アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結︵二︶
一政治市場モデルとの関連で一
今 村
浩
目 次はじめに
一 最近のアメリカ政党改革の経緯
1 改革以前の大統領候補者指名過程
2 改革の始動とその背景︵以上第41号︶ 3 改革の実施ーマクガヴァンーフレイザ!委員会の編成と活動一
マクガヴァン;フレイザー委員会の編成過程︵本号︶ 改革案の策定と実施
七二年党大会の変容
4 改革批判と軌道修正の試みーミカルスキー委員会の改革一
5 政党改革のその後ーウィノグラッド委員会以後1
6 政党改革と共和党
二 政治市場モデルとアメリカ政党論
三 アメリカ政党の現状
おわりに
早稲田社会科学研究 第45号 92(H4).10
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3
改革の実施ーマクガヴァンーフレイザー委員会の編成と活動一
一連のいわゆる改革委員会の中でも︑マクガヴァンーフレイザi委員会が以後の改革に及ぼした影響力は際立って ︵1︶いると言っても異議は殆どなかろう︒そこで︑この委員会とその主導した七二年改革について︑やや詳細に検討した
い︒ ︿マクガヴァンーフレイザー委員会の編成過程﹀
一九六九年一月十四日に開催された民主党全国委員会においてオクラホマ州選出上院議員ブレッド・R・ハリス
︵国電①仙 国 国魯同同一ω︶が︑新しい全国委員会委員長に選出され・さらに先の大会決議を受けて二つの改革貧蝿を構
成することが決定された︒その人事は︑新任の委員長ハリスに委ねられた︒彼は︑直ちに入選に着手し︑二月八日に ︵3︶は︑委員長を含む全委員を決定し公表する所までこぎつけたのである︒
ところで︑この委員会の編組に関しては︑以後の改革委員会と比べて︑いささか特異の点が二つ認められる︒それ
らは︑その委員長についてである︒すなわち︑当時南ダコ薩州選出上院議員ジョージ・S・マクガヴァン︵08渥①
QD.=︒Oo︿⑦ヨ︶が︑当初の委員長であったこと︑そして彼が任期半ばにして委員長職を辞し︑自ら民主党大統領候
補者指名を求めて争い︑しかもそれに成功したことであった︒これは︑以後の一連の改革委員会にはみられないこと
である︒すなわちまず︑南ダコタという上州選出とはいえ︑二期目の連邦上院議員を務め︑さらに︑結果は不本意で
あったにせよ過去に一応大統領候補者指名に名乗りを上げた程の経歴をもつ政治家が改革委員会の委員長に就任した ︵4︶例は︑これ以後ない︒すなわち︑マクガヴァンーフレイザー委員会の後を継いだミカルスキー委員会委員長バーバラ・
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(二)
A・ミカルスキーは︑当時メリーランド州はボルチモア市の市会議員に過ぎなかったし︑ウィノグラッド委員会委員
長モーリイ・ウィノグラッドは︑民主党ミシガン州委員会委員長︑ハント委員会委員長ジェイムズ.B.ハントは︑
北カロライナ州知事︑公正委員会委員長ドナルド・ファウラーは︑民主党南カロライナ州委員会委員長であった︒こ
れらの一連の改革委員長の委員長自身が︑大統領候補者になったことはなく︑そもそも指名を争ったことすらないの
である︒ これは︑ある意味では当然とも言えよう︒大統領候補者指名過程の改革というのは︑いわば大統領候補老指名レー
スというゲームの﹁ルール﹂の制定に他ならず︑ルールを定める作業をしていた者が︑途中でゲームにプレーヤーと
して加わるというのは︑普通ではないからである︒したがって︑とりわけ七二年選挙の終了後︑この七二年改革の
﹁公正﹂についての疑念が生じたのは避け難いことであった︒具体的には︑当初さほどの要職とも思われなかったこ
の改革委員会の委員長を︑ マクガヴァンが敢えて引き受け︑しかも結果として大統領候補老指名を勝ち得たことか
ら︑マクガヴァンが︑自らの指名に都合のよいように大統領候補者指名過程を改変したのではないか︑そのために改
革委員会の委員長職を望んだのではないかという疑念が︑とりわけ改革に批判的な側から提起されたのである︒この
点について︑以下に検討しよう︒
この種の批判や疑念はアカデミズムの世界を越えて広く存在した︒そのことは︑改革擁護の立場からケネス.A. ︵5︶ボード︵︸︵①昌昌Oけげ ﹀● 切O山O︶とキャロル・F・ケーシー︵O鉾9男O⇔ωo団︶が書いた論文の中で︑敢︑兄てこの種の
批判を改革批判の神話の一つとして挙げ︑反論しなければならなかったことからも明らかであろう︒その際彼らは︑
いずれも改革の支持者であることは当然として︑改革委員会のスタッフとして改革の実務に携わった経験をもってい
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たことが注目される︒すなわちボードは︑マクガヴァソーフレイザー委員会事務局の調査主任を務め︑続いて.ミカル
スキi︑ウィノグラッド両委員会には︑単なる調査スタッフではなく︑正式の委員として名を連ねており︑またもう
一方のケーシーは︑マクガヴァンーフレイザi委員会の調査助手︑ミカルスキー委員会の調査担当責任者を歴任して
いる︒わけてもボードは︑ニュー・ヨーク州立大学で助教授として政治学を講じ︑また後にジャーナリストとして活
動するという経歴の一方で︑一九六八年当時マッカーシーの選挙運動に参加して挫折し︑ロバート・ケネディ暗殺に ︵6︶衝撃を受けて一時国外に去った経験をもつなど︑比較的若年で理想家肌の改革志向的リベラル派知識人という︑言わ
ば絵に描いたような﹁改革派﹂の一類型を示現しているようで興味深い︒ケーシーも︑後にエドワード・ケネディの
民主党大統領候補者指名選挙運動に加わって現実政治に関与している︒こうした経歴の彼らの手になるこの論文は︑
ヴォランティアの運動員としての経験から︑改革以前の全国党大会代議員選出過程の実態とその改革の必要性をかな
り説得的に論じると共に︑改革を実務面から主導した者の視点から︑七二年以降噴出していた改革批判論の観念性を
衝いている︒その意味で︑七二年来の政党改革に対する賛否の議論が最も喧しかった当時にあっても︑見逃すことの
できないユニ1クなものと言え︑その論点は︑以後も度々検討するであろう︒
この論文において︑彼らは︑マクガヴァンが改革委員会の委員長に就任した経緯をこう説いている︒すなわち︑当
初より党改革の熱心な提唱者として知られ︑それゆえこの改革委員会の委員長職に就くのではと思われていたのは︑
アイオワ州選出上院議員ハロルド・E・ヒューズ︵草戸︒冠国・出信αq冨の︶であった︒しかし︑ヒューズをあまりにリ
ベラルでマヅカーシー派や旧ケネディ派に近過ぎると見て嫌ったハンフリー上院議員が︑全国委員会委員長ハリスに ︵7︶命じてマクガヴァソを委員長に据えたのであると︒
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(二)
ここで注意すべきは︑当時の民主党内の権力構造である︒周知の如く︑アメリカ政党には︑党首という地位が存在
しない︒とはいえ︑もちろん大統領を輩出している政権党にあっては︑大統領が名実共に党の指導者となる︒そし
て︑ホワイト・ハウスに入れなかった政党は︑その敗れた大統領候補者が︑党の指導者に近い役割を果たすというこ
とが︑この頃まではあった︒もとより︑その候補者によっては︑名目上の指導者に留まることもあった一方で︑かな
り大きな影響力を党内に保つこともあったのである︒ハンフリーの場合は︑後者であった︒まず彼は︑敗れたりとは
いえ︑選挙自体は非常な接戦であった︒一般投票における得票率は︑ニクソンの四三・四パーセントに遅れること僅
か○・七パーセントの四二・七パーセントであったのである︒さらに中央政界でのリベラル派としての長く輝かしい
経歴とも相撃って︑彼は︑依然として七二年選挙における最有力の民主党大統領候補者であった︒そうした影響力を
保持していたハンフリーであればこそ︑六八年選挙において自らの選挙参謀であった腹心のハリスを全国委員会委員
長に据えることもできたのである︒こうした事情を考慮すれば︑ボード.らの記述にも︑それなりの説得力を認め得る
であろう︒
それでは︑当のマクガヴァン自身は︑どう語っているのであろうか︒彼の自伝﹃草の根﹄によれば︑やはりハリス ︵8︶を含むハンフリー派がヒューズを嫌って︑マクガヴァンに委員長就任を依頼してきた︒依頼は︑ハリス自身が直接マ
クガヴァソに電話で行なったという︒さらにハンフリー派がヒューズを嫌ったのは︑六八年選挙におけるヒューズの
行動に起因しているとしている︒すなわち︑隠れもないマッカーシー派の闘士であったヒューズは︑ハンフリーの指
名後も︑本選挙でのハングリーの選挙運動に加わらず︑せいぜいが渋々の協力しかしなかったとハンフリー派の目に
は映った︒こうした﹁前科﹂のあるヒューズが改革委員会を率いれば︑自らにとっての絶えざる脅威となろうと考え
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たハンフリー派が︑ヒューズを排斥したと言うのである︒
さらに政治学者のウィリアム・J・クロッティ︵副く一=一9bP 一● O喉〇一一嘱︶とバイロン・E・シェーファー︵じロ嘱3ロ国φ
ω冨h臼︶の記述を見てみよう︒彼らも︑大筋では同様の説明を行なっている︒尤も︑クロッティは︑マクガヴァンを
委員長に据えるのがハンフリーの意思であったとはしていない︒すなわちハリスが︑党内有力者︵当然ハンフリーも
含まれるであろう︶と協議の上委員長を含む委員会の人選を行なった︒ただ︑その際ハソフリーが委員長としてはヒ ︵9︶ユーズを斥けたとしている︒一方より詳細なシェーブァーの記述によっても︑マクガヴァンの委員長就任の経緯は︑
︵10︶ほぼ同様である︒それによれぽ︑ヒューズを忌避したのは︑むしろハリスであり︑ハリスにマクガヴァンを委員長と
して推薦したのは︑全国委員長主任補佐であったビル・ウェルシュであったという︒
こうして検討してみると︑少なくともマクガヴァン自身が︑積極的に改革委員会の委員長職を望んだ形跡は見当ら
ない︒そもそも当時︑委員長職を望み︑それを公言していた政治家は︑ほぼヒューズのみであった︒そして︑依頼を
受けたマクガヴァンが︑かなりの躊躇の末に︑ようやく受諾に至ったというのも確かなようである︒彼は︑ハリスの
電話要請に即答せず︑一︑二日の猶予を請うて︑親友らに相談した︒それまで彼は︑改革委員会に何の注意も払って ︵11︶おらず︑要請してきたハリスに︑却ってヒューズこそ適任であると伝えたとも述べている︒友人たちの意見には賛否
両論あったものの︑結局マクガヴァンは委員長職を引き受ける︒初めて要請を受けた日から四日後︑二月四日のこと
であった︒
しかし︑ ヒューズが斥けられたのは事実としても︑それでは︑なぜマクガヴァンに白羽の矢が立ったのであろう
かっボ隔ドらは鴇それにりいて︐は述べていない︒しかし︑マクガヴ学Kクロッティ︑シェーファーらの記述に共通
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(二)
する認識は︑マクガヴァンが一種の妥協的選択であったということである︒すなわち︑民主党内改革派に対する配慮
から︑委員長は︑少なくとも大枠で見て改革派に分類し得るような人物でなければならなかった︒ここで言う﹁改革
派﹂とは︑大統領候補者指名のあり方を含む民主党の構造︑運営方法を改革しようとする人々を指している︒その必
要を認めぬ人々は︑現状維持派ということになろうか︒ゆえに︑政治路線上の保守ーリベラルの対峙とは︑完全には
一致しない︒したがって︑たとえばヴィエトナム問題をめぐる対立は︑本来改革派と現状維持派の対立とは別であっ
たはずである︒しかし︑実態として改革派とヴィエトナム戦争反対派とは︑ほぼ重複する傾向にあった︒そして︑こ
のヴィエトナム反戦という領域では︑マクガヴァンは︑マッカーシーと並んで際立った存在であったのである︒もと
より︑マクガヴァソとて党改革を標榜してはいたものの︑ヒューズのように私的な改革委員会を主宰して︑改革の具
体案を検討していたわけではなかった︒党改革という領域では︑改革派の象徴的存在であったヒューズに匹敵するこ
とはできなかったであろう︒しかし︑ヴィエトナム反戦という領域でのマクガヴァンの名声が︑党内反戦派すなわち
改革派に訴え︑改革問題の実際に明るくないという弱点を埋め合わせるであろうと期待されたのであった︒
ここで誤解してはならないのは︑ハンフリーらに連なる党内主流派が︑別に党改革を阻止しようとしていたわけで
はないということである︒そもそも︑この時点では︑党改革とは︑何をどう改革しようとするのか必ずしも明らかで
はなかった︒尤も︑この改革がいかなる結果を招来するかを正確に予知できたとすれば︑話は違っていたかもしれな
いが︒ともかく︑ハソフリーとハリスが︑元来少なくとも頑迷な現状維持派ではなく︑改革にも柔軟な態度であった
ことからも︑また党内の亀裂を修復して次の大統領選挙に備えなければならないという実際的見地からも︑委員長に
ヒューズより穏健な改革派を起用することは︑不可避であった︒それがマクガヴァンだったのである︒
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それに加えて︑やはりマクガヴァンとハンフリーとの永年に渡る親密な交友関係も︑人選に作用したであろう︒こ
の時期には︑彼らはとりわけ親しかった︒マクガヴァソは︑一九五六年末に︑ハンフリーの紹介で︑首都ワシントン
郊外のハソフリー家の隣に住居を購入して以来︑十二年間に渡って文字通りの隣人であり︑その交際は家族ぐるみの
ものであったので臥華加えて・六八年選挙におけるマ・ガヴ・ンの行動は︑・・支に袋されるマ・カ←表
のそれとは際立った対照をなしていた︒マクガヴァンは︑殆ど泡沫に近いながらも︑一応は六八年の民主党大統領候
補者の一人であった︒しかし︑シカゴ党大会において︑ひとたびハンフリーが指名されるや︑直ちにハンフリー支持
を表明し︑以後は忠実な民主党員として終始したのである︒とりわけ︑党大会最終日にハンフリーが指名受諾演説を ︵13︶行なった際には︑マクガヴァンは︑ハンフリーと並んで演壇に立って党の団結を誇示しさえした︒それにひきかえ︑
マヅカーシーは︑当日大会に出席することすら拒んだのである︒このようなマッカーシー派の振る舞いは︑党主流派
の目には︑度し難い狭量なものと映ったであろう︒ハソフリーは︑当時ジョンソン政権と党内反戦派との︑言わば板
挟みとなって苦悩していた︒彼は元来リベラル派に属し︑ジョンソン政権のヴィエトナム政策に必ずしも全面的に賛
成ではなかったともみられるだけに︑マッカーシー派の一徹な行動には︑却ってやり切れない思いがあったであろう︒
本選挙におけるニクソンとの得票差が僅かであっただけになおさら︑選挙運動に非協力的であったヒューズらマヅカ
ーシー派に対して︑ハンフリーの心中穏やかならぬものがあったことは︑想像に難くない︒とはいえ︑別にマクガヴ
ァンが︑ハンフリーにとって御し易い人物であったというのではなく︑要するに彼の委員長就任は︑ハソフリーにと
って個人的にも許容できる人事であったということなのである︒
これまで見てきたように︑マクガヴァソは︑確かに委員長就任に積極的ではなかった︒それはまず︑彼が党改革に
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(二)
ついての具体的構想を持ち合わせていなかったからである︒しかし同時に︑この職が︑政治的に損な役回りであると
の判断もあった︒ここで留意しておくべきは︑一九六九年初頭のこの時期︑既に彼は︑七二年大統領選挙に出馬する
決意を固めており︑万事このことを念頭に置いて行動していたということである︒そこで︑改革派と現状維持派との
対立が予想される中︑委員長になれぽ︑難しい舵取りを迫られる︒調停に努力したとしても︑改革派か現状維持派の
いずれかの不満を招く恐れがあった︒それどころか︑最悪の場合︑双方の批判を浴びかねなかったのである︒マクガ
ヴァソにとっては︑苦労した末に敵を増やすだけに終わりかねない︒大統領選挙をにらんで︑彼がためらったのも無
理からぬことであった︒しかし︑逆に彼がそれを敢えて引き受けたのも︑また大統領選挙への思惑からであったので
ある︒彼自身のことばを借りれば︑ ﹁党のハンフリ二丁とマッカーシー・ケネディ派との間の溝を埋め︑効果的な改
革を実施し︑民主党をより団結させることが︑私にはできると信じていたがゆえに︑委員長就任を受諾することが︑
霧であると感じるようにな・越のである・・うした善意は信じるとして転彼の中で︑;の打算が善意と矛盾
なく両立し得たと言える︒分裂した党を団結させるという役割を首尾よく果たすことができれば︑彼は一躍有力政治
家として浮上するであろう︒確かにこれは︑来たるべき七二年の大統領候補者指名レースに大きな支援となるに違い
ない︒マクガヴァンにとって︑これは一種の政治上の賭でもあった︒
こうした就任の経緯に照らして︑マクガヴァンには少なくとも︑自らの大統領候補者指名に有利な改革を行なおう
などという不純な意図はなかったと見るべきであろう︒またハリスは︑マクガヴァソが次期大統領選挙に出馬するつ
もりであることを知っていた︒マクガヴァンが最終的に受諾をハリスに伝えた際︑七二年選挙出馬のため︑二年間し
か委員会には留まれない旨通告していたからであ鵜・.ハリスは・それを承知でヲガヴ・ソを委員長に任じた︒;
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には︑仮にマクガヴァソが改革を通して自らの利益を図ろうと企んだとしても︑それは難しかったからであろう︒と
いうのも︑実はマクガヴァンが委員長就任を受諾したときには︑他の委員の人選もハリスらによって︑ほとんど完了
していたからである︒つまりマクガヴァソは︑長たる委員として指名されたに過ぎず︑委員会の構成には関与してい
ない︒尤も彼は︑委員長就任の条件として︑何人かの人物を委員に推薦しはした︒ところが︑それらの人々のうちで︑
予めハリスらが作成していた委員候補者名簿に名前のあった者だけが受け入れられ︑そうでない者は拒否されたので
︵16︶ある︒結果として︑マクガヴァンは︑委員の中に少なくとも六八年に自分を支持してくれた人間を一人も見出し得な
いことになった︒その他に︑マクガヴァンがハリスに受け入れさせたことと言えば︑既に委員に内定していたヒュー
ズを副委員長に起用し︑事務局スタッフの人選はマクガヴァンに一任するという程度であったのである︒スタッフの
問題は︑きわめて重要ではあった︒しかし︑もしもマクガヴァンが今少し狡猜であったならば︑より大きな譲歩を引
き出せたように思われる︒こうした点では︑確かに彼は愚直であった︒
それでは︑他の二七名の委員達は︑どのようにして選ばれたどんな人々であったのであろうか︒その肩書きだけを
見れば︑委員会は︑ 醤二楓おびq三碧ωと言われる︑職業政治家から成る党指導者層が多数派を占めている様に思える
かもしれない︒マクガヴァソを含む二八名の委員中少なくとも一七名までが︑一応は党指導者層に分類可能なのであ
︵17︶る︒その内訳は︑現職の連邦上院議員三名︑現職の連邦下院議員︑州知事︑州上院議員︑州財務長官︑州商務長官各
一名︑前挿知事一名︑党全国委員会委員三遍︑前及び現州党組織役員四名︑地方公職老一名である︒その他の顔触れ
には︑労働組合幹部二名︑政治学老二名︑財界人︑新聞発行者︑法律家︑反戦運動家︑ケネディ派の選挙運動関係者
等があった︒したがって︑その限りでは委員会の構成が︑党幹部・職業政治家層に偏っていたとボード・ケーシーや
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(二)
︵18︶クロッティが言うのも︑決して間違いではない︒
しかし︑そう言うことによってボードとケーシーが︑マクガヴァンーフレイザ;委員会の委員達の多くは改革派に
属してはおらず︑したがって︑そうした委員会の改革は︑決して党内現状維持派を無視して改革派に肩入れしたもの
とは言えないのだとほのめかしたかったのであれば︑話は違ってくる︒そうした形式的な分類によって︑マクガヴァ
ンーフレイザー委員会の委員達の改革に対する態度を推し測ることはできないのである︒既存の党指導者層及び彼ら
と密着する労働組合幹部層とが︑党改革に不熱心な現状維持派であり︑既存の党組織と縁の薄い人々程︑改革に熱心
であったというのは︑あくまで一般的傾向であって︑当然数多くの例外が存在した︒実際には︑委員達の主流は︑そ
の地位に拘わらず︑マクガヴァンやクロッティも認めるように︑全体として保守的と言うよりはむしろ進歩的な人々
︵19︶であった︒またヒューズに率いられた改革派が期待した程ではなかったにせよ︑党改革に対しても︑積極的・好意的
であったのである︒党改革に関しては︑最も早くからその必要を説き︑︐ヒューズと共に私的な改革委員会を主宰して
いたイーライ・﹂・シーガルの︑言わば改革に対する態度に関して最も厳しい基準によってさえ︑マクガヴァン委員 ︵20︶会委員の半数は改革派に分類されている︒
そして実は︑そのように委員会を構成することこそが︑ハリスの意図した所であった︒既に述べたように︑ハング
リーに連なるハリスが︑ヒューズらマッカーシー派の主導権を阻みつつも︑基本的には党改革を推進しようとする態
度であったことを考えれば︑それは何ら驚くべきことではない︒ ︵21︶ シェーファーによれば︑ハリスらの用いた選任基準は︑二大別される︒とはいえ両方とも︑別に明文化されていた
わけではない︒それらのうちで︑より暗黙の基準は︑a.少なくとも広義には党改革派であること︑b.ハリスと何
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らかのつながりがあること︑そして︒.現状維持派を刺激するような﹁過激な﹂改革派には属さないことから成って
いた︒しかし︑実際には︑すべての委員がこれら三つの基準を完全に満たしていたわけではない︒他の条件との兼ね
合いで妥協を余儀なくされたこともあったのである︒たとえば︑ヒューズを委員に加えなければならなかったのもそ
の一例と言える︒
もう一群の基準は︑他方に比べてより明瞭であり︑委員の﹁代表性﹂に関おるものである︒それは要するに︑各委
員が代表する勢力・集団間の均衡を意味した︒すなわち︑委員が属し代表するd.地域︑e.集団︑f.有力政治家
の間の均衡が取れている必要があったのである︒とはいえ︑実際に任命された委員達の問では︑均衡は完全ではなか
った︒すなわち︑委員を各地域や勢力間に厳密に比例的に配分していたわけではない︒またどの集団が代表されるべ
き単位であるのかという選択は︑ハリスらの判断によっていた︒
たとえばd.の基準について見れば︑当時の人口比からも︑民主党の得票数からも北東部諸州出身委員が少なく︑
その分西部と南部藻魚が過剰代表されている︒これは︑北東部が概ね工業州であり︑この地域の大労組と緊密な党幹
部層は︑党改革に最も気乗り薄であったがゆえに︑その比重を敢えて落としたとされている︒すなわちa.の基準が
d︐に優先したことになる︒また︑e.の集団間の均衡についても︑一様に考慮されたわけではない︒たとえば︑人
種について︑委員団は︑黒人とラテン・アメリカ系︵今日で言うヒスパニック︶を三人つつ含んでいた︒しかし︑同
じく民主党の強力な支持基盤であったイタリア系とかポーランド系とかいった白人の中の民族集団は︑均衡させるべ
き集団とはされなかった︒また年齢についても︑若年層を無視してはいないことを象徴的に示すために︑若い反戦活
動家が一人含まれてはいたものの︑基本的には考慮されてはいない︒さらに女性委員も︑三人を数えるのみであった︒
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(二)
比較的多くの公職者や党役員を含むとはいえ︑大都市の党組織の代表は︑委員の中に一人も見当たらない︒また︑民
主党の強固な支持基盤たる労働組合についても︑例外的に改革推進派であった全米自動車労組と改革には消極的であ
ったAFL−C10とから︑等しくそれぞれ一名つつの委員が加わっている︒傘下の組合員数で︑前者は後者の十分
の一にも達しなかったにもかかわらずである︒
f.の党派間均衡については︑ハンフリーとエドワード・ケネディの二人が︑複数の自派委員を送り出す資格を認
められた︒ハンフリーとケネディは︑当時七二年大統領選挙における民主党の最有力候補者と目されていたから︑こ
れは当然の待遇と言え梅それ以外に・一名の割り当てを認められたのは︑前大統領リソドン・B・ジ・ン・・︑エ
ドマンド・S・マスキー上院議員︑そしてマッカーシーである︒前大統領であり長年に渡る党人としての経歴から︑
ジョンソンは︑未だに隠然たる影響力を残していた︒マスキーも︑やはり次期大統領候補者の一人置あった︒尤もマ
クガヴァンは︑自派の利益代表として一名の委員を﹁指名﹂するように要請されたのは︑ケネディとマスキーであっ
たとしてい砺・.いずれにせよ・この種の均禦注意して保たれた・とは︑ほぼ間違いないと言えよう︒
要約するに︑後に言われたように︑マクガヴァンーラレイザー委員会の委員の構成は︑確かに広義の改革派に偏っ
てはいた︒それは正しい︒しかし︑正しくないのは︑マクガヴァソ本人が︑しかも自らの利益を図って︑そのように
したのだということである︒それを為したのは︑ハリスであった︒そして︑ハリスにとって︑マクガヴァンが七二年
の大統領候補者に指名されたからといって︑何の利益もなかったことは言うまでもない︒
マクガヴァソーフレイザー委員会の編成過程の最後に︑事務局メムバーと諮問委員︵OO旨ω⊆一一曽昌一︶の任用が行なわ
れた︒これが重要である︒事務局の調査諭達は︑いずれも熱心な改革派であり︑単に委員という頭脳の意のままに動
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く手足に止まる存在ではなかったのである︒ましてや︑単なる書記や電話番などではなかった︒彼らは︑七節で見る
ようにむしろ︑いかにボードらが否定しようとも︑ある意味で委員会をリードしたとすら言えるかもしれない︒
この最後の編成過程の特徴は︑委員の任命と異なり︑ハリスの影響力が殆ど及ばなかったことである︒既に述べた
ように︑この件については︑ マクガヴァンは︑ ハリスから全権を委任されていた︒しかし︑それではマクガヴァン
が︑思いのままに任用したのかというと︑そうでもない︒改革委員会の委員長に︑言わばヒューズをさしおいて就任
することになったマクガヴァンとしては︑ヒューズら党内の狭義の改革派との良好な関係を維持するための︑言わば
懐柔策を打ち出す必要があった︒渋るハリスを説得してヒューズを副委員長に据えたのも︑そのためであったのであ
る︒ そして︑いま一つの懐柔策が︑事務局メムパーと顧問の任用にヒューズの意向を大幅に取り入れることであった︒
事実マクガヴァンは︑事務局長︵ωRghh α凶﹁①〇一〇﹁︶に腹心のロバート・W・ネルソンを任じた他は︑事務局員の選任 ︵24︶をヒューズの手に委ねたのである︒こうしてヒューズの推挙により︑イーライ・J・シーガルが︑主席顧問︵︒三①h
8旨ω色︶に︑また前述のボ:ドが調査主任︵画一﹁①OけO﹁ Oh ﹁①ω①①﹁07︶の地位に就くことになった︒両名共に︑言わば
﹁筋金入り﹂の改革派であったことは言うまでもない︒若手の法律家であったシーガルは︑マッカーシー派の中でも
最も痛切に︑大統領候補者指名過程の改革の必要性を感した一人であったであろう︒彼は︑主として予備選挙の行な
われない州における選挙運動を担当していたからである︒彼は︑地方党幹部の掌中にある全国党大会代議員選出過程
の実態とその改革の必要を︑ヒューズに説き︑私的な党改革委員会を創設させる立役者となった︒ボードの経歴は︑
既に述べた通りである︒その他の調査員も︑ヒューズに連なる人脈で占められることになった︒さらに︑顧問として
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(:二)
三級が任命された︒一人は︑マクガヴァンの親密な友人であり︑歴史学者でシカゴ大学教授リチャード・C・ウェイ
ドであり︑マクガヴァンに改革委員会委員長の就任を受諾するように勧めた数少ない人物の一人である︒残る二人の
人事は︑やはり︑ マクガヴァンの懐柔策の一環とすることができよう︒すなわちヒューズに近い活動家であったア
ン・ウェクスラーと法律学者でイェール大学教授アレクサンダー・M・ピッケルとは︑ヒューズの私的改革委員会の
メムパーであった︒とりわけウェクスラーは︑マクガヴァンが正式の委員としてハリスに推薦して拒否されたという
いわくつきの人物であった︒すなわち︑ハリスの基準では︑改革に関して強硬に過ぎ︑不適切とされた人物であった
ことになる︒結果として︑事務局の内部には︑委員団におけるような種々の集団間の均衡は︑当初より存在しなかっ
た︒ こうして︑マクガヴァンーフレイザー委員会は︑比較的穏健な改革派を主流とする委員団と︑強硬な改革派で占め
られる事務局という布陣で︑ともかくもその活動を開始したのである︒事務局は︑後に有名となるウォーターゲ;
ト・ピルに置かれ︑最初の全体委員会が招集されたのは︑一九六九年三月一目のことであった︒
︵1︶ 七二年改革とは︑一九七二年大統領候補者指名過程の改革の意であり︑もちろん改革の過程は︑七二年以前から始まって 注
いる︒
︵2︶全国党大会代議員の選出方法の他に︑全国党大会における議事手続きを検討するための委員会が︑ミシガン州選出下院議
員ジェームズ・オハラを委員長として設置された︒本稿では触れない︒
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︵4︶ 一九六八年︑マクガヴァンは︑政治的立場の上でも個人としても親しかった官バート・ケネディが暗殺された後︑その支
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持勢力を糾合しようと︑大統領候補者指名争いに加わった︒しかし︑正式の出馬表明は︑シカゴ党大会の二週悶前という慌
しさであり︑準備不足から︑旧ケネディ派をまとめることはできなかったのである︒彼が︑党大会で得たのは一四六.五
票︑全代議員の五パーセントにも満たなかった︒
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︵16︶ 卜︒ら.職鴨・
︵17︶さ§凝さ︑馨謹三頁の委員一覧表の記載によった︒
︵18︶ ぎ侮︒碧島09︒器ざ曾.ミニ一悼︒及び03;ざ号.ミこづ・ω口・
︵19︶ ︼≦oO◎く①ヨ.号・葛譜℃﹂ω①・
︵20︶ ω冨︷①﹁・9●ミ馬●もoo9
︵21︶ まミ唱戸㎝①−㎝︒︒●これらの基準は︑もう一つの改革委員会たるオハラ委員会の委員選定にも適用された︒
︵羽︶ この時点では︑ケネディの政治的立場を深く傷つけることになる︑例の﹁チャパキディッ久事件﹂は︑まだ起こっていな
かった︒
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︵23︶寓︒ΦQく①β︑︒ρミ冒また︑同じく七二年大統領選挙に意欲を示していたヘンリー・ジャクソン上院議員は︑委員を送り
込むことができなかったが︑同陣営は︑注意深くマクガヴァソーフレイザー委員会の活動を監視していたと言う︒
︵24︶ ︼≦OOOくO﹃PO㌧.9帖こO・Hら︒刈.
アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(二)
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