聖者信仰の「本質化」を超えて
モロッコにおけるフキーの治療の事例から
斎 藤 剛
(神戸大学)
Beyond the “Essentialization” of Maraboutism
Th e Case Study of a Th erapeutic Ritual Performed by a Religious Teacher (fqī) in Morocco
Saito, Tsuyoshi
Kobe University
A religious phenomenon commonly known as Muslim saint worship (Maraboutism) has been one of the major subjects of Anthropological studies on North Africa. In previous studies, Maraboutism has been described and characterized in the following ways: Maraboutism has developed around an individual who is regarded by the people as a saint, who could be defi ned by the following characteristics: (1) He/She is a person on whom God (Allah) has bestowed His blessings (baraka) on account of his/her pious deeds, (2) he/she is endowed with power to perform certain miracles, and (3) he/she is considered to be a mediator between the people and God. Usually, a tomb or shrine is built for a saint a er his/her death. ese shrines attract ordinary people who seek a cure, success, or happiness. us, Maraboutism has devel- oped around the shrines, a material symbol, where social relationships are formed between the caretakers of these shrines and the ordinary people who visit them to perform their invocations.
A large number of anthropological studies have focused on various aspects pertaining to Maraboutism, such as the sociopolitical function of saints among the rural tribes, reciprocal relationship between the descendants of saints and visitors, and religious views that are characteristic of Marabout- ism or spirit possession—which have a strong relationship with Marabout- ism. Futhermore, owing to this large collection of studies, Maraboutism has been considered as a typical representation of the “popular religion of Islam”
or “popular Islam.”
These studies, however, have several problems. First, because of their concern for people who pay visits to these shrines, some studies have failed
Keywords: Morocco, Maraboutism (Muslim saint worship), Popular Islam, l-fqī, Invocation (du‘ā), Fear (khawf)
キーワード : モロッコ,聖者信仰,民衆イスラーム,フキー,祈願(ドゥアー),怖れ(ハウフ)
序―問題の所在
北アフリカの最西端に位置するモロッコ
は,聖者信仰と呼ばれる現象が広く存在する ことで知られている。これまでの研究では,
聖者信仰の中心的存在たる聖者は,篤信行為 などのゆえに神から恩恵(baraka1))を与え to pay attention to the understanding of ordinary people who distance them- selves from Maraboutism. Second, other studies have tried to fi gure out the perception of ordinary people by considering the infl uence of Islamism, that has become prevalent in the Middle East since the 1970s. In this case, these studies have treated Maraboutism as a phenomenon that has become a critical target of Islamism, and have described it as a “declining” phenomenon. ird, an attempt by previous studies to depict Maraboutism as a local belief that developed around shrines, has the eff ect of essentializing Maraboutsim. e eff ect of these problems is to diff erentiate Maraboutism from the daily-life of ordinary people.
In this article, I would like to shed light on the perspective of ordinary people who avoid having a special relationship with Maraboutsim through the case study of the therapeutic ritual performed by “a religious teacher” called l-fqi, for a patient who is of a Berber origin.
The ritual may not look like as though it has a direct relationship to Maraboutism in the sense that this ritual was not held in a shrine, which is physically the central symbol of Maraboutism, and the therapist was not com- monly recognized at the time as a saint but as a “religious teacher” (l-fqī).
However, this detachment of the ritual from the shrines of saints or their descendants does not imply that this ritual is completely unrelated to Maraboutism.
On the contrary, one of my goals is to elucidate the possibility of relating this ethnographic data to Maraboutism. By these procedures, it will be pos- sible to shed some light on the continuity of the infl uence of Maraboutism, without essentializing it.
序―問題の所在
Ⅰ 二種類のイスラームとその問題点
Ⅱ 信仰生活の全体図の中の聖者 1 信仰生活の全体図
2 多様な媒介者 3 聖者概念の再検討 4 祈願と聖者
Ⅲ フキーによる治療 1 H氏の生い立ちと廟参詣
2 フキーによる治療
Ⅳ 考察
1 聖者とフキー 2 「民衆」による解釈 3 知識の多元性 4 フキーの両義性
5 「怖れ」を通じて喚起される聖者信仰 結
1) 本稿における現地語表記においては,正則アラビア語,アラビア語モロッコ方言(al-Dārija al-
Maghribīya),およびベルベル語タシュリヒート方言(Tashliḥīt)を用いている。この場合に,正
則アラビア語には特に付記を行わないが,アラビア語モロッコ方言には[dr.],ベルベル語タシュ リヒート方言には[tsh.]と付記する。
られていること,その証左として一般の人に は不可能な奇蹟(karāma)を起こす能力を 有することなどによって定義づけられてきた
[大塚 1989: 79]。
実際のところ聖者は分析概念であり,現 地 の 民 俗 語 彙 で は ア ー リ ム( ālim, 伝 統 的宗教知識人),フキー(fqī[dr.],宗教教 師),スーフィー(ṣūfī,イスラーム神秘主 義者),シャリーフ(sharīf,預言者ムハン マドの末裔),ワリー(walī,神の近くにあ る者)などをはじめとした多様な人々が包 含 さ れ る[cf. Dermenghem 1982 (1954):
24–25; Doutté 1900: 27–52; al-Hāshimī &
Horiuchi 2001: 54–56; 堀 内 1991: 86–89]。
こうした聖者の多くはすでに死亡しており,
墓廟に埋葬されている。そしてモロッコには 全国各地に大小さまざまな規模の廟が多数存 在している。
既存の人類学的聖者信仰研究の多くは,イ スラームを神学的立場から捉えようとする視 点とは異なり,地域ごとに多様な展開を示す 社会的・歴史的現象の代表的事例として聖 者信仰を好んで取り上げてきた[Eickelman 1976: 1–13;el-Zein 1977; アイケルマン 1988:
244–245; 赤堀 2003: 192; 大塚 1989, 2000a;
鷹木 2000; 中村 1987]。いうなれば,聖者 信仰は「イスラームの民間信仰」ないしは
「民衆的なイスラーム」を代表する信仰現象 として捉えられてきたのである。そして既存 の研究は,墓廟を管理する聖者の末裔と参詣 客が織りなす社会関係や儀礼・行事,地方社 会における聖者の社会的・政治的機能,さら には聖者信仰に特徴的な宗教観や,聖者と 深い関わりをもつ精霊(jinn)などを主題と した緻密な研究を積み重ねてきた[Boubrik
; Brunel (); Crapanzano ; Depont et Coppolani ; Dermenghem
; Drague ; Drouin ; Elboudrari
; Ensel ; Hammoudi ; Levi- Provençal (); Morsy ; Pascon
; Pascon et Ennaji ; Westermarck
; クラパンザーノ 1991; 鷹木 1985, 1992, 2000a; 堀内 1983, 1985, 1989]。
以上のように要約されうるこれまでの研究 には,大きく三つの問題がある。
一つは,聖者信仰に直接関与しない一般の 人々の日常生活における聖者信仰の意義が明 らかにされてこなかったことである。なぜこ うした視点での研究がなされてこなかったの か。それはこれまでの研究においては,聖者 が埋葬された廟を聖者信仰の物的シンボルと みなし,廟を中心とした社会空間を研究対象 として設定してしまったからである。このた め廟に参詣しない一般の人びとの存在や動向 は,聖者信仰に対して明確な批判を有する人 など一部の例外を除き,等閑に付されてし まったのである。さらに,民間信仰研究の枠 組みでこれまで聖者信仰が捉えられてきたこ とも,こうした傾向を助長したといえる。「地 域共同体」と結びついたものとして聖者信仰 を捉え,聖者廟が存在する村落において聖者 と「恒常的」な関係を有する人については詳 細な研究が進められてきたものの,周辺に位 置し普段は聖者信仰に無関心な人びとにとっ てそれがいかなる意味を有しうるのかは,こ れまで検討されてこなかったのである。
第二の問題点として,既存の研究では,そ もそも聖者なるものの存在を重視するがゆえ に,聖者を一般のムスリムとは異なる存在と してアプリオリに捉え,聖者と一般民の連続 性を軽視してきた点が挙げられる。
第三の問題点は,イスラーム主義と聖者信 仰の関わりをめぐるものである。既存の研究 は,廟を中心としたローカルな文脈における 聖者信仰研究とは別に,1970年代以降ムス リム世界の各地で顕在化したイスラーム主義 が聖者信仰に批判的な見解を有していること にも,関心を寄せて来た[赤堀 2004, 2005, 2008; 大 塚 , a, b; Eickelman , ; Eickelman and Anderson ]。
イスラーム主義への着目を経由した聖者信仰 への関心は,マクロな社会的・政治的状況の
中に聖者信仰を位置づけて理解を深めようと する試みであるといえる。しかしながら,こ うした研究の多くは,聖者信仰がイスラーム 主義による批判にさらされていることや,イ スラーム主義の興隆下に趨勢としては「衰 退」の憂き目にあっていることを強調する一 方で,ミクロな次元から聖者信仰に批判的な ムスリムによって聖者信仰がどのように受容 されているのか,その実態の詳細な検討を等 閑に付してきた。
さらに,以上のような問題点が生起してく る背景として,そもそも聖者信仰を社会一般 から切り取れる宗教現象とみなし,一つの確 たる研究領域として設定してしまう研究者側 に固有の理由もある。
こうした問題点を受け,本稿では,日常的 には聖者信仰とはさほど縁がない生活を送っ ているベルベル人の一家のもとで行われたフ キーによる治療の様子を取り上げ,治療の最 中に聖者信仰をめぐる意識がいかにして立ち 現れてくるのかを検討する。この事例を取り 挙げる筆者の意図は,聖者信仰とは無縁のと ころで生活をしている人びとが聖者信仰に絡 めとられてしまう瞬間を捉えることにより,
廟中心主義的な聖者信仰観がもたらす固定的 な視点や,イスラーム主義と聖者信仰を対置 させることから生ずる聖者信仰の「本質化」
を批判し,相対化することにある。言い換え るならば,本稿は,対象を「属地的」に捉え ようとする「境界的思考」の限界を乗り越え るために,「属人的」な視点から聖者信仰を捉 え返し,新たな視点のもとに聖者信仰につい ての理解を得ようとする試みであるといえる。
ここで「本質化」という語について付言 しておこう。「本質化」という視点について は,何ごとにおいてもある一定の本質化をし なくては対象として把握し,表現をすること ができないという批判がなされるかもしれな い。しかしながら,ここで問題とされるべ き「本質化」ないしは「本質主義」は,人類 学者小田が述べるように「単に認識論の問題
や,民族誌を書くときの他者の表象だけの問 題ではない」[小田 1997: 810]。注意すべき なのは,そもそもヨーロッパ近代の影響下に 生起したイスラーム主義が,その趨勢におい て聖者信仰を批判対象としたり,あるいは近 代人類学が固有の研究対象として「聖者信 仰」を切り取ることが,「他者を固定的なカ テゴリーに押し込めることによって,一貫 した固定的な自己のアイデンティティを形 成するための《装置》(dispositif)」[小田 1997:
811]としての効果を果たしうる点である。
すなわち,ここで問題となるのは「近代の支 配のテクノロジーの問題」としての本質主義 なのである[小田 1997: 810]。
本稿は,このような限界を乗り越えために,
聖者信仰とイスラーム主義という二項対立的 な枠組みが解体されている生活の現場に着目 をするのである。
以下,第Ⅰ節では,イスラーム主義による 聖者信仰の本質化と研究対象としての聖者信 仰の切り取りがもたらす問題点を明らかにす る。第Ⅱ節では,聖者信仰を一般の人びとの 信仰生活の全体に位置づけたうえで,聖者概 念を再定義し,これまで聖者と一般民を断絶 していた認識を相対化する。第Ⅲ節では,あ るベルベル人の一家のもとで執り行われたフ キーによる治療儀礼の事例を取り上げ,その 考察を第Ⅳ節で行う。
Ⅰ 二種類のイスラームとその問題点
聖者信仰とイスラーム主義という二つのカ テゴリー間の関係を把握する上で参考になる のが社会人類学者大塚和夫による議論であ る。大塚は,ヨーロッパ列強による植民地支 配を一つの契機とした「近代」におけるイス ラームの特質を理解するために,英国の社会
人類学者E・ゲルナーの所論を援用して「P
的イスラーム」/「C的イスラーム」という 理論的枠組みを提起している[大塚 2000a:
241–255]。
ここでいう「P的イスラーム」は,厳格な 一神論,ピューリタニズム,聖典と読み書き 能力の強調,平等主義,霊的仲介者の欠如,
儀礼的放縦の制限,そして中庸と覚醒した態 度,情緒よりも規則遵守を強調する点などに よって特徴づけられる[大塚 2000a: 242]。
これに対して「C的イスラーム」は「現世・
来世におけるハイアラーキー志向,司祭・儀 礼的職能者・諸精霊の活動,知覚可能な象 徴・イメージへの宗教の具象化,儀礼・神秘 的行為の盛況,特定の個性への忠誠」などに よって特徴づけられる[ibid.]。大塚の見解 に従うならば,「P的イスラーム」は,18世 紀にアラビア半島で生起したワッハーブ運動 にまで遡れるイスラーム主義の特質を端的に 表している。アラビア半島を席巻したこの宗 教改革運動は,墓廟の参詣を伴った聖者信仰 を苛烈に批判したことで知られるが,彼らが 批判・否定した聖者信仰は,ワッハーブ運動 を嚆矢とするイスラーム主義が広範に普及す る以前の中世イスラーム社会に広く一般的に みられた信仰形態であった。このことからも 伺えるように,「P的イスラーム」と「C的 イスラーム」は単なる静態的なイスラームの 形態モデルではない。むしろそれは,大塚自 身が述べているように,「〈前近代〉と〈近代〉
におけるイスラームの形態の変化を説明する もの,すなわち「歴史的」モデル4 4 4 4 4 4 4 4
」(傍点筆者) なのである[大塚 2000a: 243]。
ところで,大塚は歴史的変化を把握するた めの分析モデルとして「P的イスラーム」と
「C的イスラーム」を提示しているのだが,
ここで注意を払うべきなのは,それぞれの類 型を組み立てる上で念頭におかれたイスラー ム主義と聖者信仰は必ずしも同一水準にある わけではないという点である。なぜなら,大 塚個人は,「P的イスラーム」と「C的イス ラーム」をあくまでも括弧つきで「歴史的モ デル」として設定したのだが,それらは17 世紀以降の「ムスリム世界」の現実を理解す るために提出されたモデルであり,かつ具体
的な歴史的現実を踏まえて考案された概念 であるという点において,実際に「P的イス ラーム」的傾向を有した人々―すなわち大 塚の言う「イスラーム主義者」の主義・主張 を色濃く反映したものとみることもできるか らである。
そこで,ここでは大塚によって提出された モデルを,両概念それぞれの思考を代表した ものとして捉え直したい。「P的イスラーム」
を「〈P的イスラーム〉的思考」―略して
「P的思考」―,「C的イスラーム」を「〈C 的イスラーム〉的思考」―略して「C的思 考」―と再定義する。
さて,「P的思考」に注目をしたならば,
そこには看過することのできない特徴が少な くとも二つある。
第一に,「P的思考」は,自社会が抱える 問題を浮き彫りにすべく社会内部を分割して 理解しようとする「意志」によって特徴づけ られる。18世紀という時代状況に着目する ならば,それは,西洋的な境界的思考を現地 の人が内在化させたものであったとも考えら れる[cf. 大塚 2009: 67-68]。
第二に,先ほども述べたように,分析概念 として「P的イスラーム」/「C的イスラー ム」という対立概念を設定することは,その 結果として,両概念があたかも同一水準に存 在する対立項であるかのような印象を読者に 与えることになる。しかしながら,「P的イ スラーム」を「P的思考」と置き換え,より 現実に引き寄せてみるならば,このような類 型化,差異化は,「P的思考」側から端を発 したものであり,それが翻って「C的思考」
側の人々によっても内面化されていった側面 が見えてくる[cf. アイケルマン 1988: 273]。
つまり,「P的イスラーム」と「C的イスラー ム」は分析カテゴリーとしては「等価」なも のとして設定をされているが,実際の局面に おいては非等価的なものである可能が高い。
分析概念としての「P的イスラーム」,「C的 イスラーム」は,このような非対称性,「P
的思考」側からの「C的思考」への「呼びか け」の権力性や暴力性を覆い隠してしまうの である2)。
いいかえるならば,近代・西欧の刻印を受 けたものとしての「P的思考」は,自他をめ ぐる差異を固定化し,「他者」としての「C 的思考」やその代表例としての聖者信仰を
「無知」,「ハラーム」,「呪術」など否定的な 価値を付与されたカテゴリーに分類し,批判 の対象へと貶める権力的機制を伴っていると いえる。
翻って研究の世界において「C的イスラー ム」(およびその代表例としての聖者信仰) として括り出された現象は,これまで厳格な 一神教というイメージで語られたり「原理主 義」と短絡的に結びつけて語られたりするイ スラーム像を相対化し,「多様なイスラーム」
のあり方を明示するための格好の事例として 選好され続けてきた[赤堀 2008: 203–209;
鷹木 2000a: 6; 大塚 1989; Crapanzano ; Dermenghem ; Doutté ; Eickelman
; Geertz ]。
聖者信仰に対する「P的思考」および研究 者の評価は相反するものとなっているのだ が,聖者信仰を肯定的に捉えるにせよ,否定 的に捉えるにせよ,両者は聖者信仰を一つの 対象として「本質化」して捉えるという姿勢 において通底している。つまり,聖者信仰は,
「呼びかけ」る者としてのイスラーム主義者 と研究者から二重に「本質化」されてきたの である。
このような聖者信仰を語るに足る特殊な主 題として切り取る境界的発想には,二つの問 題点がある。
第一に,フィールドにおける現実が覆い隠 されてしまうという問題が挙げられる。たし かに,イスラーム主義者の立場からするなら ば,聖者信仰は批判すべき対象となり,翻っ
て聖者信仰を率先して実践している人の立場 から見ても,両者の差異が意識化されている 側面は現実にあるであろう[アイケルマン 1988: 273]。しかしながら,両者による差異化 を徒に強調することは,現実を偏った見方で 認識することにつながると考えられる。たと えば両者の差異を「本質化」する視点に立つ ならば,聖者信仰を忌避する人が,生涯にわ たって聖者信仰を忌避しつづけるかのような 印象が与えられるであろうが,現実の生活の 場においては,聖者信仰を忌避する者が状況 に応じて聖者信仰へと向かうこともある。そ うした現実の複雑な状況は決して看過される べきではない。それにもかかわらず,聖者信 仰の「本質化」は,それが肯定的評価に由来 するものであれ,否定的評価に由来するもの であれ,生活の現場における人々の「C的思 考」と「P的思考」の間を行き交う「ゆらぎ」
を後景に退かせてしまう可能性を帯びている。
第二に,既存の研究において聖者信仰は研 究対象としてアプリオリに「本質化」されて きたため,生活の中における聖者信仰の位置 づけはこれまでの趨勢において問われること はなかった。つまり聖者信仰はあくまでも廟 参詣などに訪れる人々と聖者の末裔が織りな す社会的な「小宇宙」の中でのみ描かれ続け,
その「小宇宙」の外にいる人々にとって,聖 者信仰が一体どういう意味を持ちうるのかが 問われることはなかったのである。
以上のような問題を踏まえて検討されてし かるべきなのは,たとえば聖者信仰とイス ラーム主義を相互に排他的な概念として捉え る分類そのものが無効となる生活の現場にお いて聖者が占める位置である。本稿はこの点 を明らかにすることを主眼としているのだ が,そのための準備作業として,次節におい ては「信仰生活の全体図」に聖者を位置づけ 直してゆく。
2) もっとも,このことは分析概念としての「P的イスラーム/C的イスラーム」モデルの有効性を否 定するものではない。
Ⅱ 信仰生活の全体図の中の聖者
そもそも人が廟に参詣し,祈願をする主要 な理由を簡潔にまとめるならば,それは,自 分や関係者の生涯に問題があると考え,その 解決と円満な人生を送るのを願ってのことで あろう。だとするならば,聖者の社会的位置 づけを見定めるうえで参考になるのは,生活 を営んでいく上で問題が生じた際に,いかな る人の助けを借りて問題解決が図られている のかという点である。
以上の様な見解に基づいて,以下,社会・
宗教生活において問題が生じた場合に,解決 の助けとなる人々を列挙してみよう。
1 信仰生活の全体図
人が生活を送る際には様々な問題が発生す る。自力で解決できればよいが,他者の助け を借りなくてはならないことも往々にしてあ る。さらに他者の助けを必要とする問題は無 数にあり,なおかつ人によっても偏差がある。
そうした中で筆者が現地で見聞した代表的な 問題に限っていうならば,(1)仕事,(2)結 婚,(3)出産,(4)養育,(5)教育,(6)健康,
(7)もめごとの調整,(8)近所付き合い,(9) 葬儀に代表される社会関係などが挙げられ る。後述する治療儀礼に関わった家族そして 彼らの親族などがこれらの問題を解決するた めに関わりを持ってくる人びとについてリス トアップしてみると,それは以下のようなも のである。
(1)出産:医師や助産婦,看護婦,親族の女 性。
(2)養育:家族や親族,友人,知人。
(3)教 育:「寺 子 屋」(kuttāb)で 教 え る フ キー,初等教育から中等教育を担う教師,大 学教員,都市部においては塾の教師,伝統的 イスラーム学校で教育を受ける場合には,フ キーやアーリム。
(4)仕事:家族,親族,パトロン,雇われ人,
仕入先,弁護士,代書屋
(5)結婚:家族,親族,公証人,代書屋,役 人
(6)健康:医師,薬剤師,香料商
(7)も め 事 の 調 整: 隣 人, 知 人, 街 区 代 表(mqaddm[dr.]), 村 落 代 表(mqaddm
[dr.]),部族長,役人,弁護士
(8)近所付き合い:近隣住民,街区代表,村 落代表,部族長,役人,弁護士
(9)葬儀:役人,導師,墓守,フキー,家族,
親族,友人,知人
以上が問題解決に関わる主だった人物群で ある。ここであらかじめ確認をしておきたい のは,これらの助力者は問題が顕在化してか ら必要とされ,当事者と関係を有することに なる点である。つまり,当事者は助力者と恒 常的な関係を有する訳ではなく,あくまでも 当事者が抱える問題に従って状況的,一時的 に関係を構築するのであり,問題解決後には 当事者の生活の中でこれらの助力者は後景に 退いてしまう。
この点を確認した上で,次に聖者が助力者 の間にどのように位置づけられるのかを検討 する。
通常,人が聖者のもとを訪れるのは,病気 治療,子授け,良縁,就職,学業成就,家族 や親族をはじめとした人々の安全,商売繁盛,
招福などを願ってのことである。
これらの中でも病気治療,子授けなどは,
すでに複数の病院などにかかりつけて効力が ない場合に,最終的に聖者のもとを訪れるこ とが多い。それに対して,良縁や就職,学業 成就,家内安全,商売繁盛,招福などは,未 来に対する漠然として希望を伴ったものであ り,参詣時に参詣者の生活を現実的に脅かし ている問題ではない。参詣目的には,大まか に以上のような差異が存在するものの,両者 はいずれも祈願という形態をとる点が,助力 者一般とは異なる側面として指摘できよう。
つまり,聖者と医師たちは,第一に,当事 者の問題を解決する助力者として同列の水準
に位置づけられる。言い換えるならば,聖者 は当事者の生活上の関心に従って当事者側か ら関係を構築する対象に過ぎないのであり,
その関係は一般の助力者と同様,暫定的,状 況的なものとならざるを得ない。
ただし,第二に,両者の間には際立った差 異が一点存在する。それは,聖者との関わり においては祈願がなされるという点からも伺 えるように,一般的な助力者として病気治療 などに携わった医師たちとは異なり,聖者と 目される人物は神と人を媒介する役割を担う 点である。
この指摘は,一見すると,「信仰の分節点 としての聖者」という表現を用いて現象界 と不可視界を媒介する存在として聖者を把 握した赤堀の指摘と重なるものである[赤 堀 1996]。しかしながら,筆者の議論と赤堀 のそれとの間で異なるのは,まず何よりも聖 者が生活の中で要請される助力者の一員に過 ぎず,医師や薬剤師などと同様,必要な時に だけ前景化する存在であるという点に筆者が 着目をしていることである。聖者が生活の中 で状況的に主題化され,前景化するという指 摘は,聖者信仰を「本質化」して捉えようと する視点を退ける。つまり,かりにイスラー ム主義者が聖者信仰を批判し,そして廟参詣 を忌避する人が一見すると増えているように 見えつつも,なぜ聖者信仰が人々の生活の中 に息づいているのか,という疑問に対する一 定の回答を,この視点は提起してくれるので ある。
それでは,人びとの生活一般にみられる助 力者との連続性を有しつつ,なおかつ神との 媒介者という特殊性を帯びた聖者には,具体 的にどのような人びとが含まれるのであろ うか。
2 多様な媒介者
本稿の冒頭で記したように,そもそも聖者 は分析概念である。この概念には,現地の用 語でシャリーフ,シャイフ,アーリム,フキー,
ワリー,スィディなどといった多様な呼称で 知られる人々が含まれる[cf. Dermenghem (): –; Doutté : –;
al-Hāshimī & Horiuchi : –; 堀 内 1991: 86–89]。本節の目的の一つは聖者の定 義を再検討に付すことにあるが,この目的を 達成するためには,まず個々の媒介者の特性 を把握しておく必要があろう。以下,シャリー フ,シャイフ,アーリム,フキー,ワリー,スィ ディについてその概要を記し,これらの媒介 者の特性を検討に付す。
(1)シャリーフ:預言者ムハンマドの末裔に 対する尊称である。
(2)シャイフ(shaykh):元来シャイフとは,
長老を意味する用語であり,部族長など のこともシャイフと呼ばれる。しかしな がら,本稿との関連で重要なのはスー フィー教団の長としてのシャイフであ る。彼らは,修行や師からの聖性の伝達 を通じて「秘儀的知識」(ma‘arifa)を 獲得したと考えられている。
(3)ア ー リ ム:「知 識(‘ilm)を 有 す る 者」
を意味する。ここでいう知識は,しばし ば先の秘儀的知識と対置させられて宗教 諸学をめぐる知識を指すものと捉えられ る[鷹木 2000b]。かりにスーフィーの 有する知識を秘儀的知識とするならば,
アーリムが保有する知識は,顕示的知識 と捉えることが可能である。宗教諸学の 継承・伝達という性格上,アーリムは伝 統的なイスラーム学校(madrasa)と深 く関わった存在でもある。
(4)フキー:正則アラビア語における「ファ キーフ」(faqīh)のアラビア語モロッコ 方言である。一般にファキーフは,「イ ス ラ ー ム 法 学」 す な わ ち「フ ィ ク フ」
(fi qh)に通じていることからイスラー ム法学者という訳語が与えられる。しか しながら,モロッコ方言におけるフキー はイスラーム法学に精通しているという
側面のみならず,村落や都市部における モスクを預かったり,「寺子屋」(クッ ターブ)で子供達に正則アラビア語やク ルアーンの手ほどきを教える「宗教教 師」としての役割もあわせもつ。さらに フキーは,住民の希望に応じて護符の作 成や代書をするほか,葬儀に際してのク ルアーン読誦者,薬草などに関する知識 を背景とした病の治療や助言も行うな ど,多面的な役割を果たす。なお,本稿 冒頭で「宗教教師」という訳語をフキー に与えたのは,モロッコの文脈における 用法を重視したためである。
(5)ワリー:正確には「ワリー・アッラー」
(walī allāh,神の友)という。クルアー ン,ハディースを典拠として,イスラー ム学の伝統において聖者に該当する語 として長らく用いられて来た用語であ る。東長によれば,イスラーム学の文脈 においてワリーは「信仰心と神への畏れ をもち,つねに神を想起する人」と説明 される[東長 2008: 18]。そこには神秘 的な要素は含まれておらず,むしろ「敬 虔主義の発露」という側面が見出される
[ibid.]。その一方で,スンナ派の神学 論においてワリーが奇蹟を行うことは自 明視されている[東長 2008: 19]。
他方で,現象面に注目をするならば,
廟に埋葬された人物を形容する際に,
もっとも頻繁に用いられるのがこのワ リーである。しかしながら,少なくとも 現地滞在中に筆者が得た印象では存命中 の人物に対してワリーという呼称を用い ることは一部の例外を除き,きわめて稀 であった。なお,ワリーと呼ばれる人に は先のシャリーフ,シャイフ,一般のスー フィー,フキー,アーリムのいずれもが
含まれうる。
(6)スィディ(sīdī[dr.]):正則アラビア語 において「主人」を意味する「サイイド」
に「私の」を意味する人称代名詞非分離 形が付加された連結語「サイイディー」
(sayyidī,私の主人)が語源となり,そ れがアラビア語モロッコ方言の発音に馴 化したものである。日常会話においては 一般的な尊称として用いられる。しかし ながら,ワリーと並んで廟に埋葬された 人物を形容する際にもっとも広範に用い られる用語もまたスィディである。
注目すべきなのは,ワリーがイスラー ム学に根拠を有し,「敬虔主義の発露」
といった側面を有しているのに対して,
スィディはイスラーム学において多年に わたって議論をされてきた専門的な用語 ではなく,信仰心や敬虔さとも必ずしも 結びつかない用語であるということであ る。むしろこの呼称によって表明される のは当該人物に対する人々の敬意のみで あり,具体的な意味内容は空白であると 言ってさえよい3)。
以上のように媒介者としての聖者には,シャ リーフ,シャイフ,アーリム,フキー,ワリー,
サイイドなど多様な属性をもった人々が含ま れる。次に,これらの人物群の特徴を相互関 係に注意しながら明らかにしてゆこう。
特徴の第一点目として,シャリーフは血統 を通じて生得的にその地位を得るのに対して,
シャイフ,アーリム,フキーなどの社会的地 位は獲得的なものである点が際立っている。
第二に,シャイフ,アーリム,フキーの三 者の地位は獲得的であるという点において共 通しているが,シャイフのそれは「秘儀的知 識」の獲得,アーリムとフキーは「顕示的知
3) サイイド/スィディは,シャリーフを指す用語としても知られているが[cf. 森本 2005],少なく ともモロッコにおいてはシャリーフのみが排他的にこの尊称を用いている訳では決してない。つま り,シャリーフとしてのサイイドは,特殊な用法であるのに対して,一般的な用法はあくまでも尊 称としてのサイイドなのである。
識」の獲得を特徴としているという違いが ある。
第三に,イスラーム学の文脈においては
「信仰心と神への畏れをもち,つねに神を想 起する人」として定義されるワリーは,この 三者のいずれをも含むことができる,より広 範な概念であるといえる。事実,歴史的にワ リーとみなされてきた人々の中には,預言者 ムハンマドの末裔(シャリーフ),ウラマー,
スーフィーが多数含まれている。
ただし,シャリーフ,ウラマー,フキーは 存命中の人物に対しても,死者に対しても用 いられるのに対して,ワリーという用語が存 命中の人物に対して用いられる例は,筆者の 知る限りでは,モロッコにおいては稀である。
これが第四点目の特徴である。
第五に,血統を基準としているシャリーフ は特定の場との結びつきがないのだが,シャ イフはザーウィヤ,アーリムとフキーは教育 機関(マドラサ,クッターブ)と深く結びつ いている。これに対して,先に記したように すでに死亡していることが多いワリーは,廟 との結びつきがより明確である。もっとも存 命中にすでにワリーとみなされている人物も ごく少数だが存在する。彼らの場合,アーリ ムやシャイフのように特定の場との明確な結 びつきがある訳ではなく,個々のワリーごと に場との結びつき方は異なる。なお,シャリー フにせよ,シャイフ,アーリム,フキーにせ よ,すでに死亡している場合には彼らにも廟 が建設をされている例は枚挙に暇がない。
第六に,ワリーという語がシャリーフ,シャ イフ,ウラマー,フキーを包含しうる広範な 概念でありつつも,イスラーム学的な根拠を 有しているがゆえに,「信仰心」と「神への 恐れ」という定義条件を外すことができない のに対して,スィディは,そのような定義条 件に該当しない人々をも聖者へと含み込むこ とを可能にする,より包括的な概念であると いえる。
この点を踏まえたうえで着目すべき点とし
て浮かび上がってくるのは,イスラーム学的 な根拠が必ずしもないようにみえるスィディ 概念のあり方であろう。すでに記したように スィディにおいては,信仰心,敬虔主義が必 ずしも求められてはいなかった。さらに言う ならば,イスラーム神学の議論においてワ リーは奇蹟と結びつけられて議論をされてき たが,スィディは,そのような神学的奇蹟論 の後ろ盾を必ずしも有していない。このよう にスィディは,イスラーム学的見地から十分 に理論化されていないのにもかかわらず,一 般の人々からは参詣の対象を指す用語として 長らく用いられてきたのである。
ここで注意を払っておくべきなのは,スィ ディが,シャリーフ,シャイフ,アーリム,
フキー,ワリーなどなんらかの形でイスラー ム学と関連づけられる人々を包含しうる用語 であるという点である。つまり,スィディは 必ずしもイスラーム学に明確な理論的根拠を 有さないとしても,イスラーム的理解から完 全に切り離された概念では全くない。むし ろ,イスラーム学との多様な結びつきを基盤 としながら,イスラーム学に根拠を持ち得な い人々―霊媒や国家的英雄,あるいは異人 など―をも取り込む柔軟な概念としてスィ ディはあるといえよう。
ムスリムの側からするならば,聖者がイス ラーム的根拠を有するのは半ば自明のことで あり,むしろ問題となるのは,自分たちが抱 えている問題を果たして彼/彼女が解決して くれるのかどうかであろう。そうであるから こそ,ムスリムの中でも宗教的知識や秘儀的 知識に通じているアーリムやシャイフ,ある いはシャリーフなどを核に据えつつも,イス ラームとは直接関係のない人をも包含できる スィディ概念が,神との媒介者としての聖者 を指す概念として選好されているのであろ う。この点に留意しながら,次に,聖者概念 を再検討してゆく。
3 聖者概念の再検討
聖者をめぐってはこれまでにも複数の研究 者によって定義がなされてきた。たとえば大 塚は,聖者を「アッラーから特別な祝福の力
(バラカ)を授けられ,そのため常人には不 可能な奇蹟(カラーマ)を行いうる(と民衆 に信じられている)人物」と定義したうえで,
「民衆は彼の奇蹟をひきおこしうる神秘力に 救いを求めて聖廟に参詣するのである」と述 べている[大塚 1989: 79]。またスーフィズ ム研究の第一人者である東長は聖者を「理想 的人格を具現し,超越的真実在に起因する特 別な力によって,人々に恩恵を与えると信じ られる人物」と定義している[東長 2008: 16]。
両者の定義には若干の異同がみられるが,
その最大の相違は,後者が聖者を「理想的人 格を具現」するものと捉えているのに対して 前者はそうではない点,翻って前者が「奇蹟」
の実践を強調しているのに対して後者はそう ではない点である。
以上のような差異に留意しつつ,両定義の 構成要件を抽出してみよう。それは,(1)「理 想的人格」の体現,(2)神による「祝福」の 授与,(3)その証左としての「奇蹟」,(4)人々 への「恩恵」の授与という4つの要素である。
それらの中で骨子となるのは,神と人の 媒介者としての側面(「神から祝福を与えら れ」,「人々に恩恵を与えると信じられてい る」)であり,(1)「理想的人格」,および(3)
「奇蹟」は,媒介者としての聖者の地位を保 証するいわば「補助的」な論拠とみなせよう。
以下,この「理想的人格」と「奇蹟」を検討 に付す。
第一に,「理想的人格」について検討を進 めてゆく上で参考になるのが,東長による聖 者の分類である。東長は聖者の具体的な内訳 として(a)タリーカの祖やスーフィー,(b) 預言者の血筋を引く人びと,(c)預言者の教 友や偉大な学者,歴史上の偉人といった,何
らかの意味でイスラーム史上,偉人と考えら れる人びと,(d)イスラーム以前の預言者,
(e)狂人や異教徒の聖者,古代信仰や昔の英 雄など,イスラームの通常の価値観から逸脱 する人びとを挙げている[東長 2008: 31]。
この説明からするならば,聖者にはイスラー ム的な文脈に位置づけられる人物群(a–d) が存在することとあわせて,イスラーム的な 文脈に位置づけることが困難な人々までもが 含みこまれていることが明らかである4)。す でに既存の研究はこうした人々の存在に着目 をし,時には聖者が理想的ですらなく,ど この馬の骨とも分からない人物や,非イス ラーム的ともいえる人物が参詣の対象となる 場合さえあることを明らかにしてきた[赤 堀 1996; 堀内 1999]。「民衆的」な信仰現象 として聖者を捉えようとするなら,このイス ラーム的観点から説明ができない第五の人物 群,すなわち(e)のような必ずしも「理想 的人格」を体現していない人々が,一般人に よる参詣の対象となりうる点が重要な意味を 持ってこよう。つまり,教義における聖者論 とは別に,社会的次元における参詣対象とし ての聖者は,必ずしも理想的人格でなくても よいということをこのe群の人々の存在は示 唆し,先の聖者をめぐる定義を掘り崩すので ある。
次に,奇蹟を取り上げる。東長は奇蹟をあ えて定義条件に組みこんでいないが,その背 景には,スンナ派神学の教義において奇蹟が 広く承認されてきたという認識がある[東長 2008: 19]。しかしながら,「民衆にとって奇 蹟を起こしてくれる存在はすべて,出自など を問うことなく,聖者として尊崇されていた といってよいであろう」と述べていることか らも伺えるように,定義に際して奇蹟につい て言及していないとしても,奇蹟が度外視さ れている訳では決してない[東長 2008: 31]。
実際のところ,大塚が奇蹟を聖者の定義条 4) ただし,東長は,(5)に区分される人びとについて「聖者伝などに記録される際には,イスラーム 的に価値のある人物・事象に関係づけて語られることが多かった」と述べている[東長 2008: 32]。
件として重視したのと同様に,奇蹟はこれま で多くの研究者によって注目をされて来た現 象である[Geertz 1968; Gellner 1969; 私市 1996, 2005]。ただし,奇蹟が重要になって くるのは,あくまでも当該人物が神に祝福を 与えられていることの証左としてである。奇 蹟は,聖者を他の一般のムスリムと差異化し,
際立たせるための条件としてはじめて意義を 有するといえる。
この点からするならば,重要なのは,なぜ 特定の人びとが奇蹟を有すると信じられなけ ればならなかったのかであろう。そして,そ の回答の一端は,大塚や東長がすでに指摘し ているように,民衆が「奇蹟をひきおこしう る神秘力に救いを求めて」のことであったり
[大塚 1989: 79],あるいは聖者が「人々に恩 恵を与える」と信じられてのことであろう
[東長 2008: 16]。
しかしながら,こうした視点には若干の注 意が必要となる。第一に,「恩恵」(バラカ) についてであるが,バラカは聖者が排他的,
独占的に保有し,人に授与するものでは必ず しもない。筆者が現地で聞いた例では,たと えば大学での学期末試験で良い成績をおさめ た学生を見かけた他学生が,「あなたのバラ カをください」(‘āṭinī barakat-k[dr.])と 述べることがある[斎藤 2010: 24, 29]。つ まり,バラカの伝達は,聖者ではない一般の ムスリムにも可能な現象なのである。この点 からすると祝福の授与は,聖者を一般のムス リムと分かつ決定的な要因とはならないこと が伺える。あくまでも両者の差異は相対的な ものに過ぎないのである。
第二に,民衆側からの対応として描き出さ れているのが,「神秘力」への「救い」とさ れている点である。すでに第1項で検討した ように,人びとが廟参詣をする背景にあるの は,彼らが抱える様々な問題の解決である。
そして彼らは,個別の問題に対する具体的な 解決を願って,廟において祈願をする。だと するならば,重要なのは,単なる「神秘力」
の与え手ではなく,参詣者が抱える問題を解 決すべく実施する祈願に対して何らかの効果 を有するか否かであろう。こうした理解を踏 まえて,次節では,祈願を主軸として聖者概 念の再定義を行ってゆく。
4 祈願と聖者
よく知られているように祈願は,礼拝と並 んで人々が日常的に行う代表的な宗教的行為 の一つであり,それは何も廟に限られた特殊 なものではない。そもそも日常的に人々が行 う祈願は,所作としては両手の手の平を上に 向けて両前腕を体の前に水平に差し出した り,あるいは両手の手の平を顔の前に持って 来て行われることが多い。この種の祈願は,
礼拝のようにその実施に際して特殊な儀礼的 手続きが必要とされる訳でもないため,礼拝 の前後のみならず,共食の後,あるいは個人 的に任意の時間に行われることが多い。
ところが既存の聖者信仰研究の多くは,廟 参詣には遺体を埋葬した場所の上に置かれて いる箱などへの参詣客の接吻や,願掛けに際 してなされる供物の提供,願掛けをしたこと の証しとして廟の窓などに錠前や布切れを残 していくこと,祈願成就に際して実施される 供儀の実施など特殊な行為が付随することを 論拠の一つとして,日常的な祈願と廟参詣に おける祈願を区別し,とくに廟参詣における 祈願に注目をして研究を進めて来た。しかし,
廟参詣における祈願と一般的な祈願の線引き はさほど簡単なものでもない。その理由とし てはさしあたり,以下の三点が挙げられる。
第一の論拠は,日常生活における祈願が実 際のところ,必ずしも個人で行われなくても 良いという点に関わる。先に祈願は個人的に 行うことが多いと記したが,実際には人の助 けを借りて行われることもしばしばある。そ の端的な例として挙げられるのが人の家に招 待された際の共食である。筆者が調査に従事 してきたベルベル系シュルーフは,イスラー ムにおける宗教上の大祭である「犠牲祭」や
「断食明けの祭り」をはじめとした様々な機 会を捉えて客を招き,食事でもてなすことが 多い。そうした折に,招かれた客人は共食終 了後,皆で祈願をする。通常,祈願をする者 は客の中の一人がつとめ,他の会衆は祈願者 の祈りに「アーミーン」5)と唱和をする。こ のような祈りを共同で行う姿勢は,聖者によ る祈願の「仲介」を願う人々の姿勢と通底す るものであろう。
第二に,共同での祈願が,個人で行う祈願 以上に効果的であるとみなされる背景には,
「応えられる祈願」(du‘ā mustajāb)という 観念の広範な受容がある。神に祈願をするう えで重要なのは,言うまでもなく自分の祈願 が聞き届けられることである。しかしなが ら,祈願が聞き届けられるか否かはあくまで も神の裁量に委ねられているのであり,自分 の祈願が聞き届けられるという保証は必ずし もない。ところが,少なくともシュルーフは,
礼拝やその他の宗教的規範を遵守する篤信者 が神に祈願をした場合に,一般の人以上にそ の願いが聞き届けられるという考えを根強く 持っている。そして,そのような人物に一緒 に祈願をしてもらうことによって自分の祈願 が神に聞き届けられる保証が高まると考えら れているのである。
ただし,原理的には誰が「祈りに応えても らえる人」なのかは分からないため,何か重 要な祈願内容がある際には,出来る限り多く の人に祈願をしてもらった方が良いとも考え られている。そうした機会の一つが先の共食 なのである。なお,こうした人物が聖者とみ なされることもあるが,そうでない場合もし ばしばある。こうした「祈りに応えてもらえ る人」の存在は,聖者と一般人の境界がさほ ど明瞭なものではなく,むしろ聖者は一般人 の「祈りに応えてもらえる人」の延長にある 存在として捉えられることを示唆してもい よう。
第三点目として,廟参詣における儀礼的行 為は,先に記したように聖者信仰に特殊なも のとみなされて来た。しかしながら,モスク と廟にみられる空間的特徴の差異,両者にお ける儀礼的行為の差異に着目して堀内が論じ たように,廟参詣は,モスクに特徴的にみら れる儀礼的所作の欠如によって特徴づけられ る。そこでの行為はむしろ,一般の世帯への 客人としての訪問との連関において理解され るべきものである[堀内 1999: 344–346]。
筆者自身の経験もこうした理解を傍証する ものである。現地滞在中,筆者はある聖者祭 を見るために,モロッコ南西部スース地方に あるタアッラートという村を訪れたことがあ る。スース地方各地にあるマドラサのアーリ ム,フキー,そしてトルバ(学生)が参加を するこのムーセムで筆者は,スース地方内の インズッガーンという場所にあるマドラサか らやって来た人たちのもとで寝泊まりをして いた。日中,フキーを尋ねて一般の人びとが 三々五々やってくるのだが,彼らはフキーの いる部屋に入り込むのにあたってまず靴を脱 ぎ,そしてフキーの手に接吻をし,それから 頭,肩にも接吻をした上で傍らに座って,祈 願を懇請する。願いの内容を聞いたフキーは,
先に記したように手のひらを上向けにして体 の前に差し出し,祈願を開始する。祈願を願 い出た客人も同じように両手を体の前に差し 出して,フキーの祈願の合間合間にアーミー ンと唱和を入れる。部屋に同座していた学生 や他の客人も同じ様な身体行動をとりつつ,
一緒にアーミーンと唱和をしていた。そし て,祈願が終わると客は右手に謝礼を握り込 んで同席者に見えないようにしながらフキー に渡すのである。こうした行動は,廟参詣に おいて,靴を脱ぎ,箱に接吻をし,箱の傍ら に座って祈願をし,いくばくかの供物として 小銭を廟に備えられた賽銭箱に入れたりした 上で,廟をあとにする参詣客の様子と酷似し 5)「アーメン」のアラビア語。
ている。つまり,廟における参詣行動は,必 ずしも廟に特殊なものではなく,存命中のフ キーなどに祈願を頼む際にも行われている一 般的な行動ともある程度重なるものとみなせ るであろう。
以上のような点からするならば,聖者と一 般の祈願者の間には絶対的な差異は存在せ ず,むしろ両者は連続性のうちに捉えられう ることが示唆されよう。それでは,この点を 受けて,どのように聖者を再定義したらよい のであろうか。筆者は,現時点では,「祈願 の効力があると信じられている人物」という 最小限の定義を聖者に与えるのが良いと考え ている。もちろん,彼/彼女は,ムスリムで あったり,あるいは理想的人格を体現してい る方が望ましいが,そうである必要は必ずし もなく,さらには奇蹟や恩恵も当然のことな がらそれを行うことが出来たり,有している 方が良いのであるが,それらがないと聖者と は見なされないということでも必ずしもな い。「祈願の効力があると信じられている人 物」という定義はこれらの諸点を否定するも のではない。しかしながら,この新たな定義 は,それらの諸点がなくては聖者とはみなせ ないという見解を退けるものであるのと同時 に,聖者と一般民を差異化しようとする姿勢 よりは,むしろ両者の連続性に重点をおいた ものである。聖者をめぐるこの新たな定義を 得たうえで,フキーによる治療の事例を検討 してゆこう。
Ⅲ フキーによる治療
2006年8月下旬に筆者は,2週間ほど首
都ラバト市内の「旧市街」(メディナ)にあ るベルベル人H(2006年当時,69歳[推定]) の自宅に滞在していた。この渡航は,それま でのモロッコ滞在でもっとも親しくしていた Hが7月初旬に突如倒れたと伝え聞いたこ とによって実施したものである6)。7月初旬 の段階ではHが倒れた理由は不明とされて いたが,ラバト市内にある近代的な医療設備 を備えたいくつかの病院でのレントゲン撮影 やCTスキャン,投薬を伴った診察,入退院 を繰り返す過程で,糖尿病,脳血栓などが併 発したものであることが明らかになった。筆 者のモロッコ到着時点では,Hはインシュ リン注射や複数の錠剤を併用して自宅で療養 を続けていた。
後にみるようにH自身は青・壮年期に廟 参詣を頻繁に行っていたほか,出身部族の間 で聖者としても著名なアーリムがラバトを訪 問した際には自宅に迎え入れ饗応するなど,
聖者信仰と深い関わりを有した半生を過ごし て来た。しかしながら,Hは子供達が成長す るにつれて,フキーや民間療法に携わる人物 のもとでの病気治療や,観光をかねての廟参 詣を継続しつつも,少なくとも明確な願いを 伴った現世利益の獲得のために廟参詣を積極 的に行うことは控えるようになってきている。
また,妻のFもHと結婚後,Hとともに 廟参詣を行っていたものの,出産後,次第に 廟参詣に赴くことを控えるようになり,現在 では廟参詣を行わなくなっている。さらに ラバト市内において学校教育を受けて来た4 人の子供達も廟参詣をイスラーム的に「非合 法」(ḥarām)であるとして忌避する傾向を 有している7)。
6) 筆者がHおよびHの家族との日常的な付き合いを持つようになったのは,1999年夏以降のこと である。
7) モロッコではとくに預言者ムハンマドが存命していた頃の初期イスラーム共同体のあり方を社会の 模範として仰ぎ,当時実施されていた宗教的規範を厳格に遵守することを通じた社会的・政治的改 革の達成を希求する「イスラーム主義」の担い手に対して「同胞者」(ikhwānī)という呼称が用 いられ,一般のムスリムと差異化をされることがある。Hの家族のメンバーの中にはこうした「イ ホワーニー」と深く関係している者は一人もいなかった。彼らはそうした政治的に先鋭化しうる運 動よりもむしろ,より穏健な宗教回帰の動きを示すイスラーム復興の潮流の影響下に聖者信仰をハ ラーム,あるいは「無知」(jahl)として忌避する傾向を有しているものと考えられる。
このように家族の中で聖者信仰を忌避する 傾向があるのにも関わらず,西洋流の治療が 芳しい効果を現さず病状が悪化したことに強 い不安を感じたHは,フキーの治療を受け ることを強く希望した。これを受けて2006 年8月23日(水)にフキーがHの自宅8)に 招かれ,治療儀礼が行われた。
以下,最初にHの生い立ちやそれまでの 廟参詣についての概略など,治療現場に関す る資料を提示するための背景について紹介 し,その後治療現場の様子について記述を進 めていく。
1 Hの生い立ちと廟参詣
モロッコのベルベル人は,モロッコの総人 口2,600万人(概算,1994年)のうち40%–
60%を占めると推定され,使用方言に従い 三グループに区分される。その中の一つであ るシュルーフと呼ばれる人びとはタシュリ ヒート(tashliḥīt[ta.])を母語とし,モロッ コ南西部に位置するオート・アトラス山脈西 部,アンティ・アトラス山脈と両山脈に囲ま れた平野を含んだスース地方9)などを故郷と する。
シュルーフは多数の「部族」を下位区分と して包含するが,その中でもH(1937年生 まれ)は,スース地方の東部,タルーダント 南方を故郷とするインドゥッザルという部族 の出身である。幼くして両親を疫病で失っ たHは,残された兄の指示のもと,故郷で 羊牧などにしばし従事していたがそれに飽き 足らず,村落内の伝手を辿ってラバト市に出 稼ぎに赴き,大衆食堂での給仕として働きは じめた。その後,ラバト市に店舗を購入し,
これをその時々の経済状況にあわせて大衆食 堂,家具販売店,生地販売店などとして利用
し,経営をしてきている。
こうした経歴からもうかがえるように,フ ランスによる植民地支配(1912年–1956年) の直中にあってスース地方の一山村に生を得 たHは,村落にあるクッターブやスース地 方の各地に存在する伝統的イスラーム学校な どで教育を受けることも,また当時都市部で ごく限定的に開始されていたフランス型のエ リート養成校や,これに対抗すべくナショナ リストが建設をした自由学校などに通うこと もなく,教育とは迂遠の生活環境にあった。
スース地方に当時居住していたシュルーフの 全てがこれらの学校教育と無関係であったと いうことは無論ないのだが,少なくともH の場合,飢饉とそれに伴う相次ぐ両親の死,
家計を助けるために幼少の頃から仕事に従事 せざるを得ない生育環境にあったことも手 伝って,彼はその後も学校における教育とは 疎遠な生活を送って来た。結果として彼は,
商取引において欠かせない自署の筆記を除い て,現在に至るまで識字能力を有していない。
この点においてHは,聖者信仰研究がしば しば対象として来た文字の読み書き能力を有 さない「民衆」像に対応する人物であるとい える。
Hは,26歳の時に隣村出身の女性と結婚 し,その数年後には彼女をラバトに呼び寄せ ている。シュルーフの間では,結婚後一年か ら遅くとも数年のうちに子供を出産すること が通常期待されており,親族や知人,同郷者 の間でも,新婚者の妊娠・出産をめぐる動向 は噂になる。また,なんらかの問題があって 妊娠ができない場合には,離婚あるいは複婚 へと至る場合もしばしばある。こうした妊娠,
出産をめぐる社会的圧力がある中,Hとそ の妻Fは,およそ13年にわたって子供に恵 8) Hの自宅は,ラバト市の旧市街にある。同市内の空間分割をめぐる人々の認識において富裕層の 住む地区と庶民が多く住む地区は明確に区分されているが,その中でも旧市街は,庶民が住む地域 として捉えられている[cf. Abu-Lughod ]。
9) 同地方は,行政的にはアガディール州(Wilāya Agādīr),タルーダント県(‘Amāla Tārūdānt), タタ県(‘AmālaṬāṭā),ティズニート県(‘Amāla Tīznīt)などからなり,地理的には北部のオート・
アトラス山脈,南部から東部に広がるアンティ・アトラス山脈,西部に控える大西洋で囲まれている。
まれなかった。
妻の不妊という問題に直面したHが取っ た対応策の一つは,ラバト市内にある病院に 通うのと同時に,各地の聖者廟に参詣し,子 授けを願うというものであった。Hは,出 身地において著名なスィディ・ムハンマド・
ベン・アトマーン廟や,あるいは同じくイン ドゥッザルの故郷にある他の廟への参詣,さ らにはマラーケシュ近郊にあるモロッコ全土 にその名を馳せたムーレイ・ブラヒームなど,
モロッコ各地の廟への参詣を実施している。
複数の廟参詣には妻もしばしば同伴した。こ れらの参詣は,故郷や都市などにおいて人づ てに聞いた評判などを背景として選択された
ものであるという。
最終的には,結婚後13年を経て長男を授 かり,その後,長女,次女,三女を得るに至っ ている。4人の子供に恵まれた要因として彼 が筆者に語ってくれたのは,地元の聖者廟の みならずモロッコ各地の聖者廟への参詣を繰 り返し行ってきたという事実,そのような参 詣「遍歴」の末,最終的に当時故郷にいたフ キーによる助言と治療があってのことだとい う認識の二点である。
Hの廟参詣の「遍歴」を振り返って最初 に気がつくのは,個人的な参詣が,ゲルナー やアイケルマンの民族誌が扱ったような地方 社会における聖者と部族の間で形成された歴
図1 モロッコ全図
史的な集団的関係を大きく超え出たものであ り,かつ自由度を有したものであることであ る。つまり,集団的参詣と個人的参詣は,別 の位相にあるもとして把握されるべきである ことをHの事例は示唆している。また,廟 参詣の対象として特定の廟が選別されるにあ たっては,人々から得た噂や評判などが手が かりとされ,特定の廟にこだわらず参詣対象 が自由に変更されていることも彼の経歴から うかがえる。
これらの点とあわせて注目をしておきたい のは,Hが子授けをめぐる廟参詣の延長上 に地元のフキーとの「邂逅」を位置づけてい たことである。つまり,重要なのはあくまで も子授けという現実的な問題の解決にあり,
当事者にとっては聖者とフキーを厳密に区別 したり,両者の効能を分析的に区分すること はさほど問題化されてないのである。
そもそも聖者とは生きている者でも死亡し ている者でもよく,ただ「神の恩寵(バラカ)」 を与えられていると判断される者でありさえ すればよかったわけで,こうした原理に沿っ ていうならば,生きたフキーが聖者の延長上 にあるものとして捉えられる可能性があるこ とは,理論的・分析的な側面から言ってもさ して不可思議ではない。要は,治療が成功し た場合に,それがバラカによるものであると する言明が発せられたり,あるいはそうした 解釈が下されれば良いのである。
既存の研究においては,多くの場合すでに 聖者としての社会的合意がある程度形成され た者や,存命中であっても同じく聖者として の評判を獲得している者がしばしば対象とさ れてきた。しかしながら,原理的にいうなら ば,聖者は多数の者からの社会的承認を獲得 する以前に,初発の段階においてごく少数の 者から聖者とみなされる局面があるはずであ ろう[cf. 関 1993]。かりにそうした初次的 段階が存在するのだとしたならば,おそらく それは聖者廟参詣などと隠喩的な関係を有す る子授けなどに携わったり,病気治療をはじ
めとする人々が抱える諸問題に対して相談に のったり,何らかの解決法を与えたりすると いう場面において顕在化しやすいものである といえよう。
こうした視点に立つならば,以下に挙げる フキーによるHの治療現場は,かりに当該 フキーが明確な形で聖者とみなされることが ないとしても,少なくとも彼が将来的に聖者 と解釈される可能性を全面的に否定するもの ではない。治療現場は,治療にあたる当該フ キーの人柄や発話,および治療後にそれらを めぐってさまざまな論評を加える被治療者側 の解釈如何によっては,彼が聖者と目される 可能性を内蔵した場である。以上のように治 療現場が聖者を生成する場となる可能性を確 認した上で,以下,治療現場についての記述 を進めてゆく。
2 フキーによる治療 2–1 治療開始前
8月26日の15時20分頃,筆者はHの長 男M(2006年時,28歳)と遅めの昼食を取っ ている最中に偶然,Hがフキーを呼んだこ とを伝え聞いた。フキーの正確な到着時間は 不明なものの昼過ぎということなので,15 時半くらいには到着をしてしまうだろうと予 想を立て,筆者は慌てて部屋に戻って録音機 材,カメラ,ビデオなどの準備を開始した。
録音などについては筆者が「せっかくの機 会だから是非録音をしたい。ビデオで録画も できないだろうか」とMと話をしたりして いるのを三女のM(2006年時,16歳)をは じめ,家族の者も聞いていたが,たとえば三 女Mは,部屋に戻ろうとする筆者に向かっ て,「ビデオで録画をしないでほしい。それ にフキーを怒らせるようなことをしないで欲 しい」と頼み込んだ。その理由を尋ねると,
「もしフキーの機嫌を損ねて怒らせたりでも したら,父に何か悪いことでも起こりはしな いかと不安だから」という返答をした。同 様に,筆者の録音をしたい,ビデオを撮りた