということである。このことは、実際上の参詣者の数を表すものではない. 11. としても、俗人の参詣がこの時期に増えたと解釈できよう。. 2(⊥). 次に、先達が介在しない檀那のみの願文の数を拾ってみると、檀那が僧名である場合に高い比率. 1(⊥). を示している。前述した僧俗の区別の問題があるので厳密とはいえないが、特に複数で僧名の檀那. 1. の場合には先達が見られない、すなわち、先達が介在しない傾向があることは明らかである。その. 2. 1 1(⊥. 1 1. 一例を次に挙げてみよう。. 3. 丹波国井原庄住人. 1. 円性房 勧行房. 1(1). 勧妙房 覚行房. 幽目 ム. O下 口. 行智房 仏念房. 俗 名. 右、注進、如件、. 僧 名. ︵20︸ 嘉暦二年三月二日. 俗 名. この願文は、丹波国井原庄の住人円性理以下六名の檀那によるものであり、同庄に関わる願文が. 僧 名. 不 明. 二五通現存する中で最初のものである。同語には石匠寺︵岩国寺・岩屋寺︶があり、この寺が修験. 一. の根拠地になっていたようである。円性理以下六人の檀那はこの寺に所属する人々であると考えら. △ 量. 齧. ー・. れるが、先達が介在していない。. 冝@間. 委. 一一. このように、先達が介在しない場合があるのはなぜか、その理由を考えてみよう。第一に、先達. 檀 那 の 内 訳. 内訳. 120 1209等 1210∼1219 1220∼1229 1230∼1239 1240∼1249 1250∼1259 1260∼1269 1270∼1279 1280∼1289 1290∼1299 1300∼1309 1310∼1319 1320∼1329 1330∼1339 1340∼1349 1350∼1359 1360∼1369 1370∼1379 1380∼1389 1390∼1399 1400∼1409 1410∼1409 1420∼1429 1430∼1439 1440∼1449 1450∼1459 1460∼1469 1470∼1479 1480∼1489 1490∼1499 1500∼1509 1510∼1519 1520∼1529 1530∼1539 1540∼1549 1550∼1559 1560∼i569 1570∼1579 1580∼1589 1590∼1599 1600∼ 年未詳. 25. 26 熊野三山関係文書における檀那の内訳. 第3表.
(17) 27. 28. の側からすれば、俗人を相手にした方が、血縁的・地縁的な発展で檀那が増加し、将来の収入の増 ︹21︶ 大が期待できるという理由が考えられる。第二に、僧侶集団は先達予備軍と考えることができ、彼 ︵22︶ らは先達を必要としないという理由が考えられる。第三に、御師が独自に檀那を獲得した場合、先 ︵お︶ 達が介在せず、この場合、檀那は個人の事例が多いという理由が考えられる。第四に、有力な檀那. の場合には直接に御師と師檀契約を結ぶ可能性が高かったという理由が考えら礼襲 いずれにせよ、先達が介在しない檀那と御師の結び付きがあったことは確かであり、それは例外 的な形と言うよりも、数は少ないものの一つのタイプとして存在していたということができよう。 それは、御師の側からみれば決して問題のあることではなかったことである。. また、先達が介在するのは僧名を持つ檀那よりは俗名を持つ檀那の場合により多く存在すること から、より多数の檀那である俗人の側からいえば、先達を必要とする事情が多分にあったことにな る。このことが、先達の増加や専門化を促し、檀那と先達との固定的な結び付きを強化していった ものと考えることができるのである。. 第三節 先達職の形成と安堵. 先達が登場して、熊野への参詣者が拡大してくると、それに伴って御師の活動も活発化し、御師 一先達−檀那あるいは、御師−檀那の関係が固定し始める。この時期については売券や譲状が現れ. 始める時期と考えられるので、第1表・第2表からも鎌倉時代末期であるといえよう。. 一方、檀那と先達との関係も固定化し始め、先達は先達職と呼ばれる権利を持ったものが当るよ うになる。この先達職は檀那職とも呼ばれたが、この文言の初見は、延文三︵一三五八︶年一二月 七日鯨岡乗隆言上状︵後逸イ︶である。また、先達職という文言がなくても、檀那の譲状の存在に. よって実態としては先達職が成立していたことが知られる。第4表は、福島県域における檀那譲状 を整理したものである。. この表によれば、康暦二︵一三八O︶年六月一日日浄意譲状と応永二四︵一四一七︶年五月一日 浄祐譲状との檀那名がほぼ一致する︵﹁あくと十一せき﹂のみ後者にない︶ことから、約四十年の 間を経て、同一の檀那が先達間で譲られていたことが知られる。また、至徳元︵一三八四︶年一〇 月二〇日日朝二所熊野檀那職譲状の宛名﹁宮内公﹂と応永二五︵一四一八︶年九月一八日朝畔先達 職渡状の宛名﹁宮内卿阿閣梨御房﹂とが、阿閣梨御房という尊称を除けば同一人物とみることがで き、先達職が集積されているかにもみえる。ちなみに次章で述べる乗書院の御教書により先達職が 安堵される文書の初見も応永二五︵一四一八︶年九月一八日のものである。. ところで、南北朝期後半の時期は、先にみた願文や売券の増加する傾向がある時期でもあり、檀 那と先達との結び付きが固定化し、檀那が物権として扱われてくる時期である。したがって、先 達職をめぐる相論が予想されるのであるが、南北朝期後半に次のような安堵に関わる文書がみられ るので検討してみよう.. カヒ. ハカい イ陸奥国岩城郡内鯨岡孫太郎入道乗隆依謹言上、吉田左近尉惣先立職、無相図上者、彼封下歯、 御判為備後日四鏡、恐々言上如件、.
(18) 29. 3U. 第4表 福島県域における檀那職等譲状一一覧. 文書名. 譲 主. 被譲渡者. 檀 那. 典拠. 暦応2.3.1. 権少僧都. 讃岐二二僧. 弟子大進. 佐竹豊間殿、国内一族内人. 光明. @(1339). 將h那. s隆賢. I閣梨快. ュ禰更甥轍灘騒士、同士人々、白土殿、田島. 宸P. ォこ綾塾難響論驚葉郡人々. 同. 同. 弟子能登. 同 同 @(〃). [. 赤井加治一族高久村、荒河 Q)塁壁灘墨筆佐竹小河殿、同御兄弟、国井. 康暦2。6。10 @(1380). 寸意譲状. やすわら殿一・せき、たかし. 寸意. x{潔驚鍵ζ継室ヒ. 蔚 青山1. ?. 延文三年十二月七日. 所申無相違候、. Z譲㌻平準書藷くと、おうひら殿一せき. 至徳1.10.20. @(1384). @(1392). 良朝. 宮内公?. 北郷之内∼彦八入道、子孫. 良朝二所. 駒石侍従二. 治部殿御. 白石林入道殿子孫、八槻回 熕シ河内住人道性子孫、同. _檀那 F野檀那. w梨良源. ¥騰太郎・子孫等・与三・. 八槻3. ︵花押︶. ︵㌶︶. 明徳3.5。3. 良朝二所. 八槻2. 忠紀. ロ当社領陸奥国石川青竜寺先達職御謹文七事、備 上覧候、. 被仰出候、此上者、於向後御心安可被思事候、恐々敬白、. Q会二六奇孟甦臥 註ョ潔肉灘萬合岩三郎四郎子孫、手沢郷士関口かくほう子孫. 同 同 (〃 ). 鋸騨. 会塑銀鱗藤塚郎子孫、孫六子孫. 二位房?. 応永24.5.1 @(1417). 浄祐譲状. 守山湯上坊. 奥州田村. 応永25.9.18. 朝畔先達. 白石別当卿. 宮内卿阿. 二輪。1・5 羅豪宕 薦阿閣梨. 露悪. E渡状. 「閣梨朝畔. ?. @(1418). wW鱒. ∬. ねもと殿御一せき、きたこ テ3饗二面星型難殿御一せき、やすはら殿御一せき、大ひら殿御一せき、たかしは殿御一せき. 白石郷はしかみ沢平六入道. シ筆. 刑部阿閣梨之檀那. 八槻11 八七17. 良賢. 青山3. 良賢譲状. @(1415). 青山2. ?. 応永22.2.10. 八槻4. 同. 同. 具御披見候、委細者御心得分候之由. 要旨は次のよう. 可金華運筆也、手継謹文明鏡之間、不可有相続子細同説、傍為. 応安三年七月廿七日 沙弥︵花押︶ ︵26冒 謹上 石川別当御房. ハ﹁はこね くまの﹂. ︵端一畏書︶. 檀那引導先達職事. 右、二所熊野、凡不可改旧規、. 後日支謹之状如件、. 明徳四年醗十一月十六日 筥根山衆徒. 法印盛弁︵花押︶. 法印定信︵花押︶ ︵27v 法印隆恵︵花押︶. 以上、三点の文書については、 関連する文書がないために不明な部分が多いが、. 年 月 日. 備考 典拠の項はr福島県史』第7巻資料編古代・中世資料、所収文書名と文書番号.
(19) 31. 32. になる。. イは、基本的に意味のわからない文章であるが、仮に真文書だとずれば、吉田左近尉が﹁惣先立 職﹂にあって安堵を求めていたのが忠紀に安堵ざれたものである。鯨岡孫太郎入道乗隆は檀那と考 えられ、先達職の安堵にあたって口入したものとも思われる。. ロは、石川青竜寺別当が沙弥某を介してその上にいる者に安堵を求めた結果、これが認められた 旨を、沙弥某が別当に伝えたものである。. ハは、箱根山衆徒が、二所熊野の先達職を︵八槻別当に対し︶安堵したものである。. これらの文書の存在は、先達職が成立したものの、安堵を受けなければ権利を侵害される危険に さらされていたことを物語っている。そして、そもそも参詣者の引導を掌る先達がどのようにして 決められたかについては不明であるが、先達職が争奪の対象になり得るものに形成されていたこと は確かである。. また、ロの場合、安堵の主体が不明ではあるものの、武家権力であることには違いあるまい。そ れに対して、ハの場合、安堵の主体は修験の根拠地の一つである箱根山であり、ロの場合と対照的 に宗教権力の一つが安堵の主体になっている。このような安堵の主体の違いは、石川別当や八達別 当という安堵を求める主体の違いだけによるものではなく、 一つの先達が複数権力の安堵を得て相. 乗的な効果を求めていたためと思われる。すなわち、次章で述べる安堵主体としての聖護院が登場 するまでは、在地の領主権力のような政治権力や箱根山のような宗教権力のなかから二者択一的で はなく、より権威があり実効のあるものを求めて安堵主体を選択し、あるいは、複数の安堵主体を. 求めたとも考えられる。. このように、先達職が形成されると、先達はより強大な安堵主体を模索し始めた。その時期は、 南北朝期後半であり、聖護院の安堵が始まる室町初期まで続くものと思われる。そして、その後は. 教権の頂点である聖護院を安堵主体の一つとして仰ぎながら、もう一方では武力による安堵を在地 の領主権力に求めるという二元的な安堵の形が形成されていくことになろう。.
(20) 33 34. ︵21︶南北朝・室町期は惣村制が強化される時期であるため、俗人の間にはそれぞれに強固な結び. ︵20︶本宮一〇号. ︵19︶米良三七号. 略記︶. ︵18︶ ﹁熊野本宮大社文書﹂一︵﹃和歌山県史﹄中世史料二︶七七号︵以下﹁本宮七七号﹂のように. ︵17︶米良四〇号. ︵16︶米良四四号. ︵15︶ ﹃大日本地名辞書﹄ ︵第五巻四四四頁︶によれば、 ﹁しらかし﹂は﹁白樫﹂のことか。. ︵14︶米良一六号. ︵13︶米良五七号. ︵12︶米良一三号. ︵11︶米良七〇号. ︵10︶管見の限りでは、俗人が先達になる例は他にみることができない。. ︵9︶米良二号. 親は亡父﹁親元弘安三年四月+吾譲状﹂に任せて﹁皮成十島響﹂婁警れている。. ︵8︶弘安八年四月二三日将軍家政所下文︵﹃鎌倉遺文﹄一五五六八号岡本文書︶によると岡本祐. ただし、引用部分七行目の﹁□十二月中旬﹂の部分は②に従った。. を判読していない。この二か所を①は二箇所、閏十二月と判読している。ここでは①によった。. ているが、後二者が□箇所︵引用部分の三行目︶と、[]十二月中旬︵同六丁目︶の二か所. 遺文﹄一七〇六二号、◎﹃福島県史﹄第七巻資料編戸古代・中世資料の三種の刊本に収められ. ︵7︶岡本文書。なお、この文書は、①瀬野清一郎編﹃鎌倉幕府裁許状集﹄上一七六号、②﹃鎌倉. ︵6︶前掲﹃熊野三山経済史﹄九二頁−九三頁、表﹁熊野三山全盛期に於ける御幸回数﹂. 事実があるのである﹂と述べられている。. すなわち、師檀の関係が、この時代、いわゆる教派形成の時代に恒常的なものになったという. 最小限がほぼ一定していたればこそ可能であったのだが、さらにその基には山臥対世間の檀那、. ︵5︶前掲﹃修験道史研究﹄二五〇頁に﹁かように山臥得分が物権化するというのは、その実収の. ︵4︶同右三巻﹁米良文書﹂九九六号︵以下﹁米良九九六号﹂のように略記︶. 号﹂のように略記︶. ︵3︶ ﹃熊野那智大社文書﹄ ︵史料纂集︶第五所収﹁灘崎八百主文書﹂補遺一号︵以下﹁干渉補一. 云へよう﹂と述べられている。. らざる旨の誓約を意味するものであって、之に依って御師は檀那を一方的に束縛してみるとも. する事になってみる。願文の提出は、檀徒が熊野参詣の折は狽りに御師を変更せず子々孫々喩. より難度なる檀那を引き連れて師の坊に到達せる時は、その一方的契約の謹として願文を提出. ︵2︶児玉洋一﹃熊野三山経済史﹄名著出版、昭和五二年、 一五四頁−一五五頁に﹁先達が各地方. ︵1︶ ﹃和歌山県史﹄中世史料二、九五七頁. 注.
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