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博士論文 概要書

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Academic year: 2021

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森田明彦:社会科学研究科地球社会論専攻  博士学位論文 

主題:チャールズ・テイラーと権利主体論 

副題:現代多文化社会における「権利主体としての自己」を巡る研究       

 

博士論文 概要書 

 

       氏 名  森田明彦       本論文は、これまでの実践活動を通じてわたしが感じてきた人権の普遍性に関連する問題 について、マイケル・イグナティエフおよびチャールズ・テイラーの作品に基づき考察を試 みたものである。 

そもそも、人権はいかなる意味で普遍的なのだろうか。わたしは、多文化の下での人権の 普遍性を検討する際、既存の文化を前提として、現行の人権思想との整合性を議論すること は二重の意味で過ちであると考えている。第一に、人権思想自体が、西欧近代社会において 成立した歴史的産物であり、西欧社会の文化的偏向を反映しており、これをそのまま受容し ようとすることは、個人の基本的平等から導かれる各個人の属する文化、民族、国家間の基 本的平等という人権思想の内在的原則に反している。第二に、それぞれの文化の内容は所与 のものではなく、その内容を決める権利は個人にあるという人権思想のもう一つの原則であ る個人の自律性を無視している。つまり、ある文化の下で人権という思想は定着し得るか、

という問いには現在の人権思想自体と当該文化に対する批判的吟味が伴っていなければな らない。 

わたしは、国際人権という理念は、各々の文化において異なった基礎付け、原理的根拠を 見出すべきであると考えている。そのためには、(1)現在の人権思想のどの部分がその誕 生の地である西欧社会の文化的偏向を反映した特殊西欧的なものであるかを明らかにする という社会思想史的分析、(2)特殊西洋的な部分を取り外した人権思想はどのようなもの となり得るのかという哲学的検討、(3)人権という新しい思想を受け入れるために、特定 の文化にとっていかなる変容が求められるのかという文明論的検討という三つの作業が不 可欠である。 

そのために取り上げたのが「権利主体としての自己」という観念である。テイラーによれ ば、近代における道徳世界が、それ以前の文明と決定的に異なっているのは、権利の内容で はなく、権利の形式である。すなわち、近代以前において、ひとは「法の下にある(I am under  law)」と考えられていたのに対して、近代以降、権利とはその所有者が(権利を)実現す るために、それに基づいて行動すべき、あるいは行動することができる「主体的権利」と考 えられるようになったのである。中世の身分制社会から解放された個人は、自らの望むとこ ろにしたがって自らの人生を発展させる権利を、「法」によって与えられたのではなく、自 らに帰属するものと考える「権利の主体」となった。「権利の主体としての近代的自己」は、

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自由で民主的な共同体に「位置づけられた存在」として、他者との対話と承認を通じて自ら の個性を発展させるために、そのような生き方を可能とする自由主義体制を維持、発展させ る社会的責務を自ら担う「主権者としての人」となったのである。 

権利主体としての「自己」の観念こそ、近代社会に特有なものであり、近代西欧社会が生 み出したこの権利の主体としての「自己」がどのような特質を有し、どのように形成された のかを辿ることによって、近代西欧社会が生み出した人権の特質を明らかにすることができ るとわたしは考える。 

テイラーは、敬虔なカトリック教徒として西欧文明におけるキリスト教の一神教的伝統を 強く擁護する一方で、ヨーロッパ大陸系哲学と英米分析哲学という両分野において、「自己」

を巡る多くの卓越した論考を発表し、更に、80 年代のリベラル・コミュニタリン論争およ び 90 年代の多文化主義を巡る議論においても主導的役割を果たした現代の代表的な思想家 の一人である。西欧的自己の特色およびその限界を検討する上で、テイラーの思想は最良の 材料を提供してくれるものとわたしは考えた。 

テイラーの思想を学ぶ中で、わたしは西欧近代社会において成立した「単一自己(unitary  self)」という自己理解の形式は必ずしも近代社会にとって普遍的な自己理解の形式ではな いと考えるようになった。テイラーによれば、現代西欧社会において危機に瀕しているのは

(1)唯一の神が創造した世界の本質的善性という一神教の想定、(2)西欧近代の主要な 知的潮流である啓蒙主義とロマン主義が想定する単一自己モデルであるが、この二つの想定 は西欧社会の知的伝統である認識論的二元論と存在論的一元論を通じて相互に結びついて いる。すなわち、物自体の世界に対する主体の自立的認識能力を確保することによって主体 の認識する世界の一元性、すなわち神の創造した世界の一貫性=善性が確保されるのであ る。しかし、この自己理解の形式は西欧社会に特有なものであり、近代社会において可能な 唯一の自己理解の形式ではない。しかし、社会的存在としての人間をその尊厳と権利におい て平等な存在とみなす「近代」の思想は普遍的なものであると私は考えている。 

したがって、現代日本の課題は西欧社会のように絶対者を想定しない汎神論的世界観を基 層文化に持つ社会において、如何に「近代社会」が要請する権利の主体としての近代的自己 意識を確立するかであるとわたしは考えるようになった。 

一方、イグナティエフは、ジャーナリスト、TV レポーター、歴史家として多彩な経歴を 重ねる中で、現代人権を巡る数多くの論考を発表してきた。イグナティエフは、1999 年の 多国籍軍によるコソボ作戦を支持し、さらに 2003 年の米国によるイラクへの武力行使を容 認して国際的な議論を引き起こしたが、近年は米国が自由民主主義と人権を国際的に普及さ せることを国家理念に掲げる一方で、国際的な人権基準に従うことを拒否する例外主義をと っていることを指摘し、そのような例外主義が米国に対する国際的な信頼を損なっていると 批判している。わたしは、イグナティエフの行動と思索を通じて、人権という理念を具体的 な文脈の中で考える必要性を学んだ。 

わたしの研究において、テイラーとイグナティエフは権利の主体としての自己という観念 において交錯している。イグナティエフは『政治、偶像としての人権(Human Rights as 

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Politics and Idolatry )』において「エイジェンシー(行為者性)」をバーリンの消極的 自由とほぼ同義であり、「何らの干渉もない状態において、一人ひとりの個人が理性的な意 図を実現できる能力」と定義している。イグナティエフが、この「エイジェンシー」という 観念を採用したのは人権の基礎付けを巡る倫理学、形而上学の果てしない不毛の論争を避け るためであった。一方、テイラーは自己解釈的存在としての自己という観念を提示したが、

この自己解釈的存在をエイジェンシーと呼んでいる。桂木隆夫は、テイラーのエイジェンシ ーを自己の道徳的生活についての解釈を通じて人格を形成する存在であり、その人格形成は 他者=共同体との絶えざる対話を通じて行われるという意味で、従来のリベラリズムの自律 的人格概念とは異なっていると解釈している。さらに、上野千鶴子は、「エイジェンシー」

という概念を、言語に先立って自律的な「主体」を前提とする近代の人間中心主義に対する 批判から生まれたものであるとして、「構造と非構造とが言説実践の過程でせめぎあう、生 きられた場」であると解説している。 

わたしは、このように理解されている「エイジェンシー」概念を明晰化することによって、

多文化の下で了解可能な権利主体としての自己の構想の糸口を見つけられるのではないか と考えた。 

一般にイグナティエフはリベラリスト、テイラーはコミュニタリアンと目されているが、

両者はアイザイア・バーリンの影響の下でそれぞれの思想を形成したという共通点がある。

テイラーは 1956 年より 61 年までオックスフォード大学のオール・ソウルズ・カレッジのフェ ローとしてバーリンから直接指導を受け、1976 年にはバーリンが担当していた同カレッジ のチチェリ講座の後継者となったのに対して、イグナティエフは 1987 年、イグナティエフ のユダヤ人問題に関する発言を BBC を通じて聞いたバーリンに招待されて、やがて、バーリ ンの伝記を書くに到った。 

バーリンは自分とテイラーは社会への帰属が本質的な人間のニードであることにおいて 合意しており、両者の基本的な相違は、自分が異なった社会が追求する諸価値は相互に両立 可能でないことを認めているのに対して、テイラーはそれらの異なった社会が究極的に何ら かの調和に向けて進んでいると信じている点にある、と書いている。しかし、テイラーは、

差異の横断を通じた統一は人間を越えたもの、「超越的なもの(transcendence)」への信 仰によってのみ可能であると述べており、世俗世界における諸価値の予定調和を想定してい るわけではない。一方、イグナティエフはバーリンの思想を単なる相対主義とは異なったも のであり、様々な価値体系の間の相違を認めつつ、いずれの体系も人間のニードと目的に言 及していること、その意味で「人間の地平(human horizon)」の範囲内に留まっていると いう前提を共有していることを承認する思想であると述べている。わたしの見方によれば、

バーリンとテイラーの思想上の相違はバーリンが無神論者であるのに対して、テイラーが敬 虔なカトリック教徒であることから生じているのであり、両者は世俗世界における異なった 価値の共存を認める自由主義を支持しているという点では共通していると考える。今日の日 本では戦前の全体主義、共同体論を想起させるものとしてテイラーの思想を敬遠する者も少 なくないが、本論文では、以上のような立場から、テイラーとバーリン、そしてイグナティ

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エフの思想を対立するものとしては扱っていない。テイラーとイグナティエフは、いずれも、

バーリンの多元的自由主義を継承する思想家であるとわたしは考えている。 

本論文は、以上の問題意識に基づくわたしの人権を巡る知的探求の成果をとりまとめたも のである。 

第2章では、「如何なる意味で人権は普遍的なのか」という問いについて、先ず、イグナ ティエフの『政治、偶像としての人権』を踏まえつつ、考えてみた。イグナティエフの人権 構想の特徴は、「エイジェンシー理論」、ミニマリズム的人権構想、個人主義の3つにある とわたしは考えている。このイグナティエフの人権構想に対するエイミー・ガットマン等の 批判を踏まえつつ、第一にイグナティエフがバーリンの消極的自由とほぼ同義であるとする エイジェンシーという概念を出発点に、消極的自由と積極的自由を巡るイグナティエフとテ イラーの考え方の共通点と相違点を検討した。その結果、リベラリストであるイグナティエ フと一般にコミュニタリアンと目されているテイラーの自由を巡る考え方は実践段階にお いてはきわめて近いということが明らかとなった。第二に、近代人権の根拠と考えられてい る尊厳と個人のアイデンティティ、自由の関係について検討し、人間は固有の意志に基づく 自由があるという想定のみからは人間であることを根拠とする尊厳という価値は導出され ないことを示した。また、人権の普遍性はリベラリズム、コミュニタリアニズムが想定する 自己観のいずれからも導くことができることを明らかにした。第三に、テイラーの論考に基 づき、近代個人主義の問題点を明らかにし、その克服が「〈ほんもの〉の個人主義」の再生 にあることを明らかにした。また、テイラーのコミュニタリアニズムが実はハイエクの示し た「真の個人主義」の系譜にあるものでありことを論証した。 

第3章では、テイラーの初期の主著である『ヘーゲル(Hegel)』を取り上げ、近代を人 間の自己理解の形式の革命と捉えるテイラーの史観からみたヘーゲル哲学の意義と問題点 を取り上げた。わたしは、(1)ヘーゲルが目指したものは、近代化の中で見失われていく 超越的な精神性(人間を超越した絶対的精神)の再生であり、(2)ヘーゲルの「論理学」

は、「精神」をその内在的、必然的な論理の展開のみによって明らかにすることによって、

唯一絶対神の存在を前提とせずに、人間を超越した絶対的精神の実在と世界史はこの絶対的 精神の発展過程であることを証明することを主要な目的の一つとしていたと考えている。人 間という存在を絶対化することなく、一方でその尊厳を何らかの普遍的価値と結び付けて肯 定することは、現代社会において繰り返し問われる根本的な思想的課題の一つである。絶対 的存在としての唯一神という観念を伝統的に持たず、汎神論的世界観をその基層文化として 持つ日本人が、この課題に取り組む上で、西欧社会が忘れ去った神話を弁証法という論理に よって再興しようとする試みであったとされるヘーゲル哲学は繰り返し参照される価値を 有しているとわたしは考える。 

第4章では、テイラーの『自己の諸源泉−近代的アイデンティティの形成(Sources of the  Self- Making of the Modern Identity)』に基づいて、西欧近代社会が生み出した個人の 存在形態である「近代的自己」の諸源泉を辿り、その西欧的特質が、(1)近代的内面性、

(2)日常生活の肯定、(3)内的道徳源泉としての表現主義的自然観念にあることを明ら

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かにした。また、テイラーの思想の特徴が、(1)キリスト教的伝統の肯定、(2)ロマン 主義的な反啓蒙主義、(3)現象学的方法論にあることを示した。 

第5章では、主にテイラーの言語哲学に基づきながら、20 世紀前半の言語論的転回と呼 ばれる思想史的出来事によってもたらされた認識論的枠組が導いた新しい自己の存在概念 である「エイジェンシー」という概念について検討した。「行為」の哲学の解明を通じ、自 然科学と人文社会科学の間には原理的な相違はなく、いずれの学問も一定の信念体系を共有 する言語共同体における「表現」として理解できることが明らかとなった。したがって、人権 もある種の言語共同体によって共有される信念体系であり、その内容は歴史的、具体的に明 らかにされる以外にないという結論が導かれた。 

第6章では、主にテイラーの『近代社会像(Modern Social Imaginaries)』に基づきつつ、

西欧近代社会を成り立たせている人々の共通理解である「市場経済」「主権者としての人民」

「公共圏」という三つの社会像(social imaginaries)の核心は、「権利主体としての自己」

像にあるという、わたしの考えを示し、この自己像が 20 世紀以降の自己の脱中心化という 潮流の中で揺らぎつつある事実を踏また上で、現代日本の課題は近代後期社会に相応しい自 己モデルを構築し、そのような自己モデルに基づく日本独自の近代社会像を作り上げること であると結論付けた。 

第7章では、近年盛んに議論が行われている社会福祉制度の民営化を取り上げ、「民(人々)

を担い手とする公共」を可能とする公共倫理の担い手としての「自己」モデルを考えてみた。

民(人々)が公共を担うには、それぞれの自己実現を追求する個人の中に、共通の公共倫理 が存在し得ることを明らかにしなければならない。しかし、20 世紀以降の工業化の進展と 自然科学の急激な発達によって、人間の内面自然の道徳性を正当化しようとする思想潮流は 次第に支持を失い、ロマン主義の想定する内的自然と理性の調和という考え方を現代のわれ われはそのままの形で受け入れることは出来なくなっている。本章では、テイラーの思想に 即しながら、西欧社会が生み出した西欧近代的自己が現在深刻な限界に直面した原因を探求 した。 

第8章では、自己決定能力に劣る子どもが権利主体であると考えられる根拠は、その個人 が属する社会(共同体)が、権利主体、すなわち自由な個人を尊重するという価値観を共有 するという事実にあるというわたしの考えを、テイラーの全体論的個人主義に基づいて展開 した。この考えに基づけば、ある個人が権利主体たり得るかどうかは、その個人が樋口陽一 の想定するような「自己決定をし、その結果に耐えることのできる自律的個人」であるかど うかとはとりあえず関係がない。よって、大人のような自己決定能力を持たない子どもも権 利主体とみなし得るのである。 

第9章では、精神的自由権以上に生存権的人権が重要であるとする生存権重視論者が優勢 である日本の現状に一石を投じることを目的として、テイラーの表現主義的人間観を援用し て「人身売買」を「表現の自由」の侵害として捉える見方を提示した。さらに付論として人 身売買の被害者も少なくないフィリピンの元エンターターナーが懐く対日イメージを彼女 たちの子どもの心象風景を通じて明らかにするというワークショップの報告を加えた。同報

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告は、人身売買という一見客観的な現象が、実は個人の主観的認識に大きく関わっているこ とを明らかにしている。 

第10章では、テイラーの『マルチカルチュラリズム(Multiculturalism)』に基づきつ つ、欧米、特に英米圏の思想的文脈におけるマルチカルチュラリズムの意味を明らかにした 上で、現代日本における「普遍」と「差異」の問題と取り組む際に正しい歴史認識と個人主 義に基づかないマルチカルチュラリズムは容易に全体主義に接続される可能性があること を戦前日本の混合民族論を振り返ることによって明らかにした。 

第11章では、イグナティエフの思想がバーリンの多元的自由主義の系譜にあることを、

初期の作品『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ(The Needs of Strangers)』に基づき明ら かにした。 

次に、『ヴァーチャル・ウォー(Virtual War)』『次善の悪(The Lesser Evil)』『米 国の例外主義と人権(American Exceptionalism and Human Rights)』に拠りつつ、イグナ ティエフの 9・11 の思索を辿り、現代日本の我々がイグナティエフから学ぶべきことは自由 民主主義を当事者として生きることの意味であると結論付けた。 

第12章では、テイラーがその特質を明らかにした西欧近代的自己(権利主体としての自 己)に対して、その限界を踏まえて上で日本的な近代的自己は如何なる形で構想し得るのか、

に関するわたしの考えを提示した。 

この課題は、絶対的な創造者としての唯一神という観念を伝統的に持たない日本社会にお いて、人間の尊厳を何らかの普遍的価値と結びつけて肯定することは如何にしたら可能かと いう問題と密接に結びついている。わたしは、現時点では、伊藤整が述べたように「無とい うものもまた絶対であることによって、神という絶対と同じ働きをし、それによって、即ち 無の意識との対照によって我々は心の平安を保つことができ、また実在を把握することが出 来、それが伝統的に日本の芸術の方法となっている」という「無」の考え方を近代化し、か つ論理的に説明することが必要であると考えている。この関連で、久松真一の「東洋的無」

の構想がきわめて重要な意味を持つ。さらにこの無の哲学を日本の文化的文脈において権利 主体としての自己につなげ得るのが、市川浩の「身の哲学」であるとわたしは考えている。

その上で、自律的自己という意識の超克を志向しがちな日本の知的伝統が、安易な全体主 義に接続されることを回避する方向性を探るという意図の下に、日本の自己観と親和性を持 つ欧米のコミュニタリアニズムの自己観が根源的な価値の対立下の下で公共性原理を追求 するリベラリズムの思想とどのように接続され得るのか、井上達夫の議論に拠りつつ、わた しの考えを展開した。 

本論文では、テイラーの思想に基づき、「近代(modernity)」を自己理解の形式の革命 として把握した上で、近代社会像の核心を権利主体としての自己像にあるというわたしなり の解釈を提示し、この権利主体としての自己の形成を思想史的、哲学的に考察することによ って西欧近代の特殊性を明らかにし、日本社会・文化と整合的な自己論・近代社会論への道 筋を文明論的分析を踏まえて明らかにしようと試みた。本論文は、また、テイラーの思想を 日本において初めて包括的に取り上げたという先駆的意義も有している。 

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今後の課題は、東アジアを含む非西欧社会の「近代」が、自己論のレベルではどのような 特徴を有するのかを理念的および経験的に明らかにし、現代日本に相応しい自己モデルと自 由民主主義社会モデルを構築していくことであると考える。 

 

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