<論 説>
大阪府の在来犂 Ⅱ
―渡来人の動向と泉南・紀北圏の復原―
河 野 通 明
目 次 はじめに
1.在来犂追加調査のデータ開示 2.政権支持基盤の再確認
3.大阪平野のコリアタウンの復原 4.政権末端に組み込まれた渡来人の動向 5.泉南・紀北圏の復原
おわりに
はじめに
前稿「大阪府の在来犂―民具からの7世紀の政権支持基盤の復原―」(2011)では,大阪平野 域の調査で確認できた109台の在来犂をベースに,奈良盆地・大阪平野の在来犂から帰納法で畿 内向け政府モデル犂を復原,各市町村の在来犂が政府モデル犂をどの程度忠実に受け容れたかを 部品ごとにチェックして10点法で評価する方法を開発して点数分布を地図上にあらわした。そ の結果,宇陀郡・吉野郡を除く奈良盆地と,大阪では中河内の生駒山麓と南河内・泉北郡全域が 10点犂の分布域で,これが7世紀後半段階の政権支持基盤であるとした。この範囲は3世紀以 来の主な古墳群を含むことで考古学の成果から妥当性が検証され,また大和政権を支えてきた古 代氏族の本拠地とも重なることで文献史学の成果からも妥当性が検証された信頼度の高い結論で ある。しかしながら未調査地を多く残したままの見切り発車の論考という弱点を残していた。
そこで前稿校正中の8月以降〔図1〕に示したように延べ16日の追加調査を実施,再調査3 台を含む48台の在来犂のデータを得た。これで大阪平野域はほぼカバーできたことになる。
本稿はこの成果にもとづいて精細度の高い分布図で前稿の7世紀後半の政権支持基盤の復原を より確実なものにするとともに,前稿の分析過程で見えてきた大阪平野の政府モデル犂継承度5 点域,7点域の2カ所のコリアタウンの復原と10点域内の渡来人の動向の解明,さらに今回の 追加調査で見えてきた泉南地方と紀北との関係の解明を執筆目的としている。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)1.在来犂追加調査のデータ開示
まずは今回調査の新規45台,再調査3台あわせて48台の在来犂を紹介しておこう。〔図2〕
には計測ポイントと新概念の「轅曲挟角」の説明図を示した。№は前稿の続きである。
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〔図3〕摂津,河内−1 大阪平野北部では朝鮮系要素の強い犂が見られる。No.112の寝屋川市 もそれで,全長298cmという3m近い長さも,真っ直ぐに前に向かって下降する下降直轅も朝 鮮系。それに対して南河内の曲轅犂は政府モデル犂を通して伝わった中国系犂の特徴である。
〔図4〕河内−2,和泉−1 千早赤阪村から河内長野市にかけて犂轅の曲がりの強い犂が見られ る。犂轅が曲がると全長が短くなり取り回しも楽だが,「犂轅は曲がるほどいい」が固定観念と なって,山持ちの村では,曲がりの強さを自慢し合う風潮が生まれていたようだ。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)〔図5〕和泉−2,紀北 河内や泉北では犂柄の把手は前から見てT字形の「T字形把手」だった が,貝塚以南の泉南地方では側面形がT字の「側面T字把手」となる。これは紀北系で,泉南と 紀北の結びつきの強さを物語っている。また犂頭に斜め上方に伸びる短棒が見えるがこれは「へ ら受け柱」。熊取④や岬町のような犂へらが付くのだがこれも紀北系で後に詳しく分析したい。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)在来犂分布図の増補版 〔図6〕は追加調査犂を加 えた在来犂分布図の増補版である。左に縮小して掲 げた前稿の分布図では南河内と和泉地方に空白が目 立っていたが,追加調査で充実した。泉大津市・岸 和田市・田尻町は在来犂は使われていたが収集され ておらず空白となっている。北部では箕面市・島本 町・寝屋川市・守口市で在来犂が調査できた。池田 市は問い合わせ中。大阪市域は区ごとの民具収集は なく,これでほぼ完成の分布図といえる。
全体の傾向は北西部に朝鮮系の強い直轅犂が分布 図し,東部・南部に政府モデル犂系の中国系曲轅犂 が分布する。直轅犂は寝屋川市・守口市・門真市と 大東市・東大阪市の低地部にも分布し,コリアタウ ンを形成していたことを窺わせる。
泉南地方には紀北系の側面T字把手が分布する。
2.政権支持基盤の再確認
政府モデル犂継承度 今回の調査では48台の在来犂のデータを得たが,ここから政権支持基盤 を復原するには,48台それぞれが畿内向けモデル犂をどの程度忠実にコピーしたかを確認しな ければならない。その10点評価表は次頁の〔図8〕で,その評価規準は以下の通りである。
〔図8〕畿内向けモデル犂継承度10点評価表 今回の調査は南河内と泉南が中心で,南河内は10 点域,泉南は側面T字把手のため9点となり,さらにへら受け柱が加わると8点になってい る。北部では寝屋川犂と守口犂が柱栓方式をとっていて朝鮮系が強い。島本町のへら受け溝は枚 方市や交野市にも点在し,京都府南部では一般に見られる山城系のものである。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)政府モデル犂継承度10点評価の分布図 追加調査の結 果,左下の前稿の図に比べて空白も減り分布図は充実し た。泉南調査の結果10点域は泉北郡までだったことが 明確になり,また寝屋川市・守口市の調査で中央低地の 朝鮮系犂の分布範囲が明確になったのが成果である。
なお奈良市と生駒市北部の9点犂は京田辺市の製品が 近代以降に流入したためで,古代では10点域と推定し た。また上町台地は大阪市内で民具収集はないが,大和 政権の枢要の地なので10点域と推定した。
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大化改新詔の畿内と10点犂分布 〔図10〕の■は大化改新詔の畿内の四至で,難波宮を中心に 四至を設定したもので(原秀三郎1984),きわめて観念的色彩が濃いもの(鬼頭清明1991)とさ れているが,大化前代の実質の畿内/畿外の国境とする大津透(1986)説が説得的である。網掛 け領域が10点域で,四至は畿内勢力の境界,10点域はその本拠地なのであろう。
天智政権の後飛鳥岡本宮を中心に同心円を描いてみたが,もし天智政権が専制権力で政府モデ ル犂を押しつけたため膝下の奈良盆地・大阪平野で10点犂は広まったとするなら,宮に近いと ころが10点犂,離れるにしたがって9点,8点と漸減していくはずであるが,網掛け範囲は同 心円とはまったく無関係で,政権の押しつけ結果ではなかったことを物語っている。
政府モデル犂を進んで継承 奈良・大阪では政府モデル犂の配付に先立って犂耕はほぼ全域でお こなわれていた。にもかかわらず使い慣れた朝鮮系犂を捨ててあえて政府モデル犂に乗り換える なら,それは自ら進んでの選択であり,政府モデル犂コピーの忠実度は政権に対する帰属意識の 強さの指標となり,そこから政権支持基盤が復原できることになる。さて律令制下の畿内は大 和・河内・摂津・山背の4国でスタートするが,摂津と山背は10点犂域からは外れており,7 世紀に実質に政権を支えていたのは大和・河内の2国であったことをこの図は物語っている。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)仮説と検証 政府モデル犂コピーの忠実度は政権に対する帰属意識の強さの指標であり,そこか ら政権支持基盤が復原できるという先の結論は古代の資料にもとづくものではなく20世紀の在 来犂の痕跡から遡及復原で導いたものなので,内容は正しくても仮説にとどまる。これを一般に 支持される学説に高めるには,別系統資料にもとづく他方向からの検証が必要となる。
古墳分布からの検証 〔図11〕は3世紀以来の主な古墳群を網掛けの10点域に重ねたもので,3 世紀の大和・柳本古墳群から5世紀の古市・百舌鳥古墳群までは10点域に含まれ,6世紀の継 体大王墓を中心とした三島野古墳群は9点域である。3〜5世紀の古墳群はすべて10点域で,近 江・山城・摂津の勢力に擁立され大和入りには苦労したといわれる継体大王墓は9点域というの は考古学・文献史学の成果と合致し,同時代資料から検証されたことになる。
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古代氏族本拠地からの検証 〔図12〕は岸俊男(1966)以来文献史学で進められてきた古代氏族 本拠地推定地を網掛けの10点域に重ねてみたもので,3世紀以来大和政権を支えてきた有力氏 族の本拠地はすべて10点域に含まれ,在来犂の政府モデル犂継承度からの政権支持基盤復原の 正しさが文献史学の成果からも検証されたことになる。農具の形態が氏族分布に対応するのは,
氏がヤケと呼ばれる農業経営拠点をベースにもっていた(吉田孝1983)からと考えられる。
検証度★★の学説 20世紀の在来犂の痕跡からの遡及復原にもとづく結論はあくまで仮説なの で「検証度」という概念を設けて1回の検証で検証度1で★,2度目の検証で検証度2で★★と する表示法を提案した(河野2009)。これを適用すれば政府モデル犂継承度からの政権支持基盤 復原は古墳群と有力氏族分布との2度の検証を経て検証度2,★★の学説となる。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)太秦の秦氏の政権支持度をさぐる では雄略,欽明,推古朝に政権を支えながらその後は距離を 置いたかに見える秦氏の動向はどうか。そこで秦氏本宗家のある太秦近辺の在来犂をチェックす ることにした。京都市域は公立の民俗系博物館・資料館がなく在来犂が把握困難な反面,文化の 中心だった関係で絵画資料は豊富にあるので,それらの中から写実度の高い作品を選んだ。右の 絵は日本最初の絵入り百科事典である中村!斎『訓蒙図彙』(1666)で,犂先と犂へらの間の隙 間は手前が広く奥は狭くて左反転犂の特徴を的確に描いており,スケッチをベースにした図で信 頼度が高い。左の2点は18世紀前半に活躍した農具を描く正確さでは随一の渡辺始興の絵で,
『訓蒙図彙』と同じタイプで,右京から太秦・嵯峨にかけてはこのタイプと考えられる。
政府モデル犂継承度は6点 さてこの犂は,四角枠・長床・曲轅・転回用把手・T字形把手は継 承していて朝鮮系の自己主張は見られないが,犂身幅犂頭,へら受け溝,押さえ木方式の犂へら 留めが政府モデル犂と異なり6点犂。これは使い慣れた6世紀以来の犂からの継承であろう。ま た耕深調節の楔が描かれていないが,もし描き落としで実物は柄楔方式なら7点犂となる。
政権から距離を置いていた秦氏 秦氏本拠地近辺の犂は朝鮮系の自己主張ともいえる直轅は採用 せず政権に対する反抗や反発はみられない。その一方で奈良・大阪の勢力のように政府モデル犂 をそっくり受容しようという意志の強さも見られない。これは政権から一定の距離を置いていた とされる秦氏研究の成果とよく一致し,政府モデル犂の継承度で政権支持基盤を探る試みは,秦 氏のケースでも有効性が検証されたことになる。
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政権を支えた中核と裾野 7世紀末に完成する律令国家は1人の天皇による全国500万人の公民 支配という形をとりながらも,実態の面では3世紀以来大王を擁立し支えてきた畿内勢力による 全国支配だとする「畿内政権」論があるが(早川庄八1984),〔図14〕は継承度分布図をいくつ かに括ってその大王・天皇を支えてきた畿内勢力の中核と裾野を示したものである。
Aは10点域で畿内勢力の中核部分,Bの9点テラスは継体大王墓を含む準中核域,紀氏の勢 力下のFとEは政府モデル犂を個性的に受けたため10点にはならなかったが反抗的要素は全く なく政権サポーターの居住域。Gの宇陀郡や吉野郡もサポーター域である。これに対して,Cは 西宮〜豊中地区で朝鮮系がもっとも強く残る5点域,Dの大阪中央低地も7点谷を形成して朝鮮 系が強く,このCとDはコリアタウンと推定されるので次章で分析したい。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)3.大阪平野のコリアタウンの復原
3−1 2つのコリアタウン
先にC,D地区はコリアタウンと述べたが,奈良・大阪では政府モデル犂配付以前に朝鮮系犂 が日本人集落にも広く普及していた。つまり日本人も朝鮮系犂を使っていたのであり,朝鮮系要 素の残存=渡来人村と単純にいえるわけではない。その点を直轅の分布から詰めていこう。
〔図15〕は曲轅と直轅の分布図であるが,構造的には曲轅は耕深調節の柄楔方式をともない直 轅は柱栓方式とセットになる。なかには柄楔方式を取りながらも犂轅の曲がりが緩くて直轅に見 えるものがあるが,それは「疑似直轅(ギチ)」として区別し,柱栓方式とセットになった真正 の直轅のみを「チ」で示した。さて政権の膝下の畿内では政府モデル犂の継承度は高くて大部分 が曲轅犂であり,C,D区のみが曲轅の海に浮かぶ直轅の島のようで異様な残り方である。
直轅は朝鮮系の象徴 朝鮮系犂を使っていたところに中国系政府モデル犂が押しつけられると,
日本人ならこだわりなく政府モデル犂に乗り換えられようが,朝鮮系スタイルに思い入れがある 渡来人の場合は容易に捨てがたくて残すということが考えられる。曲轅の海に直轅が島状に残る なら,そこはコリアタウンと判断できよう。曲轅と直轅は見た目の印象が違う。すらりと伸びた 直轅と長体のスタイルの良さは,渡来人にとっては誇りであり心の拠り所だったのであろう。
大集団だから文化が残った 政府モデル犂配付は662〜3年ごろで(1),第2期渡来人による牛と 犂の持ち込み時期を仮に雄略7年(463)の今来才伎の渡来に当てるなら200年後であり,1世代
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30年として6〜7世代後,通常なら同化が進んで日本人化している時期である。ところでC区も D区も数ヵ市町村をカバーする広い領域である。この広さがあれば母国語も長く使われ祭礼も毎 年繰り返される大きなコリアタウンとなる。これがこの2ヵ所に直轅が残った要因であろう。
2つのコリアタウンの相違点 ではC,D地区の違いについて検討していこう。
〔図16〕は朝鮮系要素である柱栓方式,枠内小把手,直棒および前後棒把手について,分布の 密な部分を点線で括ったもので,C区とD区の違いが鮮やかに浮かび上がった。
C区:直轅と柱栓方式,枠内小把手,直棒あるいは前後棒把手… 4要素
D区:直轅と柱栓方式 …… 2要素
C区は朝鮮系要素を濃厚に,D区は朝鮮系を象徴する柱栓方式の直轅のみを残している。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)3m 超の犂体,1m 超の轅先値 立地の分析に入る前に,政府モデル犂継承度のチェック項目に は入れなかったが,朝鮮系犂の特徴が際立って現れる数値があり,それが全長と轅先値である。
〔図17〕は3m超の長大な犂体をもつ在来犂を市町村別に抽出したもので,C区には332cm を筆頭に圧倒的に多く,D区にも3m超が確認できる。C,D区以外にも散在するが,いずれも 淀川,旧大和川流域の低地である。
〔図18〕は犂轅先端から犂先までのオーバーハング値が1mを超える在来犂を抽出したもの で,この長大さは二頭引き犂の面影を引きずったもので,5世紀中頃に朝鮮半島で一頭引き犂が 成立した時以来の1500年を超えての継承である。犂先を欠いた資料では犂先を付ければ平均値 で7.8cm短くなるので補正した。ここでもC区が圧倒的でD区がそれを追う形が読み取れる。
1300年を経ても分布の輪郭は明確 以上,C区とD区は朝鮮系要素が明確に残るホットスポッ トであることを見てきたが,その輪郭は〔図15〕〔図16〕ではシャープであり,〔図17〕〔図 18〕では多少の滲みはあるもののなお明確で,これは662〜3年に決まった犂型がほとんど位置 を変えずに継承されてきたことを意味し,在来農具が親から子へと家庭内で継承されることを考 えれば,渡来人の子孫が同じ場所に住み続け20世紀に及んだことを示している。これは北方遊 牧民が繰り返し黄河流域の中原地方に侵入し,それに追われた漢族が江南地方に避難し,漢族に 追われた少数民族がさらに南や西南に逃れるという大規模な民族移動を繰り返してきた中国では 考えられない驚異的なことで,広大な海に囲まれた島国的環境の日本ならではの現象といえる。
この事実はまた20世紀の在来農具から遺伝子を抽出し再構成して市町村ごとの古代史を復原す る「民具からの歴史学」が,この日本列島では有効なことを裏付ける根拠ともなる。
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3−2 西宮〜豊中地区(C区)
渡来人文化が地域社会を席巻した C 区 では立地の違いの分析に入ろう。C区は西宮・尼崎・
豊中・伊丹市と宝塚市南部を含む広大な地域で,ここは生活するには条件のいい高燥な地であ る。それに対してD区は寝屋川・四条畷・大東・東大阪市の低地部分と守口・門真市全域,そ れに大阪市域の低地部分で,淀川下流と旧大和川の下流の河内湖周辺の葦原で生活条件の悪い低 湿地部分であり,立地条件は対照的である。
C区に関しては応神紀31年8月条に新羅使が武庫水門で停泊中,失火で500隻の船を焼いた 贖罪で匠者を献上,それが猪名部の祖であると記す。その猪名部は尼崎市北部から猪名川上流の 猪名県に配置され,その管理者である「為奈部首を中心にかなり多くの帰化人がいた」(『尼崎市 史』1)とされる。継承度5点の朝鮮系犂分布域はこの猪名部らのコリアタウンであろう。雄略 紀12年10月には木工猪名部御田,13年8月条には木工韋那部真根が見える。
朝鮮系文化が前面に出る例としては紀北に例がある。和歌山市域では大谷古墳や岩橋千塚付近 に朝鮮系遺跡が集中しており,大きなコリアタウンを形成していたと考えられる。ところでこの 地域を掌握していた在地勢力は紀氏で,記紀では応神期から崇峻期にかけて紀角宿禰,紀小弓宿 禰,紀大磐宿禰,紀男麻呂宿禰が朝鮮半島外征に関わって大活躍している。朝鮮半島に出掛ける には通訳が必要で,その供給源として朝鮮文化が継承される大型コリアタウンを温存させていた のであろう。ここは朝鮮半島そのままの首引き法が残るという朝鮮系の強い地域で,紀氏という 有力氏族の配下にありながらも犂耕文化では紀氏を圧倒してコリアタウンが前面に出る形となっ ており,C区の在地勢力は紀氏のような有力氏族ではないので地域社会全体として大和政権への 帰属意識が低く,そのため朝鮮系文化が前面に出たのであろう。
3−3 大阪中央低地(D区)
低地のコリアタウン 北河内の枚方市から中河内の東大阪市にかけては,〔図19〕で見るように 山麓には政府モデル犂継承度の高い曲轅犂が分布し,低地部には朝鮮系の強い直轅犂が分布する という傾向が見られる。資料数が多くないのでイメージを明確にするため推定のものも加えた。
寝屋川市域には山麓部と低地部があり№112犂は使用地は不明だが,全体の傾向性から低地部側 に配置した。大東市は全点使用地不明で,ひとまず直轅犂は低地部に曲轅犂は山麓部に配置し た。ただこの推定の寝屋川市・大東市の資料を除いても,傾向性は明らかである。東大阪市は 1967年の3市合併で成立したが,旧枚岡市は山麓部,旧河内市と布施市は低地部に属する。
D区の大阪中央低地は梅雨の長雨や集中豪雨,台風時の豪雨の際には田畑は冠水し住居にも浸 水しかねない最悪の地である。ではなぜ彼らはこんな条件の悪い土地に住みついたのか。それは 条件のいい高燥な地は日本人集落に占地されており,後から来た渡来人たちは条件の悪い葦原 に,そこが日本人集落の住民が魚や水鳥の捕獲に利用されているのを知りながらもやむをえず不 法占拠的に住みついてしまったのであろう。高燥な西宮〜豊中地区を「山の手のコリアタウン」
とするなら,生活条件の悪い葦原の大阪中央低地はさしずめ「低地のコリアタウン」であろう。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)低地の住人は自主避難渡来人か 日本列島への渡来人の波は朝鮮半島の戦乱と連動しているとい われている。熊谷公男(2001)によれば,古代の朝鮮半島で大規模な戦乱が起こるのは,①4世 紀末〜5世紀初頭,②5世紀後半,③7世紀中葉の3時期で,これがちょうど渡来の第1波,第 2波,第3波に重なるという。渡来の波が朝鮮半島の戦乱と連動するのであれば,そのなかには
多くの自主避難してきた渡来人が含まれると考えられ,数的には過半数を占めたと思われる。
渡来人研究で取り上げられる高い技術を持つゆえに招致されまた拉致された技術者なら,大和 政権あるいは地域首長のもとに組織されて技術奉仕をおこなうので住地や農地も与えられ,新参 者・異国人としての差別はあるものの地域社会の一員として生活拠点を築くことができる。それ に対して自主避難の渡来人は地域社会にとっては招かれざる客であり,居場所がない。生活条件 の悪い大阪中央低地に住みついたのは,こうした自主避難の渡来人だったのであろう。
この弱者としての渡来人が命を守るセーフティーネットとして一番頼りにしたのが母国語の通 じる渡来人仲間であり,同じ境遇の自主避難の渡来人のネットワークだったであろう。在来犂の 分布から見えてきた北は寝屋川市の低地から守口・門真を経て東大阪市の低地に至る真正直轅犂 の分布は,その自主避難の渡来人たちのネットワークが犂型に表れたものと考えられる。
困難な生活環境のなかで生き抜くには心の支えが必要となる。彼らは故国から牛と犂耕を持ち 込んだが,それが日本への犂耕の初伝となり,渡来人集落を基点に周辺の日本人集落に急激にひ ろまった。「日本人はもとは鍬で耕していた。この地に犂耕を持ち込んだのは自分たちの祖先で あり,この地の振興に大いに貢献しているのだ」という思いは心の支えとなる。すらりと伸びた 直轅と長体のスタイルの良さは,渡来人にとっては誇りであり心の拠り所だったのであろう。
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立評を経てもネットワークは堅持 畿内の曲轅の海のなかでひときわ朝鮮系をアピールする中央 低地の直轅犂は,662〜3年ごろの政府モデル犂配付時に渡来人子孫によって意図的に選択され たものである。ところでこの寝屋川市から東大阪市にかけてと大阪市域の低地部分は大化5年
(649)の立評時に茨田・讃良・河内・若江・渋川・東生・百済郡の前身の評に分断されるが,直 轅犂はその郡域を越えて分布していることが注目される。寝屋川市から東大阪市にかけての低地 のネットワークはもともと自主避難の渡来人のセーフティーネットとして形成された私的な情報 交換組織であり生活防衛組織である。この強力なネットワークの一部を取り込むことになった新 評督は摩擦を避けて彼らの代表に内部をとりまとめさせる間接統治策を採ったであろう。こうし て組織は立評後も当分は維持され,政府モデル犂の受容にあたっても彼らはネットワークを通し て頻繁に情報交換しあい,心の支えであり結束のシンボルとなった直轅は意図的に残した。こう して低地のネットワークの範囲は直轅犂に刻印され,その後は伝統的農村社会では農具は壊れて も同じ形で更新されるという原理に守られて20世紀まで継承されてきたものと考えられる。
殺牛祀漢神 『日本霊異記』(822)中巻第5話に攝津国東生郡撫凹村の家長が聖武天皇の治世
(724〜749)に「漢の神の祟り」で7年間に7頭の牛を殺し「四足を截り廟に祀」った罪で地獄 に堕ちたという話がある。撫凹村は比定できる地名はないが(『日本歴史地名大系28大阪府の地 名Ⅰ』),東生郡は上町台地と東の低地を含み,撫凹の名からすれば低地部と考えられ,低地のコ リアタウンの範囲内となる。「漢の神」を「廟に祀」るという記載からすれば『大阪府の地名
Ⅰ』の解説するように「中国風の信仰」と考えられるが,「韓の神」とするなら渡来から280年 前後,8〜10世代を経てなお朝鮮系祭祀を続けているのはコリアタウンゆえと考えられる。ただ 農耕祭祀ではないことは,牛を持ち込んだ渡来人と結びつける必然性は薄いのかも知れない。
『続日本紀』延暦10年(791)9月16日条の「断伊 勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊等国百姓,
殺牛用祭漢神」は,「百姓」からは農耕祭祀で,9月 中旬からは雨乞いでなく収穫祭関連だが,渡来後320 年前後の同化も進んでいる時期で対象国の広さからは 渡来人との関係は薄いと考えられる。今後も話題にな りうる資料なので検討結果を提示しておいた。
韓式系土器分布 〔図20〕は田中清美(2005)による 韓式系土器の分布図で,内陸水面を縁取るように韓式 系土器が出土しており,朝鮮系直轅犂の内陸水面縁辺 分布を彷彿させる図であるが,これらの出土地のなか には招致された技術者集団の村と自主避難の渡来人の 村が混在しているのであろう。それらの読み分けは今 後の検討課題としておきたい。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)3−4 「弱者としての渡来人」研究の提起
「弱者としての渡来人」への注目 これまでの渡来人研究は無意識のうちに「渡来人=すぐれた技 術者」という先入観に支配されて,難民や自主避難してきた渡来人など「弱者としての渡来人」
が視野から落ちているように思われる。このうち難民に関しては河野「民具から見た百済・高句 麗難民の動向」(2010)で,これまでの渡来人研究では「難民」の概念はないことを指摘,『日本 書紀』に「百済の男女二千余人」など記される人々は「難民」と捉えるべきであり,この観点に 立てば『日本書紀』からも場所は特定できないものの「難民キャンプ」の存在は確認できるこ と。難民の入植には「孤立入植」「縁故入植」「政府管掌の集団入植」の3タイプがあることを指 摘,甲斐の巨麻郡は政府管掌の集団入植の成功例と位置づけた。また当時の政権は今日の紛争地 区周辺の政府と同じく「難民問題」を抱えており,招きもしないのに来てしまった難民たちを排 除せず儒教思想にもとづいて真面目に受け容れようと努力していたこと,先行研究では「渡来人 を使った東国開発政策」と括られることの多かった渡来人の東国移配記事は,さみだれ的渡来に 対する入植地の手配であり,政権の難民問題に対する真摯な姿勢の表れと解すべきだとした(2)。 これを受けて本稿では弱者渡来人のもう1つの類型である「自主避難してきた渡来人」を在来 犂から検出し検討してきた。では文献史料にはその痕跡はないのか。
自主避難渡来人の検出 『日本書紀』雄略15年に秦の民の組織化記事がある。
十五年に,秦の民を臣連等に分散ちて,各欲の随に駈使らしむ。秦造に委にしめず。是に 由りて,秦造酒,甚に以て憂として,天皇に仕へまつる。天皇,愛び寵みたまふ。詔して秦 の民を聚りて,秦酒公に賜ふ。公,仍りて百八十種勝を領率ゐて,庸調の絹!を献りて,朝 庭に充積む。因りて姓を賜ひて禹豆麻佐と日ふ。
十六年の秋七月に,詔して,桑に宜き国県にして桑を殖ゑしむ。又秦の民を散ちて遷し て,庸調を献らしむ。 (日本古典文学大系『日本書紀』上,岩波書店,493〜495頁)
水谷千秋(2009)はここに書かれた秦の民の管理形態の変遷を整理して,「天皇の一元支配→
諸豪族への分配→秦氏の下での統合→秦氏の下での分散」とまとめ,これを「朝令暮改ともいえ るような秦の民の管理形態の変遷」と評する。果たして朝令暮改的なのか。氏の解釈はかなり複 雑だが事実はもっと単純なのではないか。
まず冒頭部分は原文では「十五年,秦民分散臣連等,各随欲駈使,勿委秦造」となるが,日本 古典文学大系本の句読点の打ち方は不自然である。文頭の秦の民は目的語の位置にはないので
「十五年,秦民分散,臣連等各随欲駈使,勿委秦造」とし,言葉を補って訳せば「十五年,秦の 民は各地に分散していて,臣連等は各欲しいままに駈使し,まだ秦造の管轄下になかった」とな ろう。「秦の民」は後に秦造の管轄下に入る人たちの遡及表現,それを踏まえて全体を訳せば,
後に秦造の下に入る渡来人たちは各地に分散しており,臣連等は彼らを欲しいままに駈使 していて,まだ秦造の管轄下になかった。彼らを不憫に思った秦酒公は天皇に近侍して機会 をまった。天皇は酒公を寵愛し,やがて秦の民を集めて酒公に賜った。そこで秦酒公は百八
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十種の勝を率いて庸調の絹や!を貢納して朝廷に積み上げた。
となろう。
一般に編年体の記事は「AがBとなった」という形式で書かれていることを踏まえて整理す れば「〔A〕当初各地に分散し臣連等に欲しいままに駈使されていた渡来人は,〔B〕秦酒公の尽 力で彼の下に百八十種類の勝として組織され,絹・!を貢納することになった」というのが大筋 の流れであり,「朝令暮改」的だったわけではない。
ところでこの記事に見える,各地に分散して臣連等の諸豪族に欲しいままに駈使されていた渡 来人とは何者なのか。この「駆使」は肉体労働であり労役であって須恵器生産や鍛冶仕事などの 技術による奉仕ではない。したがって秦の民となる渡来人は技術者ではない普通の人である。こ の技術者ではない普通の人で臣連等の勝手な駈使にさらされていた彼らこそが,渡来人の大多数 を占めたと思われる自主避難の渡来人だったのであろう。
労役の弱者への転嫁 ところで5世紀以降の摂津・河内では大王墓の建設や治水・灌漑など大規 模な土木工事が続いた。これらを支える労役は各地の諸氏族におそらく構成員数をベースにした ルールにしたがって割り当てられたと考えられるが,労役も度重なれば構成員に忌避のムードが 広がる。この状況下で目をつけられたのは集落の前の河内湖岸の汀線を占拠した自主避難の渡来 人たちであろう。在来諸氏族たちは大和政権から氏族員に課せられた労役の一部を目の前の地先 を占拠した自主避難の渡来人に転嫁しようとする。渡来人たちは同国人のネットワークの結束で 跳ね返そうとするが,在来諸氏族の権益地を不法占拠してしまった弱みがあり,嫌ならこの地か ら出て行けと脅されれば従わざるをえない。雄略15年の記事で秦酒公を悲しませた「臣連等各 随欲駈使」という中身は,臣連等による弱者である渡来人への労役の転嫁が中心だったのであろ う。
秦人動員による茨田堤築造の記事 仁徳記に秦人を使役して茨田堤を築いた記事が見える。
また秦人を役ちて茨田堤また茨田三宅を作り,また丸邇地,依網池を作り,又難波の堀江 を掘りて海に通はし,また小椅江を掘り,また墨江の津を定めたまひき。
(日本古典文学大系『古事記祝詞』下巻,岩波書店,267頁)
冒頭の「秦人」は先の「秦の民」と同じく後世の状態からの遡及表現で,「後に秦人として組 織されることになる渡来人たちを動員して茨田堤と茨田三宅(屯倉)を造った」という内容であ る。ところでこの記事に続く丸邇地,依網池,難波堀江,小椅江には誰それを動員したという記 述は見られない。それは諸氏族への人数割りなど当時の一定のルールにしたがっての動員なの で,わざわざ書く必要はなかったのであろう。そうなれば茨田堤・茨田三宅記事にあえて「秦人 を役ちて」と特記されたことからすれば,今回特例で秦人たちを動員したことになり,秦人たち は一般ルールにしたがっての動員からは外れていたことになる。それは秦人たちは王権からまだ 正規の公民とは認められていないことを示しており,日本列島に住みつきながらまだ公民権はも らえていない人々,これこそが自主避難してきた渡来人の姿であろう。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)では秦人たちはこの時なぜ茨田堤の工事に動員されたのか。これに関しては次のような事情が 考えられる。先にも述べたように,5世紀以降の摂津・河内では難波堀江や大型溜池,大王墓な ど大規模な土木工事が続き,労役は各氏族に割り当てられたため,氏族内部では疲れや労役を忌 避するムードが流れていたと考えられる。こうしたなかで起こった茨田堤の建造については,
「茨田堤の建造で一番恩恵を受けるのは河内湖の縁辺や淀川の氾濫原に住みついた渡来人なのだ から,彼らを動員すべきではないか」と受益者負担の意見が有力氏族から出されて王権がそれを 実行に移したものであろう。これを自主避難の渡来人側からすれば,茨田堤の建造で洪水が防げ るなら耕地や住宅の冠水は防げるというメリットに加えて,たとえ苦しくても王権からの労役を 勤めておけば,諸氏族による勝手な労役転嫁を拒否する口実にもなるし,将来の公民権の獲得に も繋がるとの判断も生まれて,それなりに主体的に参加したのであろう。
自主避難渡来人の駆け込みが事の発端 ここでふたたび雄略15年の記事に戻って,この記事は
「臣連等に欲しいままに駈使されていた渡来人を不憫に思った秦酒公が大王に頼んだ結果,渡来 人たち彼の下に百八十種類の勝として組織され,絹・!を貢納することになった」と秦酒公を主 人公として語られているが,では事の発端はこの記事通りに秦酒公の憐れみの心だったのか。
労役転嫁の痛みを日々感じていたのは自主避難の渡来人自身である。彼らは臣連等の労役転嫁 に唯々諾々と従っていたわけではない。渡来人の広域ネットワークを拠り所に不当性を主張し忌 避しようとしたが,臣連らの用益地を不法占拠してしまっている弱みがあり,嫌ならここを出て 行けと脅されても他に移るべき土地が見つからないため従わざるをえなかったのである。そこで 彼らが打った次の手が渡来人ながら日本人社会のなかで地歩を築き王権の中枢部にコネをもつ秦 酒公を頼って秦氏の傘下に入り,秦氏を通して王権への貢納や労役を負担することで臣連等の不 当な労役転嫁を跳ね返すという道である。秦酒公による秦民組織化の起点は,日々臣連等の労役 転嫁の痛みを感じていた自主避難の渡来人側にあったのであろう。秦酒公を通しての王権への絹 や!の貢納は,当然ながら秦酒公側の中間搾取を生みそれなりに重い負担となるが,それも想定 内に入れての申し入れである。
ところで秦氏の傘下に入ったからといって,臣連等による不当な労役転嫁が自動的に止まるわ けではない。臣連等は今まで通り労役転嫁を続けようとするであろうし,秦酒公側が自主避難の 渡来人の権利が守られているかチェックに来てくれるわけでもなく,ましてや王権側が後世の問 民苦使のような監察官を巡回させてくれるわけではない。臣連等の不当な労役転嫁を跳ね返すの は今まで通り自主避難の渡来人の広域ネットワークである。ただ以前と違うのは臣連等の労役転 嫁に対して「われわれは秦酒公を通して王権に絹や!を貢納する正規の王民である。不当な労役 転嫁を続けるなら秦酒公を通して王権に上訴するぞ」という交渉時の強いカードを手にしたこと であり,王権への貢納の見返りに正規の王民身分を獲得し,不法占拠の居住地を王権公認の生活 拠点に転化したことである。自主避難の渡来人は永年の苦労の果てにようやく異国での公民権を 獲得したのであり,日常生活ではさまざまな差別は残るものの,この地を新たな祖国として堂々
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と胸を張って生きられる地歩を築いたことになる。そのためなら王権への絹や!の貢納も,秦氏 の上乗せ分の負担も,新たに秦氏の一員として課せられる王権からの正規の労役も,想定内の負 担として受け止めることができたであろう。
秦氏の経済基盤は中間搾取 では秦氏側にとっては自主避難渡来人の秦民化どんな意味をもった か。それは彼らを傘下に組み込むことによって秦氏を「百八十種勝」を率いる大集団に成長させ たことであり,異国の地で「臣連等」日本人諸氏族と並び立っていくためには,氏族の集団規模 を大きくすることは大きなメリットだったであろう。それに絹・!の王権への貢納の過程で生じ る中間搾取も無視できない。大化前代の秦氏の経済基盤の主要な部分は,この百八十種勝からの 中間搾取にあったのではないか。
秦民化事件発生地は低地のコリアタウンか 記紀に数行で記される記事も,現実には事件現場を ともなって具体的に展開していた筈である。では秦民化事件の発端の現場はどこなのか。
先に事の発端は自主避難の渡来人ネットワークが秦氏側に窮状を訴えて駆け込んだことにある と推定したが,その現場に相応しい環境が地図上で確認できる。
〔図21〕は寝屋川市域の明治18年(1885)の地図で東は生駒山麓,西は寝屋川流域の低地で,
海抜5m,10m,15m等高線をなぞっておいた。その10〜15mの間に秦村・太秦村が見え,こ こは『和名類聚抄』の茨田郡幡多郷に比定されている(『日本歴史地名大系』28)。古代の汀線は 海抜5mより少し下がった辺りで,自主避難の渡来人たちはこの辺りの葦原を占拠していたと 考えられ,彼らのネットワークは北端で北河内の秦氏村と接していたのである。彼らはこの秦氏 村に駆け込んで窮状を訴え,それを受けた秦氏村が本宗家に上申する過程で噂を聞きつけた各地 の自主避難の渡来人のネットワークがわれもわれもと参加を申し込み,その結果「百八十種勝」
という大集団に膨れあがったと考えられる。事件現場の特定は歴史研究者に課せられた課題であ る。これはまだ状況証拠からの推定に留まるが事件発端の候補地として提起しておきたい。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)4.政権末端に組み込まれた渡来人の動向
大阪平野では2つのコリアタウン以外にも多くの渡来人居住地があったことが文献史料や遺跡 から確認できている。では彼らは政府モデル犂配付にはどのような対応をしていたのか。
千里陶窯地帯 日本の須恵器生産は5世紀前半に始まるが,この時点で犂耕が持ち込まれた可能 性は低い。ただ操業を続けるうちに第2期渡来人の技術者が追加配置されることは考えられるの で検討してみた。陶窯地帯にかかる佐井寺・山田の犂は柄楔方式で構造的には曲轅犂である。
枚方市の百済王氏 百済王氏は奈良時代に枚方市域に移ったとされるので百済寺跡近辺の在来犂 を並べたが,2例とも継承度9点の曲轅犂で朝鮮系の痕跡はない。百済王氏は日本農民の税の給 付をうける高貴な身分で配下に朝鮮系農民を抱えていないため,朝鮮系犂は出ないのであろう。
河内馬飼の蔀屋北遺跡 馬骨が出土した蔀屋北遺跡には渡来人の河内馬飼がいたとされるが,遺 跡にかかる砂村の犂は継承度9点の曲轅犂で朝鮮系をまったく残さないのは注目される。
古市近辺の渡来人集住地域 古市古墳群周辺地帯は西文氏や王辰爾一族の津・船・白猪(葛井)
氏ら渡来人の集住地であるが,この地域で確認できた在来犂はすべて曲轅犂で継承度10点犂が 多く,朝鮮系をアピールする直轅犂は見当たらない。
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泉北陶窯地帯 泉北でも5世紀前半に須恵器生産が始まり7世紀段階でも操業が続いている。そ こで陶窯地帯近辺の在来犂として堺市深阪と豊田,旧美原町,大阪狭山市の犂を並べたが,政府 モデル犂継承度10点,9点の曲轅犂で,朝鮮系直轅犂は見られない。
河内長野の高向氏 河内長野市高向は7世紀に遣隋使・遣唐使,大化改新後の国博士として政権 中枢で活躍した高向玄理の出身地とされる。河内長野市内では在来犂が9台確認できているがい ずれも継承度10点の曲轅犂で犂轅の曲がりはきつい。朝鮮半島出身でありながら住地の地名の 高向を姓として名乗ったのは,故国を捨ててこの地に骨を埋める覚悟の表れであろう。政権中枢 で活躍したことと相まって政権への帰属意識が高かったのであろう。
政権に組み込まれると同化は早まる 以上,政権に組み込まれた文筆・技術系渡来人の居住域を チェックしたがすべて曲轅で直轅犂なしという意外な結論を得た。しかも継承度9〜10点で彼ら の政権への帰属意識がきわめて高かったことを示している。奈良県でも渡来人の集住地の高市郡 の明日香村・高取町や,南郷遺跡近くの御所市五百家の犂も10点犂で同様の傾向を示す。
その理由については政府モデル犂配付は662〜3年ごろで雄略7年の今来才伎の渡来からは 200年後の出来事,政府モデル犂に出会ったのは「渡来人」ではなく6〜7世代後の「渡来人子 孫」であり,同化が進んで多くは日本人化していたと考えられる。また民間交流のない古代では 故郷に錦を飾ろうという夢なぞ持ちようがなく,彼らは故郷を捨てて日本で骨を埋める覚悟で来 たのであり,早くこの地に馴染もうと同化に努めたであろう。さらには文筆や技術で政府に仕え た彼らは政権側の一員という意識で政府モデル犂を100% コピーしようと努めたのであろう。そ して決定的なのは渡来人を抱え込んだ地域首長の意向である。首長の政権支持度によって地域ぐ るみで政府モデル犂の継承度が決まるようで,畿内豪族の配下ではなべて10点域なのに対し て,紀氏や為奈部首配下では7点あるいは5点と下がるのは,首長の意向の反映と考えられる。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)5.泉南・紀北圏の復原
今回の追加調査では泉南地方にはじめて本格的に踏み込んだが,大阪平野でありながら把手と 犂へらは紀北系という衝撃的な事実に出会った。本章ではその事実の報告と成因の考察をおこな うことにしたい。
把手の分布から地域政治圏をさぐる 〔図24〕は大阪府,和歌山県,奈良県の接する地域の把手 の分布を示したもので,3種類の把手の棲み分け状況がうかがえる。政府モデル犂のT字形把手 を採用したのは大阪府では河内全域と泉北郡以北,奈良県では北部の奈良盆地・大和高原であ る。前後棒把手は奈良県南部の五條市と吉野郡それに宇陀郡の曽爾村に分布する。側面T字把 手は泉南地方と和歌山県北部を占めている。この分布からどんな情報が引き出せるのか。
まず最初に確認しておきたいのはT字形把手・前後棒把手・側面T字把手とも実用上の性能 に優劣はない。T字形把手の政府モデル犂は全域の評督に配付されたので,それを忠実にコピー するなら相互に相談しなくても広域がT字形把手となる。ところがT字形把手から外れた前後 棒把手や側面T字把手がある広さをもつ分布圏を形成したとなると,個々人の工夫が偶然に広 い範囲で同じになることはありえないから,同じ形の分布圏内では相互に情報交換が行われてい たことになり,把手の形状から地域政治圏が復原できることになる。
では犂へらの分布と重ねると何が見えるのか。
犂へらの分布 〔図25〕で犂へらの分布を見れば,政府モデル犂の「2爪へら」が奈良・大阪の 大部分を占めるが,奈良県宇陀郡から吉野郡東部にかけて「2鈕へら」が分布する。また大阪泉 南郡と和歌山県北部には「2爪2鈕へら」が分布し,伊都郡の花園村には「4鈕へら」があり,
明治13年ごろの伊都郡農具絵図にも4鈕へらが描かれている。この犂へら型式の分布に,犂へ らの裾の前滑りを防ぐ犂頭のへら受け方式の分布を重ねるとどうなるか。
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泉南・紀北の共通点と相違点 〔図26〕でへら受け方式の分布を見ると,奈良県全域と大阪の泉 北郡以北は政府モデル犂のZ字形鎹を採用しているが,泉南郡と和歌山県北部(紀北)には
「へら受け柱」や「へら受け台」などZ字形鎹とはまったく異なる方式が使われている。このへ ら受け方式と〔図25〕で見た犂へらとの対応関係を整理すれば,
奈良県全域と大阪泉北郡以北…〔2爪へら〕と〔Z字形鎹〕
泉南郡 ……〔2爪2鈕へら〕と〔へら受け柱〕
紀北地方 ……〔2爪2鈕へら〕と〔へら受け台〕
となる。泉南・紀北地方は,同じ2爪2鈕へらの分布域でありながら,へら受け方式に関しては 泉南と紀北は違った方式をとっていたことになる。これはどういうことか。
犂へらは鋳造品で鉄を1400度の高温で熔解する熔解炉を備えた大規模工房の製品なのに対し て,へら受け柱やへら受け台は木製犂体の犂頭部分であり,古代では使用者農民の自作であった。
つまり泉南・紀北地方は同じ鋳造所の供給圏内ながら犂体製作段階で異なっていたのである。
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)泉南地方は紀氏の勢力圏 鋳造は先進の渡来技術であり,大規模装置産業の鋳造工房の設備と維 持には大きな資本を要することからして,古代では鋳造工房は地域首長の管理下に置かれていた であろう。泉南・紀北地方で大規模渡来人集住地となれば紀の川下流域に大谷古墳や岩橋千塚の 渡来系遺跡があり,鋳造工房はこの地域にあったのであろう。この地を支配する地域首長は紀氏 である。古代の農業は自給がベースだが鉄器に関しては工房の供給を受けねばならず,鉄器工房 を抱えた大規模集落に周辺農村が属するという構造をとることになり,泉南地方は紀氏の管下の 鉄器供給圏に包摂されていたと考えられる。他方で泉南地方のへら受け方式が紀北と異なること は鉄器の供給以外では独自のコミュニティーを形成していたことを物語っており,泉南の淡輪古 墳群が紀北と接する岬町にあることからすれば,泉南地方は紀北に顔を向けた地域集団だったと 考えられる。これは紀氏の側から見れば泉南地方は紀北の勢力圏とみなされたであろう。
8月におこなった泉南調査の過程で,担当者の方々から泉南の言葉は和歌山弁で摂河泉よりは
「紀泉」という括りが相応しい(泉佐野市:森昌俊氏)とか,泉南地方は江戸時代は粉河鋳物師 の領域だった(泉南市:石橋広和氏)などの話を伺った。またかつて戦国時代の日根野荘の記録
『政基公旅引付』を通読した折には紀北の根来寺が日根野に攻め入り何かと干渉してくるその執 拗さが強く印象に残ったが,こうした紀北と泉南との親密な関係や紀北の領主が泉南地方をわが 領域と当たり前のように考えてしまうことの根源は,古墳時代にまでさかのぼることを泉南地方 の2爪2鈕へらは語っているといえよう。
〔図27〕は犂へらの分布から,662〜3年の政府モデル犂配付時に犂へらはどう変わったか,い いかえれば地域社会は政府モデル犂配付という事態にどう対応したかを復原したものである。
5世紀欄の3種の犂へらは第2期渡来人によって朝鮮半島から持ち込まれたもので,各地で形 が異なるのは朝鮮半島の出身地の違いであろう。奈良盆地・大阪平野欄の「朝鮮系2爪2鈕へ ら」は犂柱を挟んで位置決めする小さな三角爪の付いたものなのに対して,7世紀の泉南・和歌 山県北部欄の「2爪2鈕へら」は政府モデル犂の上湾爪を採用した混血型で,両者は全くの別物 である。また朝鮮系2爪2鈕へらが使われていたことが確実なのは政府モデル犂が製作された明 日香村近辺で,広い奈良盆地・大阪平野には他のタイプも混在していたことが考えられるが,そ れを表そうとすれば表示が複雑になり傾向が読めなくなるので,ひとまず単純な表示とした。
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さて662〜3年の政府モデル犂配付を受けた宇陀郡の評督や農民は,2爪へらは採用せず従来 の2鈕へらを引きつづき使った。それで十分間に合っていたことと新たな鋳型の製作が面倒だっ たのであろう。ただZ字形鎹は素直に受容しているので政権に反発していたわけではない。
奈良・大阪の評督たちは一斉に2爪へらに乗り換えた。政権への忠誠度が高かったのである。
泉南・和歌山県北部の評督たちは,上下2個ずつの鈕のうち上部の鈕を政府モデル犂の上湾爪 に作り替え下部の鈕は残した。これまで外せば新規に鍛造品のZ字形鎹を用意しなければなら ないからでありこれまでの利点を生かして政府モデル犂を受容する工夫であって,ここでも政権 への反発はない。この紀北で紀氏の中心から遠い伊都郡の一部では4鈕へらがそのまま残った。
この662〜3年の政府モデル犂配付時の各地の評督や農民たちの対応は犂へらや犂型に刻印さ れ,その後は「伝統的農村社会では農具は壊れても同じ形で更新される」という原理に守られて 20世紀まで継承されてきた。その原理の発見によって,在来犂の広域比較から市町村ごとに異
なる個性ある古代史の復原が可能となったのである。
おわりに
前稿「大阪府の在来犂」では畿内向けモデル犂を復原してその要素の継承度を10段階評価す る方法を編み出し,10点犂の分布から奈良盆地,大阪平野の中河内の生駒山麓・南河内・泉北 郡が10点犂分布域で,ここが天智政権の支持基盤であると論証した。この領域が3世紀以来の おもな古墳群と重なることから民具から導いた結論の妥当性が考古学から検証され,さらに文献 史学の大和政権構成氏族の分布域とも重なることから文献史学の成果からも検証されたとした。
ただベースとした大阪府の在来犂分布図には未調査の空白地が多かったので入稿後に追加調査を 実施,その報告が本稿である。再調査3台を含む48台の在来犂のデータを加えた結果,空白地 はほぼ埋め尽くされ密度の高い10点犂分布図を作成することができた。それは前稿の結論の正 しさを再確認するのもので,充実した分布図にもとづくデータを学界に提示することができた。
本稿ではまた大阪平野の2ヵ所のコリアタウンの復原もおこなった。さらに陶窯地域や古市近 辺の渡来人集住地の在来犂チェックを通して「政権末端に組み込まれた渡来人は同化が早く,日 本列島内に居場所の見つけることが難しかった自主避難の渡来人の居住域では朝鮮系要素が強く 残る」という一般原則を導き出した。これは文献史料や考古資料にもとづくこれまでの古代史研 究では見えなかった新事実であり,「民具からの歴史学」の文献史学・考古学とならぶ第3の古 代史研究法としての有効性が証明されたものといえよう。それと関連して従来ともすれば「渡来 人=すぐれた技術者」という先入観に支配されがちだった研究界に対して,あらたに「弱者とし ての渡来人」研究の必要性を提起し,関連文献史料の再解釈をおこなった。
泉南地方と紀北地方の文化が共通することは,これまで経験的にしばしば語られてきたが,今 回の泉南地方調査によってこの地方の在来犂が2爪2鈕へらをへら受け柱で受ける独自のタイプ であることが確認できた。これは調査者の私も驚いた新事実であったが,分析の結果は泉南地方
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商 経 論 叢 第47巻第2号(2011.12)は紀氏管下の鋳造品の供給圏に属しながら装着法では独自性を保っていたというものであり,泉 南地方と紀北地方の文化の共通性が古墳時代にまでさかのぼることが確認できた。
以上のように立ち上げたばかりの「民具からの歴史学」は非常に有効で,文献史学を中心とし た古代史研究では望むべくもなかった市町村ごとの個性ある古代史の復原が可能なことを次々に 立証しているが,まだ一人芝居の状況であり後継者の登場はその気配すらない。それは民具の歴 史情報は形のなかに込められており,それを引き出すにはいくつかの能力を総合して取り組まね ばならないからである。
その歴史情報の引き出しに必要な能力の第1は,犂を見た瞬間にこの犂は使ったときにどうい う動きをするかを動態シミュレーションで復原する能力で,ここからその形が用途に対して合理的 か使いにくい非合理な形なのかを見分けることが可能になる。道具として使いにくい非合理な形 は「昔からそうだったから」という理由で継承されてきたものなので,ここに歴史情報が宿ってい るのである。その形が用途に対して合理的か使いにくい非合理な形なのかを見分けるには,理科 や物理学の成績の良さではなく日常身近に起こっている現象を観察してなるほどそうかと納得す る理科的センス,いいかえれば中学理科をわがものとして身につけた上での応用力が必要なので ある。第2には,目の前の民具の形は様々な歴史の曲がり角を経て変化してきたなれの果ての姿 とみて,その変化の節目はいくつあったのか,それが何世紀のいつごろなのかを問おうとする姿 勢であり,歴史の層位を読み分けようとする姿勢である。これには歴史学の基礎訓練を受けてい ることが必須の条件となる。この2つが必須となると,後継者の出現は難しくなるのであろう。
ところで近年,市町村の民具担当者に考古学出身者が増えている。これは不景気が続いて発掘 件数が激減したことによるものと考えられるが,これは「民具からの歴史学」の発展には望まし い状況といえる。先にあげた必要条件のうち第2の層位の読み分けは考古学者のお手の物であ り,第1の理科的センスについては個人差はあろうがもともと遺物の研究を進めてきたモノ屋さ んである。ところで現今の文化財担当者はいくつもの業務を兼任して超多忙なのも現実で,正面 からの民具調査,民具研究を望むのは無理なことも事実である。したがって仕事関連のサブテー マのような位置づけでの「民具からの歴史学」への参入を期待してやまない。
[謝辞]
今回は5泊6日,3泊4日といった調査を繰り返し空白地帯を埋めていったが,この日程に合わせて午 前,午後に1ヵ所ずつの調査地を配することができたのは,ひとえに調査先の教育委員会・博物館・資料 館の方々のご理解とご協力のおかげである。毎回ながらこちらの都合に合わせてのご協力のおかげで本稿 をまとめることができた。この場を借りてお礼を申し上げたい。
[追記]
校正終了後,問い合わせ中の池田市立歴史民俗資料館から2台の在来犂写真,泉南市教育委員会から新 発見の1台の在来犂写真が送られてきた。写真からは池田市の2台は5点犂,泉南市は9点犂である。校 了後で本文の加筆は無理なので,〔図6〕の分布図,〔図9〕〔図14〕の点数分布図,〔図15〕〔図16〕の
C
区の領域にデータを加え,最新の情報を皆様に見てもらうことにした。担当者のご親切に感謝したい。大阪府の在来犂 Ⅱ
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[注]
(1)政府モデル犂の配付の上限・下限については,関西の長床犂は犂へらの固定に爪留め方式を採用してい るが,これは中国では江南地方の方式。天智政権の派遣した遣唐使のうち江南地方に行ったのは第4次遣 唐使のみで,その朝倉宮への帰朝報告は661年5月なので唐代犂の飛鳥到着は6月。そこから試行錯誤の 政府モデル犂試作を重ね500台の政府モデル犂複製を考えれば政府モデル犂配付は662年以降となりこれ が上限となる(河野2007)。下限については福岡平野に百済難民の持ち込みと考えられる短体無床犂が分 布し,政府モデル犂の影響を被っていないことからすれば(河野2009a),政府モデル犂配付はそれ以前 に終わっているので下限は日本兵・百済兵とともに百済難民が日本に向かった663年9月以前となり,政 府モデル犂の配付は662年年頭〜3年9月以前の1年9ヵ月に絞り込まれる。
(2)東国開発政策説に関しては大津透「近江と古代国家」を読まずに書いており失礼をお詫びしたい。そこ に示された徙民政策の流れとの摺り合わせは今後の課題としたいが,予期せぬ渡来に対する受動的施策の 側面は見落とすべきではないと考えている。
[図版の犂所蔵元]〔図3〕〜〔図5〕に掲載以外のもの
〔図19〕54,55枚方市教育委員会,57,59交野市教育委員会,60四条畷市教育委員会,61,62門真市立歴 史資料館,63〜66大東市教育委員会,76鴻池新田会所,79旧玉川百年史展展示資料,81,82往生院民 具供養館
〔図22〕31吹田市立博物館,36個人蔵,54,55枚方市教育委員会,60四條畷市教育委員会,92柏原市立 歴史資料館,93,94藤井寺市教育委員会,96,97大阪府環境農林水産総合研究所
〔図23〕100個人蔵,103堺市博物館,106小谷城郷土館
[参考文献]
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大津透1986「万葉人の歴史空間」『律令国家支配構造の研究』岩波書店1993所収
大津透1987「近江と古代国家―近江の開発をめぐって」『律令国家支配構造の研究』岩波書店1993所収 岸俊男1966『日本古代政治史研究』塙書房
鬼頭清明1991「畿内と畿外」『新版古代の日本6 近畿Ⅱ』角川書店 熊谷公男2001『大王から天皇へ』講談社 日本の歴史03
河野通明2004「民具の犂調査にもとづく大化改新政府の長床犂導入政策の復原」『ヒストリア』188大阪 歴史学会
河野通明2007「遣唐使将来唐代犂の復原と導入時期の特定」『歴史と民俗』23神奈川大学日本常民文化研 究所
河野通明2009a「福岡県の在来犂─民具から見た6〜7世紀の福岡県域」『商経論叢』44―1・2神奈川大学 経済学会
河野通明2009b「奈良県の在来犂」『商経論叢』45―1神奈川大学経済学会
河野通明2010「民具から見た百済・高句麗難民の動向」『商経論叢』45−4神奈川大学経済学会
河野通明2011「大阪府の在来犂―民具からの7世紀の政権支持基盤の復原―」『商経論叢』47―1神奈川大 学経済学会
白石太一郎1999『古墳とヤマト政権』文春新書
田中清美2005「河内湖周辺の韓式系土器と渡来人」『ヤマト王権と渡来人』サンライズ出版 早川庄八1984「古代天皇制と太政官政治」『講座日本歴史2 古代2』東京大学出版会 原秀三郎1984「日本列島の未開と文明」『講座日本歴史1 原始・古代1』東京大学出版会 水谷千秋2009『謎の渡来人 秦氏』文春新書
吉田孝1983「律令時代の氏族・家族・集落」『律令国家と古代の社会』岩波書店所収