〈講演会『弥生・古墳集落とモノ作り』記録3〉山 城地域の前・中期古墳と集落の動態
著者 古川 匠
雑誌名 同志社大学歴史資料館館報
号 21
ページ 29‑44
発行年 2018‑12‑31
権利 同志社大学歴史資料館
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000500
<講演会『弥生・古墳集落とモノ作り』記録3>
山城地域の前・中期古墳と集落の動態
古川 匠
古川と申します。よろしくお願いいたします。私もお詫びをすることが一つあります。私、実は晴 れ男のはずなのですが、今日は、若林先生の雨男のパワーに勝てることができず、残念ながら雨にな ってしまいました。今後、徳を積んでいきたいと思います。よろしくお願いいたします。
私は京都府教育委員会に所属しており、専門は古墳時代です。ここ数年集落について調べることが 多く、この研究をさせていただくことになりました。元々が古墳の研究をやっておりましたので、自 然と、古墳と集落との関係を調べるようになったというところです。
最初、若林先生からご説明がありましたが、京都市も含めた現在の京都府南部、山城地域の特徴と して挙げられるのは、同志社大学を初めとして、考古学の講座を持つ大学が集まっていることです。
おそらく東京以外でこれだけの数が集まっているのは京都だけではないかと思いますが、各大学は古 くから古墳の学術調査を実施しています。日本で最古の考古学専攻である京都大学考古学研究室が 1916年に設立されて、昨年に100周年を迎えられました。また、私が所属しております京都府教育委 員会を初め、府内自治体が行政目的の発掘調査を実施しています。開発に伴うものだけでなく、古墳 を歴史的な資産として整備することなどを目的とした調査も実施しています。1917年に「京都府史跡 勝地調査会」という組織が設立され、去年の京都大学に続きまして今年で100周年になります。
山城地域は、30面以上の銅鏡が出土した木津川市山城町の椿井大塚山古墳を初めとして、大学や自 治体による古墳の調査成果が累積されている貴重な地域です。そして、この時代には畿内と言う言葉 はないので、カギ括弧付きで「畿内」としますが、山城地域は、「畿内」と呼ばれる近畿地方中央部 の一部に相当し、古墳時代前期初頭から終末期、飛鳥時代にかけての古墳がまんべんなく存在してい ます。山城地域の古墳はヤマト王権を検討するための貴重な研究対象なのです。そして、歴史を愛好 する市民の方がたくさんいらっしゃる。市民の方々の活動が遺跡の保存に繫がっています。こうした 色々な要素があり、全国的に見ても古墳の解明が相当進んでいる地域だということが言えます。
その一方で、開発行為に伴う発掘調査は主に地方自治体が取り組んでおり、集落遺跡の解明も進ん でいます。そして、古墳と集落遺跡の関係についても少しずつ研究がされ、主に、実際に集落遺跡を 発掘調査した自体体の研究者が、小さな地域ごとや各自治体の単位で研究を進めてきました。しかし、
今回のような「山城国」という旧国の単位でまとまった集落の研究がされた事例は、古墳研究と比べ ると明らかに少ないのです。その理由としては、古墳よりも集落の方が規模が大きく、広い面積を調 査しないと実態がなかなか解明できないという問題があります。古くからある市街地と古墳時代の集 落遺跡が重複するケースが多く、大規模開発事業に伴う発掘調査もありましたが、現在の日本は人口 減少時代に入っておりますので、今後、開発に伴う発掘調査はあまり多く見込めません。これ以上、
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研究の材料が増えるのは難しいかもしれません。このような限界はありますが、長年にわたる調査の 蓄積によって、古墳時代各段階の集落の立地や内容はある程度の検討が可能です。私は以前、2011年 から2014年にかけて桂川右岸地域、別名、「乙訓地域」の古墳時代集落を悉皆的に検討しました。そ して、今回はさらに山城地域全体に検討対象を広げてみたわけです。
具体的にどのような検討をしたかと申しますと、弥生時代後期から古墳時代前・中期までの集落で 実際に人が住んでいたと思われる竪穴建物の形態とサイズの変遷を検討いたしました。弥生時代と古 墳時代で、集落の中で何が変わるのか、という視点ですね。それから、古墳と集落との関係をどう読 み解くかですが、先ほど若林先生がおっしゃったことのおさらいになりますが、古墳が作られた時期 に、その近隣に集落が存在するかと言う問題があります。ただ、近年の研究で山城地域を含む近畿地 方全般で古墳の近隣に集落が立地する傾向があることが分かってきました。2016年の4月に古代学研 究会が刊行した書籍で詳しく紹介されています。ただ、私は新しい視点として、古墳の近隣に位置す る集落は、他の集落と何が違うのかということを問題設定として据えたいと思います。その理由とし て、大型古墳に葬られた有力者、首長が古墳の近隣を自分の本拠地としたのか、という問いがあるか らです。古墳の近隣集落に居住していた集団は、古墳造営に従事させられていた、より下位の階層の 人たちであった可能性は無いのかと。古墳時代の銅鏡の研究をされている京都大学の下垣仁志先生が このような問いをされています。古墳時代以前の弥生時代後期後半から後期末は、日本列島の広い範 囲で活発な交流が行われる時代でした。広範囲のネットワークが形成される社会で、古墳を造るよう な有力者が登場してくる。例えば桂川右岸地域の古墳を発掘すると、日本海側の但馬地域と同じ造り 方の石 が見つかっています。古墳に葬られた有力な人たちが、生前、活発に遠距離を行き来する社 会であったとすれば、古墳が造られた場所が古墳に葬られた人の本拠地だったとは限らないのではな いか、そんな問いがあり、それを集落から解明できないだろうか、という問題意識を持って研究をい たしました。
図1は山城地域の地図で、左側が北部で右側が南部になります。これが巨椋池ですね。現在、巨椋 池は存在しませんが、巨椋池から北が山城地域北部で、南が山城地域南部ということになります。私 がこれまで研究をしてきた桂川右岸は、古墳のあるところの近くには集落がいっぱいあります。それ に対して、木津川右岸と左岸では、集落と古墳とが対応するところもあれば、しないところもあり、
どんな違いがあるのかを解明していきたいと思います。
まず、弥生時代後期の集落構造なのですが、図2は長岡京市の長法寺谷山遺跡という集落遺跡で、
火災で竪穴建物が何棟か焼けており、これらの建物が同時にあったのではないかと考えられています が、竪穴建物を見てみますと、大中小の規模の竪穴建物が小さな群を形成しています。こうした竪穴 建物群がいくつか集まって、集落を構成するのが弥生時代後期の特徴です。集落立地としては、丘陵 上にも低地にもあります。それから、弥生時代中期や、先ほど真鍋さんがご説明された西京極遺跡の ような、後期前半ほど墓域は顕在化しませんが、居住域の近隣に墓域がありそうです。内容としては 図3のように、規模の大きな竪穴建物の周りに中小規模の竪穴建物があり、墓域があります。図3の 集落1と集落2の間には規模の大小はありますが、集落間の階層差はよくわかりません。そして、庄 講演会『弥生・古墳集落とモノ作り』記録3
図1(上)・2(下)
同志社大学歴史資料館館報第21号
図3(上)・4(下) 講演会『弥生・古墳集落とモノ作り』記録3
図5(上)・6(下)
同志社大学歴史資料館館報第21号
図7(上)・8(下) 講演会『弥生・古墳集落とモノ作り』記録3
図9(上)・10(下)
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図11(上)・12(下) 講演会『弥生・古墳集落とモノ作り』記録3
図13(上)・14(下)
同志社大学歴史資料館館報第21号
図15(上)・16(下) 講演会『弥生・古墳集落とモノ作り』記録3
内式期、弥生時代後期末の集落構造をみますと、例として挙げているのが、京都市左京区の植物園北 遺跡(図4)ですが、大きい竪穴建物の周囲に中小規模の竪穴建物が点在し、集落の構造は、実は弥 生時代後期後半からそんなに変わりません。ただ、集落立地は低地に集中します。この時期は、列島 規模で、他地域の土器が、河川を介した交通の拠点と考えられる河川沿いの集落で多く出土するのが 特徴です。京都市山科区の中臣遺跡(図5)は、居住域が広く、その中で、鉄器生産をしているよう ですが、すぐ近くには墓域があることがわかります。一方で、墓域だけが検出されている遺跡もありま す。墓域しかない遺跡(墓地)なのか、それとも近隣に居住域があるのかまだ分かりませんが、この ような遺跡の存在が庄内式期の山城地域の特徴で、無視できない特徴であることがわかっております。
集落構造自体は大きく変わらないけれども、河川沿いには人が住むようになっていくということを 説明しましたが、ケーススタディとして桂川右岸を取り上げたのが図6です。弥生時代後期は、先ほ ど説明しました長法寺谷山遺跡等があり、桂川から西に遠ざかるほど標高が高くなりますが、この辺 の標高の高いところに集落が営まれます。後期末になると、標高の低い川の近くに集落が移動します。
更に、古墳時代初頭の庄内式期後半になると、小泉川という小河川中流域の集落が廃絶します。私は 以前、この現象を重要視しました。桂川右岸地域の、淀川から丹波、丹後まで通る、南北ルート沿い に集落立地が集中するようになる変化があります。単に生産力だけ考えると、小泉川中流域に人が住 まなくなることは理解ができません。実際、2〜300年後の古墳時代後期になりますと、人がまた一 斉に住み始める状況があります。何故古墳時代初頭に集落が廃絶するのかというと、桂川右岸地域で 南北に集落が連なることから、農業生産とはまた違う理由、広域流通の活発化という社会背景があっ たのではないかと考えています。ただし、突出した大型の集落が存在するかというと、そういうわけ ではなく、ある程度の規模の集落がいくつか点在しているという状況です。集落構造は弥生時代後期 後半から大きく変わらず、大中小の竪穴建物からなる群が集まって集落を形成しています。
弥生時代後期から古墳時代前期初頭の集落遺跡で、中海道遺跡が桂川右岸にあります。このすぐ近 くに、京都府内でおそらく一番古いと思われる前方後円墳の五塚原古墳があります。五塚原古墳造営 の直前か同時期に、中海道遺跡(図7)では溝で囲まれた大型の掘立柱建物が建てられます。これま で、被葬者と関係がある施設跡ではないかと考えられてきた遺構で、古墳時代の有力者の権威を示す ものです。ただ、古墳の出現段階に、地域社会全体が変わったわけではなさそうです。同時期の京都 市南区の水垂遺跡(図8)では、弥生時代後期から後期末の様相と大きくは変わらず、大型の竪穴建 物と中小規模の竪穴建物が小さな群を形成し、居住域の近隣に墓域があります。弥生時代後期末から 古墳時代前期初頭の集落と墓域との構造(図9)は、余り大きくは変わっていない。古墳は登場する けれど、古墳の近くの集落と古墳から遠い集落との間には、階層差が現れないと言えそうです。
しかし、古墳時代前期前葉になり、完全に古墳時代に入ると大きく変わって、水垂遺跡(図10)で は大型竪穴建物が一斉に姿を消して中小の建物しか存在しなくなります。そして、私は大きな変化だ と思いますが、墓域が確認されなくなります。この水垂遺跡は、一つの集落のように見えますが、実 際にはこの西側に雲宮遺跡が隣接しています。この雲宮遺跡も、弥生時代後期から古墳時代前期以降 までずっと集落として存続します。したがって、2つの遺跡にまたがる相当大きな規模のムラと思わ 同志社大学歴史資料館館報第21号
れますが、古墳時代前期以降の墓域がはっきりしていません。京都市の北山周辺の植物園北遺跡(図 11)も大規模な集落ですが、同様に、中小規模の竪穴建物だけで形成される集落構造へと変わります。
幡枝古墳群という小さな古墳群はありますが、近くには大きな古墳がありません。
それに対して、古墳の近くにある集落は違う様相を示します。図12は大山崎町の下植野南遺跡周辺 で、いくつかの集落遺跡がありますが、古墳時代前期の前方後円墳、境野古墳があり、その近くの集 落は、居住域のすぐ近くで、小型方墳が群となって形成される墓域があります。また、図13は山城地 域の南端になりますが、木津川市に古墳時代前期の前方後円墳、瓦谷1号墳があり、ここでも小型方 墳がいくつか群を構成して造られます。その近くには上人ヶ平遺跡という集落があります。前方後円 墳と小型方墳、居住域がセットになっているわけです。そして、桂川右岸に戻りますが、向日市の前 方後方墳、元稲荷古墳では河内産と考えられる二重口縁壺が出土しています(図14)。そして、同じ 形状の河内産二重口縁壺が鴨田遺跡から出土しています。鴨田遺跡では小型方墳も検出されているの で、古墳と居住域と墓域のセットが確認されているわけです。さらに同様の事例が木津川左岸の現在 の精華町(図15)にあります。前期末から中期初の大型円墳の鞍岡山3号墳があります。鞍岡山3号 墳は、周 の中に島状遺構があったので有名な古墳です。鞍岡山3号墳の近くには、柿添遺跡・北稲 遺跡という集落があって、その南側には北尻古墳群という小型方墳群があります。図16は城陽市の森 山遺跡です。方形の溝がありまして、その溝で限られた区画の中に、おそらく大型掘立柱建物が建っ ていたと思われる遺跡です。この区画の周りにも古墳時代前期後半位の時期の竪穴建物が点々と存在 しています。森山遺跡のすぐ北側に、梅の子塚古墳群という前期後半位の大型古墳があります。、そ の周りに芝山古墳群という、時期は中期初めですが、森山遺跡と梅の子塚古墳群と大きな意味では同 時期と言える小型方墳群があります。ここでも、大型古墳、小型方墳、居住域のセットがあることが わかります。
ちょっと余談になりますが、中海道遺跡や森山遺跡のような方形区画を持った集落が、大型の古墳 に対応して存在したと従来考えられていましたが、調査事例が増えてもあまり見つからないという問 題があります。山城地域では前期古墳が多く造られますが、古墳の被葬者である有力者の生前の活動 に関係する遺構は意外と少なそうなのです。こうした背景から、集落遺跡と古墳との一対一の対応が させづらく、研究があまり多くなかった現実は否定できません。
ただ、今回私が注目したように、古墳の近くにある集落、古墳と関係のありそうな集落には、墓域 が存在する傾向があります(図17)。しかし、離れた集落だと、同程度の規模であっても墓域を持っ ていなさそうです。植物園北遺跡や中臣遺跡のような、近くに大型の古墳がない集落は、規模が大き くても墓域がまだみつかっていない。造られていない可能性があります。古墳からの距離に応じて集 団に階層差が存在するのでないかと考えています。古墳時代中期になるとどうなるかというと、木津 川市の瓦谷古墳群を見ますと(図18)、瓦谷1号墳が前方後円墳で、あとの世代が連綿と方墳を造り、
そして、 輪を棺に転用した墓が造られます。前方後円墳の瓦谷1号墳を祖先とし、瓦谷1号墳に自 分たちのルーツを求める人たちが墓を造り続けていると考えられている古墳群です。古墳時代中期に は集落が近くに営まれず、遠く離れた所に住んでいる人たちがわざわざここにお墓を作っていると考 講演会『弥生・古墳集落とモノ作り』記録3
図17(上)・18(下)
同志社大学歴史資料館館報第21号
図19(上)・20(下) 講演会『弥生・古墳集落とモノ作り』記録3
えざるをえない遺跡です。古墳時代前期初頭の五塚原古墳(図19)ですが、それより少し新しい前期 中頃の妙見山古墳から抜いた 輪を、五塚原古墳の墳丘裾に運んで、それを棺として転用しています。
この近隣には、前期後半頃の中野遺跡という集落があります。私は中野遺跡に注目していて、五塚原 古墳の墓守のような集団が居住したのではないかと考えていました。五塚原古墳から妙見山古墳の 輪を転用した棺が出土したことから、半分空想が入りますが、中野遺跡の居住者たちは五塚原古墳に 何らかの帰属意識を持っていて、ここに葬られることを願っていたと考えます。木津川市の瓦谷古墳 群の事例は古墳時代中期ですが、中期になると、古墳は作り続けるけれども、葬られた集団はどこに 住んでるのかわからない。どこか遠くの方に住んでる人たちがわざわざここにお墓を作りたがります。
これも空想が入りますが、この墓域にルーツのある集団の一部が、最初は近隣に居住していたが遠く に居住するようになるけれど、帰属意識は変わらず持っているので、墓を造り続けたのではないかと 考えています。
古墳時代中期が難しいのは、山城地域で集落数が大幅に減少してしまうという問題です。集落に近 接して古墳をつくるという事例も無くなります。古墳の立地と集落に居住した集団との相関関係が分 からなくなります(図20)。古墳時代前期から中期になると古墳が大型化することは、最初に若林先 生も仰っていましたが、本学との関係でいいますと、亡くなられた森浩一先生は、1952年に書かれた 論文で、古墳時代前期から中期にかけて、競合していた小集団が統合された結果、古墳の数は減少し て古墳の規模は大型化したのではないかと指摘されています。そのような視点から見ると、古墳時代 中期の大型古墳に葬られる人は支配領域が広いので、有力者や有力者に従うエリート集団は古墳の近 くに居住しなくても、ステータスは保障されるのではないか。森浩一先生の65年前の研究を参照する と、そういう可能性もあるのかもしれません。
全体にまとまらない話でしたが、弥生時代後期後半から古墳時代前期初頭は、集落構造は実はほと んど変わりません。大中小の竪穴建物から構成される居住域とその居住地に隣接する墓域は変わらな い。ただ、立地だけ見ると丘陵から低地へ変わります。さらに、低地の中でも広域流通により適した 場所へ移動するという変化があります。私は前に研究した際、その背景には、地域で最初の大きな古 墳に葬られた人物の、生前の活動が影響しているのではないかと考えたこともあります。しかし、純 粋に経済的な理由から自発的に集落の立地が変化するのであれば、地域内の有力者の権力が介在しな くても、実は説明ができてしまうのではないかと考え直しています。山城地域では、古墳時代に入る その直前の段階に地域社会の階層構造が変化したという考古学的な証拠は、存在しないのではないか。
ただし、最初の古墳が造られた後、古墳時代に完全に入ると集落構造が激変し、大型竪穴建物が姿を 消し、そして墓域を有する集落と、有さない集落に分化します。そして、大型古墳と集落と墓域の位 置関係には関係がありそうです。古墳があるから、それにつられて社会の変化が始まっていくのでは ないかと。古墳時代がいつから始まるのか、最初の大型古墳を造ろうとした段階なのか、それとも最 初の大型古墳ができてからなのかという問題意識は、考古学の世界ではずっとあったと私は思うので すが、山城地域に関しては、初期の大型古墳が造られるに至る過程において社会が変化し、古墳時代 社会に突入したのではなく、最初の古墳が造られた後に、社会が変化していったのではないかと考え 同志社大学歴史資料館館報第21号
ています。
その背景としては、山城地域は近畿地方中央部でありながら、日本海や琵琶湖へ出るための回廊と いう、周縁的な地域でもあったからではないか。社会的変化が近畿地方中央部の他地域よりやや遅れ るのかもしれないと現時点では考えています。そして他地域との比較検討を改めて行っていこうと思 います。
ただし、古墳時代前期以前については、今回の研究のような簡素な手法で古墳と集落との関係を検 討できますが、古墳時代中期は、古墳と集落との立地が近接しないという問題があり、方法論の開発 が必要と思っています。今後の課題とし、ちょうど時間になりましたので終わります。どうもありが とうございました。
講演会『弥生・古墳集落とモノ作り』記録3