論 文
ナシ(納西)語大研鎮方言の音韻体系
先行研究との比較を中心に
黒 澤 直 道
(国学院大学)
On the Phonological System of the Dayanzhen Dialect of Naxi Comparing with Previous Studies
Kurosawa, Naomichi
Kokugakuin University
e Naxi language is spoken by those of Naxi nationality who live in south- west China. In studies of Naxi up until now, many scholars have carefully studied the peculiar Dongba manuscript. However, about Naxi phonology, there has been much confusion among scholars. In order to make this con- fusion clear, it is necessary to reconsider the phonological system of the Dayanzhen dialect, which is the “standard pronunciation” of Naxi language.
In this paper, based on my original research, I have reconsidered Naxi pho- nology and compared it with previous studies.
1. はじめに
2. 中国西南部のナシ語とその方言 3. ナシ語の音韻に関する先行研究 4. 調査の経過とインフォーマント 5. 音節および音素
5.1. 音節の構造 5.2. 音素目録 5.2.1. 子音 5.2.2. 単純母音 5.2.3. 二重母音 5.2.4. 声調 6. 音声学的性格
6.1. 子音 6.2. 単純母音 6.3. 二重母音
7. 子音と母音の共起関係
7.1. 子音と単純母音の共起関係
7.2. 子音と二重母音の共起関係
8. 音声的に類似した音素について 9. 先行研究との異同
9.1. 子音 9.2. 母音 9.3. 共起関係 10. おわりに
Keywords: Naxi, Standard pronunciation, Phonological system, Naxi dialects, Dayanzhen
キーワード: ナシ語,標準的発音,音韻体系,ナシ語諸方言,大研鎮
* 本稿は,平成18〜20年度文部科学省科学研究費補助金(若手研究B)「中国西南ナシ(納西)族の 言語伝承および文字の研究」による研究成果の一部である。
1. はじめに
中国西南部のナシ(納西)族によって話されているナシ語については,その宗教と関連する 特徴的な文字を中心として,早くから多くの学者が研究を行ってきた1)。しかしその一方で,
文字以外の諸側面についての研究は必ずしも十分とは言えない。ナシ語の音韻論に限って見た 場合,これまでになされた諸研究の間には様々な見解の相違や対立を見て取ることができ,こ れはそれぞれの音韻論が依拠するナシ語諸方言の地域的差異に起因すると考えられる場合もあ り,あるいは音韻処理上の見解の相違と見られる場合もある。
ナシ語の音韻論におけるこれらの問題を解決してゆくために必要なのは,ナシ語の「標準音」
と認められている麗江県大研鎮(現在の麗江市古城区に含まれる地域)のナシ語の音韻体系に ついて再検討を行い,先行研究における見解のばらつきの原因を究明してゆくことである。本 稿ではその基礎段階として,筆者が大研鎮方言のインフォーマントに対して行った調査に基づ き,その音韻体系を提示し,先行研究との異同について考察を行った。先行研究との異同は,
微細なものは脚注に示し,より大きな問題については第9節に一括して述べた。
2. 中国西南部のナシ語とその方言
ナシ語は,中国西南部に居住する人口約31万人のナシ族によって話されている言語である2)。 系統的には,シナ ・ チベット語族チベット・ビルマ語派における,イ(彝)語に近いグループに 含められている3)。現在の行政区画の上でのナシ族の分布地域は,雲南省西北部の海抜2400 m 前後の高原に位置する麗江ナシ(納西)族自治県がその中心であるが4),周囲の寧蒗イ(彝) 族自治県,廸慶チベット(藏)族自治州内の中甸県や5),維西リス(傈僳)族自治県などにも 分布しており,さらに四川省の塩源県や木里チベット(藏)族自治県,チベット自治区のマル カム(芒康)県塩井郷などにも少数のナシ族が分布する。
ナシ族はいくつかの支系に分かれており,その中でも麗江県を中心として分布する集団と,
寧蒗イ族自治県の永寧郷を中心に分布する集団とでは,大きな文化的差異が認められる。中国 の民族識別では両者を広義の「ナシ族」として一括するが,近年の学術研究においては,前者 を「ナシ」,後者を「モソ」と呼ぶことが一般的となりつつある。そこで本稿でも,単に「ナシ族」
と呼ぶ場合には,麗江県を中心として分布する「ナシ」のみを指すこととする。
これまでの研究において,ナシ語は東西二つの方言区に分けられている。このうち,東部方 言は「モソ」によって話される方言であり,西部方言は「ナシ」によって話される方言である。
1) Rock 1963, Rock 1972,方国瑜・和志武 1981,李霖燦 1972など多数の研究があり,ナシ族の独 特な文字に関する研究は,ナシ族研究の最も主要なテーマであったと言ってよい。
2) ナシ族の人口は,2000年の時点で308,839人とされる(中華人民共和国国家統計局 2002: 97)。 3) チベット・ビルマ語派内部の下位分類には,西田 1989b,ラムゼイ 1990: 328-341,戴慶厦・劉菊黄・
傅愛蘭 1989など諸説がある。
4) 2003年から,麗江ナシ族自治県,寧蒗イ族自治県,永勝県,華坪県の4県を包む行政単位である
麗江地区は,市制に移行し「麗江市」となった。それに伴い,麗江ナシ族自治県の中心地であった 大研鎮に3つの「辦事処」と5つの「郷」を加えた地域が「古城区」となり,麗江ナシ族自治県内 のそれ以外の地域は「玉龍ナシ族自治県」(行政上の中心地は黄山鎮)となった。しかし,本稿で は先行研究におけるナシ語の方言名称などとの関連を重視し,あえて旧称を用いて記述する。
5) 中甸県も2002年に「シャングリラ(香格里拉)県」と改称された。
この二つの方言は,さらにいくつかの下位方言に区分されている。東部方言の下位方言には,
永寧方言,瓜別方言,北渠壩方言の三つがあり,西部方言の下位方言には,大研鎮方言,麗江 壩方言,宝山州方言の三つがある(上のナシ語の方言分布図を参照)6)。西部方言に含まれる 下位方言のうち,大研鎮方言は,麗江県の中心である大研鎮とその近郊の農村部で話されてい る下位方言であり,麗江壩方言は,大研鎮方言の分布地域を取り囲む麗江県内の大部分の農村 部と,中甸県,維西リス族自治県,永勝県などの広い地域で話されている下位方言である。ま た,宝山州方言は大研鎮の北北東に位置する,現在の宝山郷や鳴音郷一帯で話されている下位 方言である。
これらの方言・下位方言のうち,ナシ語の「標準音」とされているのは,ナシ族居住地域の 政治的,経済的な中心地である大研鎮方言の発音である7)。
3. ナシ語の音韻に関する先行研究
これまでになされたナシ語に関する先行研究のなかで,西部方言の大研鎮方言の音韻体系に
ナシ語の方言分布図(『納西族社会歴史調査』(三)巻頭ページより一部修正して作成)
6) 和即仁・和志武 1988: 129, 155。
7) 和即仁・和志武 1988: 189。
ついて記述したものには,楊煥典 1984aと和即仁・和志武 1988がある8)。また,2004年には,
楊煥典 1984aとその基礎となる語彙集や,文法関係の複数の論文を収めた『納西語研究』が
出版された9)。
この他には,文字の研究である方国瑜・和志武 1981や,文法に関する記述である和志武 1987に音韻に関する記述が見られる10)。ただし,方国瑜・和志武 1981は,一部を省略して記 述しているほかは,和即仁・和志武 1988とほぼ重なる記述であり,和志武 1987も,二重母 音の認定に若干の相違があるほかは,やはり和即仁・和志武 1988の記述とほぼ重なるもので ある。また,複数の言語や方言を対照させた語彙集である藏緬語語音和詞彙編写組 1991や,
雲南省地方誌編纂委員会 1998にも,大研鎮方言の音韻体系に関する記述があるが,これらの 記述はごく簡略なものにとどまっている。
これらのうち,楊煥典 1984aに提示されたいくつかの問題に関しては,その後,他の学者 との間に論争が存在した11)。この論争では,音素を確定する上で著しい見解の対立が見られた が,これには各地のナシ語の微細な方言的差異が一定の影響を与えていると考えられる。
一方,大研鎮方言の分布地域と隣接した地域で話されている西部方言の麗江壩方言の音韻 体系について記述したものには,姜竹儀 1980,和即仁・姜竹儀 1985,和即仁・和志武 1988:
134-137がある。傅懋勣 1940,傅懋勣 1948: 1-3,傅懋勣 1984: 297-307や,李霖燦・張琨・
和才 1978: 9-14,李霖燦 1984においても,それぞれナシ語の音韻体系が記述されており,そ の記述する方言は方言区画の上では麗江壩方言に含まれるものの,記述の細部にはかなりの相 違が見られる12)。また近年では,麗江壩方言に含まれる三つの地点の出身者に対する調査に基 づいてナシ語の音韻を考察したMichaud 2006a,Michailovsky and Michaud 2006,同様の 調査に基づき声調を考察したMichaud 2006b,Michaud and He 2007がある。また,西部方 言の宝山州方言に関する記述としては,和即仁・和志武 1988: 137-141がある。
ナシ語の東部方言の研究は西部方言の研究に比べれば少ないが,その音韻体系に関しては,
和即仁・和志武 1988: 155-166や,和即仁・姜竹儀 1985: 107-112における各方言間の比較が ある。音声・音韻に関する個別の問題としては楊振洪 1991,楊振洪 1997がある。また,東部 方言に含まれるとされる,維西県の「マリマサ(瑪麗瑪莎)」と呼ばれる人々が話す方言の音 韻と文法を記したものとして,馬忠義 1991,馬忠義 1992がある。
ナシ族の宗教を中心として多くの論著を残したジョゼフ・ロックは,1922年から1949年の 間にナシ族居住地域に滞在し,多くの宗教経典を収集した。ロックは,経典の読音を記録する 必要から,ナシ語の発音に関しても簡単な記述を残している13)。しかし,ロックの記述では,
発音を記述する単位の数が非常に多くなっており,もしこれを音素と考えるならば,弁別過剰 の状態にあると言える。
ところで,ナシ語の研究を全体的に俯瞰すれば,ここに述べた音韻の研究以外に,文法,語 8) 和即仁・和志武 1988の原版として,雲南省少数民族語文科学討論会 1957がある。正式に出版さ
れた和即仁・和志武 1988では,一部に修正も見られる。
9) 楊煥典 2004a。
10)方国瑜・和志武 1981: 81-88,和志武 1987: 1-7。
11)これについては,第9節に述べる。
12)この他にも,藏緬語語音和詞彙編写組 1991: 265-268にも麗江壩方言の音韻体系に関する概説があ る。また,橋本 1988も麗江壩方言の記述と考えられるが,著者の没後に出版された未整理の調査 資料であり,音韻に関する記述はない。
13) Rock 1935: 64, Rock 1937a: 50-52, Rock 1937b: 38-39, Rock 1948: 4-6, Rock 1952: 21-23, Rock 1963: XXXI-XXXVII, Rock 1972: XVII-XXIII.
彙,系統に関する研究や社会言語学的研究があり14),さらに独特の宗教で用いられる文字につ いては,中国を中心に大量の研究がある。このうち,比較的体系的に文法を記述したものとし ては,傅懋勣 1941(維西方言),傅懋勣 1984: 297-327,姜竹儀 1980と和即仁・姜竹儀 1985,
和志武 1987があり,個別の文法現象を扱った研究としては,姜竹儀 1981,楊煥典 1983,楊 煥典 1984b,楊煥典 1986,楊煥典 2004b,楊煥典 2004c,楊煥典 2004d,楊煥典 2004e,木仕 華 1997,木仕華 2002,孫堂茂( omas M. Pinson)2002,和即仁 2006fがある。また,東 部方言の文法についてはLidz 2006がある。
また,ナシ語の語彙に関する研究・資料としては,ジョゼフ・ロック,李霖燦,方国瑜・和 志武による宗教経典の字典類を除けば15),和即仁・姜竹儀 1985巻末の語彙付録,橋本 1988,
藏緬語語音和詞彙編写組 1991,戴慶厦・黄布凡 1992,Pinson 1998がある16)。個別の語やそ の語源に関する研究としては,和即仁 2006a,和即仁 2006b,和即仁 2006c,和即仁 2006d,
和即仁 2006eもある。
さらに,ナシ語の系統に関する研究には,蓋興之・姜竹儀 1990,Bradley 1974,Okrand 1974,
荒屋 1990があり,ナシ語に関する社会言語学的研究には,符韓妮(Hanny Feurer)1992,
Feurer 1996,Feurer and Yang 1999,漢妮(Hanny Feurer)2000などがある。また,ナシ族 独特の文字に関する研究は,極めて多いのでここではその全てを取り上げることはしない17)。 このように見ると,中国の他の少数民族の言語に比して,ナシ語に関する研究は全体として は少ないとは言えない。しかし,音声・音韻の研究に限ってみた場合には,冒頭でも述べたよ うに,研究の不足から見解の対立があるのも事実である。そこで本稿では,独自の調査を基に してナシ語の音韻を考察し,先行研究との相違を検討する。
4. 調査の経過とインフォーマント
本稿の依拠するナシ語のデータは,筆者が2003年8月5日から9月30日までと,2003 年12月16日から1月12日までの間に,雲南省昆明市で行った調査に基づいている。また,
2004年8〜9月,2006年8月,2008年8月にも,確認のための補足的な調査を行った。筆 者が依拠したインフォーマントM氏(男性)は,1962年生まれ,大研鎮八河農村辦事処の出 身である。八河農村辦事処は,行政上は大研鎮に含まれるが,大研鎮の中心部で世界文化遺産 に登録されている麗江旧市街よりやや南東に位置する。M氏は同地で成長し,17歳から大学 進学のために昆明市に居住し,その後,21歳で大学を卒業すると同時に麗江県に帰り,文化 関係の職につく。10年後,仕事の都合で再び昆明市に移り,調査時までは昆明市に居住して いる。M氏の父母,祖父は全て八河の出身だが,祖母は大研鎮から西北に167 kmほど離れ た塔城郷の出身である。
M氏の話すナシ語の発音は,出身地の地理的な位置から見て,基本的には標準音とされる 大研鎮方言の発音に近いと考えられる。しかし祖母の出身地は,麗江壩方言の分布地域に含ま
14)音韻,文法,系統などについての日本語による概説として西田 1989aがある。
15)注1参照。
16)この他に部分的なものとしては,『土家語簡誌』(田徳生・何天貞・陳康 1986: 150-162),『西夏語 比較研究』(李範文 1999)などに他の言語と対照されたものがあるが,いずれもその量は少ない。
17)書籍として出版されたものに方国瑜・和志武 1981,王元鹿 1988,喩遂生 2003,周斌 2005,鄭飛 洲 2005があり,他にも論文として発表されたものは非常に多い。宋光淑 2006: 141-157,白庚勝・
荒屋豊 1999: 559-560にはこれらの目録がある。
れ,かつ距離的に遠い塔城郷であるため,部分的には麗江壩方言の特徴も含まれている可能性 がある。またM氏は,大学在学の4年間と,31歳以降はともに昆明市に居住しているため,
この時期において受けた漢語の影響についても考慮しなければならない。M氏の場合,これ は主として漢語由来の借用語の発音において顕著な特徴として現れている18)。M氏の話す漢 語借用語の発音は,麗江県において聞かれる漢語借用語の発音よりも,昆明市において話され ている雲南方言の発音に近いものとなっている。そのため,M氏の話す漢語借用語の発音を,
そのまま音韻体系の中に取り込んでゆくと,実際に大研鎮で話されている音声とはやや異なる ものとなってしまう。しかし,これはM氏のような居住歴を持つインフォーマントにおいて のみ見られるものと考えられるので,本稿では,漢語由来の借用語に関しては,麗江県に居住 する別のインフォーマントであるY氏の調査を行い,その発音を参考とした。Y氏(男性)は,
1947年生まれ,大研鎮中心部の出身で,調査時まで麗江県以外の地域に一年以上住んだ経験 はなく,父母ともに大研鎮の出身である。
筆者の調査における語数は約2200語であるが,そのうち明らかに現代の漢語からの借用語 であると分かるものは約240語である。大研鎮の方言においては,世代が下るに従って漢語 借用語が増えていく傾向がある。
5. 音節および音素
5.1. 音節の構造
ナシ語の音節は,子音(C),母音(V),声調(T)の3種の音素から構成される。母音(V)
には単純母音と二重母音があり,音節末には子音は現れない。音節の構造は,CV/ TとV/ T に限られ,これらをまとめて(C)V/ Tと表せる。
5.2. 音素目録
以下に,子音,単純母音,二重母音,声調の各音素を示す。
5.2.1. 子音
両唇音 唇歯音 歯茎音 軟口蓋音 歯茎音 硬口蓋音 そり舌音 無声無気閉鎖音・破擦音
無声有気閉鎖音・破擦音
鼻音前出有声閉鎖音・破擦音 f
鼻音
無声摩擦音
有声摩擦音
側面音
5.2.2. 単純母音
18)ナシ語における漢語借用語について記述した研究には,和志武 1961,姜竹儀 1980: 63-64,和即仁・
姜竹儀 1985: 16-18, 33-41,和志武 1987: 34-39,楊煥典 2004a: 22-48がある。また,和志武 1961 と姜竹儀 1980に基づいてまとめたものとして,岩佐 1983: 116-122がある。
5.2.3. 二重母音
() () ()
二重母音は,すべて上昇二重母音である。括弧を付したものは漢語からの借用語にしか現れ ない。
5.2.4. 声調
声調は,以下の4種類である。ここでは,5段階表記での調値をあわせて記す。
1. 高平調 [55]
2. 中平調 [33]
3. 低平調 [11]
4. 低昇調 [13]
6. 音声学的性格
6.1. 子音
1. 無声無気閉鎖音および破擦音
は,両唇の無声無気閉鎖音である。語例:〈蛙〉。
は,歯茎の無声無気閉鎖音である。語例:〈焙る〉。
は,軟口蓋の無声無気閉鎖音である。語例:〈力〉。
は,歯茎の無声無気破擦音である。語例:〈数える〉。
は,硬口蓋の無声無気破擦音である。語例:〈雲〉。
は,そり舌の無声無気破擦音である。語例:〈土〉。
2. 無声有気閉鎖音および破擦音
は,両唇の無声有気閉鎖音である。語例:〈顔〉。
は,歯茎の無声有気閉鎖音である。語例:〈かんな〉。
は,軟口蓋の無声有気閉鎖音である。語例:〈かご〉。
は,歯茎の無声有気破擦音である。語例:〈蹴る〉。
は,硬口蓋の無声有気破擦音である。語例:〈売る〉。
は,そり舌の無声有気破擦音である。語例:〈これ〉。
3. 鼻音前出有声閉鎖音および破擦音
は,両唇の鼻音前出有声閉鎖音である。語例:〈花〉。
は,歯茎の鼻音前出有声閉鎖音である。語例:〈織る〉。
は,軟口蓋の鼻音前出有声閉鎖音である。語例:〈噛む〉。
は,歯茎の鼻音前出有声破擦音である。語例:〈食べる〉。
fは,硬口蓋の鼻音前出有声破擦音fである。語例:ff〈水〉。
は,そり舌の鼻音前出有声破擦音である。語例:〈豹〉。
これらは早く発音されると鼻音が弱まり,fと聞こえることがある。
4. 鼻音
は,両唇の鼻音である。語例:〈バター〉。
は,歯茎の鼻音である。語例:〈黒い〉。
は,軟口蓋の鼻音である。語例:〈私〉。
は,硬口蓋の鼻音ないしN である。語例:〈日〉。
5. 無声摩擦音
は,唇歯の無声摩擦音である。語例:〈毛〉。
は,歯茎の無声摩擦音である。語例:〈麻〉。
は,硬口蓋の無声摩擦音である。語例:〈人〉
は,そり舌の無声摩擦音である。語例:〈肉〉。
は,母音の前では軟口蓋の無声摩擦音であり,その他の母音の前では口蓋垂
の無声摩擦音である。語例:〈歯〉,〈飯〉。
6. 有声摩擦音
は,軟口蓋の有声摩擦音である。語例:〈牛〉。
は,歯茎の有声摩擦音である。語例:〈草〉。
は,そり舌の有声摩擦音である。語例:〈酒〉。
7. 側面音は,二つの異音をもつ。母音 の前では歯茎のたたき音に近い音であ
り,それ以外の母音の前では側面接近音である。前者は,ゆっくり発音された場合には,
その始まりは側面接近音に近く,そこからたたき音に移行する19)。 語例:〈石〉,〈虎〉。
8. 上に挙げた音素のうち,fは,一部の語彙ではこれより調音点が前寄りの
と発音されることもある。これは自由変異と見ることが可能であるが,方
言的な特徴と考えられる部分もある20)。語例:〈蒸篭の中のスノコ〉。
6.2. 単純母音
1. は,非円唇前舌狭母音である。子音を伴わない場合には,その始まりにない
し(弱摩擦音)が聞かれる。語例:〈眠る〉。
2. は,中段・中舌化した円唇前舌狭母音である。語例:〈羊〉。
3. は,子音の後ではやや下寄りの非円唇前舌半狭母音であり,それ
以外の環境では,やや上寄りの非円唇前舌半広母音である21)。 語例:〈麦〉,〈雪〉。
19)この特徴の顕著なものは,傅懋勣 1940: 408-409と傅懋勣 1984: 304に見られる。前者では,IPA にはこれに相当する記号がないとして,独自の記号を作って記述している。後者ではこれを「一種 のたたき音」として[ ]と記述している。
20)これについては第9節に述べる。
21)和即仁・和志武 1988: 131の記述もこれに類似するが,音声は[ ]と[ ]であるとする。
4. は,非円唇前舌広母音ないしである。語例:〈尾〉。
5. は,非円唇中舌半狭母音である。語例:〈穂〉。
6. には三つの異音がある。歯茎の破擦音および摩擦音の後では,R音
性を伴った非円唇中舌半狭母音であり,これら以外の環境ではである。ただし,
歯茎の閉鎖音の後では,母音の始まりに接近音を伴い,と聞こえることが ある。また,これらの母音のR音性は,舌尖を巻き上げることよりは,中舌から奥舌にか けての部位を隆起させることよって作られる。
語例:〈熱い〉,〈濁っている〉,〈書く〉。
7. には五つの異音がある。そり舌の破擦音および摩擦音の後ではR音
性を伴った非円唇中舌狭母音であり,歯茎の破擦音および摩擦音の 後では非円唇中舌狭母音である22)。また,歯茎の閉鎖音および鼻音の後で は,中舌狭母音で下寄りのであり(ただしその円唇要素は弱め),たたき音の後で は非円唇後舌狭母音で前寄りのである。これら以外の環境では,である。
語例:〈土〉,〈数える〉,〈飲む〉,〈土 地〉,〈行く〉。
8. は,中段・中舌寄りの円唇後舌狭母音である。これはとのほぼ中間の
母音である。語例:〈光〉。なお,漢語からの借用語で子音を伴わない場合 には,その始まりに弱い摩擦の[ が聞かれることがある。
9. は,下寄りの円唇中舌半狭母音[ ]である23)。
語例:〈見える,会う〉。
10. は,円唇後舌広母音である。語例:〈黒い〉。
11. は,音節主音の唇歯接近音である。場合により,下唇と上歯の間の摩擦音が強
く聞こえることがある。また,有気閉鎖音の後では,その始まりが無声化し,
およそのように聞こえる。語例:〈口〉,〈出る〉。
12. 母音が,子音を伴わずに音節になる場合,その音声は声門閉鎖音を伴っ
たである24)。また,声門摩擦音を伴って聞こえることもある。
語例:〈アヒル〉。
22)先行研究では[ ]をs ,[ ]を[ l ]と表記する。s と[ l ]はスウェーデンの方言字母から取 り入れられた記号で,中国の言語学界のみで通用しているので,ここではこのように表記しておく。
23)和即仁・和志武 1988: 131の記述もこれに近いが,音声は前寄りのであるとする。
24)この記述は楊煥典 1984a: 133,和即仁・和志武 1988: 131と類似するが,後者では母音がない。
6.3. 二重母音
1. の音声は,である。語例:ff〈とても〉。なお,子音を伴わない
場合には,その始まりにないし(弱摩擦音)が聞かれることがある。
2. の音声は,からの間の音声である。語例:〈 別 〉。なお,子
音を伴わない場合には,その始まりにないし[ ](弱摩擦音)が聞かれることがある。
3. の音声はないしである。語例:〈たばこ〉,
〈家庭〉。なお,子音を伴わない場合には,その始まりにないし(弱摩擦音)が聞か れることがある。
4. の音声は,である。語例:〈する,やる〉。なお,子音を伴わない
場合には,その始まりにないし(弱摩擦音)が聞かれることがある。
5. の音声は,である。語例:〈左〉。なお,漢語からの借用語として
子音を伴わないで現れる場合には,その始まりに弱い摩擦のが聞かれることがある。
6. については,はから,は,からの間の音声である。
語例:〈子供〉。なお,漢語からの借用語として子音を伴わないで現れる場合 には,その始まりに弱い摩擦のが聞かれることがある。
7. の音声は,である。語例:〈鷹〉。
8. の音声は,である。語例:〈騙す〉。なお,漢語からの借用語と
して子音を伴わないで現れる場合には,その始まりに弱い摩擦のが聞かれることがある。
9. の音声は,である。語例:ff〈 縁 がある〉25)。 10. の音声は,からの間の音声である。語例:〈 血 〉。
11. の音声は,である。語例:〈 約 〉。
以上のうち,2,9,10の二重母音は,漢語のからの借用語にしか現れない。楊煥典 1984a ではこれらを含めて音素としているが,ナシ語の固有語のみで音韻体系を考える場合はこれら を除外しても差し支えない。上では元になる漢語に を付して示した。
25)第一音節が漢語からの借用語である。
7. 子音と母音の共起関係
7.1. 子音と単純母音の共起関係
子音と単純母音の組み合わせは以下の表1の通りである。該当する音節があるものを+で,
ないものを−で表した。記号に*を付したものは,楊煥典 1984a: 138-141に掲げられた表で はその組み合わせが存在するとされるが,筆者の調査では見出されなかったものである26)。ま た,和即仁・和志武 1988: 190にも同様の表が掲げられているが,楊煥典の表に比べると存在 する組み合わせが少なく,これは語彙数の制約によるものと考えられる。ここでは,組み合わ せの多い楊煥典の表との相違を示しておく。これらの相違の生じる原因については,第9節に 述べる。また,括弧を付したものは,漢語の借用語にしか現れない組み合わせである。
7.2. 子音と二重母音の共起関係
子音と二重母音の組み合わせは以下の表2の通りである。記号の意味については表1と同様 である。楊煥典の表との相違については,第9節に述べる。
表2から分かるように,二重母音は漢語からの借用語にしか現れないものが多い。特に,子
音と二重母音の組み合わせや,二重母音は漢語の借用語にしか現れない。
ナシ語の固有語に限定して考えた場合,で始まる二重母音は,両唇の閉鎖音・鼻音,歯茎
の閉鎖音(のみ),硬口蓋の破擦音・鼻音・摩擦音と共起する。で始まる二重母音は,軟
口蓋の閉鎖音・摩擦音,歯茎の破擦音・摩擦音と共起する。で始まる二重母音は,硬口蓋の 破擦音・摩擦音とのみ共起する。また,そり舌の破擦音・摩擦音およびは,
二重母音とは共起せず,子音がない場合はとで始まる二重母音が出現し得る。
8. 音声的に類似した音素について
以上で示した子音のうち,とfは音声的に類似し,表1,表2の母音 との組み合わせにおいても極めて相補的な分布を示す。しかし,このうちとfにつ
いては,〈(目が)見えない〉とf〈(頭を)垂れる〉という最小対立がある。また,
は〈糞〉という語などに現れ,一方のはとい う擬音語に現れる。とについては,が〈首〉などの語に現れる一方,
が現れる語は筆者の調査では確認できていない。しかし,これについては楊煥典 1984a:
139,和即仁・和志武 1988: 190,和志武 1987: 16,方国瑜・和志武 1981: 88,さらに現在麗 江で進められているナシ語の表記法の修訂に関する資料では組み合わせが存在するとされるた め27),今後新たにこの音節を含む語が見出される可能性を捨て切れない28)。
26)楊煥典の主張する緊喉母音については,それぞれ筆者の体系において対応する母音に当てはめて対 照させた。
27)「納西語拼音文字方案(修訂草案)建議稿(徴求意見稿)」(未発表資料)。
28)このうち,楊煥典の語彙集でこれが出現するのは,漢語からの借用語である2433 ( 八哥 , ハッカチョウ)であるが,筆者のインフォーマントM氏の発音ではこれはと発音され る。M氏の発音には現在居住する昆明市の漢語の発音の影響があると見られる。また,ここに挙 げたこれ以外の先行研究がどのような語に依拠しているのかは明らかでない。なお,戴慶厦・黄布 凡 1992: 114には,やはり漢語からの借用語である3333 ( 鸚哥 ,インコ)が見える。
また,とも音声的に類似し,表1と表2において相補分布を示す。は,〈風〉
などの語に現れる一方,が現れる語は筆者の調査では確認できていない。しかし,これ についても楊煥典 1984a: 13929),方国瑜・和志武 1981: 88,上述の表記法の修訂に関する資料 では組み合わせが存在するとされるので,この音節を含む語が見出される可能性がある。この ように,これらの音声的に類似した音素については,現時点で全ての最小対立を見出せるわけ ではないが,先行研究から伺える存在の可能性も考慮して独立した音素としておきたい。
表1
C\V
+ + + + + + + + + + +
+ + + + + + + + (+) + +
+ + + + + − + + + + +
+ + + + + + + + + + −
− − (+) + + − −* − (+) + +
+ + + + + + + + + + +
+ + + + + + + −*(+) + +
+ + + + + + + + −* + +
+ − + + + + + − + + +
+ + + + + + + + + + +
− − (+) + + + + + + −* +
− − (+) + + + + + + + +
− − − + + + + + + + +
− − (+) + + (+) − − + − +
− − + + + + + + + + −
− − − − − − + − + − −
−* −* + + + + + + + + −
−* −* + + + + + + (+) + −
−* −* + + + + + + + + −
−* −* + + + + + + + + −
−* −* + + + + + + + + −
+ + − − − − − − − + −
+ + − − − − − − − + −
f + + − − − − − − − + −
+ (+) − − − − − − − −* −
+ + − − − − − − − −* −
− − − − − − + − − + −
− − − − − − + − − + −
− − − − − − + − − + −
− − − − − − + − − + −
− − − − − − + − − + −
子音なし + + + + + + −* + + + +
29)楊煥典 1984aと楊煥典 2004aでは,と緊喉母音のi(下線もしくはを付けて表される)との組み 合わせがこれに相当する。
なお,とについては,が〈2〉など多くの語に現れる一方,は
〈チャルメラ〉と〈チャンチン(香椿)〉という語に現れる。また,
は筆者の調査では確認できていないが,楊煥典 1984a: 139,方国瑜・和志武 1981: 88,和志武
1987: 16,さらに上述の表記法に関する資料ではこの音節が存在するとされており,(例
えば〈押さえる〉)と対立する可能性がある。
次に,単純母音のうちで音声的に特に類似した音素としては,とや,と
と/ v/,さらにとが挙げられる。このうち,との最小対立としては,
〈縛る〉と〈顔〉がある。ととの最小対立としては,ŋ〈掛
け売り〉とŋ〈噛む〉とŋ〈(雷が)鳴る〉がある。との最小対立としては,
表2
C\V
(+)(+) + + − − − − − − −
(+)(+) + (+) − − − − − − −
− − + − − − − − − − −
+ (+) + (+) − − − − − − −
− − − − − − − − − − −
(+)(+) + + (+)(+) − − − − −
(+)(+) + (+)(+)(+) − − − − −
− − − − − − − − − − −
− − − − (+) − − − − − −
(+)(+)(+)(+)(+)(+) − − − − (+)
− − − − (+) + + + − − −
− − − − (+)(+) + + − − −
− − − − − − + − − − −
− − − − − − − − − − −
− − − − (+)(+)(+) + − − −
− − − − − − − − − − −
−* −* −* −*(+)(+)(+) + − − −*
−* −* −* −*(+)(+) − + − − −*
− − − − − − −* + − − −
−* −* −* −*(+) + + + − − −*
− − − − (+) + − + − − −
+ (+) + (+) − − − − (+)(+) +
(+)(+) + (+) − − − − (+)(+)(+)
f + − + − − − − − − − −
+ (+)(+)(+) − − − − − − (+)
+ (+)(+) + − − − − (+)(+) +
− − − − − − − − − − −
− − − − − − − − − − −
− − − − − − − − − − −
− − − − − − − − − − −
− − − − − − − − − − −
子音なし + (+) + (+) + (+) + + (+)(+)(+)
〈(手の)ひら〉と〈客〉がある。従って,これらはそれぞれ別々の音素とす るのが適当である。
9. 先行研究との異同
ここでは,上述した音韻体系と,大研鎮方言の先行研究である楊煥典 1984aと和即仁・和 志武 1988との異同について述べる。
9.1. 子音
細部の音声記述を別とすれば,以上に示した子音の音韻体系は,和即仁・和志武 1988に示 された体系と一致する。一方,楊煥典 1984aとの相違点としては,楊煥典 1984aではが あることが挙げられる30)。これは漢語からの借用語に出現する音声であり,楊煥典の体系では 漢語からの借用語が多く組み入れられているために生じた差異である。しかし,の有無 によって対立は生じないので,本稿では母音や,で始まる二重母音に付随する音声的特 徴として処理した。
個々の子音の音声記述について見ると,楊煥典 1984a: 131では,の実際の音声 は[ であるとする。一方,和即仁・和志武 1988: 130では,は,母
音の前ではであるとする。一般的に,これらの子音にそり舌音の音
声が見られるのは,姜竹儀 1980,和即仁・姜竹儀 1985,和即仁・和志武 1988: 134-137に見 られるような,麗江壩方言や宝山州方言の発音においてである31)。調音点に着目すれば,筆者 の調査したM氏の発音は,楊煥典 1984a: 131の記述と,そり舌の音声が見られる麗江壩方言 の記述のほぼ中間的な状態にあると見ることができる。また,についても,麗江壩方言に 含まれる傅懋勣 1940(維西方言),傅懋勣 1984には,それぞれ一種のたたき音と見られる記 述があり,本稿で述べた音声との関連が考えられる。
fは,これまでの大研鎮方言の先行研究では,と記述されてい
るものであり,M氏の発音においても,一部の語彙ではの音声が聞かれるこ ともある。fという音声は,傅懋勣 1940における維西方言の記述に見られ,一 般的には大研鎮方言の話者よりも麗江壩方言が話されている農村部でよく聞かれる傾向があ る32)。従って,これはM氏の発音が麗江壩方言の特徴に近いことを示唆している。ただし,
楊煥典 1984a: 131や和即仁・和志武 1988: 130では,これらの子音の調音点がIPAの
よりもやや後ろ寄りであると記されており,実際にはこれがfと音声的
にかなり近いものであることが推測される。
9.2. 母音
本稿と先行研究との音韻体系上の相違点として挙げられるのは,楊煥典 1984aに見られる 緊喉母音が存在しないことである。これは楊煥典 1984aの発表後,その存在をめぐって他の 30)以下に述べるように,本稿でのfは,楊煥典 1984aでのにあたる。
31)この他にも,傅懋勣 1940,李霖燦 1984,李霖燦・張琨・和才 1978: 11においても同様のそり舌の 音声が見られる。これらも,より範囲は広くなるが麗江壩方言に含められる地域の発音を記述した ものである。
32)ちなみに,Yang 1988: 14(巻頭)のヤネルトによる表記法の解説には,fという音 声のことを指していると考えられる記述がある。
学者との間に論争の存在した問題であるが,筆者の大研鎮方言についての調査においては,楊 煥典の主張するような緊喉母音の存在は見いだせなかった33)。また,楊煥典 1984a: 137-138 では子音と母音の共起関係が述べられているが,母音に緊喉・非緊喉の対立があるとするため,
本稿において行った共起関係の検討とはかなり異なるものとなっている。一方,和即仁・和志 武 1988では緊喉母音の存在を認めておらず,この点では本稿と一致する。
本稿では,(先行研究でsl と記されているもの)をの異音としたが,楊煥 典 1984aではslをそれぞれ独立の音素とする。また,和即仁・和志武 1988ではs のみをl の異音とし,とは別の音素とする。本稿では,これらが事実上は相補分布の 関係にあることからに統合した。
二重母音について見ると,本稿でのにあたるものは,和即仁・和志武 1988には見 られない。これらは漢語由来の借用語に現れるため,和即仁・和志武 1988ではそれを含めて いないためと考えられる。
本稿での母音の音声を,楊煥典 1984aでは鼻音化母音とし,和即仁・和志武
1988ではと記述している。楊煥典による鼻音化母音については,その存否を巡ってその
後の議論も存在するが34),筆者の観察では,この母音は[ a ]〜であると考えられる。稀 にわずかに鼻母音的な傾向が感じられることもあるが,それほど明瞭な鼻母音ではなく,むし ろやや緊張を帯びた声門の摩擦音を伴うように感じられる。ただしインフォーマントによって は,鼻母音的傾向が全く存在しないとは言い切れず,先行研究における見解の相違はこのよう な母音の性質自体に一定の原因があると考えられる。
9.3. 共起関係
表1において,楊煥典の表に見られながら筆者の調査では見い出されなかったものとして,
子音と母音の組み合わせがある35)。筆者のインフォーマントの発音では,
これらが現れる単語の該当する音節の子音は,fとして現れ,f(子 音なし)と解釈できる。また,これまでに現地で出版されたナシ語のラテンローマ字(納西 族文字方案)による出版物においても,楊煥典の表に見られるものと同様の発音の表記を見る ことができる。楊煥典の表に見られるこれらの発音は,ナシ語西部方言における他の方言に見 えることを筆者も確認しており,この差異を方言的な違いと見ることも可能であろう。
これ以外に,楊煥典の表に見られながら筆者の調査では見出されなかった組み合わせには,
の7つがある(は子音なし)。このうち,の2 つは,筆者のインフォーマントの発音では,それが現れる単語の該当の音節が,他の組み合わ せの音声として現れるため,ここには出現しない36)。他の5つは,楊煥典の依拠する単語が何 であるのかが不明であり,同氏の語彙集(楊煥典 2004a: 82-189)にも該当する単語が見つか らないため,まれにしか出現しない語であると推察される37)。
33)この論争に関連する先行研究には,楊煥典 1991,姜竹儀 1985,戴慶厦 1990,戴慶厦 1993,戴慶 厦 1998,蓋興之 1994,荒屋 1990: 137-139,楊煥典 2004a: 59-81がある。一方,黒澤 2001では,
大研鎮方言ではない別の方言に,楊煥典の主張する緊喉母音とよく似た現象があることを指摘した。
34)姜竹儀 1985: 29, 楊煥典 2004a: 23。
35)和即仁・和志武 1988: 190の表でもこの組み合わせが存在する。
36)楊煥典の語彙集でこれらが出現するのは,1133 (十一月),24 33 (ハッカチョウ,
漢語 八哥 の借用)であるが,筆者のインフォーマントの発音では,これらはそれぞれ
である。
表2において,楊煥典の表に見られながら筆者の調査では見い出されなかったものとして,
子音と,で始まる二重母音の組み合わせがある38)。これも表1の子音
と母音との組み合わせと同様に,筆者のインフォーマントの発音では該当
する単語の子音がとして現れ,これらはと解釈できる。これも方言 的な差異と見られよう。
またこれ以外に,楊煥典の表に見られながら筆者の調査では見い出されなかった組み合わせ には,がある。これがどのような語あるいは形態素に見られるのかは不明であるが,
楊煥典の語彙集にも該当する単語が見つからないため,非常にまれにしか出現しない音節であ ると推察される39)。
以上に述べたとについては,先行研究の間でもこれ らが存在するか否かについてはばらつきがある。これらを含む語はいずれもまれにしか出現し ないものであると思われる。またこれには,大研鎮方言における,漢語からの借用語の増加に 伴うナシ語の固有語の減少も大きく関わっていると考えられる。
10. おわりに
本稿では,いまだに議論が不十分であるナシ語の音韻体系について,筆者自身の調査に基 づき再検討を行った。本稿と先行研究との間で見られる音韻体系上の相違は,1. 音素の設定 における考え方の違いによるもの,2. 緊喉母音のようにその現象自体は観察されないが,部 分的には方言的差異に起因すると考えられるもの,3. 漢語借用語の扱い方の違いによるもの,
の三つに大別できる。
また,個々の音声の記述においては,依拠する音声自体に違いがあり,その原因としては方 言的な差異が推察されるものが多い。特に,筆者の調査に見られた特徴のうちのいくつかは,
麗江壩方言との関連を示しており,これには筆者の依拠するインフォーマントの出身地が,大 研鎮の中では中心部からやや離れた所に位置することや,大研鎮から離れた地域の出身である 祖母の発音の影響などがその要因として考えられる。このように,ナシ語の西部方言内部にお ける方言的差異は,先行研究における記述の相違の原因とも想定されるため,さらに調査を進 めることが必要である。
ところで,長らくナシ族の居住地の政治・経済的な中心であった大研鎮では,早くから漢語 の浸透が進み,ナシ語の中でも漢語からの借用語が多く使われている。漢語借用語の増加に伴 い,使用頻度の低いナシ語の固有語は消失してきており,この傾向は筆者の調査にも影を落と している。今後,上に述べた方言の調査とともに,ナシ語の語彙のより広い調査が進められる ことが理想であるが,大研鎮方言の使用頻度の低いナシ語の固有語については,収集が難しく なってきているのも現実である。
37)このうち,については,楊煥典は擬声語にのみ見られるとする。また他の先行研究にお いては,和即仁・和志武 1988: 190の表では,が(ただし1957年の原版ではは 存在しない。雲南省少数民族語文科学討論会 1957: 84),和志武 1987: 16ではが,
方国瑜・和志武 1981: 88ではが,それぞれ存在するとされる。いずれの資料でも,
これらがどのような語に現れるかは不明である。
38)和即仁・和志武 1988: 190の表ではこの組み合わせはない。
39)和即仁・和志武 1988: 190,和志武 1987: 16,方国瑜・和志武 1981: 88ではこの組み合わせはない。
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原稿受領日―2009年2月16日