「臨床への学」から「臨床からの学」へ
佐 藤 俊 一
はじめに 人が人にかかわっていくことによって成り立つ実践から出発する社会福祉学においては, 教育においてもその実践的な性格が常に強調されてきた。学生が社会福祉現場へ最初にコミ ットメントをもつ教育機会は社会福祉実習であり,ここで大学のなかだけでは学べない「現 場で自らの実践を通して体験的に学ぶ」ことを行う。また,社会福祉士及び介護福祉士,そ の後に精神保 福祉士の国家資格が成立したことによって,将来の専門家を養成するという 観点から,養成カリキュラムやシラバスにおいても実習教育の重要性が示され,それを強化 する方向で改正されている。 こうした一連の えや動向は,社会福祉実習教育担当教員や学生だけに止まらず,実践の 現場で実習教育を支援してくれる実習機関・施設,実習指導者(フィールドインストラクター) などに対しても,社会福祉教育における実習教育のあり方を える機会をもたらすことにな っている。そうしたなかで,各大学などが現場と連携しながら実習教育を円滑に進めるため の方策が模索されている。こうした取り組みは,各大学の研究や教育を活かしながら,社会 福祉専門職の養成をより進めるかたちで行われている。当然のことだが,実習教育の位置づ けやその教育効果などの評価が適切になされ,専門職養成という観点から見直され続けてい くことが必要となっている。しかし,問題となることは,社会福祉教育システムとしての実 習教育の位置づけだけではなく,実習教育を本当に大切にしたいならば,それが社会福祉教 育全体にもたらす意義であり,そこから出てくる学問としての社会福祉学のあり方への問い かけとなってくるはずである。 ここでは,実習教育として「何を,どのように教えたりするか」を える前に,実習教育 がもつ基本的性格を吟味し,教育機関と実践現場,理論と実践といった従来から言われる二 極 化の課題を乗り越える「臨床の視点」を えていきたい。また,社会福祉実習そのもの を「学」として研究していくことで,特に対人援助にかかわる社会福祉学のあり方,その研 究や教育に対する「臨床的な視点」のもつ意義を提示していきたい。 ⑴1.実習教育のもつ基本的性格…問いへと開かれる学び (1)なぜ,実習をするのか ソーシャルワーカーを目指す者にとって,大学などにおいて社会福祉士,精神保 福祉士 の受験資格を取得することは,すでに一般的なことになってきている。そのためには,法律 で定められた受験科目を原則として卒業時までに修得することが要件となっている。本論文 のテーマである社会福祉実習も,社会福祉士養成課程においては社会福祉援助技術現場実習/ 社会福祉援助技術現場実習指導として,精神保 福祉士養成課程においては,精神保 福祉 援助実習として位置づけられている。 そのため,受験資格取得を目指す学生にとっては,実 習を行うことが当然のことだという理解になる。 こうしたことは,社会福祉関係の資格は名称独占であり,業務独占となっている医学や看 護学を学ぶ人たちと資格の性格のちがいがあるものの,受験資格を得るために実習をするの が当然だという理解では共通する。ただし,ここで注意しなければならないことは,社会福 祉の専門職を養成する大学においては,一部の大学を除いて受験資格を得ることが卒業要件 とはなっていないことである。したがって,受験資格に必要な実習科目は選択科目となって おり,たとえば看護学部/学科において必修となっていることとは,科目の位置づけが異なっ ている。学生は受験資格を得ることを目指すかどうかの選択をまず行い,さらには実習へ行 くことの意味を自 なりに える機会をもつことになる。また,資格課程へ入るための選 試験があったり,実習へ行くために履修済み科目などでハードルが設けられていることが多 いのが現状である。 さて,このように えてみると,社会福祉専門職養成というなかで学生は実習に行くこと, 実習という教育機会をどのように えるのだろうか。こうした「動機」にかかわることが問 われるということは,「するのがあたりまえ」「できるのがあたりまえ」という えに疑問を 投げかけることになる。それは,当然のことではあるが,「実習で何を,どのように学ぶのか」 さらには「私は,なぜ実習へ行くのか」,「なぜ,私は社会福祉を学ぶのか」という「問い」 になっていく。こうしたことを個々の学生が えること,教員も学生と一緒になって えて いくことが,まず実習教育のもつ意味になり,その基本的な性格として表れてくるのではな いのだろうか。 これまで提起した問題は,大学への入学の動機ともつながっている。受験資格を取得する ために入学してきた学生,何となく社会福祉に興味があったからという学生にとっては,実 際に大学で何を学ぶのかが,不明瞭なまま学んでいくことになる。特に講義科目においては, たとえ自らが選択した科目であっても,教員から与えられたものをお客様的に学んでいくこ とになり,なかなか主体的な学びとなっていくのが難しい。そのため,大学で学ぼうとして いるが,「何を学んだらいいのか,どのように学んだらいいのか,さらにはなぜ学ぶのか」と ⑵
いった基本的なことを問うことができない学生が多くなっているのが現状であろう。 (2)問いへと開かれる学び それに対して,実習教育での学びとは,実践現場に参入していくなかで,否応なしに主体 的に行うことが求められる。たとえば,実習の場面において,日頃から真面目に学習をして きているが,与えられたことをそつなくこなすことだけの実習生は,「あなたはここで本当に 何を学びたいのですか 」という問いかけを実習指導者からされたときに,戸惑うことにな る。今まで,言われたこと,与えられたことをその通りにこなしていれば,よい評価をもら っていた学生にとってはショッキングなできごとである。これまで自 が当然としてきた自 なりの対応,周りからの評価として えていたことがぐらつくことになる。そうした学ぶ 態度の発見とは,単に実習のなかだけのことではなく,自 自身がこれまで行ってきた学ぶ 態度が問われることにつながっていくことになる。 実習教育とは,体験学習と言われるが,体験とは「身をもって学ぶこと」 であり,現在の 自 を学びに持ち込み,それを って学習していかざるを得ない。そのなかで,先の例でも 明らかなように,知識のレベルではなく,自 自身の学び方や姿勢が問われることになる。 予め知っているか,その知っていることを えるかではなく,実習における人へかかわる態 度が問われるなかで,実は自 自身が問われているのである。この自 が問われ,自明な自 の姿が解体されていくなかで,学ぶことに対する「問い」が生まれてくる。この問いをも つことが,単に実習おける問いに止まらず,学生が社会福祉を学ぶことの問いにつながって いく可能性ともなる。 ここで注意しなければならないことは,「問い」には次に示すように2種類のものがある。 一つは,体験のなかから自 のあり方がゆさぶられながら出てくるものであり,教育哲学者 O.ボルノー(O.F.Bollnow)のことばを借りれば「問いのなかで私自身をふり返る問い」 であ り,「これまで自明的であったことが疑わしくなったときに成立する問い」 なのである。そ れは,もう一つの知らなかった知識を増加させるという意味での「インフォメーションを求 める問い」 とはハッキリ区別される。インフォメーションを求める問いとは,学生が講義や 本から自 のあり方とは無関係に,自 の学びたいことを不完全な知識から完全なものにし ていくという学び方の態度である。しかし,この問いからは知識を増加させたり,体系化す ることはできても,問いから自 自身を成長させることはできない。ボルノーは「人間は, 自 の世界を,かれがそのなかに生きているいっさいの秩序とともに,したがってまた自 自身を,問いのなかにおく可能性をもっているがゆえに問う存在なのです。(傍点筆者)」 と 述べることによって,前者の問いが人間を成長させるとし,その重要性を強調している。 学ぶ人が問うことへ開かれていくことによって,問いは終わることのない,完結すること のないものとして,問う人にとって続いていくことになる。そして,この問いのなかで人間 ⑶
は人間になっていくのである。この問う存在としての学びへと導いてくれるのが実習の機会 となる。しかし,誰もがそうできるとは限らない。そこには実習教育の目指す え,さらに は教育そのものへの基本的な姿勢が大きく意味をもってくる。 このように見てくると,実習教育とは,単に大学の中だけでは学べない実践現場における サービスの現状や実践の方法を学ぶだけでなく,学ぶ人が自 自身から出てくる問いや課題 を明確化していくことによって,今後の学びのなかで新たな問いを生み出す可能性をもたら すことにもなっていく。 次に,こうした実習教育の性格から明らかになった学ぶことの意味を,社会福祉教育全体 のなかから えてみたい。通常ならば,テーマとしては社会福祉教育における「実習の位置 づけ」となろうが,ここでは「基礎づけ」としている。その意図は,全体のなかでの位置を 確認することに主眼があるのではなく,実習教育を「学」として基礎づけることによって, 実習教育から社会福祉教育を問い直すということにある。 2.実習教育の基礎づけから社会福祉教育へ (1)学び方を教えてくれる実習…学びを拡げたり,深めること 社会福祉実習教育のテキストとして版を重ねている『三訂 社会福祉実習 第3版』(宮田和 明他編/中央法規出版)においては,社会福祉教育における実習の位置のなかで,「社会福祉の 社会的性格と実践的性格」として次のように述べられている。 …,社会福祉教育を えるとき,広い学問の基礎に立った科学的で理論的な学び方が必要 であるととともに,単なる観念的な理解に偏らず,個々の体験が普遍的な経験となり思想に 深まっていくような,自らの生活と結びついた深い人間的な学び方が求められることがわか る。(傍点筆者) 実習の性格として,「体験から思想となっていくように自らの生活と結びつける学び方」と は,どうしたら可能となっていくのだろうか。このことを具体的に示していくことが,まず 「学」としての実習教育に必要なことであろう。社会福祉教育のなかで「実習教育」が大切 だと言われながら,その学びの重要性が未だに明確に言語化されてきていない。実習とは学 生が学ぶことであると えられ,解説書やマニュアルは多く発行されても,積極的に教員が 学ぶ研究の機会としてはとらえられていなかった。そのため,実習そのものを学問として俎 上に乗せられることは極めてまれである。 また,学生が実習から学べるように えていくこ とは,単に結果として求めることではなく,そのプロセスから「なぜ,学びが主体的にでき たのか,できなかったのかを」を一緒に えていくことで,実は個別の実習生にもつ実習の ⑷
意味や意義だけでなく,まさしく体験から学べる普遍的なものを探求できる機会でもある。 その意味で,実習そのものが,りっぱに学問として成立していくのである。 すでに,学ぶ者が実習という他者と対応する場面で,「自らが問いをもつことができる」学 びがあることを示してきた。それが学び方の学習となり,問いによって様々な学びを結びつ けられるようになるのである。そして,この問いとは,自 が1人で えたものではなく, 実習のなかで他者との応答のなかから生まれてきたものである。問いをもつ者は,今度はそ れを他者と対話できる機会をもつことが可能となる。そして,それを実行する場面が,実習 中のスーパービジョンであったり,実習終了後の振り返りを行う授業である。たとえば,振 り返りの作業のなかで学生が互いに実習報告を聞き,自 が気づかなかったことを発見する ことが起こる。教員が一緒に振り返りをしていくなかで,「教育者が問いへと導くことによっ て,みずからふたたび問いへと導かれる,というまさに 互的な関係」 が生まれることに なる。その作業を通して,実習の授業以外の日常生活の場面においても,体験的に学ぶこと ができるようになっていける。この一連の学びのプロセスが,まさしく実習からの学びを深 め,拡げていくことになる。当然のことではあるが,こうした問いをもつプロセスのなかか ら,社会的存在としての人間理解,社会福祉の法や制度,援助技術を学ぶことなどのつなが りが作られる。ここに実習という体験からの学びを「学」として基礎づける糸口となってい くものがある。したがって,学ぶ者が体験を大切にしながら体験から問いを発せられるよう になっていくことが,実習の学びのなかで核となっていく。 他方で,実習教育のもつ「体験から学ぶ」という性格のもたらす意義が,体験からの学習 であるがゆえに,多くの研究者にとって,また科学の知を重んじる大学教育のなかで,学問 的位置づけを低いものしてきているという歪めない現実もある。なぜ,学問の世界において は,体験は軽視されてしまうのだろうか,次にそのことを検討し,体験を大切できる学問の あり方を提唱してみたい。 (2)体験を大切にする学問 体験とは,先にも指摘したとおり,個々人が「身をもって学ぶこと」である。自 の身に 起こったことは,当事者にとっては自 そのものが巻き込まれるまるごとのできごとであり, 大事なことは体験そのものの意味である。客観的な理解を求めて,それを 析的に切断した り, 節化して対象として研究することでは,体験の意味をそのまま伝えられないことにな ってしまう。したがって,体験そのものは,研究の対象として馴染まないものとされる。そ うしたことから,体験から気づいたり,学んだことは,個人の主観的なものであり,多くの 研究者にとっては一般性に欠け,検証が不可能なものとして客観的に扱うことができないと される。特に科学的に現象を見ていこうとする人たちにとっては,主観とは排除しようとし たり,軽視されるのが通常である。こうした研究者にとっては,一般性をもった 共性のあ ⑸
る「知」,中村雄二郎のことばを借りれば「科学の知」 を重視しているわけである。 近代における科学の,特に自然科学のめざましい進歩のなかで,後発の社会科学の領域に おいても科学として確立していくためには,多くの場合に自然科学をモデルとして語られる ことが多かった。そこでは,実証的であることが共通として求められ,その手法として実験 や調査によって確かめられることが科学としての根拠とされてきた。こうした科学的手続き によって研究をしていくことは,同時にできごとから研究者は一歩引いて,その対象との間 に明確な境界線を作りだし,対象について客観的思 をすることだとされてきたのである。 その結果,反省的な思 によって作りだされる「知」が重視され,体験そのものは価値の低 いものと取り扱われるようになっている。しかし,実際には研究者の主観は,どんな検証の 手続きをとっても,すでに仮説に反映されている。大切なことは主観を排除することではな く,それを明らかにして客観化していくことなのである。 中村が指摘するように「科学の知が,信頼されすぎ,独走した結果,それにうまく合致し ない領域,事柄の性質上,曖昧さを残さざるを得ない領域を,正当に扱えなくなった」 と いうことに正面から取り組まれていない。こうした課題に取り組んでいくためには,中村が 言う「臨床の知」の積極的な意味を えることが必要となる。臨床の知とは,「個々の場合や 場所を重視して深層の現実にかかわり,世界や他者がわれわれに示す隠された意味を相互行 為のうちに読み取り,捉える働きをする」 ものである。 こうした科学へのスタンスが,社会福祉学の場合,特に日本の社会福祉学においては,キ ッチリ議論されてこなかったのが現状である。他方で,実践から出発し,実践学を目指す社 会福祉学にとって,実践や実習が大切だと言われながらも,単なるあるべき姿だけに終始し ており,具体的にどのように実践から学問としていくかが明確にされないのは,やはり素朴 な科学主義がその背景にあるからであろう。こうした状況とは,実習教育に歴 をもつ看護 学においても同様である。「臨床の経験を看護学生自らが意味づけながら,経験そのものを深 化発展させていくプロセスのなかで,臨床の知としての看護技術が習得される。そのプロセ スを支援するのが臨床実習教育であると え,看護教育のカリキュラムや,看護教育方法を 見直そうとする者はまだ少数派である。」 との指摘がある。このような現状において,「体 験を大切にする」学問となっていくためには,どうしたらいいのだろうか。次に,そのこと を1人の男子学生の実習体験を例をとりあげ, えてみたい。 (3)体験から学ぶ…既知への問い この学生は,事前指導の授業のなかでは,意見をもとめられれば発言はするが,自 から 発言することはほとんどなかった。また,どちらかいうと表情は少し暗くて,固いという印 象があった。彼は,特別養護老人ホームの実習のなかで特に印象に残っていることとして, 次のような内容を報告した。 ⑹
実習では,施設という未知の世界へ飛び込んで行って,「未知の発見」ができたことが,と ても印象に残っています。そのため,今回の報告は,「未知への問い」とつけました。 そうした体験ができたのは,ある女性の利用者(Aさん)へのかかわりからです。実習の初日 に私が話しかけていくと,「あっちに行け」とAさんから大きな声で言われ,ビックリしまし た。その後,居室や食堂でAさん話しかけようとすると,罵声を浴びせられ,コミュニケーシ ョンをとることができない日々が続いていきました。そのため,実習の目標として,Aさんと コミュニケーションをとれるようにしていくことをあげ,逃げないでかかわりを持ち続け, 理解しようと努めていきました。実習中ずっと怒鳴られ,嫌がられてもずっとAさんにかかわ り続けられたことを,自 でも驚いています。しかし,残念ながら,最後までコミュニケー ションをとるということはできませんでした。ただ,実習の最終日にあいさつに行って,「今 日で実習が終了します。ありがとうございました。」と言うと,少し表情が穏やかになって, うなづいてくれたことがとても嬉しかったです。 この報告を受けて,事後指導の20名ぐらいのグループのなかで話し合いが行われていった。 話し合いのなかから,この学生は人とコミュニケーションをとることが,日頃からそんなに 難しいことではないと思っていたことがわかった。ところが,実際には,「こんなにも難しい ことがあるのだと実感した」とのことであった。しかし,それ以上に驚いたのが,「Aさんの ような人に対しては,これまでの自 だったらすぐに避けてしまい,継続してかかわり続け ることをするはずがないのに,実習においては最後までAさんのことを理解したいと思い,コ ミュニケーションをとろうとかかわり続けることができた。」ということだった。そのため, このような未知の自 を発見できたことから,「未知への問い」というタイトルを付けたとい うことであった。 そこで,筆者は次のようにアドバイスしたことが印象に残っている。確かに,実習のなか で逃げないでAさんと向き合うことによって,今まで気づかなかった自 を発見できたことは よかった。それは,「Aさんはなぜ私にこんな言動をとるのだろうか 」という問いから,彼 女を理解したい,わかりたいという気持ちを強くもつことによって可能となったのだろう。 したがって,問いからわかったことが,自 もこんなふうにできるという未知の自 の姿の 発見となり,またそうした疑問の過程を「未知への問い」と名づけたのだろう。 しかし,その発見とは,実はこの学生が,普段の人間関係のなかでとっている態度の発見 だったのではなかろうか。そのことは,他のメンバーからの問いかけに「こんなにも他人の ことをわかりたいという気持ちになったことは始めてだった」という本人のことばからもわ かる。施設という未知の世界で問いを発し,発見したことは,普段あたりまえにしていてい ⑺
るがゆえに,気づいていなかった既知の自 の姿(他者を一生懸命わかろうとしない)の発 見だったのである。したがって,正確に表現すれば,この学生は未知への問いではなく,「既 知への問い」を行っていたのである。そして,既知の自 を発見していくなかで,自 の課 題と向き合い,それを乗り越えようとしていたのである。 「自 のことは自 が一番わかっているはず」「これまでの経験から人間とはどういうもの かを自 なりに理解している」といった普段あたりまえにしていることを疑問に思うこと, 問いを発することができることが,学びの出発点になっていく。人と人のかかわりにおける 実践を重視する社会福祉学においては,特にこの点が大切なことになる。この学生の発した 「Aさんはなぜ私にこんな言動をとるのだろうか 」という問いにおいては,それまでの経験 からもっている自 なりの人間理解が前提となっている。そのため,人間を理解していこう とするとき,これまで生きてきた過去が現在に集約され,今を大事にしながら同時に,これ からどのように生きていくかを態度表明していくなかで問いは生まれてくることになる。し たがって,未知への問いをすることよりも,多くの場合に既知への問いが意味をもってくる のである。この既知への問いのなかで,自 が人にかかわる基本的態度が課題となり,この 学生は相手をわかろうとしながら,実は学生自身が変容しながら,わかっていったのである。 この点に関して,人間関係の現実から出発する「人間関係学」を提唱する早坂泰次郎が, 数十年前に指摘している次のことが,現在も生々しいものとして響いてくる。「人間の問いに は,いつも人間についての先取りがあるが,こうした先取りが,人間への問いかけの答えと なって正しく展開されてゆくためには,その先取りは,完結することのない,無限の過程に よって絶えず超えてゆかねばならないはずである。(傍点筆者)」 1人の学生の体験を基にしながら実習の振り返り作業をしていくことは,お互いが真剣に 相手の話を受けとめるという対話的態度を生み出し,自 の体験から学んだことへの確証を 得ようとする機会となっていく。その結果,この場合には,自 の体験から学んだことを, 日常の自 の人にかかわる姿につなげることによって, えを深める作業を行うことができ たのである。これが,まさしく体験を大切にすることであり,体験からの発見から体験の概 念化を生み出すことにもなるのである。 このように見てくると,体験とは個人のなかに留めて終わらせるのではなく,それを他者 に話し,伝え,共有化していくなかで,大切にできることがわかる。確かに,体験とはこの 例からも明らかなように,個人にとってのできごとである。そのため,ともすれば体験して もらわなければわからないという体験主義に陥る危険性もある。しかし,了解しあえるよう に伝えていくこと,ことばにすることを助けていくことによって,体験からの学びは個々人 の体験に留まらず,共有化し,学問としていくことが可能なのである。こうした学びのトレ ーニングによって,早坂が言うように「体験を大事にすることは,同時に学問を大事にする ⑻
こと」 になっていくのである。 3. 「臨床への学」から「臨床からの学」へ (1)学問の知の優位と実践 体験を大切にすることは,単に実践や実習を個人の技や発見に留めることでなく,体験か ら学問にしていくことであることを強調してきた。しかし,研究者が生み出した理論や原則 を実践の場に応用していくことが,実践や実習に対するこれまでの一般的な えである。そ の方向性とは,学問の知が実践としての臨床の場へ応用され,実践の場においては,その知 を って課題へと取り組むというものである。そのために,新しい えが現場に導入される と,それまでの実践が新しい理論のことばによって説明されることになる。しかし,それは 一種の流行のようなもので,熱が冷めると忘れられていき,また新しいものに変わっていく という感じであった。そうしたなかで,実践の現実のなかで格闘し,臨床家として目覚めて いる人にとっては,研究者や学問に対して不全感を抱き続けるという不幸な現象も起こって いる。こうした研究と実践の関係とは,ひとことで表せば理論から実践というなかで,常に 「臨床への学」であったということができよう。 また,基礎と応用という えのなかでは,大学や研修で学んだことを,実践や実習は実践 の場で実際に ってみることであった。また,大学などで学んだ基礎をベースにしながら, 専門的なことを学ぶというものであった。そのため実習を体験した一部の学生から,「大学で 学んだことは理想であり,実践の現場はちがう」ということを聞くことがある。こうした声 とは,本来はその学生の学び方を含めた基礎としての教育が問われているのだが,先のこと ばのように,「現実は,実践の場に行ってみなければわからないこと」で済まされてしまって いる。 こうした理論と実践,さらには基礎と応用といったスタンスの問題点を明らかにするため に, 野を問わずに実践的特徴を表すことばとして われている「臨床」という概念をキイ ワードとして次に検討していきたい。 (2)「場」から「基本的な態度」としての臨床へ 臨床ということばは,医学や看護において基礎医学と臨床医学,基礎看護と臨床看護と言 われるように,基礎に対して応用という意味で われることが多い。また,臨床医学や臨床 心理学などにおいては,治療を行う意味もある。そこに共通していることは,応用したり, 治療するために「実践の場にいる」ことが必要不可欠とされている。よく聞かれる「臨床の 経験があるか,ないか」という質問は,臨床の場にいたことがあるかを聞いている。質問す る人も,答える人も,臨床の仕事を適切に行ってきたかとは関係なく,場にいたことがある こと,経験年数などを話題にしている。こうした現状においては,臨床とは,実践の場と同 ⑼
じ意味合いで われ,場としての臨床を示していることがわかる。 ここでは,実習教育を例にとりながら,場としての臨床という えに疑問を投げかけてみ よう。多くの学生にとって,始めての実践の場に入っていくことは,それ自体が緊張して大 変なことである。彼らは,そこに入っていくことからすでに学んでいるのだが,実習のなか では個別の利用者とのかかわりから学べるかということが,大きな課題となる。特別養護老 人ホームで実習した女子学生の事例から えてみたい。 実習で一番印象に残っていることは,ある男性の利用者(Bさん)のことです。Bさんは, 脳血管障害のために右片麻痺で,言語障害もありました。しかし,少しでもよくなって,家 に帰りたいという強い気持ちをもっていました。理学療法士からは,施設のリハビリテーシ ョンは機能回復が主たる目的ではなく,機能低下をしないように現状を維持することにある と聞いていましたが,熱心に自 から機能訓練に取り組む姿に私の気持ちは動かされました。 居室を訪ねて,一緒に話しをしていくなかで(実際には私が聴くということがほとんどでした が),奥さんに対する思いやご自身の生活のことを,いろいろと教えてもらいました。そして, いつの間にか,Bさんが自 でするリハビリを私も一緒に行うようになっていました。 実習生の私は,何もすることはできなかったのですが,こんなに人の話しを熱心に聴き, ゆったりとした気持ちのなかで,「人とともにいる」ことができたのは,始めての体験でした。 そして,同時に他者のことをそのまま受け入れるなかで,今の自 を受け入れられることが できるのだと,実感できました。それ以降,人のことを受けとめる態度,話しを聴く姿勢が 変わっていることに気づきました。私は,実習生として何か利用者の役に立ちたいと思い実 習をしていたのですが,実は実習のなかでたくさんのことを教えてもらっていことがわかり ました。 この学生は,実習前の学習も真剣に取り組んできたし,実習も本当に真面目に行っていた。 施設の実習指導者からも,よくやっていると評価されていた。しかし,学生自身は,このBさ んとのかかわりをもつ以前は,確かに実習のなかで大学では学べない実践のことをいろいろ 学ぶ機会をもててはいるが,「本当に実習のなかだけでしか学べないことをできているのかと いう不全感をもっていた」と言っている。そうしたなかで,Bさんとのかかわりから,彼女 の実習は大きく変わっていった。 彼女の体験したことは,何もできない,何もすることがないなかで,逆に今まで体験した ことのない「人とともにいる」ということができた。そのことが,ただBさんの話しを聴き, Bさんをありのまま受けとめることから可能になったわけである。これは,実践の場に行け ば,誰でも,いつでもできることではなく,学生の利用者をわかりたいといという強い気持
ちから生まれたものである。つまり,実習という場で,「今」という二度と戻らない時を,全 力でBさんにかかわることによってできたことなのである。そして,この自 の人にかかわ る態度の発見が,まさしく臨床ということの意味を表している。 この実習生の例からもわかるように,臨床とはただ実践の場にいることではなく,「1人の 人のために自己自身を投入し,その人と全人格を傾けて『ともにいる』態度」 という意味 を表すことばである。この基本的な人にかかわる態度としての臨床ということが,対人援助 にかかわる人たちに求められることであり,実習のなかで学んで欲しいことなのである。そ れが現場へ行きただ実践体験を積むことだけではなく,体験を大切にして体験から学ぶとい うことになる。この体験は,実習のことに止まらず,その後の人へのかかわりにも大きな意 味をもたらすことになる。つまり,学生が実習のなかで臨床的態度を学ぶことかできれば, 人へのかかわりの一つの転機を迎えられることになる。しかし,たとえ同じ実習生が,同じ 利用者に再び接する機会があったとしても,次に同じようにできるという保証はない。そこ が,臨床の厳しいところである。なぜならば,「ともにいるという態度」は,一回・一回の今 を全力で相手にコミットしていくことでしか成立しないからである。事実,この学生も,実 習の終了後に「実習の時はあんなに人とともにいること,人を受けとめることができたのに, なぜ今の日常生活ではできないのか」と悩む時期があった。そのように,一度できたことは 「ある」こととして不変なものとして理解しがちになるのだが,実は「他者とともに『いる』 ということは,常に『いなくなる』という可能性を示している」 のである。したがって, 臨床的態度とは,どんなに経験を積んでも,いつも始めから行っていく態度なのである。 (3)方法としての臨床 学生が,実習のなかで利用者と真剣に向かい合い,相手をわかろうとしていくとき,そこ で体験していることは,自 が主体となって積極的に他者に働きかけることをすることだと 思いがちである。しかし,先のBさんへの実習生のかかわりにも表れているように,聴くこ とやありのままの相手を受け入れるなかで,実は「他者からの働きかけを受けとめながら振 る舞う」 ということがわかる。そして,他者を受けとめるというなかで,「ともにいる」と いうことが可能となっていくのである。気持ちを感じることでき,相手のことが見えるよう になったり,話しが聴けるなかで,臨床は成り立っていることがわかろう。こうした体験の なかから生まれてくる「臨床としての知」が,社会福祉の実践には必要不可欠なものになる。 ただし,同時に,臨床としての知を本当に大切にし,いわゆる学問の知をとらえ直すために は,科学の知に変わるモデルとして臨床の知をとらえるのではなく,また臨床の重要性を認 識したり,その知識を増やすことで済むことではない。大切なことは,常に「臨床の知から」 の出発であり,実践だけでなく,研究や教育においても一貫して臨床的態度で行われている かで証明できるものなのである。
ここでは,臨床とは単に実践の場を指すものではなく,もちろん実践を臨床的に行えるこ とが重要なことであるが,それを可能とするためにも人にかかわる基本的態度としての臨床 の大切さを示してきた。それは,場や対象者にかかわりなく,いつでも必要なものである。 それを「方法としての臨床」と呼ぶこととする。この方法としての臨床のもつ意義とは,本 稿のテーマである実習教育との関連で言えば,実習前の学内を中心とした学び,メインプロ グラムである配属実習,実習後の振り返りとしての学びの統合化において,一貫して臨床的 な態度で学ぶことをできるようにしていくことである。この学びのプロセスにおいて重要な 点とは,事前教育の段階から学生が自 自身の人へかかわる姿に気づいていき,第3者の問 題としてではなく,いかに自 自身の問題としてとらえられるようにしていくかにかかって いる。それが,本番の配属実習において自 自身の課題を発見したり,明確化していくこと につながっていく。次に,ある学生の実習前に立てた「実習のねらい」からそのこと えて みたい。なお,この学生は,すでに社会福祉援助技術現場実習を終了しており,医療ソーシ ャルワーカーへの就職を希望しており,そのための実習である。 私の両親は共に看護職で,今までどちらかというと治療を中心とした看護の仕事の話しを 聞いてきた。しかし,病院内には患者の生活上の問題にかかわり,援助をする医療ソーシャ ルワーカーがいることを知り,その仕事に関心をもった。 他方で,大学に入り,これまで社会福祉のなかでも特に対人援助にかかわることを学んで きて,私はソーシャルワークという以前に,人間関係において人と向き合うこと,自 の えや気持ちを相手に伝えることができていないという,自 の課題に直面した。 今回,病院でのソーシャルワーカー業務の実際や役割を体験的に学ぶなかで,自 の人に かかわる態度と結びつけ,これからソーシャルワーカーになるために,私は何を身につけた らいいのか,欠けているものに気づけるような実習にしたい。 この学生は,上記のねらいを基にして,具体的な3つの実習課題を立てている。紙面の都 合ですべてを紹介できないが,その一つを紹介してみたい。 課題1.実習病院で出会う人たちの話を聴く,受けとめるということから,相手の気持ちを感 じとり,自 の気持ちや えを伝えられるようにする。 患者とかかわるとき,ただ聴くだけではなく,ちょっとした会話や態度,表情から少しで も相手を感じとるということを体験的に学ぶ。患者だけではなく,他の職員や担当のワーカ ーからスーパービジョンを受ける際にも,自 の気持ちや えを伝え,人にかかわる態度で の自 の課題を発見する。
実習のねらいに示されている内容は,この学生のこれまでの対人援助の学びのなかから, 明らかになっている自 の課題が示されている。どこかのテキストをそのまま ったり,あ るべき姿を課題とするのではなく,自 自身の人間関係における「既知への問い」として浮 かび上がり,実習の場だけでなく自 の生きる態度として問われていることがわかろう。ま た,それが具体的な課題として結びついている。こうした臨床的な態度において事前学習の 時点から学んでいくことが,配属実習におけるソーシャルワークの学びを自 自身の学びと して,先に実習のテキストから紹介したように「個々の体験が普遍的な経験となり思想に深 まっていくような,自らの生活と結びついた深い人間的な学び方が求められる」こととなる ように拡げたり,深めたりすることを可能とするのである。 方法としての臨床がもたらす意義は,実践の場における体験に基づいた「臨床の知」だけ にあるのではなく,いつでも,どこでも,誰とでも,臨床的な態度で対応できているかを問 いかけていることにある。もちろん,学生にとって,それをトレーニングする最高の機会は, 配属実習である。しかし,仮に実習中に自 の課題と直面することがうまくできなくても, 今度は事後に「なぜ,できなかったか」を一緒に えていくことによって,自 のものとし て行くことができる。図1「臨床の概念と実習教育のプロセス」として示したように,場と しての臨床が配属実習だけに焦点をあてているのに対して,方法としての臨床は事前から事 後にいたる一貫した臨床的態度に基づく教育を可能とするのである。 このように見てくると,実習教育とは,予め学んだ知識を実習のなかで えたり,理論を 実践に応用して検証していくといったことでだけではなく,臨床的な態度を身につけていく ことが基本となることがハッキリしてくる。これまでの社会福祉学や教育の方向性が,学問 の世界から「臨床へ」のアプローチであったのに対して,実習教育の基礎づけから明らかに なったことは,「臨床から」 の学問へのアプローチに大きく方向転換をする必要がわかる。 図1 臨床の概念と実習教育のプロセス 場としての臨床 方法としての臨床 事前学習 配属実習 事後学習
ただし,ここで言う臨床とは,既に示してきたように,単に実践の場を指しているものでは ない。したがって,ここでの方向転換とは,今までとは逆の実践から学問へというアプロー チを単純に主張しているのではない。実践の場においても,学内における学びにおいても, いつでも必要となる人にかかわる基本的な態度としての臨床であり,常に態度としての臨床 的な視点から学問をとらえ直すことである。実習を,特にその特徴である体験に基づいた学 びを大切にしていくことによって,実践のなかで学ぶ教育の機会に止まらず,それを一つの 学問としていくことが可能であり,それが社会福祉学の本来のもつ実践的な性格を確かなも のにしていってくれるのである。 4.臨床的視点からの実習教育 (1)基礎の結晶としての応用 これまで示してきた臨床的な態度とは,現場の専門家ならば誰でも身につけているかとい うと,残念ながらそうではないのが現状である。たとえば,筆者は,自 自身のライフワー クの仕事して,ソーシャルワーカー,看護職,小中学 の教員を対象者にして,対人援助の 専門職のリーダーシップや援助をテーマとして「グループ臨床」 を行ってきている。最近 では,職種別に行うものだけでなく,実践に必要なチームとしてグループを行う機会がある。 何れにしても,このグループ臨床とは,参加メンバーにとって人間関係のトレーニングを目 的としている。そこで参加者たちが学んでいくことは,決して専門的な知識や技術ではなく, お互いが人の話しを聴き,受けとめていくなかで,自 の人にかかわる態度を発見していく ことにある。それは,参加者が新人であれ,経験が豊富なベテランであっても,管理者でも 共通している。 このグループでの学びの一例をあげれば,共通して参加者たちは,日頃から利用者,患者, 生徒といった自 たちの仕事の対象者を大切にしたいという えをもっている。しかし,ほ とんどのメンバーが,「一緒に仕事をしている人たちのことを大事にするということは えた ことがない」と言う。それは,特に同じ組織や職場のメンバーの場合に,グループのなかで 「今まで一緒に働いている人の気持ちをこんなに一生懸命聴いたことがなかった」などいう ことばに表されるように,お互いが大切にしていなかったことをハッキリわかることからも 明らかである。なぜ,同じ人間であっても,場合によっては家族よりも一緒にいる時間が長 いことがある仲間に対して,呼び名が異なるだけでこんなことが起こるのだろうか。こうし たことが明らかになっていくなかで,今度は「本当に対象者を大切にできていたのか」とい う問いが出てき,グループのなかで各メンバーが自 の仲間へかかわる基本的な態度を発見 していくことになる。 このように,臨床的な態度とは,学生に限らず,専門家であっても完璧に備えている人は
誰もいない。言い換えれば,人間関係の基本となる問題が問われており,そのことに気づい て対応できるかにかかっているのだが,それは常に実践において証明していくことしかでき ない。この事実は,当然のことだが今度は「基礎に対する応用であるといった え」に疑問 を投げかけることになる。確かに実践の場では,どんなに経験を積んだ人であっても,始め ての問題に出くわすことの連続である。そこでは,基本を押さえながら応用問題として対応 していく姿勢が見られるし,それで対応可能なこともある。しかし,単にマニュアルとして 対応を学ぶのではなく,文字通り応用ができるためには,矛盾するようではあるが,常に基 礎からの出発が大切となる。 ここで必要なことは,基礎と応用の内容と両者の関係を明らかにすることである。ブトゥ リム(Z.Butrym)が,「ソーシャルワークにとって共通の中心(コア)となることは,特定の実践 のなかでしかその有用性を明らかにできない」 と表現しているように,一つには基礎は単 に応用されるだけではなく,応用(実践)のなかでしかその有用性を証明できないのである。 この両者の関係を,人間関係「への」学から人間関係「からの」学を提唱する早坂は,さら に積極的に次のように述べている。「基礎(学)は応用の中に自らを結晶させ,応用は基礎(学) の中に自らの結晶を見出していくのである。すなわち,現実科学としての人間科学は基礎科 学であると同時に応用科学でもある」 ということになる。つまり,基礎を学ぶということ は,常に基礎という範囲に留まるのではなく,すでに応用へのつながりの可能性のなかにい るということであり,その意味において基礎が大切になるのである。では,実習教育や実践 において,基礎と応用との関係はどのようになったらいいのか,具体的に えてみよう。 (2)基礎工事としての実習教育 実習が単なる学内で学んだことの応用ではないことが,これまでの検討から明らかになっ た。そうしたなかで早坂の言う,「基礎(学)は応用の中に自らを結晶させる」という学びは, 実際にはどのように行われることになるのだろうか。それは,本稿のなかで紹介した実習生 の例からもわかるように,臨床的な態度を学んでいくということは,人間関係の基本となる ことが問われながら学んでいくことである。したがって,実習とは専門的なことを学ぶとい うよりも,むしろ基礎を学ぶという意味で「基礎工事」をすることであり,そのためのトレ ーニングの時と場が提供されることになる。実践の場で学ぶことは,すぐに何か専門的なこ とを学ぶ「専門工事」を学生は期待するし,実際にそのような教育もされていることがある が,大事なことはきちんと基礎工事ができるかにかかっている。図2「対人援助を学ぶ方法」 として示したように,専門工事とは基礎工事の上に乗っかるものであり,基礎ができていな いと,すぐにぐらついてしまうことになる。実習でよくある例では,肝腎の基礎ができてい ないところで,専門的なことばかりに目が行って援助を実践しようとして,「こうあるべきだ」 という えばかりに囚われて,壁にぶち当たり身動きとれなくなることがある。
この基礎工事をするということは,特別養護老人ホームなどの実習で話題となる,介護の 実習なのか,ソーシャルワークの実習かという問題にも新たな視点を提供してくれる。大学 の方針や学生によっては,「ソーシャルワーカーになるために実習をしているので,介護に関 心はない,時にはする必要がない」という意見が聞かれる。そうした議論においては,仕事 として「何をするの人なのか」ということが念頭におかれ,することのちがいに焦点が当た っている。しかし,基本的な態度としての臨床とは,何をするにも共通して求められること である。介護という直接的にお年寄りとふれあう機会を通して,単に介護がうまくできるか どうかではなく,利用者の気持ちを理解し,話しを聴き,相手をうけとめるということを学 んでいるのである。そのことは,いわゆる面接における実習生の聴く態度,利用者の理解に かかわることなどを学ぶ機会につながっているのである。また,利用者が施設での生活をど のように受けとめているか,家族との関係を聴かせてもらえるチャンスなのでもある。単純 に「する」ことによって区 するのではなく,どのような視点で実習していくかが大切かが わかろう。 実習とは,この基礎工事を明確にする最初のステップである。そして,終わることのない 基礎工事の旅へ出発することになる。なぜならば,先に現場の専門家たちへのグループ臨床 を紹介したなかで示したように,どんなに経験を積んだ専門家であっても,常にこの基礎工 事を行っている。そのことの意味とは,「どんなベテランであっても,常に基礎工事から問わ れながら実践している」 ということである。したがって,真の意味のベテランとは,学生 や新人以上に基礎工事を大事にしている人だと言うことができよう。逆に,「自 は基礎工事 は完了してる」と思っている専門家は,いつのまにか自 の経験してきたことや知識に頼っ 図2 対人援助を学ぶ方法 基礎工事から常に問われる 常に出発点になる 専 門 工 事 (援助関係) 基 礎 工 事 (基本となる人間関係) 佐藤俊一『対人援助グループからの発見…「与える」から「受けとめる」力の援助へ』p.45 中央法規(一部修正)2001年
て,目の前の利用者が見えずに,相手とともにいることができない存在になってしまう。 実習教育において,人にかかわる態度としての臨床を学んでいくことは,将来の専門家とし て必要な基礎工事としての学びを続けるための個々の課題を見つけることになる。そして, 自 自身の課題を明確化し,それを乗り越えるプロセスのなかで,私たちは専門的なるもの を得る機会が与えられる。しかし,実践をしていくこととは,永久に続く自 の課題への取 り組みをすることであり,どこまでいっても完全に課題を乗り越えてしまう人はいない。こ の常に乗り越えていくというプロセスを支えてくれるのが基礎工事であり,実習において将 来への学びの指針を見つけ,自 のものにできることが,まさしく「臨床から」の知として の学びであり,それを可能にするのが「臨床から」の学としての社会福祉学の役割となろう。 注 (1)社会福祉士養成課程においては,平成11年11月に「社会福祉士養成施設等における授業科目の目 標及び内容並びに介護福祉士養成施設等における授業科目の目標及び内容の改正」が示され,そ のなかで実習科目が「社会福祉援助技術現場実習」と「社会福祉援助技術現場実習指導」とに区 され,その目標と内容がこれまでよりも明確にされている。 (2)本稿において取り扱う実習は,社会福祉士と精神保 福祉士養成を中心としたソーシャルワーカ ー養成のための実習を念頭においているが,基本的には他の社会福祉関係の実習にも共通した課 題となっていく。 (3)広辞苑(第四版)によれば,体験とは「自 が身をもって経験すること。また,その経験」と示さ れているが,これではことばの言い換えにしかなっていない。実習教育を論じていくにあたって, 学生が身体でわかったり,感じることの意味を えるために,本稿においては基本的に「体験」 ということばで表していく。 体験と似通った表現として,「経験」があり,学問の世界では「経験科学」と言われるように, 経験という表現の方が一般的になっている。両者の区 としては,次の文献にしたがって「体験 とは身を浸し,感じとるままのできごとであり,経験とは思 や知性によって多かれ少なかれ整 理された体験」としておく。 早坂泰次郎「体験と学問-辞書に学ぶ-」早坂泰次郎編著『現場からの現象学-本質学から現実学へ -』p.105 川島書店 1999年 (4)ボルノー(O.F.Bollnow)『問いへの教育』森田孝/大塚恵一訳編 p.184 川島書店 1978年 (5)同上 p.184 (6)同上 pp.182-184 (7)同上 p.186 (8)宮田和明他編『三訂 社会福祉実習 第3版』p.4 中央法規出版 2002年 (9)数少ない一つとして,高木邦明『障害者福祉と実習教育の展開』中央法規出版 2000年をあげるこ とができる。 (10)ボルノー(O.F.Bollnow) 前掲書 p.204 (11)中村雄次郎『臨床の知とは何か』 pp.126-130 岩波新書 1992年 (12)同上 p.132 (13)同上 p.135 (14)藤岡完治他『学生とともに る臨床実習指導ワークブック 第2版』p.3 医学書院 2001年
(15)早坂泰次郎「人間存在と人間関係」谷口隆之助他『人間存在の心理学』p.179 川島書店1966年 (16)早坂泰次郎「体験と学問-辞書に学ぶ-」早坂泰次郎編著『現場からの現象学-本質学から現実学 へ-』p.105 川島書店 1999年 (17)場としての臨床の問題点の詳細については,次の文献を参照されたい。 早坂泰次郎 前掲書(16) 佐藤俊一『対人援助グループからの発見-「与える」から「受けとめる」力の援助へ-』中央法規 出版 2001年 (18)早坂泰次郎「感性と人間関係」日野原重明編 『アートとヒューマニティ』 中央法規出版 pp.50 -52 (19)この点についての詳細は,足立叡「対人関係と人間関係存在」pp.113-129早坂泰次郎編著『<関 係性>の人間学』川島書店を参照されたい。 (20)中村雄次郎 前掲書 p.63 (21)「臨床からの学」という発想は,「場としての臨床・方法としての臨床-臨床からの知としての現 象学」前掲書(16)からヒントを得ている。 (22)グループ臨床については,佐藤俊一 前掲書(17)を参照されたい。 (23)ブトゥリム(Z.Butrym)『ソーシャルワークとは何か』 川田誉音訳 pp.102-106 川島書店1986年 (24)早坂泰次郎『人間関係学序説-現象学的社会心理学の展開-』p.42 川島書店 1991年 (25)佐藤俊一 前掲書 pp.42-46
A Proposition to Create the Academic Discipline of
Field Practicum in Social Work
Conversion from Studies intended for Clinical Application to Studies derived from Clinical Experience
Shunichi SATO
Though field practicum are considered to be an important opportunity for experiential learning in the field of Social Welfare Education,the significance of the influence of what has been learned through such opportunities to the entire field of Social Welfare Education has not been fully verified. And neither do the discoveries through actual experiential field practicum presently pose any question in quest of the ideal state of the field of Science of Social Welfare,which perceives practical experience as an important factor. The root lies in the indubitable fact that the significance of field practicum brought about by its characteristic style of learning through experience,notably due to its being a study through experience , is perceived to remain at an inferior academic status by several researchers as well as among college educations who are inclined to regard scientific knowledge very highly.
This paper emphasizes, as a characteristic feature of field practicum education, its ability to let the students have questions to ask . The questions referred to here are not those intended for accumulation of knowledge, but such that are characteristically portrayed in oneself being continuously questioned by others,resulting in an everlasting study of self.
The paper then demonstrates, through actual case samples in field practicum, the meaning of learning from experience,that it s significance is found,not in questioning on unknown aspects,but mostly in questioning on known but taken for granted aspects. By questioning on known aspects,one may be able to discover his/her own basic attitude in facing others, through which one may acquire methodology in learning, and be able to interconnect several other learning procedures previously attained.
The verification of learning through field practicum experiences throws doubt to the trend that gives predominant positions to academic studies such as published researches and theories, and to the standpoint of applying the basics learned in colleges in actual
practices. Such perspective heavily weighing scientific knowledge is criticized using clinical as key-concept. Clinical in general refers to practical applications, but in this paper it rather refers to being with others , which implies ones basic attitude in relating with others. The concept is entitled clinical as methodology , and the paper tries to examine fundamental academic premises for experiential learning using actual field practicum case samples. Learning ones own basic attitudes in relating with others through such clinical perspective,is a life-long continuous basic construction process, not only for students but for professional researchers specializing in the field as well,and ones professionalism understandably is acquired through constantly being questioned on basic aspects.