「修正の院」としての英国貴族院
─「一院制」的英国議会理解を問い直す ─
小 堀 眞 裕
第一章 「一院制型両院制」について 第二章 「修正の院」としての貴族院 (1)「修正の院」という呼称 (2)参議院における政府が望まない「修正」の実績 (3)英国貴族院における「政府敗北」 結論:「一院制的」ではない英国両院制 日本の憲法学においては、何人かの研究において、英国議会に関して、「一院制型両院制」 という分類を使う。もっとも、この用語を使う学者は限られていており、憲法学者の全てでは ないが、それでも有力な学者もそういう呼称を使っている。近年においては、京都大学の大石 眞であるが、彼自身は著書のなかで、この表現は、同じく憲法学者の小島和司から受け継いだ ものであることを書いている(小島・大石、1975)。 憲法研究において、両氏は、言うまでもなく憲法研究の泰斗であり、これまで憲法学の研究 を豊かにしてきたし、日本国憲法下での様々な憲法問題に関してもリーダー的役割を果たして きた。その功績は高く評価されるべきであろう。 しかしながら、本論文で取り上げる「一院制型両院制」に関しては、その表現の持つあまり の明瞭さゆえ、この論を知った学生や読者たちは、英国の議会においては、貴族院は著しく無 力で、なんの力も発揮できないが故に、両院制ではあるが、一院制的なものなのだと考える可 能性は否定できない。それは、両氏の文章を読んだ場合、決して的外れな理解とは言えない。 しかし、実際のところは、英国の貴族院は、別名「修正の院」とも呼ばれるくらいに、多くの 政府提出法案に修正を加えてきた。当然のことながら、政府法案に多くの修正を施す院がある ならば、その院の存在感は非常に高くなる。それを、「一院制型両院制」と呼ぶことは、その 含意が必ずしも字義どおりの「一院制」を意味しないとしても、やはり、読者に、英国議会は 事実上の一院制であるという誤解を与えたとしても無理のないことであろう。 他方、英国本国においては、近年、ロンドン大学憲法研究所のロバート・ヘイゼルやメグ・ ラッセルの研究などによって、貴族院の立法に対して果たす役割に関しては、大幅に分析と整 理が進んだ。論 文
本論では、それらの英国での研究の進展などを紹介し、英国貴族院の「修正」実績を示すこ とで、こうした「一院制型両院制」という分類の是非を考えたい1)。 以下では、第一に、憲法学における「一院制型両院制」呼称について考察し、第二に、英国 貴族院における政府法案修正実績について示したい。
第一章 「一院制型両院制」について
「一院制型両院制」という呼称の初出は、筆者の調べたところによると、1962 年の小島和司 著「憲法改正の問題点 ‐ 第四章国会」『ジュリスト』No.241 である。この時点では、「一院制 的両院制」と表現されていた。筆者は、小島和司の東北大学退官記念論集における業績目録か ら、1962 年前後の業績について全て調べたが、上記『ジュリスト』論文以前の業績において 「一院制的両院制」という表現は発見されなかった(東北大学法学会 1987: 1444~1459)。 「一院制的両院制」という表現を日本の国会に対して使う前に、小島は、フランスにおいて は、第四共和政憲法が一院制論者と両院制論者との争いの中に成立し、第二院には「反省を求 める議院」の役割しか認めなかったことにより、「不完全な両院制」、「緩和された一院制」と いう議論があったことを紹介している2)。そして、そのうえで、「予算にかんする議定や条約 締結の承認、内閣総理大臣の指名の議決においては、それはまったく一院制的である」と述 べ、「衆議院こそワンマンであり、参議院はワンマンに対して反省をもとめうるだけ」と論 じ、日本も「緩和された一院制」であると論じた3)。 ただ、法律案の議決に関しては、参議院が衆議院と異なる議決をした場合、衆議院の議決を 国会の議決とするためには、出席議員の 3 分の 2 の多数による再議決が必要となる点は、「事 情が異なる」としながらも、やはり、「衆議院の優越を認めた両院制」という「幅の広い語が 現行憲法下の制度を的確に表示していないこと言うまでもなかろう」と論じている。そして、 結論的には、小島は、この日本国憲法下での両院制を「一院制的両院制」と述べた(小島 1962: 66)。 その後、小島は、1968 年の『憲法概説』においては、1911 年議会法以後の英国議会にも 「一院制型両院制」(「的」ではなく、「型」が使われている)という呼称を使い、また、日本の 国会に対しても、同じ呼称を使っている(小島 1968: 126)。 この「一院制型両院制」という呼称は、その後、大石眞によっても使われている(小島・大 石 1975)。大石によれば、「一院制型両院制は議会制度の母国イギリスで成立したもの」とし て言われ、「上下両院が対立した場合には下院の議決のみで立法部としての意思が完結される という一院制型両院制の論理がある」と論じられた(大石 2001: 46-7)。また、大石は、一院 制型両院制と言う言葉を、非同権的両院制、不完全型両院制と言い換える時もある。 これら二人の論者に共通することは、①両院が対立した場合に最終的に下院の議決が議会の 意思として完結されるところにある、②その例として、英国、フランス、そして日本が挙げら れるという点である。①の特徴に関しては、日本における衆議院による 3 分の 2 以上の多数での再可決や、英国 1949 年議会法における 1 年・1 会期後の再可決の困難さの検討を除外するならば、たしかに大 括りとしては、そう言いうるかもしれない。しかし、それらを「一院制型両院制」とくくって しまうと、日本と英国における立法の実際上の相違点や、英国貴族院の「修正の院」としての 性格を見落とす結果を招きかねない。 実際、両氏の英国議会に対する研究においては、実際に、貴族院がどのような役割を果たし ているかについて、議事録や先例集(『アースキン・メイ』)などに関する研究がかなり少な い。小島の場合は、『アースキン・メイ』に関する引用がないわけではないが、先例集である 『アースキン・メイ』と貴族院議事録との照合を行って、さらに『アースキン・メイ』の記述 の意味までを検討するということにはなっていない。制定法や議院規則だけでは、実際にどの ような立法が行われているのかを知りうることは、極めて限定的となってしまう。英国憲法は 不文憲法として知られ、実際には多くの部分において慣習によって動いてきた。議会解散に関 しては、2011 年固定任期議会法まで制定法はなかった。庶民院において政権不信任案が可決 された場合(念のために記しておくと「内閣不信任案」ではない)も、政権総辞職をするのか 議会を解散して総選挙するのかは、議会の慣習であり、上記のように 2011 年までは制定法は 存在しなかった。首相の指名も、日本国憲法に規定されたような方法はなく、国王が任命する だけであった。これが議会内多数党の党首となってきたのも、慣習である。財政法案に関して も、1911 年・1949 年議会法以外の部分での慣習も多く、日本では見落とされてきた(小堀 2013a; 2013b)。これら慣習の中で、首相や庶民院の実際上の「権限」が決まっていくのであっ て、その慣習を十分探求する前に、権限において、「一院制型」と置くことは、英国に関して はできないはずである。
第二章 「修正の院」としての貴族院
(1)「修正の院」という呼称 本章では、「修正の院」としての英国貴族院に関して検討していきたいが、まず、貴族院が 「修正の院」と呼ばれた歴史について見てみる。 貴族院に対して、「修正の院」としての役割を見とめる議論は、古くはウォルター・バジョッ トの『イギリス憲法論』に見られる。バジョットによれば、1832 年の「選挙法改正以来、貴 族院は修正したり、決定を延期したりする議院となった」(バジョット 2011: 121; 1978 [1872]: 100)。もっとも、バジョットは、庶民院がより洗練されたものになっていくのであれば、「上 院のごときものは必要でなくなる」(バジョット 2011: 130; 1978 [1872]: 107)とも述べた。ま た、20 世紀初頭にロイド・ジョージが、下院庶民院の議論の中で、「貴族院は、修正の院とす べきである」と発言した(HC Deb 26 June 1907 vol. 176 c1423)。そうした理解はアスキスな どの自由党下院議員による発言に見られた(HC Deb 26 June 1907 vol 176 c1508)。しかし、 それを貴族院の立場からも明確にしたのは、1917 年にまとめられた有名なブライス報告(「第二院の改革に関する会議」報告)においてであった。
この報告は、1909 年の歳入法案 the Finance Bill の貴族院第二読会における否決や、その翌 年の二回の総選挙、そして 1911 年議会法の成立に至り、その後もくすぶり続けた下院庶民院 と上院貴族院との争いを受けて、将来の貴族院の在り方について論じられたものであった。 この会議は、庶民院議員 16 名、貴族院議員 16 名から構成され、議長は、ジェームス・ブラ イス子爵が務めた。この会議の任務は、改革された貴族院による立法権限の定義と制限、両院 間の役割の調整、将来の貴族院像についてであった(Bryce 1917: 2)。 この会議で合意された「第二院にとって適切な機能」として、四つが指摘されたが、その第 一が、「庶民院から来た法案の検討と修正」であった。なお、他の三つは、論争にならない法 案の提出、憲法や諸原則に関わる法案の阻止や遅延、外交政策などの重要政策の十分な討議で あった(Bryce 1917: 4)。 その後も、貴族院の役割を、法案の「修正」に見ることは多かったが、その修正は、軽度に とどまる場合もあれば、法案を骨抜きにしてしまう、いわゆる破壊的修正 wrecking amendment もあった。そのため、1945 年に政権を獲得し、大規模な国有化を進めようとした労働党アト リー政権は、1911 年議会法を、その規定を使って 3 年をかけて再々可決して、1949 年議会法 を制定した。1949 年議会法では、簡単に言うと、一度否決された法案も一年をあければ翌年 の会期に再可決することで、貴族院の同意がなくても法律として成立させることができること となった。 また、当時の保守党の貴族院議員ソールズベリと労働党の貴族院議員アディソンとの間で、 マニフェストに書かれた法案に関しては、庶民院可決後、貴族院で否決しないという、いわゆ る「ソールズベリ原則」などと言われる合意が成り立った。ただし、この合意は、保守党と労 働党両党間のもので、マニフェストに書かれた事項というものは、法案そのものではない。し たがって、実際には、ソールズベリ原則があり、それが万能に適用されて、貴族院は、マニ フェスト関連法案の通過を約束してきたわけではなかった。この点に関しては、日本では誤解 が多いが、その限界については、2006 年に英国議会の合同委員会でまとめられた『UK議会 の慣習』において詳しい(Joint Committee on Conventions, 2006: 32)。そこにおいては、マ ニフェスト関連法案は、「破壊的修正」を受けないが、議会会期内において貴族院による修正 がくわえられ、庶民院との間で、何度でも往復させることができることが明記されている。 英国貴族院に関しては、その後、世襲貴族だけでなく、一代貴族院議員 Life Peer が作ら れ、その数は増加していくが、それでも、労働党政権時には、多数を占める世襲貴族院議員に よる反対票が労働党政権の基本とする法案を、採決において敗北させる事態が相次いだ。貴族 院自体の改革案も、様々な改革案が検討されたが、どれも成立をしなかった(この時代の問題 の経過については前田 1976 を参照)。 しかし、1997 年総選挙に勝利し、18 年ぶりに政権に返り咲いた労働党のブレア政権は、 1999 年に世襲貴族院議員を大幅に減らして、92 名にするなどの大規模な改革に成功した。そ し て、 そ の 後 の 改 革 の 中 で、 再 び、 貴 族 院 の 性 格 に つ い て は、「 修 正 の 院 」a revising
chamber としての性格が、明らかにされた(Joint Committee on House of Lords 2002: 2)。 (2)参議院における政府が望まない「修正」の実績 先に触れたように、修正と一口に言っても、「破壊的修正」もあれば、軽度の修正や語句の 修正もありうるが、その修正が、端に文言的な修正に留まらず、その内容にまで及び、また政 府としては看過しえないものとなった場合、当然政府は抵抗するであろう。しかし、それで も、政府が上院の多数を説得することに失敗した場合、その修正は、「政府敗北」government defeat という事態を生み出すことになる。つまり、ここでいう「政府敗北」は、単に委員会や 本会議で政府提出法案が否決された場合のみならず、政府の望まない修正が、委員会や本会議 での採決によって可決されるという事態も指す。 日本においては、こうした「政府敗北」が、上院、つまり参議院で起こってきた事案は、か なり少数に留まる。参議院における近年の「政府敗北」のみを見た場合、表 1 に見られるよう に、法案修正における政府敗北は、麻生政権から野田政権にかけての 3 法案しかない。法案否 決という形での政府の敗北は、2005 年の郵政民営化関連 6 法案の否決以外には例がない。 表 1 142 国会から 186 国会にかけての閣法に対する法案成立率と、参議院による修正 参議院 衆議院 会 期 政 権 及び 出来事 回 閣法提出 成立 継続 否決 未了 継続 否決 未了 法案成立率 参議院で修正された 閣法の法案 1998年 1 月12日 ~98年 6 月18日 (158日間) 橋本政権 常会 142 118 98 0 0 0 20 0 0 83% 感染症の予防に関する法 案が、厚生委員会で与野 党により修正された。 1998年 7 月30日 ~98年10月16日 (79日間) 小渕政権 臨時会 143 30 17 0 0 0 11 0 2 57% 1998年11月27日 ~98年12月14日 (18日間) 臨時会 144 17 6 0 0 0 11 0 0 35% 1999年 1 月19日 ~99年 8 月13日 (207日間) 常会 145 135 120 4 0 0 11 0 0 89% 行政機関の保有する情報 に関する法案と男女共同 参画社会基本法案が、総 務委員会で与野党により 修正された。 1999年10月29日 ~99年12月15日 (48日間) 臨時会 146 89 80 7 0 0 2 0 0 90% 2000年 1 月20日 ~00年 6 月 2 日 (135日間) 森政権 常会 147 106 97 0 0 0 0 0 9 92% 2000年 7 月 4 日 ~00年 7 月 6 日 ( 3 日間) 特別会 148
2000年 7 月28日 ~00年 8 月 9 日 (13日間) 臨時会 149 2000年 9 月21日 ~00年12月 1 日 (72日間) 臨時会 150 21 20 0 0 0 1 0 0 95% 2001年 1 月31日 ~01年 6 月29日 (150日間) 小泉政権 常会 151 100 93 0 0 0 7 0 0 93% 2001年 8 月 7 日 ~01年 8 月10日 ( 4 日間) 臨時会 152 7 0 0 0 0 7 0 0 0% 2001年 9 月27日 ~01年12月 7 日 (72日間) 臨時会 153 35 33 1 0 0 1 0 0 94% 2002年 1 月21日 ~02年 7 月31日 (192日間) 常会 154 44 39 2 0 0 3 0 0 89% 2002年10月18日 ~02年12月13日 (57日間) 臨時会 155 88 78 2 0 0 3 0 5 89% 2003年 1 月20日 ~03年 7 月28日 (190日間) 常会 156 126 122 1 0 0 3 0 0 97% 2003年 9 月26日 ~03年10月10日 (15日間) 臨時会 157 10 7 0 0 1 3 0 2 70% 2003年11月19日 ~03年11月27日 ( 9 日間) 特別会 158 2004年 1 月19日 ~04年 6 月16日 (150日間) 常会 159 127 120 0 0 0 7 0 0 94% 2004年 7 月30日 ~04年 8 月 6 日 ( 8 日間) 臨時会 160 7 0 0 0 0 7 0 0 0% 2004年10月12日 ~04年12月 3 日 (53日間) 臨時会 161 27 24 0 6 2 2 0 6 89% 2005年 1 月21日 ~05年 8 月 8 日 (200日間) 郵政解散 常会 162 91 76 0 0 0 1 0 1 84% 郵政改革関連 6 法案が参 議院本会議で否決され た。 2005年 9 月21日 ~05年11月 1 日 (42日間) 特別会 163 24 21 0 0 0 3 0 0 88% 2006年 1 月20日 ~06年 6 月18日 (150日間) 臨時会 164 94 84 0 0 0 10 0 0 89% 男女雇用機会均等法に対して、与野党で修正。 2006年 9 月26日 ~06年12月19日 (85日間) 安倍政権 臨時会 165 22 18 0 0 0 2 0 2 82%
2007年 1 月25日 ~07年 7 月 5 日 (162日間) 常会 166 99 90 0 0 0 9 0 2 91% 「社会福祉士及び介護福 祉士法等の一部を改正す る法律案」に対し、与野 党で修正。 2007年 8 月 7 日 ~07年 8 月10日 ( 4 日間) 臨時会 167 9 0 0 0 0 9 0 0 0% 2007年 9 月10日 ~08年 1 月15日 (128日間) 福田政権 臨時会 168 19 14 0 0 0 4 0 1 74% 2008年 1 月18日 ~08年 6 月21日 (156日間) 常会 169 84 63 0 1 2 19 0 0 75% 2008年 9 月24日 ~08年12月25日 (93日間) 麻生政権 臨時会 170 34 14 0 1 0 14 0 6 41% 「社会福祉士及び介護福 祉士法等の一部を改正す る法律案」に対し、野党 による修正が可決され た。 2009年 1 月 5 日 ~09年 7 月21日 (198日間) 常会 171 83 66 0 8 1 0 0 16 80% 財政金融委員会で、「法 人税法の一部を改正する 法律案及び租税特別措置 法の一部を改正する法律 案」に対し、野党による 修正案が可決された。 2009年 9 月16日 ~09年 9 月19日 ( 4 日間) 鳩山政権 特別会 172 2009年10月26日 ~09年12月 4 日 (40日間) 臨時会 173 12 10 0 0 0 2 0 0 83% 2010年 1 月18日 ~10年 6 月16日 (150日間) 菅政権 常会 174 66 36 0 8 11 17 0 1 55% 環境委員会で、公明党提 案による修正案が可決さ れたが、本会議では修正 案は否決された。原案は 本会議で可決された。 2010年 7 月30日 ~10年 8 月 6 日 ( 8 日間) 臨時会 175 17 0 0 0 0 17 0 0 0% 2010年10月 1 日 ~10年12月 3 日 (64日間) 臨時会 176 37 14 6 0 0 13 0 4 38% 2011年 1 月24日 ~11年 8 月31日 (220日間) 野田政権 常会 177 109 82 1 0 0 21 0 2 75% 財政金融委員会で、「金 融商品取引法等の一部を 改正する法律案」に対 し、野党による修正案が 可決された。厚生労働委 員会で、国民年金法の一 部改正に関する法案、独 立行政法人雇用・能力開 発機構を廃止する法案に 対して、与野党で修正が 可決された。
2011年 9 月13日 ~11年 9 月30日 (18日間) 臨時会 178 22 0 1 0 0 21 0 0 0% 2011年10月20日 ~11年12月 9 日 (51日間) 臨時会 179 38 13 0 0 1 23 0 1 34% 2012年 1 月24日 ~ 9 月 8 日 (229日間) 常会 180 106 61 0 0 4 33 0 3 58% 国土交通委員会「船員法 の一部を改正する法律 案」に対し、与党による 修正可決。 2012年10月29日 ~12年11月16日 (19日間) 臨時会 181 43 7 0 0 0 0 0 36 16% 2012年12月26日 ~12年12月28日 ( 3 日間) 安倍政権 特別会 182 2013年 1 月28日 ~13年 6 月26日 (150日間) 常会 183 75 63 0 0 4 8 0 0 84% 2013年 8 月 2 日 ~13年 8 月 7 日 ( 6 日間) 臨時会 184 8 0 0 0 0 8 0 0 0% 2013年10月15日 ~13年12月 8 日 (55日間) 常会 185 31 27 0 0 0 4 0 0 87% 2014年 1 月24日 ~14年 6 月22日 (150日間) 常会 186 85 82 1 0 0 1 0 0 96% 出典:参議院 HP の「ライブラリー」からの情報を筆者が集計。 表 2 衆参両院における修正された閣法の数 会期期間及び日数 政権 回 可決法案数衆院修正 可決法案数参院修正 平成10年(1998年) 1 月12日~平成10年 6 月18日(158日間) 橋本政権 常会 142 2 1 平成10年(1998年) 7 月30日~平成10年10月16日(79日間) 小渕政権 臨時会 143 4 0 平成10年(1998年)11月27日~平成10年12月14日(18日間) 臨時会 144 0 0 平成11年(1999年) 1 月19日~平成11年 8 月13日(207日間) 常会 145 6 2 平成11年(1999年)10月29日~平成11年12月15日(48日間) 臨時会 146 3 0 平成12年(2000年) 1 月20日~平成12年 6 月 2 日(135日間) 森政権 常会 147 6 0 平成12年(2000年) 7 月 4 日~平成12年 7 月 6 日( 3 日間) 特別会 148 0 0 平成12年(2000年) 7 月28日~平成12年 8 月 9 日(13日間) 臨時会 149 0 0 平成12年(2000年) 9 月21日~平成12年12月 1 日(72日間) 臨時会 150 2 0 平成13年(2001年) 1 月31日~平成13年 6 月29日(150日間) 小泉政権 常会 151 4 0 平成13年(2001年) 8 月 7 日~平成13年 8 月10日( 4 日間) 臨時会 152 0 0 平成13年(2001年) 9 月27日~平成13年12月 7 日(72日間) 臨時会 153 2 0 平成14年(2002年) 1 月21日~平成14年 7 月31日(192日間) 常会 154 1 0 平成14年(2002年)10月18日~平成14年12月13日(57日間) 臨時会 155 1 0
平成15年(2003年) 1 月20日~平成15年 7 月28日(190日間) 常会 156 3 0 平成15年(2003年) 9 月26日~平成15年10月10日(15日間) 臨時会 157 0 0 平成15年(2003年)11月19日~平成15年11月27日( 9 日間) 特別会 158 0 0 平成16年(2004年) 1 月19日~平成16年 6 月16日(150日間) 常会 159 6 0 平成16年(2004年) 7 月30日~平成16年 8 月 6 日( 8 日間) 臨時会 160 0 0 平成16年(2004年)10月12日~平成16年12月 3 日(53日間) 臨時会 161 3 0 平成17年(2005年) 1 月21日~平成17年 8 月 8 日(200日間) (郵政解散) 常会 162 12 0 平成17年(2005年) 9 月21日~平成17年11月 1 日(42日間) 特別会 163 0 0 平成18年(2006年) 1 月20日~平成18年 6 月18日(150日間) 臨時会 164 2 1 平成18年(2006年) 9 月26日~平成18年12月19日(85日間) 安倍政権 臨時会 165 3 0 平成19年(2007年) 1 月25日~平成19年 7 月 5 日(162日間) 常会 166 2 1 平成19年(2007年) 8 月 7 日~平成19年 8 月10日( 4 日間) 臨時会 167 0 0 平成19年(2007年) 9 月10日~平成20年 1 月15日(128日間) 福田政権 臨時会 168 4 0 平成20年(2008年) 1 月18日~平成20年 6 月21日(156日間) 常会 169 12 0 平成20年(2008年) 9 月24日~平成20年12月25日(93日間) 麻生政権 臨時会 170 5 1 平成21年(2009年) 1 月 5 日~平成21年 7 月21日(198日間) 常会 171 6 1 平成21年(2009年) 9 月16日~平成21年 9 月19日( 4 日間) 鳩山政権 特別会 172 0 0 平成21年(2009年)10月26日~平成21年12月 4 日(40日間) 臨時会 173 0 0 平成22年(2010年) 1 月18日~平成22年 6 月16日(150日間) 菅政権 常会 174 7 1 平成22年(2010年) 7 月30日~平成22年 8 月 6 日( 8 日間) 臨時会 175 0 0 平成22年(2010年)10月 1 日~平成22年12月 3 日(64日間) 臨時会 176 5 0 平成23年(2011年) 1 月24日~平成23年 8 月31日(220日間) 野田政権 常会 177 17 3 平成23年(2011年) 9 月13日~平成23年 9 月30日(18日間) 臨時会 178 0 0 平成23年(2011年)10月20日~平成23年12月 9 日(51日間) 臨時会 179 9 0 平成24年(2012年) 1 月24日~平成24年 9 月 8 日(229日間) 常会 180 25 1 平成24年(2012年)10月29日~平成24年11月16日(19日間) 臨時会 181 2 0 平成24年(2012年)12月26日~平成24年12月28日( 3 日間) 安倍政権 特別会 182 0 0 平成25年(2013年) 1 月28日~平成25年 6 月26日(150日間) 常会 183 13 0 平成25年(2013年) 8 月 2 日~平成25年 8 月 7 日( 6 日間) 臨時会 184 0 0 平成25年(2013年)10月15日~平成25年12月 8 日(55日間) 常会 185 6 0 平成26年(2014年) 1 月24日~平成26年 6 月22日(150日間) 常会 186 11 0 出典:参議院 HP の「ライブラリー」からの情報を筆者が集計。 もちろん、参議院における与党が同意した修正も、政府敗北という事態を生み出さなくて も、必ずしも与党にとって望ましい物ではないかもしれないが、それでも妥協が成立し得た ケースと言えるであろう。このような与野党による法案修正や、与党のみによる法案修正を入 れても、表 1 に見るように、1998-2014 年の間で、閣法では 12 法案の例があるのみである。 なお、国会における法案修正という意味では、衆議院における修正が圧倒的多数を占める。 その数は、参議院における修正を大きく凌駕している(表 2)。主として、その修正は常任委 員会で行われ、本会議でもその修正案は可決される。また、たしかに、2007 年から 2009 年、 2010 から 2013 年までの衆参「ねじれ国会」においては、より多くの修正が衆議院でも行われ ているが、それ以前においても、衆議院ではある程度の数の法案が修正されている。つまり、
修正が必要となってくるケースは、必ずしも法案が参議院を通過しないという事実によってで はなく、そういう見通しを与党が持ち、法案が参議院を通過する前に予め政党間で合意する形 での修正が多く、結果としてそのケースのほとんどが衆議院での修正という形を取っている。 (3)英国貴族院における「政府敗北」 このような日本のケースと、英国議会のケースを比較すると、英国貴族院の「修正の院」と しての性格が鮮明に浮かび上がってくる。 なお、英国の議会と日本の国会の共通性と相違する点について確認しておくことが、後の理 解にとって便利であろう。両国の議会においても、それぞれの二院の仕組み、両院制を持って おり、日本の衆議院は、首相によりいつでも解散されるが、それがなければ、任期は 4 年と なっている。参議院は、直接選挙で選ばれており、6 年任期で 3 年ごとに半数が改選される。 日本の衆議院は、英国庶民院の影響を受けていることが、日本国憲法案を起草した日本人官僚 たちによって書き残されている(佐藤・佐藤 1978: 81)。他方、参議院については、6 年任期 という点と、3 年で部分的に改選されるという意味で、6 年任期 2 年ごとに 3 分の 1 を改選す る米国上院との類似性も指摘される。あるいは、オーストラリアとの類似も指摘できるが、第 二次大戦後に、日本の関係者や GHQ の関係者がオーストラリアの議会の経験を参考にしたと いう証拠はいまだ発見されていない。 当然、英国議会との類似性といった場合、日本の衆議院と英国の庶民院がともに首相による 解散権を持ってきたことなどがあげられるが(英国の場合 2011 年まで)、同時に相違点として は、英国の貴族院は、世襲議員にせよ、一代貴族議員でも、任命であるのに対して、日本の参 議院は、全ての議員が国民によって直接に選ばれているという点がある。 また、議会での法案審議の方法も異なる。日本の場合は、本会議は最初と最後しか開かず、 具体的な法案の検討は、もっぱら常任委員会で行われる。しかし、英国の場合は、本会議での 審議が中心であり、庶民院・貴族院それぞれにおいて、第一読会(法案文書の配布の指示)、 第二読会(事実上最初の審議)という順番となる。第二読会の時点で、それから先の法案検討 と修正協議に進むかどうか、あるいは法案を否決するか、を確認するために、第二読会では議 決が行われる。庶民院の場合においては、強い反対がある法案でも与党が過半数を占めている ので、敗北することはあり得ないが、上院貴族院では、1999 年の世襲貴族院議員を廃止して 以来、約 4 分の 1 を占める無党派議員の動向によっては、否決される可能性もある。ただ、こ こで否決されるよりも、修正がくわえられることの方がはるかに多い。庶民院でも貴族院で も、第二読会を通過すると、今度は、委員会段階で条項ごとの検討・修正が行われ、その次の 報告段階ではより大幅な修正案が提出される。そして、その後、最終的に第三読会によって各 院の意思が決定される。 修正案のうち、政府としては受け入れられない修正案が出た場合、政府は否決しようとす る。この採決の帰趨を握っていたのは、1999 年までは、圧倒的多数を占めた世襲貴族の議員 たちの動向であった。世襲貴族院議員は、1999 年より前の時点では表 3 にあるように、その
多くが保守党所属であるか、無党派(英語表現で言えば crossbencher)であった。世襲の無 党派議員の多くも保守的傾向を有し、そのため、表 4 にみるように、労働党政権においては彼 らの反対による「政府敗北」が多発した。しかし、この多くの世襲貴族院議員は 1999 年の ブレア政権による貴族院改革の中で 92 名が残された他は廃止された。その後は、表 3 のよう な比率で、世襲貴族院議員は 92 名に大幅に減少されたうえで、各政党や無党派の貴族院議員 の比率は推移している。ブレア政権(1997-2007 年)においては、上下両院合同委員会「ど の政党も貴族院を支配することができるようになるべきではない」と書いた。実際、各党の貴 族院の議席は、表 3 に見られるように、どの政党も多数を握っていない。したがって、貴族院 で法案を与党が通過させるためには、一代限りの無党派議員の動向が帰趨を握ってくる。この 一代限りの無党派議員は、引退した下院議員、ビジネスマン、官僚、学者、文化人、労働組合 活動家、市民活動家、法律家などが社会の職能の様々なところから選ばれる。 表 3 2012 年 10 月時点での貴族院における主なグループの比率や人数 労働党 保守党 自民党 無党派 聖職貴族 他 合計 議員数 225 212 90 178 26 33 764 平均年齢 69 70 67 71 63 70 69 80 歳以上比率(%) 14 20 10 21 0 21 17 1999 年以来の新議員比率(%) 54 37 60 54 96 52 51 前庶民院議員比率(%) 30 32 32 5 0 33 24 女性比率(%) 29 18 29 21 0 15 23 前閣僚数 24 33 2 2 0 1 62 1996 - 97 年の議員数 116 477 57 322 26 69 1067 1997 年 5 月からの変化率(%) +94 -56 +58 -45 0 -52 -28 Source: Russell 2013: 95 表 4 英国貴族院における政権・会期ごと政府敗北数 政権党と会期 政府敗北数 労働党政権 2009 - 2010 14 2008 - 2009 25 2007 - 2008 29 2006 - 2007 45 2005 - 2006 62 2004 - 2005 37 2003 - 2004 64
2002 - 2003 88 2001 - 2002 56 2000 - 2001 2 1999 - 2000 36 1998 - 1999 31 1997 - 1998 39 保守党政権 1996 - 1997 10 1995 - 1996 10 1994 - 1995 7 1993 - 1994 16 1992 - 1993 19 1991 - 1992 6 1990 - 1991 17 1989 - 1990 20 1988 - 1989 12 1987 - 1988 17 1986 - 1987 3 1985 - 1986 22 1984 - 1985 17 1983 - 1984 20 1982 - 1983 5 1981 - 1982 7 1980 - 1981 18 1979 - 1980 15 労働党政権 1978 - 1979 11 1977 - 1978 78 1976 - 1977 25 1975 - 1976 126 1974 - 1975 不明
Source: Department of Information Services, 2010
貴族院議員の選出方法は、世襲以外の一代貴族院議員に関しては、ブレア政権時までは、基 本的に首相の推薦によって女王が任命してきた。しかし、1998 年にブレアは、政党所属以外 の貴族院議員選考には影響力を行使しないと表明した。2000 年には、ブレア首相によって、 制定法根拠のない公的団体として、貴族院任命委員会 the House of Lords Appointments Commission が設立されて、政党所属以外の貴族院議員任命は、この委員会で無党派議員の間 で選考が行われ、首相に対して推薦され、女王が任命する形となった。政党所属の貴族院議員 任命に関しては、依然として首相がその任命対象者を推薦し、国王が任命するが、貴族院任命
委員会はその推薦が妥当かどうかを精査する。政党所属議員の各党の比率に関しては、ブレア 労働党が 1997 年総選挙マニフェストで、総選挙における得票率に沿って構成されるように任 命をしていくことを表明した。この方針は、2010 年に政権を取った保守・自民連立政権でも 連立政権合意で踏襲された。ただし、こうした政党所属の議員任命は、2006 年に疑惑が持ち 上がった。ブレアは、労働党への巨額の献金や貸付をしてきた人物を複数名貴族院議員として 推薦し、結局、起訴までには至らなかったものの逮捕者までを出すにいたった。貴族院任命委 員会は、このブレア推薦の議員候補者を拒絶したため、これらの疑惑のある候補者が貴族院議 員となることはなかった(Russell 2013: 73-76)。なお、貴族院任命委員会の無所属議員選定基 準は、英国国民、アイルランド国民、英連邦国民で、英国に納税していること、何らかの分野 の専門家であると同時に国全体の視野に立てる人、過去の経緯がどうであれ政党から独立して いるかどうかなどである(The House of Lords Appointments Commission, 2014)。なお、こ の貴族院任命委員会は、今日でも制定法によって設けられてはいない。ブレア政権以降、幾度 かこの委員会を制定法に基づくものにする方向性が明らかにされ、議員立法の形で法案も提出 されてきたが、貴族院改革全体の動きの中で、成立してこなかった(Evennett 2012)。 庶民院可決法案が貴族院で敗北した場合、再び法案は庶民院に送られ、庶民院で政府案に戻 したり、貴族院の修正を部分的に取り入れたりした後、可決され、貴族院に送られる。貴族院 は再び再修正をする場合もあれば、修正をあきらめる場合もあり、いずれにせよ、両院が一致 するまで、法案が両院を往復する「ピンポン」が行われる。先述したように、貴族院では、無 党派議員が多く、彼らに意見を聞くことはあるが、彼らは政党とは異なり、一枚岩ではないの で、どれくらい政府の望まない修正に賛成するのかどうかはわからない。そこで、近年は、政 府はそのピンポンの間で徐々に妥協案のレベルを貴族院無党派議員に合わせていくことで、無 党派議員たちの反対票を取り込んでいき、多くの法案を成立させる。日本では、同じ法案が会 期中に何度も衆参を往復することは珍しいが、英国では全く珍しいことではない。英国の場合 は、一年一会期が基本であるが、その会期中に 4 回 5 回と上下両院を往復する法案もある。 すなわち、最終的に庶民院・貴族院両院一致で成立する法案は、最初の政府提出法案からは 異なる内容に修正されたものが、相当数となる。その中では、日本では、拘束力が強いと誤解 されることもしばしばである「ソールズベリ原則」の効力が疑われるケースも見られる。 例えば、1997 年総選挙において、労働党は、「私たちは、ヨーロッパ議会選挙に対する比例 代表制を長く支持してきた」と態度を明確にしてきた(Labour 1997: 37)。そして、その立場 から、1998 年にヨーロッパ議会法改正案を議会に提出した。しかし、貴族院は(特に多くの 保守党議員たちと労働党議員の一定部分は)、その政府による改正案の内容が拘束名簿式で あったことから、それを非拘束名簿式に修正した。労働党が過半数を持つ庶民院は、その修正 案を 2 度退けて原案に戻したが、貴族院はそれを 3 度非拘束名簿式に修正した。その時の貴族 院議員(保守党マッケイと労働党ショア)の理屈は、労働党政府提案の拘束名簿式を非拘束名 簿式に修正しているだけなので、比例代表制を公約した労働党マニフェストに反対しておら ず、したがって、ソールズベリ原則にも反していないというものだった(HL Deb 18
November 1998 vol. 594 cc1341-62)。しかし、労働党政府の内務大臣ジャック・ストローは、 この貴族院の修正を「ソールズベリ原則の濫用」であると批判した(HC Deb 02 December 1998 vol. 321 c952)。結局、この法案は、貴族院の可決を得られず、1999 年に、1949 年議会法 の規定を使って庶民院で再可決され、成立した。1949 年議会法に基づく庶民院再可決による 法案成立事例は、数少ないが、その 2 例目となった。このケースは、貴族院の反対は、たしか に労働党マニフェストが支持した「比例代表制」自体には反していないが、結局、マニフェス トの記述は法案の中身ほども厳格ではなく、その結果として実際には、「ソールズベリ原則」 の有用性に疑問が投げかけられる事態であった。 また、労働党政権下での ID カード法案は、2005 年総選挙前の議会にも提出され、総選挙マ ニフェストでは、以下のように公約された。 「来年から、私たちは生物認証の『E パスポート』を導入します。それは、国内におい て、個人情報の盗難や公的サービスの違法な使用や詐欺の取り締まりから身を守るため に、等しく安全な ID カードを市民に提供するという意味を持つものです。私たちは、国 家による記録の支援によって、指紋のような生物認証データを含む ID カードを導入しま すが、最初は自発的な形で人々がパスポート更新することで広げていきたいと考えます」 (Labour 2005: 52-53)。 しかし、実際の法案の内容には人権侵害の内容があるという批判が高まり、貴族院では、 513 もの修正案が提出され、そのうち、74 が成立した。74 の修正案のうち、政府が反対した ものは 19 であったが、残りの 55 も、政府が貴族院を説得するためにやむを得ず提案したもの であった。貴族院では、ID カード法案をめぐって 15 回の採決が委員会、委員会報告、本会議 で行われたが、そのうち政府は 8 回に敗北した(Russell 2013: 174-175)。結局、法案は 2006 年に成立するが、それまでに多くの修正を受け入れ、一部の内容は別法案へと移された。当時 の労働党ブレア政権は、貴族院による政府案の修正をソールズベリ原則に反していると批判し たが、貴族院の反対派議員たちは、法案の内容は、「自発的な形で広げる」としていたマニ フェストとは異なり、多くの強制的側面がみられるので、私たちはソールズベリ原則に反して いないと反論した(The Guardian, Tuesday 7 March 2006)。つまり、ここでもマニフェスト の内容と法案の内容との不一致が問題とされ、ソールベリ原則は事実上機能しなくなった。 2010 年以来の保守・自民連立政権においては、保守党マニフェストで公約された地方住民 投票法案 Localism Bill が、貴族院で破壊的ともいえる修正を受けた。この法案では、それま で英国では存在しなかった住民発案による条例制定に関して法的拘束力を持つ住民投票を法制 化しようとしていたが(Conservative Party 2010: 75)、貴族院は、英国になじみのない米国 型の住民発案・投票(いわゆるイニシアティヴ)を換骨奪胎し、ほとんどのケースにおいて認 められない内容へと修正した。結局、キャメロン政権はそれを甘受して、法案は変わり果てた 姿で成立した。保守党は、言うまでもなく、キャメロン政権の与党として 300 を超える議席を
持ち、単独で政権を担いうることはできなくても、与党の中心である政党であった。しかし、 連立政権という新しい局面の中で、ソールズベリ原則も新しい疑問に直面したわけである。つ まり、連立政権においてソールズベリ原則は適用されるかという問題である。2011 年 1 月 20 日に労働党のロイヤル貴族院議員からの質問は、連立政権においてもソールズベリ原則は適用 されるのかという問いであったが、これに対して、貴族院与党リーダーのストラスクライド貴 族院議員は、連立政権においても庶民院の意思は貴族院によって尊重されるべきであると述べ た前政権大法官のジャック・ストローの言葉を引用しながら、「それが前政権の見解であっ た」と、極めて微妙なコメントを行うにとどまった(Maer 2011: 4)。 話を「政府敗北」自体に戻すと、それがどれくらい起こるのかということを示したのが、表 4 である。この表 4 によれば、貴族院における政府敗北が、保守党政権では弱く、労働党政権 では強く出ていることが分かる。この一つの理由として指摘されるのは、先に指摘した貴族院 における世襲貴族の多さであった。特に、1974-79 年までの労働党政権においては、それら の保守党貴族院議員による政府法案への反対が、表 4 に見られる政府敗北数を増加させてき た。しかし、ロンドン大学の学者で貴族院に詳しいメグ・ラッセルによれば、労働党ブレア政 権において世襲貴族院議員を大幅に廃止し、92 名までに減らせたことも、貴族院における反対 票の増加を促したと言われる。これは、世襲貴族院議員を減らしたことに対する反対の意味で はなく、むしろ、世襲貴族院議員が大幅に減少したおかげで、かえって、「時代遅れ」として の貴族院のイメージがなくなった一方、広く社会の分野を反映した「一代貴族」Life Peer の院 として、国民の代表として発言する行動が定着したことによると言われている(Russell 2013: 125)。 既に、表 4 の数字だけを見ても、日本の参議院と比べると、英国貴族院での政府敗北がいか に多いかが一目瞭然であるが、それを各年度の割合として示したのが、表 5 である。 この表 5 は、メグ・ラッセルの著作からの引用であるが、1999 年から 2012 年にかけての英 国貴族院における全採決のうち、約 30% が政府敗北であることが分かる。なお、1999 年から 2010 年まではブレア・ブラウン労働党政権であるが、2010-2012 年は、キャメロン保守党・ 自民党連立政権であるので、政権が交代しても、依然としてかなりの割合の法案において、政 府が敗北を喫し、1999 年以降全体では、31%もの割合で、政府による修正や法案が否決され たり、政府の望まない修正案が委員会や第三読会などで可決されたりしていることが分かる。 なお、こうした政府提出法案の修正や否決を求めてきた貴族院議員に関しては、貴族院改革 の進展によって、その主体者が変わってきている点も指摘されている。先のメグ・ラッセルに よれば、1999 年の改革で世襲貴族院議員が大幅に削減される以前までは、貴族院における政 府敗北の主な原動力は保守系の議員であったが、その世襲貴族院議員の大幅廃止に伴い、自民 党議員や無党派議員の影響力も大きくなってきていることが指摘されている。特に、2010 年 の保守党・自民党連立政権への政権交代以後は、貴族院において政府を敗北させる修正案の提 案者は、大幅に無党派議員にシフトしてきていることが指摘されている(Russell 2013: 121-22)。
また、政府提出法案への賛成・反対などの貴族院採決時の行動は、下院庶民院と同じく政党 ごとの拘束は相当程度に強いが、1999 年以来の傾向として、先にも指摘したように、どの政 党や政党連立も、それだけでは貴族院の過半数に達しておらず、彼らだけの貴族院議員数では 法案の可決を見込めないので、近年の貴族院における政府提出法案の帰趨を握るのは、約 4 分 の 1 を占める無党派議員たちの動向であると言える。先にも書いたように、彼らは、司法、官 僚、ビジネス、市民運動、労働組合、学者、教師、警察官、医師、軍人、ジャーナリストなど 様々な分野の専門家たちであり、世襲貴族と比べると格段に全社会の階層を反映し、その見地 から修正案を提起することができた。特に、2010 年以来の保守・自民連立のキャメロン政権 における修正案提出者として、野党労働党よりも、無党派貴族院議員が法案修正の原動力と なっていることが、表 6 から分かる。 このように見てきた場合、英国の貴族院の法案修正実績は、日本の参議院と比較するならば 非常に多い。英国の貴族院は、政府提出法案を修正して別内容にする力を持っており、した がって、立法における貴族院の役割は、無視しえないことが分かる。 表 5 記名採決における政府敗北率 会期年度 記名採決における政府敗北 記名採決数 記名採決における政府敗北率 政権 1999 - 00 36 192 19% 労働党政権 2000 - 01 2 40 5% 〃 2001 - 02 56 172 33% 〃 2002 - 03 88 226 39% 〃 2003 - 04 64 176 36% 〃 2004 - 05 37 67 55% 〃 2005 - 06 62 187 33% 〃 2006 - 07 45 103 44% 〃 2007 - 08 29 121 24% 〃 2008 - 09 25 88 28% 〃 2009 - 10 14 43 33% 〃 2010 - 12 48 234 21% 保守・自民連立 計 506 1649 31% Source: Russell 2013: 135
表 6 政府提出法案への(可決された)修正提案者の所属とその割合 1999 - 2010 年(労働党政権) 2010 - 12 年(保守自民連立) 全体 数 パーセント 数 パーセント 数 保守党 300 66 6 12 306 自民党 100 22 4 8 104 労働党 14 3 11 23 25 無党派 43 9 23 48 66 聖職者 1 0 1 2 2 他 0 0 1 0 1 計 458 100 48 100 506 Source: Russell 2013: 121
結論:「一院制的」ではない英国両院制
第一章でも見てきたように、日本における「一院制型両院制」という理解は、英国やフラン スの、主として財政法案に対する下院の優越を手掛かりに論じられてきたことが分かる。しか し、その一方、それが小島和司によって初めに論じられだした 1962 年以来、実際に、どれく らいの審議が英国貴族院で行われ、どれくらいの法案が否決されたり、修正されたりという実 績があったのかという検討は、必ずしも充分に行われてこなかったと言わざるを得ない4)。 もちろん、「一院制型両院制」という理解は、あくまでも、議会の権限に関する理解で、そ の権限が実際にどのように議会において運用されてきたのかという実態は、もともと射程に 入っていなかった。また、憲法学としては、そうした権限に留まる理解や分析で十分であると いう見方も可能であろう。 しかし、そもそも、日本の憲法学者も含めて様々に指摘してきたように、英国は成文憲法を 持たない国であり、そこにおける憲法は、制定法や議院規則などでは必ずしも明快に理解でき るものではない。それらだけでは把握しえない議会慣習自体も、実際には憲法を構成してい る。そうした例は、2011 年固定任期議会法が成立するまで、議会解散に対する国王や首相の 権限が、制定法にも議院規則にも書かれてこなかったことなどに、明確に表されている。な お、現在でも英国では、首相任命に関する法律が存在しないなど、権限自体が慣習に依存して いる部分は極めて大きい。したがって、英国に関しては、庶民院と貴族院からなる議会に与え られた権限を、議事録や、そこに表わされる議会慣習に対する分析を抜きにして、制定法や議 院規則などから純粋に「権限」として抽出することは不可能であると言えよう。 また、上院の「反省を求める議院」という性格を非常に幅広くとらえて、とにかくどんな修 正があっても、最終的にその法案が成立することを持って、上院が「反省を求める議院」の役 割しか果たしていないと考えて、それを持って「一院制的」ということもできるであろう。し かし、上記に見たように、その修正は実質的内容を持ち、時には法案の分離に至ることもあ る。もちろん、それに対しても、「反省を求める議院」の意味を広げて、そうした場合も「一院制型」に含めて考えることもできよう。しかし、そこまで至ると、「一院制型」という呼称 というよりも、大石も使っている「非同権的」という呼称の方が相応しいと考える。大石は 「非同権的」な両院制も「一院制型」と考えているようであるが、しかし、日本語の一般的意 味としては、同権的でないものは、全て一院制型であるとまでは言えないであろう。また、そ ういう大きすぎる括りで分類をしてしまうと、英国貴族院のように非常に豊富な修正実績を持 つ場合と、日本参議院のようにほとんど修正実績を持たない場合とが、同じ分類の下に呼ばれ ることになり、分類の意味として妥当であるのかという問題が出てくる。 貴族院議事録などを通して見えてくる実際の貴族院の権限を検討した場合、英国貴族院の 「修正の院」としての事実上の「権限」を見過ごすわけにはいかない。日本と比較しても、比 べ物にならないほどの多くの政府法案に対する修正の実績がある。この英国貴族院を擁する英 国両院制を、「一院制型両院制」と表現することで、引き起こされるミスリードは大きくなる と言わざるを得ない。 特に、日本においては、英国貴族院の法案修正実績や、その中での政府敗北実績は十分に知 られてきたとは言い難い(もっとも、そのことは、ある意味、ロバート・ヘイゼルやメグ・ ラッセルなど、ロンドン大学憲法ユニットの業績が出てくるまでは、英国自体の中でも十分認 識されてきたとは言い難い)。その中で、英国両院制を「一院制型両院制」と表現すること で、英国貴族院の持つ「修正の院」としての実態が見落とされる危険性は大きいのではないか と言わざるを得ない。そうした貴族院を持つ英国両院制に、「一院制型」という呼称は相応し くないと考える。 注 1 ) 政治学では、二院制という呼称を使うことも多いのに対して、憲法学では両院制と言う呼称を使うこ とが一般的である。筆者は憲法学者ではないし、これまでの著作や論文では常に二院制という呼称を 使ってきた。しかし、本論文では、テーマとの関係で主として両院制という呼称を使う。なお、もとも と英語では bicameralism と呼ばれているが、明らかに、その考え方は西洋から来ているので、要する に翻訳の問題となる。英語では bi- は、2、双、両などの訳語が当てはまり、どちらに訳しても問題は ないと考えている。 2 ) もともと小島和司の分析は、フランスの両院制評価に関するものであるので、英国の場合、「一院制 型両院制」という呼称が当てはまらない歴史があったとしても、フランスに関しては、独自の検討が必 要だと考える。 3 ) もっとも、2007 年から 2009 年、2010 年から 2013 年まで続いた「ねじれ国会」という現象のずっと 以前の評価であり、英国だけではなく、日本に関しても、「緩和された一院制」という評価の再検討が 行われるべきであろう。
4 ) いうまでもなく、小島和司は、英国予算法案 the Finance Bill, the Appropriation Bill, the Consolidated Fund Bill などの立案過程に関しては、詳細に検討している(例えば、小島 1996: 46-101)。しかし、上 記法案を含む全法案がどの程度貴族院で修正されていたのか、いなかったのかについての検討は十分に 行っていない。
参考文献
Bagehot, Walter (1978)[1872]. The English Constitution, Henry S. & Co.
Conservative Party (2010). Invitation to Join the Government of Britain: The Conservative Manifesto 2010.
Department of Information Services (2010). ‘Government defeats in the House of Lords’, Standard Note, SN/PC/03252.
Joint Committee on House of Lords Reform (2002). First Report, the SO Joint Committee on House of Lords (2002). Special Report, the SO.
Joint Committee on Conventions (2006). Conventions of the UK Parliament: Report of Session 2005–06: Volume I, House of Lords and House of Commons.
Bryce, Viscount (1918). The Conference of the Reform of the Second Chamber: Letter from Viscount Bryce to the Prime Minister, Cd. 9038, the HMSO.
Evennett, Heather (2012). ‘House of Lords Appointments Commission’, Library Note, LLN 2012/016. House of Commons. The House of Commons Debate (HC Deb).
House of Lords. The House of Lords Debate (HL Deb).
House of Lords (2014). ‘Criteria Guiding the Assessment of Nominations for Non-Party Political Life Peers’, (http://lordsappointments.independent.gov.uk/selection-criteria.aspx).
Labour Party (1997). New Labour: because Britain deserves better, 1997 General Election Manifesto. Labour Party (2005). Britain forward not back: the Labour Party manifesto 2005.
Maer, Lucinda (2011). ‘Conventions on the relationship between the House of Commons and House of Lords’, Standard Note SN/PC/5996.
Russell, Meg (2013). The Contemporary House of Lords: Westminster Bicameralism Revived, Oxford University Press. バジョット、ウォルター、小松春雄訳(2001).『イギリス憲法論』、中公クラシックス。 大石眞(2001).『議会法』、有斐閣。 小島和司(1962).「憲法改正の問題点 ‐ 第四章国会」、『ジュリスト』No.241. 小島和司(1968).『憲法概説』、有斐閣双書。 小島和司・大石眞(1975).『憲法概説』、有斐閣双書。 小島和司(1996).『日本財政制度の比較法史的研究』、信山社。 小堀眞裕(2013a).「イギリスにおける選挙制度改革国民投票とその後」、『論究ジュリスト』2013 年春。 小堀眞裕(2013b).『国会改造論:憲法・選挙制度・ねじれ』、文春新書。 佐藤達夫著・佐藤功補訂(1994).『日本国憲法成立史 第三巻』、有斐閣。 東北大学法学会(1987).「小嶋和司教授著作目録」『法学』50 巻 7 号。 前田英昭(1976).『イギリスの上院改革』、木鐸社。