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近 世 富 山

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Academic year: 2021

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(1)

富大経済論集

‑116

みミ£.

第一節

t

r a :  

近世とくに江戸中期以降の︑藩の領域経済とこれにからみつく藩際経済の展開という時代的な推移の渦巻は︑事業

の経営面における︑仕入・製造や販売部門およびこれらの経営政策において顕著にあらわれた︒専門の商人のもとに

取引範囲の拡大と蔵物・納屋物・舶来品の系統化・組織化がすすみ︑商品別︑地域別の卸売・小売や加工問屋が継続

① 的に営まれ︑所謂﹁商人商業の時代﹂が出現した︒暖簾や看板・屋号︑そして若干の使用人をもっ店舗商業が進展し

@ た︒この間に近江商人や富山売薬商人らは領域経済と藩際経済の複雑な関係を巧みに利用して︑領域をこえて全国的

に活躍した︒両商人はともに本来的には行商の形態をとったが︑近江商人は店舗商人となるものも多かった︒本稿で

は富山売薬商人の仕入について︑とくにこの拡大した取引範囲に対応しながら︑その経営の特色である全国的行商の

形態においていかに注意を払ったか︑品質の良否に深く関係する原料をいかに蒐集したか︑そしてその仕入費は如何

様に構成されたかを究明しようとするものである︒

② ①  

(2)

③ 

第二節

富山売薬業における仕入の特質

富山売薬業の営業については︑明治六年の高木文二郎より松本軍医頭宛の﹁売薬所行御尋問御座侯に付以書取を拳

① 申上侯﹂の文書のなかに︑仕入をふくめてその近世の経営が要領よく述べられている︒

:当今に到ては新川県御管下より凡四千人余も他国に往業する者有之︑故に僻遠都邑と難も無不到処︑右業万を反魂丹株・反

調

出仕仏而如例年場所に到︑其得意先きに前年預け置仏薬品の内服用致仏丈の代料を請取︑残り薬品は不残引取又新たに薬品取MU

︵ 味

退

調

調

富山売薬業において仕入の対象となる原料薬は多くは支那から輸入せられ︑製法はいわゆる漢方薬のそれによるも

のであった︒当時のわが国の売薬品宋は︑衆知のように概ね原料は和漢薬を主剤とするものであったが︑これと同じ性

‑117‑

質をおびていた︒富山地方には全国的に行商販売するのに十分な売薬業の諸種の原料の産出はなかったのでこれらは

多くを領域外から求めねばならなかった︒この地方では熊謄︑実蓮︑蕎麦︑赤小豆︑甘草類と包装材料としての紙の

産品があったが︑これらはわが国の諸地方にしばしばみられるものであって︑それぞれの地方的需要をみたすにすぎ

(3)

富大経済論集

118

4

JAM

J− ず

いま富山売薬として最も本源的な︑そしてまた販売量の多い反魂丹についてその原料薬をみよう︒薬方動は時代に

より製造する業者により︑また原料の価格の騰落により多少の差がある︒たとえば富山売薬業史史料集に載せられて

いる桧岡和兵衛の製薬について寛政七年のものと︑文化四年のものとを比較してみるなら恥︑主要な原料薬は可なり

類似しているけれども︑明らかに調合の分量と原料薬の品名に若干の差があるのを認めることができる︒漢方薬法に

よる製薬には各種の薬種の調合如何による効果が近世医学史上の中心的課題であり︑分量の調合はその薬効果の立場

からと︑原料薬の仕入原価の騰落からの経営的立場との両方面から製薬者にとって常に注意され研究されていた︒反

魂丹もこのような立場から前述の地方産の原料薬を含めて﹁二十三味﹂が調合された︒これらのうち原料薬の名称の

上に唐木香︑唐黄太7︑唐胡黄連︑唐大黄︑東京縮砂など支部や安南などの産地名をつけて呼ばれたものがある︒この

ほか乳香︑虜香︑ね由一六︑龍脳等も主要な原料であってほとんど輸入によるものであった︒

④ 来のものとされ︑李朱医学系の薬剤といわれる︒︵簡単にこれらの数個の原料薬について当時の商品地理学的考察を

加えるならば︑岸政雄著﹁売薬商品目色の記述が参考になる︒これに依ればまず乳香は支那人が黄煙料として之を廟 一説にはその原方は支那伝

前に薫焼するものであり︑窮香は中央アジャ︑ヒマラヤ地方や支那に産する虜香鹿の牡獣の虜嚢中に包含する分泌物

である︒また相実については原植地は未だ明らかではないが︑私産なしとせられる︒龍脳はスマトラ︑ボルネオに産

する喬木の龍脳樹から取られ︑牛貰は支那︑印度︑︒ヘルシヤ等に産する山羊︑牛等の謄嚢中の凝結物である︒このよ

うに乳香・磨香・担実・龍脳・牛黄等の反魂丹の原料薬は主として支那及びその南方方面に産するものであり︑これ

が輸入せられて富山で製造せられた︒︶その他奇応丸・一角丸・感応丸等が名をしられ︑また数十口問が販売されたが

⑤ その原料薬も右と同じように︑輸入原料が砂なからず存した︒まさに﹁唐の物は薬の外はなくとも事かくま弘﹂とな

(4)

おも云われるほどに︑却って実際では薬は支那からの輸入によらねばならなかった︒それはとくに富山売薬業につい

て海外依存が顕著であった︒また幕末には和蘭医学の園内進展の気運にあわせて︑蘭方奇応丸︑蘭方療薬︑蘭方薄荷

円等が製造せられ︑!ーーその具体的製法については明らかではないが!|弘化のころ小倉領六郡中にこれらは免許せ

⑤ られていた︒富山藩においては︑売薬業に対する領主的商品経済の立場から︑これら原料薬について統制︑監督に心

をくだき︑港内では反魂丹役所の所轄に属せしめたが︑ときには直接に長崎に出向いて吟味した︒前田家文書のなか

⑤ の﹁町吟味所旧記之内抜要﹂全にみられ︑文政ころ富山の布目屋を長崎へ派遣したのもこの趣旨にほかならなかっ

た ︒

E

@ 

衆知のように当時︑輸入は長崎会所を通じて行われ︑長崎から圏内各地に運送されたが︑そのうち大阪には最も多

く運ばれ︑無手板物即ち積荷目録のない唐薬もすくなくないようであったが︑大阪は圏内品とともに輸入品の集散地

でもあった︒商人生産鑑には﹁大阪は繁華の湊にて諸国より入船多く−

j

−−何百膿というかずを知らず大まいの諸代i

‑119

ものを引詰売捌き叉此明船に諸代物を積替︑江戸其外諸国へ積くだし︵中略︶国々を賭ひするゆへ江戸より取引大な

@ り︑唐物薬種荒物共大方大阪にて捌﹂れるものであった︒かくて富山売薬も原料薬仕入の面ではひとえに大阪に依存

していた︒尤も行商人はその行商により旅先で︑例えば薩摩藩内では密輸入が行われ︑密輸入品を買入れたようであ

(5)

‑120‑

富大経済論集

って︑薩摩組では﹁鞠たり共唐物は不及申︑御国産等都而売物之品取扱申間敷候︑万一心得違いたし故障於有之は︑

@ :::﹂と︑唐物の取扱いと自宅への運送を抑制する仲間示談書の禁止条項がしばしばみられたことからも推察される︒

和薬は国内の諸地方に産し︑売薬業者はその行商を利用して旅先より仕入れた︒九州方面では︑原料薬の海人草を

⑬ 仕入れて送ったように︑各地方々々から蒐集することができた︒行商圏への道中で買求めて国元に送ったり︑ことに

その帰国の際には空になった売薬の荷箱にこれを入れて富山に送りかえした︒こうして仕入原料は物資の集散地であ

富山売薬商人の原料薬仕入図

(輸入原料薬〕 (国内産原料薬)

る大阪・江戸をはじめ︑信州

−大和・京都・加賀などから

広く買い集められた︒旅先の

道中は適当の場所︑時期︑価

格や品質を考慮して原料薬を

3

仕入れるのに役だった︒

しかしこの産業が盛んにな

るにつれて彼らのこの蒐集機

能は次第に富山の薬種屋によ

って果されるようになった︒

すでに宝暦ごろに薬種屋から

配 選 給 ば 過 れ 程 た を 仲 統 買

制 人し t

カミ⑬いた お

、 て 文 藩 イヒは

(6)

@ 五年に藩から株ぎめをされると︑その経済統制は彼らの手におさめられた︒原料薬種を精選・吟味することがこの産

業を発達せしめる基本的条件であるために行われたのであったが︑それには向年の御勘定所からの町年寄への達にあ

﹁近年上方廻り反魂丹商売人ども之内出口不正之薬取扱侯族相聞え候:::若於相顕者不軽越度に侯﹂との

行商人に対する取締と統制策も含まれていた︒しかしこれによって行商人は旅先で原料薬種の仕入から手をひいて了

ったのではなく︑資本の大きな薬種屋の専門的蒐集機能に平行して行商人自身はやはり旅先から買入れ︑同じく製薬

に従事した︒すなわち安政元年の奥中国組防長向寄仲間改正示談書にも﹁彼表において生薬売買の義は堅く不相成

@ 侯︒勿論前々より御停止に候−

ji

−−﹂とあるように行商人の原料薬売買業務は表面は禁じられでも︑この規制自体か

らして︑内々には守られていなかったようである︒また彼らは国一冗で薬種屋から買入れて製薬を行うものも少くなか

った︒次節にのべるように行商人の製薬規模の大きいものは︑薬種屋と同じように零細な行商人に製品を販売した︒

別掲の図はこれらの諸過程を簡素化して表示したものである︒

‑121

註①富山売薬史史料集︑四OlO

②﹁反魂丹法分量﹂については拙著﹁行商圏と領域経済﹂五二頁︒また例えば﹁富山反魂旧記﹂の中に記載されてある原料の

廿

(7)

富大経済論集

‑ 12.2

〆六十八匁五分丸じ手間︑反こん丹一刻っき賃

E唐萌黄連

三 弐 七 弐 弐 凹 弐 分 匁 匁 匁 匁 匁 匁

文化四年卯年より改法︑反魂丹法一刻法正ミ七十七匁︑ぬり十五匁ぬり

〆右手前にて未捺油なし平かへ

×

〆一四昧 唐胡黄連

全 日

L

E

白鳥香 十二匁

皮 黄

問や米

④乙の反魂丹の製法の由来について︑梅原隆章氏によれば︑その原方は︑中国の金の時代に張子和の著した﹁儒門事親﹂巻第

十五の中に載せられた﹁妙香十一丸﹂であるとする︒すなわち岡本玄冶の﹁家伝預薬集﹂に﹁延寿反魂丹﹂俗に﹁反魂丹なり﹂の条に﹁慶長十八年東井︵曲直瀬玄朔︶御調合の時︑黄サ今を去り小豆三十粒入るなり﹂とあるのがこれである︒江戸初期

に医学界の主流をなした曲直瀬玄朔は︑李朱医学の提唱者である曲直瀬道三の後継者であって︑号は東井と称し︑金の張子和の﹁儒門事親﹂に記載された万剤を引継いで紹介し︑調合して︑﹁延寿反魂丹﹂と号した︒こうして反魂丹は支那伝来の処方

を根幹にしているのであって︑曲直瀬玄朔の調合によるものであった︒︵梅原隆章﹁薬﹂の変遷の一例︑越中史壇︑一七︑一

⑤岸正雄﹁売薬商品学﹂七O

(8)

⑬ ⑫ ⑪ ⑬ ⑨ ③ ⑦ ⑤   t

富山県立図書館所蔵︑前田家文書﹁町吟所旧記之内抜要﹂全︒

日本経済叢書︑巻七︑五O

一 二 頁 ︒

たとえば明治四年薩摩組改正一不談定法書︵史料集三五四頁︶

安政三年十一月︑富山売薬人阿部弥三郎の小倉より運送の書簡︑︵史料集拙著︑行商圏と領域経済︑二O

拙著︑行商圏と領域経済︑二六四頁︒

⑬ ⑬ ⑬  

第三節卸売商人の仕入

製造するのではなくて自家製品に加えて薬種屋の製品を買入れて行商に出かけ︑また自家製品を他の行商人に卸売す 仕入は一般に中堅以上の売薬行商の経営者階層には︑製造を前提として行われた︒それは販売するすべての売薬を

る場合も少くなかった︒比較的規模の大きい経営においては旅先から原料薬を多量に買入れ︑自家の仕事場で製品と

なして他の零細な行商人に販売するのであって︑むしろ薬種屋の実質をもつものも存在した︒この場合も富山売薬業

‑123

は近江や岡山の売薬業の場合とことなり︑多方薬を建前とするので各経営者は特定薬のみを製造するのではなく︑た

んに特技としてあるいは秘事口伝として特定薬の製造を主とするにすぎなかった︒以下はなはだ限られた史料による

のであるが︑これらの仕入の形態と様式についてその主なる過程を明らかにしよう︒

(9)

富大経済論集 124

漢方薬が支配的である当時では︑原料薬は大阪の薬種問屋から買入れられる輸入原料が多量に使用された︒富

山売薬商人として九州や出雲に行商圏をもっ阿部家の所蔵になる﹁︑永代簿﹂では文久二年に富山室屋大助が大阪に行

① き︑数軒聞きあわせ︑船場の鍵屋市兵衛から仕入れた︒その買付書には次のような各種・の原料薬が記されている︒な

お室屋の一族は売薬業者として著名であり︑明治に入って阿部の姓を名のり業界の中心人物が輩出した︒

八 八

右 〆 分 龍 益 青 兵 長 木 月 月

荷 五 同 郎 両 十 升f

文 物 品 廻 脳 智 葉 子Z香 二 日

久 上 し

二 船 着 大

成 参 五 五 致 阪

八 り 廿 五 拾 十 十 し ょ

月 候 箱 橿 橿 桓 権 、 り

三 は 夫 太

日 』 よ 助

三 一 り 書

七 六 四 六 二 数 状

八 五 五 O五 軒 を

間 以

合 申

候 越

所 之

( 民 、 写

殿

セメンシイナ

先つみ︑青葉

太助様へ御渡し申上候︑己上

壱斤

壱斤

(10)

殿

右の室屋大助の活動については他に史料的に明らかにすることができないが︑内容︑とくにその大量取引からして

卸売のための賀入であったと推察せられる︒

富山売薬人阿部弥三郎は海人草五

O

斤を安政三年︑小倉より国一冗の富山に送った︒小倉領内に行商圏をもっ売薬商

③ 人であって︑卸売のことを通知してきた︒即ち阿部家所蔵の﹁永代簿﹂には

一︑海人草︑五十斤尤︵以下は右と同文につき略|

l

海人草は和漢薬として重要な原料であるので薩摩では藩の製薬ならびに取締りの機関の名称に﹁海人草役所叫がお

かれたほどである︒虫おろしの効果があり︑遠く九州から蒐集され︑大阪・京都を経て仲使いによって富山に送られ

η

た︒安政二年五月富山阿部弥一郎が金兵衛なる者を派わして大阪の農人橋西詰西の尾張屋庄右衛門に︑例年のように 包装材料としては紙︑貝︑竹皮などの包装容器︑包装紙が必要であった︒このうち貝は大阪や江戸から仕入れ

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富大経済論集

@ 貝を注文して︑その積送方を請求した︒その送荷の返信は次の通りであった︒

‑126

同 問 四 間 廿 出 月 出 〆 六 十 し 〆

日 日

壱 四 俵 俵

一 二

一 一

廿

尾張屋庄右衛門

⑥ また安政二年頃阿部弥一部の貝の買入と販売の控を整理すると

江戸分

廿

廿

4

八万四千貝樽入

⑪ 

(12)

五万千八百貝内の分

⑦ 阿部弥一郎は嘉永三年に富山葱﹁御勝手方﹂より反魂丹方及頼母子方上縮を命ぜられ︑卸売と兼ねていた︒買入一

00

をのぞいて五件が返済または貸付の形の売上であり︑二六︑OO0のうち自家消費の五一︑八OO

えた︒この表では自己消費の比率が高く︑しかもその経営が大きかったことを推測せしめる︒仕入先は大阪︑江戸な

ど物資の中心地から︑陸路あるいは氷上交通によって送られた︒他の売薬製造者への貝の販売数量からみる限りにお

ill

初論この表のみから決定はできないが︑自家使用の絶対量の大きさからみて

ll

l他の経営とのあいだに生産

規模に格差が著しかったと推察される︒なおこの卸商の商品別特殊化および地域的特殊化への進展はみられないよう

で︑行商人が卸売を兼ねて仕入れたのである︒行商による資本の蓄積が単なる行商のほかに原料薬種や包装材料の大

量取引をなし︑他の商人への卸売の形態で行う局面に多固化したことは注意される︒

127‑

紙は売薬の包装用にまた薬袋として重要な補助材料であって︑領内では谷口集落として発達した八尾で生産され︑

売薬業として必要な紙は可なりここから供給されていた︒すでにはやくも藩では延享二年富山御倹約方よりの達ピ

(13)

富大経済論集

‑128‑

﹁反魂円商売は勿論駄賃持等に至迄も紙類持参候義停止之官﹂と統制さ料︑のちに紙会所を通じて売薬商人は買入れ

ていた︒紙会所には城下町の富山の十人紙屋とここに送る産地の八屠の仲買が引受けたが︑却って高くなり円売薬商

人はこれに苦しむことがしばしばであった︒弘化元炭年二月︑富山藩﹁御産物方触﹂の中に﹁近年薬種弁紙類等高値

⑬ に付︑仕入向心得違之族茂有之由:::向後相改精誠:::﹂とあるのもこのことを裏書きするものであった︒紙もまた

売薬商人の需要と安定した価格をみたすために大阪辺から送られた︒

⑨ 阪表船積荷物諸懸り物左之通﹂についてその中に﹁下り紙売捌直段﹂として ﹁富山紙業小史﹂第一一捕の明治元年ごろの﹁大

元値段

薬袋紙壱東ニ付

但し壱僅ハ四拾束入

外ニ五分三毘入用 壱匁四分七厘利潤

元値段

外ニ五分二犀入用

とあり︑売薬に使用される袋紙が記述されている︒

このほか富山阿部弥一郎の大阪との売薬関係荷物の輸送のなかに紙が多量に加えられていた︒文久三年小島屋治右

(14)

⑫ 衛門から受けた旅行送荷物代金書のなかに丸紙や袋紙など七万枚余が数えられる︒

註①史料集二八四頁︑大阪の薬種屋は全国に販路をもっていたが︑広島地万でも大阪と取引した薬種問屋のなかに道修町鍵屋半

Q

種屋として大和屋︑伏見屋︑近江屋︑福島屋︑鍵巌などの屋号がみられ︑鍵屋徳兵衛︑鍵屋忠兵衛など鍵屋の名が八軒もある︒鍵屋半兵衛はこれらの一族であろうと推測される︒︵宮本又次︑植村元覚﹁東区史﹂第三篇︑商業︑一二六七三七O

頁 ︶

OO

O

⑤史料集二四三︸二四五頁︒

⑥永代簿﹂の安政二年﹁貝︑買入口﹂史料集︑二四六頁︒

⑨拙著︑行商圏と領域経済︑一一O

⑬若林元四郎﹁富山紙業小史﹂四頁参照︒

⑪若林元四郎﹁富山紙業小史﹂四三頁︒

O

t

O

第四節行商人の卸売商人からの仕入

大阪をはじめ江戸︑京都その他各地から原料を蒐集した富山の卸売業者は︑富山平野に分布する売薬行商の経営者

‑129‑

に原料薬を配給した︒原料薬をそのまま売り渡す場合もあり︑或いは製薬して配置薬にして売る場合もあった︒

に行商人たちはこの原料薬を材料として売薬製造を行うのであった︒明治三年の富山茶木屋清兵衛より有沢屋和兵衛

(15)

‑130‑

富大経済論集

① 宛の﹁御茶種通﹂はこれを示している︒︵茶木屋清兵衛は藩政時代は売薬行商人であったが︑その後もこの薬種問屋

として繁栄をつづけ︑その蓄積された商業資本を基として銀行業の経営にものりだして多面化し︑数代にわたり富山

地方の財界の第一人者となってきた︒︶また有沢屋和兵衛は行商圏を越後にもっているが︑長く行商人として継続し

た家であり︑残存する史料としては初期に属する天明七年富山町奉行より﹁反魂丹商売人共︑毎春寄合弁其組申分之

② 品有之寺院等に及会合之節:::﹂の心得の通達方が当番町年寄へ達せられたが越後組のその御請印形帳に︑その名が

③ みられる︒その後寛政頃の同家の売薬奉公人のこと︑また文政のころ︑富山の町の千石町有沢屋和兵衛より割賦物等

猶予方の願艶があることなど︑可なり長期にわたって史料的に跡づけられる家であり︑明治以後は日南和平の名で富

山地方では売薬業者として著名であった︒

正薬直段覚

右之遥受取申以︑己上︑二月二日

⑥一同六両弐歩ト永弐匁五分才角︑一一一十四匁八分

⑤一同五両壱歩三朱ト永三匁三分弐厘唐牛黄︑拾七匁五分

③一同九両弐歩三朱ト真牛黄︑弐拾匁

⑤〆金五拾五両弐歩・永六匁八分七厘

右の内弐拾壱両

慌に受取申弘︑己上

(16)

E

此 紙 各

金 三μ

拾 貫九 日

両 固

弐 憶歩 に

壱 受朱取. 申

0,

匁己五 上

指引〆拾五両ト弐匁壱分弐匡

右之通受取弘申︑己上回

廿

一拾五両・弐百五拾四文〆高

右代官札拾五両・印紙三拾匁︑目違指引

@思@;;i2 ⑪ 会 ⑪2 2

⑥ ⑥ 会 ③ 剖 ⑥ 罰 @ 罰 ⑥ 罰 ③ 嵩 ⑤ 議 〆一口一層ーγ一三一)一三一こ

金 七 五 竺 五 士 壱E百 百 言 百 買

壱 百 百 日 百 立 朱 日 四 弐 廿 云

朱 文 文 文 百 十 十 文H

文 文

八 別十 薬

‑131‑

廿

出物解毒剤代︑四十六匁五分

安神丸代

右の史料によれば有沢屋和兵衛は身爵香・才角・唐牛黄・真牛黄など高価原料のみを五十五両余りをも買入れたが

慎二受取

(17)

‑132

またセメンエン・丹龍丹・赤龍丹・安神丸などのような製造されたものも若干ながら買入れたことが知られる︒原料

薬としてはこのほかに数多くのポピュラーなものが使用されていたからこれのみをもって同家の一年間の取扱い量を

知ることは出来ない︒高価薬が知られるのみである︒牛黄︑鹿香類の高貴薬はときには黄金と同じように或いはそれ

以上に高価であり行商人が旅先から買入持参することは輸送中の危険があり︑またその品質の良否の鑑定には困難性

④ ③ ② ①  

富山の薬種屋から仕入れるのが通例であった︒

t

史料集一六四頁︒

二 ハ

O

第五節

行 商 人

行商人の仕入は帳帯上で残っている場合は極めて少い︒経営規模が零細であり家計との分離が卸売業におけるほど

明確ではなく︑さらに仕入は慣習的に仕入先と仕入量が一定していて︑毎年大差がないところから業者のあいだにこ

① れを帳簿に記述しないことが多い︒ここではそうしたなかで残存したむしろ珍しい例として帳簿に筆一本にいたるま

で細部にわたって−記録された石州に行商する水上屋清二郎の嘉永四年六月の仕入について考察しよう︒この六月の帳

簿

おそらくは春の行商が終り︑次回の牧穫期の秋をめあての行商の準備のために買入れた諸物品の総仕入高を一示

すものである︒経営規模は帳簿によれば三人脚であって︑富山売薬業として中ないしは上の部類に属しているが︑富

山売薬業の一般的傾向を推測することができる︒水上屋清二郎は安政の頃︑隣の雲州で阿部弥一郎の売子であったこ

 

とがある︒この帳簿を項目別に整理して記述すると次の通りである︒

参照

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講師:乘富 秀人 司会:前川 和美. ○乘富