著者 大越 哲仁
雑誌名 新島研究
号 99
ページ 56‑81
発行年 2008‑02‑29
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011716
ラーネッドとセイヤー・カレッジ
大 越 哲 仁
はじめに −ラーネッドの空白の2年間−
同志社建学の父の一人であり、52年の長きにわたって同志社の学問的主柱 となったドワイト・ホイットニー・ラーネッド博士(Dr. Dwight Whitney Learned ,1848-1943 )は、同志社英学校の教師になる前の2年間、すなわち 1873〜75年、アメリカ中西部・ミズーリ州の新設の大学セイヤー・カレッジ
(Thayer College )でギリシア語の教師を務めていた。しかし、この2年間
について、元来寡黙な性格のラーネッド自身はほとんど語っておらず、ラー ネッドをライフワークとして研究をされていた故住谷悦治総長の大著『ラー ネッド博士伝−人と思想−』1)においても、この時代の彼についてはほとん ど述べられていない。それに加えて、セイヤー・カレッジは現在存在してお らず、その概要について日本では全く不明である。
しかし、今回筆者は、セイヤー・カレッジに関する資料を発掘し、同カレ ッジが1872年に開校後、わずか4年後の1876年に廃校になったことを突き止 めた。この資料から、セイヤー・カレッジ時代のラーネッドの姿が浮かび上 がってきた。
1.ラーネッド自身が語る同志社着任までの経歴
ラーネッドが同志社英学校の教師になるまでの経歴について、彼自身が簡 単に記した文章としては、彼の20歳年下の同僚、蘆田慶治教授(1868-1936)
に宛てたものとして次の文章が残されている。
As for my gakureki, …I graduated B.A. at Yale in 1870, and took the Ph.
D. degree in 1873; (also was given the D.D. in 1896.) I taught Greek in Thayer College from 1873to 1875, and have been teaching in the Doshisha since 1876. That is all I believe.
Your truly.
D. W. Learned 2)
この内容を掘り下げて、ラーネッドがイェール大学大学院修了からセイヤ ー・カレッジの教師を経て同志社英学校に赴任した事情について彼自身が語 った文章の数編が同志社に残されており、それらの文書は、ラーネッド永眠 40年を記念して学校法人同志社が発行したラーネッドの『回想録』にまとめ られている。3)
これらの文書を次に紹介したい(同書登場順。見出しは同書のもの)。
「同志社創立回顧」(大正7/1918年)より
「明治三年に本国の大学に居つて、ウールセー先生から政治学の講義 を聞いて居りました。(中略)しかし当時(翌明治四年;引用者注)は まだ日本に渡来するなどいふ考は夢にも起らなかつたのです。ただギリ シヤ文学を研究する事が好きで、ギリシヤ語の教師として生涯を送らん とのみ考へたのであります。そこで明治六年にドクトル・オブ・フヰロ ソフヰーの学位を得てから、本国の内地に行き、新しき大学でギリシヤ 語の教師となりました。そして出来ることならこの小ちいさき大学で暫時働い た後、進んで有名な大学のギリシヤ語の教授となりたいといふ名誉心が あったのですが、併し私は「未だ知らざる径みちをふま」なければならなか ったので、本国の大学で長く働く事ができなかつたのです。
明治七年、本国の新聞紙に、米国伝道会社の年会に於て、日本の新 島といふ人が自分の国に於て学校を設立する為め演説をしたといふ事 を読んで、初めて新島といふ名を聞いたのですが、その時には決して 新島先生と共に働くといふ事は夢にも思はなかつたのです。然るに私 には「未だ知らざる径みち」が備へられてあって、米国伝道会社はその翌
年、即ち明治八年に同志社設立の為め教師を探がして居りましたが、
某先生から私の事を聞き、私を招いたのです。私は天の導きであると 思つて之を承諾し、その年の十一月一日に桑港(サンフランシスコ;
引用者注)から日本をさし出帆しました。」4)
この「同志社創立回顧」では、新設のセイヤー・カレッジでギリシア語の 教師を務めていたラーネッドは、このカレッジで数年を経験した後、「出来 ることならこの小
ちいさ
き大学で暫時働いた後、進んで有名な大学のギリシヤ語の 教授となりたい」と希望していたところに、アメリカン・ボードから日本の 同志社英学校の教師になるよう要請されて、これを天の導きと感じて承諾し たと述べている。
同様の主旨でこの経緯を語っているのが、次の「予が七十年の生涯」の冒 頭である。
「予が七十年の生涯」(大正7/1918年)より
「予は卒業後、更に三年間エール大学に留まり、叔父に当るホイット ニー教授の指導の下で、専ら希臘
ギリシア
語を研究し、哲学博士の学位を領す る事が出来た。そして間まもなく、ミゾリー州に於ける新しく設けられた る大学の招聘をうけ、グリーキの教授として二年間教鞭を取って居た。
然るに時 宛
あたか
も日本に於ける同志社の設立に際し、アメリカン・ボード 伝道会社では頻りに教授の物色中であつたので、予は其人に選ばれて 日本へ赴任する事となり、遂に明治八年十一月一日桑港を出帆し、二 十三日横浜に着し、二十六日神戸に上陸した。」5)
ここでは彼が、ミズーリ州の新設大学で教鞭を取っている当時、アメリカ ン・ボードが同志社の教員を物色しており、ボードから選任されたために日 本に赴任する事になったとある。「同志社創立回顧」では、ラーネッドのそ の時の心境として「天の導き」と感じたことが記されているのが、ここでは そのような心境は語られていない。
次の「ラルネデ回想録」では、同志社赴任の経緯が事実のみ簡潔に述べら れている。
「ラルネデ回想録」(昭和2〜3/1926〜27年)より
「一八七五年即ち明治八年、私がミゾーリ大学でギリシヤ語を教へて ゐたとき、私は、アメリカン・ボードと新島先生とがまさに京都で開 かんとしてゐた学校で教鞭を取るため日本へ来るやうにと頼まれた。
私は招聘を承諾し、その日に結婚するとともに按手礼を受けた。」6)
この文章では、ラーネッドは「ミゾーリ大学」でギリシア語を教えていた とあるが、これは、「ミズーリ州にある大学」の誤訳であろう。この文章が 収められた『回想録』巻末の河野仁昭氏の解説を読むと、本文が「日本文で 書かれたか英文で書かれたかは不明」であるが、筆者も、これがもともと英 文で、だれかが和文に翻訳したときに誤訳したものだと考える。
なお、この文中で、同志社英学校を「アメリカン・ボードと新島先生とが まさに京都で開かんとしてゐた学校」と説明しているのは、もしラーネッド が書いた英語の原文がその通りの意味を持つ文章だったなら、同志社英学校 がアメリカン・ボードと新島の合弁事業であるというラーネッドの認識を表 すものなので注目される。
ラーネッドの『回想録』に収められている文章の中で、セイヤー・カレッ ジに関して述べたものは以上の3つである。これらの文章は、それぞれ内容 も整合性が取れている。これらの文章をまとめて、ラーネッドの同志社着任 までの経緯と認識を整理すると、次のようになる。
すなわち、ラーネッドは1873年、イェール大学大学院でPh.D.の学位 を得て直ぐに、ミズーリ州に新設されたセイヤー・カレッジという「小さな」
「新しき大学」の「ギリシヤ語の教師」となり、「出来ることならこの小ちいさき大 学で暫時働いた後、進んで有名な大学のギリシヤ語の教授となりたい」と考 えていたところ、「アメリカン・ボードと新島先生とがまさに京都で開かん としてゐた」同志社英学校のため、同ボードが「頻りに教授の物色中」であ
って、自分はボードから「日本へ来るやうにと頼まれた」。そこで、彼は、
その招聘を「不思議なる神の摂理」であり、「眼に見えざる御手の導き」に よるものと感じて招聘を承諾した。だから彼は「『未だ知らざる径
みち
をふま』
なければならなかったので、本国の大学で長く働く事ができなかった」ので ある、と。
2.矛盾する回想
ところが、以上の経緯とは矛盾するラーネッド自身の回想文が1つだけあ る。それは、1928(昭和3)年3月に同志社を退職した彼が、同年6月に帰 米を発表したために、同志社校友会が同同窓会と連名で急遽「同志社校友・
同窓會報 臨時増刊號」を編纂、ラーネッド離京の日(同年9月15日)に合 わせて発行した「ラルネツド博士送別記念誌」に寄せた彼の手記“ TO THE GRADUATES OF DOSHISHA” 冒頭に書かれた次の記述である。
“
TO THE GRADUATES OF DOSHISHA”( June 23, 1928 )“ It was fifty-three years ago to-day, June 23, 1875, that I sent a letter to the Directors of the American Board saying that if they wanted a man to work in some school in foreign lands I was at their service. I had not then heard any- thing about the plans for establishing the Doshisha in Japan, and the Directors were far away from me, but it happened that just then they were wishing to send a man as a teacher to Japan, and that among them there was one man who had known me somewhat, and so I was appointed by men most of whom had never seen me to a work about which I knew nothing except that it was to be teaching somewhere in Japan. As Dr. Neeshima often spoke of being led by an “unseen hand”, so I was led to the Doshisha.” (下線引用者)7)
冒頭の下線部の文章は「わたくしが『アメリカン・ボード』の理事の方が たに手紙を送って、外国のどこかの学校で働らく人をもとめているならばわ
たくしにその役目を申しつけて下さるように話しましたのはきょうより五十 三年前の一八七五年六月二十三日でありました」という意味である(住谷先 生訳)8)。
すなわち、この回想では、それ以外のものと正反対に、ラーネッド自らが アメリカン・ボードに手紙を送って、自分は外国の学校で働きたいので、就 職口が無いだろうか、と問い合わせたことを述べている。この時、ラーネッ ドは、セイヤー・カレッジの教師だったので、彼は、同カレッジ在職中に転 職活動を行っていたことになるのである。
セイヤー・カレッジの教師時代のラーネッドは、本当に転職を考えていた のであろうか。もし、そうであれば、その理由は何であろうか。
それを解く鍵が、現存せず、歴史の中に埋もれてしまったセイヤー・カレ ッジにあるはずである。その実態を発掘した資料をもとに次章で紹介した い。
3.セイヤー・カレッジの資料発掘と同校の実態
住谷先生が『ラーネッド博士伝』をまとめられた1970年代前半であれば、
「ミズーリ州のThayer College 」という情報しか手がかりのない現存しない 大学の実態を調べるには、まず、ミズーリ州の州都ジェファーソン・シティ に行き、その州政府や州図書館で過去の記録を調べて、面積で日本の半分を 有し、110以上の郡に分かれる巨大な州のどのあたりにそのカレッジがあっ たか目星をつけて、その候補地を順に巡って、同地の役所や図書館で過去の 記録を調べ、順に候補地を絞り込んで調査を深めて行く、という時間も費用 も膨大にかかる大変困難な調査を行わなければならなかったであろう。
しかし、現代の発達した情報技術を利用すれば、「幸運であれば!」書斎 に居ながらにしてそのような困難な調査が可能となる場合がある。セイヤー 大学の場合もその例の一つであった。昨年初夏、筆者はパソコンからグロー バルな検索システムにアクセスして幾つかのキーワードを含むホームページ を洗い出し、その一つ一つの中身を精査して、ラーネッドが在職した大学に 関係するかどうか吟味するという、若干の手間だけを要する調査を行った結
果、ある一つの実在する教育機関の存在を知った。
それは、ミズーリ州の西辺、隣のカンザス州にまたがるカンザスシティの 北北東60マイル、コールドウェル郡( Caldwell County )、キッダー町
(Kidder City )にあるセイヤー・ラーニング・センター(Thayer Learning
Center; TLC )だ。このキッダー町は、人口はわずかに271人(119世帯)9)
という、アメリカ中西部の眇たる田舎町である。
TLCは、2002年に開校された新しい学校のようだが10)、同校のホームペー
ジ11)によれば、軍隊式訓練(boot camp)によって非行青年を感化させる教 護院を兼ねた教育機関であって、ラーネッドが在職したセイヤー・カレッジ とはまったく関係がない12)。
しかし、同校は、その沿革Our History において、1872年に東部会衆派の 教会員たちの寄付によって設立されたセイヤー・カレッジを自校の起源と位 置づけていたのである。
さらに、この沿革には、約50年前の1959年にスターリング・ショー
(Sterling Shaw )という同校関係者が発表した“ HISTORY OF THAYER
COLLEGE, KIDDER INSTITUTE, AND KIDDER JUNIOR COLLEGE” と題す る講演録のpdfファイルが添付されており、その内容を当時のラーネッド側 の記録と重ね合わせると、そこに描かれたセイヤー・カレッジこそ、ラーネ ッドが一時教えたセイヤー・カレッジそのものであることが知られるのであ る。
ここで筆者は「幸運であれば!」という前置詞句をつけたが、その意味は、
今年、TLCのホームページがリニューアルされて、今述べた沿革史やショー 氏の講演録ファイルがすべて削除されてしまっているのである。
したがって現在、TLCのホームページを見ても、同校の沿革は紹介されて おらず、同氏の講演録も掲載されていない。TLCはセイヤー・カレッジとは 全く関係がない学校であるため、おそらく、今後再び同氏の講演録が掲載さ れることはないであろう13)。
幸い、筆者は昨年まで掲載されていた同校の沿革と、スターリング・ショ ー氏の講演録のコピーを保存していた。沿革は、A4版でプリントすると17 行程度のもの。一方のショーの講演録は、A4版7ページにわたり、1872年
のセイヤー・カレッジの誕生から廃校に至った経緯からはじまって1955年当 時に至る、キッダー・インスティテュート、キッダー・ジュニア・カレッジ などのキッダー町の高等教育機関の盛衰を述べたものだが、セイヤー・カレ ッジに関して述べられたのは、最初の1ページ程度である。
いずれも貴重な資料なので、当該箇所を次に引用したい。
TLCのホームページ(2006) Our History より
“ The building that houses the Thayer Learning Center has an honored and illustrious educational history. George S. Harris traveled through the tiny town of Kidder in northwest Missouri in 1860. Legend has it that he was awestruck by its untarnished charm.
What the New Englander saw was a quaint little community that had just begun to sprout amid green hills that seemed to roll on forever and lush, verdant pastures that stretched for miles. This, he thought, would be the perfect place to build a Christian institution of higher learning.
With the help of fellow Eastern Congregationalist church members and businessmen from Boston, he was able to purchase land to build a college.
It took almost 10years of legal maneuvering to get it done, but the ground for Harris’ dream was finally broken in 1869. Three years and $40,000later, the small town of Kidder with 175residents had an impressive learning insti- tution that would quickly draw students from miles around.
It was originally named Thayer College after Nathaniel Thayer, one of its financiers from the church in Boston.
Thayer College was only in operation for four years, closing in 1876. It remained closed for eight years until a few prominent businessmen in Kidder leased the property and reopened it as the Kidder Institute in 1884. ”14)
スターリング・ショー氏の講演録(1959)より
I will begin with a quotation from the first commencement address by the first President of Thayer College, Samuel D. Cochran, on the date of June 26, 1872. I quote:
“The project of planting an institution of highest general Christian Education in this region was not originated by any speculators, or for speculations purpose. It originated with one of our trustees, now pres- ent, about thirteen years ago, as he rode on the Hannibal & St. Joe R. R.
through this part of our imperial state, and saw lying so fair, like a por- tion of the primal Eden for future occupation. Some or the owners of this railroad with whom he became connected as Superintendent of its land department, with others, organized the “New England Land Company” and secured from the railroad some thousands of acres of their land in this vicinity. To this company he applied for a donation of lands for the purpose of founding the institution he had conceived, and the result was that they agreed to give six hundred and thirty six acres on the condition that a corporation of trustees would be appointed who would raise $35,000and would erect a building for its used with a cer- tain portion or the land. The offer was accepted, a charter secured and the enterprise undertaken the establishment of a Christian College under the auspices of the Congregational denomination of churches.
On June 9, 1869, I addressed some one hundred persons, convened on the destined site of this building, in relation to our great undertaking, and there in their presence dug eight platefuls of earth from the site, thus initiating the work.”
From that time on the story unravels of the straggle of Kidder. President Cochran spent much time in the East during the next months seeking dona- tions among congregational circles, as was the case with his Successors of later years, only his great desire to establish a Christian Education school in
this new, undeveloped land, so full of possibilities, made it possible for him to at least do his utmost to overcome seemingly insurmountable obstacles.
After the greatest financial difficulties, the building was completed three years later in the year of 1873. these events all occurred during the period of great financial pressure immediately following the Civil War, and had it not been for outside benefactors, as was in the case of his successors of later years, Thayer College could not have carried on as long as it did.
President Cochran’s term was brief; he resigned in 1874receiving two hun- dred and forty acres of the land belonging to the college as part payment of salary due to him and a mortgage on the college property for the remainder. This indebtedness was still against the property several years after my father came here. It was paid off at a memorable meeting of the board of trustees of Kidder Institute, when the members present dug down in their pockets raising the money with the understanding that never again would it be possible to borrow money on this property.
In 1874Reverend O. Brown offered to take charge of the school at his own expense. This offer was accepted and the record shows that in spite of valiant efforts, which caused him to break physically he was unable to operate the school successfully and for some nine years me school was closed. The building standing out here on the open prairie on the highest point on the Hannibal & St.
Joe R. R. could be seen for miles. The windows were soon out, the bats and birds took over, and mere was not a tree on the forty acre tract.”15)
以上の引用文をもとに、セイヤー・カレッジの設立過程から廃校にいたるま でを概観すると、次のようになる。
セイヤー・カレッジの開校経緯
セイヤー・カレッジはそもそも、1860年、米国北東部の住民で会衆派教会
員のジョージ・S・ハリス(George S. Harris )が、ハンニバル=セント・
ジョー鉄道(両都市を結ぶ鉄道)に乗ってミズーリ州北西部にある片田舎の キッダー・タウンにやってきた際、ここが新緑の牧草地の中に囲まれた丘に ある小さなコミュニティであって、これから新芽が伸びるように丘に広がっ て行く町であると感じ、この地こそ将来、キリスト教徒のために最高度のキ リスト教普通教育機関をつくる場所として最適の、あたかもエデンの園の一 部のような場所だとのインスピレーションを得て発案されたものだった。
ハリスはこの地で郡の土地監督官16)となり、その関係で知り合った鉄道 会社の役員等と共にニューイングランド土地商会 New England Land Company をつくって、鉄道会社から数千エーカーの土地を購入した。それ から彼はこの会社に、彼が計画していた大学を設立するための土地を提供す るよう申し込んだ。その結果、同社はハリスに、財団法人が3万5千ドルの 寄付金を募り、校舎を建設し運営する理事会を設立することを条件に、636 エーカーの土地を寄贈することを了承した。
ハリスは、東部会衆派の教会員やボストンのビジネスマンからの支援を得 て大学用地の購入資金を集めることができたが、その設立に関わる法的な調 整に約10年という歳月がかかった。上に掲げた2つの引用文には述べられて いないが、この間の1861年から65年までの5年間はアメリカ中を巻き込んで 南北戦争の血みどろの戦いが繰り広げられ、そのために彼の大学設立計画も 大きく妨げられたに違いない。
ニューイングランド土地商会の条件を受け入れて土地譲渡証が理事会に渡 され、キリスト教徒のための大学の建設が始まったのは、ようやく1869年に なってからのことであった。同年6月9日、大学設立事業の最初の仕事であ る起工式は行われ、初代学長予定者であるサミュエル・D・コークラン(
Samuel D.Cochran )は初めて、集まった百数十人の来場者の前で一席の演 説を行っている。
ただ、この時点で寄付金はまだ集まっていなかったようだ。
その日以降、コークラン学長の奮闘が始まる。彼は東部に移動して、未開 の土地に新しいクリスチャン学校を建てるという純粋な願いのために、何ヶ
月もの間、多くの会衆派の教会員を訪ねて寄付を求め回った。
しかし、その頃になると、今度は南北戦争後に生じた不況の為に、寄付は ほとんど集まらなくなった。彼は大学設立への強い意思をもって最善を尽く したが、その困難は容易に克服できなかった。
セイヤー・カレッジの開校から廃校まで
1872年の6月26日、住民わずかに175人という辺鄙な田舎町にセイヤー・
カレッジは開校式を迎えることが出来たが、大変な資金難のため、校舎が完 成したのは翌73年の後半、すなわち、ちょうどラーネッドが着任した頃のこ とであった。なお、この大学名は、ボストンの教会員で篤志家のナザニエ ル・セイヤーNathaniel Thayer にちなんで名付けられたものである。
カレッジ開校当初、何マイルも離れたところから学生が集まってきたが、
カレッジの財政は改善するどころか、ますます悪化していった。コークラン は無給で奮闘したが努力は実らず、翌74年ついに辞任。開校からわずか2年 後のことであった。カレッジ理事会は、彼に支払うべき給料の一部として校 地のうち240エーカーを彼に与え、残りの教職員の給与の支払いのために、
カレッジの財産を抵当に入れる決定をする。その負債は、それから数十年も 残り、セイヤー・カレッジの跡地につくられたキッダー・カレッジの理事た ちのポケットマネーによってようやく完済。当時の理事たちに、決してカレ ッジの資産を抵当にしてお金を借りてはならない、との教訓を残している。
話は戻って、74年にコークランが学長を辞任すると、牧師のブラウン
(O.Brown )という人物が自費でカレッジ運営の任に当たることを買って出
て理事会の承認を得る。理事は彼の手腕に期待し、彼もまた英雄的な努力を 尽くしてカレッジの復興に努めた。ところがここに悲劇が襲った。ブラウン が、その心労のために身体を壊し、カレッジ運営から離脱せざるを得なくな ったのである。
事ここに至って万策は尽き、カレッジの継続は不可能となってしまった。
そしてこの頃、ラーネッドはアメリカン・ボードに「外国のどこかの学校
で働らく人をもとめているならばわたくしにその役目を申しつけて下さるよ うに」依頼する手紙を送ったのである。
セイヤー・カレッジが正式に廃校となったのは1876年、開校からわずかに 4年後のことであった。その後、放置された校舎では、生徒に取って代わっ て住人となったコウモリと野鳥が、割れた窓ガラスを通じて行き交うばかり となった。
昨年(2006年)夏の時点で掲載されていたTLCのホームページ上の沿革と ショー氏の講演録から読みとれる、歴史に埋もれたセイヤー・カレッジの実 態は以上である。
なお、ここで名前の挙がってる、セイヤー・カレッジの名前の由来になっ たナザニエル・セイヤー(Nathaniel Thayer )は、別資料によると、アメリ カ西部の諸鉄道に対するニュー・イングランドの筆頭投資家であって、John E. Thayer and Brother という投資会社の共同設立者である17)。
4.ラーネッドとセイヤー・カレッジ、そして同志社英学校
前章で述べたセイヤー・カレッジの苦難で短い歴史から伺い知れること は、ラーネッドの深い悲しみと無念である。
彼は、おそらく、将来、叔父のホイットニーのような名誉ある大学教師に なることを夢見て、1873年、前年に開校した新設のカレッジへ意気揚々と着 任したに違いない。ところが、着いた大学は厳しい財政難に見回れており、
設備も全く整わず、給与も先送りで支払われなかった。
ラーネッドが着任した翌1974年には、熱心にこの大学を開校に導いてきた 校長も辞任。指導者不在の大学は、校舎が教員の給与支払いのために借金の 抵当に入れられるという将来の見通しを全く欠く大混乱に陥ってしまった。
このとき、おそらく相当数の教員も校長と共に大学を去っていったのであろ う。
しかし、ラーネッドはこのとき、校長と行動を共にしなかった。彼は居残 ったわずかな教職員と共に、熱心に神に祈ったことであろう。
その祈りが通じたかのように、自己の財産をなげうって大学を建て直そう という英雄的な新校長が現れた。しかし、その人物も奮闘の無理がたたって 病に倒れてしまった。セイヤー・カレッジが正式に閉校となったのは1876年 だが、実質的には、この時点でセイヤー・カレッジの命運は窮まった。
同僚の中には、絶望を叫ぶ者も出ただろう。彼らは、大学が潰れてゆくこ とが一体どういうことなのか、肌身で感じていたに違いない。
しかし、もはや抗することはできない。理事会の指示か、同僚たちの申し 合わせか、そのいずれかによって、セイヤー・カレッジの教職員はそれぞれ、
自分の身の振り方を決めなければならなくなった。その状況でラーネッドが アメリカン・ボードに書いた手紙が、海外伝道先での教師職の斡旋依頼であ った。
冒頭に紹介した「同志社創立回顧」と名付けられたラーネッドの文章は、
実際は、大正7年の同志社創立記念日に彼が行ったスピーチの演説録だが18)、 彼はここで「(私はギリシア語の教師として生涯を送ろうと考え)本国の内 地に行き、新しき大学でギリシヤ語の教師となりました。そして出来ること ならこの小ちいさき大学で暫時働いた後、進んで有名な大学のギリシヤ語の教授と なりたいといふ名誉心があったのですが、併し私は『未だ知らざる径
みち
をふま』
なければならなかったので、本国の大学で長く働く事ができなかつたのです」
と語った。この「私は『未だ知らざる径を踏ま』なければならなかったので、
本国の大学で長く働くことが出来なかったのです」という短い言葉に、セイ ヤー・カレッジの廃校に遭遇した彼の気持ちが込められていると思われる。
ラーネッドが送った就職斡旋依頼の手紙に対して、アメリカン・ボードが 行った回答が、日本のどこかで教鞭を取ることであった。当時、彼は新島の 名前は知っていたが、同志社設立の計画さえ知らなかったのである19)。
彼は神の意思を感じてこれを受け入れ、結婚相手のフローレンスと直ちに 結婚してその準備を行った。ところが、夫人の父からは日本行きを猛反対さ れ、ふたりは駆け落ち同然で日本へ向かう汽船に乗り込む20)。
次のラーネッドの回想は、日本へ来たときの喜びに溢れた記述である。
「(1875年)十一月二十三日の朝早く私は呼ばれて甲板へ行つてみると、遙
かなる水平線上に小さい白雲のように現はれそめた富士山が見えた。それが 最初の日本の眺めであった。十時に私たちは横浜へ着いた。時あたかも新嘗 祭であつたので、まるで私たちを歓迎するかのように軒ごとに日の丸の国旗 が翻ってゐた。国旗は私たちをして、日本へ来たことを幸福に感じさせた。
然り、実に私たちはこの国へ来たのがうれしかつたのだ」21)。
セイヤー・カレッジ時代の閉塞感から解放された若きラーネッド夫妻は、
新しく赴任する日本に前途洋々と広がる未来を感じて、大きな希望を抱いて いたに違いない。
入国の翌日、ラーネッド夫妻は運良く、週に1便しか無い神戸行きの定期 船に乗船できた。その船の名が偶然にも「西京丸」で、彼らに新しい活動の 場を想像させる22)。夫妻は26日に神戸の外国人居留地23)に入ったので、すぐ に京都に移動し、29日に行われる予定の同志社英学校の開校式に出席したい と考えたが24)、二人には旅券がなく、すぐには京都へ入れなかった25)。さら に、同志社英学校の教師としての認可もおりず、宣教医のテイラーと共にそ れがようやく認められるのは、翌1876年の3月に至ってからであった26)。
ただし、新島がそれまで手をこまぬいていた訳ではなかった。彼は既にラ ーネッド夫妻が洋上で日本へ向かっている時点から許可がおりる3月までの 5ヶ月間、幾度と無く京都府や東京の中央政府にラーネッドとテイラーの教 師招聘と京都居住の願いを提出し、知事を訪ねて、その許可を得るために奮 闘していたのである27)。
幸いなことにその間、ラーネッド夫妻は、旅券を得て京都を訪れることが できた。1875年12月28日には鉄道で大阪に入って一泊。おそらくこの日に、
たまたま来阪していた新島襄とはじめて出会ったであろう28)。翌日朝、新島 と連れだって小さな蒸気船に乗りこんで淀川を上って伏見港を上り、その日 の夕方遅く、夫妻は初めて京都に足を踏み入れている29)。夫妻は、デイヴィ ス夫妻宅に宿泊して十日間ほど京都に滞在したが30)、1876(明治9)年の元 旦には、ラーネッドは、新島、デイヴィスと3人で比叡山に登山し、1月3 日には、夫妻は、デイヴィス宅で「在住のキリスト教徒として京都で最初の 結婚式」31)と新島自身が誇りを込めて述べた彼と山本八重の二人の結婚式に 出席している。これは、ラーネッド夫妻が京都滞在中に偶然に新島の結婚式
が開かれたと考えるべきではなく、おそらく、このラーネッド夫妻の京都行 きの目的が、新島の結婚式に出席するためであり、そのために旅券も得るこ とができたのであろうと筆者は考える。
ラーネッドはしかし、京都で新しい仲間と出会い、希望溢れる新しい出発 の喜びだけを感じていたわけではない。それは、新島に案内されて同志社英 学校を見学したとき、名前こそ立派だが、実際には全く施設の整っていない 状況に大きな失望を感じたからである。
ラーネッドの『回想録』を注意深く読むと、彼が初めて同志社英学校を見 た時の期待外れの気持ちが正直に書き表されているのに気づく。
「当時の同志社は学校と称ふる程のものでなかつたので、一定した学 科もなければ、又校舎もなく、そして只だ二十人許りの生徒が英語と 数学とを学ぶ所であつたのです。斯る次第で凡てが甚だ不満足であつ て、将来に対し殆んど望みのない様に見へた」32)
「当時の同志社には充分の建物がなかつたので、現今の寺町通の、新 島先生の邸宅のある所と同一の場所にあつた古屋を教場にあてたので すが、それは実に穢いものでありました。」33)
「同志社の開校当時、京都は東京遷都のために非常に荒廃してゐた。
そして旧御所のまはりは特に然りであった。(略)新島先生は丁度御所 の東にある地面の一部を庭園として買つた。数件の家が空家になつて ゐて、俗に化物屋敷と云はれてゐた。そこに学校を開くにはあまりに 荒れはててはゐたが、地面が非常に安かつたので都合がよかつたので ある。」34)
「凡てが甚だ不満足であつて、将来に対し殆んど望みのない様に見へた」、
「実に穢いもの」、「化物屋敷」で、「学校を開くにはあまりに荒れはててはゐ た」、とは、寡黙ではあるが、発言する場合には率直に物を言うラーネッド ならではの手厳しい表現である。おそらく、ラーネッドは、初めて同志社を
見て、セイヤー・カレッジの光景が脳裏に蘇ったことであろう。
だが、同志社には、セイヤー・カレッジと大きく異なるものが一つだけあ った。
それは希望である。
ラーネッドの『回想録』には、新島やデイヴィス、宣教師仲間、それに熊 本からやってきた自由闊達な青年たちの希望溢れる献身によって同志社が急 速に発展していく様子が活き活きと描かれている。
「当時の同志社は誠に微々たるものにして、殆んど学校の名を附すべきも のでなく、一定の課程もなく、教場もなく、只僅かに新島先生邸近隣の古び たる屋敷を使用して居た。而して学生も三十名に達しなかつたが、将来に対 して遠大なる希望を当初より有して居た。即ち同年(1876年)の夏に今の神 学館(クラーク記念館)のある附近に第一、第二の寮舎を建設した。(略)
其外に一棟の食堂があつた。食堂の前面に掘つた井戸は即ち神学館の前に残 つて居て、懐
なつか
しき昔を語つて居る。学校の周囲は凡て桑樹園であつた。同志 社は当時に於てもミッション・スクールと称すべきものではなかつたが、学 校の維持は全く外国に仰ぎ、教師は悉くアメリカン・ボードの宣教師であつ た。然し当初より独立自治の学校となすの希望盛にして、遂に今日の機運に 到達することを得たるは、内外の等しく慶賀に堪えざる所である。」35)
「(同志社の)創立は明治八年十一月二十九日としてあるが、実際名 実共に学校として開始したのは九年九月十八日であつた。即ち此時初 めて課程を定め、且つ自己の校舎に於て授業を開始したのである。斯 くして準備漸く成りし時に、不可思議なる摂理により熊本より三十人 の学生来り投ぜし故俄に活気を添へ、愈々発展の曙光が閃いたのであ る。」36)
「ヨルダン河に三つの源があると云はれて居るが、同志社にも三つの 創立者があると云つてよい。即ち新島先生とアメリカの友人と熊本バン ドである。新島先生なくしては同志社はあり得ない。併し同時にアメリ
カの友人の協力なくしては新島先生と雖も、同志社初期の間学校をつづ けて行くことは出来なかつた。更に又熊本バンドの青年がなかつたなら ば、同志社の発展は極めて遅々たるものであつたであろう。」37)
ラーネッドは、旅券が無かったために1875年11月29日の同志社英学校の開 校式には参加ができなかったけれども、その日、神戸にあった彼は、夫人と ともに、自分も教員となる同志社開校の感謝を神に祈ったに違いない。それ から1ヶ月後、彼は京都に上って新島やデイヴィスと共に新たな年を迎える。
当然、彼らは同志社の将来を語りあったはずだ。そして、彼は、いよいよ3 月に同志社の教員となり、9月には、新校舎が開かれて整った課程での授業 を開始、同時に、熊本バンドと呼ばれる元気な青年たちが仲間に加わる。
それからの同志社は急速に発展していった。ラーネッドは建学の父の一人 として、その豊かな学識を以て同志社の発展を半世紀以上も支えてゆく。
のちの1928(昭和3)年、まる52年同志社教師を務めたラーネッドは、自 分の引退式を迎えて、次のように、「神の摂理」、「眼に見えざる御手の導き」
により自分が同志社の教員となったことを神に感謝している。
「今日のこの式(ラーネッドの引退式;引用者注)は私にとって感謝 の式としたいのであります。
その感謝といふは、第一、私が神の不思議なる摂理により、眼に見 えざる御手の導きに随ひて日本に来り、同志社の教授となつたといふ 事を、特に神に対して感謝せねばならぬ事であります。(略)最初、こ の微々たる学校の状態を申しますれば、先づ一定した建築物もなく、
又規定された課目もなくして、ただ僅かに十名許の学生を有する学校 であつたに過ぎぬのでありました。然るに昭和三年の現今に至りては、
一大学校にまで発達した事を見るのは、真に感謝すべき事であります。
それ故に過去五十二年間の私の経験した事を回顧しますれば、誠に神 に感謝せざるを得ないのであります。」38)
このとき、ラーネッドの胸に去来したことは、セイヤー・カレッジ時代の 自分のことであろう。セイヤー・カレッジは、開校してわずかに4年、彼が
奉職して3年で閉校に至り、そのために、彼の運命は大きく変わり、異国の 地の同志社でその生涯の大半を過ごすことになったからである。
そして、彼は、この感謝の言葉にあるように、52年の間、事ある毎に同志 社の成長と共に生涯を歩むことができた自分の幸せを噛みしめていたに違い ないが、その都度、彼は、セイヤー・カレッジの廃校に自分が立ち会った意 味を問うていたに違いない。
そしておそらく、彼がその意味を悟った一つの出来事は、1898〜99(明治 31〜2)年に生じた同志社綱領の削除に伴う同志社内外の深刻な対立事件で あろう39)。
紛糾した社員会では、善後策に窮し、同志社が潰れるとまで言う者も出て きた。しかし、大学が本当に潰れてゆく状況を経験した、おそらく唯一の人 物であるラーネッドは、こんなことで同志社は潰れない、との確信をもって 静かに立ち上がって、「教会や学校の事業は五十年や百年で其の成功はわか りません。神は同志社を見捨てることありません。失望すること要りません」
40)と発言した。
この一言は、理事会の空気を対立から友愛に一変させて、それから皆、同 志社建て直しの協議を熱心に話し合ったと伝えられている41)。大学が潰れる とは本当はどういう状況なのか、彼は自身の経験として一番良く知っていた のである。
おわりに
サミュエル・D・コークランがセイヤー・カレッジの開校に伴って東部会 衆派教会員やボストンの実業家に必死に募金活動を行っていたのは、同校の 校舎の起工式が行われた1869年から、コークランが学長を辞任した1874年頃 であろう。そして、1874年といえば、まさに新島襄が、ラットランドで5千 ドルの学校建設の資金を得た年である。
セイヤー・カレッジは、コークランの奮闘にも関わらず、実質的に1974〜
75年で立ち行かなくなったが、ちょうどその時期に新島はアメリカン・ボー ドの資金的・人的援助で同志社英学校を設立することができた。
両者は失敗と成功の事例だが、コークランと新島は、まさに同時代に、同 じ相手、すなわち、東部の会衆派やボストンの実業家に対して学校建設のた めの寄付を求めたことになる。前者は教会をいくつも回って、学校建設をテ ーマに行った募金の会場で。後者はわずかに1回、ラットランドにおいて、
海外伝道に旅立つ新人の一人として与えられた演説の機会42)を利用して。
それでは、何が両者の明暗を分けたのであろうか。コークランの場合は、
カレッジの構想後に南北戦争が勃発、次いで戦後の不況によって募金に対す る当初の見込みが大幅に狂ってしまったのが大きな要因であろう。当時、ア メリカではミネソタ州のカールトン・カレッジ(Carlton College )のように 地方にキリスト教主義のリベラル・アーツ・カレッジが幾つか誕生していた ので43)、土地調整に遅れたセイヤー・カレッジは、独自の特色を出し切れな かったとも考えられる。
一方、新島の場合は、アメリカン・ボードの日本の宣教拠点である神戸の 教会には学校がなく、日本人3千3百万人の同朋を助けるためには、キリス ト教教育を行う教師と説教者を育てる教育機関がどうしても必要だ、という オンリーワンのアピール44)が聴衆に大きな感動を与えたのが成功の主要因で あると考えることができる。また、新島のアピールを成功させるために陰で はたらいたハーディーの存在も無視できない45)。
以上のように、歴史に埋もれたセイヤー・カレッジの盛衰は、ラーネッド 理解、そして同志社開校当時のアメリカの状況理解のために、一つの意味を 持つものであると筆者は考える。
注
1)住谷悦治著『ラーネッド博士伝−人と思想−』未来社 1973年 2)住谷悦治著『日本経済学の源流』 25頁。教文館 昭和44年 3)D.W.ラーネッド著『回想録』 学校法人同志社 1983年
4)前掲書pp.5-6。 同書解説によれば、これはラーネッドのスピーチの筆記録である。
5)前掲書p.17。
6)前掲書p.22。
7)全文は次の通り。
“ TO THE GRADUATES OF DOSHISHA” ( June 23, 1928)
It was fifty-three years ago to-day, June 23, 1875, that I sent a letter to the Directors of the American Board saying that if they wanted a man to work in some school in foreign lands I was at their service. I had not then heard anything about the plans for establishing the Doshisha in Japan, and the Directors were far away from me, but it happened that just then they were wishing to send a men as a teacher to Japan, and that among them there was one man who had known me somewhat, and so I was appointed by men most of whom had never seen me to a work about which I knew nothing except that it was to be teaching somewhere in Japan. As Dr. Neeshima often spoke of being led by an “unseen hand” ,so I was led to the Doshisha, and now at the end of my work here I give most hearty thanks for the privilege of having been a fellow-worker with Dr. Neeshima and so many other noble men, both Japanese and American, in this great institution. If one asks me where did I graduate, I say “ at Yale”. If he say “show me Yale”, I perhaps take him to New Haven, but if I look for the buildings where I studied, the Yale which I knew sixty years ago, not one of them there, all is changed.
And yet it is the same Yale. So of the Doshisha of fifty years ago, where Dr. Neeshima, Dr.
Davis and others taught and Pres. Ebina studied. nothing now remains but one well. And yet it is truly the Doshisha that remains here today. Buildings change, teachers come and go, stu- dents pass by. but the school continues, and if the spirit of the school, the spirit of its Founder, survives unimpaired. it is the same Doshisha, growing better year by year.
In maintaining this living spirit of the Doshisha and in maintaining its good name the gradu- ates have a great responsibility. A school of this kind is not like a market where one buys what one wants, carrys [sic] way what one buys, and cares no more for the market: it is rather like a family in which each child has a responsibility to maintain its good name. This responsi- bility is well shown by the words used so often in America, Alma Mater, dear mother. More and more in recent years this is recognized in America. At Yale, for example, the graduates yearly contribute two or three hundred thousand dollars to the University, and last year in a special movement twenty-one million dollars was subscribed as an endowment fund. Not all can give large sums to the Doshisha, but all have the responsibility of maintaining its good
name by honorable, useful living. I need not say more about this, for I am sure that you all understand it. and it is a great joy to us as we go from Japan that there are so many graduates of the Doshisha scattered here and there far and wide doing honor to the old school by faith- ful service for God and Fatherland.
May God bless the Empire of Japan, the city of Kyoto, and the Doshisha.−all its officers, teachers, students, and graduates −this is my pray both now and in the days to come in America.
DWIGHT W.LEARNED
(出典 同志社大学ホームページ、同志社社史資料センター、新島遺品庫資料(資料番 号0385)pp.3-4
(http://joseph.doshisha.ac.jp/ihinko/niss/ASP/ihin_detail.asp?ihin_id=215 ) 8)前掲、住谷著『ラーネッド博士伝』p.95。
9)US. Census Bureau ホームページ(http://www.census.gov/)より。世帯数・人口数は 2000年調査の数値。なお、コードウェル郡の同年の世帯数は4493世帯、人口は8969人
(いずれも、2007/11/13調査)。
10)kiddermissori.com(http://kiddermissouri.com/)という運営主体が不明のホームペー ジで同校の開校を2002年としている(2007/11/13調査)。
11)http://www.tlcprogram.com/(2007/11/14調査)。
12)さらに、同所はキリスト教を基礎とする厳格な教育を施す一方、入学した少年の死傷事 故を起こして父兄や職員から告発されるなど評判も芳しくない。
13)前掲「kiddermissori.com」に、スターリング・ショー氏の研究をベースにしたと思われ るセイヤー・カレッジの歴史が一部紹介されている(2007年11月現在)。
14)前掲Thayer Learning Center のホームページに2006年夏当時に掲載されていたOur History 上の記述。
15)“ HISTORY OF THAYER COLLEGE, KIDDER INSTITUTE, AND KIDDER JUNIOR COL- LEGE” By Sterling Shaw 1959
前掲Thayer Learning Center のホームページに2006年夏当時に掲載されていたpdfファイル。
16) Shaw氏の講演録の冒頭、コークラン初代学長のスピーチ氏の中に、Superintendent of
its land department とある。Superintendent は教育長という意味もあるが、文脈から土地 局の監督者と理解した。
17)“ THE WESTERN HISTORICAL MANUSCRIPT COLLECTION in KANSAS CITY” のホー ムページの中の Daniel Serda著“ Boston Investors and the Early Development of Kansas City, Missouri” (1992) 、p.3( http://umkc.edu/WHMCKC/PUBLICATIONS/MCP/MCP- PDF/Serda-1-23-92pix3.pdf ) 。この資料には、ナザニエル・セイヤーの肖像写真も掲載さ れている。2007/11/14調査)
なお、この資料には、Nathaniel Thayer (1808-1883) という名のボストンの財界人は、
John E. Thayer and Brother の共同経営者である当人 と、その子Nathaniel Thayer, Jr.
(1851-1911) の二人が紹介されているが、1872年開校の大学名に冠するには、ジュニア
の方は若すぎるので、筆者は父を大学名の由来者と判断した。父は1865年に財界を引退 している(John N. Ingham,“Biographical Dictionary of American Business Leaders”p.712 Greenwood Press 1983 、グーグルブック検索にて2007年9月に調査)。
18)前掲ラーネッド『回想録』p.69(解説)、および注4 参照。
19)本文に引用した“ TO THE GRADUATES OF DOSHISHA” に、“ I had not then heard any- thing about the plans for establishing the Doshisha in Japan,”とあり、また、“I was appoint- ed by men most of whom had never seen me to a work about which I knew nothing except that it was to be teaching somewhere in Japan.” とある。
20)前掲住谷『日本経済学の源流』p.138。
21)前掲ラーネッド『回想録』。 22)前掲書p.6。
23)神戸津の開港は、1868年1月1日(慶応3年12月7日)。外国人居留地は兵庫の市街地 から3.5kmも東の砂地と畑地であった神戸村に造成された。まず、イギリス人土木技師J.
W.ハートが設計を行い、格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道などを整備した 126区画の敷地が整備され、1868年9月に第1回競売を実施、その後、1869、70、73年 に競売が行われ、計4回の競売ですべての区画が売却され、全容を整えてゆく。(神戸 旧居留地オフィシャルサイトhttp://www.kobe-kyoryuchi.com/kobe_kyoryuchi/
index.htmlより、2007/11/14調査。) 24)前掲ラーネッド『回想録』p6。
25)当時、外国人は旅行券等、特別な許可がなければ、港より10里以遠の地に入ることがで きなかった(「日米修好通商条約」第7条)。
26)『新島襄全集』8巻 同朋舎出版 1992年、p.153。
27)新島の奮闘については、J.マール.デイヴィス著/北垣宗治訳『宣教の勇者デイヴィ スの生涯』(学校法人同志社 2006年)pp.179-186参照。
28)住谷説。住谷悦治著『ラーネッド博士伝』未来社p.103。ただし、12月29日朝、蒸気船に 乗り込む際にラーネッドがはじめて新島と対面した可能性は残る。
29)前掲ラーネッド『回想録』p.24、p.7。
30)前掲住谷『ラーネッド博士伝』p.102。
31)新島のハーディ夫妻宛の英文書簡(1876/1/6)に“ It was the first marriage of a native Christian in this place.” とある。(『新島襄全集』6巻 同朋舎出版 1985年、p.170)
32)前掲ラーネッド『回想録』p.7。
33)前掲書p.8。
34)前掲書p.25。
35)前掲書pp.18-19。
36)前掲書p.19。
37)前掲書p.31。
38)「訣別之辞」(昭和3/1928年)、前掲書p.62。
なお、ラーネッドの引退式は、昭和3年3月21日の卒業式に合わせて行われた(同書
「編注」解説)。この「訣別之辞」の中で、ラーネッドは、「私は明治三年本国の大学を 卒業しましてから、直ちに学校教育の職務に従事し、今月即ち昭和三年三月を以て、五 十八年の間、或は米国に、或は日本に於て、学校の教授として働きました」(傍線引用 者)と述べている。しかし、明治三年すなわち1870年という年は、彼がイェール大学を 卒業した年であって、その後3年間同大学大学院で学び、1873年にセイヤー・カレッジ に奉職している。我々が知っているこの事実からすれば、「学校教育の職務」を開始し たのは、1873年(明治5年)であって、ラーネッドが同志社教師を引退するまでの教師 歴は55年間のはずである。それを彼があえて「明治三年」で「五十八年の間」と述べて いるのは、彼の記憶違いによるものであろうか。しかし、彼は「訣別之辞」の他箇所で
「今より殆んど五十八年以前、即ち明治三年三月二十一日、私が未だ大学を卒業せざる 中に、私は既に本国カンネクチカット州の法律により、市役所に出頭して選挙権を得た」
とも語っている。大学卒業がアメリカ式に同年6月として、それ以前、58年前のまさに その日(3月21日)、自分は市役所に出頭して選挙権を得た、と述べており、彼の記憶 にはいささかのぶれもない。そうなると唯一考えられることは、ラーネッドは、イェー
ル大学を卒業して直ぐ、大学院に進学しながら既に教師として学生を指導していたこと になる。これは、住谷先生も指摘しておられないが、ラーネッドの非凡さを表すもので あろう。
39)徴兵令により、私学が在学生の徴兵猶予の特典を得るためには、文部大臣の認可が必要 であった。同志社は当時、国から宗教学校か教育機関かの位置づけが不明とされ、その 特典を得られなかった。そこで、横井社長以下の社長会は、神学校以外は教育機関であ ることを明示するため同志社綱領の関係事項を削除し、あわせて、「本社ノ綱領ハ不易 ノ原則ニシテ決シテ動カス可ラズ」という条項(第6条)も削除して、この特典を得た。
これに対して、同志社内外から厳しい批判がわき起こり、米国バック公使や大隈首相も 巻き込む大紛争に発展、アメリカン・ボードも訴訟の手続きに入り、外交問題にも発展 する様相を見せた。結末は、社長と社員会が総辞職し、新社員会が綱領を復元したが、
特典自体は国際世論も考慮されて奪われることはなかった(『同志社百年史』通史編1、
学校法人同志社1979年、pp.445-457)。 40)前掲住谷『日本経済学の源流』p.118。
41)前掲書同頁。
42)オーテス・ケーリ「ラットランドと新島襄と同志社」/北垣宗治編『新島襄と世界』晃 洋書房 1990年 p.201。
43)カールトン・カレッジは1866年開校。
44)『ラットランド・ウィークリー・ヘラルド』に掲載された新島の演説に「神戸の教会に は教育機関がありません。その教会には何らかの学校が必要です。日本人にとって金を ねだるほどいやしいことはありません。しかし私たちは今ねだらねばなりません。キリ ストも、求めよ、さらば与えられん、と言われましたから。それ故に私は皆さんに対し、
約三千三百万人を助けるための教師と説教者を起こすべく、養成所を設立するに充分な 程度のご援助をおねがい致したいのであります」とある(オーテス・ケーリ氏訳)。前 掲ケーリ論文掲載書p.211参照。
45)ハーディーは、新島から事前に、ボードの集まりで学校設立の話題を提案してよいかど うかとの相談を受けて、「わたしはおぼつかないと思うのだが、まあ、やってみるか」
と賛意を示し(『新島襄全集』10巻、同朋舎出版 1985、p.189)、実際に募金の申し込み が行われると、彼はその会計係となり、募金がちょうど5千ドルになるように、不足額 の5百ドルほど自らも募金を行っている(前掲ケーリ論文掲書p.217)。
引用文献リスト
<刊行物>
『同志社百年史』通史編1 学校法人同志社 1979年
D.W.ラーネッド著『回想録』 学校法人同志社 1983年J.マール.デイヴィス著 北垣宗治訳『宣教の勇者デイヴィスの生涯』 学校法人同志社 2006年
北垣宗治編『新島襄と世界』 晃洋書房 1990年 住谷悦治著『日本経済学の源流』 教文館 昭和44年 住谷悦治著『ラーネッド博士伝−人と思想−』未来社 1973年
『新島襄全集』6巻 同朋舎出版 1985年
『新島襄全集』8巻 同朋舎出版 1992年
『新島襄全集』10巻 同朋舎出版 1985年
<インターネット上の引用文献>
Daniel Serda “Boston Investors and the Early Development of Kansas City, Missouri” (1992)
“THE WESTERN HISTORICAL MANUSCRIPT COLLECTION in KANSAS CITY”
(http://umkc.edu/WHMCKC/PUBLICATIONS/MCP/MCPPDF/Serda-1-23-92pix3.pdf、 2007/11/13調査)
同志社大学ホームページ、同志社社史資料センター、新島遺品庫資料(資料番号0385)
(http://joseph.doshisha.ac.jp/ihinko/niss/ASP/ihin_detail.asp?ihin_id=215 )
John N. Ingham,“Biographical Dictionary of American Business Leaders”p.712Greenwood Press 1983(グーグルブック検索にて2007年9月に調査)
kiddermissori.com(http://kiddermissouri.com/、2007/11/13調査)
神戸旧居留地オフィシャルサイト
(http://www.kobe-kyoryuchi.com/kobe_kyoryuchi/index.html、2007/11/14調査)
Sterling Shaw “ HISTORY OF THAYER COLLEGE, KIDDER INSTITUTE, AND KIDDER JUNIOR COLLEGE”(1959)(http://www.thayerlearningcenter.com/、2006/6調査)
Thayer Learning Center(http://www.thayerlearningcenter.com/、2006/6調査)
Thayer Learining Center Program(http://www.tlcprogram.com/、2007/11/14調査)
US. Census Bureau(http://www.census.gov/、2007/11/13調査)