<研究ノート>関東自由会の結成と自由党地方支部
著者 上田 浄
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 82
ページ 45‑63
発行年 2014‑09‑30
URL http://doi.org/10.15002/00011296
関東自由会の結成と自由党地方支部(上田)四五 〈研究ノート〉
関東自由会の結成と自由党地方支部
上 田 浄
はじめに
本稿は大井憲太郎の自由党脱党後における動向および星亨の主導による関東自由会結成と同党関東各府県支部設立状況を解明すると共に、その意味を論じるものである。
大井脱党前後における自由党地方団の形成過程とその動向については、主に升味準之輔氏および伊藤之雄氏による研究がある。両研究では第一議会前後において大井派が主導した大同協和会(当時、関東派と称された)が標榜した非政社的結合および立憲自由党結成後に大井派が主張した院外団主導による党運営路線がいずれも多くの支持を得ることができなかった過程が明らかにされている
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その一方で、伊藤氏は当該期の自由党地方団について最終的には党最高幹部の選出にまで影響を与えた点を強調し て、近代日本政治史研究における自由党地方団の形成と変容に関する研究の必要性を指摘した。その上で、同氏はその後の中央政局における政府と自由党の提携・妥協過程における関東派の動向に注目し、星の指導力に力点をおいて憲政党期から初期立憲政友会期までを通観している
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一方、小宮一夫氏は『武相自由民権史料集第三巻第三編国会開設後の政治運動』の編纂にあたり、関東自由会および自由党武相支部関係の史料を丹念に蒐集した。そして、同氏は解題において自由民権運動を日本近代史全体の中でとらえるために、国会開設後における地域の政治運動をも視野に含めて分析する必要性を改めて強調している
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また地方自治体史においては近年刊行された『千葉県の歴史』資料編・通史編近現代の各巻において、当該期の新史料が採録され国会開設後における県政および自由党・改
法政史学 第八十二号四六
進党系の動向について、新知見をふまえた記述がなされている
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これらに加えて、いずれの先行研究においても用いられている自由党の機関誌『自由党々報』および機関紙『自由新聞』は、双方の記述内容を地域史料に基づき丹念に再検討すれば、現在も基本的事実関係の解明について十分有効な資料であると考える。
こうした先行研究と史資料の蓄積をふまえて、本稿ではまず第一に未だ十分に言及されていない関東各府県レベルでの大井派による関東会(一八九一年二月以降に活動を開始。中心は大井憲太郎および新井章吾等)再興の試みについて明らかにする。第二に、これと対抗する形で進められた星派主導による関東自由会の結成(一八九二年九月)および自由党の関東各府県支部設立状況について、栃木・神奈川・東京支部の事例をとりあげ明らかにする。また支部の設立に至らなかった千葉県に関して、その主な要因を指摘したい。
このように関東地方を事例とした自由党地方団と地方支部の動向について解明することで、憲政党成立前における自由党関東派(自由民権運動家たちの当該期における政治活動)の実態とその意味を、特に千葉県の動向に留意しつ つ、論じたいのである。
一 大井の脱党と自由党関東派 大井は一八九二(明治二五)年六月末の脱党後も東洋自由党への結集に向けて、自由党関東派有力党員へ精力的な働きかけを行っていた。しかし、四月の党大会において否決された自由党地方団連合組織による党運営という改革案のみならず、大井の非内地雑居論に対して関東派党員の根強い異論が存在していた事実を見逃すことはできない。例えば多摩三郡において有力な自由党員として知られていた神奈川県会議員の中村克昌は、大井が脱党した直後の七月初旬に彼の面談要請に応じて上京し、大井邸において「関東独立論及東洋自由党組織論」について議論している。中村は関東会の現況について、自由党から離脱しても有力他派との合流は期待できないとの見解を示した後に、次のように続けた。迂生ハ近年外交政策ニ付而ハ熱心調査中ナレトモ、凡ソ他邦ニ向テ内地雑居ヲ許サズシテ対等条約ヲ定結セントスルハ万国公法ノ許サゝル処。況ヤ我政府ガ多年改正条約ニ困難シ税権ノ回復スラ尚且容易ナラサル今日ニ於テ、雑居ヲ許サズシテ対等条約ヲ要求スルハ実
関東自由会の結成と自由党地方支部(上田)四七 ニ無理ナル注文ト云フへシ。何レノ邦国ニもカゝル例ハ無之新例ヲ造ルモノゝ如シ。無責任も又甚シ
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中村は県下自由党の盟友に宛て大井との面談内容を右のまま伝えた。大井からの目立った反論は無く、仕方なしとの数言が発せられたのみであったという。
一方、千葉県会議員であった高野麟三は四月の党大会以降、大井が脱党に至るまでの間、自由党からの関東会独立に向けて県下の地方有力者に協力を呼びかけている。高野は立憲自由党の千葉県常議員(院外者)として板倉中(代議士・五区・弥生倶楽部のち自由倶楽部)と共に選出された。そして、特に関東地方の同党常議員と連携しつつ当時の千葉県会において地域的利害が最も噴出した土木費(利根川の治水堤防費)について、関係各県の情報を収集、とりまとめ、活かしながら帝国議会への建議案を作成する中心人物であった。高野は選出基盤であった香取郡の高城啓次郎には、各地へ派出する遊説員としての協力依頼や本部事務所での臨時協議会への出席要請等を行い、再三の上京を促している。高城には別便で三月中旬における「大井宅の関東有志会」の決定事項が詳細に伝えられていた。その内容は、第一に現在の関東会を「非政社の有形団体」とすること。第二に機関紙「新東洋」を発刊すること。自由党 から分離すること。第三に代議士と院外者を「斡旋」する「交渉委員」を設け「議院内外ノ運動ヲ一層鞏固」円滑にする事等を規定した「協議案第一号(全八項)」および「同第二号共同機関新聞発行(全二一項)」であった
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高野は高城宛五月二六日付の書簡で現在の政治状況に対する見方を次のように述べている。今日の議会の実況実に腐敗の有様我関東の黙視するに忍ざる第一なり、殊とに現今の政況余程切迫いたし候模様に承知仕候、此時に当り我が関東ハ立脚の地ヲ固め厳正中立を守り而して我が関東の意見ヲ容るゝものと聯合をなし大に天下の機勢を制せんとする第二なり、且ツ自由党の如きも余り過大の姿にて党中種々なる分子現出し到底一致の運動を以て天下の大勢ヲ制する能ハざるハ著名なる事実なり、依テ我々ハ関東の団結ヲ鞏固にし率先して天下の改革を為さんとする第三なり
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高野が批判する現在の議会における腐敗や切迫した政況とは具体的に明らかにされておらず、推測の域をでないが、自由党が立憲改進党員、無所属議員をも参画させて第三議会に提出した条約改正上奏案にその一例を求めることもできるのではないだろうか。右の書簡を発してから間もない
法政史学 第八十二号四八
六月一二日には対外硬勢力による内地雑居講究会が発足した。「大井派・自由党関東派」に分類される一四名は、当初会員七七名の中心勢力であったという
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(。千葉県からは現職代議士である千葉禎太郎(一区・弥生倶楽部)と加藤淳造(八区・弥生倶楽部)、高野麟三(院外者)の三名の出席が確認できる。千葉、加藤の両名は千葉県自由党系勢力の中心人物であった。彼らはかつて房総地域の自由民権運動において、全国の動向に呼応して各自の出身郡内における自由党系勢力の組織化にはじまり、県内自由党の規約成立や機関紙の創刊に関わってきた。
彼らに加えて関東他県からの出席代議士は新井章吾(栃木二区・無所属)、石坂昌孝(神奈川三区・弥生倶楽部)、飯村丈三郎(茨城三区・無所属)、森隆介(茨城四区・弥生倶楽部)であり、彼らが千葉・加藤に劣らぬ経歴の持ち主であることは言うまでもない。
これに対して六月一八日、関東選出の自由党代議士達は新井章吾に絶交状を送ると共に一九日には関東会からの分離を表明。自由党も関東会分離の動きに発する党内の混乱を鎮静化すべく森隆介と小久保喜七を除名している。しかし、まもなく大井の脱党により関東会は政党の下から離脱した。一一月六日には当初の計画に基づき東洋自由党が結 成された。だが、同党に結集した代議士は新井、飯村、森の三名に加えて小久保喜七(院外者)の四名であった。このような状況下においても高野は、片野文助(茨城)・持田若佐(埼玉)と共に「関東会幹事」を務めて「関東ノ勢力ヲ大ニ挽回スルト否トハ関東自由主義ノ興廃ニ関シ関東勢力ノ消長ニ係ル義ト存候」との熱意をもって関東会への結集を呼びかけ続けるのであった
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(。だがその後、高野の要請に応じた地方有力者を確認することはできない。関東会の再興を大井と共に目指した高野の活動は、それ以降の具体的な史料に乏しく次第に行き詰まりつつあったのではないかと推測する。翌年十月、高野死去。享年三四歳であった。ただし、千葉県の有力県会議員であった高野の活動には、当初、千葉禎太郎や加藤淳造が同調していたことに留意しておきたい。特に加藤は第二回総選挙後の大井派による非政社的倶楽部(関東倶楽部)発足において発起人的な役割も果たしていた。後述のごとく明治二六年初頭から具体化する、千葉県自由党支部の結成をめぐる動向に少なからぬ影響を及ぼしたことが推測されるのである。
一方、大井の脱党と関東会再組織化の運動が展開される中で、関東の自由党員は八月二五日自由党事務所に千葉(五名)・埼玉(一名)・神奈川(七名)・茨城(六名)・栃木(四
関東自由会の結成と自由党地方支部(上田)四九 名)・群馬(四名)の各県代表が集結した。そして、今後の方針について協議し、茨城県水戸市で「関東同志の大懇親会」を開催することを決定している。出席者についてみると神奈川県からは先にふれた中村克昌や鈴本稻之助、森久保作蔵他四名。千葉県の出席者五名をみても萩原昇吉(千葉)・山本荘三郎(印旛)・佐久間慎吾(安房)・西村準三(海上)等、県会議員を中心とした党員より構成されていることが確認できる。またこの会合には、関東選出代議士(関東倶楽部)も同席していた
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九月三〇日茨城県水戸市で関東自由党大会が開催された。党本部からは松田正久(佐賀県選出)、江原素六(静岡県選出)、中野寅次郎(高知県)らが星亨の意向を受けて派遣された。そして、星亨の発議により関信之介(茨城県)を座長として関東自由会規約原案(全五条)が可決された。その骨子は次の通りである。①「本会は自由主義を奉ずる関東各府県の有志者相会し旧誼を厚ふし新交を修め常に関東の進捗発達を図る」ことを目的とする。②毎年春秋二回各府県輪番で大会を開催する。③東京に事務所を設置する。④各府県三名以上の委員を選出して本部事務に就くこと等である。以後、本部来賓あいさつ、各県代表あいさつに続き次回は栃木県で開催することを決している。午 後には場所を移して演説会が開かれ、本部来賓に加えて山田東次、星亨が登壇した
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(。茨城県においては、大井の関東会再組織化に同調する自由民権運動以来の県内有力者層の活動もみられたが主流にはなり得なかったようである。
こうして自由党関東派の大多数は自由党の事実上のトップに立つ星亨の主導権の下に関東自由会に結集し、自由党星体制を支えるものとして、その再組織化にむけて一歩を踏み出したのである。関東自由会は水戸大会での決議事項に基づき一一月一五日、党事務所で委員会を開催した。「仮世話人」である星亨および星派委員主導の元に関東各府県委員(院外者中心)が委員会仮規則・事務細則・事務所設置・幹事選任等を決している。当初、京橋区八宮町に設けられた関東自由会事務所は、第四議会中の一二月二〇日自由党五地方(東北・関東・北信八州・関西・九州)委員(院外者)による協議会が行われて院外自由党懇親会および同大演説会の開催を決定した。数日後にも同協議会は貴族院の衆議院議決軽視について各地方党員の上京を決する等、同事務所は自由党五地方協議会の重要な協議の場として、院外団活動の拠点として機能した
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ところで、この第四議会では集会及政社法改正法案が成立している。伊藤大八(長野県選出、自由党)を代表者と
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するこの議員提出法案は、第一議会以来貴族院により否決され続けてきたが、当初からの賛成者には改進党議員らもおり、本法案の成立は民党の宿願がようやく達成されたものともいえる。これにより政社(政党)は支社(支部)設置および屋外での政談集会(堅固な屏障設置が条件)ができるようになったのである。従来自由党の党報における地方政治状況記事中にも、同一県の党員が中央たる東京と出身地方の双方において異なる政社に属さざるを得ない現状にあり、相互の連絡が禁じられていることによる不便が指摘されていた
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(。自由党は本法の成立を党勢拡張の好機ととらえて、板垣総理は代議士総会での承認を経て一八九二(明治二五)年五月四日、総理名で二ヶ所(大阪・仙台)の出張所設立と各府県一ヶ所の支社(支部)設立の通達を発した。これにより自由党地方支部の設立が相次ぐが、その動向については次節で検討することにしたい。
二 関東地方の支部設立状況 まず自由党地方支部の設置状況をみてみよう。一八九三(明治二六)年四月の改正された集会及政社法公布後、自由党定期大会(一一月一五日)までに三府三五県に支部が設置された(未設置は富山、千葉、長崎、山口、徳島、大
支部名 設立年月日 会場 党本部出席者 府県支部幹事等 参加者
埼玉 ( 月 (0 日 熊谷町
報恩寺 板垣総理、山田東次、
鹽田奥造、斎藤珪次 高橋安爾、大島寛爾、新井啓一郎、
野口褧、持田直、宮本嘉楽 (00 余名 武相 ( 月 ( 日 横浜市
旧公道クラブ
星亨、石田貫之助、
鹽田奥造、重野謙次郎、
龍野周一郎、利光鶴松、
溝口市次郎
鈴本稻之輔、森久保作造、
中村得治 ((0 余名
下野 ( 月 (( 日 小山町 石田貫之助、鈴木万次郎 落合貫一郎、天野十郎、荒川久三郎、松本福太郎、谷内清一郎 ((0 余名 群馬 ( 月 (( 日 前橋市
臨江閣 不明 清水永三郎、高津仲次郎、
木暮武太夫 (00 余名 茨城 ( 月 (( 日 水戸市
好文亭 板垣総理、重野謙次郎、
溝口市次郎 西垣正吉、浜名信平、大部熊、
石川桂、平山実 (00 余名 東京 (0 月 ( 日 江東
中村楼 工藤行幹(特派員) 中島又五郎(会長・常議員)
利光鶴松(常議員・他 (( 名) (00 余名 山梨 (0 月 (( 日 甲府市
舞鶴館 河野広中、武石敬治、
中野寅次郎 乙黒直方(他は不明) ((0 余名 党報『自由』および党機関紙『自由新聞』(((((明治 (()年 ( 月~ (( 月版より作成。ただし、群馬県につ いては『群馬県史』通史編 ( 近代現代 ( 政治・社会((((( 年 群馬県刊)を合わせて参照した。同様に栃木 県についても『自由民権運動と地方政治』大町雅美((00( 年 随想舎刊)を合わせて参照した。
表① 1893(明治 26)年 自由党の関東地方支部設立状況
関東自由会の結成と自由党地方支部(上田)五一 分、広島の七県)。さらに一年後、支部未設置県は三県(千葉・徳島・大分)のみとなった
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(。関東各府県支部の設置状況は表①のとおりである。管見の限りでは、準備会にはじまり正式な支部発会式の日時とその模様および支部規則の詳細について確認できるのは下野・武相・東京の三支部のみである。ただし、各府県支部設立の主導者については、自由民権運動以来の代表的政治運動家を確認することができる。
まず下野支部の設立についてみてみよう。自由民権運動において栃木県下の自由・改進両党員数は共に全国一、二位を誇る勢力であった
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(。下野支部は五月七日に支部設立大会を宇都宮市において開催した。党本部からは星亨、立川雲平(長野県選出)、龍野周一郎(長野県)らが臨席、田村順之助を会長に推薦した後に、①党勢拡張委員の選定、②『関東新聞』を支部機関紙とすること、③下野支部規則案、④関東自由会の準備委員選定、⑤支部経費一千円の醵出を可決した
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(。前年の第二回選挙における星の立候補(第一区)は県内自由党勢力を二分した(星派・横堀三子派)。支部設立大会の可決事項からは県内主要言論機関の把握を始めとして、同自由党勢力を星派へ結集せんとする強い意志を確認することができる。横堀と星の激烈な選挙戦は翌 年も続き、こうしてようやく星の優勢が確立していくのである。 つぎに神奈川県の動向である。周知のごとく同県内には土佐の自由党派と共に全国の自由民権運動を主導した多摩三郡自由党員の存在があった。従来、県内では横浜に支部を設置することで自由党員の了解が得られていたようである。だが、第三議会において多摩三郡(北・南・西)の東京府移管に関する法案が可決された。これを受けて同地域では「三多摩郡と神奈川県党員との脈絡を通ずること」を前提に支部設立準備が進められた。三月一五日横浜市での県自由党大会では、①自由党支部規則案、②改正政社法公布まで武相倶楽部と称する社交的倶楽部の設置が可決された。その後九月三日、横浜市で正式な支部として武相倶楽部の発会式が行われた。同支部規則をみると境域を一市一五郡(北・南・西多摩郡を含む)としている。支部名を神奈川県としない所以である。支部は横浜市に設置された。役員は部長(一名)・幹事(三名)・会計監督(二名)・常議員(四〇名)・事務員(一名)からなり、常議員の定数は市部を五名以下、郡部を三名以下としている。常議員会は「重要の事件を評議」する機関として位置づけられた。評議員四〇名の内「三多摩」からの選出者は八名(北・南
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各三名、西二名)である。幹事には森久保作蔵、中村得治、鈴本稻之助が選任された。武相倶楽部は全国の中で「唯一県域をまたいだ」支部であり、設立時において多摩三郡の神奈川県復帰を前提に組織された
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(。武相倶楽部は翌年三月二〇日の支部大会においても多摩三郡の管轄を神奈川県に復することを決議し、「三多摩壮士」の第三回臨時総選挙における関東各地での応援活動を慰問している。
武相倶楽部設立に対応するように準備が進められたのが東京支部である。東京支部規約では境域を一市六郡(荏原・東多摩・北、南豊島・南足立・南葛飾)としており、移管が決定している多摩三郡を含んではいない。支部は東京市に設置された。役員は幹事(三名)・常議員(三〇名)・事務員(一名)からなる。常議員の定数配分(市・郡)についての定めはない。一〇月八日江東中村楼での支部発会式において会長に中島又五郎が選出された。常議員においては、利光鶴松、桜井平吉、秀島虎次郎、高橋庄之助など(全三〇名)他県出身党員や区会議員、星亨の直系若手区会議員等が中心であった。幹事は中島又五郎、桜井平吉、渡辺範重の三名であり、支部運営の打合せは党本部において行われている。『自由新聞』は発会式当日の模様について多くの実業家、弁護士が出席して盛会であったと報じた
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(。し かし、東京市においては改進党系や実業家が中心的政治勢力であり、これに対して自由党は日清戦争以降、星による東京市会への勢力扶植が本格的に進められていく。 こうして関東各府県支部の設立が相次ぐ中、一八九三(明治二六)年一〇月二八日栃木県栃木町において関東自由会大会が開催された。本部および各地方団体から板垣総理、鈴木昌司(新潟県)、杉田定一(福井県)、嘉悦氏房(熊本県)、栗原亮一(三重県)、中野寅次郎らが臨席した。開会後、協議委員会(各府県代表者が構成員)の提出議案が可決された。その要点は、まず第五議会の運動方針として①第四議会における政府公約の履行要求、②条約改正上奏案の主意実行要求、③地租軽減と地価修正の並行と民力休養の要求、④府県制・郡制・市制町村制の改正実現、⑤衆議院選挙法の改正実現、⑥貴族院に対する衆議院議決の遂行要求を挙げていた。そして、該方針を実現すべく、各府県より若干の運動委員を上京させることを求めていた。議案議決後、各県代表者(茨城・大久保端造、東京・櫻井平吉、群馬・木暮武太夫、埼玉・野口褧、神奈川・山田泰造、山梨・久保寺小太郎、千葉・加藤淳造、栃木・中山丹治郎)、各地方団体代表者(関西会・栗原亮一、北信八州会・杉田定一、九州会・嘉悦氏房)、党本部(鈴木昌司)の祝辞・演
関東自由会の結成と自由党地方支部(上田)五三 説が続いた。その後、懇親会と演説会に移行して閉会となった
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(。この栃木大会(総勢八三〇余名出席)は第五議会にむけた党方針と具体的運動内容を決議した後、各地同志の懇親を深め結束を確認したところに意味があった。聴衆「五千余名」が参集したという演説会では板垣総理に続き、栗原亮一、溝口市次郎、中野寅次郎がいずれも非内地雑居論者批判を展開している。最後に星亨が条約改正について論じた。実は同日、同地において大井派の関東会主催と推測される「内地雑居尚早同盟会」の演説会が開催されていたが、『自由新聞』は同演説会の模様を「寥々寂々秋風落莫の観ありし」と冷やかに報じている
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(。両派が衝突する事態は起こらなかった。栃木大会は当面における関東自由会の結束力と自由党の外交政策に関する対政府方針を、大会出席者に強く印象付けたといえよう。このように、初期の自由党地方団大会には板垣総理をはじめとして党本部、各地方団幹部が出席して議会での方針と要求課題を論じることで、中央・地方をまとめ、さらに新党員の加入にも寄与するところ大であったといえる。
しかし、関東自由会は星亨の衆議院議長辞任と議員除名、自由党脱党といった事態により一八九四(明治二七)年以降、組織的に不安定化していった。同年四月東京で開催さ れた関東自由大会は、第五議会前に自由党内組織の立て直しを図る板垣総理も臨席した上で、出席者四〇〇余名(関東派代議士・党員が中心)の満場一致で星亨の復党勧告を可決した。その結果、星は翌月、衆議院議員再選出と復党を果たした。しかし第二次伊藤博文内閣の工作により、朝鮮政府法部衙門顧問官として国内政治の場から一端離脱することとなった
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星不在の中、翌年八月東京での関東自由党大会において関東自由会における評議員会の設置が決議された。評議員会は各府県五名(代議士・前代議士・党員から選出)の評議員により構成され、「随時諸般の政治問題を審査し関東自由会の方針を決定」する。関東自由会はこの方針に基づき「誓て実行を期する事」とした。これにより直ちに一府五県(千葉・栃木は未選出)の評議員の氏名が報告されているが、このことは、大会前にすでに党中央から地方支部への打診、そして地方支部における人選が速やかに行われたことを意味している。すべての評議員は院外者となった
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(。また七月二六日の事前協議(関東各県代議士・前代議士が参集)では少数の「常議員」主導による運営案が示されていた。これらをもってすれば、代議士の主導権の下、それを支える院外者の組織作りが図られていたといえる。
法政史学 第八十二号五四
しかし、大会決議では「常務員」は「常に諸般の問題を審査する者」と規定された
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(。そして、その後に開かれた常務員会(石坂昌孝、大久保端造、中村克昌、利光鶴松、根岸貞三郎他)では演説会や評議員会の開催、第九議会運動方針を協議して大会の開催を企図しているが、いずれも実現には至らなかった。したがって、この時点において関東自由会は、急増する地方党員を統制して、星派が志向する常務員会主導という運動方針を貫徹していくことはできなかったということである。
このような現状にあった関東派に、さらに動揺を与えたのが一八九七(明治三〇)年二月二八日の新自由党結成であった。新自由党は進歩党と提携した第二次松方内閣において、反星亨と対外硬を共通項の一つとして、政府支持派拡大のために高島鞆之助拓務相と樺山資紀内相による自由党分断工作が功を奏したことにより誕生した。三月三〇日同党の役員選挙が実施され、幹事(大久保端造、長晴登、村野常右衛門)、会計監督(武者伝二郎、西村甚右衛門)、常務委員(田村順之助、浜名信平、重野謙次郎)が選出された。これに明らかなごとく、同党は自由党関東派(特に多摩三郡の石坂昌孝、村野常右衛門は多くの配下党員を引き連れ入党)を中心勢力とした。自由党関東派選出の代議 士である森久保作蔵・中村克昌(東京)、水島保太郎(神奈川)、西村甚右衛門(千葉)、浜名信平(茨城)、田村順之助(栃木)が加わり、これによって自由党は同派選出代議士の三割弱を失ったのである
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これについて『東京新聞』は次のように報じている。石坂の名望、三多摩の勢力を以てせば神奈川全体を動かすは掌を反すよりも易かるべし、神奈川一たび動かば勢に乗じて関八州の自由党を席捲すること何の難きことがあらむと、現内閣の参謀部は実に此の如くに策を按ぜしなり
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これに抗して、武相倶楽部の発議等により、二月一四日東京において関東自由会の臨時大会が開催され松方内閣批判宣言が可決された。また、武相倶楽部内において「三多摩」主導体制を見直す動きが強まった。神奈川県内では自由党を脱した水島保太郎代議士に不信任が表明された。また、支部大会・懇親会を鎌倉郡戸塚町を中心に開催するなど、神奈川県内の党員を結集した「集団指導体制」による支部運営が行われるようになっていく
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(。一方、関東各府県における新自由党代議士・党員の勢力基盤はいまだ脆弱であり、そのためその後第五回総選挙を経て国政の場に再び戻ることができたのは中村克昌、浜名信平の二名のみであった。
関東自由会の結成と自由党地方支部(上田)五五 代議士の地位を失った人物として、例えばかつて関東自由会領袖として在韓中の星を訪ね、同会再興のため帰国要請の大任にあたった西村甚右衛門(千葉県選出)の場合、海上・匝瑳両郡の旧支持基盤であった自由党組織から推されず立候補自体を断念せざるを得なかったのである
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(。要するに、星体制の下、関東自由会の組織力・結束力の威力の前に屈したのであり、脱党・新党参加の代償は大きかったということである。
以上のように、大井脱党後、自由党関東派は星の主導する関東自由会(明治二五年九月の水戸大会において発足決定)に結集し、大井に同調する勢力が少なからず存在した茨城・栃木両県における大会開催敢行を経て、その結束を再確認した上で地方支部を設立するに至った。
しかし、間もなく星の失脚により組織の統制力はいったん不安定化する。そのため、同会「常務員」の主導による評議員会・大会開催等も実現できなくなり、さらに新自由党の結成により自由党関東派の中心とみられていた多摩三郡の代議士等が脱党する事態にまで至ったのである。しかしそれでも、中央政局における新自由党の不振および神奈川県自由党員の強力な結束により、その打撃は最小限に止められた。そして関東各地の地方支部においては、次々に 加入する新党員たちが要望する地租軽減・地価修正要求を受けながら、党の対政府(議会)方針を伝達・確認するなど院外団として院内中心の自由党を支える強力な地方基盤として機能していくのである。 しかし、千葉県においては、こうした支部の開設にすら至らない状況下にあった。
三 千葉県の動向 関東自由会水戸大会後、翌一八九三(明治二六)年一月には千葉支部設立準備に携わる委員が選出され、『自由』紙上にその一〇名(伊藤徳太郎、大塚常次郎、小倉良則、加藤淳造、高梨正助、高橋奥一、千葉禎太郎、東条良平、西村甚右衛門、安川寛三郎)が報じられた
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(。第一節で述べた高野と共に内地雑居講究会に参加した加藤、千葉の両人も確認できる。三月一二日には千葉町の加納屋において「千葉県自由クラブ常議員会」という会合が開かれたが、これも支部設立に関わる動きと見られる。この席でクラブの維持方法について協議が行われると共に幹事二名(東條彰、佐久元三郎)が選出された
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しかしその後、千葉県支部設置の動きには具体的な進展がみられなかった。この間、前述のごとく関東各地では支
法政史学 第八十二号五六
部が開設されていく。ようやく一二月一〇日、千葉町の梅松別荘において「自由党千葉支部創立」という明確な目的公表の下に協議会が開催されることを『自由』が報じた
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(。県内の自由党系機関紙『東海新報』では、この集会を「自由党大懇親会」として伝えている。当日の出席者は百数十名に及んだという。君塚省三を座長として、まず「千葉県自由党支部を設置する件」が協議された。その結果、創立委員一六名(全県を八区に区分する。各区衆議院議員一人につき倍数ずつ選出することとし、同日懇親会開催前に出席した「会員」により選挙された)が、今後二~三ヶ月間にわたり支部規則草案を協議するとした。その上で板垣総理臨席による支部「発会式」を挙行しようというのである。続いて「地租軽減又は地価修正に関する本県党員の方針」について自由党本部の方針に基づき運動すること等が確認され、県内衆議院議員の選挙区より各二名の運動員を上京させることを決した。最後に本部経費の状況について報告があり、懇親会に移り散会となった。まもなく『東海新報』紙上に特別広告として全八区の支部創立委員が掲載された
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(。表②参照
これをみると、千葉支部もまた関東自由会全体の性格と同様であったといえる。しかし、第三区(香取地区)の委
第一区 *荻原 昇吉 (市原) ・ 若林 半左衛門 (千葉)
第二区 大塚常次郎、山本荘三郎(印旛) ・ 井上 擇、八木原五右衛門(東葛)
第三区 未 選 出
第四区 鈴木儀左衛門 (海上) ・ 島田 清太郎 (海上)
第五区 小川 正吉 (山武) ・ 山本 熊之助 (山武)
第六区 ◎君塚 省三 (夷隅) ・ 東条 彰 (長生)
第七区 高橋 奥市 (君津) ・ 林 廉造 (君津)
第八区 *佐久間 慎吾 (安房) ・ 斉藤 金次 (安房)
・ 『東海新報』明治 (( 年 (( 月 (( 日付、『千葉県議会史 第 ( 巻』より作成。( )内は各委員の出身郡名。
◎は千葉県「自由党大懇親会」時における座長。*は説明員。第 ( 区の島田 清太郎は『東海新報』にお いては「島田 済」と報じられているが、県会議員一覧表(『同議会史』2巻)等を参照して島田 清太 郎と確定した。
表 ② 千葉県自由党支部創立委員一覧
関東自由会の結成と自由党地方支部(上田)五七 員が選出されていないことが注目される。その後における第三区委員の選出に関する史料も管見の限り見出せない。そのため同区委員の不選出により、千葉県支部設立委員会の協議は進展しなかったものと考えられる。関東各府県の自由党支部設立がほぼ実現するなか、千葉県では停滞することとなったのである。この第三区委員すなわち香取郡からの不選出の原因としては、日清戦争前後の県議会において「河川派」と「山岳派」の対立が継続していた事実を挙げることができよう。つまり、県内地域利害によって分断された自由党勢力は、千葉県支部設立に一致、合意することができなかったということである。 千葉県では一八七八(明治一一)年の県会開設以降、各年度の経常費予算中、土木費においては「山岳派」が要望する道路改修費の割合が高いが、同決算額では「河川派」が要望する治水費(利根川関係)の支出増に終わるという歳出上の傾向が紛糾を招いた
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(。治水費の支出増は利根川の洪水対策というやむを得ない理由ではあったが、こうした県の財政状況は県会における「山岳派」を中心とした県域変更(利根川以北香取郡域の茨城県移管)建議案の提出(明治一九・二〇・二三年度県会)および排水施設(樋管堰枠)整備補助不要論へと連なっていった。明治二五、二六年度 の県会においても樋管堰枠整備補助の可否をめぐって両派の激しい攻防がみられた。こうした状況が第三区の県支部創立委員不選出に少なからぬ影響を及ぼしていると考えることができる。 ところで、一般に、日清戦争後の県会においては、県内の自由党が「民力養成」の立場から土木費の原案可決、総武・下総両鉄道会社提出の鉄道敷設請願を受けて、これを実現すべく建議案(内務相宛)を可決するなど地方利益の誘導に積極的な姿勢をみせ始めたことが指摘されている
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(。常置委員制度が明治二九年まで継続した千葉県においては、同委員会を自由党系が独占し、阿部浩知事と密接に連携しつつ県議会の運営をそうした方向へ主導した。
だが、利根川治水に係る予算案についてだけは、毎年度の県会において「河川派」と「山岳派」の間にその可否をめぐり激しい質疑の応酬がみられた。
一例として明治三〇年度予算案を審議した県会(明治二九年一一月三〇日~一二月二九日)についてみてみよう。土木費の三次会において東條彰(長生郡・自由党)は本年度の利根川洪水被害を受けて、町村土木補助費(樋管堰枠の整備)の計上は今後予想される水害をふまえて当該地域に利益をもたらす事業であると主張した。これに対して石
法政史学 第八十二号五八
橋磯吉(安房郡・無所属)は同費の全廃案を提出した。石橋によれば樋管堰枠は「悪水用路即不生産的ノ事業デアリマスル。即個人的ノ品デアル」として地方税の投入に適さない事業であるというのである。続く川名七郎(安房・自由党)も、全廃案の議決は現段階においては無理であろうと前置きしながらも、「(利根川)沿岸地方ノ諸君ハ、堤防ガ破レナケレバ、大層困マルト云フコトヲ聞テ居リマス。(中略)堤防ノ破レナカツタ時ニハ、仕事ガナクナツテ困マルト云フ」と皮肉交りに「河川派」の予算獲得を批判し、全廃案を支持した。しかし、全廃案の採決結果は賛成二二票・反対二四票という僅差で否決されている
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(。ここで注目すべきは、全廃案の賛成派すなわち「山岳派」二二名(安房郡八名、山武郡四名、長生・君津郡各三名・海上郡二名、千葉・夷隅郡各一名)の中で、自由党員(安房郡三名、山武・海上郡各一名)が五名おり、一方、反対派二四名(すなわち「河川派」)の中にも自由党員が五名いるという構図であろう。すなわち、日清戦争後の千葉県会においては特に利根川治水の問題をめぐり未だ県会開設以来の地域対立が根強く残っていたため、当該議案の賛否については党議による統制が困難であった事実を確認することができるのである
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(。こうした県会における県内自由党勢力の地域的対立 が、支部設立協議の進展を妨げていた主因であった。 さらに、支部設立に至らなかった間接的要因として指摘できるのは、準備段階当初における支部設置準備委員の中で、党中央との連携に長けた委員が他府県にみられるような主導性を発揮していないことである。この点について一八九三(明治二六)年一月における設立準備委員会および一二月の「自由党大懇親会」出席者の中に、高野と共に立憲自由党期の県代議員を務めていた板倉中の名前が見られないことに留意したい。板倉は県内の大同団結運動を主導して以来、第六代県会議長を務め第一回衆議院選挙に当選した。そして、中央政局と県内自由党の活動連携に尽力してきた。だが、第二回選挙において前回(五区)と異なる選挙区(六区)から立候補して落選している。その原因は五区内自由党系の強力な地域支持組織であった以文会と長生倶楽部において板倉への候補一本化ができず、決裂したからであった
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(。板倉は第三回選挙で再び代議士となり、いったんは関東自由会大会において県を代表して演説する機会もあったが第四回選挙において落選した。それには選挙毎の支持基盤が不安定であったことも影響したのかと思われる。その後、心機一転、星亨を追うように韓国内政改革にあたる日本人顧問官の一員に加わらんとして井上馨
関東自由会の結成と自由党地方支部(上田)五九 (内相・朝鮮駐箚特命全権公使)にその斡旋を懇願している
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(。
こうした板倉も、高野の関東会再興運動に連なる内地雑居問題で大井派に同調していた千葉、加藤も、いずれも千葉県支部設立への熱意と主導性を見せなかったといえよう。
一方、県内の立憲改進党員は、日清戦争前後における中央政局の動向(立憲改進党~進歩党結成)に左右されながらも、県支部設立を実現している。彼らは集会及政社法の改正を受けて、一八九四(明治二七)年一月六日に県支部の発会式を実施している。本部からは尾崎行雄、斎藤和太郎、野中熊四郎が出席した。議長を関五郎右衛門が務め、支部規則(千葉町に支部設置・毎年九月に総会開催・衆議まで院議員選挙区毎に三名以上の評議員を選出等)を可決した。第三回衆議院議員選挙を強く意識して設立された同党千葉県支部は、同党の臨時大会前までに設立された府県単位の全国八支部のひとつであり、当時約二万と称された党員中、大多数を占めた七県(宮城・栃木・茨城・千葉・静岡・長野・三重の合計一万五〇〇〇人)支部の一翼を担っていた。こうして第三回衆議院選挙において立憲改進党は、総得票数(自由党一万一票・改進党七一九四票)において 自由党に迫る勢いをみせたのである
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(。
これに続く進歩党支部の設置にあたっては、県会議員選挙および衆議院議員選挙の双方において常に過半数を自由党に占有されてきたことに鑑み、中央政局における松隈内閣(与党進歩党)の成立を追い風として、目前にせまった郡会議員選挙および約一年後の衆議院選挙において勢力の拡大を図ることと併せて進められた。党勢拡張(選挙戦)においては中央と地方支部との連携が第一であり、県内党員が団結すること、候補者支援を統一すること、さらに「運動費の必要、壮士傭入れ等の煩を免るゝと同時に、厳正に且つ公平なる選挙に依りて」真に名誉ある勝利を得るとして、支部設立の必要性を強調している
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(。
進歩党の結成から一年余り後の一八九七(明治三〇)年六月二三日、同党による政談演説会と同志大会が千葉町の梅松別荘において開催された。政談演説会には尾崎行雄、大津淳一郎、鳩山和夫が登壇した。会場には聴衆一〇〇〇余名が集まった。続く有力者による同志会において、現政権(松隈内閣)への要望決議と共に、千葉県支部設置が決議された。設立委員には宇佐美佑伸、浅井蒼介、藤代市之助、関和知、佐瀬熹六が選出されている
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(。
以上のように、当該期における千葉県立憲改進党(のち、
法政史学 第八十二号六〇
進歩党)支部の設立は、停滞する自由党勢力とは対照的に、一致結束して強力に進展した。
他方、自由党勢力は県会における地域利害をめぐる根深い内部対立と有力な主導者の団結と主導性を欠いたことから結局実現しなかった。一八九七(明治三〇)年九月二六日、千葉県自由党大会が千葉町加納屋において開催された。参集する者六五〇余名、座長鈴木儀左衛門は千葉県自由倶楽部の設立(会長千葉禎太郎)を提案して賛同を得た。同倶楽部は①千葉町に設置して県下自由主義者の統一を期すること、②幹事若干名と事務員を置くこと、③県下各郡に常議員三~四名を置くこと、④倶楽部の大会を春秋開催すること、常議員会は随時開くこと、⑤細則および経費は常議員会において改めて定めること、⑥東海新聞を改良して機関新聞と為すことを決定した
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(。このことは、倶楽部組織という緩やかな結合の下に自由党勢力をまとめることを意味した。これが憲政党結党以前における千葉県自由党勢力の精一杯の到達点であった。結局、自由党千葉県支部を公称して一体性を達成することはできなかったということである。 おわりに
本稿では第一に、大井派の脱党以後の関東地方の自由党系勢力の動向、すなわち関東会(大井系勢力)再編成の動きと星派による関東自由会結成の動きという二つの分裂した動きが条約改正をめぐる内地雑居問題にあったことを改めて確認した。第二に関東自由会を構成する各府県支部の設立状況および日清戦争後のそれらの動向について解明した。後者については今後も検討を続けたい。たとえば、今回論じた千葉県の事例以外では、山梨県の事例として自由・進歩・国民協会各党の党員は名ばかりであって政党活動自体が休眠状況であったという先行研究の興味深い指摘がある
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(。たとえ支部は設立されていても、千葉県と同様に県域を越えた地域利害によって自由党員の統制が困難であった事例はないのであろうか。さらに、『自由』において最も早く支部の「創立」が報じられている埼玉県についても、一次史料に基づく実態の解明が望まれるのである。
さて、その後の展開を見つつ、研究の展望を示すならば、関東各府県支部の自由党員たちは自由、進歩党との大合同による憲政党の成立をむかえることとなった。進歩党員との合同はもとより、対立し分裂していた旧自由党関東派の
関東自由会の結成と自由党地方支部(上田)六一 人々が中央の動きに対応して、再度合流するのである。隈板内閣における自由党関東派の動向に関しては、以前拙稿において千葉県を中心に論じたが、今後は星統率下の憲政党期も視野に入れて検討していきたい
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(。
註(
( 。』一一六号、一九九三年)研究論集(史学) と同「日清後の自由党の改革戦星」(『名古屋大学亨文学部 (吉川弘文館、『立憲国家の確立と伊藤博文』同一九九九年)。 と官僚』〈東京創元社、一九九一年〉)。政党の日代近編『本 六議六年)。伊藤之雄「初期の会期一自由党」(山本四郎九 () 会、史味準之輔『日本政党論版』第2巻(東京大学出升
( 一九〇五』。(木鐸社、二〇〇〇年) () 立内藤之雄『~八九八一政と憲交伊争戦露日と家国外
( 二〇〇一年)も参照、利用した。 正おいては小宮一条約改夫『と吉国文弘川館、』(治政内 とに成作稿本た、まる。す記略』料史相武『下、以)。年集 教の運治政国後設開会』(動委町田市育三員会、二〇〇七編 () 第町田市立自由民権資料館『武相自由民権史料集第三巻
二〇〇二年。以下『県の歴史』と略記する。 近現代一』通史編、』資料編、一九九六年。同『同行政一) () 歴治・政一(代現近史の千県葉千編『団財究研料史県葉 (
() 前掲註(
( 本の所載形式を尊重した。 て二八日」。なお、本稿におい史場刊は、に料合るす用引を 明月七年五二治簡・るを宛郎訥田鎌の昌克村中書す判批 ()『七相史料集』一武頁、「一八・大井憲太郎
() 前掲註(
高野白鶴書簡 ()『の歴史』資料編、県四七頁。「一五〇・六 高城啓次郎・松川亀三郎宛」
。(
() 同右「一五二・高野麟三書簡
高城啓次郎宛」
。(
() 前掲註(
()『条約改正と国内政治』
一〇二および一一四頁。(
() 前掲註(
関東会事務所書簡 ()『の歴史』資料編、県五二頁、「一五四・六 高城啓次郎宛」
。(
(0) 『
自由党々報』第二〇号、明治二五年九月一〇日。(『自由党々報』第二巻〈柏書房、一九七九年〉七八三頁)以下『党報』と略記する。(
(() 『党報』第二二号、明治二五年一〇月一〇日。
(
(() 前掲註(
( YB五〇一)以下『自由』と略記する。 紙(国立国会図書館蔵。明治二五年一一月一五日『自由新聞』 ()「自び期議会期の関機よ由お頁初三二」党六
(() 前掲註(
(0)『党報』第五号、明治二四年一二月二五日。
(
( )文館、二〇一二年〉 制明治維新第五巻立憲帝と講国への道』〈吉川弘座会『学 (() 新民飯塚一幸「初期議会と党維史七四~七五頁(明治」
( (吉川弘文館、二〇〇九年)一〇五~一一〇頁。 (() 田代稲~』力の論言の本日~近雅系の動運権民由自洋『譜
(() 前掲註(
(()『自由』明治二六年五月九日付。