藤 原 宗 忠 の 弁 官 作 法
‑ 藤 原 通 俊 と の 師 弟 関 係 を 中 心 に
Beロkaロ
M a ロ ロe rS O f M un etadaF阜
wara 鈴木
理恵
はじめに
平安貴族の日常の政務が儀式と不可分の関係にあったことが指(‑)(2)摘されて以来'儀式研究がさかんに行なわれている。研究の多く
は'儀式書の成立過程の解明や儀式書の復原を試みるもの'儀式
をみることによって政治を明らかにすることに主眼を置‑もので
ある。これらの研究が重要なことはいうまでもないが、政務が儀
式と密接な関係にあった以上'貴族が儀式の作法を次世代へと伝
東していく営みを重視すべきであろう。それはとりもなおさず'
貴族社会を維持するための営みでもあったはずである。確かに近
年'父祖から子孫への日記や家説の継東についての研究が蓄積さ(3)れてきた。しかし'家を超えた師弟関係については'個々の事実
の指摘にとどまっている場合が多‑'平安貴族社会総体の問題と
して考えへそこに位置づけるという視点を持つ研究はわずかであ(4)る。教育史の視点からの考察も行なわれていない。師弟関係が何
を契機に結ばれたのか'師の説がどのような人からどのような人
へと'どんな方法で伝授されていったのかtといったことを明ら
かにしていけば'貴族社会における人脈網や家と家とのつながり'
長崎大学教育学部社会科学論叢第五十四号 貴族教育の特質を自ずから浮かびあがらせることができるだろ
う
。貴族は'政務を滞りなく行なうために、儀式作法に精通していなければならなかった。儀式作法を習得する方法としては'①人
を通して、②文字を通して'③身体を通してtの三つが挙げられ
る。①の人を介する方法とは'父祖や近親者'先達や師匠などか
ら'庭訓'口伝'教命、訊謙、など'おもに口頭により教えを受
けるものである。②の文字を介する方法とは'当時流布していた
儀式書や'父祖から伝来した日記類、師匠や先達から借覧あるい
は書写させてもらった記録類などを読む'ことあるごとに参照す
る'あるいはそれらをもとに新たな儀式書を編纂する'自ら日記
を書いたり部類記を作成する、といったものである。③の身体を
通しての方法とは'他人の作法を伺い見ることや習礼や自ら儀式
に臨むことを通して、儀式作法に習熟していくことをいう。
ひとりの貴族が作法を身につける過程を明らかにするために
は'右の三点を総合的に考察しなければならない。また'三つは
密接にかかわりあっているので'切り離して考えることは難しいO
■
鈴木理恵
しかし、全体を一度に明らかにすることはなおさら困難であるの
で'本稿では藤原宗忠をとりあげ、①に焦点を絞って宗忠とその
師藤原通俊との関係に着目する。藤原宗忠の儀式作法習得の過程
に関しては'すでに'河野房男氏、吉田早苗氏'松薗斉氏らの稿
がある。河野氏は、宗忠の教養に影響を及ぼした日野家の人びと(5)や通俊について概説されている。吉田氏は'宗忠が'自家に伝え
られた﹃除目次第﹄という秘書に、藤原忠実を初めとして多くの
人々の除目作法についての意見や説を書き込んだことを指摘され、‑二た。松薗氏は'宗忠と日記の関わりを三つの時期に区分して'宗
忠の家記形成の過程を検討され'宗忠を「日記の家」を形成しよ(7)うという意識をもって活動した人物としている。
これらの研究によって宗忠の作法習得過程の概略は明らかにな
っている。また'宗忠と通俊の師弟関係はよく知られた事実であ
る。それでも宗忠に着目する理由は'宗忠を通して'当時の貴族
の動きをみようとするからである。かれらは'院政期に進んだ貴
族の再編成のなかで'生き残りを賭け'貴族社会における自家の
存在形態を模索した。その動きのなかに師弟関係の形成があった
と考えられる。本稿を、宗忠の儀式作法習得過程の全体像を明ら
かにするための手はじめとしたい。
一票忠と通俊
(こ宗忠
藤原宗忠は康平五年(一
〇
六二)右近衛中将宗俊の一男として誕生した。母は日野流藤原氏式部大輔実綱の女。曾祖父は道長の
二男右大臣頼宗であった。頼宗の家は摂関家とは流れを別にした
が嫡流に近い上流貴族の家柄であることにまちがいはなかった。 二
しかし'宗忠が一七歳で侍従として出身するころには家柄の良さ
に安穏としていられる状況ではなくなっていた。摂関家嫡流が後
三条天皇の即位によって外戚の地位を失い、院という新たな権力
が出現するといった時代のうねりのなかで、上流貴族の昇進ルー
トである近衛ル
ー
トにのっていた宗忠の昇進は滞りがちであった。そのようななか宗忠は寛治八(嘉保元)午(一
〇
九四)三三歳のときに右中弁に直任され弁官ルートに転進することになっ
た。弁官は太政官の中枢をなし'実務能力の要求される要職であ
った。承徳二年(一
〇
九八)左中弁から蔵人頭右大弁へ'康和元年(l
〇
九九)参議に昇り'嘉草花年(二〇
六)権中納言に任ぜられると同時に右大弁を去った。寛治八年から嘉東元年まで一
二年半の間弁官に在職し'通俊には最初から承徳三(康和元)午
八月(通俊死去)に至るまで五年間師事したものとみられる。保
安三年(一二三)権大納言'天承元年(一一三一)内大臣に'
保延二年(二三六)右大臣に進み'保延四年従一位に昇ったが
辞官出家'同七年八
〇
歳にて裏じた。本稿では'宗忠の官僚生活において第一の転機となった右中弁
就任から通俊が死去するまでの期間を主に扱う。松薗氏によれば'
宗忠は通俊に師事するまでは﹃有俊朝臣私記﹄や﹃北山抄﹄﹃西
宮記﹄程度しか有しておらず'宗忠自身の日記も未熟な状態であ
った。「通俊を師と仰ぐようになってからは'単に口伝・教命と
いう形で知識を与えられるばかりでなく'実技の指導を受け'更
に小野宮流に伝来する日記類を借覧することを許されたことによ
り'家記形成への足がかりの一つを得たようであり'それを通じ(8)て彼の日記への理解も格段に進んだようである」。
通俊に師事したことが宗忠の実務官僚への転身を支えたわけだ
が、その素地はすでに形成されていた。宗忠は'母の生家である
日野家や'式家の人びとから紀伝道の教授を受けた。外祖父藤原
実綱からは史記・文選 (9)毛詩を受けた。有信は宗忠の「文章之師
(日野家)
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師輔‑兼家‑道長藤原宗忠の弁官作法 (川)(ll)匠」、有俊は「多年之間己為二師匠こであった。日野家は紀伝
道を世襲して文章博士を輩出するとともに'その学問を拠り所と
しながら儒者弁も輩出した家柄でtのちの名家のひとつである。
また'日野家と同様に紀伝道を世襲した藤原式家の敦基は、宗忠(12)の「後漢書之師匠」であった。これらの人びとから紀伝道の教授
を受けたことにより、官僚生活に必要な素養が形成されたといえる。(二)寛治八(嘉保元)年の弁官
寛治八(嘉保元)年六月一三日の臨時除目で'弁官の人事は次
のように動いた。(13)史料‑﹃時範記﹄寛治八年六月二二日集
権中納言(藤原通俊、元右大弁、大江匡房'元左大弁)
参議(藤原季仲'元蔵人頭'藤原宗通'同'兼左中将)
左大弁藤原季仲(元左中弁)
右大弁源基綱(元権左中弁)
左中弁源師頼(元右中弁)
右中弁藤原宗息(元侍従'加住)
権右中弁源垂資へ元左少弁)
左少弁藤原有信へ元右少弁)
右少弁平時範(元蔵人'勘解由次官)
右中弁に任ぜられた宗忠は二二日に通俊邸に赴き、弁官の事を
習っている。宗忠と同時に右少弁になった蔵人平時範も、一七日
早且に通俊のもとに行って故実を問うている。ひとつめに'なぜ'
ふたりは弁官のことを習う必要があったのか'ふたつめになぜ通
俊に問うたのかtという疑問が浮かぶ。
ひとつめの疑問については'ふたりの家に弁官のことについて
三
鈴木理恵
の蓄積がなかったということが理由としてあげられる。宗忠は右
中弁に任ぜらわた日の日記に「従二貞信公一以来'累祖経二此職一(14)者、恭以七代之末葉'遥百年之余慶」と書いている。忠平が昌泰
三年(九
〇 〇 )
から延喜八年(九〇
八)まで右大弁をつとめて以来摂関家嫡流で弁官に就‑者はなかった。また'宗忠の曾祖父板
宗、祖父俊家'父宗俊はいずれも近衛ルートで公卿に昇った。祖
父俊家は楽道に秀で'父宗俊は笛・笠などに秀でていたので'宗(I̲r')忠の家は「くわんげん(管絃)のこじつ(故実)」には詳しかっ(16)たが、弁官の経験はなかった。宗忠は'忠平より二百年近‑をへ
だて七代めにして弁官に任ぜらわたのであった。
いっぽう、平時範は高棟流桓武平氏にあたる。高棟の男惟範が
中納言に'惟範の男時望は春宮亮・蔵人頭・右左大弁を歴任して
中納言に、時望の孫の惟仲と親信がそれぞれ中納言'参議となっ
て以降は'見るべきものはなかった。時範の曾祖父行義は武蔵守、
祖父行親は勘解由次官・少納言・中宮大進・右衛門権佐、父定家
は左衛門権佐・尾張守などを歴任している。一族のなかには時望
や'惟仲'走親など弁官経験者がいたから'あるいは弁官につい
ての記鐘も残されていたのかもしれない。しかし当時は、公事に
臨むのに儀式書や記錠を読むだけでは不十分で'先達から口伝や(̲7)故実を受けることが必要とされていた。時範が右少弁になった寛
治八年には直接に教えを受けるべき近親者はいなかった。
時範は右少弁となった半年後の一二月に右衛門権佐に任ぜられ
て三幸兼帯を果たした。のちに宗忠は時範を「兼二三事二人耀華(柑)勝レ人」と賞している。嘉承元年正四位下右大弁となったが、天
仁元年(二
〇
八)一〇
月病により右大弁を辞し出家した。自身はすぐれた実務官僚として活躍し'その子孫からは多くの弁官を 四
輩出した。時範は'中流官人層に埋没していた高棟流桓武平氏の
家を再興Lt名家としての基盤を確立したといえる。
弁官に任ぜられたことは'宗忠と時範のふたりにとって'ふた
りの家にとって'一大転機をもたらしたわけである。その転磯と
なった弁官のことを習うのに通俊を選んだのはなぜであろうか。
寛治八年当時公卿の中には弁官経験者が五人いた。大納言源経信'
権中納言藤原通俊、同大江匡房'参議藤原季仲'前権中納言藤原
伊房である。弁官経験者であれば誰でも良いというわけではなか
った。時範が通俊に弁官のことを習った理由は不明だが'宮崎康
充氏は「時範は妻方を通じていくらかは藤原通俊とも縁があっ(̲9)た」として'時範が通俊との縁故を利用したことを示唆されてい
るC宗忠が通俊を師匠として選んだのは'「彼卿従レ本有二芳心一
(20)
之上、早出レ自二尚書一㌧近昇二於納言∴仇思t一吉例
こという理由からであった。つまり通俊が宗息に「芳心」あることと、通俊
が弁官から出て納言に昇ったという経歴をもっことの二点であ(21)る。宗忠は弁官に就いて間もないうちにすでに納言への昇進を見
すえて師匠選びをしたというわけである。近衛ル
ー
トに見切りをつけて、弁官ル
ー
トで納言への昇進を果たそうとした宗忠の決意のほどが窺える
。
実際、弁官の中には参議大弁1権中納言(去大弁)のコ
ー
スをたどる者が多かった。ためしに二世紀初めから寛治八年までに
右中弁になった二七名についてみてみると'参議大弁1権中納言(去大弁)のコ
ー
スをたどった者が二名'参議になって弁官を去ったあと権中納言まで昇った者が三名'大宰大弐になって弁官
を去ったあと権中納言に昇った者が一名、計一五名が権中納言に(22)(23)昇進している。二七名のうち弁官在任中に死去した四名を除け
ば'右中弁を経て権中納言に昇る確率は約六五%ということにな
る。のちのことになるが宗忠は嘉草花年1
0
月から1二月にかけて日記に'納言の中に大井を経た者がいないために公事が滞りが
ちだとたびたび嘆き、自らが中納言に昇れないいらだちを顔わに(24)している。宗忠によれば、寛徳元年(一
〇
四四)の例外を除いて(25)
「経二大弁一之上卿'延書以後連々不レ絶」という状態だったらしい。このような状況であったから、宗忠は右中弁に任ぜらわた時
点で納言に昇ることに焦点をあわせた師匠選びをしたのであろ
う○
しかし弁官から納言に昇ったのは通俊以外にも大納言源経信、
権中納言大江匡房'前権中納言藤原伊房らがいたはずである。通
俊以外の人物が師匠とならなかったのは宗息との間に「芳心」が
なかったというそれだけの理由からであろうか。
大納言源経信は寛治八年当時七九歳で公卿のなかの長老であっ
た。康平五年(一
〇
六二)に右中弁に直任され'権左中井'蔵人頭、右大弁、参議大弁'左大弁を経たのち、承保二年(一
〇
七五)権中納言に昇るまで'弁官を一三年間勤めた。のちに宗忠は経信
を「兼二倭漢之学一㌧長二詩歌N(撃、加之管弦之芸'法令之事、能極二源底一㌧誠是朝家之重臣也」と評している。また'経信の
父道方は長徳四年(九九八)に左少弁に任ぜらわ、右中弁'権左
中弁'左中弁'蔵人頭'右大弁'左大弁を経て、寛仁四年(一
〇
二
〇 )
権中納言に昇った。経信の男基綱も'永保元年(一〇
八一)右少弁になり、左少弁、右中弁、権左中弁、左中弁'右大弁、蔵
人頭を経て、承徳二年に左大弁となり'嘉草花年には宗忠ととも(27)に権中納言に昇った。宗忠は基綱について「累代弁官家」と書い
ている。このように大納言源経信は'弁官の経歴・能力・家柄に
藤原宗忠の弁官作法 不足はなかったが、宗忠が右中弁に任ぜられた日に大宰権帥を兼
ね、嘉保二年七月に赴任Lt永長二年任地で亮じた。
前権中納言藤原伊房は'天書五年(一
〇
五八)右少弁に任ぜられ'左少弁、権左中弁'蔵人頭'左中弁
'
参議右大弁、左大弁を経て'承暦四年(一
〇
八〇 )
権中納言に昇った。二二年間の弁官歴をもつベテランである
。
権大納言行成の孫にあたり'父は参議行経である。しかし、寛治八年五月契丹人の国遠と私貿易をした(28)ことにより、中納言職停止ならびに減一階の処分を受けた。
権中納言大江匡房は'延久元年(一
〇
六九)右少弁に任ぜられたが'同六年美作守に就いていったん弁官を去った。承暦四年権
左中弁に任ぜられ'永保元年に左中弁に転じて'応徳元年(一
〇
八四)左大弁、寛治二年(1
〇
八八)参議大弁、寛治八年権中納言となった。トータルすれば1八年間ほどの弁官歴を持つが、右
中弁を経ていない'蔵人頭を経ていない'などの難がある。また'
大江家では'斉光が応和四年(九六四)から安和二年(九六九)
までおよび貞元三年(九七八)から永延元年(九八七)まで弁官(29)を勤めて以来'久しく弁官を出していなかった。宗忠は'後述す
るように匡房にもときどき教えを受けたが'師匠とはしなかった。
以上のような理由から'大納言源経信'権中納言大江匡房、前
権中納言藤原伊房は宗忠の師とはなりえなかった。師匠には通俊
が最適だった。通俊は小野宮流藤原氏の権中納言経通の孫'大宰
大弐経平の男である。系図に示したように小野官流からは弁官が
多く出た。通俊は歌人としても知られ、﹃後拾遺和歌集﹄の撰者(30)である。東保二年左少弁'東暦元年右中弁'永保元年蔵人頭'同
二年権左中弁'応徳元年参議・右大弁となり'権中納言に昇った
とき四八歳であった。弁官歴一九年間。二世紀初めから寛治八
五
鈴木理恵
年までに右中弁を経て参議大弁‑権中納言(去大弁)のコ
ー
スをたどった二名の平均弁官歴が約二三年半であるので、一九年間
というのは長いはうではないが'通俊は「才兼二和漢一㌧深達二政(別)(32)理こと評され'「近古ノ名臣」として活躍した。
通俊自身が弁官作法を誰から習ったのか不明だが'寛治八年八
月釈臭の嵯座上下のことを宗忠に尋ねられたとき「年来己北上対
座、是故事憲、資仲卿、師平へ孝信等'時之説」と答えているこ
とから'藤原泰憲や藤原資仲から教えを受けたことがあるのかも
しれない.泰憲は長久二年(一
〇
四l)から三二年間近く'資仲も長久二年から二二年間余り弁官を勤めた。資仲は通俊と同じ小
野宮流でもある。通俊が左少弁に任ぜらわた東保二年当時'泰憲
と資仲は権中納言の座にあった。宗忠が通俊を弁官から納言への
昇進の吉例としたようにへ通俊もふたりに範を求めたりではなか
ろうか。(≡)宗忠と通俊
表Iは'通俊と宗忠の師弟関係を見るためにまとめたものであ
る。表を参考にしながら、宗忠と通俊の関わり万を三つの時期に
分けて見てみる。
第一期寛治八(嘉保元)年
〜
嘉保二年九月頃宗忠は'寛治八年六月二二日右中弁に任ぜられた。弁官拝任の
際には次のような手順を経ることになっていた。(33)史料2﹃新任弁官抄﹄
弁官拝任之時'招二陰陽師於家∴令レ勘二次第日時一也、拝賀へ
奏青書、初参結政'初行政等也、又結政初参以前へ以二宜日一
令二習礼一'相∃語可レ然先達一具レ之、予習礼時'右兵衛督(光)I
被レ渡者也'結政初参之日'帰レ家後'有二官掌以下饗禄事一' 六
宗忠は六月一九日に慶賀ののち所々に慶を申しに廻り、二二日
に通俊のもとに弁官のことを習いにいっている。六月二五日へ("I)「依二吉日一初参結政」。史料2では結政初参以前にしかるべき先
達の許で習礼を行なうことになっている。宗忠に先んじて六月二
二日に結政初参した右少弁時範は'一七日に通俊事に故実を問い
に行きへ翌一八日に権右中弁重資とともに結政習礼に向かい'二(35)二日当日は「毎事依二新中納言説こって行なった。これに対し
て﹃中右記﹄には宗忠が習礼をおこなったという記事はでてこな
いが'六月二二日に通俊から初参結政に備えての教えも受けたの
であろう。また、宗忠は一
〇
月八日に蔵人弁時範とともに通俊のもとに「習礼作法」に向かっており、一
〇
月一〇
日・一四日の政では通俊の説諌に従っていることから'一
〇
月八日に通俊から細かい実技指導があったのかもしれない.六月二五日'初参の日の
事が終わって帰宅後には官掌以下に饗応賜禄の事が行なわれた。
禄は通俊から送られた。その書札には「歴二弁官一之納言'先々(36)所レ送也'是依レ思二吉例一所レ奉也」と書かれており'これを見
た宗忠は感激している。
宗忠は'右中弁就任早ヱハ月二三日に伊勢遷宮行事所の行事弁
および率文所勾当に任ぜられ'嘉保二年九月の神宝勅使発達まで
多忙な日々を送った。九月T五日に源師忠に替わって通俊が内宮
遷宮上卿となり、また、外宮遷宮行事所の上卿と弁も通俊と宗忠
が兼ねることになり、宗忠はその件でもたびたび通俊の許に赴い
ている。しかし、そのついでに通俊に公事を尋ねるということは
しなかったようである。通俊幸に公事を尋ねに行‑のは勤務外の
時間で、参内や退出のついでのことが多く'自然夜に集中する。
ただし、九月六日内覧の間に教えを受けるようなことも例外的に
はあった。通俊と宗忠は、公事のみならず'倭漢のことにまで話
題が及んでいる。
当初は'右中弁に直任されて不案内なことが多かったのだろう
か'儀式の直前に通俊に尋ねに行‑場合が多い。七月二
〇
日の祈年穀奉幣のことを前日に'八月八日・二日の釈臭・考定のこと
を六日晩頭に習いに行くといったようにである。儀式に追われる
ように通俊に教えを受けている様子が窺える。儀式当日に生じた
不審な点をあとで通俊に確認している。
通俊の教えだけでは間に合わず'儀式当日に大外記や左少史な
どに問うている。たとえば'七月二
〇
日祈年穀奉幣の行事弁をつとめた際'事が終わって上卿や上官が嘉菩門を悉く出てしまった
が'宗忠はこのことについては習っていなかった。そこで出立あ
りやなしやについて大外記清原定俊に尋ねたところ'走俊が「尤
可レ有也」というので'「新任未練之間'偏取信出立」した。不
審に思いのちに通俊に尋ねたところ'通俊は「件出立全不レ可レ
有之事也」と言う。これを聞いて宗忠は出立したことを「大失礼」
だったと思い込むが'大江匡房は「必可レ有之事也」という。大
外記定俊と大夫史小槻祐俊に尋ねても'嘉菩門前において出立有(37)り、という。宗忠は「両中納言之説'太以相違欺'迷二是非こ
と困惑している。
八月釈臭、九月政'一
〇
月平座'嘉保二年一〇
月平座でも通俊の説と他の人びとの説との食違いが記壕されている。釈臭では握
座の上下について大外記定俊の説と通俊の教えが違っていたが'3仁E宗忠は'「叶二記文l」という理由で定俊の説を採った。政では'
申文のときの弁と史の立座の順番について左少史盛息の説と通俊
の説が違っていた。また'申文・請印終了後宗忠が上官に揖せず
藤原宗忠の弁官作法 外記門を出たことについて'「ja(虹
,t
I記.者可レ揖也」であったが'「付二新中納言通俊卿説一不レ揖也」としている。平座では勧盃の順序について'民部卿源俊明'左兵衛督源俊実、大江匡房'左大
弁藤原季仲'通俊の説が分かれた。俊明'通俊、季仲は下請より
勤めるとしたのに対し'俊実'匡房は上弗よりとした。嘉保二年(40)平座では「頗迷二是非一」としながら'上卿の命に従って上藤か
ら勧めた。
通俊に師事して間もないこの時期は'右のように'公事に追わ
れるように慌ただしい日々を送った。そのなかで徐々に経験を積
み重ね'通俊の教えと他説の違いに戸惑いながらもどの説を取捨
選択するかという判断力を養い'実務官僚としての基礎技能を培
った時期といえる。
第二期嘉保二年一
〇
月頃〜東徳元年特定の公事について問うことのみを目的に通俊許に赴く記事
は'﹃中右記﹄にはほとんど見られなくなる。嘉保三年正月七日
に白馬節会の装束使弁が俄に故障を申し立てた際'および同年七
月二六日に所労の頭弁にかわって宗忠が相撲装束を奉仕しなけれ
ばならな‑なった際など'臨時の役がまわってきたときに通俊の
もとに跳んでいっている。ただし、通俊との関係が疎遠になった
わけではない。参内や帰宅のついでに通俊亨に立ち寄って長時間
にわたって言談することは引き続きおこなわれているLt秘事や
口伝の伝授を受け、儀式書を借覧するなど'むしろ師弟関係は密
になっている。ひととおりの教えを受け'宗忠自身ある程度弁官
の仕事を経験して'儀式のたびに通俊に教えを受けなくともある
程度のゆとりが出てきた時期として位置づけられるのではないだ
ろうか。
七
鈴木理恵
永長二(東徳元)年五月に父の権大納言宗俊が亮じたため'一
年間の服喪。
第三期承徳二年
〜
通俊死(承徳三年)承徳二年正月左中弁に転じたが、五月に亡父の忌明となるまで
活動はみられない〇八月の仁王会'一
〇
月の維摩会'二月の新嘗祭神祇官行幸に際して'通俊と左大弁藤原季仲に尋ねに行って
いる。宗息は、仁王会の行事弁も神祇官行幸の装束便も勤めたこ
とがなかった。維摩会に関しては「予去寛治八年加二中弁一後、
依レ為二伊勢遷宮行事l、三ヶ年不レ見二此会T'去年又依二家忌T(=.不レ勤也'今度初動二大会勅使7也」と書いている。宗忠にとって
初めての維摩会であったため、教えを受ける必要があったのだろ
う。通俊は六月から病気に悩まされた。宗忠はたびたび通俊を見
舞っている.病状はl進一過だったようだが'一一月からは安定
したらしく以前のような師弟関係が取り戻されたol
〇
月の維摩会のことを左大弁に尋ねたのは通俊が病悩であったためかもしれ
ない。
宗忠は承徳二年一二月一七日に右大弁に転じ、歳人頭に任ぜら
れた。順調に弁官ル
ー
トを進んでいたわけだo翌7八日に早速通俊亨に尋ねに行っている。東徳三(康和元)年にはいってからも
頭弁としての作法を通俊に習うことがあっただろうが、康和元年
の﹃中右記﹄が残っていないため不明である。
二宗忠と匡房、季伸
宗忠は通俊に師事するとともに'右中弁就任直後から折に触れ
て大江匡房にも教えを受けている。大江匡房は'平安時代初めよ
り紀伝道の家としての地歩を確立していた江家に成衛の男として 八(42)生まれた。父成衝は'「無二才能こい「江家ノ文預」で大学頭・
信濃守に終わった。これに対して、匡房は東宮学士や侍読などを
勤めて儒者として活躍するとともに'三事兼帯を果たすなど実務(43)能力にたけた「近古ノ名臣」として活躍した。権中納言に昇るま
では前述の通りで'その後'永長二年大宰権帥を兼ね'翌承徳二
午(一
〇
九八)八月二三日赴任した。表Iに示したように宗忠は'寛治八年七月7日に通俊の許に行
ったあと匡房の許に赴き何事かを尋ねている。七月祈年穀奉幣の
あとに出立の是非について尋ね、八月釈臭の嵯座や弁官出入門な
ど儀式運営上生じた不審な点に関しての匡房の意見を書き留め、
嘉保二年一
〇
月には平座の勧盃の順序について尋ねている。嘉保三年五月には匡房の許に赴いているLt六月には匡房に関白師通
父子祇園社参詣の儀について尋ねている。承徳二年八月一九日に
は匡房の大牢府への下向が近いことを知って'匡房許に公事を問
いに行っている。これより大宰府から帰るまで匡房に会えなかっ
たわけである。
匡房は、康和四年赴任賞により正二位に叙せられるとともに権(44)帥の任を解かれた。大牢府から帰洛後は「朝廷の顧問役」として(4)の役割を担ったらしいが'長治元年頃から病気がちであった。匡
房は、長治三年(二
〇
六)ふたたび大事権帥に任ぜられ中納言を去ったが'遂に赴任
し
なかった。天永二年二一二)大蔵卿に任ぜられ'二月に亮じた。宗息は晩年の匡房に批判的であっ(4)(4)たためか、匡房が尭じたときの日記にはかつて教えを受けたこと
などは記されていない。
承徳三(康和元)年八月一六日へ通俊は亮じた。康和元年から
同三年までの﹃中右記﹄が残っていないために'宗息が通俊の死
東徳2年 (1098)
55父宗俊の死服喪﹃中右記﹄六月の記
事欠
128左中弁に転ず
517亡父の忌明
829仁王会
10 10 樵 産とゝ フミ
‖23新嘗祭'
神祇
官行幸の装
束健 を
勤仕
1217右大弁蔵人頭
に転ず
1226陣定 ‑24鞄通俊亨に向い'仁王会のことを尋ねる。
10
4午
(〜轡左大弁享に向い維摩
会作法を尋ね習う。108(〜撃左大弁事に向い'
維摩 会作 法
を尋ね習う。‖10夜丁撃通俊幸に向い'神祇官行幸のことを尋ね習う。
‖21申通俊許に向い'神祇官行
幸のことを尋ね問う。 812夕(〜g)通俊幸に向い明月の前清談'その後公事を談ず。
516民部卿許に参り'言談。
61脚宗通許に向い言談0
‑14鞄通俊事に病気見舞い(611より病気)0
729鞭宗通事に向い言談。819夜帥中納言(匡房)許に向い'数刻公事を問う。
920通俊辛に病気見舞い。
929夜棚相通俊享に病気見舞い。
1022夜鴫納(〜琴通俊亨に病気見舞い。公事など言談。
1130夜槻鮒で撃通俊事に向い'公事を問う0
123夜瑚棚‑轡尋ね問うことありで左大弁亨に向う。
121(〜轡宗通と言談。
1218T轡通俊亨に向い'尋ね問う。
1222夕通俊許に向い'言談。
藤原宗忠の弁官作法
九〜
十
永長2(東徳元)午 (1097)
東徳2年 (1098)
822錫軒除御915関白師道上表
川26位キ宛始の畿
23春日杜行幸の行事弁となる
328春日社行幸55父宗酸の死
服喪r中右記﹄六月の記事欠
128左中井に転ず
517亡父の忌明
829仁王会
10 10 維 摩∠=言ゝ
‖23新嘗祭、神祇官行幸の装束健をzEi土 24蛸通俊亨に向い、行幸のこと等を尋ねる。
824軸通俊亨に向い'仁王会のことを尋ねる。
104午(〜轡左大弁亨に向い維摩会作法を尋ね習う.
108(〜撃左大弁革に向い、維摩会作法を尋ね習う。
1110夜(〜撃通俊亨に向い'神祇官行幸のことを尋ね習う。1121申通俊許に向い'神祇官行
幸のことを尋ね問う。 1026通俊の命に従う。 822削915上表後の善書につき'消息
を以て江中納言に不幸を尋ねる。1017夜欄棚通俊亨に向い'月前清談。日ごろの不幸を散ず。
1215蛸山代通俊'三番申文についての口伝を談す。
13末民部籾許に参り言談。
l
l
2蛸(15)通俊亨に向い言談。即
10
和江中納言許に向い、病気見舞いO夜(〜轡棚相通俊亨に向い'月前清談。
閏1
2
2相(〜撃通俊亨に向い言談
。225碑針(‑a)欄相通俊革に向い殿下仰せの旨を伝えたのち
言談038夜(〜轡通俊亨に向い世事公孝吉談。
812夕(〜&)通俊亨に向い明月の前清談、その後公事を談ず。
516民部卿許に参り'言談。
61姻宗通許に向い言談。714相通俊亨に病気見舞い(6日より病気)。
729鞭宗通事に向い言談。819夜帥中納言(匡房)許に向い'数刻公事を問う。
920通俊亨に病気見舞い。
9
2
9夜欄相通俊亨に病気見舞いO1022夜鴫納(〜撃通俊事に病気見舞い。公事など言談。
.IiO 夏
場地へ〜控ノ缶変声こ句嘉保2年 (1095)
嘉保3 (永長元)午 (1096)
2日列月
97伊勢神宝勅使発達
tOI
平座
17白馬節会装束便弁俄に故障のため宗忠が勤仕
726
頭 弁 俄
に所労のた
め ' 宗
息に相撲装
束 を 奉
仕すべきと
の天 気
あり72829
御 前
内取と相撲召合
を
停む8t6
陣 定
88
郁 芳 門
院崩す820錫 粁
着御822
錫 符
除御915関白 師
道上表1026位キ宛始の儀 に斥Jつく
17卯通俊幸に向い、装束庚のことを習う。
727午
通俊
亨に向い'相撲装束のこと等を
尋ね習うo 101勧盃の順序について江中納言と左大井に尋ねる。̲026通俊の命に従う。 川‑鮎平座勧盃の順序について通俊談ず。
615奉幣行事弁宗忠、殿下祇園
参詣のことにつき江中納言に不
審を尋ね'その返状を後日指南として留め置く。
816鮎国忌山陵のことにつき通俊に問う。
8
20郎通俊'錫符について談ず.8 2 2
釦通俊'除御について談ず。9
15
上表後の善書につき'消息を以て江中納言に不審を尋ねる。 L品夜(〜群)通俊亨に向い清談。927研針丁寧棚拙通俊亨に向い言談。
1013夜鴫納通俊許に向い万事清談。相撲の日装束の秘事口伝を教えられる。
‖19夜(〜&)通俊革に向い清談、ついでに秘事等を教えられる。
49夜(〜釈)鴫納通俊事に向い'月前倭漢に捗って談ず。5‑鵬丁寧通俊孝に向い'倭湊に捗って談ず。
5 1
3蛎江中納言許に向い、清談5
27
夜(〜g)通俊亨に向い、清談す。通俊より、﹃故小野右府政次第小草子J)を借りる066夕(〜夜)通俊亨に向い、清談。
1017夜棚棚通俊事に向い'月前清談。日ごろの不薯を散ずO
1215畑山耽通俊へ三番申文についての口伝を談ず。
13未民部卿許に参り言談。
l
l
2鵬TE)通俊亨に向い言談。削
ー・0
鞄江中納言許に向い'病気見舞い.夜(〜轡棚相通俊亨に向い、月前清談。
95) 寛治8 (嘉 保 元)午 (1094)
9 2 11 10 1010 10 9 9 9 9 8 8 7 6 6 6 慕
発 7 11 22 11 11 1024 1410 1 15 9 6 3 11 8 行 20 任 事23弁 2213
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をどのように受けとめたかはわからない。五年間'公事のみなら
ず和歌や紀伝道など広く宗忠に影響を及ぼしてきただけに、通俊
が死んだときの宗忠の嘆きは大きかっただろう。
宗息は'通俊を失った四か月後の二一月に参議に昇った。すで
にその一年前には右大弁に任ぜられているから'参議大弁となっ
たわけである。五年間半の弁官経験を持ってはいても、参議大弁
となると儀式の上卿を勤めなければならないなどへそれまでの経
験では対処できないことも多かったに違いない。たとえば'康和
四年四月一日、宗忠は'梅官条分配上卿であった右衛門督(権中
納言)宗通が軽服日数中であるので'代わって勤仕するようにと
の急な催促を受けた。宗忠自身に所労あったため断ったのだが'
再び晩頭に、参勤すべき由の天気ありtと報せを受けて'梅宮に
参向せざるをえない状況になった。本来梅宮祭の分配上卿は権中(48)納言職であるLt宗忠はこの祭を勤仕したことがなかったのでそ
の次第に不案内であった。急な話であったため前以て誰かに作法
を尋ねる余裕もなく'宗忠は梅宮祭に臨んでその場で左少弁藤原
顧隆に問いながら勤めた。このように、宗息には習うべきことが
まだまだ残されていたのである。通俊についで頼りとしていた大
江匡房も東徳二年八月から大事府に赴任していた。そこでへ宗忠
は通俊亡きあと'藤原季仲に教えを乞うたのではないだろうか。
藤原季仲は、権中納言経李の男で'延久六年(1
〇
七四)右少弁から承保四年左少弁へ永保二年右中弁'応徳元年左中弁'寛治
元年頭弁を経て寛治八年に宗忠右中弁直任と同時に参議(左)大
弁に昇った。東徳二年(一
〇
九八)権中納言となって弁を去り'康和四年(二
〇
二)三月正二位'同六月大事権帥を兼ねた。弁官歴は二五年間
'
そのうち参議大弁を四年間半勤めた。季仲は小藤原宗忠の弁官作法 野宮流に属し'通俊とは従兄弟の関係にあたる。通俊の代役には
ふさわしい人物であった。
宗息は'寛治八年八月釈集の際と'嘉保二年一
〇
月平座の際に、左大弁季仲に尋ねたことがあったが、本格的に教えを受けたのは
東徳二年一
〇
月に維摩会の作法を習った時と考えられる。一二月三日にも宗忠は季仲の許に赴いている。一二月一七日の除目で宗
忠は頭(右大)弁に転じ'季仲も権中納言に昇った。季仲が弁か
ら納言へのコ
ー
スをたどったことで'教えを受けるにふさわしい人物としてクローズアップされたのではなかろうか。
康和元年から三年までのことはわからない。ただ'康和二年正
月七日に俄に加階のことがあった際へその作法について季仲が語(49)ったことが日記に書き留められていることから、この間も宗忠が
季仲に教えを受けていたことを窺わせる。
康和四年二月一一日の列鬼で生じた不審点を後日季仲に尋ね'
その意見を日記に書き留めている。六月五日に病気の季仲を見舞
い、同月二日には回復した季仲と明月の前で言談していること
から'ふたりの親交の深さが感じられる。すなわち'宗忠は'通
俊の病気をきっかけに東徳二年一
〇
月頃から季仲に教えを受けるようになり'東徳三年八月通俊の死を境に季仲との交流を深めて
いったと考えられる。しかし'季仲が大宰権帥に任ぜられて以降'
宗忠と季仲は疎遠になったようで'﹃中右記﹄に宗忠が季仲の許
に赴‑記事は出なくなる。
季仲は'康和五年六月大宰府に赴任した。長治二年(二
〇
五)赴任中の事件により日吉社訴を受けて停職配流の身となり、元永
二年(二l九)配所で没した。その報せを受けた宗息は、季仲
について「有二才智一有二文章一'可レ情可レ京、但心性不レ直'遂
十一
鈴木理恵(50)逢二其
殊 一
欺」と書いた。かつて教えを受けたことについては触れていな
い。三俊房と通俊と宗忠
宗忠が通俊から借りた書は'表Iにあらわれた﹃蔵人信経私記﹄へ
﹃故小野右府政次第小草子﹄のほかに'﹃供神物次第小草子﹄、﹃故
通俊卿叙位除目私記﹄二巻、﹃応徳寛治之比除目日記﹄などがある。﹃蔵人信経私記﹄は﹃中右記﹄の寛治八年二月二日・二日
条の裏書にあって'前者には長徳三年(九九七)五月二四日条が'
後者には同年三月二一日条が引かれている。後日に「治部卿」よ
り借りて記したtとあることから'宗忠が﹃蔵人信経私記﹄を借
りたのは、通俊が治部卿となった嘉保元年一二月一七日以降のこ
とだろう。蔵人信経とは、藤原北家の陸奥守為長の男で'長徳元
午(九九五)正月から同四年正月まで蔵人を勤め、その間兵部丞'
式部丞にも任ぜらわた。またへ長和二年には内蔵権頭に在任した(51)ことが知られる。﹃蔵人信経私記﹄は逸書ではあるが'﹃局中(52)宝﹄と題する史料の中に長藤二年1
0
月八日条と長保(徳の誤写か)二年九月四日条の逸文が見られる。通俊がこれをどのように
入手したのかは不明である。(53)﹃故小野右府政次第小草子﹄は'宗忠が嘉保三年五月二七日に
通俊革に行って深更に及ぶまで清談した際に借りたものである。
小野右府すなわち藤原実資が政の次第をまとめた儀式書であると
考えられる。実資には﹃小右記﹄の別記として'特定の事項につ(54)いての詳記があったらしい。別記には政部もあったようなので'
﹃政次第小草子﹄というのも類書とみられる。小野官流の通俊が 十二
実資の書を持っていても不思議ではない。小野宮流に伝わる書を
借りられたことを宗忠は「尤為レ悦」と喜んでいる。
﹃供神物次第小草子﹄は'宗息が康和四年二月二
〇
日に堀河天皇の召により持参したものである。通俊から借りた「秘書秘本」
で'もとは藤原行成によって抄出されたものらしい。この書を見
た天皇は「此抄無二相違事一㌧可レ謂二秘書ことの感想を洩らし
ている。行成抄出の書がなぜ通俊の手許にあったのか不明だが'(55)行成は小野官流の公任や実資と交流があったので'その交流を通
して小野宮流に伝えられたのかもしれない。
﹃故通俊卿叙位除目私記﹄二巻'﹃応徳寛治之比除目日記﹄に
関しては次の史料からその性格がわかる。
史料3﹃中右記﹄嘉承二年九月二一日粂
入レ夜へ故通俊卿叙位除目私記二巻'以二消息一献∃覧殿下一了、
件記彼卿為二大弁一間執筆之日記也'秘蔵之書尤散二不審一有二
御返事一'予往年尋∃問公事一之次所二倍請一也、
史料4﹃中右記﹄嘉承二年一
〇
月二二日粂蔵人少将送二書状二五'応徳寛治之比除目日記可レ奉之由、摂政
殿仰事者へ則進上7㌧是故治部卿通俊卿為二大弁一時執筆之記
也,誠秘蔵□往駁撃公事乏次被二相借亘通俊が大弁在任中に書いた日記であること'叙位除目について
の私記が二巻であったこと'除目についての日記は応徳
〜
寛治のころに書かれたものであること、などがわかる。宗息が通俊に公(56)事を習っていたころ通俊から借りたもののようだ。これらはどの
ような経緯でまとめられ'どのような内容をもつものであったの
だろうか。かなり時代は下るが、次の史料がその手がかりを与え
てくれる。
(57)史料5﹃薩戒記﹄正長二年(一四二九)三月七日条
乗燭巻向二中御門宰相八宗継)許一、有二示合事一、又畢出除
目抄一被レ見レ予、堀河左府口伝通俊卿抄也'有二中御門右府八宗
忠公)奥書t、尤為二重宝一㌧
中山定親は'宗継許に赴いた際に「除目抄」を見せてもらっ(58)た。「除目抄」とは「堀河左府口伝」と「通俊卿抄」であって'
宗忠の奥書があったという。「通俊卿抄」とは﹃魚魯愚妙・別録﹄
などに引かれている﹃通俊卿記﹄のことであろう。﹃通俊卿記﹄
の逸文は﹃御即位叙位部類記﹄'﹃叙位次第﹄(内閣文庫蔵・函架
番号一四五‑二二七)'﹃大間成文抄﹄、﹃春除目大鉢並篇目抄﹄、﹃除(i;i)目執筆秘抄﹄﹃蝉晃巽抄﹄などにも見られる。﹃御即位叙位部頬(60)記﹄には応徳三年二一月一六日・一八日条が引かれている。﹃大(61)間成文抄﹄には三か所引かれており'「寛治元年秋」「寛治四年一
二月」の年紀が付されている。表2は'﹃魚魯愚妙・別録﹄に現
れる﹃通俊卿記﹄をまとめたものである。﹃通俊卿記﹄が﹃中山(62)抄﹄﹃宗赤抄﹄﹃春玉抄﹄などに引かれていたことがわかる。年紀
のわかるものを拾ってみると'応徳四年正月から寛治五年正月ま
で及ぶ。﹃通俊卿記﹄は少なくとも'応徳三年一二月から寛治五
年正月までの間書かれていたということがわかる。表3によれば、
この期間は通俊が除目叙位の執筆を勤めた時期と一致する。応徳
三年1二月に幼帝堀河天皇が即位してから寛治六年正月の初めて
の御前の儀まで'叙位や除目の儀は直塵で行なわれ'参議大弁通
俊(通俊重服中は匡房)が執筆を勤めたりである。﹃通俊卿記﹄は宗忠が通俊から借りた﹃応徳寛治之比除目日記﹄(63)に間違いないだろう。そして﹃故通俊卿叙位除目私記﹄二巻のう
ちの一巻も同じ物を指すと考えられる。それでは'﹃故通俊卿叙
藤原宗忠の弁官作法 位除目私記﹄二巻の残りの1巻とは何だろうか.史料
5
に出てきた﹃堀河左府口伝﹄ではないだろうか。これも通俊によって作成
され'宗忠に貸し出されたと考えられる。﹃通俊卿記﹄を見ると'
通俊がたびたび「左大臣」「左府」に執筆の作法を尋ねており、(64)左大臣の命を受けていることがわかる。次の史料はその1例であ
る。
史料6﹃魚魯愚妙﹄巻第四、受額学事
通俊記'寛治三㌧受蘭草書懐中之須レ指二成東一'然而大弁執筆
之時、成東大間等不レ為二大弁之有一'件草書進二殿下一可レ有レ
博'仇先日又雪中左大臣1之処'被レ示二無難之由一、仏所レ為
也'
左大臣とは堀河左府こと源俊房である。俊房は村上源氏で'父
は右大臣師房である。東暦四年(一
〇
八〇 )
春除目から永久六年(一二八)春除目にいたるまで'堀河天皇即位から初御前儀ま
での間および鳥羽天皇即位から初御前儀までの間を除いて'ほと(65)んどの除目の執筆を勤めた。父師房も'治暦四年(一
〇
六八)I延久元年(一
〇
六九)'承保二・三年(一〇
七五・六)の除目の(i)執筆を勤めたことがある。「累代執筆家 」
であった。俊房の男の師時は大治四年(二二九)に直物を勤めることになったとき「故
殿御次第井両府御日記、井諸家日記'匡房卿次第等」を青倉から(67)取り出して見ている。村上源氏には除目叙位についての記録が蓄
積されていたのである。執筆の作法は諸公事の作法のなかで最も
複雑であった。通俊は作法に詳しい俊房を師として選んだのであ(68)ろう。﹃堀河左府口伝﹄は'俊房から受けた執筆作法についての
口伝をまとめたものと考えられるQ表4は﹃魚魯愚妙・別壕﹄に
現れる﹃堀河左府口伝﹄である。次の史料はその一例である。
十三
表2 『魚魯愚砂 ・別録』 にあ る 『通俊卿記』逸文
書名 年 月 日 所載 巻 項 目 刊本頁
1 通俊卿記 寛治寛治寛治43 .13 2.19 中山抄 ‑ 四所籍事 下三 100
2 通俊卿記 中山抄 文章 生散位 下 =156
3 通俊記 中山抄 方略 下三165
4 通俊卿 記通俊卿記 宗赤抄中山抄尭夜 中 別六四 任文章生散位諸道課試老事顕官学事 下二上67164
5 通俊卿記〟 宗赤抄寛 日中山抄寛 日中 別六四 顕官挙事専 心 下二1上7876
6 通俊記 中山抄尭 日中 四 顕官挙事 上79
7 通俊 次第 中山抄責 日中 四 顕官挙事 上79
8 通俊卿記′′ 中山抄中山抄尭 日 七四 転任勘文受領学事 中95上97
9 通俊記 中山抄寛 日 四 受領 挙事 上99‑100
lO 通俊記 中山抄尭 日 四 受蘭挙事 上 100
l
l 通撃牢 中山抄寛 日 四 受額学事 上 100‑ 1012 同記 (通俊記) 寛治3 中山抄尭 日 四 受鏡 学事 上101
13 通俊記 中山抄夷 日 四 受領挙事 上101
14 通俊記 寛治寛 治32.正.正 .28.25 中山抄責 日 四 受領挙事 上 102
15 通俊記 春玉抄初夜下 五 子息二合 上172
16 通俊軍 中山抄 五 子息二 合 上176
17 通俊記 寛 治〟4 .12.28 〟 初 日中 別 四 下賜話 中文 下二40
通俊記 中山抄 文書標目 所 々奏 上193
18 通俊卿記 中山抄 中 日下 七 兼 国勘文 中84
19 通俊記通俊卿記 中山抄 中夜下中山抄初夜 中 別七八 難書事召転任宿官兼国勘文事 下二2中17800
20 通俊記 中山抄 別二 奏関宮帳事 下‑ 70
21 通俊卿記 応 徳寛治42 .1.正2.25.23 春玉 別三上 任 四所籍 下‑125
22 通俊卿記 中山抄 別三上 任四所籍 下‑136
23 通俊記 別三上 巻大間事 下‑ 154
24 通俊記 中山抄初 日下 別三上 巻大間事 i‑ 169
25 通俊記 中山抄初 日下 別三 上 巻大間事 下‑ 172
26 通俊記 中山抄 中 日下 別三上 巻大間事 下‑ 175
27 通記 春玉抄 別三 下 召院宮御 中文 己下事 下‑204
28 通俊卿記 宗赤抄 別三下 任院宮 己下請 当年給 事 下‑227
29 通俊記 中山抄 別三 下 任院宮 己下請 当年給事 i‑242
30 通俊卿記 寛 治4.正 .24 中山抄 別三 下 任院宮 己下請 当年給事 下‑242
31 通俊卿記 寛治応徳寛治4.正45.正.正.26.23.25 中山抄 別三 下 任院宮 己下請 当年給事 下‑245
32 通俊卿記 中山抄 中夜 別三下 儲紙捻結成文事 下‑261
33 通俊記 中山抄 中 日 別三 下 結成文事 下‑277
34 通俊卿記 宗赤抄初 日 別 四 下賜話 中文 下二22
35 通俊卿記 中山抄初 日中 別田 下賜諸 申文 下二37
36 通俊卿記 中山抄初 日中 別 四 下賜話 中文 下二38
37 通俊記 中山抄初 日中 別 四 下賜話 中文 下二39
38 通俊記 寛治4.正.24 中山抄初 日中 別四 下賜諸 申文 下二41
39 通俊記 寛治元.12.12 中山抄初 日中 別四 下賜 話 中文 下二41‑4
40 通俊記 応 徳4.正.20 中山抄 中夜下 別 四 下賜話 中文 下二48
41 通俊卿記 宗赤抄 別 四 任 々符返上事 下二61
42 通俊卿記〟 応 徳4.正.24 宗赤抄中山抄 中 日中 別 四別 四 任勘上諸 申文任 々符返上事 下二93下二64
43 通俊卿記 宗赤抄 別 四 任勘 上話 中文 下二93
44 通記 応徳4.正■.24 春玉抄初夜下 別五 任勘上 申文事 下二98
45 通俊抄 中山抄 中夜中 別五 任勘上 申文事 下二105
銘木理恵
藤原宗忠の弁官作法
7 8 9 0 1 2 4 4 4 5 5 5
EiiZl 鵬記脱舵記脈 第俊俊記俊俊俊通通同通通通
寛治
寛治
3
・正・2 8
中下中中夜夜日日責中毒責抄抄抄抄抄抄山山山山山山中中中中中中 六六六七七七日リ.日日一り⁚U.日日一口ガロガロカ月月ロガ
任文章生散位諸道課試着事 連美事
連英幸
召転任宿官兼 国勘文事 召瀧 口所衆労帳 任諸京官事
下二
1 6 6
下二1 7 8
下二1 7 8
下二2 0 2
下二21 5
下二2 35
註 (1)番号が同 じものは内容が同 じであ るこ とを示す。(2) 5・3 0
の月 日は表3
を もとに修正 した ものであ る。表
3
応徳 ・寛治年間の執筆午 (西暦) 叙位 除 目 ( ) 内は入限 その他
応徳元
3 ( 2 ( ( 1 1 1 0 08 0 8 8 5 4 6 ) ) )
寛治元
、6 ( 7 ( 4 ( 3
5 (2 (
(( 1 1 1 1
111 09
0910
089)0 0 0 92 8 9 87 0 3 8 ) ) )
)) )
正正正正正正正正正正.5 .6 .5 .5 .5 .5 .5 .5 .6 .6
匡房通俊通俊通俊通俊俊房俊房通俊俊房師通 春春春京京 正正1
正1 2.2 2.1 .2 .2 .27 ( 8 (2 .1 6 6 8 (2 .3) 2 9 ) 5 )
俊房俊房俊房俊房俊房 臨時除 目1 2.1 3
通俊京 11
.2 0
俊房 御即位叙位1 2.1 6
通俊春 正
.23 ( 25 )
通俊 大嘗会叙位1 1.1 8
通俊京
1 2.1 2 ( 1 3 )
通俊 大嘗会女叙位1 2.8
通俊註 (1)叙位除 目執筆抄 ・水左記 ・後二候師通記 ・帥記 ・本朝世紀 ・公卿補任 ・中右記か ら作成。
註 (
2
)寛治5
年京官除 目お よび翌6
年叙位 の儀 は,通俊,重服 (父経平、寛 治5
年7
月尭) によ り奉仕 せず。
表4 『魚魯愚砂 ・別録』 にあ る 『堀河左府 口伝』逸文
形式 所載 i 項 目 刊本頁
1
堀川左府 口伝 中山抄尭 日 別二四四 受領学事 上1 0 0
2
堀川左府 口伝 中山抄寛 日 受領挙事 上1 0 0
3
4
堀河左府 口伝 中山抄中夜上中山抄〟 奏閑官帳事 下‑6 9
堀川左府 口伝 BaUBB局B局局BBa三上 穆大間事 下
‑9 6
源左 口伝 u三上 穆大間事 i