パーフォーマンズとしての詩一一ジャック・スパイサー試論
田 □(人文学部
哲 也 英文学研究室)
ロサンジェルスのブラックスパロウ社(Black Sparrow Press)はサンフランシスコのシティ ライツ社(City Lights),ニューヨークのグローブ社(Globe Press ),・ニューディレク.ショ ンズ社(New Dil・ections)等々と並び,アメリ力詩の生きた成果を精力的に世に送り出して
いる出版社である.そのブラックスパロウ社は1975年に「ジャック・スパイサー全集」(The
CollectedBooks of Jack Spiccr)という本を出している. The Collected Poems‥. でもなく, The Collected Works . . .でもなく, The Collec£ 沛「boks . ..となっている のは,スパイサーの盟友であった編者のロビン・ブレイザー(Robin Blaser)がスパイサーの創 作原理を忠実に守って編集を行なった結果なのだが,この点については後に触れる.rジャック・
スパイサー全集」(以下「全集」と呼ぶ.なお全集と言っても一巻本である.)に収められている最
初の詩集は「ロルカにならいてJ(,Aμer Lorca)である.この詩集はスパイサー自身が創設し たサジフランシスコのホワイトラビット社(White Rabbit Press)から1957年に出版された. ロサン.ジェルスで生まれ,バークレーで青春を送り,サンフランシスコで死んだスパイサーはその 四十年の生涯のほとんどを西海岸で過したのだが,彼は55年に突如として東海岸にむかっている. 最初はニューヨークに定着しようとしていたがなじめず,ボストンのボストン公共図書館(Boston Public Library)にしばらく勤務することになる.が,56年の11月に,自らの詩に不満をつのら せてサンフランシスコに戻ってくる.このボストン生活は表面的にはスパイサーが「ベー聖歌集」 (Bay I)salmBook)の背表紙を壊したために図書館から解雇されるという結末で幕となるのだ が,この間,スパイサーが経験した精神的危機は本格的な詩人として出発するためのイニシェイショ ンでもあったようだ.(この精神的危機は「全集」の巻末に付された「作品と記録」(Poems &
Documen£s〕に含まれている「鳥と僕自身のための歌」〔“Song for Bird and Myself ” 〕と 「この詩の読者への詩」 〔“A Poem to the Reader of the Poem”〕にその姿をとどめてい
る.)西海岸に舞い戻ったスパイサーはサンフランシスコ州立大学で「魔術1としての詩の研究会」
(“Poetry as Magic Workshop ” )を始め,昌頭で触れたように「ロルカにならいて」を出 版する.どうやらスパイサーの内部で知的クーデターが起こったようであるが,その模様を58年の ロビン・ブレイザー宛の手紙で見てみることにしよう.(この手紙は「全集」二番目の詩集,「説 諭集」〔Adm回心回s〕に収められている.) 親愛なるロビン. 同封してあるのはホワイトラビット社の最初の出版物だ.二冊目はもっと見てくれのい いものになると思う. ボクが個々の詩への批評を必要としていないというのはそのとおりだ.にもかかわらず そんな批評がまだ欲・しいめは多分昔からの癖がなおっていないからだ.ほんとにこの癖と は長いつきあいだ.「ロルカにならいて」の途中で,ボクは一連の詩を書いて,いるのでは なくて一冊の本を書いているのだと気付いた.すると個々の詩への批評は誰のもの,であっ ても急に重要でなくなったのだ.これは出来上ったら君に送ろうと思っている「説諭集」 に関しても同じだ/(も‘う八つできた.たぶん十四になるだろう.もちろんこの手紙も含 むよ.) J
158 高知大学学術研究報告 第32巻 人文科学 このトリックはむろんダンカンがずっと以前に覚えて,’ボクらにも教えようとした奴 だ.つまり,完全な詩を追求するんじゃなくて,昏いている瞬間の進むべき道筋を自然に たどるんだ.好きなところへでむいてもいいし,なんなら引き上げてしまってもかまわな い.要は絶対に単一の詩の境界内で作品を具現(つまり閉じ込めてしまうことなんだが) しないということだ.ボクらが間違っててダンカンが正しかったのはこの点だった.もっ とも彼は良い詩とか悪い詩とかいうものはないと言ってボクらを混乱させたが.良い詩も あれば悪い詩もある.ただそれは単一の詩に関しての話ではないということだ.単一の詩 などはないのだ. だから,「エレジー」と「トロイラス」を除けば,ボクの過去のものすべてボクには汚 らわしく見えるという訳だ.ボクの過去の詩はどこにも属してい・ない.最良のものでさ え,それぞれの情緒が詰まっただけの,一晩限りのドサ回りのようなものだ.何をめざし ている訳でもなく,トルコでのセックスと同じ無意味なものだ.,ボクの詩が詩にならな かったのは怒りやフラストレーションのせいではない.その怒りやフ.ラストレーションをユ ニークなものだと思ってしまったからだ.つまり外貨を交換するようにそういったモヤモ ヤを詩に変えられると思ってしまったからなんだ.こいつをボクは英文科で習った.(し かも精神的な英文科,ボクらの奥底に潜んでいるあのとてつもなIい泥沼から習ったのだ.) おかげて十年間のボクの詩はだいなしになった.まあ実物を見てくれ.なんならほめてく れてもいい.美しいかもしれないが,石ころのように口をつぐんでいる. 詩作品は互いに響き合うものだ.作品は共鳴を生み出さなくてはいけない.作品はボク らと同じでひとりでは生きてゆけないのだ. そういう訳だから昔の詩の束をドン・アレンに送らないでくれ.燃やしてしまうか,ド ンと一緒に中を見て,そこに埋っている本のなりそこないを嘆いてくれ.rアポロに対す る歌」,「壮麗な神々の回廊」,「飲酒歌」,こういうなのはすべて不完全で,中絶だ.不完 全で中絶だと言うのは,堕胎手術をする医者が考えるように,不完全なものには本当に生 きる権利がないと考えるからだ. ものごとは調和する.ボクらは知っていた.これは魔術の原理だ.ふたつの調和しない ものも混ぜ合わせればひとつの調和となる.詩でも同じことだ.詩作品は決してそれのみ で判断するべきものではない.ひとつの作品は決して単独で存在することはできない. これは君が受け取った中で最も重要な手紙だ. ,愛を込めて ジャック(「全集J pp. 60-61」 この手紙に満ちている自信に嫌悪感を覚えることは自由だが,・この自信は深刻な危機を独力で通 過し得た者のみが持つことのできるプライドであり,彼のメッセージに強い説得力を付与している. 詩が元来有している強い磁場は個々の詩の中にあるのではなく,詩と詩がっくり上げる共鳴の中に あるという事実を,レトリックや学識などにとらわれずにことまで単純明快に言い切れた詩人はか つていなかった.T・S・エリオットの「荒地」,エズラ・パウンドの「キャントーズ」,ウィリ アム・カルロス・ウィリアムズの「パターソン」など,勝れてトータルな詩集は数多くある.しか しながらこれらスパイサーの先輩詩人の大作は,彼のように切羽詰まった方法論の上に実践された ものではない.これらの大作は個々の詩の完全な否定の上に成立したのではなく,但々の詩の不可 能から生まれた無数の断片の総合の上に成立している.こういった作品で強調されるのは編集であ り,決してパーフォーマンスではない.なぜなら個々の詩を否定し切っていないからである.
ノヽごーフ −マンス ての ジャック・スパイサー試論(田口) 159 東海岸での危機の後にスパイサーが達したのは個々の詩作品の二重の否定であった.まず詩人の 内面がそのまま作品となるといった幻想を否定する.これは詩人→作品という単純な経路の遮断で ある.スパイサーはひとまず近代的な個性という張り子の虎を粉砕することによって個々の詩の独 立した存在を否定する.次にスパイサーは魔術の弁証法(?)とても名付けるべき考えをちらつか せて,詩集は個々の作品の寄せ集めではなく,パーフォーマンス,不連続をひとつの連続へと変え てしまうパーフォーマンスの場であることをにおわせている.かくて個々の詩という考えはその生 成現場も伝達も根こそぎ否定されることになる.だからこの問題の手紙を受け取ったブレイザーは TheCollectedPoems,‥ではなく,The CollectedBooks.‥としたのである. ところで,一冊の詩集はパーフォーマンスだという考えは偶発的に出てきたものではなく,さき ほどの手紙にあるように,詩人→(個性・自我)→作品という流れの否定から生じたものである. しかし,この近代的な詩の方法の否定から新しい方法の誕生の間には,ブレイザー宛の手紙では触 れられていない,もうひとつのスパイサーの詩の特質が潜んでいる. スパイサーの作品にあっては(むろん初期のものは除外しての話だが)作品から詩人が追放され, 作品には文字通り作品しか残らない.ブレイザーが「全集」の解題として草した同書所収の「外側 の実践」(The Practiceof Outside)では,M・フーコー,G・ミショー,メルロ・ポンティ などが援用され,主としてこの点が詳細に論じられている.興味深い論考であるが,深く立ち入る 余裕がないので要点だけを抜き出すことにする. ./ 近代的な詩のありかた,言いかえればリリックの否定からスパイサーは語りのある詩(narrative),
あるいは彼が冗談半分に名付けた「連続詩」(“the serial poem ”)を意識し始める.この「連 続詩」において,自我にかわって創作の要因となるのが「ディクテイション」である.「ディクテ イション」とは詩人の内側から湧き出てくるものではなく,未知の,外部から詩人の意識へと流れ 込んでくるものをほとんど自動的に筆写することである.以下65年の6月,バンクーバーl-でのW・ B・イェイツ生誕百年祭におけるスパイサーの講演から引いてみる. (イェイツのディクテイションによる詩という提唱)は詩が内側から来るものではな く,外側から来るものであるとした点においてブレイク以来のものでありました.言いか えれば,詩人というものは流れであれ何であれ自家製造してしまう一個の美しい機械では ないということです.心臓が破裂し,あるいはシェリーの場合のように浜辺で燃えてしま うまで半永久の運動をする情緒の動力機ではないということです.そんなものではありま せん.外側からはいり込んでくるなにかがあったのです.((全集J p.273) この「外側から‥.」というのがスパイサーの創作の秘密であり,また作品理解の鍵でもある.た とえば「全集」に収められている最後の詩集「雑誌への詩の本」(Book of MagazineVerse) の中でおこる全く同一の詩の繰り返し一一スパイサーは友人たちに指摘されるまでこれにまったく 気付かなかったと言う一一,「全集」中に何度も何度も出てくる亡霊や天使たち,こういったもの はディクテイションを抜きにしては理解しにくい現象である.後期の詩集に関してはなおさらそう である.しかしこのディ・クテイションにしても,強くその影響の跡が認められるシュールレアリズ ムやダダにしても,リルケを思わせる思弁にしても何にしても,詩集とはパーフォーマンスだと言 う彼の提唱とその徹底的な実践ほどスパイサーをスパイサーらしくしているとは筆者には思えない. ディクテイションというアイデア自体は「ポスト・コギト」のモダユズム文学者にとってはごく自 然な流れであった.そして50年代以後のアメリ力詩の世界においても事情は同じだった.ビートは もちろんのこと,いわゆるロバート・ロウェルなどの「告白詩人」と呼ばれる雑多な詩人たちにとっ
160 高知大学学術研究報告 ・第32巻. ゛人文科学 ても「内側」の克服は急務だったのである.とはいえ,凡百の詩人と違ってスパイサーが完全にディ クテイションによる書き手となってしまったことは消すことのできない事実であり,それゆえロビ ン・ブレイザーのこだわりも理解できないことはない.しかし筆者の興味は魔術の原理よりも魔術 の実践の方に行く.次に引く二つの詩は知的クーデターの興奮がまだ冷めやらないrロルカになら いて」からまったくアトランダムに取ってきたものである.個夕の詩の評釈はやめておく.理由は いらないだろう.ただこの詩集のテーマが自らの方法のマニフェストであることは言っておく. SUICIDE
j4Transla£ion for Eric Weir At ten o'clock in the morning
The young man could not remember.
His heart was stuffed with dead wings And linen flowers.
He is conscious that there is nothing left In his mouth but one word.
When he removes his coat soft ashes Fall from his arms.
Through the window he seesa tower He seesa window and a tower.
His watch has run down in its case He observes the way it was looking at him
He sees his shadow stretched Upon a white silk cushion.
And the stiff geometric youngster Shatters the mirror with an ax.
The mirror submerges everything In a great spurt of shadow.
朝の十時に その若い男は思い出すことができない. 彼の心には死んだ鳥と リネンの花が詰まっている. (「全集」. pp- 21-22) 自殺 エリ・ツク・ウイヤーのための翻訳
ノぐーフ −マンスと 何も残されてはいないのを知る 口の中にはただひとことだけが. ての 上着をぬぐとやわらかい灰が 両腕からおちる. 窓のむこうに塔が見え 窓と塔を彼は見る. 時計はガラスの中でとまってしまい 彼はそいつが自分を見詰めていた様を見Iる. 自分の影がのびる 白い絹のクッションのうえ. そこで硬直した幾何学的な若者は オノで鏡を叩き割る. 鏡はあらゆるものを すさまじい影のはとばしりの中に沈める ALBA A Traaslation forRussFi.tzeerald If your hand had been meaningless
Not a single blade of grass
Would spring from the earth's surface. Easy to write, to kiss −
No, I said, read ・your paper・ Be there
Like the earth
When shadow covers the wet grass. ゛
(「全集J p. 27」 ALBA もし君の手が意味のないものなのだったら 一枚の草の葉さえ 地表からのびてくることはないだろう. 気安く書いて,キスをして一一 いや,俺は言った,君の紙を読めと. そこにいろ 大地のように 濡れた草地を影がおおう時. ラス・フィツジェラルドのための翻訳 161
162 高知大学学術研究報告 丿第32巻 人文科学 どちらの詩でも最後に影が出てきて,影の出現以前の世界をおおってしまう点に注意してもらいた い この詩集には長短様々な詩形で書かれた33編の詩があり,この中にはバスター・キートンの出 てくる奇妙な劇詩もある.さらに六通のロルカ宛の手紙もあるしこれらの作品がすべて同じパター ンを踏む訳ではもちろんないのだが,これらの作品が互いに語り合い,ぶつかり合い,除々に読者 の心の中に広がってゆく.ひとつの大きな共鳴音は自我を無化し,自我の投影された風景を飲み込 んでゆく偉大なる外部なのである.そしてこの共鳴が生じるプロセスでスパイサーの霊とロルカの 霊が合体する. この詩集には「フェデリコ・ガルシア・ロルカによる序文」.なるものが付されている.ロルカの 死は36年だから,これがフェイクであることは明白なのだがス.バイザーの迫力は最初から読者を飲 んでしまう.霊媒スパイサーの口からロルカは次のように語ったりする. まず明らかにしておきますが,ここに収められている詩は翻訳ではありません.最も原 詩に忠実なものにおいてさえ,私の書いた詩の持つ2ヽ一下を,それに詩の意味までを完全 に変えてしまうように,言葉をひとつふたつ挿入したり,あるいは入れ替えたりして,ス ノタイサー氏は楽しんでいるように思えます.それどころか氏は私の詩め半分を切り取り, それに氏の詩をくっつけるというようなことをちょくちょ.くやっています.それは余り気 の進まないケンタウロスといったような結果になっています.(との動物の人間の方が私 なのか,獣の方が私なのかという詮索は慎しみます.)そして最後には,かなりの数の, 私か書いた覚えのない作品が(氏の手によるものでしょう)私の初期のスタイルを若干風 変りに模倣した上で仕上げられています.読者にはどめ作品がどの分類に属するかが示さ れていない上に,私自身までが混乱の輪を広げてしまいました.というのも(計画的な犯 行であったことは認めざるを得ませんが)死後に書いたいくつかの作品をスパイサー氏に 送ったからです.氏はそれを翻訳し,本書に入れてしまいました.私の作品を最も忠実に 研究している者でさえ,どれがロルカでどれがロルカでないかを決めるのはむつかしいこ とでしょう.実際,私か眠っている場所をのぞき込んだと,ころでどれが私だかわからない ように.この類推は無作法かもしれません,がこういう無作法はしかたのないところで す.(「全集Jp. 11」 ダ 人を喰ったような序文であるが,スパイサーは大まじめなのであり,フェイクであれ,心霊現象で あれ,何であれ,勝れた序文であることにかわりはない. 詩集を構成している33編の詩には,ただひとつの例外を除いて,すべてに誰に捧げる翻訳(!) であるかが明記されている.だからロルカが「ここに収められている詩は翻訳では」ないといって いるのは,魂の抜けた,ビジネスの翻訳ではないと言うことだろう.スパイサーの先輩詩人から例 を取るなら,たとえばエズラ・パウンドやケネス・レクスロスの翻訳はスパイサーの理想に最も近 い.異国の,あるいは時代を越えた文学者の霊を自らが霊媒となって呼び起こし,その霊が語ると ころを忠実に筆写するのは紛れもないディクティションであ・る.このような希なケースにおいては, もはや翻訳とか創作とか言った楼小な縄張り意識は跡形もなく消え去り,純粋な詩の空間だけが残 される.「ロルカにならいて」の面白さはこの先人(死者)との合体をひとつのパーフォーマンス として積極的に(いくぶん山師的な迫力を加味した上で)主張し,また実践してゆくところにある. 外部は空間的なものだけではない.ロルカ宛の最初の手紙の一節を次に引いてみよう. このあいだの手紙で私は伝統のことを書きました.こりこ収められている手紙をバカ者
ノヾ−フ −マンスとしての ジャック・スパイサー試論(田口) どもが読めば,私たちの言わんとしていることは伝統という言葉が最近意味していたこと と同じじゃないかと思うことでしょう.つまり歴史的な切り張り作業のこ’とです.(それ がエリザベス朝文学からの引用や,詩人の生まれた町のガイドブックからできていよう が,あるいはまたパンテオン社から刊行された魔術の曖昧な断片の曖昧なヒントからでき ていようが同じことです.)こうした歴史的な切り張り作業は,剥き出しの,言葉の裸の 姿を覆い隠すために用いられるのです.伝統というのはこれしきのものではありません. 伝統というのは,幾世代にも渡って様々な国の様々な待人が辛抱強く同じ物語りを語り, 同じ詩を書き,それぞれの変形によって何かを得,何かを失い,しかしもちろん決して何 ものも失わないことなのです.だからこのことと静謐さ,古典主義,気質などというもの とは無関係なのです.作り事は詩の敵にすぎません.(「全集J p.l5」 163 「ロルカにならいて」の原題はAμer Lorcaであった.この英語には「ロルカの後に」とい うような意味も込められている.何度でも繰り返し繰り返し同じ物語りを語り,同じ詩を書くとい うスパイサ=の情熱がロルカをグラナダの墓地から引き摺り出し,序文を,さらには死後作品まで を書かせたのである. 伝統というとすぐにT・S・エリオットや彼の「伝統と個人的才能」を思い起こしてしまうのは 「エリオット・パラノイア」・の一症状であろう.が,スパイサーが「伝統という言葉が最近意味し ていた・こと」と呼んでいるのは明らかに制度化されたエリオットの伝統論である.スパイサーが 「詩の敵」だと言う「作り事」は,世界を開示する詩の言葉と対極にある,世界を隠蔽する制度 であり,その制度に仕える散文の属性である.この制度をスパイサーは「ロルカにならいて」で始 まる12冊の詩集によって切り崩してゆくことになる.そしてその過程でスパイサーの詩の言葉もパー フォーマンスもより尖鋭なものとなってゆく.そして詩人としてはより死者に近くなってゆく.こ の過程を詳細に,しかも厳密に追うことがスパイサーの最も忠実な研究者に課せられた作業なので あるが,ここではスパイサーの到達した極点を暗示するだけにとどめる.次に引く詩はr雑誌への 詩の本」(この詩集はスパイサーによる最後のパーフォーマンスである)の最後を飾る二編である. 9
They've (the leaders of our country) have become involved in a network of lies.
We (the poets ) have also become in network of lies by opposing them.
The B. A. R. which Stan said he shot is no longer used for the course. Something lighter more easy to handle and more automatic.
What we kill them with or they kill us with( maybe a squirrel rifle) isn't important.
What is important is what we don't kill each other with And a loving Hand reaches a loving hand.・
The rest of it is
164 高知大学学・術研究報告 第32巻 人文科学 9 奴らは(わが国の指導者たち)ウソの 網に巻き込まれている. ゛ 俺たち(詩人)も奴らに対抗してウソ ∧ の網に巻き込まれている. スタンが撃ったと言ってたB. A. R.は もはや教練では使われない.もっと軽くて扱 いやすくてもっと自動的なものだ. 何で奴らを殺すか,あるいは奴らが 何で俺たちを殺すか(多分りス撃ちのライフルだろう)‘ そんなことは重要ではない. 重要なのは何で俺たちが殺し合わな いかだ. そして愛する手は愛する手にたどりつく それ以外は ‥ 権力と銃と弾丸だ. 10
At least we both know how shitty the world is. You wearing a beard as a mask to disguise it. I wearing my tired smile. I don't see how you do it. One hundred thousand university students inarching with you. Toward イ ,. A necessity which is not love but is a name.
King of the May. A title not chosen for dancing. The police‘ Civil but obstinate. If they'd attacked
The kind of love (not sex but love), you gave the one hundred thousand students l'd have been very glad. A回!oved the policemen. Why
Fight the combine of your heart and my heart or anybody's heart. People are starving。 , (「全集J p. 267」 10 ●・ヽ 少なくとも俺たちは二人ともこの世界がどんな1ど胸‘くその悪いものか知っている. 君はそれを隠すために仮面がわりにヒゲをはやしている. 俺は疲れた笑顔だ.君がどんな風にそれをやうてるのかほわからない. 君と共に行進する十万人の大学生.むかう のはなくてはならぬものの方,それは愛ではなくてひとつめ‘名前. 五月の王.踊りの肩書きじゃない.警察は , '. きちんとしていても強情だ.もしも彼らが
あの種の愛を(性ではなくて愛だ)攻撃したなら,君が十万人の学生に与えた, そしたら俺はすごく喜んだろう.なあに 君の心と俺の心との連合軍,いや誰の心でもいい,そいつと戦え. 人々は飢えている. 165 簡単な注を付けておきたい.「雑誌への詩の本」は「ネイション」をはじめどして合計七つの 雑誌にむけて書かれた詩集である.ブレイザーによればスパイサーはこの試みによって詩の公 共性を問おうとしたらしい.実際に詩を送ったのは「ネイション」だけで,それも予想どおり 拒絶されている. この七つの雑誌の中には「セントルイス・スポーツニュース」のようにもと もと詩を掲載しそうにもない雑誌が含まれているが,スポーツであれ政治であれ音楽であれ, 詩はリアルなものに属するというのがスパイサーの意図であったようだ.(「全集J pp. 283-284」今引用したのは「“ダウンビードヘの十の詩」というセクションの最後の二つである. 9の中にでてくるB. A. R.とはブラウニング自動ライフルでアメリカの陸軍が使っていた ものである.「スタン」は「全集」の中によく出てくる名前でスパイサーの友人.なお一行目 の“they've ・. . have”はスパイサー特有の表現でミスプリントではない.10の方に出てくる男 は,これもブレイザーによれば(「全集Jp.300」,ギンズバーグのことらしい.ギンズバー グはノースビーチのスパイサー行き付けのバーにやって来る.そしてスパイサーのテーブルに たどり着くと,俺はおまえの魂を救うためにやって来た,と言う.スパイサーは大きなお世話 だ,詩人じゃなくて新興宗教の指導者になったらどうだねと答えるにこのエピソードを紹介し た後ブレイザーは,これはギンズバーグに対する極めて限られた見方であると書いている/確 かに限られた見方だろう.しかしこの二人の詩人がめざしたパーフォーマンスの差異を思えば, いくら一面的な見方であれ,スパイサーの言はリアルである.スパイサーはギンズバーグの詩 が本質的には決して過激ではないこと(ギンズバーグの思想や行動ではない),さ・らにエリオッ トの場合と同じように背後に制度をひきずっていることを指摘しているだけである.だからス パイサーは有名になれないのだ.もっともスパイサーの異和表明はギンズバーグだけにむけら れているのではない.ギンズバーグにはとんだ迷惑だったが,スパイサーの異和は彼自身を含 むアメリカ詩人全体にむけられていだのだ.たとえば「“ダウンビードヘの十の詩」の5番 は次のような具合だ. 5 For Huntz
l can't stand to see them shimmering in the impossible music of the Star Spangled Banner. NO・
One accepts this system better than poets. Their hurts healed for a few dollars. 犬 Hunt
The right animals. l can't. The poetry
Of the absurd comes through San Francisco television.Directly connected with moon-rockets.
If this is dictation,・itis driving
166 高知大学学術研究報告 ,第32巻 人文科学 5 「星条旗よ永遠なれ」のあの救いがたい音楽の中で輝いている連中 は見るに耐えない.誰 よりもうまく詩人がこの制度を受け入れる.奴らの傷は端だ金 で癒える. ,ツ 狩れ 間違えずに獣たちを.俺はだめ.詩, ばかげた詩がサンフランシスコのテレビから流れてくる.じがに, 月ロケットとつながって. もしもこれがディクテイションならそれは 俺を狂わせている. ハンツに 詩を書いているから詩人だという者がいるなら,それはよほどお目出たい人だろう.生きている世 界の剥き出しの姿を開示できなくなれば詩人は名声や制度にすがって延命を図る<motherfucker> になりさがるだけである.逆に言うと,たとえ詩を書かなく,なっても詩というジャンルにこだわら ずなお開示する者は本質的になお詩人であろう.けれどスパイサーはこの道を選ばず,強情に詩の ジャンルにこだわり続けた.それほどまでに彼の散文に対する不信感は強かったのだ.ブレイザー はスパイサーの死の原因は酒ではなく詩だったと言っている.(r全集J p. 287)それはちょうどジ ミー・ベンド,リックスの死はドラッグのせいではなくロックのせいだと言うようなものである.し かしこのような言い方は少しカッコ良すぎはしないか.スパイサーが詩人の延命を図るような意図 も持たず,またそのような才覚もなかったのは事実だし,彼が頑固に詩という表現形式にこだわり 続けたのも事実である.しかしスパイサーは自分が剥き出しにしてみせた世界の裸形の余りにも寒々 とした姿を前にして,かつてのヘルダーリンと同じように,言葉を失ってしまったのだ.スパイサー の死は開示する意志にまるで追いつかなかった彼のボキャブラリーにあるのだ. 「全集」の付録,「作品と記録」はスパイサーの長い友人であ・つたジム・ハーンドンの手紙で終わっ ている.この手紙の結びはこうである. 1958 奴がいちばん幸せそうだったのはやは・りラッセル・フィッツジェラルドと一緒 だったほんの少しの間だったと思う.二人は食事Iに来たんだが,少しばかりマリファナを 持ってきた.そいつをみんなでやって,少しばかりハイになっ.だけれどそれほどでもな かった.くすくす笑って(フランは初めてだったけど自然だった)あとでマリーナに花火 に行った.ラスとジャックはうしろの席で手を翻りあっていたよ.見てるとくすぐったく なったよ.ほんとさ.ほらよくそう言うじゃない. (「全集J p. 378」 スパイサーの「疲れた笑顔」は西海岸に戻ったころからすでに始まっていたのだと思う.表現者は 「断食芸人」のようなものだ.表現の始まりは断食の始まりであり.やがては衰弱して死んでゆく その第一歩なのだろう. ・● (昭和58年9月30日受理) (昭和59年2月27日発行)